• グローバル化でも国家の役割は強まっている
今日、ある会社が投資を行うためには、国家がインフラ全体や環境面での条件といった様々なものを整えます。国家の役割または公的な力が今ほど重要であったことはないと、私は主張したい。そこで、視野そのものをシフトさせなければいけません。グローバル資本主義の下で、国家が役割を失っているという見方は誤っています。(35)

  • パリ暴動について
[パリ暴動で]抗議していた者は、たしかに排除され恵まれていなかったものの、飢餓に苛まれてやっとのことで生存しているわけではなかった。……今回の破壊行為はほぼ全面的に、自分たち自身に向けられていた。燃やされた車や学校は裕福な地域のものではなく、抗議を行っていた者たちが属する階層が苦労して獲得した物であったのだから。(44-5)

  • 不確定な自由選択
最も内面的な衝動(性的志向等)さえ、選択的なものとして経験されるという傾向が強まっているのだ。……すべきことを《本当にわかっている》者などいない。状況が極端に《不確定的》であるにもかかわらず、我々は判断しなければならない。……自由な決定という義務は、不安を呼び起こすいやらしいギャンブルのような体験になる。運命予定説を皮肉な形で反転させたかのように、私は状況をきちんと把握しないまま迫られた決断について責任を問われるのである。《リスク社会》の主体が享受する選択の自由とは、運命を自在に決定づけられる者の自由ではなく、引き起こす結果を知らずに判断を強制された者が不安を駆り立てられるような自由なのだ。(81-2)

  • 選択の不自由
これ[アーミッシュの若者が共同体で生活した後に、英語的な逸脱的快楽の世界をも体験し、結局は共同体に戻ること]は、《選択の自由》という概念に必ずつきまという問題を示す好例だ。アーミッシュの青年たちには、形式的には自由な選択が委ねられているものの、決定をするときに置かれている状況によって自由な選択が妨げられるのだ。

  • ハラスメント
今日、他者に対する自由主義的で寛容な態度を決定づける主題は二つある。他者性を尊重する解放的な姿勢、そしてハラスメントを恐れる強迫観念である。端的にいえば他者は、侵入的でなく、存在感が薄い限りにおいて許容されるのだ。こうして寛容は、逆の概念と重なり合う。相手に対して寛容であれという私の義務が実質的に意味するのは、近づきすぎるな、彼・彼女の空間に踏み込んではならないということなのである。言い換えれば、自分が距離を縮めすぎた事実に対する相手の不寛容を、尊重する必要があるのだ。後期資本主義社会において、中心的な《人権》として浮上しつつあるのが、まさしくこの《ハラスメント》を受けない、すなわち他者から安全な距離を保つ権利なのである。(142)

  • 倫理は主体性を諦めることから始まる
倫理の第一歩は、絶対的に自己を措定する主体性という立場を諦め、自らの露出/投げ出された事実、《他者(性)》による圧倒を認識することである。我々の人間性に制約を加えるどころか、この限定は人間性の積極的な条件である。……ユダヤの伝統では、神聖なモーゼの律法が外部から力ずくで強要された、偶然のトラウマ的体験だとされている。この事実を、忘れてはならない。いってみれば、《法をつくる》、信じがたいが実在する《もの》だった。宗教的・イデオロギー的問答の究極的場面とも呼べるシナイ山での十戒の宣言は、自己理解と自己実現の道から《有機的に》派生するような結果とは対照的で、純粋な倫理的暴力である。(146-7)
最終更新:2007年03月30日 17:15