夕食の時間。食堂には久しぶりに平和な時間が流れていた。
異常な日常から目を背けるように、とりとめのない会話が交わされる。
「それにしても、だいぶ暑くなってきたね……」
「もう梅雨の季節ですもの。当然ですわ」
「何をするにしても、蒸し暑くて嫌になりますな」
「暑いだけならまだしも、洗濯物が乾きにくくて困るわね」
「それに、食べ物が痛みやすくなるから気をつけないとね」
「朝日奈っちは腹を壊さないから心配ないべ!」
「ちょっと! それ、どういう意味よ!?」
和やかな笑い声。ボクは楽しそうな皆の様子を眺めながら、平和を満喫する。
結局、その日は遅くまで食堂で皆と話をして、解散したのは夜時間直前だった。
皆で寮の廊下をぞろぞろと歩きながら、「おやすみ」の声をかけあう。
ボクが自室の前で足を止めた時、セレスさんがにっこり微笑んで小さく手を振った。
普段はあまり見せてくれない普通の女の子らしい仕草にどきりとする。
すぐに背を向けて歩き出した彼女の後姿を見送ってから、ボクは部屋に戻って眠りに就いた。
翌朝。いつもの不快なモーニングコールで目を覚まして、手櫛で軽く髪を整えて食堂に向かおうとした。
ふと、廊下に繋がるドアの隙間に一枚の紙が挟まっている事に気がついた。それを拾い上げる。
各人の部屋に備え付けられている、ありふれたメモ用紙だ。そこには流れるような字でこう書いてあった。
『苗木君へ。体調が優れないので朝食会は欠席します。皆さんにも伝えておいて下さい』
文末には英文字の筆記体でセレスティア・ルーデンベルクという署名がある。
昨日はあんなに元気そうだったのに……。メモをポケットに押し込み、一抹の不安を抱えながら部屋を出た。
食堂へ向かい、指示された通りに集まった皆にメモの事を伝える。
数人がセレスさんを心配する感想を述べたものの、何事もなく朝食会は終わった。
そして昼。ボクはずっと食堂にいたが、昼食の時間になってもセレスさんは姿を見せない。
……嫌な予感がする。何かに急き立てられるように、セレスさんの部屋へと向かった。
ただ、ずっと寝ているだけかもしれない。そうであって欲しい。
「セレスさん、大丈夫? もう昼だよ」
声をかけながら、セレスと書かれたプレートのついたドアをノックしようとした。
しかし、軽く拳が触れただけで呆気なくドアが開いた。元々、完全には閉まっていなかったようだ。
力なく、すうっと奥へと開いた扉。部屋の中には灯りが点いている。
……少し待ったが部屋の主の返事は無い。ボクはさっきと同じ文句を繰り返しながら部屋の中に入った。
そこは一見、以前に訪れた時と何も変わらないように見えた。美麗な内装。所狭しと並べられた薔薇の花瓶。
綺麗に整えられたベッドの上にも、セレスさんの姿はない。
……と、部屋の隅に置かれた机の方に視線を送って息を飲んだ。
机とセットになっている椅子が、床に倒されている。
慌ててそちらに近づくと、机の上にセレスさんが愛用していたティーカップが置かれていている事に気がついた。
中身はほとんど残っていないが、乳白色の液体が底の方に見える。香りからして、いつものミルクティーだろう。
ただの飲みさしなら問題ない。だが、机の上のカップの周りに小さなミルクティーの溜まりが残っている。
そして机の足元……床に敷かれた柔らかな絨毯には僅かな染みが見て取れた。
不吉なイメージが頭をよぎる。セレスさんがこの机の前に座ってミルクティーを飲んでいる時に、誰かに襲われて……。
頭にかっと血が昇り、ボクは弾かれたように振り返った。無意識に視線が捕らえたのはバスルームへと続く扉。
……まさか……あの中に……?
鮮烈な光景が頭の中で再生される。
むせ返るような血の匂い。床の上いっぱいに広がった赤い水溜り。そして、バスルームの壁にもたれかかるようにして──
駄目だ、そんな事があるわけない! 頭を振って恐ろしい想像を追い払った。……そんな事があってたまるか。
セレスさんは、たまたま部屋にいないだけに決まってるじゃないか。心の中でそう繰り返すが、確かめない訳にはいかない。
念のためにノックしてから、恐る恐るバスルームへの扉を開けて中を覗き込んだ。
……そこには、何もなかった。血も、セレスさんの姿も。
ついでに、下着や何かの洗濯物が干されている事もない。ほっとため息をつく。
ひとまず安心すると同時に、疑問が湧き上がってきた。……セレスさんは、どこに行ったんだ?
ボクは部屋を出て、そっとドアを閉めた。
まだセレスさんが事件に巻き込まれたのかどうかもわからない。まずは探してみないと。
しかし、自分一人でこの広い学園内を探し回るのは大変だ。皆を集めて協力してもらおうか?
……それもまずい。あまり大騒ぎすると……事件だった場合……犯人を刺激してしまいそうだ。
それに何事もなかった場合でも、ボクだけじゃなくてセレスさんにも恥をかかせてしまう。
目を閉じて頭を悩ませていると、突然誰かの声がした。
「あれ、苗木じゃん。廊下で突っ立って何やってるの?」
声のした方を見ると朝日奈さんがいた。少し後ろには大神さんもいる。
「朝日奈さん達こそ……どうしたの?」
「私達は一緒に学園中をジョギングしてたんだよ。どんな時でも、トレーニングは欠かせないからね」
その言葉通り、朝日奈さんは軽く汗をかいていて呼吸も少し乱れていた。
「どんな時でも」。さすがは超一流のアスリートだな……。感心していると大神さんも会話に加わる。
「苗木よ。それより今、セレスの部屋から出てきたように見えたのだが、まさか……」
大神さんは何を想像したのか気まずそうに顔を背けた。
不思議そうにボクと大神さんの顔を見比べていた朝日奈さんの顔が、みるみるうちに赤くなる。
「そ、そうなんだ……。苗木って意外とやるんだね……」
「そ、それは違うよ!」
ボクは慌てて否定した。どうやって弁解しようか……。
いっその事、この二人には正直に話してしまってもいいかもしれない。
セレスさんが誰かに危害を加えられたのなら……仲間のうちの誰かが犯人という事になるが……
共犯のメリットが薄いルール上、ほとんど二人で行動している朝日奈さん達が犯人だとは考えにくい。
それに、いつも明るく爽やかな朝日奈さんと、冷静で厳格な大神さんは人格的にも信用できそうだ。
心を決めて、朝日奈さん達に事情を説明した。
「……そう言えば、我らは朝から学園中の廊下を走っていたが、セレスの姿は一度も見ておらぬな」
「セレスちゃん、無事だといいけど……。苗木、私達はどうしたらいいの?」
「まずは、ボクと手分けしてセレスさんを探して欲しいんだ。なるべく人に聞いたりせずに、自分の足で」
むやみに聞き込みをしない限り、朝日奈さん達が走り回っていても他の人にはいつものトレーニングに見えるだろう。
二人は力強く頷いた。
「わかった。任せて! じゃあ分担は……」
短いやりとりの後、一番広い寮と校舎の1階をボクが、2階を朝日奈さんが、一番遠い3階を大神さんが調べることになった。
朝日奈さん達と別れて早速、寮の調査を始める。個人の部屋まで調べられないので、そちらはひとまず後回しだ。
倉庫、食堂、厨房……。人が隠れられる(人を隠せる)ようなスペースも念入りに調べるが、異常はない。
個人の部屋が並んだエリアをグルリと回りこんでダストルーム。……シャッターの向こうにも異常なし。
トイレ……。男子トイレには誰もいない。女子トイレは……少し悩んだ後、入り口をノックしてみたが反応はない。
ランドリー。梅雨のせいで大量に吊るされた皆の洗濯物の陰に、一瞬ヒラヒラした黒い服が見えてハッとした。
……なんだ。セレスさんの服か。ただ、洗濯済みのゴスロリ服を干してあるだけだ。肝心の持ち主の姿はない。
大浴場。男湯とサウナには異常なし。女湯には入れないので、声をかけてみたが反応はない。
校舎に移動する。……どの部屋にも、セレスさんの姿はない。玄関や体育館にも行ってみたが、こちらも同じ。
やはり女子トイレには入れなかったが……詳しく調べるなら、後で朝日奈さん達に見てもらおう。
逆にボクが、校舎2Fのトレーニングルームや2・3Fの男子トイレを調べる必要もあるかもしれない。
ボクは一旦調査を終え、朝日奈さん達と待ち合わせの約束をしていた食堂に向かうことにした。
彼女達が無事なセレスさんを見つけている事を祈りながら……。
食堂では、朝日奈さん達が先に座って待っていた。
セレスさんが一緒に居るわけでもなく、こちらに問いかけるような視線を送ってくる。
……聞かなくても、セレスさんが見つからなかった事がわかった。首を横に振って応える。
「そんな……。セレスちゃん、本当に誰かに誘拐されちゃったの?」
「我らには男子トイレや更衣室は調べられなかったが……。やはり個人の部屋に捕らえられておるのか……?」
考えたくもない。ボク達の仲間がセレスさんを捕まえて……そうなれば恐らく──
……いや、希望を捨てちゃダメだ! 犯人が学園から出るには、他人に死体を発見させて学級裁判を起こさないといけない。
まだ死体発見アナウンスがない以上、セレスさんが無事な可能性は十分にある。
しかし、ここまで探してセレスさんが見つからないのなら、彼女の身柄は隠されていると見るのが妥当だろう。
誰もが自由に出入りできる場所はとても監禁には向いていない。大神さんの言う通り、調べるべきなのは個人の部屋か。
いや、待てよ。まさか黒幕……モノクマがボク達の入れない場所にセレスさんを隠したんじゃ……?
その考えを口にすると、朝日奈さんが言いづらそうに答えた。
「私、2階で偶然モノクマに会ったから聞いてみたんだけど、ニヤニヤしながら『何もしてないよ』って言われたよ……」
「苗木が来る前に二人で話したのだが、モノクマは卑劣な黒幕の手先なれど、過去に一度も嘘はついておらぬ。
奴の目的はあくまで我らに『コロシアイ』をさせる事だ。この件に関しては無関係と見ていいであろう」
……やっぱり、仲間を疑わなきゃダメなのか。憂鬱な気持ちを抱えながら、頷く。
「こうなれば、皆を集めて全員の部屋を調べてみぬか?」
「でも、それだと最初に苗木が言ったみたいにセレスちゃんが危ないんじゃないかな……?」
全員を集める。これだけでも犯人が危険を察知して、セレスさんを移動させるとかの行動に出ないとも限らない。
最悪の場合は、もちろん……。口を噤んで頭を悩ませる二人に、ボクは言った。
「セレスさんの身に何があったのか、推理しよう。犯人を絞り込んでから、真っ先にその人の部屋に行くんだ。
……絶対に、セレスさんを殺させやしない!」
まず考えるべきは、セレスさんが「いつ、いなくなったか」だ。
「そりゃ、やっぱり夜時間なんじゃない? 誰にも見つからないようにしないといけないんだし」
朝日奈さんが当然のように言った。すかさずボクは異論を唱える。
「いや、そうとは限らないよ。セレスさんの部屋の様子からして、彼女は部屋の中で襲われてる。
あのセレスさんが、危険な夜時間に他人を部屋に入れるかな」
夜時間の外出禁止はセレスさんが言い出した事だ。大神さんが大きく頷いた。
「うむ……。ならば、苗木はいつセレスが襲われたと思うのだ?」
「事件はセレスさんが紅茶を飲んでいる時に起こった。つまり、セレスさんが紅茶を淹れた直後……」
夜時間に食堂は閉鎖される。また、今日の朝食にセレスさんは現れなかった。
従ってセレスさんがいなくなったのは昨日の夕食後~夜時間直前の間か、今日の早朝ということになる。
ボクは自分の記憶を辿り、さらに付け加える。昨夜、セレスさんは夜時間の直前までボクや皆と一緒に食堂にいた。
あの時、皆で一斉に食堂を出たが、彼女は紅茶をなんて持っていなかったはずだ。
事件が起こったのは早朝と断定していいだろう。
ここまで言って、ふと思い出した。そうだ、今朝のメモ……。
ポケットからセレスさんの体調不良を伝えるメモを取り出す。
セレスさんが部屋にもどこにもいなかった以上、このメモに書かれている事は嘘だ。
つまり、犯人が残した唯一の証拠品……。ここから、何かわからないだろうか。
「これは、犯人が書いた物ということだな」
大神さんの呟きに、頷きを返す。筆跡を比較すれば誰が書いたのかわかるかもしれないが……。
警察みたいな科学捜査が出来ない以上、犯人を特定する材料としては弱すぎる。
そもそも署名が無ければセレスさんが書いた物とも知れないのだ。彼女の筆跡をボクは……恐らく皆も知らないんだから。
「苗木、このメモ用紙、犯人の部屋にあったんじゃない? だったらメモをちぎった跡を調べれば……」
いい考えかもしれない。でも、先に犯人を特定したいのに順序が逆になってしまう。それに──
「メモ用紙は全員の部屋に備え付けられてるから、セレスさんの部屋にあった物かもしれないよ」
「一応、セレスの部屋の物か調べてみてもよいのではないか? 捜査の材料になるやもしれぬ」
「私、セレスちゃんの部屋まで走って見てくるよ。このメモ、貸してね!」
答える暇もなく、朝日奈さんはボクの手からメモを奪い取って食堂を出て行った。
数分後。戻ってきた朝日奈さんは少し落胆した様子だった。
「やっぱり、セレスちゃんの部屋のメモだね。隣にキャップが取れたままのボールペンまで置いてあったよ……」
朝日奈さんに礼を言って、メモを返してもらう。そうなると、これはセレスさんの部屋で書かれたのか。
ここから推理すると、メモは事件が起こった時に書かれたのだろう。
セレスさんをさらってから、犯人がまた彼女の部屋に戻るのは不合理すぎる。
メモがボクの部屋に入れられたのはそれ以降で間違いない。
……これでおおよその事件の経緯はわかった。
まず早朝、セレスさんが開放されたばかりの食堂に向かい、紅茶を淹れる。
自室に戻って机の前で紅茶を飲むセレスさん。そこへ、犯人が訪ねてくる。
部屋の中に入った犯人はセレスさんを襲い、気絶させてから事件の発覚を遅らせるために例のメモを書いた。
メモを持った犯人は自分の部屋にセレスさんを隠してから、ボクの部屋にメモを入れる。
そして一旦、自分の部屋に戻り、何食わぬ顔で朝食会に現れた……。
「なるほどな。セレスは女子の中でも小柄で体重が軽い方だ。連れ去るのは短時間でもそう難しくなかったであろう」
「うん。でもそれって、犯行が誰にでも出来ちゃうってことだよね」
「体格の良い者や、セレスと部屋が近い者ほど有利ではないか?」
「あえて、その裏をかく作戦かも……?」
朝日奈さんと大神さんが推理を続けるのを、ボクは黙って聞いていた。
自分で推理した事ながら、違和感を覚えたからだ。……何かが、おかしい。
……そう。今、朝日奈さんが「作戦」と言ったが……これは計画的犯行なんだろうか。
場所や時間を考えれば、かなり手際よくやらないと他人に目撃されるリスクが高い。
にも関わらず、実際に犯行が成立しているのだから計画的なようではある。
……それにしては、随分危ないやり方だ。もっとうまい方法はいくらでもありそうなのに。
他の方法を思いつかなかったとしても、どうして事件の痕跡を消しておかなかった?
いや、それよりセレスさんからカギを奪って、部屋を閉鎖してしまえば良かったじゃないか。
そうすればメモの偽造するだけよりも、もっと事件の発覚を遅らせることが出来ただろう。
そうしたくても、出来なかったのか。
一方では手際よく、一方では行き当たりばったりな行動。ちぐはぐだ。
誰が犯人なら、こんな事になる? いや、どんな状況なら、こんな事に……?
何か、もっと手がかりは無いか。昨夜から、見聞きした全ての記憶を辿る。
食堂での会話。セレスさんの微笑。開いたままのドア。倒れた椅子。零れた紅茶。
ランドリーにあった洗濯物とゴスロリ服。大浴場では返事がない。校舎は異常なし。どこにも、セレスさんはいない?
朝日奈さんの証言……モノクマの言葉。あいつは嘘をつかない……。
……もしかして──
「……朝日奈さん。なるべく正確に思い出して欲しいんだけど、モノクマは何て言ってたの?」
突然のボクの言葉に、朝日奈さんは一瞬、呆気に取られたように目を丸くした。
「モノクマ? ……えっと。正確に、って言われても、さっき言った通りだよ。
私が『セレスちゃんがいないんだけど、何かした?』って聞いたら、ニヤニヤ笑いながら『何もしてないよ』って。一言だけ。
本当にそれだけ言って、すぐにどこかに行っちゃったんだ」
あのお喋りのモノクマが、一言しか言わないで消えるなんて。
やっぱり、あいつは知ってたんだ。事件の真相を……。
「ありがとう。朝日奈さん、大神さん。やっとセレスさんの居場所がわかったよ」
二人はお互いの顔を見合わせた後、驚愕の表情を浮かべた。
「なん……だと? 本当か、苗木よ」
「多分、間違いない。ただ、セレスさんにはボク一人で会いに行かせて欲しいんだ。
……怒られちゃいそうだからね」
朝日奈さん達を食堂に残し、ボクは大浴場へと向かった。
ボクの推理が正しければ、セレスさんはここに居るはずだ。緊張で汗が滲んでくる。
「セレスさん、入るよ」
声をかけ、少し待ってから女湯の暖簾をくぐった。この時間、本来なら誰もいないはずだが──
「な、なんですの……!?」
いつものセレスさんの声。しかし、ボクは安心する前に驚いた。
脱衣場のベンチに腰掛けていたのは希望ヶ峰のジャージを着た、黒髪でショートカットの女の子。
……よく見ると、セレスさんだ! いつもの格好じゃないことは予想していたが、こんなに違うとは思わなかった。
「セレスさん……。無事で良かった……!」
感極まって、思わず抱きついてしまいそうになる。
……が、ぎりぎりの所で思い切り頬を引っ叩かれた。
「い、いきなり何をしますの!?」
「ご、ごめん……」
衝撃で涙目になってしまう。いや、涙が滲むのは痛みのせいだけじゃない。
痛いとか、そんな事より嬉しくてたまらなかった。
「……全く、なんてそそっかしいんでしょう。呆れてしまいますわ」
それから十数分後。セレスさんが着替えた後、お互いの疑問を解消する為に、ボクはセレスさんと彼女の部屋にいた。
……ボクの場合はお説教を受ける為に、と言うべきかもしれないが。
セレスさんは、誰にもさらわれてなんかいなかった。
ボクの勘違いと言えばそれまでだが、嘘のメモを残して身を隠してしまったセレスさんにも原因はあるだろう。
セレスさん本人から話を聞いて推理を補完した。事件の流れはこうだ。
早朝に目を覚ましたセレスさんはいつものゴスロリ服に着替えて食堂へ向かい、紅茶を淹れる。
ところが、部屋に戻ってそれを飲んでいた時、誤ってカップをひっくり返してしまった。
そして大事なゴスロリ服に紅茶がかかってしまった。
彼女はすぐに着替えようと思ったが、梅雨の湿気のせいで昨日洗濯した服がまだ乾いていない。
(学園に閉じ込められているせいで、着替えが何着も無いのは仕方ない)
他の人なら今日一日は倉庫に置いてあるジャージでも着て過ごす所だろうが、セレスさんは違った。
ゴスロリ服を愛し、自分のキャラにも絶対のこだわりを持つ彼女には、そんな姿を他人に見られるのは耐えられない事だ。
そこで嘘のメッセージをボクに残して、服が乾くまでの間、身を隠す事にしたのだった。
まず、例のメモを書いてボクの部屋に入れ、倉庫に行って着替えのジャージを調達する。
次に大浴場に行ってジャージに着替え、隣のランドリーの洗濯機に紅茶で汚れた服を入れる。
後は、ただ脱衣所でじっとしていただけだ。一度ボクが大浴場に調べに行って声をかけた時も、無視した。
メモが暗に示すように、昼までには着替えて出て来るつもりだったセレスさんだが、そこは思うようにいかなかった。
梅雨の湿気に加えて密閉されたこの学園の環境が、予想以上に服の乾きを遅らせたのだ。
全てはゴスロリじゃない自分を、他人に見せない為に。
あるいは、この学園の仲間達がもっと親しい間柄だったなら、こんな事にはならなかったかもしれない……。
「大浴場を隠れ場所に選んだのは、ランドリーに一番近かったからだね?」
ジャージを着た状態で移動する距離が短ければ他人に見られるリスクも減るし、服が乾いたらすぐに回収できる。
「ええ。それにベンチや扇風機もあって快適ですし、夜までは誰も入って来ないでしょうからね」
ただ、かなり退屈だったのだろう。セレスさんはボクのあげた携帯ゲーム機を脱衣所に持ち込んでいた。
もしかすると何度かお風呂にも入ったのかもしれない。そんな時に行かなくて良かった。……いや、惜しかったのか?
「それにしても、勝手にわたくしの部屋に入るなんて。紳士にあるまじき行為ですわよ。恥を知りなさい」
言葉こそ厳しいが、セレスさんの表情は柔らかい。ボクは苦笑いを返した。
「それは、ごめん……。ノックしただけで開いちゃったから、心配でつい」
「カギをかけ忘れたのは仕方ありませんわ。とにかく、わたくしは急いでいたのです。
早く洗濯しないと染みになってしまいますからね。……この学園にクリーニング屋さんがあれば良かったのですが」
椅子が倒れたままになっていたり、机や床が汚れたままだった事からもセレスさんの慌てぶりが伺える。
普段はクールなだけに想像すると少し笑えた。もっとも、そのせいでボクは壮絶な勘違いをしてしまった訳だが。
「モノクマは全部知っていたのでしょうね。相変わらず人の悪いクマですわ……」
モノクマはどうせ監視カメラで一部始終を見ていたのだろう。だから、「何もしてない」としか言わなかった。
正確には「セレスさんに誰も」「何もしてない」だ。……今も、ボク達の会話を聞きながらほくそ笑んでいるんだろうか。
もう疑問は無くなった。後は協力してくれた二人の事だ。
「朝日奈さん達には、後でボクから謝っておくよ」
「当然ですわ。あなたが勝手に勘違いしたのが悪いんですもの。
みっともなく大騒ぎして……普通なら、お仕置きしなくてはいけない所ですわよ?
ただ、わたくしの身を案じての行動でしたので、許して差し上げましょう。
……あなたにも、やっとナイトとしての自覚が芽生えてきたようですわね」
そう言ってセレスさんは少し笑った。そして、一息ついてから真顔に戻る。
「それと、先程の脱衣所での件ですが……いくらわたくしが魅力的だからと言っても理性を失いませんように。
無理やりは、いけませんわ。焦らなくても、あなたなら……いつかきっと……」
囁くような優しい声。あれは感極まって、思わず……そんな風に答えようとするが、じっと見つめられて声が出せなかった。
心なしかセレスさんの白い頬が赤く染まって見える。ボクは急激に胸が高鳴るのを感じた。
数秒の沈黙が、数分にも感じられる。そして、ボクは──
「え、えっと! ……じゃあ、朝日奈さん達の所に行ってくるよ。早く詳しい説明を聞きたいだろうし」
沈黙に耐え切れずに席を立った。
「……そうですわね。上手く説明しておいて下さい」
ボクを見るセレスさんの顔はいつものポーカーフェイスになっていた。
セレスさんの部屋を出て、ほっと息を吐く。……これじゃ、先が思いやられるな……。
ボクは軽く自分の頬を張り、複雑な思いを抱えながら食堂へと向かった。
最終更新:2011年07月15日 11:48