4 目的の迷宮
軍港ロサイスはアルビオン王国の空軍の大部分を擁する一大基地である。
世界樹を用いない人工の発着場は中心の塔から桟橋が四方に伸び、桟橋は一つで大型の船が両側に5隻ずつ並べられるほどの大きさを持つ。今でこそ、内戦に駆り出された船や各地の港の警戒に当たる船でやや寂しくはなっているが、その全てが揃い集まったときの最大で40隻にも上る船が並ぶ様は、この地を踏む者たちの心を掴んで放さない。
空軍だけに着目すれば、アルビオンはガリアに匹敵する戦力を有している。地理的な優位も合わさって、空の戦いにおいては無敵を誇る、とまで言われているほどだ。
ロサイスの規模もそれに見合ったもので、発着場の傍には造船所や兵舎、司令塔といった基地に必要な建物が並び、小さな森を挟んだ内陸側にはそれなりの規模の町が形成されていた。
世界各国に誇れる、巨大基地。それがロサイスである。
だが、それを快く思わない人間達もいた。
事情聴取と元々軍向けに運んでいる積荷を持っているために入港した、マリー・ガラント号。その船内にいるホル・ホース達だ。
「予想以上にデカイな……」
その言葉に、エルザと地下水が同意を示す。
ロサイスの到着間際に船員達に起こされたホル・ホースは、既に目を覚ましていたエルザ達を引き連れ、大砲で空いた穴から顔を覗かせて町の様子を眺めていた。
着陸した船の傍の地面では、やや緊張した面持ちの兵士達があっちこっちをウロウロと歩き回っている。時折こちらを見ているが、視線が会うことは無い。兵士達が見ているのはホル・ホース達ではなく、船そのものであるようだ。
船の積荷は硫黄である。火薬の原料となるそれが幾つか破損した樽から零れて、船内に奇妙な異臭を漂わせていた。
この基地に居る兵士達は積荷がなんであるかを知っているのだろう。内戦という事情と合わせてみると、同じ国の同胞を相手にする武器の存在を心中では複雑に思っているのかもしれない。
見える範囲で、兵士の数はざっと二十人。その全てがこちらを見ているわけではないのだが、積荷を気にしているせいか、視線が途切れることは無かった。
「どうすっかなあ……」
穴から顔を引っ込めて、ホル・ホースは帽子を深く被った。
現在、甲板では積荷の値段交渉が行われている。だが、それと同時にホル・ホース達に対する情報を船長は売っているようだった。空賊の頭を捕まえたとなれば、マリー・ガラント号の船長は株を上げるだろうし、ホル・ホースも叩けば埃が出る身だ。金貨何枚で取引されるか分からないが、あまり良い結果は期待できそうに無い。
しかし、逃げるにしても警戒が強過ぎた。船長が基地の軍人と話をしに行っている今がチャンスなのだが、逃げ場がどこにも無いのだ。
エルザの先住魔法で近隣の敵を眠らせる、という方法も考えたが、港町全体を覆うことなんて無理だし、範囲を限定したところで異変を感じ取られて援軍が来たのでは元も子もない。
「これで、地下水の体が耳長野郎のものだったら、力押しで逃げられたんだが……」
「無いものねだりしても仕方ねえだろ、旦那」
はあ、と溜息を吐くホル・ホースに眉尻を下げて地下水は首を振った。
たとえ、空賊に襲われたときにビダーシャルの体を確保出来ていたとしても、その体に魔力は残っていないだろう。どの道、状況に変わりはない。
「樽の中に隠れる、っていうのはダメなの?どこかに運ばれるのを待つとか」
「博打にしては分が悪過ぎるな。荷の確認の為に蓋を開けられたら終わりだし、重さの違いで確実にバレるだろ」
エルザの意見をあっさりと却下して、ホル・ホースはもう一度、船の穴から外を見る。
歩哨の交代時間だけでも分かれば、ある程度逃走経路なども計算できるのだが、そんな情報が手に入る前に船長は軍との交渉を終えるだろう。
既に何人か、ホル・ホース達を監視するように船員達が船の積荷を運びながらこちらの様子を窺っている姿を見ている。天井を踏み鳴らす音からは、入港する前より遥かに沢山の人数が集まっていることも推察できた。包囲網は、少しずつ狭められているらしい。
「穴でも掘るか……?」
意見が却下されてむくれているエルザの頭を撫でつつ、地面に視線を落とす。
幸いにして、地盤はあまり硬そうには見えない。手で掘るのは無理だが、地下水の魔法を使えば脱出路くらいは何とかなりそうな気がした。
「それも難しいと思うぜ。船底に穴をあけて、土掘って逃げようってんだろ?船が着陸する度に船底で押し固められた土はここから見えている土よりずっと硬いはずだ。例え軟らかかったとしても、風の系統のオレじゃあ長くは掘れねえよ」
淡々と事実を説明する地下水に、いよいよもってホル・ホースは頭を抱える。
どうにも打つ手が見つからない。
ここから一人ずつ目に見える敵を殺す、というのも考えたが、異変に気付いた連中が船に突撃してきたら流石に対処が出来ない。下手に乱戦にでもなれば、火力と数に勝るロサイスの軍人達の方が有利だからだ。
孤立無援の状況下で敵地のど真ん中から脱出する方法がまったく思い浮かばず、焦燥感に駆られてホル・ホースは気が付かない内に貧乏ゆすりをしていた。
「……ねえ、お兄ちゃん。もしかして、絶体絶命ってヤツ?」
まだ現状を正しく理解していなかったのだろうか。
冷や汗を浮かべて尋ねるエルザに、ホル・ホースは頬を引き攣らせて目を泳がせる。
「ええええええ?ウソ!本当に?だって、昼寝までしてたから、何か作戦があるものだと思ってたのに……、なにも考えてなかったの!?」
「う、うるせえ!まさか、こんなに警備が厳重だとは思わなかったんだよ!船の穴を利用して逃げ出してやろうと考えてたのに、ここまで警戒がきついとは……」
直球で責めてくるエルザの言葉に胸を痛めつつ、ホル・ホースは指の爪を噛む。
今までで一番の窮地かも知れない。ガリアのヴェルサルテイル宮殿を攻めた時は、ハルケギニアでも上位の飛行速度を持つシルフィードが居たし、ジョゼフを仕留めれば勝利が確定していた。だが、この場では敵の親玉は見当たらないし、逃げるための足も無い。
まったく、なぜ自分は寝るだなんて選択をしたのか。
ホル・ホースは、数時間前の自分を殴り飛ばしたい気分だった。
そんな時、地下水が唐突に声を上げた。
「あ。なんだ?なんか言ってる」
地下水の言葉に、ホル・ホースとエルザが首を傾げ、続いて耳を澄ませた。
話し声なんて先程から聞こえている。上を見上げたところにある天井の向こうは、もう船の甲板だ。船員達の怒号や話し声が途切れたことなど無い。だからこそ、こうして声を潜めることなく話が出来ているのだ。
新しく動きがあったのかと思ったが、それも無いようだ。聞こえてくるものは、船員達の無駄話やそれを咎める怒号ばかり。中にはホル・ホース達に関する話題もあるようだが、実のある話ではない。
しかし、地下水は首を幾度か縦に振り、うーん、と唸り声を上げて眉を潜めていた。
甲板の様子を聞き取っている訳ではないようだ。
誰かと会話をしているらしいが、傍目に見ると精神的にアレな人にしか見えなかった。
「おい、なんだ?どうしたんだよ」
ホル・ホースが声を掛けると、地下水がチラリと視線を送り、溜息をついた。
「仕方ねえ。他に方法も無さそうだしな。首から上だけは返してやるけど、おかしな真似はするんじゃねえぞ」
いよいよもって危ない人か、と思ったところで、地下水が操る空賊の頭の表情が妙に穏やかなものに変わった。地下水が使っていたときとは違う、上品さを感じさせるものだ。
「ありがとう、というのも変かな?この体は僕の物なのだからね」
口調も変わったことで、ホル・ホースとエルザはやっと地下水が何と話していたかに気が付いた。
「そちらのお嬢さんは始めまして、だね。僕の名前はウェールズ。アルビオン王国第一王子のウェールズ・テューダーだ」
体の大半は未だに地下水の制御下にあるため、ウェールズは目礼だけ紹介を終えた。だが、ぼさぼさの黒髪と無精髭で王子とは、まったく説得力が無い。
そのことに本人も自覚があるのか、軽く笑うと困ったような表情を浮かべた。
ガリアで変な王族に囲まれて生活していたホル・ホースたちは、特にウェールズの驚きもせず、ああそうなんだ、と適当に反応を示して話を進めた。
「テメーの名前なんてどうでもいいんだ。そんなことよりも、地下水が喋らせるってことは、なにか言いたいことがあるんだろう?」
王子と聞いても特に驚く様子を見せないホル・ホースに、自分が信用されていないのかと思ったウェールズは、少し言葉を溜めて、左手の薬指に視線を送った。
そこには不思議な色を湛えた石を台座に嵌めた、立派な指輪が嵌まっている。
「左手の薬指に嵌まった風のルビーが僕の身の証になる。不審に思うなら、それを確認して欲しい」
「そんなもんどうでもいいって言ってるだろうが」
一瞬だけウェールズの左手を見たホル・ホースが、そう冷たく言い捨てた。
身の証と言われても、ホル・ホースたちは鑑定が出来るわけではない。確認したところで真実か否かなんて判断できないのだ。
それを、ウェールズは理解していないようだった。
「いいのかい?僕は、これから君達の命運を分けるかもしれない人間だ。信用するに値するかどうか、確かめるべきではないのかい」
ウェールズの言葉をホル・ホースは鼻で笑う。
どうも、価値観が違うらしい。いや、考え方が違うのだろう。
さっさと話の続きをしたいホル・ホースと自分の立場を明確にしたいらしいウェールズの話は上手く交わらなかった。
仕方なく、ホル・ホースは適当な理由をでっち上げてウェールズを納得させてしまおうと考えをめぐらせる。
そして、ちょうど横にある大砲で破壊された船の壁を見て、口を開いた。
「……確認するまでもねえよ。テメーがアルビオンの王子なら、空賊達の船の扱いが妙に上手かったことにも説明がつく。身分を隠した軍を使っての私掠船もどきだな。大方、通商破壊でも狙ってたんだろう?別に珍しくもなんともねえ、在り来たりな手だ」
王党派は貴族派に押されていると聞いている。その場合、敵の戦力を削ぐには、正面から攻めるより、後方を乱したほうが早い。
人手不足を補うため、また、海賊行為による士気の低下を防ぐため、と考えれば、王子が直接出張ってくる理由にならなくもないだろう。
「なんとも手厳しいね」
不躾なホル・ホースの物言いに、ウェールズは苦笑を浮かべて、はは、と笑った。
王党派の内情は、予想通りだったようだ。
「ほれ、さっさと話を進めろ。この状況を何とかする方法があるんだろうが」
船長が不審者を軍に突き出すのは、恐らく、積荷の取引交渉が終わってからだ。船内に危険人物が居ることを知らせて船内に入る理由を与えてしまえば、積荷に細工をされて取引を不正なものにされる恐れもある。
積荷の量が量であるだけに、すぐに交渉が終わるわけではないだろうが、悠長に話している時間が無いのは確かだ。
ホル・ホースの焦りを感じたのか、ウェールズは自分が信用されたものだという前提を持って話を始めた。
「では、手短に話そう。ここから桟橋が見えるだろう?ロサイスの桟橋は骨組みを露出させた、無骨なデザインになっている。万が一敵に破壊された場合にも、すぐに修復が可能なように構造は単純化され、支柱の内側は殆ど空洞になっているんだ」
遠く見える隣の桟橋を指して、ウェールズが構造の解説を行う。
支柱だけで壁が無いということは、中は吹き抜けで移動が可能だということだ。
「そうみたいだな。だが、中を通って逃げるのは無理だぜ?到着前に見たが、発着場は周囲の施設なんかとは離れてる。船に新しく穴でも開ければ桟橋の中には隠れることは出来るけど、逃げ場はどこにもねえ。それに、この兵士の数だ。柱の陰に隠れたとしてもすぐに見つかるだろ」
顎を向けて船の外を示すホル・ホースに、ウェールズは一度目を向けると、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。桟橋の下の地面は土台造りの関係上、少し低くなっていてね。体を寝かせれば大人でも隠れて移動できるんだ。哨戒任務の確認事項に含まれているけど、実際にそこまで見に来る兵は少ないから、見つかる心配もないだろう。情けない話だけどね」
過去、幾度かの視察や抜き打ち検査の時にでも知ったことなのだろう。兵士達の怠慢は身内の恥のはずだが、それが今は助けとなっていることに、ウェールズは複雑な気持ちを抱いているようだった。
穴から隣の桟橋を睨みつけるように見たホル・ホースは、桟橋の下にある影の具合からウェールズの話が真実であることを確認すると、ヒヒと笑ってウェールズを見た。
「逃げ道は確かにあるんだな?」
その言葉に、ウェールズは力強く頷いた。
「発着場の中心にある塔の中央。その真下に隠された避難経路がある。軍の中でも一部にしか知らされない、秘密の地下道さ。ロサイスからの逃亡や、逆にロサイスに奇襲をかけることにも使える。巧妙に隠されているから、知らない人間には発見は難しいだろうね」
そこで自重気味に笑ったウェールズを見て、ホル・ホースはやれやれと肩を竦めた。
「なるほどね。どこの王様も同じようなことを考えるんだな。オレってば、地下通路には縁が深いぜ」
ガリアにも存在した王族用の逃走経路を思い出したホル・ホースに、ウェールズは少しだけ満足そうな笑みを浮かべた。
「基本を抑えることは戦いを勝利に繋ぐ。兵法の基本だよ。つまり、在り来たりな手こそが必勝の一手なのさ」
自分が言った言葉をそのまま返されたことを知って、ホル・ホースは帽子を押さえて愉快そうにヒヒと笑った。
軍港ロサイスはアルビオン王国の空軍の大部分を擁する一大基地である。
世界樹を用いない人工の発着場は中心の塔から桟橋が四方に伸び、桟橋は一つで大型の船が両側に5隻ずつ並べられるほどの大きさを持つ。今でこそ、内戦に駆り出された船や各地の港の警戒に当たる船でやや寂しくはなっているが、その全てが揃い集まったときの最大で40隻にも上る船が並ぶ様は、この地を踏む者たちの心を掴んで放さない。
空軍だけに着目すれば、アルビオンはガリアに匹敵する戦力を有している。地理的な優位も合わさって、空の戦いにおいては無敵を誇る、とまで言われているほどだ。
ロサイスの規模もそれに見合ったもので、発着場の傍には造船所や兵舎、司令塔といった基地に必要な建物が並び、小さな森を挟んだ内陸側にはそれなりの規模の町が形成されていた。
世界各国に誇れる、巨大基地。それがロサイスである。
だが、それを快く思わない人間達もいた。
事情聴取と元々軍向けに運んでいる積荷を持っているために入港した、マリー・ガラント号。その船内にいるホル・ホース達だ。
「予想以上にデカイな……」
その言葉に、エルザと地下水が同意を示す。
ロサイスの到着間際に船員達に起こされたホル・ホースは、既に目を覚ましていたエルザ達を引き連れ、大砲で空いた穴から顔を覗かせて町の様子を眺めていた。
着陸した船の傍の地面では、やや緊張した面持ちの兵士達があっちこっちをウロウロと歩き回っている。時折こちらを見ているが、視線が会うことは無い。兵士達が見ているのはホル・ホース達ではなく、船そのものであるようだ。
船の積荷は硫黄である。火薬の原料となるそれが幾つか破損した樽から零れて、船内に奇妙な異臭を漂わせていた。
この基地に居る兵士達は積荷がなんであるかを知っているのだろう。内戦という事情と合わせてみると、同じ国の同胞を相手にする武器の存在を心中では複雑に思っているのかもしれない。
見える範囲で、兵士の数はざっと二十人。その全てがこちらを見ているわけではないのだが、積荷を気にしているせいか、視線が途切れることは無かった。
「どうすっかなあ……」
穴から顔を引っ込めて、ホル・ホースは帽子を深く被った。
現在、甲板では積荷の値段交渉が行われている。だが、それと同時にホル・ホース達に対する情報を船長は売っているようだった。空賊の頭を捕まえたとなれば、マリー・ガラント号の船長は株を上げるだろうし、ホル・ホースも叩けば埃が出る身だ。金貨何枚で取引されるか分からないが、あまり良い結果は期待できそうに無い。
しかし、逃げるにしても警戒が強過ぎた。船長が基地の軍人と話をしに行っている今がチャンスなのだが、逃げ場がどこにも無いのだ。
エルザの先住魔法で近隣の敵を眠らせる、という方法も考えたが、港町全体を覆うことなんて無理だし、範囲を限定したところで異変を感じ取られて援軍が来たのでは元も子もない。
「これで、地下水の体が耳長野郎のものだったら、力押しで逃げられたんだが……」
「無いものねだりしても仕方ねえだろ、旦那」
はあ、と溜息を吐くホル・ホースに眉尻を下げて地下水は首を振った。
たとえ、空賊に襲われたときにビダーシャルの体を確保出来ていたとしても、その体に魔力は残っていないだろう。どの道、状況に変わりはない。
「樽の中に隠れる、っていうのはダメなの?どこかに運ばれるのを待つとか」
「博打にしては分が悪過ぎるな。荷の確認の為に蓋を開けられたら終わりだし、重さの違いで確実にバレるだろ」
エルザの意見をあっさりと却下して、ホル・ホースはもう一度、船の穴から外を見る。
歩哨の交代時間だけでも分かれば、ある程度逃走経路なども計算できるのだが、そんな情報が手に入る前に船長は軍との交渉を終えるだろう。
既に何人か、ホル・ホース達を監視するように船員達が船の積荷を運びながらこちらの様子を窺っている姿を見ている。天井を踏み鳴らす音からは、入港する前より遥かに沢山の人数が集まっていることも推察できた。包囲網は、少しずつ狭められているらしい。
「穴でも掘るか……?」
意見が却下されてむくれているエルザの頭を撫でつつ、地面に視線を落とす。
幸いにして、地盤はあまり硬そうには見えない。手で掘るのは無理だが、地下水の魔法を使えば脱出路くらいは何とかなりそうな気がした。
「それも難しいと思うぜ。船底に穴をあけて、土掘って逃げようってんだろ?船が着陸する度に船底で押し固められた土はここから見えている土よりずっと硬いはずだ。例え軟らかかったとしても、風の系統のオレじゃあ長くは掘れねえよ」
淡々と事実を説明する地下水に、いよいよもってホル・ホースは頭を抱える。
どうにも打つ手が見つからない。
ここから一人ずつ目に見える敵を殺す、というのも考えたが、異変に気付いた連中が船に突撃してきたら流石に対処が出来ない。下手に乱戦にでもなれば、火力と数に勝るロサイスの軍人達の方が有利だからだ。
孤立無援の状況下で敵地のど真ん中から脱出する方法がまったく思い浮かばず、焦燥感に駆られてホル・ホースは気が付かない内に貧乏ゆすりをしていた。
「……ねえ、お兄ちゃん。もしかして、絶体絶命ってヤツ?」
まだ現状を正しく理解していなかったのだろうか。
冷や汗を浮かべて尋ねるエルザに、ホル・ホースは頬を引き攣らせて目を泳がせる。
「ええええええ?ウソ!本当に?だって、昼寝までしてたから、何か作戦があるものだと思ってたのに……、なにも考えてなかったの!?」
「う、うるせえ!まさか、こんなに警備が厳重だとは思わなかったんだよ!船の穴を利用して逃げ出してやろうと考えてたのに、ここまで警戒がきついとは……」
直球で責めてくるエルザの言葉に胸を痛めつつ、ホル・ホースは指の爪を噛む。
今までで一番の窮地かも知れない。ガリアのヴェルサルテイル宮殿を攻めた時は、ハルケギニアでも上位の飛行速度を持つシルフィードが居たし、ジョゼフを仕留めれば勝利が確定していた。だが、この場では敵の親玉は見当たらないし、逃げるための足も無い。
まったく、なぜ自分は寝るだなんて選択をしたのか。
ホル・ホースは、数時間前の自分を殴り飛ばしたい気分だった。
そんな時、地下水が唐突に声を上げた。
「あ。なんだ?なんか言ってる」
地下水の言葉に、ホル・ホースとエルザが首を傾げ、続いて耳を澄ませた。
話し声なんて先程から聞こえている。上を見上げたところにある天井の向こうは、もう船の甲板だ。船員達の怒号や話し声が途切れたことなど無い。だからこそ、こうして声を潜めることなく話が出来ているのだ。
新しく動きがあったのかと思ったが、それも無いようだ。聞こえてくるものは、船員達の無駄話やそれを咎める怒号ばかり。中にはホル・ホース達に関する話題もあるようだが、実のある話ではない。
しかし、地下水は首を幾度か縦に振り、うーん、と唸り声を上げて眉を潜めていた。
甲板の様子を聞き取っている訳ではないようだ。
誰かと会話をしているらしいが、傍目に見ると精神的にアレな人にしか見えなかった。
「おい、なんだ?どうしたんだよ」
ホル・ホースが声を掛けると、地下水がチラリと視線を送り、溜息をついた。
「仕方ねえ。他に方法も無さそうだしな。首から上だけは返してやるけど、おかしな真似はするんじゃねえぞ」
いよいよもって危ない人か、と思ったところで、地下水が操る空賊の頭の表情が妙に穏やかなものに変わった。地下水が使っていたときとは違う、上品さを感じさせるものだ。
「ありがとう、というのも変かな?この体は僕の物なのだからね」
口調も変わったことで、ホル・ホースとエルザはやっと地下水が何と話していたかに気が付いた。
「そちらのお嬢さんは始めまして、だね。僕の名前はウェールズ。アルビオン王国第一王子のウェールズ・テューダーだ」
体の大半は未だに地下水の制御下にあるため、ウェールズは目礼だけ紹介を終えた。だが、ぼさぼさの黒髪と無精髭で王子とは、まったく説得力が無い。
そのことに本人も自覚があるのか、軽く笑うと困ったような表情を浮かべた。
ガリアで変な王族に囲まれて生活していたホル・ホースたちは、特にウェールズの驚きもせず、ああそうなんだ、と適当に反応を示して話を進めた。
「テメーの名前なんてどうでもいいんだ。そんなことよりも、地下水が喋らせるってことは、なにか言いたいことがあるんだろう?」
王子と聞いても特に驚く様子を見せないホル・ホースに、自分が信用されていないのかと思ったウェールズは、少し言葉を溜めて、左手の薬指に視線を送った。
そこには不思議な色を湛えた石を台座に嵌めた、立派な指輪が嵌まっている。
「左手の薬指に嵌まった風のルビーが僕の身の証になる。不審に思うなら、それを確認して欲しい」
「そんなもんどうでもいいって言ってるだろうが」
一瞬だけウェールズの左手を見たホル・ホースが、そう冷たく言い捨てた。
身の証と言われても、ホル・ホースたちは鑑定が出来るわけではない。確認したところで真実か否かなんて判断できないのだ。
それを、ウェールズは理解していないようだった。
「いいのかい?僕は、これから君達の命運を分けるかもしれない人間だ。信用するに値するかどうか、確かめるべきではないのかい」
ウェールズの言葉をホル・ホースは鼻で笑う。
どうも、価値観が違うらしい。いや、考え方が違うのだろう。
さっさと話の続きをしたいホル・ホースと自分の立場を明確にしたいらしいウェールズの話は上手く交わらなかった。
仕方なく、ホル・ホースは適当な理由をでっち上げてウェールズを納得させてしまおうと考えをめぐらせる。
そして、ちょうど横にある大砲で破壊された船の壁を見て、口を開いた。
「……確認するまでもねえよ。テメーがアルビオンの王子なら、空賊達の船の扱いが妙に上手かったことにも説明がつく。身分を隠した軍を使っての私掠船もどきだな。大方、通商破壊でも狙ってたんだろう?別に珍しくもなんともねえ、在り来たりな手だ」
王党派は貴族派に押されていると聞いている。その場合、敵の戦力を削ぐには、正面から攻めるより、後方を乱したほうが早い。
人手不足を補うため、また、海賊行為による士気の低下を防ぐため、と考えれば、王子が直接出張ってくる理由にならなくもないだろう。
「なんとも手厳しいね」
不躾なホル・ホースの物言いに、ウェールズは苦笑を浮かべて、はは、と笑った。
王党派の内情は、予想通りだったようだ。
「ほれ、さっさと話を進めろ。この状況を何とかする方法があるんだろうが」
船長が不審者を軍に突き出すのは、恐らく、積荷の取引交渉が終わってからだ。船内に危険人物が居ることを知らせて船内に入る理由を与えてしまえば、積荷に細工をされて取引を不正なものにされる恐れもある。
積荷の量が量であるだけに、すぐに交渉が終わるわけではないだろうが、悠長に話している時間が無いのは確かだ。
ホル・ホースの焦りを感じたのか、ウェールズは自分が信用されたものだという前提を持って話を始めた。
「では、手短に話そう。ここから桟橋が見えるだろう?ロサイスの桟橋は骨組みを露出させた、無骨なデザインになっている。万が一敵に破壊された場合にも、すぐに修復が可能なように構造は単純化され、支柱の内側は殆ど空洞になっているんだ」
遠く見える隣の桟橋を指して、ウェールズが構造の解説を行う。
支柱だけで壁が無いということは、中は吹き抜けで移動が可能だということだ。
「そうみたいだな。だが、中を通って逃げるのは無理だぜ?到着前に見たが、発着場は周囲の施設なんかとは離れてる。船に新しく穴でも開ければ桟橋の中には隠れることは出来るけど、逃げ場はどこにもねえ。それに、この兵士の数だ。柱の陰に隠れたとしてもすぐに見つかるだろ」
顎を向けて船の外を示すホル・ホースに、ウェールズは一度目を向けると、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。桟橋の下の地面は土台造りの関係上、少し低くなっていてね。体を寝かせれば大人でも隠れて移動できるんだ。哨戒任務の確認事項に含まれているけど、実際にそこまで見に来る兵は少ないから、見つかる心配もないだろう。情けない話だけどね」
過去、幾度かの視察や抜き打ち検査の時にでも知ったことなのだろう。兵士達の怠慢は身内の恥のはずだが、それが今は助けとなっていることに、ウェールズは複雑な気持ちを抱いているようだった。
穴から隣の桟橋を睨みつけるように見たホル・ホースは、桟橋の下にある影の具合からウェールズの話が真実であることを確認すると、ヒヒと笑ってウェールズを見た。
「逃げ道は確かにあるんだな?」
その言葉に、ウェールズは力強く頷いた。
「発着場の中心にある塔の中央。その真下に隠された避難経路がある。軍の中でも一部にしか知らされない、秘密の地下道さ。ロサイスからの逃亡や、逆にロサイスに奇襲をかけることにも使える。巧妙に隠されているから、知らない人間には発見は難しいだろうね」
そこで自重気味に笑ったウェールズを見て、ホル・ホースはやれやれと肩を竦めた。
「なるほどね。どこの王様も同じようなことを考えるんだな。オレってば、地下通路には縁が深いぜ」
ガリアにも存在した王族用の逃走経路を思い出したホル・ホースに、ウェールズは少しだけ満足そうな笑みを浮かべた。
「基本を抑えることは戦いを勝利に繋ぐ。兵法の基本だよ。つまり、在り来たりな手こそが必勝の一手なのさ」
自分が言った言葉をそのまま返されたことを知って、ホル・ホースは帽子を押さえて愉快そうにヒヒと笑った。
白い雲の絨毯を滑るように、船が空を飛んでいた。
昨夜の内にラ・ロシェールから飛び立ったものとは別の、アルビオンへ向かう旅客を乗せた定期便だ。
左右を見れば、同じような目的を持つ船が二隻、空を併走しているのが見える。大陸間を行き来する船は、様々な事故や空賊などの襲撃を防ぐため、普段から艦隊を形成して運行することが多い。この艦隊もその例に漏れず、三隻を一つの隊として運用していた。
中央を飛ぶ船の後部甲板にある貴族用のテラスでテーブルを囲んでいるのは、“女神の杵”亭の襲撃を乗り越えて翌朝の出発に漕ぎ付けたルイズ達だった。
太陽は頭上に輝き、鮮やかな青に染まった空には白の国の姿が見えている。
アルビオンを直接見るのは初めてであるギーシュと共に、才人も口をだらしなく開けてその光景を見上げ、隣で偉そうにアルビオンの歴史を語るルイズの言葉を右から左へと聞き流していた。
その様子を退屈そうに眺めている赤い髪の少女が、欠伸交じりに呟いた。
「到着は、まだ時間がかかりそうねえ」
わざわざ早起きをして朝一番の船に乗ったのだが、もう5時間以上も経過している。風向きがいいため、普通よりも早くスカボローの港に到着するだろうと船長から話を聞いていたのだが、まさか、船旅がここまで長いとは思ってもいなかった。
最初は空の景色に歓声を上げていたのだが、天気に変化が無いため、変わらない空の姿にすぐに飽きてしまった。そうなると、やることがまったく無いのが苦痛になる。
「到着は夕方」
「わかってるわよ。ちょっと言ってみただけ」
本から目を離さずに声を発したタバサに、キュルケは投げやりの答えた。
出発前に船長から到着予定時間は聞いている。まだ昼を回ったところなのだから、少なくとも、あと4時間はかかるはずだ。
退屈な時間は過ぎるのが遅い。適当に騒いでいるうちに到着するだろうと思っていた予測が大きく外れた為に、キュルケは暇で死にそうだった。
テーブルに力なく頭を乗せて、甲板の隅で寝転がるグリフォンを視界に入れる。そこには、少し背中の煤けたワルドの姿もあった。
今朝から一度として、ルイズはワルドと視線を合わせていない。話しかけられれば対応くらいはするが、酷く事務的で、倦怠期の夫婦を見ているかのようだった。
“女神の杵”亭での出来事が尾を引いているらしい。まあ、メイジの分身ともいえる使い魔を決闘で散々叩きのめした挙句、婚約者を名乗っておきながら魅力を感じない、なんて言ったのだから、今の関係に落ち着いても仕方がないだろう。
グループの輪から抜けてグリフォンと戯れる魔法衛士隊隊長の姿は、あまりにもあんまりな光景で、見ているこっちが辛くなる。かといって、救いの手を差し伸べる気にもなれなかった。
テーブルに寝かせた頭を逆方向に向けると、キュルケは船と船の間を優雅に飛ぶ青い竜の姿を見つける。
ギーシュの使い魔であるヴェルダンデを口に銜えたシルフィードだ。
巨大なモグラの姿をしたジャイアントモールという種族のヴェルダンデは、人間の大人よりも少し大きい体をしている。それを銜えっぱなしでいるのは流石に圧倒的な体の大きさを持つシルフィードでも辛いのか、手に抱え直したり、足で掴んだりと、工夫を凝らして疲れを逃がしているようだ。
本来なら、ヴェルダンデは連れて行く予定ではなかった。アルビオン大陸は空にあるからモグラが役に立つとは思えなかったし、そもそも、ギーシュからして無理矢理任務に参加した口だ。余計な荷物は少ないほうがいい。
だが、トリステイン魔法学院からラ・ロシェールまで土を掘って追いかけてきた根性とギーシュの懇願にルイズが根負けして、仕方なく同行を許可したのである。キュルケやタバサもついてきてしまったのだから、今更使い魔の一匹や二匹、気にするのもおかしな話だろう。
「なんともまあ、ほのぼのとしてるわねえ」
シルフィードに銜えられたヴェルダンデが、つぶらな瞳をキュルケに向けている。馬すら食料にするシルフィードに銜えられているのだから多少は怯えても不思議ではないのだが、そんな様子は微塵も無い。鼻をピクピクと動かすだけで、あとは落ち着いたものだ。
こんなことなら、自分の使い魔のフレイムも連れてこればよかったかしら?
殆ど遠足気分のキュルケがそんなことを考えて、体を起こした。
今日は、とても良い天気だ。
雲は少なく、日は高い。
夏が近いお陰だろう。船は相当な高度を飛んでいるというのに、肌寒さを感じることは無かった。むしろ、柔らかく吹く風が心地いいくらいだ。
湧き上がる眠気に欠伸をしたキュルケは、何か面白いものは無いかと視線をくるくるとあちこちに飛ばす。
なにか余計なことを言ったらしい才人とギーシュをルイズが叩いているが、それは見慣れた光景なので好奇心を刺激されることは無い。タバサは本に夢中になっているし、ワルドはグリフォンに寄りかかっていつの間にか寝息を立てていた。仲間内にキュルケの遊び相手になってくれる人物は居ないようだ。
視線を他に向けると、キュルケたちのいる後部甲板以外にも、中央甲板や船首のほうには人影が見て取れる。
船に乗っている客はルイズたちだけではない。未だ終わらないアルビオンの内戦に参加しようと、昨夜の騒ぎにも姿を現した傭兵達が何十人と船内で身を潜めているし、戦争を食い物とする商人らしき人物や酔狂な貴族も居るようだった。
ただ、キュルケが暇つぶしにでも粉をかけたくなるような男はいないらしい。
退屈そうに溜息を吐いたキュルケは再びテーブルに突っ伏すと、お腹の辺りに違和感を感じて眉を寄せた。
「……そういえば、お昼よね」
日は頭上にある。昼食を取るにはちょうど良い時間だろう。
才人とギーシュの折檻を終えたルイズがキュルケの呟きを聞いていたのか、これだからゲルマニアの女は下品なのよ、と馬鹿にするように言ったところで、小動物の鳴き声のような音をお腹から響かせた。
「トリステインの女は、お腹がすいたら鳴き声を上げるのね」
「う、うるさい!」
ニヤニヤと笑ってからかうキュルケに顔を真っ赤にしたルイズが歯を剥いて威嚇する。
その横で、別の人物が、きゅう、とお腹を鳴らした。
「……もういいわ。お昼にしましょう」
「……そうね」
顔を真っ赤にするタバサを置いて、ルイズはテーブルの傍に寄せ集めた私物の中から大きな籠を取り出した。
テーブルの上に乗せて籠を覆う真っ白な布を取り払うと、そこにはサンドイッチとワインのビン、それにグラスが人数分入っていた。
朝方、まだ朝食の仕込をしていた“女神の杵”亭のコックに無理矢理作らせたものだ。
一緒に入った小皿をグラスと一緒に並べ、サンドイッチとワインを分けると、ルイズは寝入っているワルドに視線を向けて小さく溜息を吐いた。
立って歩けるようにはなったが、ワルドはまだ怪我人だ。水のメイジの魔法による治癒も万能ではない。失われた体力を回復するには時間がかかるのだろう。
まったく起きる様子の無いワルドから視線を外し、まだ頭を抑えて蹲っている男子二人に声を駆けると、ルイズは自分の席に座り直して両手を組んだ。
同じように、キュルケとタバサも両手を組み、遅れて着席したギーシュもそれに倣う。
「偉大なる始祖ブリミルと女王陛下よ。今日も我にささやかな糧を与えたもうたことを感謝いたします」
食事の前の祈りの言葉だ。
トリステインは勿論、ゲルマニアにもガリアにもアルビオンにも女王陛下は居ないのだが、こういうのは定例文を使い回すものなので気にしてはいけない。実際、この祈りの言葉を学んだ当初はルイズたちも何度か首を捻ったが、今では気にならなくなっている。
ただ一人、その辺りの慣習に慣れていない才人だったが、もとより祈りの言葉なんて口にしないから気にする様子も無かった。
代わりに日本式の祈りの言葉を口にすると、目の前のサンドイッチに手を伸ばして勢い良く食らいつき、頬一杯に詰め込む。
「こら!もうちょっと上品に食べなさい!」
あまりに多く詰め込み過ぎて具の一部が才人の口の端から零れているのを見たルイズが窘めた。
「もう、世話のかかる使い魔ね!」
見かねてルイズがハンカチで才人の口元を拭うと、才人が顔を向けて頭を下げた。
「もごごもっごご、もごごごもごもぐもぐ」
何を言っているのかさっぱり分からないが、お礼を言っているらしい。
ルイズは顔を少し赤く染めると、そっぽを向いて自分の分のサンドイッチを見つめる。
「か、勘違いしないでよね。べ、別にアンタの為にやったんじゃないんだから。使い魔の食事のマナーにも気をつけないと、主人であるわたしが恥をかくのよ。そ、そうよ、それだけなんだから!」
どんどん赤くなっていく顔をキュルケとギーシュがニヤニヤ笑って見ていることにも気付かず、ルイズは俯いて兎のようにサンドイッチを齧り始めた。
傍から見れば、ただの照れ隠しだ。だが、鈍感な才人は、ルイズの言葉をそのままに受け取って肩を落とすと、残るサンドイッチを片付けに入る。
落ち込んでいるようだった。
「素直じゃないわねえ」
「まったくだ」
ルイズと才人に聞こえないように顔を寄せて呟いたキュルケとギーシュが、互いに苦笑を浮かべて二人の姿を生暖かい目で見守る。
ルイズと才人の関係は、子供同士の恋愛模様に似ていた。
お互いがお互いの気持ちに気付けず、自分が抱いている気持ちすらも良く分からないために、沢山のすれ違いを起こすのだ。
こういうのは状況に任せて放っておくのが一番なのだが、元々悪戯心の強いキュルケとギーシュにそんなことを要求するのは酷というもの。
ニヤニヤとした二人の笑みはどんどん深まり、どうちょっかいを出してやろうかと想像を膨らませる。
その横で、我関せずと自分の分のサンドイッチをいち早く食べ終えたタバサが、籠の中に残っているサンドイッチに狙いをつけていた。
言うまでも無く、ワルドの分だ。
キラリ、と瞳を輝かせたタバサが周囲の状況を確認する。
物足りないからと人の分にまで手を伸ばすのがバレたら、きっと怒られるだろう。それだけはなんとしても回避しなければ。
そういう思考で隙を窺うタバサは、視界の端でゆっくりとこちらに近付いてくる一人の傭兵の存在に気が付いた。
「失礼。もしや、昨晩“女神の杵”亭におられた貴族の方々ですかな?」
ボサボサに伸びた髪と土と血に汚れた服。それに厚みのある鎧を身に着けたむさ苦しい顔の傭兵が、テーブルから三歩ほど離れた位置に立って声をかけてきた。
「……どちら様かしら」
傭兵に顔を向けたキュルケが尋ねると、傭兵は不恰好なお辞儀をして名乗った。
「自分はドノヴァンと申します。つい昨晩、ラ・ロシェールに到着したため騒動には関与しておりませんが、自分の仲間が世話になったようで、一言お詫びをしに参りました」
どこかで見た貴族の仕草を真似ているのだろう。一つ一つの動きがぎこちなく、それでも必死に形を繕っているのが見て分かる。
礼儀を見せようとしている、ということは理解できたルイズたちだったが、それが警戒心を取り払うかどうかと言えば、否と言えた。
昨晩の騒動に直接の関与をしていないと言っていても、それが真実であるとは限らない。
彼は貴族を襲った連中の仲間なのだ。こうして襲った貴族の前に出れば、共犯や連帯責任などの適当な理由で命を奪われることも考えないはずはない。
それでもルイズたちの前に現れたということは、何か理由があるのだろう。
絶対に自分が殺されない確証があるのか。或いは、先に相手を殺すという意思を持っているかのどちらかだ。
テーブルの下に杖を隠したキュルケは、ドノヴァンを追い払おうと口を開きかけたルイズの足を踏んで止め、これから切り出されるであろう用件を問う。
すると、ドノヴァンは厳つい顔に奇妙な笑みを浮かべて、懐から二枚の紙を取り出した。
変色の仕方が違うところを見ると、違う時期に作られたもののようだ。端が同じような破け方をしているから、恐らく、同じ場所に同じ方法で貼られたものなのだろう。
一番近い位置に居たルイズがそれを受け取り、そこに書かれた文字を読み上げる。
「えっと、なになに。……生死問わず、以下の者を捕らえてガリア王に献上せよ。彼の者は王の命を狙った悪逆非道の暗殺者である。賞金は……百万エキュー!!?」
ルイズの叫びに反応したキュルケとギーシュが立ち上がり、ルイズの横に駆け寄った。
「ウソ!?本当に?あ、本当に百万エキューって書いて……って、あら?ここに描かれている人の顔って……」
「どこかで見た顔だね。……というか、うん。昨日見たよ」
覗きこんだ紙の中央に描かれた人物画を見て、キュルケとギーシュはサンドイッチを食べているタバサに視線を送る。
少し冷たいものを含んだ視線を受けて、無関心を貫いていたタバサが顔を逸らした。
「あ!やっぱり、タバサの知り合いじゃないの!!」
誤魔化すようにサンドイッチを食べる速度を上げたタバサにキュルケが詰め寄り、両肩を掴んで激しく揺さぶる。一方で、ギーシュは紙を見つめて何事かを考えた様子を見せたかと思うと、両手を、パン、と叩いて声を上げた。
「そうか!宿を襲撃した傭兵達は、ミス・タバサの知り合いを狙っていたんだ!そう考えれば、彼らが突然動きを変えたのも理解が出来る。うむ、僕らを狙っていたヤツも居たのだろうけど、大半は賞金に釣られた連中だったというわけだな」
納得がいった。とギーシュが神妙な顔で頷いている。
キュルケは未だに視線を逸らしているタバサを睨みつけると、鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて聞いた。
「タバサ。もしかして、知ってた?あの人たちが賞金首だってこと」
「……知らない。それは本当に知らない」
首をぶんぶんと横に振るタバサに疑惑の目を向けるキュルケは、タバサの顔を両手で挟んで動きを止めると、その瞳をじーっと見つめた。
タバサのこめかみに脂汗が浮く。
「もう一度聞くわ。……知ってたわね?」
剣呑な空気を詰め込んだ言葉に、タバサはとうとう首を縦に振った。
やっぱり、と呟いてタバサから離れたキュルケは、腰に両手を置いて悪戯をしている子供を見つけた母親のような顔になった。
「どうして隠してたの!あらかじめ知っていたなら、昨晩の襲撃事件だって他に対処の仕方があったと思わないの?タバサの交友関係に口出しするつもりは無いけど、そういう大事なことを隠したりしないで欲しかったわ」
過ぎたこととは言え、一時は命の心配だってしたのだ。このくらいの物言いはしてもいいだろうと、見ているルイズたちもキュルケを止めようとはしなかった。
だが、タバサは口を塞いでいたサンドイッチを飲み込んで、キュルケの言葉に首を横に振る。
「違う。賞金首だったのは昔の話。わたしが知っているのはそのときのことで、今も賞金首だとは聞いてない」
その言葉にキュルケは目を丸くすると、振り返ってドノヴァンの姿を目に映した。
「どういうことよ」
賞金首が過去のことなら、出された紙はただの誹謗中傷の類となる。
そんなものに振り回されたのかという怒りもあったが、それを今見せる意味が一体なんなのかを確かめるのが先だと、キュルケはしたり顔のドノヴァンを睨み付けた。
「まあ、落ち着いてください、貴族様。もう一枚の紙を見て頂ければよろしいかと」
ドノヴァンの手がルイズの持つ紙を指し示す。
紙は二枚あるのだ。なら、もう一枚の紙に真実が書かれているのだろう。
キュルケはルイズから賞金首の張り紙を奪い取ると、後ろに重なっているもう一枚の紙を上に乗せて、そこに書かれている文字を読んだ。
「……生死問わず、以下の者を捕らえてガリア王に献上せよ。彼の者は王の命を狙った悪逆非道の暗殺者である。賞金は10エキュー。ガリアの名において、それを保証するものなり」
「まったく同じ文じゃないの!」
ルイズが立ち上がり、同じようにギーシュも抗議の目をドノヴァンに向けた。だが、話について行けずにワインをチビチビと飲んでいた才人が首を捻って、先程の手配書との違いを指摘した。
「10エキューなのか。凄い下がり方してるな」
すぐには才人の言葉の意味が理解できずに食って掛かりそうになったルイズは、はっとしてキュルケに顔を向ける。
「じゅ、10エキュー?百万じゃなくて、10なの?」
「……そうみたいね。金額の項目が凄く寂しくなってるわ」
もう一つの手配書をキュルケが差し出すと、ルイズとギーシュがそれを睨みつけるように見た。
確かに、10エキューと書いてある。文章は使い回しらしく、数字の部分だけに空間が空いているせいで余計に金額の小ささが浮き彫りになっていた。
「えっと、罪状は一緒なのよね?だったら、なんでこんなに金額が下がってるわけ?ガリアの王様と裏取引でもしたの?」
ルイズの疑問ももっともだろう。事情を知らない人間にとっては、さっぱり理解できない値動きだ。
しかし、裏取引ならこんな中途半端な額ではなく、いっそのこと賞金そのものを取り下げるのではないか。
そんな疑問に答えられそうな人物が一人だけ居るために、自然と注目は一人の人物に集まった。
「タバサは事情を知ってるわよね?」
キュルケの問いに、タバサは小さく頷く。
しかし、その口からルイズたちの期待するような言葉が飛び出すことは事は無かった。
「今は話せない。いつか話せる日が来るから、そのときまで待って欲しい」
その言葉に、キュルケは仕方無さそうに肩を竦めてタバサの頭を撫でた。
「あなたがそう言うなら、きっと深い訳があるんでしょうね。でも、いつか必ず話しなさいよ」
もう一度、タバサが頷いた。
「……で、結局なんなんだい。君は昨日の事件を振り返ってあれこれ話すために、ここに来たわけじゃないんだろう?」
話がわき道にそれたという自覚があるのか、ドノヴァンはギーシュの言葉に苦笑いを浮かべてボサボサの頭をかいた。
「へへ。とりあえず、自分達が貴族の旦那方を狙ったわけじゃないってことだけ、覚えておいて欲しかったんですよ」
要するに、無罪を主張しているわけだ。
だが、そんなことを主張しなくても、昨晩の襲撃に係わった傭兵たちを司法が裁けるわけではない。傭兵たち一人一人の顔や特徴など覚えていられるはずが無いのだから、自然と襲撃事件は闇へと葬り去られるだろう。
なら、狙いは別にある。
「それ以外にも、何かあるんじゃないの?」
タバサの頭を撫でながらキュルケが尋ねると、ドノヴァンは卑屈な笑いを浮かべてタバサに視線を合わせた。
「その賞金首、貴族様と一緒に居たんでしょう?それはちょいと、不味いんじゃねえですかい?なにせ、その賞金首は王族を殺しかけて追われているヤツだ。もし、そんなヤツと親しいなんて知られたら……」
そこで言葉を止めたドノヴァンに、ルイズたちは顔を真っ青にした。
実際に王を殺してはいないとはいえ、暗殺者と一緒に居るということはそういう目的を持っていると思われても仕方がない。誰の暗殺を目的としているかなんて、ホル・ホースが追われている理由を考えれば一目瞭然だ。
これが公になれば、ルイズたちは王家に反旗を翻そうと画策する逆賊と呼ばれるだろう。
タバサはまだ良い。元々そういうことを計画していたし、ジョゼフ自身にもそれは知られていることだ。今更、ガリア王家が何かを言ってくることは無いだろう。
だが、ルイズ、ギーシュ、キュルケの三人は別だ。特に、キュルケの故郷、ゲルマニアの皇帝は力でのし上がってきたタイプの王であるために、反逆の意図があるなどと思われればどうなるか分からない。
ルイズやギーシュは、天国か地獄かのどちらかだろう。
王女から直接賜わった任務を成功されば、いくらか言い訳の材料が生まれる。逆に、もしも失敗でもしようものなら、スパイの烙印を押されて絞首刑だ。任務の内容が知られている原因がルイズたちにあるのではないかと疑われれば、もう反論の余地が無くなる。
才人はルイズと運命を共にするとしても、その一方で、ワルドは場合によっては言い逃れが出来るかもしれない。
件の暗殺者と決闘をして重傷を負ったという事実は、彼の身の潔癖を証明するのに都合の良いものだ。説得力は十分ではないが、運が良ければ無罪を勝ち取れる可能性もある。
ルイズたちがホル・ホースと一緒に居た時間はたったの一日であるため、一緒に居たと証言できる目撃者は多くないだろうし、ドノヴァンの言うようなことに気付く者は更に少ないはずだ。
ならば、ここでドノヴァンを口封じすれば、ルイズたちは疑いをかけられずに済む。
そう。口封じをしてしまえば、全ては丸く収まるのだ。
真っ先に杖を構えたギーシュが、ドノヴァンを睨みつける。
「おおっと、待った!そういう危ないものはしまって貰うぜ。オレは仲間の代表で交渉に来ただけだ。オレに手を出せば、仲間が事実を言いふらす。こっちにもメイジはいるからな、全員どうにかしようってのは考えないほうがいいぜ」
その言葉に、ギーシュは呻いて杖を下ろした。
「……要求はなに?」
沈んだ表情でそう言ったルイズに、ドノヴァンは満足そうに笑みを深めた。
下品な笑みだ。最初に取った不細工な礼儀は、ルイズたちを馬鹿にしていたのだろう。
「へ、へへへ」
厭らしい笑みを浮かべたドノヴァンがゆっくりと近付き、テーブルの上に置かれた中身の残っているワインビンに手を伸ばした。
赤い液体がドノヴァンの口に注がれ、喉が大きく鳴り響く。
「うめぇ。貴族様ってのは、こんな上手い酒を毎日飲んでるのか?うらやましいねえ」
中身を飲み干したドノヴァンが空になったワイン瓶を放り出して感嘆の息を漏らし、ルイズたちを値踏みするように見つめる。
状況は最悪だ。命を握られたに等しい。
握られた弱みが大き過ぎるのだ。要求されるのが金だけなら構わないし、ある程度の理不尽な条件も、なんとか飲むしかないのだろう。
だが、ドノヴァンが要求したものは、ルイズたちにとって一番譲れないものだった。
「杖を渡せ」
その言葉に、ルイズたちの表情が絶望に染まる。
昨夜の内にラ・ロシェールから飛び立ったものとは別の、アルビオンへ向かう旅客を乗せた定期便だ。
左右を見れば、同じような目的を持つ船が二隻、空を併走しているのが見える。大陸間を行き来する船は、様々な事故や空賊などの襲撃を防ぐため、普段から艦隊を形成して運行することが多い。この艦隊もその例に漏れず、三隻を一つの隊として運用していた。
中央を飛ぶ船の後部甲板にある貴族用のテラスでテーブルを囲んでいるのは、“女神の杵”亭の襲撃を乗り越えて翌朝の出発に漕ぎ付けたルイズ達だった。
太陽は頭上に輝き、鮮やかな青に染まった空には白の国の姿が見えている。
アルビオンを直接見るのは初めてであるギーシュと共に、才人も口をだらしなく開けてその光景を見上げ、隣で偉そうにアルビオンの歴史を語るルイズの言葉を右から左へと聞き流していた。
その様子を退屈そうに眺めている赤い髪の少女が、欠伸交じりに呟いた。
「到着は、まだ時間がかかりそうねえ」
わざわざ早起きをして朝一番の船に乗ったのだが、もう5時間以上も経過している。風向きがいいため、普通よりも早くスカボローの港に到着するだろうと船長から話を聞いていたのだが、まさか、船旅がここまで長いとは思ってもいなかった。
最初は空の景色に歓声を上げていたのだが、天気に変化が無いため、変わらない空の姿にすぐに飽きてしまった。そうなると、やることがまったく無いのが苦痛になる。
「到着は夕方」
「わかってるわよ。ちょっと言ってみただけ」
本から目を離さずに声を発したタバサに、キュルケは投げやりの答えた。
出発前に船長から到着予定時間は聞いている。まだ昼を回ったところなのだから、少なくとも、あと4時間はかかるはずだ。
退屈な時間は過ぎるのが遅い。適当に騒いでいるうちに到着するだろうと思っていた予測が大きく外れた為に、キュルケは暇で死にそうだった。
テーブルに力なく頭を乗せて、甲板の隅で寝転がるグリフォンを視界に入れる。そこには、少し背中の煤けたワルドの姿もあった。
今朝から一度として、ルイズはワルドと視線を合わせていない。話しかけられれば対応くらいはするが、酷く事務的で、倦怠期の夫婦を見ているかのようだった。
“女神の杵”亭での出来事が尾を引いているらしい。まあ、メイジの分身ともいえる使い魔を決闘で散々叩きのめした挙句、婚約者を名乗っておきながら魅力を感じない、なんて言ったのだから、今の関係に落ち着いても仕方がないだろう。
グループの輪から抜けてグリフォンと戯れる魔法衛士隊隊長の姿は、あまりにもあんまりな光景で、見ているこっちが辛くなる。かといって、救いの手を差し伸べる気にもなれなかった。
テーブルに寝かせた頭を逆方向に向けると、キュルケは船と船の間を優雅に飛ぶ青い竜の姿を見つける。
ギーシュの使い魔であるヴェルダンデを口に銜えたシルフィードだ。
巨大なモグラの姿をしたジャイアントモールという種族のヴェルダンデは、人間の大人よりも少し大きい体をしている。それを銜えっぱなしでいるのは流石に圧倒的な体の大きさを持つシルフィードでも辛いのか、手に抱え直したり、足で掴んだりと、工夫を凝らして疲れを逃がしているようだ。
本来なら、ヴェルダンデは連れて行く予定ではなかった。アルビオン大陸は空にあるからモグラが役に立つとは思えなかったし、そもそも、ギーシュからして無理矢理任務に参加した口だ。余計な荷物は少ないほうがいい。
だが、トリステイン魔法学院からラ・ロシェールまで土を掘って追いかけてきた根性とギーシュの懇願にルイズが根負けして、仕方なく同行を許可したのである。キュルケやタバサもついてきてしまったのだから、今更使い魔の一匹や二匹、気にするのもおかしな話だろう。
「なんともまあ、ほのぼのとしてるわねえ」
シルフィードに銜えられたヴェルダンデが、つぶらな瞳をキュルケに向けている。馬すら食料にするシルフィードに銜えられているのだから多少は怯えても不思議ではないのだが、そんな様子は微塵も無い。鼻をピクピクと動かすだけで、あとは落ち着いたものだ。
こんなことなら、自分の使い魔のフレイムも連れてこればよかったかしら?
殆ど遠足気分のキュルケがそんなことを考えて、体を起こした。
今日は、とても良い天気だ。
雲は少なく、日は高い。
夏が近いお陰だろう。船は相当な高度を飛んでいるというのに、肌寒さを感じることは無かった。むしろ、柔らかく吹く風が心地いいくらいだ。
湧き上がる眠気に欠伸をしたキュルケは、何か面白いものは無いかと視線をくるくるとあちこちに飛ばす。
なにか余計なことを言ったらしい才人とギーシュをルイズが叩いているが、それは見慣れた光景なので好奇心を刺激されることは無い。タバサは本に夢中になっているし、ワルドはグリフォンに寄りかかっていつの間にか寝息を立てていた。仲間内にキュルケの遊び相手になってくれる人物は居ないようだ。
視線を他に向けると、キュルケたちのいる後部甲板以外にも、中央甲板や船首のほうには人影が見て取れる。
船に乗っている客はルイズたちだけではない。未だ終わらないアルビオンの内戦に参加しようと、昨夜の騒ぎにも姿を現した傭兵達が何十人と船内で身を潜めているし、戦争を食い物とする商人らしき人物や酔狂な貴族も居るようだった。
ただ、キュルケが暇つぶしにでも粉をかけたくなるような男はいないらしい。
退屈そうに溜息を吐いたキュルケは再びテーブルに突っ伏すと、お腹の辺りに違和感を感じて眉を寄せた。
「……そういえば、お昼よね」
日は頭上にある。昼食を取るにはちょうど良い時間だろう。
才人とギーシュの折檻を終えたルイズがキュルケの呟きを聞いていたのか、これだからゲルマニアの女は下品なのよ、と馬鹿にするように言ったところで、小動物の鳴き声のような音をお腹から響かせた。
「トリステインの女は、お腹がすいたら鳴き声を上げるのね」
「う、うるさい!」
ニヤニヤと笑ってからかうキュルケに顔を真っ赤にしたルイズが歯を剥いて威嚇する。
その横で、別の人物が、きゅう、とお腹を鳴らした。
「……もういいわ。お昼にしましょう」
「……そうね」
顔を真っ赤にするタバサを置いて、ルイズはテーブルの傍に寄せ集めた私物の中から大きな籠を取り出した。
テーブルの上に乗せて籠を覆う真っ白な布を取り払うと、そこにはサンドイッチとワインのビン、それにグラスが人数分入っていた。
朝方、まだ朝食の仕込をしていた“女神の杵”亭のコックに無理矢理作らせたものだ。
一緒に入った小皿をグラスと一緒に並べ、サンドイッチとワインを分けると、ルイズは寝入っているワルドに視線を向けて小さく溜息を吐いた。
立って歩けるようにはなったが、ワルドはまだ怪我人だ。水のメイジの魔法による治癒も万能ではない。失われた体力を回復するには時間がかかるのだろう。
まったく起きる様子の無いワルドから視線を外し、まだ頭を抑えて蹲っている男子二人に声を駆けると、ルイズは自分の席に座り直して両手を組んだ。
同じように、キュルケとタバサも両手を組み、遅れて着席したギーシュもそれに倣う。
「偉大なる始祖ブリミルと女王陛下よ。今日も我にささやかな糧を与えたもうたことを感謝いたします」
食事の前の祈りの言葉だ。
トリステインは勿論、ゲルマニアにもガリアにもアルビオンにも女王陛下は居ないのだが、こういうのは定例文を使い回すものなので気にしてはいけない。実際、この祈りの言葉を学んだ当初はルイズたちも何度か首を捻ったが、今では気にならなくなっている。
ただ一人、その辺りの慣習に慣れていない才人だったが、もとより祈りの言葉なんて口にしないから気にする様子も無かった。
代わりに日本式の祈りの言葉を口にすると、目の前のサンドイッチに手を伸ばして勢い良く食らいつき、頬一杯に詰め込む。
「こら!もうちょっと上品に食べなさい!」
あまりに多く詰め込み過ぎて具の一部が才人の口の端から零れているのを見たルイズが窘めた。
「もう、世話のかかる使い魔ね!」
見かねてルイズがハンカチで才人の口元を拭うと、才人が顔を向けて頭を下げた。
「もごごもっごご、もごごごもごもぐもぐ」
何を言っているのかさっぱり分からないが、お礼を言っているらしい。
ルイズは顔を少し赤く染めると、そっぽを向いて自分の分のサンドイッチを見つめる。
「か、勘違いしないでよね。べ、別にアンタの為にやったんじゃないんだから。使い魔の食事のマナーにも気をつけないと、主人であるわたしが恥をかくのよ。そ、そうよ、それだけなんだから!」
どんどん赤くなっていく顔をキュルケとギーシュがニヤニヤ笑って見ていることにも気付かず、ルイズは俯いて兎のようにサンドイッチを齧り始めた。
傍から見れば、ただの照れ隠しだ。だが、鈍感な才人は、ルイズの言葉をそのままに受け取って肩を落とすと、残るサンドイッチを片付けに入る。
落ち込んでいるようだった。
「素直じゃないわねえ」
「まったくだ」
ルイズと才人に聞こえないように顔を寄せて呟いたキュルケとギーシュが、互いに苦笑を浮かべて二人の姿を生暖かい目で見守る。
ルイズと才人の関係は、子供同士の恋愛模様に似ていた。
お互いがお互いの気持ちに気付けず、自分が抱いている気持ちすらも良く分からないために、沢山のすれ違いを起こすのだ。
こういうのは状況に任せて放っておくのが一番なのだが、元々悪戯心の強いキュルケとギーシュにそんなことを要求するのは酷というもの。
ニヤニヤとした二人の笑みはどんどん深まり、どうちょっかいを出してやろうかと想像を膨らませる。
その横で、我関せずと自分の分のサンドイッチをいち早く食べ終えたタバサが、籠の中に残っているサンドイッチに狙いをつけていた。
言うまでも無く、ワルドの分だ。
キラリ、と瞳を輝かせたタバサが周囲の状況を確認する。
物足りないからと人の分にまで手を伸ばすのがバレたら、きっと怒られるだろう。それだけはなんとしても回避しなければ。
そういう思考で隙を窺うタバサは、視界の端でゆっくりとこちらに近付いてくる一人の傭兵の存在に気が付いた。
「失礼。もしや、昨晩“女神の杵”亭におられた貴族の方々ですかな?」
ボサボサに伸びた髪と土と血に汚れた服。それに厚みのある鎧を身に着けたむさ苦しい顔の傭兵が、テーブルから三歩ほど離れた位置に立って声をかけてきた。
「……どちら様かしら」
傭兵に顔を向けたキュルケが尋ねると、傭兵は不恰好なお辞儀をして名乗った。
「自分はドノヴァンと申します。つい昨晩、ラ・ロシェールに到着したため騒動には関与しておりませんが、自分の仲間が世話になったようで、一言お詫びをしに参りました」
どこかで見た貴族の仕草を真似ているのだろう。一つ一つの動きがぎこちなく、それでも必死に形を繕っているのが見て分かる。
礼儀を見せようとしている、ということは理解できたルイズたちだったが、それが警戒心を取り払うかどうかと言えば、否と言えた。
昨晩の騒動に直接の関与をしていないと言っていても、それが真実であるとは限らない。
彼は貴族を襲った連中の仲間なのだ。こうして襲った貴族の前に出れば、共犯や連帯責任などの適当な理由で命を奪われることも考えないはずはない。
それでもルイズたちの前に現れたということは、何か理由があるのだろう。
絶対に自分が殺されない確証があるのか。或いは、先に相手を殺すという意思を持っているかのどちらかだ。
テーブルの下に杖を隠したキュルケは、ドノヴァンを追い払おうと口を開きかけたルイズの足を踏んで止め、これから切り出されるであろう用件を問う。
すると、ドノヴァンは厳つい顔に奇妙な笑みを浮かべて、懐から二枚の紙を取り出した。
変色の仕方が違うところを見ると、違う時期に作られたもののようだ。端が同じような破け方をしているから、恐らく、同じ場所に同じ方法で貼られたものなのだろう。
一番近い位置に居たルイズがそれを受け取り、そこに書かれた文字を読み上げる。
「えっと、なになに。……生死問わず、以下の者を捕らえてガリア王に献上せよ。彼の者は王の命を狙った悪逆非道の暗殺者である。賞金は……百万エキュー!!?」
ルイズの叫びに反応したキュルケとギーシュが立ち上がり、ルイズの横に駆け寄った。
「ウソ!?本当に?あ、本当に百万エキューって書いて……って、あら?ここに描かれている人の顔って……」
「どこかで見た顔だね。……というか、うん。昨日見たよ」
覗きこんだ紙の中央に描かれた人物画を見て、キュルケとギーシュはサンドイッチを食べているタバサに視線を送る。
少し冷たいものを含んだ視線を受けて、無関心を貫いていたタバサが顔を逸らした。
「あ!やっぱり、タバサの知り合いじゃないの!!」
誤魔化すようにサンドイッチを食べる速度を上げたタバサにキュルケが詰め寄り、両肩を掴んで激しく揺さぶる。一方で、ギーシュは紙を見つめて何事かを考えた様子を見せたかと思うと、両手を、パン、と叩いて声を上げた。
「そうか!宿を襲撃した傭兵達は、ミス・タバサの知り合いを狙っていたんだ!そう考えれば、彼らが突然動きを変えたのも理解が出来る。うむ、僕らを狙っていたヤツも居たのだろうけど、大半は賞金に釣られた連中だったというわけだな」
納得がいった。とギーシュが神妙な顔で頷いている。
キュルケは未だに視線を逸らしているタバサを睨みつけると、鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて聞いた。
「タバサ。もしかして、知ってた?あの人たちが賞金首だってこと」
「……知らない。それは本当に知らない」
首をぶんぶんと横に振るタバサに疑惑の目を向けるキュルケは、タバサの顔を両手で挟んで動きを止めると、その瞳をじーっと見つめた。
タバサのこめかみに脂汗が浮く。
「もう一度聞くわ。……知ってたわね?」
剣呑な空気を詰め込んだ言葉に、タバサはとうとう首を縦に振った。
やっぱり、と呟いてタバサから離れたキュルケは、腰に両手を置いて悪戯をしている子供を見つけた母親のような顔になった。
「どうして隠してたの!あらかじめ知っていたなら、昨晩の襲撃事件だって他に対処の仕方があったと思わないの?タバサの交友関係に口出しするつもりは無いけど、そういう大事なことを隠したりしないで欲しかったわ」
過ぎたこととは言え、一時は命の心配だってしたのだ。このくらいの物言いはしてもいいだろうと、見ているルイズたちもキュルケを止めようとはしなかった。
だが、タバサは口を塞いでいたサンドイッチを飲み込んで、キュルケの言葉に首を横に振る。
「違う。賞金首だったのは昔の話。わたしが知っているのはそのときのことで、今も賞金首だとは聞いてない」
その言葉にキュルケは目を丸くすると、振り返ってドノヴァンの姿を目に映した。
「どういうことよ」
賞金首が過去のことなら、出された紙はただの誹謗中傷の類となる。
そんなものに振り回されたのかという怒りもあったが、それを今見せる意味が一体なんなのかを確かめるのが先だと、キュルケはしたり顔のドノヴァンを睨み付けた。
「まあ、落ち着いてください、貴族様。もう一枚の紙を見て頂ければよろしいかと」
ドノヴァンの手がルイズの持つ紙を指し示す。
紙は二枚あるのだ。なら、もう一枚の紙に真実が書かれているのだろう。
キュルケはルイズから賞金首の張り紙を奪い取ると、後ろに重なっているもう一枚の紙を上に乗せて、そこに書かれている文字を読んだ。
「……生死問わず、以下の者を捕らえてガリア王に献上せよ。彼の者は王の命を狙った悪逆非道の暗殺者である。賞金は10エキュー。ガリアの名において、それを保証するものなり」
「まったく同じ文じゃないの!」
ルイズが立ち上がり、同じようにギーシュも抗議の目をドノヴァンに向けた。だが、話について行けずにワインをチビチビと飲んでいた才人が首を捻って、先程の手配書との違いを指摘した。
「10エキューなのか。凄い下がり方してるな」
すぐには才人の言葉の意味が理解できずに食って掛かりそうになったルイズは、はっとしてキュルケに顔を向ける。
「じゅ、10エキュー?百万じゃなくて、10なの?」
「……そうみたいね。金額の項目が凄く寂しくなってるわ」
もう一つの手配書をキュルケが差し出すと、ルイズとギーシュがそれを睨みつけるように見た。
確かに、10エキューと書いてある。文章は使い回しらしく、数字の部分だけに空間が空いているせいで余計に金額の小ささが浮き彫りになっていた。
「えっと、罪状は一緒なのよね?だったら、なんでこんなに金額が下がってるわけ?ガリアの王様と裏取引でもしたの?」
ルイズの疑問ももっともだろう。事情を知らない人間にとっては、さっぱり理解できない値動きだ。
しかし、裏取引ならこんな中途半端な額ではなく、いっそのこと賞金そのものを取り下げるのではないか。
そんな疑問に答えられそうな人物が一人だけ居るために、自然と注目は一人の人物に集まった。
「タバサは事情を知ってるわよね?」
キュルケの問いに、タバサは小さく頷く。
しかし、その口からルイズたちの期待するような言葉が飛び出すことは事は無かった。
「今は話せない。いつか話せる日が来るから、そのときまで待って欲しい」
その言葉に、キュルケは仕方無さそうに肩を竦めてタバサの頭を撫でた。
「あなたがそう言うなら、きっと深い訳があるんでしょうね。でも、いつか必ず話しなさいよ」
もう一度、タバサが頷いた。
「……で、結局なんなんだい。君は昨日の事件を振り返ってあれこれ話すために、ここに来たわけじゃないんだろう?」
話がわき道にそれたという自覚があるのか、ドノヴァンはギーシュの言葉に苦笑いを浮かべてボサボサの頭をかいた。
「へへ。とりあえず、自分達が貴族の旦那方を狙ったわけじゃないってことだけ、覚えておいて欲しかったんですよ」
要するに、無罪を主張しているわけだ。
だが、そんなことを主張しなくても、昨晩の襲撃に係わった傭兵たちを司法が裁けるわけではない。傭兵たち一人一人の顔や特徴など覚えていられるはずが無いのだから、自然と襲撃事件は闇へと葬り去られるだろう。
なら、狙いは別にある。
「それ以外にも、何かあるんじゃないの?」
タバサの頭を撫でながらキュルケが尋ねると、ドノヴァンは卑屈な笑いを浮かべてタバサに視線を合わせた。
「その賞金首、貴族様と一緒に居たんでしょう?それはちょいと、不味いんじゃねえですかい?なにせ、その賞金首は王族を殺しかけて追われているヤツだ。もし、そんなヤツと親しいなんて知られたら……」
そこで言葉を止めたドノヴァンに、ルイズたちは顔を真っ青にした。
実際に王を殺してはいないとはいえ、暗殺者と一緒に居るということはそういう目的を持っていると思われても仕方がない。誰の暗殺を目的としているかなんて、ホル・ホースが追われている理由を考えれば一目瞭然だ。
これが公になれば、ルイズたちは王家に反旗を翻そうと画策する逆賊と呼ばれるだろう。
タバサはまだ良い。元々そういうことを計画していたし、ジョゼフ自身にもそれは知られていることだ。今更、ガリア王家が何かを言ってくることは無いだろう。
だが、ルイズ、ギーシュ、キュルケの三人は別だ。特に、キュルケの故郷、ゲルマニアの皇帝は力でのし上がってきたタイプの王であるために、反逆の意図があるなどと思われればどうなるか分からない。
ルイズやギーシュは、天国か地獄かのどちらかだろう。
王女から直接賜わった任務を成功されば、いくらか言い訳の材料が生まれる。逆に、もしも失敗でもしようものなら、スパイの烙印を押されて絞首刑だ。任務の内容が知られている原因がルイズたちにあるのではないかと疑われれば、もう反論の余地が無くなる。
才人はルイズと運命を共にするとしても、その一方で、ワルドは場合によっては言い逃れが出来るかもしれない。
件の暗殺者と決闘をして重傷を負ったという事実は、彼の身の潔癖を証明するのに都合の良いものだ。説得力は十分ではないが、運が良ければ無罪を勝ち取れる可能性もある。
ルイズたちがホル・ホースと一緒に居た時間はたったの一日であるため、一緒に居たと証言できる目撃者は多くないだろうし、ドノヴァンの言うようなことに気付く者は更に少ないはずだ。
ならば、ここでドノヴァンを口封じすれば、ルイズたちは疑いをかけられずに済む。
そう。口封じをしてしまえば、全ては丸く収まるのだ。
真っ先に杖を構えたギーシュが、ドノヴァンを睨みつける。
「おおっと、待った!そういう危ないものはしまって貰うぜ。オレは仲間の代表で交渉に来ただけだ。オレに手を出せば、仲間が事実を言いふらす。こっちにもメイジはいるからな、全員どうにかしようってのは考えないほうがいいぜ」
その言葉に、ギーシュは呻いて杖を下ろした。
「……要求はなに?」
沈んだ表情でそう言ったルイズに、ドノヴァンは満足そうに笑みを深めた。
下品な笑みだ。最初に取った不細工な礼儀は、ルイズたちを馬鹿にしていたのだろう。
「へ、へへへ」
厭らしい笑みを浮かべたドノヴァンがゆっくりと近付き、テーブルの上に置かれた中身の残っているワインビンに手を伸ばした。
赤い液体がドノヴァンの口に注がれ、喉が大きく鳴り響く。
「うめぇ。貴族様ってのは、こんな上手い酒を毎日飲んでるのか?うらやましいねえ」
中身を飲み干したドノヴァンが空になったワイン瓶を放り出して感嘆の息を漏らし、ルイズたちを値踏みするように見つめる。
状況は最悪だ。命を握られたに等しい。
握られた弱みが大き過ぎるのだ。要求されるのが金だけなら構わないし、ある程度の理不尽な条件も、なんとか飲むしかないのだろう。
だが、ドノヴァンが要求したものは、ルイズたちにとって一番譲れないものだった。
「杖を渡せ」
その言葉に、ルイズたちの表情が絶望に染まる。