元創価学会員の目から読む「マインド・コントロールの恐怖」

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元創価学会員の目から読む「マインド・コントロールの恐怖」」(2010/11/07 (日) 00:42:53) の最新版変更点

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「自ら信じる」という行為と「信じさせられる」という行為は、雲泥の差があります。 前者の場合は信仰で、後者の場合はマインド・コントロールです。 スティーブン・ハッサン「マインド・コントロールの恐怖」を読んで、私の経験から、創価学会の中のMCについて、思った事を書かせていただきます。 本の著者は統一教会の信者だったのですが、著者の意見は学会の活動、思想にも当てはまるところが多いです。 例を挙げて、統一教会と創価学会を比較してみます。 統)人々があなたを頼りにするようにまるまでサービスと援助をして、それから彼らをコントロールせよ。 創)必要と思われる存在になれ。人々に尽くせ。 ☆私は、とある幹部が「恩を売らないと布教はできない」と言っていたのを聞いたことがあります。社会に貢献するのはよい事です。でも、貢献したから学会を信じろ、という理論はおかしいです。 統)勧誘された人は、真面目で善良な人々の意にそえないような事をしたり、言ったりするのに、罪悪感を感じる。 創)同上。 ☆学会員は、どこにでもいる近所のおばさんだったり、同僚だったり、友達だったりします。日ごろの付き合いが深いほど、誘いを断ったりする罪悪感は大きいと思います。義理人情に訴えるやりかたです。 統)集団の中で、自分だけ理解できない、納得できないのは、自分が浅はかなのか?おかしいのか?と思ってしまう。 創)同上。 ☆地区単位の会合等で、学会的でない発言をすると、その意見はすごく冷ややかに無視されたり苦笑されたりします。 「場の空気を読めよ~」みたいな。 反対意見や反学会的な質問なんて、会合では出来ません。 組織の中では、無言のうちに、活動にがんばってます!苦しいけど負けません!の様な言動をするように、圧力がかかるのです。 統)入信させるときに、嘘を言っても良いと思っている。(崇高な目的のためには手段を選ばなくていい) 創)同上。 ☆「必ず幸せになれる」「辞めたくなったら辞めてもいい」これは入会時に必ず言われます。「必ず幸せになれる」というのは事実ではありませんし、「辞めたくなったら…」は脱会したら地獄に落ちるとか、幸せは無いとか、内部で公然と言われているのに、簡単に辞められますか? そして、細かな活動の内容は、入会時には教えてくれない事が多いでしょう。はじめに知っていたら皆、入会しませんから。 自分は最高の善い事をしていると信じて疑いませんから、その目的によって嘘を正当化してしまいます。 統)納得できない事を問うと、それは当人が堕落しているからだ、大義のために生きよと言われる。 創)納得できなかろうが、活動はすべて、人間革命のため。罪障消滅のため。宿命転換のため。小我に執着するな。広宣流布に生きよ、そこに最高の幸せがある。等と言われる。 ☆そもそも、「絶対的幸福境涯」をになる事を目指しているのが学会です。何が起こっても負けない強い境涯です。 身命を惜しまず戦え、とも言われます。 結局、「学会の幸福=広宣流布の活動をする事、その為に人生を捧げる事」なんです。学会の中では、人生を捧げる事が出来る人にしか、本当の幸福は無い、という事です。 それが出来ない人は、怠惰であり、エゴに負けているのであり、自分中心の負け人生、というのが学会の見方。 活動が辛くても、『苦しみの中に幸福がある』という感情コントロールをされるのです。 統)信者は、自分は神に選ばれたのだ、と思うようになる。 創)信者は、私たちは「地湧の菩薩」なんだと思うようになる。 ☆地湧の菩薩、つまり末法の人類を救うために、過去世からの約束で現れたのだ、末法の衆生救済が私達の使命だ、と言われて、優越感に浸ると同時に使命感から布教をがんばる様になります。私も若かりし頃は、自分は特別なんだ、崇高な使命を担っているんだ、って思い込んでいました。(すいません…) 統)批判者は、悪に魅入られたサタン。 創)批判者は、「魔」。 ☆学会から見ると、広宣流布を妨げるものはすべて「悪」です。「魔」は国主(権力者)や父母(身内)の身に入り込んで、仏道修行を妨げる、という御書があります。批判されても信念を貫け、と。 「元メンバーと話したり、批判的な情報を読んだりしないように仕向けるのは、MCの基本的要素だ」と本にありました。 学会員(活動家)は、脱会者に対する憎悪を煽られて、また悪に染まりたくない、という恐怖感を抱えて、 すぐ傍にある情報を手に入れることをしません。 だから私も、30代になって初めて、学会の情報を外部に求めたんです。それまでは批判や情報を、意識的に遮断していました。 これを読んでくださった方、私は脱会を勧めているのでは決してありません。 十分な情報を得た上で、学会員として社会に貢献していこう、という人もいらっしゃると思います。 でも、「思い込まされている」部分が少しでもあれば、 それはコントロールされているのであり、MCの被害者だと思います。 本にこうありました。 「自分でカルトをやめる人は、外部との接触を保ち続けていられる人」だと。 私が脱会できたのは、親戚に外部が多かった事、働いている事、外部の友達が多かった事、が大きな要因だったと分かりました。 私はいささか個人主義的な所があって、折伏や選挙もそんなにバリバリやっていなかったし、自分の考えを押し付けることはしなかったので、信頼できる外部の友達をなくす事がなかったんです。これは、とてもラッキーでした。 バリバリの活動家さんは、特に婦人部の幹部の方は、働かずに活動に身を捧げている人が多いと思います。 すると、社会との接点がないし、外部の友人もいない。 内部の価値観だけしか目にしない日々です。 だから狂信的な信仰になってしまうのだと思いました。 外部の方へ もしも学会の内部に、あなたの大切な人がいたら、 その人を責めずに、また諦めずに、接触を持ち続けて下さい。 そして、話を聴いてあげていただきたいです。 本人が学会の事を自分で考えて、自分で判断するお手伝いをしてあげれば、 言い争ったり傷ついたりすること無く、その人は良い道を自分で選べると思います。 マインド・コントロールの恐怖 を読んで ・・・・・『証明も評価も出来ない』・・・・・ カルト宗教の一番効果的な教義は、 証明も評価も出来ない、という事だそうです。 「仏法は勝負」と、学会員は繰り返し繰り返し叩き込まれます。 何をもって勝ちとし、何をもって負けとするんでしょうか? 「勝ち」や「負け」は、一時的な状態であって、それはその後の行動によって変わっていくのです。 「功徳」も「罰」も、何が功徳で何が罰なのか、自分でどうにでも解釈できます。 (組織内では時々、こじつけで「これは功徳ね!」なんて言っている人を見かけますよね) 功徳には「顕益と冥益」があると教えられます。 顕益=現実に現れる利益 冥益=目には見えないが自身の内に蓄えられる福運 こんな感じでしょうか。 そう、まさに、証明も評価も出来ません。 それを学会活動をすれば福運がつく、功徳が出る、と言い切ってしまうところに、カルトだと言われる所以があるんでしょう。 そもそも、「絶対に幸福になれる」と言う時、その幸福とは何でしょうか? 人が100人いれば100通りの幸福があります。 そして、人によっては同じ環境&同じ状況で、幸福だという人もいれば不幸だという人もいるんです。 信仰を持って得られる幸福は、主体的なものです。 人と比べられるものでも、優劣をつけられるものでも、ガイドラインがあるものでも、ありません。 人に押し付けたり、特定の行動をすれば得られると吹き込むのは、信仰を悪用していると思います。 証明も評価も出来ないので、いくらでも悪用できるのです。 だから信仰を持つ人は、自分でその信仰の証明と評価を、「自分自身に対して」していただきたいと思います。 自分に有効だからあなたにも有効、とは限らない事を忘れずに。 ・・・・・『思想コントロール』・・・・・ 1)詰め込み言語 カルトでは、詰め込み言語と言われる専門用語で、その人の思想と行動を縛るのだそうです。 私は学会を脱会したので、組織からは「退転」者と言われます。 「退転」というと何か、悪の道へ転げ落ちるような印象を与えます。 でも実際は、「退転」と言われる状況は、行動としては「そのひとの考えが変わった」事にすぎません。 私は「考えが変わった」ので、学会をやめました。 同じように「怨嫉」は、組織の中で使われる場合は、「意見の相違」に過ぎないと思います。 実際に誰かを怨んでいる人に使われるのは稀です。 それは怨嫉だよ、と誰かに指摘されたとします。 そうすると、その人は自分が悪いんだ、と思ってしまいます。 Aと思うのも正しいし、Bと思うのも正しい、というような多様な価値観が共存できる環境には、なりえません。 「折伏」=その人の幸福=平和の実現 と、活動家は思い込まされています。 だから「折伏」の内容がどうであれ、相手がどんなに不愉快であれ、 「折伏してきました!」と言えば組織では「すごいわねぇ~~」と賞賛が返ってきます。 少しの例ですが、このように言葉の持つイメージを使って、行動を制限しています。 2)組織に対して批判的な意見や疑問が湧いたら、自分を責めなさいと条件付けられる 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」という有名な御書の一節があります。 この文を、組織は、批判的な意見を封じ込める事に使っている場合があります。 「あなたは自分の師になって自分を導きなさい」というのは、良く使えば私はとっても良い言葉だと思います。 でも会員の意見に対して幹部が使うとき、または自分自身の疑問に対して自分で使うとき、 「こう思うのは自分が間違っているのだから、良い方向に導かなきゃ」と思わせられるのだとしたら、すごく危険です。 そこには正しい道の探求はなく、「組織=善 批判意見=悪」と植えつけられた価値観の奴隷になっている自分がいるだけなんです。 批判的な意見が湧いたら、疑問が出てきたら、「じゃあ自分は、正しい事は何だと思うのか?」と思索を自由に進められるのが、良い信仰なのではないでしょうか。 3)確信 私が、若い頃から自分の指針にしてきた、池田名誉会長の指導を紹介します。 「仏法に照らされて起こった事は、すべて最も良い方向に進んでゆく。と『確信』していくとき、広々とした、晴れやかな境涯が開けていくのである。」 これは、幹部が退転したり不幸な事が起こったりして、信心しているのになぜ?と疑問が湧いたときに、その答えとして名誉会長がこう確信していきなさいと言っている指導です。 その出来事の理由や、経緯を追求せずに、その出来事は最善の事なんだと確信しなさい、と言っている。 確かにそうです。悪い状況になっても、信頼していた幹部が学会を辞めてしまっても、良い事なんだ、何か意味があるに違いないと確信し切ってしまえば、本人にとっては晴れやかにもなりましょう。 実際、私も非常に辛い事があって、この指導を読んで、「これで良かったんだ」とその時は思いました。 でも当時、これで良かったと思った私には、学びも向上もなく、それ以上思索する事もなかったのです。 ただ、非常に受け入れがたかったその出来事を、最善の事なんだと受け入れた自分がいただけです。 私は事実を受け入れる事は出来たかもしれないけれど、悲しみは癒されずまだ残っているし、精神的に乗り越えてもいないことに、最近気づきました。 10年以上たちますが、まだ自分の中で解決していないのです。とっても残念です。 「確信しなさい」とは、その出来事についてどうしてなのかと自分で考え、自分で学ぶ道を閉ざしてしまうのです。 そしてその「確信しなさい」とは、「創価学会の正しさを確信しなさい」が必ず裏側にあるのです。 信仰の対象(ご本尊や日蓮聖人の思想)を確信するのは、信仰者として当然かもしれません。 が、創価学会という組織を信仰対象と同等にまで引き上げてしまう、それをごく自然にさりげなくやってしまうのが、恐ろしいと思います。 4)迫害されている 統一協会の教祖は、言うそうです。 「世界の偉大な指導者達は、みな、どれだけ迫害されてきたか?!」と。 信者は、→正しいものは迫害されるのだ、と思い→我々は迫害されているから正しい、となる。 「批判」を「迫害」にすり替えています。 そして迫害されているから正しい、というのは正しいでしょうか? 歴史の中で、正しいと思われるものが迫害されてきたのは、その通りかもしれません。 でも迫害されているものがすべて正しいか?答えは否です。 こんな言葉を、感情を込めて言われたら、人は信じてしまうんです。 「そうだ、我々は正しいのに、理不尽にも迫害されているんだ」って。 批判というものは、耳に痛いです。 出来れば目を向けたくないし、自分のほうが正しいって、誰だって思いたいんです。 それに、迫害されている、なんてちょっとカッコいい響きなんです。 統一教会は、そうやって信者のコントロールをしているようです。 さて、まったく同じ事が言われている団体がありますが… 統一教会はそうだろうけど、創価学会は本当に迫害されている!なんて、まだ思いますか? ・・・・・ダブルバインド・・・・・ 二重拘束です。 信仰活動は、自分から求めて進んでやるぶんには、充実感もあり幸福感も得られます。 学会の場合、活動する事がそのまま功徳、幸福につながる、という考えなので、 イヤだと思ってもやらなければいけない、 組織も活動家には役職等の責任を与えて活動の現場から離れないようにします。 活動内容に不満があったり、納得のできない時、それでも活動家なら組織活動はしなければいけません。 幸福を求めて信仰をする、だけどその信仰の活動によって幸せが遠ざかる。 さらに幸せを求めて活動に打ち込む、さらに幸せを感じられなくなっていく。 私の個人的な意見ですが、この二重拘束的な生活を毎日していると、心身症などの病気になってしまうのではないでしょうか。 心と体はつながっています。 いくら自分で正しいと思い込んだとしても、本当は心の底で拒絶している事があったら、それは体の不調として現れてきます。 納得できないままに、言われたから活動をするなら、やらない方がいいと思います。 ・・・・・終わりに・・・・・ 何度も言いますが、信仰は主体的でなければ意味がないと思います。 それを、「幸福」を人質にとって活動をやらせるなんて、ひどいです。 学会員であった私の人生は、「○○をしなければ幸福はない」と思い込まされていた、条件付の人生でした。 生まれながらに条件付けられていた、人生でした。 私は本気で、広宣流布をすれば世界はもっと良くなる、不幸が減ると信じていた時期があります。 でも大人になって現実を見るにつけ、最高の信仰をしているはずの学会員でさえ、そして幹部になればなるほど、 人の気持ちの解らない、自分の名誉欲に飢えた人達がいるのに呆れ果てました。 でも同時に、どんな信仰であれ、それによって自分を向上させて社会に貢献している人達がたくさんいるのも事実です。 信仰は、人によって精神を向上させる良薬にもなり、人によっては精神を縛る鎖にもなります。 どうか精神を縛るものを拒む勇気を、より多くの人に。 と、それが私の願いです。 関連資料・リンク、補足説明等 ※管理人補足 ダブルバインドとは、元々グレゴリー・ベイトソンが禅の公案などにヒントを得て提唱した概念で、 一般には子供に対するしつけの中に、親が無意識に潜ませているメッセージを説明する際、よく用いられます。 必ずしも悪い意味ではないので、単純な説明は誤解を招くのですが、例えば「勉強しなさい」と言わずに、 「勉強するかしないかは自由だ。けれど勉強しないと後で必ず困る事になるよ」と表現するのは、ダブルバインドの一種でしょう。 『するかしないかは自由』というのは一見選択の自由ですが、『しないと後で必ず困る』のですから、一方の選択はすでに塞がれてしまってる訳です。 しかも、結果として勉強するのは『本人が選んだこと』で『強制はしていない』 ――つまり選ばされたにも関わらず『それは自分の意思なのだ』と思わなければならない点で、二重に束縛されています。 元々は、禅の公案によくある論理的矛盾を含んだメッセージを、受け取る側がどう解釈に移すかのシステムを考察する所から生まれ、 今ではかなり広い分野で使われるようになった言葉です。 自由と言いながら一方を選ばせる。こうした矛盾したメッセージを受け取り続けた結果、マインド・コントロールの場合は思考の放棄に繋がり、 執筆者さんが書かれたような悪循環のケースにも到る訳です。

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