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思ったよりも大きくて、あったかい背中に運ばれたことを、断片的に覚えている。
雨はいつの間にか止んでいて、止んだと思ったらそこは屋内で。
誰かに服を脱がされて、タオルで濡れた体を拭いてもらって、
気づけば私はベッドの上で横たわっていた。
遠くに聞こえる声がだんだん近くなり、意識の覚醒を自覚する。
ベッドの側で、誰かが話しているのが分かる。
意識がはっきりした後も、気だるさからまぶたを開ける気にはなれなかった。
「あんたさぁ…途中で気付けなかったの?」
「…ごめん、なさい」
尖った高い声は、江ノ島さんが怒っているときのものだった。
苗木君のしゅんとした顔が、見てもいないのに目に浮かぶ。
「アイドルとデート気取って、いい気になってたのか知らないけどさぁ…」
「……」
「舞園の体になんかあったら、責任取れるわけ?」
ああ、やめて、江ノ島さん。
苗木君のせいじゃないんです。
私が勝手についていって、喫茶店に誘ったのも私なんです。
傘が無いから走ろうって、無理を通したのも。
「…責めすぎよ、江ノ島さん」
対照的に、感情の一切籠らない声。
主はきっと、霧切さんだろう。
「土砂降りの予測なんて、誰にも出来ないでしょう…」
「雨以前の問題だっつーの…38度5分。様子がおかしいのなんて、フツー見りゃ分かるっしょ?」
「女の子の体の問題よ…苗木君が詳しくないのも、無理はないわ」
霧切さんの言葉で、ハッとして今日の日付を思い出す。
確か最後に来たのは一月前だから、……
納得。
「生理中の女子を無理させて振り回して、冷たい雨に晒させて…それでも男? ちゃんとアレ、着いてんの?」
「……下品よ、江ノ島さん」
意味を理解した霧切さんも大概だなぁ、と思いつつ。
「…ごめんなさい」
「……はぁ。さっきからウチらに謝ってどうすんのよ。舞園が起きたら、ちゃんと誠意見せな」
「うん…」
今すぐ起き上がって、苗木君の弁解をしたかった。
でも、ここで起きれば、きっと苗木君は総スカンだ。
しばらく寝たふりをしておこう。
「それにしても、驚かされたわ。あなたが舞園さんを背負って駆けこんだときは」
「……煩くして、ゴメン」
「…別に、私は構わないけれど」
「どの口が言ってんのよ。帰ってくるなり苗木の頬、引っ叩いたクセに」
…あとで、霧切さんとは長めのお話が必要なようだ。
「し、しょうがないでしょう…あんな二人の姿を見せられたら」
「まー、舞園は半分裸みたいなもんだったからねー」
「……その、ゴメンなさい、苗木君」
「ううん。紛らわしくしちゃったのは僕の方だし」
「で、霧切っちは…息の荒い苗木とほぼ下着姿の舞園を見て、何を想像したんかなぁ?」
「……趣味が悪いわよ」
「うぷぷ、霧切ってば真っ赤だったもんねー。想像力が健全に働いている証拠ぶふっ!?」
スパン、という小気味よい音がして、江ノ島さんが呻いた。
「苗木君。私たちは部屋に戻るわ。何かあったら、また呼んで」
「な、殴ることなくない!? ねえ、ちょっと!」
扉の開く音、二人が遠ざかる音。
もう一度扉がカラカラと音を立てて、部屋の中に静寂が取り残された。
全て、分かった。
自分の中にある、いやらしい感情を抑えきれなかったのも。
まるで熱に浮かされたように、ふわふわしていたのも。
今日が女の子の日だということを、完全に失念していた。
その挙句が、これだ。
苗木君を振り回し、淫らな雌を曝け出し、そして彼ばかり怒られて。
合わせる顔が、ない。
ない、のに。
「……ゴメン、舞園さん」
そんな、あなたの辛そうな声を聞いて黙っていられるほど、無神経にはなれない。
「僕、浮かれてたんだ…あの憧れだったアイドルと、まさか二人きりでデート出来るなんて思わなくて…」
声からして、苗木君は私に背を向けて独白している。
きっと、私が既に起きていることなんて気付いていないだろう。
「だから、舞園さんの様子がおかしいのも気付けなくて…今思い返せば、簡単に気づけたはずなのに」
大分、江ノ島さんの説教で落ち込んでしまっている。
苗木君は本当は悪くないのに、自分のせいだと思い込んでしまっている。
起きなきゃ。
まだ体はだるいし、頭もズキズキするけれど。
好きな男の子が辛そうにしているのに、放っておけるはずがない。
男を立てるのが、良い女の条件なんだから。
そうして、言うことをきかない体に無理矢理力を込めて、
「でも…それだけじゃないんだ」
彼の独白が、まだ続いていることに気づく。
「僕が一番、自分自身を許せないのは…」
「――あの時、舞園さんを見て、僕は、その……いやらしい気持ちになったんだ」
ボ、と、音を立てて顔が燃える心地がした。
苗木君の口から、そんな言葉が出てくるなんて予想していなかった。
まるで、清楚だと信じていたアイドルの、ベッドシーンを見せつけられたような。
そんな背徳的な響きだった。
「すごく、ドキドキして…でも、なんか怖くて」
ドキドキして、だなんてこっちのセリフだ。
こんな至近距離で、そんな爆弾告白される身にもなってほしい。
いや、そりゃ、嫌ではないけれど。
好きな人にそう告白されて、嫌な気持ちになったりはしないけれど、
嫌じゃないけど、ちょっと、これは、
あ、なんかすごい暑い。
汗かいてきた。
心臓がうるさい。
たぶん、今の私、顔が真っ赤だ。
私がいやらしい気持ちになったときに、苗木君も同じ――
「怖かったんだ、舞園さんが」
次の言葉は、
浮かれていた私の頭の中に、まるで鉛のようにドスン、と落ちてきた。
「服が濡れてて、すごく色っぽくて、ドキドキして、それでも……怖くて、手は出せなかったんだ」
勘違いでふわふわと浮かんでいた気持ちが、真っ逆さまに地面に叩き落とされた。
一気に汗が引いていった。
「そんな僕の考えも、きっと舞園さんには見透かされているんだろうな、って思うと…」
怖い。
私が? 怖い?
そんな、待って。
確かに私は、面白がって苗木君の考えを先読みして、その反応を楽しんで、
でも、私は一度たりとも、あなたを怖がらせたことなんて、
そんな言い訳じみた考えが頭の中に浮かぶ。
けれど。
私は、その言い訳をも否定せざるを得なかった。
『独占欲の強い女は引かれますわよ、と申し上げたのです』
そうだ。ちょうど今朝、セレスさんと話して。
彼女に考えを見透かされて、怖い思いをしたのは、他でもない私じゃないか。
考えていることを読まれるのは、怖い。
私が一番よく知っていたはずじゃないか。
心の中を読まれるのは、怖い。
嘘をつけないのは、怖い。
本音を見透かされてしまうのは、怖い。
私は、私は――
そんな怖ろしいことを、今まで苗木君にしていたんだ…
急に、胸が苦しくなった。
熱に侵されていたさっきまでの、何倍も苦しかった。
上手く息が吸えなくなった。
下手に口を開くと、情けない喘ぎが漏れてしまいそうで、必死に息をとめた。
目元が熱くなる。
泣いちゃダメだ。
私のせいじゃないか。
私が苗木君を怖がらせたのに、苗木君にとって嫌なことをずっとしてきたのに、
泣く権利なんて、無い。
瞼に力を込めて、必死に落涙を堪える。
「……、っ、ぅ…」
堪え切れなくなった息が、震えて口の端から零れる。
ガタ、と、隣の椅子が揺れる音。
「舞園さん…もしかして、起きてる?」
「……バレちゃいましたか」
もう、隠す必要はない。
悪戯っぽい笑みを浮かべて、私はベッドから起き上がった。
閉じていた瞼が、急な光の刺激を受けて、しょぼしょぼと開く。
瞬きを繰り返す瞳が、見るからに焦っている苗木君を捉え始める。
少しだけ睫毛が濡れているけれど、寝起きだから、とアピールするように、欠伸をして見せた。
「う、わ…もしかして、全部…」
「…聞いてました。苗木君が、その…私を見て、そういう気分になったって」
真っ赤に、そして真っ青に。
めまぐるしく、彼の表情が変わる。
「苗木君、やっぱりエッチです…」
口をすぼめて、冗談っぽく言う。
それが、私と彼との合図だった。
『私はあなたを怨んでいない、だから安心して』。
顔を上げた苗木君は、やっぱり少しだけ安心したような顔をして見せ、
「舞園さん…泣いてる…?」
「――え」
ヒィン、と、空気が音を立てて凍った。
うそ、と、頬の辺りに手を触れてみる。
涙は既に止まっていたけれど、寝ている間に零れたものが、うっすらと筋を残していた。
「あ、ち、違うんです、これは…」
苗木君が首を傾げる。
当たり前だ、文脈からは私の泣いていた理由なんてわかりっこない。
好きな人に、怖い女と言われた。
それだけで涙を流すだなんて、誰も思わないだろう。
もう、止めよう。
私は彼に関わっちゃ、いけなかったんだ。
街を歩けば、彼を好奇の目に晒し。
口を開けば、彼の考えを覗きこみ。
無理を言って連れまわし、雨風に晒させ、他の女の子から謂れもない罵倒を浴びて。
熱で浮かされ、感情的になった頭は。
少しオーバーに、そんなことを考えた。
溜めこんできた思いを溶かした涙は、涸れた跡にすら熱を残していた。
最終更新:2011年11月21日 23:14