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Start Ball Run-29」(2008/02/01 (金) 00:39:16) の最新版変更点

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『――シエスタ。私の部屋にワインを持って来てくれ。ワインセラーの中にある、そう、少し奥にあるヴィンテージをだ。それを今日は飲みたい気分なんだ』 新しい雇い主は、彼女にそう命じると、書斎と思わしき部屋に入っていった。 シエスタは命じられた仕事に短く、はいと言って頭を下げた。地下室の鍵を受け取ると、そこにあるワインセラーから、主が望んだ一本を選び出し、それを氷を詰めた樽の中に入れようと薄い布地に包んだ。 主がこのワインを開けるのは、もう少し夜が深くなってからだろう。 ……そのとき、自分には、一体どんな運命が待っているのだろう。 彼女はぶるりと、体が震える。その震えを堪えるために、シエスタは、くっと唇を噛んだ。 痛さと苦さが、震えを紛らわせる唯一の術だったのだ。 暗く、寒いワインセラーから逃げるように出入り口に振り向いて、心臓が停まりそうになった。 忽然とドアの入り口に、誰かが立っていたからだ。 「シエスタ」 誰かは、愛おしそうに彼女の名前を呼ぶ。 「は……、伯爵様」 主が、暗がりにいる彼女に、微笑を浮かべていた。 「ここの生活は慣れたか?」 主は優しく問いかける。 「……はい。皆様に親切にしていただきましたので」 幾分か張り詰めた声で、シエスタは答えた。 なぜ主がこんな場所にいるのだろうと、彼女は考える。 「それは良い。私の屋敷にいる者に協調を軽んじる者は誰一人いないからね。……シエスタ、君も皆の助けになっておくれ」 優しい声で、主が言う。 「……かしこまりました」 それにシエスタは、深々と頭を下げ、応えた。 ……彼女の頬に掌が触れる。愛おしそうにシエスタの輪郭をなぞると、顎に触れた指が、シエスタの顔を持ち上げる。 主がいつの間にか、シエスタの正面に立っていた。 今ここにいるのは、シエスタと、主の二人だけなのだ。 主は目的があってここに来たのなら、それはとても分かりやすい状況だろう。 「シエスタ」 「……い、いけません。いけません伯爵様。お戯れは、お止めください……」 制止を願うシエスタの言葉など聞こえないように、指はシエスタの顔を上に向ける。その瞬間、シエスタの両目は、主人の視線と交わった。 指の動きが、止まる。時間が止まったように、彼女も、そして彼も、そのままの形で、止まった。 伯爵の顔が、徐々に近づいてくる。 目が逸らせずにいた。一瞬か。……或いは、それ以上か。 だが。 「誰だ?」 唇は重なる直前で停まり、凍りついた時間は、突然打ち破られた。 「……え?」 主が、シエスタの目を見つめたまま、問う。 「君の中に、誰がいる? シエスタ、君はいま、誰を想っている? 誰を願い、誰を望んでいる?」 「は、はく、しゃく、さま……」 主は、シエスタを見ていない。 否。 シエスタの瞳、いや、彼女の心、その奥底にいる、 誰か を見ている。 「誰だ。一体、シエスタ、その男は誰だ?」 「は、伯爵様。ご冗談はお止めください。私の、私の中には誰も――」 「嘘を吐くなあっ!」 彼女の心を見透かすような一喝に、体が竦む。 氷の入った樽を落した。頑丈なはずの樽はあっけなく留め具が外れバラバラになり、氷が撒き散らされた。 「シエスタ。君は私を望んでいない。私がいるべき場所に、す で に 誰か が 入 り 込 ん で いる」 ――、こ。        怖、い。 そう、彼女は思った。 主は、自らが使えるべき主は、先ほどは片鱗も見せなかった感情が滲み出していた。 端的に言い表すなら。 「シエスタ! 君が欲しがっている人間は誰だ!? 一体誰が、私達の間を邪魔しようとしている!?」 それは、狂気だった。 彼女は恐れた。伯爵の眼光に、背筋を冷たい何かが通り抜けていった。 手に残ったワインを、シエスタは一層強く握り締めた。そうしなければ、全身を駆け巡る震えで、膝が折れてしまいそうだった。 「 ……認めない。  認めないぞ! シエスタ! 君は私のものだ! 私だけが蹂躙し! 私だけが搾取して良い対象だ!」 両手でシエスタの肩をがっしりと掴むと、主は声を荒げ。 「来い!」 いきなり彼女の腕を掴むと、主は乱暴に地下室のドアを押し開けた。 「……お、お待ちください! い、いったい!? ど、どちらに行かれるのです!?」 ぴたり、と、伯爵は動きを止めた。そこからゆっくりと目だけを動かすと。 「決まっているだろう。私の、私と、君の邪魔をする者の……、顔を、見に行くのだ」 酷く、冷たさを感じる声が、暗い地下室に響く。 掴まれた腕が、万力で挟まれたように痛む。 痛さと力で、引きずられるように、シエスタも部屋から出る。 そのときの主の横顔を、恐らくシエスタは忘れないだろう。 真横を向いたモット伯の顔……、その顔に、 右目が二つ あったなどと。 恐怖し、混乱した頭で、幻覚を見たのだと――、シエスタは、自分に言い聞かせた。 乱暴に腕を握られ、足が縺れそうになったのを堪え、シエスタは主の書斎部屋まで駆け足で引っ張られていった。 ……一方、ブルドンネ街の路地から買い物を済ませて出てきたルイズ御一行は、城下町の入り口、馬を繋ぎ止めていた馬房へと戻って来ていた。 「なによ。まだ準備できないの?」 ルイズが、ジャイロにむすっとして言う。 ジャイロはそれを聞き流し、さっきまで過酷なレースにつきあってくれた老馬の足を、懸命に擦っていた。 「……駄目だな。筋肉が張ってる。もう少し休ませるか、歩いていかなきゃならねェ。無理させちまったらもうこいつはツブれかねねェな」 老馬はルイズとの競走で全力を使い果たし、帰路を駆けていく力は残っていなかった。 「……ったく、あんなことするからよ」 ルイズが不機嫌そうに言った。 彼女にとってみれば、さっきの競走は不毛の戦いだと思っているからだろう。 「しょーがねーだろ。おチ、……いやルイズ、才人と一緒に先に帰っててくれ。後から追いかけるからよ」 「しょーがねーな! そんじゃ相棒の相棒! 俺たちゃ先に帰ってるからよ! 道中気ーつけてな!」 ルイズの代わりに、さっき買ったインテリジェンスソードが勢いよく返事をした。 「才人。その剣黙らせなさい」 さっきよりさらに不機嫌そうに、ルイズが命じる。 「えー。なんか面白いじゃん。こいつの話聞きながら帰ろーぜルイズ」 「そーだそーだ! 俺は話すぞ! なんたって俺の特技は斬ることと喋ることだからな!」 才人が柄と鞘を掴んでデルフリンガーの刀身を少しだけ抜き出している。そうすることで、デルフリンガーは調子よく喋れるようだった。 「柄と鞘を握ってる、その格好でいなさい。その状態なら馬の背から簡単に突き落とせるから」 ルイズが結構まぶたをピクピクさせながら、そんなことを言った。 「え? なにそれ? マジでやる気デスカ?」 棒読みで才人が反応する。 「ええ。馬が走り出してからおもむろにやるわ」 殺る気満々らしい。 「わかった。じゃあ柄から手を離す。それならいいだろ」 才人が折れた。 「相棒。哀しいね。ああそりゃもう哀しいね。いくら使い魔だからって、こんなことに屈服する相棒は見たかないね」 デルフリンガーが、そりゃもう哀愁漂う抑揚で言う。 「仕方が無いさデルフリンガー。しばしの別れだ。いざさらば」 才人が柄から手を離す。 デルフリンガーはストンと鞘の中に落っこちていった。 「まったく。これでうるさいのもいなくなったし、もう帰るわよ」 ルイズがやれやれといった感じで前を向きかけた。 「だが断る! ってんだよ娘っ子!」 鞘の中に落ちたはずのデルフリンガーの刀身が、収まっていなかった。 いや、才人の手に支えられているわけでもないのに、デルフリンガーは浮いている。 「すげえだろルイズ! この鞘、ワンタッチででっぱりが出るんだぜ! これを使えばいつでもデルフリンガーは会話可能だぜ!」 「俺と相棒のことを甘く見てたろ娘っ子! そうは問屋が卸さねえってんだ!」 はっはっは。と、どこかの一件落着したご隠居のように高笑いする一人と一振り。 ルイズは何も言わずに、そいつらを全力で突き落とす。 馬を走らせていないことを、わりと、本気で悔やんだ。 「……それじゃあジャイロ。わたし達は先に学院に帰っているからね。早く帰ってきなさいよ」 「わーってる」 「じゃーなジャイロ! 先帰ってるぜ!」 「相棒の相棒! あとでな!」 軽く嘶いた馬が勢い良く駆け出す。それをジャイロは少しの間見送ると、老馬の隣に腰を下ろした。 城下町の中心、高く聳える王宮を、ジャイロは見上げていた。 「……簡単には、帰れねーか」 諦めない気持ちは、確固たる信念として彼の心に、今もある。 だが……、時間は無常に過ぎていく。その現実に、彼は静かに息を吐いた。 「あー! こんなとこにいたのね。ハァイ、ジェントルメン。お一人ならエスコートしてくださらない?」 そう呼びかけられて、ジャイロは振り向く。 なにやら大きな荷物を抱えたキュルケと、その後ろで本を読みふけるタバサがいたのだった。 「なんだ。オメーらも買い物か?」 どうでもよさそうにジャイロは尋ねる。 「そんなこといっていいの? 誰のために買い物したと思ってるのよ」 少しふくれて、キュルケが言う。 「そんなことより、ねえ! これ見て! ゲルマニアの錬金術師シュペー卿の渾身の一作ですって! これだけの品は、なかなか手に入らないそうよ」 そう言いながら、キュルケは包みをするするとほどく。果たしてそこにあったのは、さっきまでジャイロ達がいた武器屋にあった、大剣だった。 「ほー。買ったのか。高い買い物だな」 そっけなく感想を言う。 「まーね。でもあたし、愛のためならお金を出し渋りしないの」 「値切った」 胸を張ったキュルケの後ろで、タバサがボソっと言った。 にわかに、城下町の雰囲気が慌しくなる。少し先の路地から、鐘の音が乱暴に鳴り響いた。 「なんだ? なんかあったのか?」 ジャイロが鐘の音に聞き耳を立てる。 「火事」 タバサが、そっけなくも的確に説明する。 「そーかい。火事は大変だな」 それだけ言うと、ジャイロは老馬に跨り、町の外へ鼻先を向けた。 「あれれー、帰っちゃうの?」 残念そうに、キュルケが言う。 「ああ。オレはもうここには用事はねーし、あとは帰るだけだ」 馬を気遣って休憩していただけで、馬の体力が戻ってきたら、帰り支度をするのは当然だった。 「……そう。それじゃあ、はいこれ。あたしからのプレゼント」 そう言って、キュルケはジャイロに剣を渡そうとするも、ジャイロは受け取らない。 「ニョホホホ、オレは剣は使わねーんだぜ。プレゼントなら、他にするんだな」 軽いノリでそう断ると、ジャイロはゆっくりと馬を進めた。 あとに残されたのは、剣を抱えたキュルケと、本を読みふけるタバサ。 「タバサ! 追いかけるわよ! すぐ準備お願いね!」 抱えた剣を餌に釣り上げるのは、才人のほうからだと、キュルケは判断する。 才人はルイズと帰路に着いているのだったが……。シルフィードの速度なら追いつける。 恋の炎は、益々燃え上がって留まる所を知らないキュルケであった。 城下町からゆっくりと帰るジャイロは、この城下町から続く平原の景色を黙って見ているだけだった。 恐らく、運命が違えば、一生見ることはなかったであろう風景。 それを、感動も、感嘆もなく、ただ視界に入るまま、見入るだけであった。 それよりも――、今、自分の世界は。 どうなっているのか。 どうなってしまったのか。 それが、どうしても知りたい。 知らなくてはいけない。 だが……、知ってしまったからと言って、……どうすればいいのか。 戻らなければならない。 帰らなければならない。 だが、その方法が、わからない。 もし、百歩譲って見つかったとしても。 ……間に合わなかったら、意味がない。 焦るのは当然。 憔悴するのは必然。 これが罰だというのなら、なんて辛苦を伴う償い方だろう。 ――焦るな。そして、諦めるな。 彼はそう信じる。 『正しい道』を進めば、必ず『光』が見えてくるはずだと。 オレの旅は、こんなところで終わるわけにはいかないんだと。 「オレはまだ……、何一つ、決着をつけちゃいねェんだ」 運命に絶望することなく、男は前を見つめる。 そうするしか、ないのだと決意して。 ……ふと、道の上に、何かが落ちていた。 大きな物体だ。一抱えありそうなほど、大きい。 岩だろうか、とジャイロは思った。 だが……、変だ。こんなものは、来る途中には無かったはずだ。 記憶を、思い返す。そこは、ジャイロがルイズと競走を始めた、スタート地点。 そこには、たしかに、そんなものはなかった。 いや……、あった。 あったのだ。確かに。 だが、それは地面に落ちていたものではなかった。 ルイズの愛馬につけられていた鞍――それは、絶対に、地面に落ちるものではないはずの、もの。 「逃げろ! 相棒の相棒!」 不意に、さっき聞いた声が、どこかから響いた。 「おい! 喋る剣か!? なんだ!? 何処にいる!?」 「いいから逃げろ! さっきのやつが来る!」 剣はジャイロに警告する。ルイズ達が、何者からか、攻撃されたことを。 そして、次は彼の番だと。 「なにがあった!? なんでおチビと才人がいねェ! こりゃ一体――、どうなってやがる!」 「上だ!」 ジャイロが見上げた先に――、一羽の鳥が、ゆっくりと弧を描いていた。 しかし、それに彼が気付いたとき。 デルフリンガーの前から、彼も消え失せてしまっていた。 ----
『――シエスタ。私の部屋にワインを持って来てくれ。ワインセラーの中にある、そう、少し奥にあるヴィンテージをだ。それを今日は飲みたい気分なんだ』 新しい雇い主は、彼女にそう命じると、書斎と思わしき部屋に入っていった。 シエスタは命じられた仕事に短く、はいと言って頭を下げた。地下室の鍵を受け取ると、そこにあるワインセラーから、主が望んだ一本を選び出し、それを氷を詰めた樽の中に入れようと薄い布地に包んだ。 主がこのワインを開けるのは、ずっと夜が深くなってからだろう。 ……そのとき、自分には、一体どんな運命が待っているのだろう。 彼女はぶるりと、体が震える。その震えを堪えるために、シエスタは、くっと唇を噛んだ。 痛さと苦さが、震えを紛らわせる唯一の術だったのだ。 暗く、寒いワインセラーから逃げるように出入り口に振り向いて、心臓が停まりそうになった。 忽然とドアの入り口に、誰かが立っていたからだ。 「シエスタ」 誰かは、愛おしそうに彼女の名前を呼ぶ。 「は……、伯爵様」 主が、暗がりにいる彼女に、微笑を浮かべていた。 「ここの生活は慣れたか?」 主は優しく問いかける。 「……はい。皆様に親切にしていただきましたので」 幾分か張り詰めた声で、シエスタは答えた。 なぜ主がこんな場所にいるのだろうと、彼女は考える。 「それは良い。私の屋敷にいる者に協調を軽んじる者は誰一人いないからね。……シエスタ、君も皆の助けになっておくれ」 優しい声で、主が言う。 「……かしこまりました」 それにシエスタは、深々と頭を下げ、応えた。 ……彼女の頬に掌が触れる。愛おしそうにシエスタの輪郭をなぞると、顎に触れた指が、シエスタの顔を持ち上げる。 主がいつの間にか、シエスタの正面に立っていた。 今ここにいるのは、シエスタと、主の二人だけなのだ。 主は目的があってここに来たのなら、それはとても分かりやすい状況だろう。 「シエスタ」 「……い、いけません。いけません伯爵様。お戯れは、お止めください……」 制止を願うシエスタの言葉など聞こえないように、指はシエスタの顔を上に向ける。その瞬間、シエスタの両目は、主人の視線と交わった。 指の動きが、止まる。時間が止まったように、彼女も、そして彼も、そのままの形で、止まった。 伯爵の顔が、徐々に近づいてくる。 目が逸らせずにいた。一瞬か。……或いは、それ以上か。 だが。 「誰だ?」 唇は重なる直前で停まり、凍りついた時間は、突然打ち破られた。 「……え?」 主が、シエスタの目を見つめたまま、問う。 「君の中に、誰がいる? シエスタ、君はいま、誰を想っている? 誰を願い、誰を望んでいる?」 「は、はく、しゃく、さま……」 主は、シエスタを見ていない。 否。 シエスタの瞳、いや、彼女の心、その奥底にいる、 誰か を見ている。 「誰だ。一体、シエスタ、その男は誰だ?」 「は、伯爵様。ご冗談はお止めください。私の、私の中には誰も――」 「嘘を吐くなあっ!」 彼女の心を見透かすような一喝に、体が竦む。 氷の入った樽を落した。頑丈なはずの樽はあっけなく留め具が外れバラバラになり、氷が撒き散らされた。 「シエスタ。君は私を望んでいない。私がいるべき場所に、す で に 誰か が 入 り 込 ん で いる」 ――、こ。        怖、い。 そう、彼女は思った。 彼女が使えるべき主は、先ほどは片鱗も見せなかった感情を、表に滲み出していた。 端的に言い表すなら。 「シエスタ! 君が欲しがっている人間は誰だ!? 一体誰が、私達の間を邪魔しようとしている!?」 それは、狂気だった。 彼女は恐れた。伯爵の眼光に、背筋を冷たい何かが通り抜けていった。 手に残ったワインを、シエスタは一層強く握り締めた。そうしなければ、全身を駆け巡る震えで、膝が折れてしまいそうだった。 「 ……認めない。  認めないぞ! シエスタ! 君は私のものだ! 私だけが蹂躙し! 私だけが搾取して良い対象だ!」 両手でシエスタの肩をがっしりと掴むと、主は声を荒げ。 「来い!」 いきなり彼女の腕を掴むと、主は乱暴に地下室のドアを押し開けた。 「……お、お待ちください! い、いったい!? ど、どちらに行かれるのです!?」 ぴたり、と、伯爵は動きを止めた。そこからゆっくりと目だけを動かすと。 「決まっているだろう。私の、私と、君の邪魔をする者の……、顔を、見に行くのだ」 酷く、冷たさを感じる声が、暗い地下室に響く。 掴まれた腕が、万力で挟まれたように痛んだ。 痛さと力で、引きずられるように、シエスタも部屋から出る。 そのときの主の横顔を、恐らくシエスタは忘れないだろう。 真横を向いたモット伯の顔……、その顔に、 右目が二つ あったなどと。 恐怖し、混乱した頭で、幻覚を見たのだと――、シエスタは、自分に言い聞かせた。 乱暴に腕を握られ、何度も足が縺れそうになったのを堪え、シエスタは主の書斎部屋まで駆け足で引っ張られていった。 ……一方、ブルドンネ街の路地から買い物を済ませて出てきたルイズ御一行は、城下町の入り口、馬を繋ぎ止めていた馬房へと戻って来ていた。 「なによ。まだ準備できないの?」 ルイズが、ジャイロにむすっとして言う。 ジャイロはそれを聞き流し、さっきまで過酷なレースにつきあってくれた老馬の足を、懸命に擦っていた。 「……駄目だな。筋肉が張ってる。もう少し休ませるか、歩いていかなきゃならねェ。無理させちまったらもうこいつはツブれかねねェな」 老馬はルイズとの競走で全力を使い果たし、帰路を駆けていく力は残っていなかった。 「……ったく、あんなことするからよ」 ルイズが不機嫌そうに言った。 彼女にとってみれば、さっきの競走は不毛の戦いだと思っているからだろう。 「しょーがねーだろ。おチ、……いやルイズ、才人と一緒に先に帰っててくれ。後から追いかけるからよ」 「しょーがねーな! そんじゃ相棒の相棒! 俺たちゃ先に帰ってるからよ! 道中気ーつけてな!」 ルイズの代わりに、さっき買ったインテリジェンスソードが勢いよく返事をした。 「サイト。その剣黙らせなさい」 さっきよりさらに不機嫌そうに、ルイズが命じる。 「えー。なんか面白いじゃん。こいつの話聞きながら帰ろーぜルイズ」 「そーだそーだ! 俺は話すぞ! なんたって俺の特技は斬ることと喋ることだからな!」 才人が柄と鞘を掴んでデルフリンガーの刀身を少しだけ抜き出している。そうすることで、デルフリンガーは調子よく喋れるようだった。 「柄と鞘を握った、その格好のままでいなさい。その状態なら馬の背から簡単に突き落とせるから」 ルイズが結構まぶたをピクピクさせながら、そんなことを言った。 「え? なにそれ? マジでやる気デスカ?」 棒読みで才人が反応する。 「ええ。馬が走り出してからおもむろにやるわ」 殺る気満々らしい。 「わかった。じゃあ柄から手を離す。それならこいつは喋れなくなるからいいだろ」 才人が折れた。 「相棒。哀しいね。ああそりゃもう哀しいね。いくら使い魔だからって、こんなことに屈服する相棒は見たかないね」 デルフリンガーが、そりゃもう哀愁漂う抑揚で言う。 「仕方が無いさデルフリンガー。しばしの別れだ。いざさらば」 才人が柄から手を離す。 デルフリンガーはストンと鞘の中に落っこちていった。 「まったく。これでうるさいのもいなくなったし、もう帰るわよ」 ルイズがやれやれといった感じで前を向きかけた。 「だが断る! ってんだよ娘っ子!」 鞘の中に落ちたはずのデルフリンガーの刀身が、収まっていなかった。 いや、才人の手に支えられているわけでもないのに、デルフリンガーは浮いている。 「すげえだろルイズ! この鞘、ワンタッチででっぱりが出るんだぜ! これを使えばいつでもデルフリンガーは会話可能だぜ!」 「俺と相棒のことを甘く見てたろ娘っ子! そうは問屋が卸さねえってんだ!」 はっはっは。と、どこかの一件落着したご隠居のように高笑いする一人と一振り。 ルイズは何も言わずに、そいつらを全力で突き落とす。 馬を走らせていないことを、わりと、本気で悔やんだ。 「……それじゃあジャイロ。わたし達は先に学院に帰っているからね。早く帰ってきなさいよ」 「わーってる」 「じゃーなジャイロ! 先帰ってるぜ!」 「相棒の相棒! あとでな!」 軽く嘶いた馬が勢い良く駆け出す。それをジャイロは少しの間見送ると、老馬の隣に腰を下ろした。 城下町の中心、高く聳える王宮を、ジャイロは見上げていた。 「……簡単には、帰れねーか」 諦めない気持ちは、確固たる信念として彼の心に、今もある。 だが……、時間は無常に過ぎていく。その現実に、彼は静かに息を吐いた。 「あー! こんなとこにいたのね。ハァイ、ジェントルメン。お一人ならエスコートしてくださらない?」 そう呼びかけられて、ジャイロは振り向く。 なにやら大きな荷物を抱えたキュルケと、その後ろで本を読みふけるタバサがいたのだった。 「なんだ。オメーらも買い物か?」 どうでもよさそうにジャイロは尋ねる。 「そんなこといっていいの? 誰のために買い物したと思ってるのよ」 少しふくれて、キュルケが言う。 「そんなことより、ねえ! これ見て! ゲルマニアの錬金術師シュペー卿の渾身の一作ですって! これだけの品は、なかなか手に入らないそうよ」 そう言いながら、キュルケは包みをするするとほどく。果たしてそこにあったのは、さっきまでジャイロ達がいた武器屋にあった、大剣だった。 「ほー。買ったのか。高い買い物だな」 そっけなく感想を言う。 「まーね。でもあたし、愛のためならお金を出し渋りしないの」 「値切った」 胸を張ったキュルケの後ろで、タバサがボソっと言った。 にわかに、城下町の雰囲気が慌しくなる。少し先の路地から、鐘の音が乱暴に鳴り響いた。 「なんだ? なんかあったのか?」 ジャイロが鐘の音に聞き耳を立てる。 「火事」 タバサが、そっけなくも的確に説明する。 「そーかい。火事は大変だな」 それだけ言うと、ジャイロは老馬に跨り、町の外へ鼻先を向けた。 「あれれー、帰っちゃうの?」 残念そうに、キュルケが言う。 「ああ。オレはもうここには用事はねーし、あとは帰るだけだ」 馬を気遣って休憩していただけで、馬の体力が戻ってきたら、帰り支度をするのは当然だった。 「……そう。それじゃあ、はいこれ。あたしからのプレゼント」 そう言って、キュルケはジャイロに剣を渡そうとするも、ジャイロは受け取らない。 「ニョホホホ、オレは剣は使わねーんだぜ。プレゼントなら、他にするんだな」 軽いノリでそう断ると、ジャイロはゆっくりと馬を進めた。 あとに残されたのは、剣を抱えたキュルケと、本を読みふけるタバサ。 「タバサ! 追いかけるわよ! すぐ準備お願いね!」 抱えた剣を餌に釣り上げるのは、才人のほうからだと、キュルケは判断する。 才人はルイズと帰路に着いているのだったが……。シルフィードの速度なら追いつける。 恋の炎は、益々燃え上がって留まる所を知らないキュルケであった。 城下町からゆっくりと帰るジャイロは、この城下町から続く平原の景色を黙って見ているだけだった。 恐らく、運命が違えば、一生見ることはなかったであろう風景。 それを、感動も、感嘆もなく、ただ視界に入るまま、見入るだけであった。 それよりも――、今、自分の世界は。 どうなっているのか。 どうなってしまったのか。 それが、どうしても知りたい。 知らなくてはいけない。 だが……、知ってしまったからと言って、……どうすればいいのか。 戻らなければならない。 帰らなければならない。 だが、その方法が、わからない。 もし、百歩譲って見つかったとしても。 ……間に合わなかったら、意味がない。 焦るのは当然。 憔悴するのは必然。 これが罰だというのなら、なんて辛苦を伴う償い方だろう。 ――焦るな。そして、諦めるな。 彼はそう信じる。 『正しい道』を進めば、必ず『光』が見えてくるはずだと。 オレの旅は、こんなところで終わるわけにはいかないんだと。 「オレはまだ……、何一つ、決着をつけちゃいねェんだ」 運命に絶望することなく、男は前を見つめる。 そうするしか、ないのだと決意して。 ……ふと、道の上に、何かが落ちていた。 大きな物体だ。一抱えありそうなほど、大きい。 岩だろうか、とジャイロは思った。 だが……、変だ。こんなものは、来る途中には無かったはずだ。 記憶を、思い返す。そこは、ジャイロがルイズと競走を始めた、スタート地点。 そこには、たしかに、そんなものはなかった。 いや……、あった。 あったのだ。確かに。 だが、それは地面に落ちていたものではなかった。 ルイズの愛馬につけられていた鞍――それは、絶対に、地面に落ちるものではないはずの、もの。 「逃げろ! 相棒の相棒!」 不意に、さっき聞いた声が、どこかから響いた。 「おい! 喋る剣か!? なんだ!? 何処にいる!?」 「いいから逃げろ! さっきのやつが来る!」 剣はジャイロに警告する。ルイズ達が、何者からか、攻撃されたことを。 そして、次は彼の番だと。 「なにがあった!? なんでおチビと才人がいねェ! こりゃ一体、どうなってやがる!」 「上だ!」 ジャイロが見上げた先に――、一羽の鳥が、ゆっくりと弧を描いていた。 しかし、それに彼が気付いたとき。 デルフリンガーの前から、彼も消え失せてしまっていた。 ----

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