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太平洋陸戦関係 - (2010/12/06 (月) 19:27:08) のソース

#CONTENTS

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**硫黄島とかに設置されていたトーチカってどんなのですか?
硫黄島は決戦場として資材が最優先で割り当てられており、
重要部は戦艦の艦砲射撃にも耐えられるように作られていました。
重砲等の火点は貴重なセメント/鉄筋等を優先して使用しましたが資材が足りず、
周壁は堅牢な岩壁を利用し、天蓋だけセメントとしていたようです。
#right(){(24:765)}

**太平洋戦争時に日本軍に騎兵はまだ存在していたのでしょうか?
騎兵はいました。うちの祖父が近衛騎兵連隊にいましたから(w(本土勤務)
で、確か終戦直前に中国で日本騎兵部隊による作戦があって、勝ったとか。
それが今のところ、史上最後の大規模な騎兵作戦になっていると聞いたことがある。

騎兵部隊は、戦車部隊に改編されたものもありますし
最後まで騎兵として戦い続けたものもあります
騎兵として戦った部隊は主に中国・東南アジアで戦ったようです

終戦時の騎兵部隊の数は、騎兵1個旅団、騎兵15個連隊、捜索22個連隊ありました。
#right(){(27:48,50)}

**WW2で同盟国のドイツが使ってたパンッァーファウストみたいなのを日本軍が使わなかったのはなぜなんでしょう?
そもそも成型炸薬弾からしてドイツからの技術導入だからねぇ。
ちなみに一応対戦車兵器のようなものはあったようです。
一つは「タテ器」と呼ばれる対戦車小銃てき弾(ドイツのシースベッヒャーのパチモン)
もう一つは九十七式20㍉自動砲に装着する「ジテ弾」地雷てき弾です。
いずれも実戦では活躍できませんでした。
#right(){(27:名無し軍曹)}

**日本陸軍はM3軽戦車を大戦初期に 具体的に何両くらい鹵獲して運用したのでしょうか?
M3軽戦車自体は有名なエピソードなので、
誰も回答しないのは、やはり冒頭の「具体的台数」がネックになっているのでしょうか。
で、台数に関しては自分も聞いた事はありません。
ただ、ビルマではM3のみで小隊を編成した所もあるそうで、かなりの数を入手したようです。
捕獲場所はビルマ(from英)とフィリピン(from米)で、使用目的は実弾標的が多かった様ですが、
前述の通り部隊運用もあり、その重装甲(日本車に比して)もさることながら、
自動車としての運転のし易さから、非常に好評だったと言われています。
ビルマでは進撃して来る英M3部隊に、日M3部隊が迎撃に出たことがありますが、
この時は日本側が地雷で全滅してしまい、戦車戦は行われませんでした。
米軍によるフィリピン奪還時に、再捕獲された日本軍迷彩M3の写真がありますので、
運用された車両は、最後まで使われたものと思われます。
#right(){(32:753)}

**硫黄島でアメリカ軍は塹壕突破用兵器であるはずの戦車を持っていたのに苦戦したんですか?
戦車=突破不能の塹壕突破専用兵器だったのは第一次世界大戦では・・・
(それも心理効果が主ですぐに野砲で・・・)
そもそも、専用の歩兵戦車や突撃砲で無い限り
戦車は機動力をもって戦術となす性質のもので
単純に戦車=強いは間違い
そもそも、陣地を制圧するのは歩兵で、戦車は火力支援をするだけ
ちなみに対戦車能力が
極端に低い日本軍といえども上陸部隊の持つ戦車ぐらいなら
周到な陣地からの側面射撃や肉薄攻撃で抵抗できた 
#right(){(37:機甲自転車)}

**硫黄島ではほかの戦場より戦果が上がってたように見えますが,ほかのところではこういった持久戦の発想はなかったんですか?
>玉砕命令が出されることが多かったらしいですが.

 発想する人はいただろうが,日本陸軍に内在する欠陥のため,戦術を変えるものとはなかなかならなかった.
 以下引用.

 日本軍の規則および軍事著作物によれば,防御は消極的形態の戦闘であり,本質的に,また精神上,非日本的という烙印を押されているので,将校が喜んで防御解答を提唱するような戦術研究問題を書くことは非常に困難であった.
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta025.htm

(軍事板)

**硫黄島では島の形が変わるほどの艦砲射撃に曝されたにも拘らず、砲撃による直接の犠牲者は少なかったのはなぜですか? 
爆風は基本的に上と横に広がる。 
その為、下に潜られると効果が激減する。 
地下陣地に退避していた日本軍は鉄の暴風の影響を殆ど受けなかった。 

似たような状況として第一次大戦でのソンム戦がある。 
連合側は6日間ぶっ通しで173万発の砲撃を続けたが、 
退避壕に隠れたドイツ軍は抵抗力を充分に残したままイギリス軍の突撃に備えることが出来た。
#right(){(544:502)}
**事前に察知し,準備を整えていた場合,関東軍はソ連軍にどのくらい抵抗できたか?

 1.関東軍の精鋭部隊,装備の優れた部隊は,南方戦線に増援として送られたり本土決戦に備えて日本本土に引き上げられたりして,関東軍は全体的に戦力,装備が低下していた.
 2.既に日本が負けかけてることは関東軍の将兵も察していたので,戦意が極端に低く,ソビエト軍の侵攻開始と共に総崩れになった.
 3.なにより軍首脳部が一番に逃亡してしまい,指揮系統が崩壊した為,マトモな作戦指揮がなされず,各個撃破された.
 4.ソビエト軍の兵力,装備は圧倒的で,戦う前から勝負がついてる状態.
といったところ.

 正直,精鋭部隊が充分な装備で事前にソビエト軍の侵攻を察知し防戦を準備していても,装備(特に戦車の性能差が圧倒的),兵力(特に砲兵の兵力差が壮絶だった)で勝り,ドイツとの戦闘で経験豊富なソビエト軍に対しては鎧袖一触だっただろう.

 ただ,在満邦人を避難させる時間を稼ぐことぐらいはできたかもしれない.

 一応,徹底的に抵抗しソビエト軍を足止めした部隊も存在はした(虎城要塞,で検索するべし)

関東軍  24個師団,1個旅団,9個独立混成旅団,2個戦車旅団
       航空機230機 兵力約75万人(実質8個師団程度の戦力)

ソヴィエト 80個師団,40個戦車,機械化旅団,(戦車5250両)
       32個飛行師団航空機5171機 総兵力約157万人,

 関東軍からは以下の部隊が抽出された(昭和19年10月以降

昭和19年 10月第23師団(ルソン),12月第12師団(台湾),
昭和20年 1月第71師団(台湾),3月第11師団(四国)第25,57師団(九州)
       戦車第1師団(本土),第111,112師団(南朝鮮)

 穴埋めの為に20年初頭から121~128師団までの8個師団と4個旅団を編成.
 5月には中国戦線より軍司令部1個,4個師団を編入.
 更に在郷軍人25万人を動員.
 全般に装備が貧弱で,関特演時の1/2~1/3程度の火力しかなかったようだ.

(軍事板)

**ソ連の日本侵攻ですが,なぜ北海道ではなく北方領土から攻め始めたんですか?
>北海道のほうが面積広いから,守備隊の密度も低くて攻め易いと思うんですけど.

 北海道本島に関してはアメリカの承認(つーか黙認)が得られてなかったから. 

 また,現実問題として1945年8月の時点では,満州と南樺太に加えて北海道本島を制圧できるに充分な兵力は用意し切れなかったというのがある. 

 もし戦争が8月以降も続いて「日本本土決戦」が行われていたら,北海道本島にもソビエト軍が上陸してきただろう.

(軍事板)

**帝国陸軍が満州に遺棄した化学兵器だそうですが,200万発という数が出ております.あまり使わない化学兵器をそんなに生産する余力が,日本にあったんでしょうかね?

 化学兵器の生産技術を一度確立すると,多量生産はさほど費用もかからず,簡単だそうです.でないと,殺虫剤がえらい高いものになってしまう.
 ただ,中共の化学兵器には旧日本軍が遺棄したものの他に,敗戦で武装解除時に人民軍に引き渡したもの,中共が生産,購入したものも含まれてしまっています.
 日本が「化学兵器禁止条約」に則って,処理しなくては成らないものは日本軍が遺棄したものだけであるはずなのですが.

(剣恒光 ◆YR1Hskt.M. )

**日本陸軍には各分隊に短機関銃,軽機関銃の装備はあったのだろうか?

 日本陸軍の歩兵分隊には分隊あたり一丁の軽機関銃が配備されてましたです.

 短機関銃は一般の歩兵部隊には配備されず,空挺隊のような特別な部隊で使用された例が殆どでした.
 例えば,昭和20年の義烈空挺隊は,総勢120名中,4分の1に当たる30名が100式短機関銃を装備していました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

**旧帝国陸軍は,ドイツ軍の小火器をライセンス生産しようとはしなかったのでしょうか?
>自主開発に拘らず,MP40とかMG34なんかをライセンスした方が良かったんじゃないかと思うのですが.

 モーゼル・スタンダード・モデル24式とチェコ製の同型銃を1938年に,準制式小銃として試験.結果,8,000挺を輸入しています. 
 但し,大陸戦線で使用する場合は,防塵対策が不十分,安全性にイマイチ不安な点があることを挙げています. 

 ついでに,License生産をするというのは,それなりにLicense費用が上乗せされ,数を揃えるのには不利になります. 
 そのLicenseeがどれくらいかかるか判らないですし…. 
 ならば,機構だけ模倣して,独自に生産した方が安上がりだったりしますわな.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

**太平洋戦争時に米軍は,火炎放射器を有効に用いて,洞穴にいる日本兵や民間人をいぶりだしましたが,日本軍は火炎放射器の攻撃に対する対策を取らなかったんでしょうか?
>狙撃兵に米軍の火炎放射器兵の燃料タンクを狙撃させる事を徹底させる等の対策は,日本軍には無理だったんでしょうか?

 まず,あれは「隠れてるものを燻り出す」為に行っているのではありません. 
 物陰に潜んでいるであろう兵員,ゲリラを問答無用で「撃破」する為です. 

 物陰,藪,洞窟等,人間が隠れていそうなところには片っ端から,実際に人間が隠れているかどうかの確認などはせずに,徹底的に行われていました. 
 尚,火炎放射器と言うと「焼き殺される」イメージですしそういう映像が多いですが,ほとんどの人は,強力な火焔の燃焼に伴う局所的酸欠(洞窟に行われた場合は殆どこれ)や,周囲の物が燃える事による煙の吸引で死亡しました. 

 で,アメリカ軍のマニュアルでは,
「火炎放射器使用時は,最低1名の自動火器を持った者が援護に当たる事」
等,火炎放射器を前線で対人掃討任務に使う際の規約を定めています. 
 仮に日本軍が狙撃等で対抗しようとしても,逆撃に遭うのがオチだったでしょう. 

 ただし日本軍は,敵将校や指揮官,通信兵等への狙撃は積極的に行い,米軍を相当に悩ませています. 
 南方や沖縄では米軍には,
「将校は階級章を付けない事」
や
「指揮官はマップケースを携行してはならない」
等の狙撃対策指示が出ていました. 
 それでもかなりの数の米軍将校が,狙撃で死傷しています.

**旧日本陸軍の小隊~中隊規模の砲兵隊の編制や装備って、どんなもんなんでしょう?
日本軍の砲兵連隊の編成
http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/artillery/organization_jpn.htm
#right{(356:92)}

**日本軍は戦争初期には火炎放射器を多用しましたが、後期に使用しなかったのはどうしてなんでしょうか?
大戦後期の日本軍も使用している。 
もともと火炎放射器は陣地攻撃用の兵器なので、 
日本側が陣地に篭る大戦後期では、多少活躍の頻度は下がったかもしれないが、 
主に対戦車兵器として工兵隊などが使用している。 
例えば、独立混成第58旅団工兵隊は、火炎放射器15器を装備しており、 
ルソン島防衛戦初期に、爆薬とあわせて米軍戦車隊を迎撃して、戦果を報じている。 
http://www.geocities.jp/bane2161/dokukon58ryodan.htm 
同じくルソン島では、戦車第2師団工兵隊の装甲作業機も、火炎放射器をつんでる。
#right{(508:931)}
**日本兵は米戦車をどうやって倒したんですか? 対戦車地雷ですか?

 地雷の場合は,精々擱坐させる位しか威力がありません.余程の軽戦車(タンケッテ)程度でないと,引っ繰り返すのは無理.
 Caterpillar切っても,回収して修理すれば前線に出せますし.
 分隊一個を潰して擱坐させた戦車が,あっと言う間に戦場から回収され,再び修理されるケースがImphalでは多く見られました.

 日本がM4などを相手にする場合は,思いっきり近くから37mm対戦車砲を側面か背面から打ち込むか,陣地に引き込んで榴弾砲などの野戦砲の直射くらいと,後,火炎瓶くらいです.
 火炎瓶で,火災を起こさせ,乗員が慌てて出てきたところで上に乗った兵が中に手榴弾を投げ込み,戦車を乗っ取って,敵に発砲すると言う戦術も採られています(当然最後は撃破される訳ですが).

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)

 地面に埋められた航空機用爆弾を転用した仕掛け爆弾とか,道端に隠されて戦車の側面からHEAT弾を撃ち込む対戦車地雷とか,いろいろあります.
 けど,基本的に対戦車地雷はキャタピラを切る程度の奴が多く,地雷原は対人地雷と混ぜて敷設されたり,地面の上に直接置かれたり,撒かれたりする.

(軍事板)
**なんで旧日本陸軍の戦車ってあんなに弱いの?
ごく単純に言うと、技術(とそれを支える国力)が無かった。
砲、装甲、エンジンどれも。特にエンジンが力不足なのは痛かった。
サイズや重量に制限がでちゃうからね。

よく言われるのが港湾設備の問題。戦闘重量を増やし過ぎると海外展開が難しくなる。
2つ目が対戦車戦闘というのを重視していなかった事。
そして対戦車戦能力が必要だと気付いたときには航空主兵に転換していて資材が回ってこなくなった。

ぶっちゃけるとノモンハンまでザコ支那軍相手で優秀な戦車なんか必要なかったから作らなかった
それがノモンハンでソ連戦車にコテンパンにされてさすがにヤバイと思ってようやく着手
苦労してやっと完成したのがチハ改や一式
しかしこの子が登場した頃には既に30トンやら50トンやらの化け物戦車が跋扈していましたとさ

当時戦車は歩兵科に属していて戦車は歩兵の陣地攻撃を支援するものであると考えられていた。
騎兵の機械化を行うとき、「戦車対戦車の戦いは騎兵の抜刀突撃並に同じくありえない」と切り捨てられている。
92式、94式、97式装甲車(騎兵連隊を改変した捜索連隊が主に装備)が実質戦車なのに装甲車と名乗ったのも
兵科間のセクショナリズムから。
ただ、チハ車が比較的新砲塔にできたことに現れているように、先見の明のアル設計者と一部の
用兵側は戦車対戦車が起こることを予期していた。
#right{(362:743-751)}
**日本陸軍の戦車が弱いのは限られた予算を航空戦力の充実に回したとのことですが、戦車よりも航空機優先なのはどういう意図なのですか?
ていうか、航空と機甲兵力の整備は陸軍の整備計画の中では共に優先されてますよ。
それが非常に遅れたものになっていったのは、欧州の戦車が日本の予想を超える
恐竜的進化を遂げたのと、日本の軍需工業の規模が大型戦車の開発・整備を許さなかったことです。

また、昭和18年以降米軍により輸送船が多数沈められたために、輸入が減った限りある資源を
航空機と船舶の整備に振り向けたという事情もあります。
#right{(362:512:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
**チハたんの後継戦車が、なかなか本格的に生産、運用されなかった訳は? 
>航空機なら、なかなか苦労しながらも更新が結構進んでいるのに。 
まさに理由はそれだよ。 
戦車作るなら工場設備は飛行機生産に回す。 
鉄使うなら船舶の建造に回す。 
島嶼やアジアが主戦場という戦局から戦車の優先順位が低かった。
#right{(515:164)}
**アメリカは東南アジアの港湾設備など、兵站上の制約をどのように解消したのでしょうか?
>大日本帝國陸軍は東南アジアの港湾設備及びクレーンの制約から、戦車は15t以下の制約を設けざるを得なかった
>という話をよく聞きますが、アメリカは同じ戦場に大量のシャーマンを始め重火器を揚陸しています。 
こういう艦を使った。 
http://yuuki9999.k-server.org/Ejis/oosumi/721px-LST-21-unloads-tanks.jpg
#right{(514:593)}
**太平洋戦争に入っても突撃ラッパが使われることはあったんでしょうか?
太平洋戦争時にも普通に使用されました。 
わりと有名な例としては、ブラウン環礁の万歳突撃、サイパン島での夜襲時に吹いたものなど。 
通常の戦闘ではないですが、カウラ捕虜収容所の反乱事件のときも吹いてます。
#right{(525:950,◆yoOjLET6cE)}
**帝国陸軍にはゲリラ戦、市街戦を想定した今でいう特殊作戦群、米国だとグリーンベレーのような部隊ってあったのでしょうか? 
ごく少数があった。 
太平洋戦争前は対ソ連戦を中心に想定していたので、 
シベリア鉄道の爆破工作なんかをねらった部隊が、関東軍に若干。 
ただ、中野学校出身者を幹部に亡命ロシア人なんかを使ったので、 
精鋭部隊という感じはあまり無い。 

太平洋戦争が始まると、いくらか増える。 
ジャングルでのゲリラ戦闘専門部隊として、 
中野学校出身者を幹部に台湾の山岳民族出身者を主力とした「遊撃中隊」がいくつか創設。 
ニューギニア方面でのゲリラ戦や、レイテ島への空挺攻撃なんかに使われた。 

対ソ連用としては「機動旅団」(数個機動連隊からなる)が編成され、 
少人数でのゲリラ戦を行うはずだった。個人用気球を使った潜入訓練なんかやってたらしい。 
これが、日本陸軍では現代の特殊作戦群に一番近いと思う。 
#right{(528:630)}
**陸軍の防衛方針が硫黄島で急に持久戦に方針が変わったのは何で?
>明確な発案者はいるのでしょうか?栗林中将?それとも参謀本部の中の人の?
一応、太平洋戦域に於ける戦訓から水際戦闘より、サイパン失陥で沿岸撃滅に変更され、
フィリピン戦での艦砲射撃の効果を鑑みて、持久戦への転換が図られますが、その戦訓は
現地にて顧みられることが無く、硫黄島において栗林司令官が採用するまで、日の目を見る
ことはありませんでした。
その採用についても、栗林司令官が指揮権に基づく強制で強引に通した訳で。
#right(){(350:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
補足を加えると、海軍が度重なる敗戦によってほぼ航空戦力を喪失しているという、 
陸軍では一部しか知らなかった情報を偶然に堀江参謀から得たということが、
栗林司令官に持久戦を決意させたかと。
つーかこんな情報まで隠すなよ、海軍…
因みにこの時の強権行使で言う事聞かない参謀をクビにしまくっているので、
硫黄島で彼の指揮下に入った事のある方々からは、えらく評判が悪かったりする。
#right(){(350:90)}
**ガダルカナル島で最初に飛行場を作っていて米軍の上陸で山林に逃げ込んだ日本軍の設営隊と若干の守備隊ってその後どうなったんですか?
なんとか再集結して連絡も取り、駆逐艦で陸戦隊1個中隊の増援を受ける。 
飛行場の運用状況や、別地点に上陸した一木支隊の壊滅を報告するなどの貢献。 
米軍と交戦して徐々に圧迫されるが、川口支隊の上陸まで持ちこたえ、合流。 
その後、増援部隊の到着と入れ替えに駆逐艦などで収容され撤退する。 
#right(){(542:346)}
**旧陸軍は関東軍特殊演習の名目で対ソ戦を計画していましたが、兵站関係はどう考えていたのでしょうか。 
あんまり真面目には考えていない。 
その辺は日本陸軍の体質。 

ただ仮に「関特演」を実行したとしても、主攻略目標はウラジオストクと 
ハバロフスクを中心としたアムール川東岸地域で、第2目標がバイカル湖と 
オホーツク海を結ぶ線だったので、そんな苦労はしないと思っていたようだ。 
そうなの? というツッコミはまぁ・・・ね。 

元々「ドイツが西から攻撃して兵力を引きぬいた隙に背後から攻撃しよう」と 
いう火事場泥棒計画なので、兵站が問題になるまで戦争が長引くとは最初から 
考えていないというのが実情。 
#right(){(348:579)}
**南雲中将は海軍出身ですが、陸戦となったサイパン防衛戦の指揮はきちんと、執れていたんでしょうか?
サイパン島の防衛責任者は第31軍の北部マリアナ地区集団長(第43師団長)である斉藤義次陸軍中将。 
南雲中将は中部太平洋方面陸海軍部隊の最高指揮官だったが、サイパン防衛戦を直接指揮した訳ではない。 

大本営発表(昭和19年7月18日17時) 
一 「サイパン」島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の突撃を敢行所在の敵を 
 蹂躙し其の一部は「タポチョー」山附近迄突進し勇戦敢闘敵に多大の損害を与え十六日迄に 
 全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む 
  同島の陸軍部隊最高指揮官は陸軍中将斉藤義次、海軍部隊最高指揮官は海軍少将辻村武久 
 にして、同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一亦同島に於て戦史せり 
二 「サイパン」島の在留邦人は終始軍に協力し、凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し概ね 
 将兵と運命を共にせるものの如し 
#right(){(557:563)}

**ペリリュー島は堀栄三が指導して水際防御を止めたのいうのは事実?
>霞ヶ浦の住人氏が以下のような書き込みをしてますが
>サイパン、グアム、テニアン島守備隊は、愚かにも水際防御をやって、そこで戦訓を得ました。 
>大本営参謀の堀 栄三が、水際防御を止めて、内陸に深く穴を掘り、潜むことを指導しました。 
>ペリリュー島や硫黄島の防御は、その指導に沿って行われました。  
堀参謀が指導したかどうかは知らんが、少なくともペリリュー島は「水際防御」ですよ。 
サイパン戦の戦訓により『主陣地は海岸から適宜後退して選定する』と定めた「島嶼守備要領」が大陸指示第2130号で 
示達されたのが昭和19年8月19日、 
ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月15日 
常識的に考えて、4月末からサイパンと同様に水際防御で陣地構築されていたペリリュー島が、1か月程度で陣地配備を 
変更できるとは思えない。 
#right(){(557:648)}

堀参謀が指導したのは、水際玉砕を禁止し、抵抗力のある陣地構築についてです。 
ですから水際陣地か内陸陣地かは二の次です。 
戦艦は2個重砲連隊 重巡洋艦は1個重砲連隊相当以上の火力があり 
したがって上陸に備えた米国艦隊の艦砲射撃は戦艦1隻につき2個師団 
重巡洋艦は1個師団に敵対すると考えよ、 
とはじめて陸軍が理解できる言葉で作戦要領をつくりました。 

さらに、戦艦級の40cm砲については陣地は最低1m以上の 
鉄筋コンクリート構造にすべきとの指導が初めて行われたのです。 
(それまでは遠距離からの24cm級榴散弾に対する 
防御から40cm程度とされていました。) 

ぺリリューもタラワも内陸と呼べるほど奥行きはありませんから陣地は 
水際になりますが、いずれも米軍をかなり苦しめたのは事実で 
堀参謀のガイドライがも大きく貢献していると思っています。 
#right(){(558:陸軍入門者)}
**沖縄戦の直前に沖縄から精鋭の第9師団を引き抜かれたため、沖縄防衛が不可能になったというのを読んだのですが、 
>第9師団が沖縄に留まり、5月に反転攻勢をせずに長期持久戦を続ければ 
>沖縄にいた第32軍は昭和20年の8月15日まで持ちこたえることができたのでしょうか? 
もともと第9師団があるうちは、持久ではなく積極水際防御作戦をとっており、 
その場合、史実より早く沖縄が陥落する可能性が高い。また史実どおり持久作戦をとっても 
史実の沖縄戦の流れからすると、大本営とか、参謀長が攻勢論を主張して無駄に兵力を失うと 
いうのが目に見えてるから、2個師団半で2ヵ月半持ったところを見ると1個師団多いわけだから、 
よくもって7月半ばが限界だろ。 
#right(){(587:172)}
**硫黄島の戦いで日本軍が一時的にすり鉢山を奪還して日章旗を掲げたという話は事実ですか?
>米軍がすり鉢山を占領し、その後日本が取り戻し日章旗を掲げ、また、翌日に米軍が占領、その翌日に日本軍が取り戻し、
>シャツに血を塗った手作りの日本旗の掲げ、その後、完全にすり鉢山を米軍が抑えたと週刊誌に載っていたのですが本当ですか? 
あの星条旗掲揚時には、擂鉢山内にも日本軍の抵抗は行われていた。と、言っても兵力そのものは 
殆どなかったのだが。  
だが、米軍が制圧後、日本軍側が再制圧、日章旗を掲げたなんて事実はない。 

あの有名な写真は二度目に星条旗を掲げたとき、 
と言う史実を間違って解釈しているんだろ。 
#right(){(331:538,539)}
**火力の低い大戦期の日本軍は、トーチカやバンカーの攻略にかなり苦労したのでしょうか?
支那事変の開戦劈頭、上海決戦において、トーチカやバンカーで固められたゼクートライン相手に、
名古屋第三師団が多大な犠牲者を出しています。
その為、師団に所属していた第三十四聯隊の静岡市内は軒並み葬式で
朝に兵を送り夕に遺骨を迎えると言う有様でした。

もっとも、これは初期の補給不足(「火器に頼らずもっぱら銃剣によるべし」と言う恐るべき通達が出ていた)や、
上海周辺の兵要地誌の「上海付近の地形は、野砲以上の大砲が使用できない」と言う誤記が原因です。
後で慌てて重砲を届けた後はコンクリート陣地を木っ端微塵に粉砕しています。

後は太平洋戦争の開戦劈頭の要塞化されたバターン半島・コレヒドールでもかなりの苦戦をしてます。
#right(){(326:ue ◆WomMV0C2P.)}
**日本兵って戦車に対して弱すぎね? 
ろくなというか、まともなと言うべきか、まあ必要な対戦車装備が不十分で(装備が無くて) 
対戦車戦闘能力のある戦車もしくは火砲の支援も不十分な場合の歩兵なんて 
どこの国であろうと、戦車に対して脆弱すぎるというか一方的に圧倒されるしか無いよ 
同じ装備と同じ状況だったら現代のアメリカ海兵隊でもWW2世代戦車に負ける 
逆に、旧日本軍でも対戦車装備が充実してる場合は普通に戦車を撃破できてたりする戦例はある 

それは遮蔽物のない平野での遭遇戦が多い独ソ戦やアフリカ戦線の話だったりする。 
防御陣地を構築していたり、地形が複雑では双方の交戦距離が至近になり、 
戦車の進撃路が限られたりするから歩兵でも効果的な攻撃を加えることが可能になる。 
例えばエル・アラメインでのイタリアのフォルゴーレ空挺師団は 
戦車比70分の1、歩兵の対戦車兵器は火炎瓶と地雷のみという状況下にもかかわらず 
陣地に篭って防戦できたため英軍機械化師団の大攻勢を二度に渡って撃退している。

ノモンハンでソ連機甲戦力の中核だった第11戦車旅団は 
日本歩兵師団との戦いで装備戦車のほぼ全て、170両を完全喪失している。 
#right(){(604:160-164)}
**大戦末期に種子島か屋久島で守備部隊として駐屯していた部隊があるらしいのですが
第一三五七三部隊の正式な名称がわかりませんが、種子島なら独立混成第109旅団(剣閃兵団)でしょうね。
屋久島にいたのは特設警備第207中隊と特設警備第208中隊だけですから。

独立混成第109旅団の編合と人員装備(定数?)は次の通りです。
 旅団司令部(37名・馬5頭)
 独立歩兵第678~680大隊(各 590名・馬3頭)【大隊本部・中隊3・機関銃中隊】
  ※ 中隊に軽機関銃9?・重擲弾筒9?、機関銃中隊に重機関銃4?
 独立歩兵第681~684大隊(各 705名・馬21頭・軽機関銃12・重擲弾筒12)【大隊本部・中隊4】
  ※ 中隊に軽機関銃3?・重擲弾筒3?、大隊には重機関銃なし?
 特設警備第203大隊(420名、軽機関銃12・重擲弾筒12)
 特設第55機関砲隊(85名、96式基筒単装25粍機関砲12)
  ※ 海軍から供与された96式25粍単装機銃を装備
 独立野砲兵第26大隊(492名・馬55頭、指揮車7・自動貨車51・38式野砲12【大隊本部・中隊3・大隊段列】
 旅団工兵隊(188名・馬1頭)
 旅団通信隊(162名、電話機30・3号甲無線機1・3号丙無線機2)
 旅団衛生隊(70名)

昭和20年8月1日現在における旅団の主要兵器現在数
 小銃4656、軽機関銃149、重機関銃13、10年式擲弾筒1、重擲弾筒122、速射砲4、41式山砲4、野砲12、噴進砲50、高射機関砲3、乗用車3、自動貨車35

独立混成第109旅団の兵員の出身地については明確な資料が手元にありませんが、
1 旅団の補充担任が熊本師管区(もと留守第6師団)であること
2 旅団の母体となった独立混成第23聯隊(昭和19年7月12日臨時動員)の動員管理官が留守第6師団長であること
3 独立混成第23聯隊が鹿児島の歩兵第45聯隊補充隊で編成完結していること
4 独立野砲兵第26大隊の母体となった種子島臨時砲兵隊は留守第6師団(熊本)と留守第56師団(久留米)の人員で編成されたこと
から南九州(特に鹿児島・宮崎)を主体とした九州一円の可能性が高いと思います。
 ※熊本師管区 :熊本県、大分県の大部分、宮崎県、鹿児島県、沖縄県)
 ※久留米師管区:福岡県、長崎県、佐賀県、大分県日田郡、山口県下関市・豊浦郡

以上 戦史叢書 本土決戦準備<2>九州の防衛から引用
#right(){(337:826,827)}
**沖縄戦で、まともな医療行為は行われたのですか? 
物資が欠乏してきてもできる限りにおいて医療行為はする。 
「手術用手袋とエプロンのストックが尽きたので手術はもうやれない」 
なんてことは言わない。つーか言えないだろ。 

沖縄戦の末期になるともう「消毒用アルコールがないので度数の高い 
酒で代用、それすらも欠乏したので消毒なしでも手足を切るときは切る」 
という悲惨な状況になっていたりした。 
勿論麻酔薬やモルヒネなんぞはとうに尽きているのは言うまでもない。 

沖縄戦のエピソードとして動員されて看護婦になり、末期には看護婦の仕事は 
「外科壕」という名のただの洞窟にろくな敷物もせずにただ寝かせているだけの 
重傷者の替えがないため汚れ切ってる包帯の隙間から染み出してくる膿を取って 
やったり、傷口に湧く蛆を取ってやることくらいしか出来ることがなくなって 
しまった、というものがあったりする。 

沖縄南部の有名な戦跡である「ひめゆりの塔」の近くに今でもこの 
「外科壕」(という名のただの洞窟に)が残っているので、沖縄に行く機会が 
あったら足を運んでみるといい。 
覗くとなんつーかこうやりきれない気分になるぞ。 

「軍医の武器、それは注射器とメスだ。 
 戦闘が始まった後の軍医の武器は骨切り鋸とモルヒネだ。 
 軍医の最後の武器は拳銃だ。 
 ・・・ただし敵に向かっては撃たないが」 
という言葉があったり。 
#right(){(325:705)}
**沖縄戦で日本軍はなぜ5月に反抗作戦を行ったのでしょうか?
第32軍の参謀たちは戦力の消耗度から 
組織的抵抗が可能な期間は5月15日までが限度と判断していて 
それまでに攻勢をとるべきという判断から反攻作戦が立案された。 
攻勢をとる理由は、将兵の心理状態に拠るものが大きい。 

5月の反攻が計画された時点では 
すでに米軍の上陸から1月以上がたっていて 
湿度が高く換気も悪い壕内の衛生状態は最悪で、 
疫病が蔓延しほとんどの将兵が下痢に苦しみ、 
将兵の士気の低下は著しかった。 

もともと受身の戦術は士気の維持が難しい。 
そこまで厳しい生活環境の中で、 
絶望的な戦況のもと何の希望もなく、 
いつまでも頑強に戦い抜くなんて 
人間にとってそう簡単にできるものではない。 

死ぬまで受身でいることと比べ、 
攻勢は心理的に僅かでも希望がもてるため前線部隊から支持され、 
消沈しきっている士気を高める効果があった。 
#right(){(608:242)}
**戦車第二師団がアメリカに対して勝利、圧倒した事例はありますか? 
戦車第二師団は昭和20年1月9日の米軍のルソン島上陸開始後懸命の遅退戦闘を繰り広げますが、 
第23師団に配属された重見支隊(戦車第七連隊基幹)は28日までに玉砕、師団主力 
(戦車第六連隊・戦車第十連隊)も2月初旬にはほぼ戦闘能力を喪失して2月6日の軍命令により 
山岳地帯に後退しています。 
師団の装備も、対戦車能力を期待できた独立自走砲大隊は海没、97式中戦車(改)ですら 
台数がそろわない状況では、米軍を圧倒などとても出来ない相談でした。 
#right(){(322:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
**硫黄島の戦いにおいて末期、米軍は日本軍の洞窟の上から穴を空けてガスを注入した、という話は本当でしょうか。 
中には、こんな話もあります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1327866458  
ただ硫黄島自体が、ガス(硫黄)の島なので、米軍でなくてもガスの出所は 
あるわけですが、やはり誤認でしょうか。他の本にないということは。 

毒ガスを使うかどうかはともかく、洞窟の上から穴を空けて云々というのは、 
日本軍が「馬乗り攻撃」と称して恐れた戦術で、硫黄島や沖縄で広く使用された。 
爆薬やガソリン、時に海水をぶち込むことが多かったようだが、 
発煙筒や催涙弾を放り込んだ例もあったようで、これを「毒ガス」と誤認したんだろう。 
ガスマスクはみんな持ってたので、催涙ガスに対抗するために着用することは自然。 

例えば秋草鶴次「十七歳の硫黄島」(中公新書、2006年)のp.208に、 
米軍が「毒ガス攻撃」をした話がある。著者は陸戦隊で硫黄島にいた少年兵。 
いわく2種のガスが使われたと言い、最初にバルサンのような白煙、 
つづいて「茶筒のような缶」が出入り口から放り込まれて黄色い煙が出たと。 
黄色なんていうとマスタードガスを思わせるが、 
天井伝いに広がる軽い気体で、びらん症状も無いのでただの着色煙だろう。 

さらに硫黄島の場合、致死性毒ガスを大規模使用する計画が検討されていた。 
これは上陸前に検討されたもので、艦砲などでマスタードガスをぶち込むというもの。 
孤立した島なんで住民犠牲も無くて、いいんじゃねと提案されたが、 
結局は実行されずに、通常の上陸作戦が実施されることになった。 
おそらくこれが伝言ゲームを経て、実戦使用したという話になったんだろ。
#right(){(608:340-341)}
**「父親たちの星条旗」で、硫黄島を艦砲射撃している米海軍の戦艦が陸上砲に撃ち返されて損傷するシーンがあるのですが、そのようなことが実際にあったのですか? 
戦艦テネシー、重巡ペンサコラ、駆逐艦ロイツェ、ドーチ、ワルドロン、ジョン・W・ウィークス、揚陸艇LST-779が被弾損傷している。 
#right(){(創作質問55:101)}
**山下軍司令官はたしか訪独団で独ソ戦開戦間際に慌てて帰国したと記憶してるのですが、かの地ではやはり機甲戦術を学んでいたのでしょうか? 
>歴史群像のマレー電撃戦の特集見てて疑問に思ったのですが、 
>その研究の帰結としてあのような無謀とも思える電撃戦を行ったのでしょうか? 
訪独中、グデーリアンらドイツの将軍からの講義を受けている。 
もちろん、1939、40年の戦役について研究だってしていただろうから、 
マレーでの電撃戦のイメージを、頭の中でキチンとイメージできるようになったとちゃうんかな。 
たとえ座学であっても、当事者の話を直に聞けるってのは、非常にためになるもんです。 

戦場から鑑みればユーゴあたりの地形(無論気象等は全く異なりますが) 
が近いのではでしょうか。 
ヒトラーは対米戦は論外で日本に対しシンガポールを攻めよと言っていた 
らしいですが、マレー半島の侵攻作戦を参謀本部レベルで研究。 
山下大将にも助言を与えていた可能性は高そうですね。確証は得られるはずも 
ありませんが・・ 

訪独団は4月に帰国してるから、バルカン作戦の前後に帰国している。 
現地で研究例にするには時間的に無理だろ。 
参謀本部の一般業務として、想定されうるあらゆる戦争計画を平時から立案することはあるが、 
さすがに、距離的に隔絶していたマレー半島の進行作戦を、独参謀本部が研究立案するいわれはないわな。 
ドイツと日本は同盟関係にあったけど、絶望的に政戦略の擦り合わせはやってないし。 

多分、訪独団へのグデーリアンの講演も、電撃戦の一般論的なエッセンスに留まったんと違うかな。 
ただし、ポーランド、フランス戦までの事例を踏まえれば、強い説得力を持つし、 
日本で無手勝流に自動車化部隊の研究をやるよりも、 
当事者の意見や経験を取り入れるというだけでも、随分と違ってくるはずだけどね。 

そもそも、マレー戦て、辻~んが、戦前、調査したデータを元に作戦案が立てられた物だから。 
#right(){(617:312-315)}
**フィンランド兵はろくな対戦車兵器もなく、モロトフカクテルで大量のソ連戦車を破壊できたのに、なんで日本兵は、サイダー火炎瓶でアメリカの戦車を破壊できなかったの?
アメリカの戦車は歩兵支援が主任務。つまり周囲に歩兵がわんさかいるので、
火炎瓶もって近づけなかった。

http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u2.htm
>モトロフカクテル火炎瓶の効果...
>日本軍では、スペイン内戦での火炎瓶の効果を聞いて実験したのですが。
>ディーゼルエンジンの戦車でしかも止まっている状態で実験したため効果
>が出ず...火炎瓶は役に立たないと言うことになっていました。
#right(){(308:543,544)}
**「最後のナイチンゲール」を見て思ったのですが、沖縄戦での赤ん坊殺害や方言を使っただけでの処刑って何件あったんですか?
地元の人間だ。
客観的なことだけを言わせてもらう。

沖縄戦で一般人何人死んだか、現在でもわかっていない。
日米共に、それが民間人であると知りながら殺したという証言は多数存在する。
米兵が一般市民とわかって殺した事例は、殺害数こそ少ないが公式資料として存在する。
一般人を殺した数は、米軍の方が多いだろう。砲弾消費量を調べれば判る。

市民の犠牲の多くは、首里戦線が突破され、日本軍の指揮系統が混乱した後に生じている。
従って、正確な数は知る由もない。
赤ん坊を絞め殺したという話はあるけど、俺が探した限りでは証言などの一次資料としては確認できなかった。
方言に関しては、以下のような命令が20年4月9日付けで出されている。
「爾今 軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」
終戦後に、壕の中に隠れている日本兵に降伏勧告に行った一般人を殺した事例は存在する。
ちなみに、降伏勧告に行った(事前に捕虜になっていた)日本兵を殺した事例もまた存在する。
(「沖縄県民斯ク戦エリ」講談社 参照のこと)

ここからは私見だが、沖縄戦は非常に混乱したその悲惨な状況から、当時の状況を正確につかむのは不可能である
(証言と言う不正確な手段しか残されていない。最近ではそれすら困難になってる)
そのせいで、左向きの人や活動家や、この手の事でメシ食ってる連中が、日本軍のことを悪く言う証言「だけ」を抜き出して、
日本軍を貶している感がある。
(ひめゆりの塔の平和祈念館なんかその典型。見に行って腹が立った)
でもって、それを真に受けたやつがお涙頂戴のドラマを作って、みんながそれを信じちゃう、と。嫌な世の中になったもんだ。
実際には、日本軍について良い感情を抱いている証言も多い。
#right(){(300:225)}
**引き抜かれる前には沖縄の最強師団といわれた第9師団、またその代替として予定されていた第84師団の戦力と実力はどんなものだったのでしょうか? 
第9師団は日露戦争で拡充した俗に言う常設師団で、伝統もあり、常に一線級の兵力が与えられていました。 
また、装備、訓練も充実しており、常に定数を維持しています。 
大体、歩兵聯隊3、師団捜索隊、山砲兵、工兵、輜重兵聯隊各1くらいでしょうか。 

一方の第84師団は、1944年~1945年2月の内地兵備強化の為に編成された師団で、歩兵聯隊3、速射砲、野砲 
(なければ山砲)、工兵、輜重兵聯隊各1の編成になっています。 
砲兵が三八式になっているなど、装備的には些か劣ったものですが、末期の貼り付け師団よりは遙かにマシです。 
但し、人員的には留守第54師団基幹で編成されたものですから、予備役兵主体で、平均年齢は上と言う形であり、 
万一に沖縄に転用されても、兵力として数えるのは若干疑問があります。 
#right(){(296:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**硫黄島は鉄分が多く、地雷探知機が役に立たないと聞きましたが
>大量に地雷を埋めて(ドイツがやった様な3段重ね地雷等)放棄すれば、
>本土防衛の時間稼ぎもでき、兵力も温存できたのではと
硫黄島で、日本軍はけっこうな数の地雷を埋めています。
しかし、その大半は上陸前後の艦砲による支援砲撃でふっとんでしまったんですわ…
山の中や飛行場周辺などに埋めたのはそこそこの効果をあげたらしい。
#right(){(292:592)}
**硫黄島ではほかの戦場より戦果が上がってたように見えますが、ほかのところではこういった持久戦の発想はなかったんですか?
沖縄戦も発想は同じで、持久によって、結構、米軍に出血を強いています。
しかし、我慢できなくなった参謀長が、攻勢作戦を主張して瓦解しましたけどね。
#right(){(292:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

**硫黄島では日本の戦艦大和とかが、アメリカの戦艦をやっつけにいかなかったんでしょうか?
船を動かす重油が枯渇している状態、しかも、日本の周辺部には米国艦隊が
うようよ居る状態では、何も出来ません。
#right(){(292:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**硫黄島ですが、日本軍の戦車はアメリカの戦車と戦ったんでしょうか?
戦車第26聯隊の戦車23両が硫黄島守備に就きました。

この聯隊は、重点進出攻撃と、対戦車戦闘を行い、戦車壕を進出地域に用意して、
砲撃や爆撃を避け、前方に射撃掩体を造り、戦車を移動トーチカとして使用しています。
これにより、米国の一個歩兵連隊を攻撃したのを手始めに、交戦一ヶ月間で、砲兵小隊
と合わせて、M4を270両屠ったとされていますが、結果的に徐々に損耗し、最後は玉砕して
います。
#right(){(292:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

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