ナエマイSS『エスパー』4

 ―――――

 思ったよりも大きくて、あったかい背中に運ばれたことを、断片的に覚えている。


 雨はいつの間にか止んでいて、止んだと思ったらそこは屋内で。
 誰かに服を脱がされて、タオルで濡れた体を拭いてもらって、


 気づけば私はベッドの上で横たわっていた。

 遠くに聞こえる声がだんだん近くなり、意識の覚醒を自覚する。

 ベッドの側で、誰かが話しているのが分かる。
 意識がはっきりした後も、気だるさからまぶたを開ける気にはなれなかった。


「あんたさぁ…途中で気付けなかったの?」
「…ごめん、なさい」

 尖った高い声は、江ノ島さんが怒っているときのものだった。
 苗木君のしゅんとした顔が、見てもいないのに目に浮かぶ。

「アイドルとデート気取って、いい気になってたのか知らないけどさぁ…」
「……」
「舞園の体になんかあったら、責任取れるわけ?」


 ああ、やめて、江ノ島さん。
 苗木君のせいじゃないんです。
 私が勝手についていって、喫茶店に誘ったのも私なんです。
 傘が無いから走ろうって、無理を通したのも。

「…責めすぎよ、江ノ島さん」

 対照的に、感情の一切籠らない声。
 主はきっと、霧切さんだろう。

「土砂降りの予測なんて、誰にも出来ないでしょう…」
「雨以前の問題だっつーの…38度5分。様子がおかしいのなんて、フツー見りゃ分かるっしょ?」
「女の子の体の問題よ…苗木君が詳しくないのも、無理はないわ」


 霧切さんの言葉で、ハッとして今日の日付を思い出す。
 確か最後に来たのは一月前だから、……

 納得。


「生理中の女子を無理させて振り回して、冷たい雨に晒させて…それでも男? ちゃんとアレ、着いてんの?」
「……下品よ、江ノ島さん」

 意味を理解した霧切さんも大概だなぁ、と思いつつ。

「…ごめんなさい」
「……はぁ。さっきからウチらに謝ってどうすんのよ。舞園が起きたら、ちゃんと誠意見せな」
「うん…」

 今すぐ起き上がって、苗木君の弁解をしたかった。
 でも、ここで起きれば、きっと苗木君は総スカンだ。
 しばらく寝たふりをしておこう。


「それにしても、驚かされたわ。あなたが舞園さんを背負って駆けこんだときは」
「……煩くして、ゴメン」
「…別に、私は構わないけれど」
「どの口が言ってんのよ。帰ってくるなり苗木の頬、引っ叩いたクセに」


 …あとで、霧切さんとは長めのお話が必要なようだ。


「し、しょうがないでしょう…あんな二人の姿を見せられたら」
「まー、舞園は半分裸みたいなもんだったからねー」
「……その、ゴメンなさい、苗木君」
「ううん。紛らわしくしちゃったのは僕の方だし」
「で、霧切っちは…息の荒い苗木とほぼ下着姿の舞園を見て、何を想像したんかなぁ?」
「……趣味が悪いわよ」
「うぷぷ、霧切ってば真っ赤だったもんねー。想像力が健全に働いている証拠ぶふっ!?」

 スパン、という小気味よい音がして、江ノ島さんが呻いた。

「苗木君。私たちは部屋に戻るわ。何かあったら、また呼んで」
「な、殴ることなくない!? ねえ、ちょっと!」


 扉の開く音、二人が遠ざかる音。
 もう一度扉がカラカラと音を立てて、部屋の中に静寂が取り残された。


 全て、分かった。
 自分の中にある、いやらしい感情を抑えきれなかったのも。
 まるで熱に浮かされたように、ふわふわしていたのも。

 今日が女の子の日だということを、完全に失念していた。

 その挙句が、これだ。
 苗木君を振り回し、淫らな雌を曝け出し、そして彼ばかり怒られて。
 合わせる顔が、ない。

 ない、のに。


「……ゴメン、舞園さん」


 そんな、あなたの辛そうな声を聞いて黙っていられるほど、無神経にはなれない。


「僕、浮かれてたんだ…あの憧れだったアイドルと、まさか二人きりでデート出来るなんて思わなくて…」

 声からして、苗木君は私に背を向けて独白している。
 きっと、私が既に起きていることなんて気付いていないだろう。

「だから、舞園さんの様子がおかしいのも気付けなくて…今思い返せば、簡単に気づけたはずなのに」

 大分、江ノ島さんの説教で落ち込んでしまっている。
 苗木君は本当は悪くないのに、自分のせいだと思い込んでしまっている。


 起きなきゃ。
 まだ体はだるいし、頭もズキズキするけれど。

 好きな男の子が辛そうにしているのに、放っておけるはずがない。
 男を立てるのが、良い女の条件なんだから。


 そうして、言うことをきかない体に無理矢理力を込めて、

「でも…それだけじゃないんだ」

 彼の独白が、まだ続いていることに気づく。


「僕が一番、自分自身を許せないのは…」


「――あの時、舞園さんを見て、僕は、その……いやらしい気持ちになったんだ」



 ボ、と、音を立てて顔が燃える心地がした。

 苗木君の口から、そんな言葉が出てくるなんて予想していなかった。
 まるで、清楚だと信じていたアイドルの、ベッドシーンを見せつけられたような。
 そんな背徳的な響きだった。

「すごく、ドキドキして…でも、なんか怖くて」

 ドキドキして、だなんてこっちのセリフだ。
 こんな至近距離で、そんな爆弾告白される身にもなってほしい。

 いや、そりゃ、嫌ではないけれど。

 好きな人にそう告白されて、嫌な気持ちになったりはしないけれど、
 嫌じゃないけど、ちょっと、これは、
 あ、なんかすごい暑い。
 汗かいてきた。
 心臓がうるさい。
 たぶん、今の私、顔が真っ赤だ。
 私がいやらしい気持ちになったときに、苗木君も同じ――


「怖かったんだ、舞園さんが」



 次の言葉は、

 浮かれていた私の頭の中に、まるで鉛のようにドスン、と落ちてきた。



「服が濡れてて、すごく色っぽくて、ドキドキして、それでも……怖くて、手は出せなかったんだ」


 勘違いでふわふわと浮かんでいた気持ちが、真っ逆さまに地面に叩き落とされた。
 一気に汗が引いていった。


「そんな僕の考えも、きっと舞園さんには見透かされているんだろうな、って思うと…」


 怖い。

 私が? 怖い?

 そんな、待って。
 確かに私は、面白がって苗木君の考えを先読みして、その反応を楽しんで、
 でも、私は一度たりとも、あなたを怖がらせたことなんて、


 そんな言い訳じみた考えが頭の中に浮かぶ。

 けれど。
 私は、その言い訳をも否定せざるを得なかった。


『独占欲の強い女は引かれますわよ、と申し上げたのです』

 そうだ。ちょうど今朝、セレスさんと話して。
 彼女に考えを見透かされて、怖い思いをしたのは、他でもない私じゃないか。

 考えていることを読まれるのは、怖い。
 私が一番よく知っていたはずじゃないか。

 心の中を読まれるのは、怖い。
 嘘をつけないのは、怖い。
 本音を見透かされてしまうのは、怖い。


 私は、私は――


 そんな怖ろしいことを、今まで苗木君にしていたんだ…


 急に、胸が苦しくなった。
 熱に侵されていたさっきまでの、何倍も苦しかった。


 上手く息が吸えなくなった。
 下手に口を開くと、情けない喘ぎが漏れてしまいそうで、必死に息をとめた。

 目元が熱くなる。

 泣いちゃダメだ。
 私のせいじゃないか。
 私が苗木君を怖がらせたのに、苗木君にとって嫌なことをずっとしてきたのに、

 泣く権利なんて、無い。
 瞼に力を込めて、必死に落涙を堪える。


「……、っ、ぅ…」

 堪え切れなくなった息が、震えて口の端から零れる。


 ガタ、と、隣の椅子が揺れる音。

「舞園さん…もしかして、起きてる?」

「……バレちゃいましたか」

 もう、隠す必要はない。
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、私はベッドから起き上がった。

 閉じていた瞼が、急な光の刺激を受けて、しょぼしょぼと開く。
 瞬きを繰り返す瞳が、見るからに焦っている苗木君を捉え始める。

 少しだけ睫毛が濡れているけれど、寝起きだから、とアピールするように、欠伸をして見せた。



「う、わ…もしかして、全部…」

「…聞いてました。苗木君が、その…私を見て、そういう気分になったって」


 真っ赤に、そして真っ青に。
 めまぐるしく、彼の表情が変わる。

「苗木君、やっぱりエッチです…」

 口をすぼめて、冗談っぽく言う。
 それが、私と彼との合図だった。
 『私はあなたを怨んでいない、だから安心して』。

 顔を上げた苗木君は、やっぱり少しだけ安心したような顔をして見せ、


「舞園さん…泣いてる…?」

「――え」


 ヒィン、と、空気が音を立てて凍った。

 うそ、と、頬の辺りに手を触れてみる。
 涙は既に止まっていたけれど、寝ている間に零れたものが、うっすらと筋を残していた。


「あ、ち、違うんです、これは…」

 苗木君が首を傾げる。
 当たり前だ、文脈からは私の泣いていた理由なんてわかりっこない。

 好きな人に、怖い女と言われた。

 それだけで涙を流すだなんて、誰も思わないだろう。


 もう、止めよう。

 私は彼に関わっちゃ、いけなかったんだ。

 街を歩けば、彼を好奇の目に晒し。
 口を開けば、彼の考えを覗きこみ。
 無理を言って連れまわし、雨風に晒させ、他の女の子から謂れもない罵倒を浴びて。

 熱で浮かされ、感情的になった頭は。
 少しオーバーに、そんなことを考えた。

 溜めこんできた思いを溶かした涙は、涸れた跡にすら熱を残していた。


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最終更新:2011年11月21日 23:14
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