『梵網経』

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#ref(http://farm4.static.flickr.com/3026/2894415413_6a60fe9338.jpg?v=0) *テキスト -[[Brahmajālasuttaṃ>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/suttapitaka_detail.pl?id=D01]]  和訳 南伝大蔵経6;梶山雄一編『原始仏典』3; 中村元編『原始仏典』1;  片山一良訳『長部(ディーガニカーヤ)戒蘊篇』1  [[英訳仏訳; >http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/transbibl.pl]][[Rhys Davids; >http://www.archive.org/stream/dialoguesofbuddh01davi]][[O. Franke; >http://www.archive.org/stream/dighanikayadasbu00franuoft]][[Bhikku Bodhi >http://www.scribd.com/doc/83036628/All-Embracing-Net-of-Views-Brahmajala-Sutta-Bhikkhu-Bodhii]]  [[CDROM>http://homepage2.nifty.com/dhammapada/electronic-publishing.htm]] *訳 -漢訳  [[大正1(21); 中華697>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/jl_detail.pl?lang=&sid=zrrqm]]  和訳 国訳一切経7、新国訳大蔵経2、丘山新編『現代語訳「阿含経典」』長阿含経5  英訳 [[Cheng Jianhua>http://www.docin.com/p-12175176.html]]  [[大正21; 中華794>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/jl_detail.pl?lang=&sid=zrttr]]  独訳 [[Friedrich Weller>http://menadoc.bibliothek.uni-halle.de/dmg/periodical/titleinfo/152304]] -チベット語訳  ཚངས་པའི་དྲ་བའི་མདོ། [[東北352>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/tibet_detail.pl?lang=&id=0352]]  Friedrich Weller, Brahmajālasūtra: tibetischer und mongolischer Text, 1934: [[über das Brahmajālasūtra>http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/1301XkMEKwf.pdf]] *論文 -越後屋 正行 「『梵網経(Brahmajala-sutta)』考(2)何故、第一経であるのか」 『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』(37), 210〜189 ,2004/5 「『梵網経(Brahmajala-sutta)』考(1)『長部』「戒蘊篇」における帰依と信に注目して」 『曹洞宗研究員研究紀要』(34), 208〜185 ,2004/3 -畑 昌利 [[「六十二見に対する仏教の評価とPali「梵網経」の主題」>http://ci.nii.ac.jp/naid/110002707129]] 『印度學佛教學研究』52(1), 318-316 ,20031220  [[「六十二見を中心とする初期仏教における外道思想の研究」>http://www.library.osaka-u.ac.jp/others/tmp/88/bungakukatei12.pdfL]] -本庄 良文 シャマタデーヴァ著『アビダルマコーシャ・ティーカー・ウパーイカー』 「シャマタデーヴァの伝える阿含資料: 世品(5)『梵網経』」 『神戸女子大学教育諸学研究論文集』6, 1992-03-31 -五島 清隆 [[「『十二門論』に見る主宰神否定論-苦の由来をめぐって-」>http://elib.doshisha.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/BD00004407/Body/640104.pdf]]『基督教研究』64-1  転生(再生誕)スレ7: >171 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:36:56 ID:xG8wvtQd >http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism35.html >比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。 >「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、 >耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、 >身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。 > >誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 >それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、 >その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、 >彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3) > >以上のような「一切」と「十/十四無記」に明解に答えるのがパーリ『梵網経』です。 >『梵網経』はブッダに対して賞賛と誹謗があることにビクが騒いだの因んで釈尊が説かれた教えです。 > >釈尊は賞賛に対して次のように仰られます。 T0001_.01.0088c18: 凡夫寡聞不達深義。直以 T0001_.01.0088c18: 所見如實讃嘆。云何小縁威儀戒行。凡夫寡 T0001_.01.0088c19: 聞直以所見如實稱讃。   凡夫は寡聞に深い意味に到達せずに直に見えることをそのまま讃歎する。 どのように些末な威儀や戒律の行いを凡夫が寡聞に深い意味に到達せずに直に見えることをそのまま称賛するのか? དགེ་སློང་དག་གང་བྱིས་པ་སོ་སོའི་སྐྱེ་བོ་ཐོས་པ་དང་མི་ལྡན་པ་དག །དེ་བཞིན་གཤེགས་པའི་སྙན་པ་ཅུང་ཟད་ཙམ་འདི་སྨྲ་ཞིང་རྗོད་པ་འདི་ལྟ་སྟེ། ཚུལ་ཁྲིམས་ཙམ་དང་འདོད་པ་དག་ལས་རབ་ཏུ་དབེན་པ་ཡིན་ནོ། །ཇི་ལྟར་ན་ཚུལ་ཁྲིམས་ཙམ་ཡིན་ཞེ་ན།(デルゲ版、東北352、aH, 72a)  ビクたちよ、[教えを]聞いたことのない凡夫たちの如来に対する賞賛は、つまらないことを語り述べる。 つまり、戒律のみ、欲望から離れていることである。どのように戒律のみであるのかというなら、 Appamattakaṃ kho panetaṃ, bhikkhave, oramattakaṃ sīlamattakaṃ, yena puthujjano tathāgatassa vaṇṇaṃ vadamāno vadeyya. >Katamañca taṃ, bhikkhave, appamattakaṃ oramattakaṃ sīlamattakaṃ, >yena puthujjano tathāgatassa vaṇṇaṃ vadamāno vadeyya? ビクたちよ、凡夫が如来を賞賛して語るとき、わずかなことのみを、 卑近なことのみを、戒のみを語るにすぎない。では >ビクたちよ、凡夫が如来を賞賛して語るとき、どのようなわずかなことのみを、 >卑近なことのみを、戒のみを語るであろうか(浪花宣明 訳以下同じ) > >この後、小中大の戒が説かれます。要するに凡夫でも見て分かることだけを賞賛するとしています。 >そして、次に釈尊はこのように仰られます。 T0001_.01.0089c20: 更有餘法甚深微妙大法光明。唯有賢聖弟 T0001_.01.0089c21: 子。能以此言讃嘆如來。何等是甚深微妙 T0001_.01.0089c22: 大光明法。賢聖弟子。能以此法讃嘆如來。 さらに甚深微妙な光明の大法である他の法が有る。ただ賢者や聖者の弟子が、 この言葉で如来を讃歎できる。なんらかの甚深微妙な大光明法、 賢者や聖者の弟子は、この法によって如来を讃歎できる。 དགེ་སློང་དག་ཆོས་གང་དག་གཞན་ཟབ་པ་ཟབ་པར་སྣང་བ་ཡོངས་སུ་དག་པ་ཡོངས་སུ་བྱང་བ་དེ་དག་ངས་རང་གི་མངོན་པར་ཤེས་པས་ མངོན་པར་རྫོགས་པར་སངས་རྒྱས་ནས་བཤད་ལ། ཕ་རོལ་པོས་ཀྱང་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་ལ་གང་ཡང་དག་པ་ཇི་ལྟ་བ་ཞིང་རྗོད་པར་བྱེད་དོ། ། དགེ་སློང་དག་ཆོས་གང་དག་གཞན་ཟབ་པ་ཟབ་པར་སྣང་བ་ཡོངས་སུ་དག་པ་ཡོངས་སུ་བྱང་བ་དེ་དག་ངས་རང་གི་མངོན་པར་ཤེས་པས་ མངོན་པར་རྫོགས་པར་སངས་རྒྱས་ནས་བཤད་ལ། ཕ་རོལ་པོས་ཀྱང་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་ལ་གང་ཡང་དག་པ་ཇི་ལྟ་བ་བཞིན་སྙན་པ་སྨྲ་ཞིང་རྗོད་པར་བྱེད་པ་གང་ཞེ་ན། ビクたちよ、深い深い現象で完全に清らかで完全に浄化した他の諸法を、 私は自らの神通によってありありと悟り説いた、外道も如来に正しいことをあるがままに述べる。 ビクたちよ、深い深い現象で完全に清らかで完全に浄化した他の諸法を、私は自らの神通によって ありありと悟り説いた、外道も如来に正しいことをあるがままに称賛を語り述べるのは何かというと。 >172 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:37:50 ID:xG8wvtQd >Atthi , bhikkhave, aññeva dhammā gambhīrā duddasā duranubodhā santā paṇītā >atakkāvacarā nipuṇā paṇḍitavedanīyā, ye tathāgato sayaṃ abhiññā sacchikatvā >pavedeti, yehi tathāgatassa yathābhuccaṃ vaṇṇaṃ sammā vadamānā vadeyyuṃ. >ビクたちよ、このほかに、如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、 >見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、 >微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。それら〔を賞賛すること〕によって、 >如来をあるがままに賞賛し、正しく語ることになるであろう。 > >この後、以下の六十二邪見が説かれます。 >1.過去に関する説 > 1.四常住論(我と世界が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論) > 2.四つの一部常住論(我と世界の一部が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論) > 3.四有限無限論(世界が有限無限であるという三つの禅定体験と一つの推論) > 4.四詭弁論 > 5.二無因生論(我と世界が原因なく発生するという禅定体験と推論) >2.未来に関する説 > 1.死後の有我説 >1.十六有想論 >2.八無想論 >3.八非有想非無想論 > 2.七断滅論(一つの無我断見と六つの有我断見) > 3.五現法ネハン論(一つの現世肯定論と四つの禅定体験) >これらを述べた直後と、最後に締めくくりとして釈尊は次のように仰られます。 > > >173 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:39:47 ID:xG8wvtQd >Tayidaṃ, bhikkhave, tathāgato pajānāti – ‘ime diṭṭhiṭṭhānā evaṃgahitā >evaṃparāmaṭṭhā evaṃgatikā bhavanti evaṃabhisamparāyā’ti. >Tañca tathāgato pajānāti, tato ca uttaritaraṃ pajānāti, tañca pajānanaṃ >na parāmasati, aparāmasato cassa paccattaññeva nibbuti viditā. >Vedanānaṃ samudayañca atthaṅgamañca assādañca ādīnavañca >nissaraṇañca yathābhūtaṃ viditvā anupādāvimutto, bhikkhave, tathāgato. >ビクたちよ、これについて如来は次のように知る。『このように執着され固執された >見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろう』と。 >如来はこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。ビクたちよ、 >しかしそれを知って如来は固執することなく、また固執がないから、 >心の内に寂静があり、感受の〔生起する〕原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、 >執着を離れている。 > >「このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろう」というのは、 >以上の六十二見は、体験した結果の転生をもたらすという意味です。 >「如来はこれを知り」ということは、釈尊が以上の禅定体験を全て経験しているという意味です。 >さらに釈尊は次のように続けます。 > > >174 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:42:40 ID:xG8wvtQd >Tatra , bhikkhave, ye te samaṇabrāhmaṇā pubbantakappikā ca aparantakappikā >ca pubbantāparantakappikā ca pubbantāparantānudiṭṭhino pubbantāparantaṃ >ārabbha anekavihitāni adhimuttipadāni abhivadanti dvāsaṭṭhiyā vatthūhi, >tadapi tesaṃ bhavataṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ajānataṃ apassataṃ vedayitaṃ >taṇhāgatānaṃ paritassitavipphanditameva. >ビクたちよ、これらのうちで、かれらシャモン・バラモンたちは、 >過去の限界について考察し、未来の限界について考察し、 >過去の限界と未来の限界とについて考察し、過去の限界と未来の限界とについて見解をもち、 >六十二の根拠により、過去の限界と未来の限界とに関して種々の浮説を主張するが、、 >それはかれら尊敬すべきシャモン・バラモンたちが〔真実を〕知っておらず、 >〔真実を〕見ていないために感受されたものであり、渇愛に陥っているために >おののき狂躁したものにすぎない。 > >ここで重要なのは凡夫より六十二見の方が高い見解であり、禅定によって >知覚領域が高まっているとされていることです。それを裏付けるのが、 >凡夫の場合「卑近なことのみ」とされたのに「尊敬すべきシャモン・バラモンたち」が >「感受されたもの」としていることに示されています。ですから、比喩説も否定されます。 >「過去の限界と未来の限界」というのは、過去世と未来世です。 >それははっきりと説かれています。 > >「一切」に戻ると、「一切」というのは凡夫の五感の対象だけではないのです。 >聖者の心の対象も含まれていることも、はっきりと認識することが重要です。 > >さらにパーリ『梵網経』には「十/十四無記」を理解する鍵でもあります。 >それには石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』186頁以下が天才的な考察をされています。 དགེ་སློང་དག་དེ་ལ་དགེ་སྦྱོང་དང་བྲམ་ཟེ་གང་དེ་དག་སྔོན་གྱི་མཐའ་ལ་རྟོག་ཅིང་རྟག་པར་སྨྲ་བ་དག་བདག་དང་འཇིག་རྟེན་ནི་རྟག་གོ་ཞེས་ མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་ནི་འདི་ལྟ་སྟེ། གཞི་བཞི་པོ་དག་ལ་སྟེ། དེ་ཡང་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་ཡིན་པར་སྲིད་ཀྱི་རྟེན་ཅིང འབྲེལ་པར་འབྱུང་བ་མ་ཡིན་པར་འགྱུར་བ་དེ་ནི་གནས་མེད་དོ། །མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་སྨྲ་བ་དག་མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་ མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་དག་གཞི་ལྔ་པོ་དག་ལ་སྟེ་ཞེས་བྱ་བའི་བར་དུའོ། ། དེ་ཡང་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་ཡིན་པར་སྲིད་ཀྱི་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་མ་ཡིན་པར་འགྱུར་བ་འདི་ནི་གནས་མེད་དོ། ། དགེ་སློང་དག་དེ་ལ་དགེ་སྦྱོང་དང་བྲམ་ཟེ་གང་དེ་དག་སྔོན་གྱི་མཐའ་ལ་རྟོག་ཅིང་རྟག་པར་སྨྲ་བ་དག་མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་བདག་དང་འཇིག་རྟེན་ནི་རྟག་གོ་ཞེས་ བྱ་བ་མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་ནི་གཞི་བཞི་པོ་དག་ལ་སྟེ། དེ་ཡངརེག་པའི་རྐྱེན་ལས་བྱུང་བར་སྲིད་ཀྱི་རེག་པ་ལས་ འབྱུང་བ་ལས་གཞན་པའི་ཚོར་བར་འགྱུར་བ་འདི་ནི་གནས་མེད་དོ། །ཕྱི་མའི་མཐའ་ལ་རྟོག་ཅིང་ཞེས་བྱ་བ་ནི་མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་སྨྲ་བ་དག་ མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་ནི་འདི་ལྟ་སྟེ། གཞི་ལྔ་པོ་དག་ལ་སྟེ་ཞེས་བྱ་བའི་བར་དུའོ། ། ビクたちよ、それについて過去の果てが分かり常住だと述べるシャモンや バラモンたちは「我と世間は恒常」と明言し明瞭に述べる。 つまり、四つの根拠を。それも縁起であって有が縁起でないことになることはありえない。 現法ネハン論者たちは、現法(現在の経験)をネハンであると 明言し明瞭に述べる五つの根拠をというまでである。 それも縁起であって有が縁起でないことになることはありえない。 ビクたちよ、それについて過去の果てが分かり常住だと述べるシャモンやバラモンたちは 「現法を我と世間は恒常」と明言し明瞭に述べる四つの根拠に対して、 それも触の縁から生じる以外に受となることはありえない。
#ref(http://farm4.static.flickr.com/3026/2894415413_6a60fe9338.jpg?v=0) *テキスト -[[Brahmajālasuttaṃ>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/suttapitaka_detail.pl?id=D01]]  和訳 南伝大蔵経6;梶山雄一編『原始仏典』3; 中村元編『原始仏典』1;  片山一良訳『長部(ディーガニカーヤ)戒蘊篇』1  [[英訳仏訳; >http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/transbibl.pl]][[Rhys Davids; >http://www.archive.org/stream/dialoguesofbuddh01davi]][[O. Franke; >http://www.archive.org/stream/dighanikayadasbu00franuoft]][[Bhikku Bodhi >http://www.scribd.com/doc/83036628/All-Embracing-Net-of-Views-Brahmajala-Sutta-Bhikkhu-Bodhii]]  [[CDROM>http://homepage2.nifty.com/dhammapada/electronic-publishing.htm]] *訳 -漢訳  [[大正1(21); 中華697>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/jl_detail.pl?lang=&sid=zrrqm]]  和訳 国訳一切経7、新国訳大蔵経2、丘山新編『現代語訳「阿含経典」』長阿含経5  英訳 [[Cheng Jianhua>http://www.docin.com/p-12175176.html]]  [[大正21; 中華794>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/jl_detail.pl?lang=&sid=zrttr]]  独訳 [[Friedrich Weller>http://menadoc.bibliothek.uni-halle.de/dmg/periodical/titleinfo/152304]] -チベット語訳  ཚངས་པའི་དྲ་བའི་མདོ། [[東北352>http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/tibet_detail.pl?lang=&id=0352]]  Friedrich Weller, [[über das Brahmajālasūtra, Asia Major 9,1933 >http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/1301XkMEKwf.pdf]]          Brahmajālasūtra: tibetischer und mongolischer Text, 1934: *論文 -越後屋 正行 「『梵網経(Brahmajala-sutta)』考(2)何故、第一経であるのか」 『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』(37), 210〜189 ,2004/5 「『梵網経(Brahmajala-sutta)』考(1)『長部』「戒蘊篇」における帰依と信に注目して」 『曹洞宗研究員研究紀要』(34), 208〜185 ,2004/3 -畑 昌利 [[「六十二見に対する仏教の評価とPali「梵網経」の主題」>http://ci.nii.ac.jp/naid/110002707129]] 『印度學佛教學研究』52(1), 318-316 ,20031220  [[「六十二見を中心とする初期仏教における外道思想の研究」>http://www.library.osaka-u.ac.jp/others/tmp/88/bungakukatei12.pdfL]] -本庄 良文 シャマタデーヴァ著『アビダルマコーシャ・ティーカー・ウパーイカー』 「シャマタデーヴァの伝える阿含資料: 世品(5)『梵網経』」 『神戸女子大学教育諸学研究論文集』6, 1992-03-31 -五島 清隆 [[「『十二門論』に見る主宰神否定論-苦の由来をめぐって-」>http://elib.doshisha.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/BD00004407/Body/640104.pdf]]『基督教研究』64-1  転生(再生誕)スレ7: >171 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:36:56 ID:xG8wvtQd >http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism35.html >比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。 >「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、 >耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、 >身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。 > >誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 >それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、 >その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、 >彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3) > >以上のような「一切」と「十/十四無記」に明解に答えるのがパーリ『梵網経』です。 >『梵網経』はブッダに対して賞賛と誹謗があることにビクが騒いだの因んで釈尊が説かれた教えです。 > >釈尊は賞賛に対して次のように仰られます。 T0001_.01.0088c18: 凡夫寡聞不達深義。直以 T0001_.01.0088c18: 所見如實讃嘆。云何小縁威儀戒行。凡夫寡 T0001_.01.0088c19: 聞直以所見如實稱讃。   凡夫は寡聞に深い意味に到達せずに直に見えることをそのまま讃歎する。 どのように些末な威儀や戒律の行いを凡夫が寡聞に深い意味に到達せずに直に見えることをそのまま称賛するのか? དགེ་སློང་དག་གང་བྱིས་པ་སོ་སོའི་སྐྱེ་བོ་ཐོས་པ་དང་མི་ལྡན་པ་དག །དེ་བཞིན་གཤེགས་པའི་སྙན་པ་ཅུང་ཟད་ཙམ་འདི་སྨྲ་ཞིང་རྗོད་པ་འདི་ལྟ་སྟེ། ཚུལ་ཁྲིམས་ཙམ་དང་འདོད་པ་དག་ལས་རབ་ཏུ་དབེན་པ་ཡིན་ནོ། །ཇི་ལྟར་ན་ཚུལ་ཁྲིམས་ཙམ་ཡིན་ཞེ་ན།(デルゲ版、東北352、aH, 72a)  ビクたちよ、[教えを]聞いたことのない凡夫たちの如来に対する賞賛は、つまらないことを語り述べる。 つまり、戒律のみ、欲望から離れていることである。どのように戒律のみであるのかというなら、 Appamattakaṃ kho panetaṃ, bhikkhave, oramattakaṃ sīlamattakaṃ, yena puthujjano tathāgatassa vaṇṇaṃ vadamāno vadeyya. >Katamañca taṃ, bhikkhave, appamattakaṃ oramattakaṃ sīlamattakaṃ, >yena puthujjano tathāgatassa vaṇṇaṃ vadamāno vadeyya? ビクたちよ、凡夫が如来を賞賛して語るとき、わずかなことのみを、 卑近なことのみを、戒のみを語るにすぎない。では >ビクたちよ、凡夫が如来を賞賛して語るとき、どのようなわずかなことのみを、 >卑近なことのみを、戒のみを語るであろうか(浪花宣明 訳以下同じ) > >この後、小中大の戒が説かれます。要するに凡夫でも見て分かることだけを賞賛するとしています。 >そして、次に釈尊はこのように仰られます。 T0001_.01.0089c20: 更有餘法甚深微妙大法光明。唯有賢聖弟 T0001_.01.0089c21: 子。能以此言讃嘆如來。何等是甚深微妙 T0001_.01.0089c22: 大光明法。賢聖弟子。能以此法讃嘆如來。 さらに甚深微妙な光明の大法である他の法が有る。ただ賢者や聖者の弟子が、 この言葉で如来を讃歎できる。なんらかの甚深微妙な大光明法、 賢者や聖者の弟子は、この法によって如来を讃歎できる。 དགེ་སློང་དག་ཆོས་གང་དག་གཞན་ཟབ་པ་ཟབ་པར་སྣང་བ་ཡོངས་སུ་དག་པ་ཡོངས་སུ་བྱང་བ་དེ་དག་ངས་རང་གི་མངོན་པར་ཤེས་པས་ མངོན་པར་རྫོགས་པར་སངས་རྒྱས་ནས་བཤད་ལ། ཕ་རོལ་པོས་ཀྱང་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་ལ་གང་ཡང་དག་པ་ཇི་ལྟ་བ་ཞིང་རྗོད་པར་བྱེད་དོ། ། དགེ་སློང་དག་ཆོས་གང་དག་གཞན་ཟབ་པ་ཟབ་པར་སྣང་བ་ཡོངས་སུ་དག་པ་ཡོངས་སུ་བྱང་བ་དེ་དག་ངས་རང་གི་མངོན་པར་ཤེས་པས་ མངོན་པར་རྫོགས་པར་སངས་རྒྱས་ནས་བཤད་ལ། ཕ་རོལ་པོས་ཀྱང་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་ལ་གང་ཡང་དག་པ་ཇི་ལྟ་བ་བཞིན་སྙན་པ་སྨྲ་ཞིང་རྗོད་པར་བྱེད་པ་གང་ཞེ་ན། ビクたちよ、深い深い現象で完全に清らかで完全に浄化した他の諸法を、 私は自らの神通によってありありと悟り説いた、外道も如来に正しいことをあるがままに述べる。 ビクたちよ、深い深い現象で完全に清らかで完全に浄化した他の諸法を、私は自らの神通によって ありありと悟り説いた、外道も如来に正しいことをあるがままに称賛を語り述べるのは何かというと。 >172 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:37:50 ID:xG8wvtQd >Atthi , bhikkhave, aññeva dhammā gambhīrā duddasā duranubodhā santā paṇītā >atakkāvacarā nipuṇā paṇḍitavedanīyā, ye tathāgato sayaṃ abhiññā sacchikatvā >pavedeti, yehi tathāgatassa yathābhuccaṃ vaṇṇaṃ sammā vadamānā vadeyyuṃ. >ビクたちよ、このほかに、如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、 >見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、 >微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。それら〔を賞賛すること〕によって、 >如来をあるがままに賞賛し、正しく語ることになるであろう。 > >この後、以下の六十二邪見が説かれます。 >1.過去に関する説 > 1.四常住論(我と世界が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論) > 2.四つの一部常住論(我と世界の一部が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論) > 3.四有限無限論(世界が有限無限であるという三つの禅定体験と一つの推論) > 4.四詭弁論 > 5.二無因生論(我と世界が原因なく発生するという禅定体験と推論) >2.未来に関する説 > 1.死後の有我説 >1.十六有想論 >2.八無想論 >3.八非有想非無想論 > 2.七断滅論(一つの無我断見と六つの有我断見) > 3.五現法ネハン論(一つの現世肯定論と四つの禅定体験) >これらを述べた直後と、最後に締めくくりとして釈尊は次のように仰られます。 > > >173 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:39:47 ID:xG8wvtQd >Tayidaṃ, bhikkhave, tathāgato pajānāti – ‘ime diṭṭhiṭṭhānā evaṃgahitā >evaṃparāmaṭṭhā evaṃgatikā bhavanti evaṃabhisamparāyā’ti. >Tañca tathāgato pajānāti, tato ca uttaritaraṃ pajānāti, tañca pajānanaṃ >na parāmasati, aparāmasato cassa paccattaññeva nibbuti viditā. >Vedanānaṃ samudayañca atthaṅgamañca assādañca ādīnavañca >nissaraṇañca yathābhūtaṃ viditvā anupādāvimutto, bhikkhave, tathāgato. >ビクたちよ、これについて如来は次のように知る。『このように執着され固執された >見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろう』と。 >如来はこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。ビクたちよ、 >しかしそれを知って如来は固執することなく、また固執がないから、 >心の内に寂静があり、感受の〔生起する〕原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、 >執着を離れている。 > >「このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろう」というのは、 >以上の六十二見は、体験した結果の転生をもたらすという意味です。 >「如来はこれを知り」ということは、釈尊が以上の禅定体験を全て経験しているという意味です。 >さらに釈尊は次のように続けます。 > > >174 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 14:42:40 ID:xG8wvtQd >Tatra , bhikkhave, ye te samaṇabrāhmaṇā pubbantakappikā ca aparantakappikā >ca pubbantāparantakappikā ca pubbantāparantānudiṭṭhino pubbantāparantaṃ >ārabbha anekavihitāni adhimuttipadāni abhivadanti dvāsaṭṭhiyā vatthūhi, >tadapi tesaṃ bhavataṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ajānataṃ apassataṃ vedayitaṃ >taṇhāgatānaṃ paritassitavipphanditameva. >ビクたちよ、これらのうちで、かれらシャモン・バラモンたちは、 >過去の限界について考察し、未来の限界について考察し、 >過去の限界と未来の限界とについて考察し、過去の限界と未来の限界とについて見解をもち、 >六十二の根拠により、過去の限界と未来の限界とに関して種々の浮説を主張するが、、 >それはかれら尊敬すべきシャモン・バラモンたちが〔真実を〕知っておらず、 >〔真実を〕見ていないために感受されたものであり、渇愛に陥っているために >おののき狂躁したものにすぎない。 > >ここで重要なのは凡夫より六十二見の方が高い見解であり、禅定によって >知覚領域が高まっているとされていることです。それを裏付けるのが、 >凡夫の場合「卑近なことのみ」とされたのに「尊敬すべきシャモン・バラモンたち」が >「感受されたもの」としていることに示されています。ですから、比喩説も否定されます。 >「過去の限界と未来の限界」というのは、過去世と未来世です。 >それははっきりと説かれています。 > >「一切」に戻ると、「一切」というのは凡夫の五感の対象だけではないのです。 >聖者の心の対象も含まれていることも、はっきりと認識することが重要です。 > >さらにパーリ『梵網経』には「十/十四無記」を理解する鍵でもあります。 >それには石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』186頁以下が天才的な考察をされています。 དགེ་སློང་དག་དེ་ལ་དགེ་སྦྱོང་དང་བྲམ་ཟེ་གང་དེ་དག་སྔོན་གྱི་མཐའ་ལ་རྟོག་ཅིང་རྟག་པར་སྨྲ་བ་དག་བདག་དང་འཇིག་རྟེན་ནི་རྟག་གོ་ཞེས་ མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་ནི་འདི་ལྟ་སྟེ། གཞི་བཞི་པོ་དག་ལ་སྟེ། དེ་ཡང་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་ཡིན་པར་སྲིད་ཀྱི་རྟེན་ཅིང འབྲེལ་པར་འབྱུང་བ་མ་ཡིན་པར་འགྱུར་བ་དེ་ནི་གནས་མེད་དོ། །མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་སྨྲ་བ་དག་མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་ མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་དག་གཞི་ལྔ་པོ་དག་ལ་སྟེ་ཞེས་བྱ་བའི་བར་དུའོ། ། དེ་ཡང་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་ཡིན་པར་སྲིད་ཀྱི་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་མ་ཡིན་པར་འགྱུར་བ་འདི་ནི་གནས་མེད་དོ། ། དགེ་སློང་དག་དེ་ལ་དགེ་སྦྱོང་དང་བྲམ་ཟེ་གང་དེ་དག་སྔོན་གྱི་མཐའ་ལ་རྟོག་ཅིང་རྟག་པར་སྨྲ་བ་དག་མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་བདག་དང་འཇིག་རྟེན་ནི་རྟག་གོ་ཞེས་ བྱ་བ་མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་ནི་གཞི་བཞི་པོ་དག་ལ་སྟེ། དེ་ཡངརེག་པའི་རྐྱེན་ལས་བྱུང་བར་སྲིད་ཀྱི་རེག་པ་ལས་ འབྱུང་བ་ལས་གཞན་པའི་ཚོར་བར་འགྱུར་བ་འདི་ནི་གནས་མེད་དོ། །ཕྱི་མའི་མཐའ་ལ་རྟོག་ཅིང་ཞེས་བྱ་བ་ནི་མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་སྨྲ་བ་དག་ མཐོང་བའི་ཆོས་ལ་མྱ་ངན་ལས་འདས་པར་མངོན་པར་སྨྲ་ཞིང་མངོན་པར་རྗོད་པ་ནི་འདི་ལྟ་སྟེ། གཞི་ལྔ་པོ་དག་ལ་སྟེ་ཞེས་བྱ་བའི་བར་དུའོ། ། ビクたちよ、それについて過去の果てが分かり常住だと述べるシャモンや バラモンたちは「我と世間は恒常」と明言し明瞭に述べる。 つまり、四つの根拠を。それも縁起であって有が縁起でないことになることはありえない。 現法ネハン論者たちは、現法(現在の経験)をネハンであると 明言し明瞭に述べる五つの根拠をというまでである。 それも縁起であって有が縁起でないことになることはありえない。 ビクたちよ、それについて過去の果てが分かり常住だと述べるシャモンやバラモンたちは 「現法を我と世間は恒常」と明言し明瞭に述べる四つの根拠に対して、 それも触の縁から生じる以外に受となることはありえない。

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