桐乃視点 00



0巻0章 桐乃視点 接点の雷雨



これはあたしが……、
ん~~。ちょっとした失敗をしちゃう一月前のお話――

五月のある日曜日の朝。
あたしはお父さんとお母さんを玄関で見送っていた。
一昨日の夜に聞いたことなんだけど、これから福島の叔父さんの家へ法事に出かけるんだって。
うちの家からずっと遠いから、そのまま一泊して明日の午後に帰ってくるらしい。それまであたしはお留守番というわけ。
まぁ、子供じゃないんだし? 寂しいなんてことはない。
どっちかって言えば、ちょっと羽を伸ばせそうであたしは嬉しい。
「はいコレ、今日のご飯代ね。適当におかず買って食べてちょうだい」
「うん、分かった。――それじゃあ行ってらっしゃい。お父さん、お母さん」
気持ち良く挨拶をして二人を送り出す。
「では、行ってくる」
「お土産買ってくるからねー」
バタンと玄関の扉が閉まり、お父さんの運転する車の音が遠ざかっていった。
おっし! これで堂々とリビングでメルルちゃんのDVDが見放題、きゃっほおお!
…………てぇワケにはいかないんだよね。
両親のいなくなった家の中に鬱々とした空気が漂いだして、あたしは口を真一文字に閉ざす。
「……………………」
「……………………」
もう一人、黙りこくってるのは誰かって?
チッ、あたしがこの世でいっちばん話したくも一緒にいたくもなくて、ウザくてキモいヤツよ。
お父さんとお母さんの子供で、あたしの年より三つ上、名前は高坂京介。はい、説明終わり。
これからそんなやつと一日中二人きりで家にいるなんてゾッとするようなことあたしがするわけない。
友達のあやせと遊びに行く予定入れといて正解ね。
待ち合わせにはまだ時間あるし、リビングでくつろいでよっと。
玄関から踵を返してリビングに入っていこうとすると、後ろから「おい」と声をかけられた。
無視。
バタンと扉を閉めて、あたしはソファの定位置に腰を下ろす。
あっ、お昼にどっか美味しい店がないか探しておくか。
ポケットから携帯を取り出して、カコカコとキーを打鍵してブラウザからグルメ情報を探していると、

「返事くらいしろよ。聞こえてんだろうが」
扉が開いて無愛想な雑音が聞こえてきた。
「……ちッ……っさい」
「ああ?」
苛立ち気な声があたしの気分をたちまち壊していく。
うっざ! マジうっざ!
なんなのコイツ、いつもいつも無視してくれちゃってるくせに気安く話しかけてくんなバカ。
「……………………」
「おまえ今日メシどうすんの?」
は? ご飯? ブラウザには美味しそうなパスタのお店。ここにしようかな?
……っとと。聞こえませーん、あんたの声なんか聞こえませんからぁ。
呼びかける声を入ってきた耳の穴から反対の耳の穴へと素通りさせて、構わずに携帯の画面に目を走らせる。
「……………………」
「返事しろっつってんだろ。耳が聞こえねえのかよ」
あぁ~~~~もう、しつっこいなぁ。あたしがご飯をどこで食べようがアンタには関係ないでしょ!
イラっときたが、このまま放って黙っていても引き下がりそうにないので、しぶしぶとあたしは答えた。
「っさいな……外で食べる。友達と」
「夕飯は?」
「家」
「じゃあ金寄越せよ、スーパーで惣菜でも買ってくるから」
手を出してお金を催促してくる。
「はあ?」あんたアタシのヒモにでもなる気?
「『はあ?』じゃねえ。おまえ友達と出かけんだろ? そんで遊びに夢中になって、買い物忘れられちゃあ困るんだよ」
…………そういうことね。
ご飯どうするかなんて普段口にしないことをどうして聞いてくるかと思ったら、結局自分のお腹が心配だってことか……。
チッ。
「うざ……もう出かけよ……」
愛想の無い冷ややかでぶっきらぼうで、興味も何も無いくせにただ必要だから仕方なく吐きかけられてくる声。
あたしはコイツの口から吐かれるこの声が一番キライだ。
聞きたくもない声を聞き続けて、せっかくのあやせと遊ぼうとする楽しい一日に水を差されたくない。
お母さんから預かった千円札二枚をテーブルに叩きつけて、あたしは立ち上がった。
時間は早いけど、さっさと準備して出かけようとリビングを出る。
「……邪魔。――どけ」
「………………チッ」
眉を寄せて舌を打っている横をすり抜けて、階段を上がって自分の部屋へと入った。
「あ~~~~イライラするイライラするッ!」
分かったでしょ、あたしとアイツの関係。一緒に暮らしててもこんなもんよ。
さっきのだってめったにない会話で、いつもはもっとシカト決め込んでそこに人がいないように扱っている。
仲が悪いっていう以前に、一言で言えばもう。…………ハ、他人なの。
もう、昔のことなんかも忘れちゃって砂の中に埋まってっちゃいそうになってるくらいにね。
「死ね。バーカ」
姿見に映る自分を見ながらあたしは心底思っていることを口にした。
それから着替えやバッグを用意したりしていると、扉の向こうからまたアイツの声が聞こえてきた。
「俺出かけッからな。玄関、鍵かけとけよ」
階段を下りて、玄関が開閉する音。
はあ? 留守番頼まれてんのにどこ行く気よあいつ。あたしが出かけんだからアンタ部屋で引きこもってなさいよ。また地味子の家にでも行く気? キッモぉ、そんなにあっちが良いなら養子にでもなってろ。
だいたい、
「妹一人、家に置いてくとかサイテー……」
誰にとはなく、一人ぼやくあたし。
やだやだ、くっだらない。あんなやつのことなんて考えてないでさっさと出かけよう。あやせとせっかく遊ぶんだしね! 今日はアクセ欲しいって言ってたから、あたしが良いの選んであげよ。
バッグを手に取って、階段をトントンと下り、玄関でパンプスを履いてアタシはあやせとの待ち合わせ場所に出かけた。
カチャンと鍵を閉め、誰もいない家を後にして。

家を出てから、あやせと合流して街でショップを見て回ったりおしゃべりしていると楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。
電車に揺られて自分たちの駅に着いてから、夕日の薄赤い道を会話しながら歩いていつもの別れ路までやってくる。
「桐乃、今日は楽しかったよ」
「あたしも。あやせってば、はしゃいじゃって携帯振り回して落とすんだもん。アハハ、おかしかった!」
「も、もう! 桐乃のイジワル! あれはだって桐乃がアクセをプレゼントしてくれるなんて言うから……っ」
「えっへへ。冗談冗談♪」
あやせってばおかしいんだよね。アクセあたしが選んであげるって言ったら、ちょうど手に持ってた携帯を手をあげて放り投げちゃってんだもん。
ワタワタしてるとこを店員さんが笑いながら拾ってくれて、顔赤くしてぺこぺこ頭さげてんの。チョー可愛過ぎじゃない?
「スッゴイ喜んでくれて嬉しいよ。アタシもあやせのくれたチョーカー大切にするね」
「うん、ありがと桐乃♪ 来週の撮影の時にいっしょにつけて行こっ」
あやせは天使のような笑顔で答えてから、今度は別の話題を振ってきた。
「そういえば、今日はおじ様とおば様が留守だって言っていたけど大丈夫?」
「平気だってー。子供じゃないんだから」
「そっか、そうだよね。あっ今日の夜、雨が降るらしいよ。洗濯物とかあったら――」
「もぉ~~~~心配し過ぎ! お母さんだよその台詞って?」
「あはは、ゴメン。――えっと、それじゃそろそろ。桐乃また明日学校でね」
「オッケー。ばいばい、あやせ」
手を振りつつあやせに別れを告げて、あたしは家へと帰っていった。
あやせと遊んで楽しかった一時に頬を緩ませながら家へとたどり着いて、玄関の鍵を開けようとすると、
「あれ、開いてんじゃん」
扉を開けると汚ったないスニーカーが一足。
あいつ先に戻ってたのか……、まっどうでもいいけどねー。
ポコンと爪先でスニーカーを蹴っ飛ばして廊下に上がり、さっさとあたしは部屋へと引っ込んだ。
部屋でやるべき勉強に没頭して時間を過ぎ去らせていき、時計が七時近くを指し示す頃。
「夕めし」
あたしの部屋がノックされて木製の扉越しにくぐもった言葉が飛んできた。
もうそんな時間か。
手を組んで大きく伸びをして、「はぁ~~」と大きく息を吐いてからアタシはキッチンへと下りていった。
リビングを抜けてキッチンのテーブルを見ると、スーパーで買ってきたのだろう惣菜とちょっとした野菜が皿に盛られて置いてあり、その横でインスタントの味噌汁が湯気を立たせている。
ふーん、ちゃんとあたしの分も忘れずに用意してんじゃん。
椅子に座ると、炊飯器から炊きあがったご飯を茶碗によそってあたしに渡してきた。
黙って受け取る。
自分の分もよそって席に着くのをすがめ見てから、あたしたちは手を合わせてお決まりの言葉を言って食事を始めた。

「いただきます」
「……いただきます」
オカシイっしょ? 自分でもなーんでコイツと二人っきりでご飯食べてるんだろって思うもん。
ずっと続けているとさ、言われなくても続けちゃうもんなのよね。
うちの夕食の時間は七時きっかり、部活の練習とか特別な用事が無い限り、時間に遅れたらもうご飯は出てこない。
頭と体、っていうか胃袋に教え込まれてるから、たとえこんな状況でもそれは変わらない。親が留守だからって門限を破って遊んでようって性格じゃないしねアタシ。
だから黙ったままの味気も無いつまんない時間と分かってても、コイツと二人きりでこうして一緒にご飯を食べているってこと。
もくもくと箸をすすめていると、横から様子を窺うような視線が向けられていることに気がついた。
気にしなきゃいいのにアタシはついつい口を聞いてしまう。
「……………………なに見てんの?」
まさかとは思うけど、なんか言いたいことでもあんの?
素っ気の無い言葉をかけるとこいつはこう言った。
「……家族の前だってのに化粧すんのな、おまえ」
「……えっ……」
え、え!? ど、どうして? なんでアンタから……。
撮影のときのカメラマンさんやスタイリストの女性スタッフさん、それに友達とかと交わされる常套句のような挨拶。
『わたしたちの前でもお化粧してくれてんだね』
化粧とかじゃなくても、そういう言葉には『ありがとう、可愛いオシャレな姿を見せてくれて嬉しいよ』って意味合いが含まれる。
女の子同士、オシャレな格好をして皆に見てもらうのは、もちろん自分を褒めて欲しいってのがあるけど、相手に可愛いモノを見せて喜ばせてあげたいって気持ちが強い。
あたしも言われるだけじゃなく、あやせたちに『今日のピアス良いね』とか言って、それで一緒になって会話に花を咲かせて楽しんでる。
そんな言い聞き慣れていた言葉を、言われるはずも無い相手から耳朶に届けられたせいで、あたしは思わず呆然とした。
けど、瞬時に自分が抱いてしまった想いなんてゴミクズのような勘違いだと理解する。
向けられていた目が冷たい色をしていたから。
ハ、分かってるでしょあたし? そんなこと言うわけないってさ。
こいつが考えていそうなことなんて、どーせ中学生が化粧するなんてバカらしいとか、似合っていないとかそんなところ。
それとも年上ぶって兄貴風でも吹かせようとしてるつもり? マジで死んだ方がいいんじゃない? うっざぁ!
あたしは自己嫌悪する心をぶつけて投げるように言う。
「勝手でしょ? 文句でもあるわけ?」
「………………別に」
あ~~~~ばっかばっかしいこと考えた。箸を動かしていると、
「…………惣菜、テキトーに買ってきたけど、それで大丈夫だったか」
こっちを見ずに味噌汁をすすりながら、またすげない口調で話しかけてきた。
お皿に盛られているのはマッシュポテトとからあげと野菜。
別に文句は無いけど。それであたしがダメって言ったらアンタどうすんの? 今から走って別のおかず買ってきてくれんの?
もういい。しゃべるなっ、キモい!
「………………」
無視を決め込むことにして、あたしは坦々とご飯を食べた。
「………………」
「………………」
隣に座っているやつも話しかけることは無くなり、無言の食卓にカチャカチャと食器の音と夕飯を咀嚼する音だけが響く。
ふぅ、気分が滅入ってくるっつうの。しゃべればウザイけど、しゃべらなくてもウザイなこいつ。
まともに話が出来ればこんな気分になることは無いんだろうけど、それが出来る間柄じゃ無くなってしまったアタシとコイツにはこうして黙りこくってお互いを見ないのがちょうど良い距離感なのかもしれない。
二人だけで食卓を囲んでいても、いつの頃からか離れていってしまった距離は縮まること無い。
「……ごちそうさま」
さっさと食べて食器を洗ってからあたしは部屋へと戻った。

――リビング。
「はあぁっ~~やっぱ大画面で見るメルルちゃんかわいいいぃぃぃぃ!?」
夕ご飯を食べた後に、部屋でキリの良いところまで勉強を済ませてからエロゲー攻略に勤しんでたんだけど、邪魔者がお風呂へ入っていったのを確認してからリビングに戻ってきて、こうやって大型テレビでDVD鑑賞をしてんの。
お母さんたちがいない今だからこそ出来ることよね!
今夜はちょっと夜更かしして劇場版ぜんぶ見よ~うっと。
お風呂入ってからパジャマに着替えて、メルルちゃんのアニメ観ながらメルルちゃんの抱き枕抱えてメルルちゃんのお菓子食べて。うへへへ、考えただけでヨダレ出てきちゃう。
開放感に身をほころばせながらクッションを胸に抱いてテレビの画面に熱中しているあたし。
だけどそこへ楽しみを邪魔するようにウザイやつがまたまたやってきた。
ガチャリと扉の開く音。
「!?……っ……」
ちょっ!?
慌ててあたしはリモコンを素早く手に取って赤い色をした電源ボタンを力強く押し込みテレビを消す。
くぅぅぅぅぅぅ~~~~、良い場面だったのに、もうっ!
「………………チッ、なに?」
慌ててテレビを消したことを不審に思ったのかジト目であたしの方を見ているバカに、怒鳴ってやりたい気持ちをなんとか押し込んで静かに威嚇する。
「……そんなに慌てて消して、なんの番組観てたんだ?」
「……なんでもいいでしょ」
苦々しく言ってやると「ま、そりゃそうだ」と視線をあたしとテレビから外して冷蔵庫へと歩いていった。
「うざい、出てけ」
「チッ。これ飲んだらな」
冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いで飲んでいる。
腰に手なんかやって。クサッ! おじんクサッ! ばかばか、ばーか! 早く出てけ!
「なに観てんのか知んねえがあんま夜更かしすんなよ」
飲んだコップを流しに置いて、あたしが眉間にしわを作って睨んでたのが気に食わなかったのか、そんな捨て台詞を吐いてリビングを出ていき階段を上がっていった。
「フン、年長者ぶっちゃって。アンタなんかに言われたくないんですケド!」
出て行った扉に向かって言葉をぶつけてからあたしは再びテレビを付けてアニメを観始めた。
画面を見ながら。
はー、ちょっとヤバかった。危うく見られるとこだったじゃん。ま、あいつに見られたからってどうってことないのかも知んないけど……。
そんなことを考えつつも、なんでだかアタシの心はモヤモヤとしていた。
メルルちゃん観てたらすぐにどっかいったけどね。

それから少し時間が経って。
「そろそろお風呂入ろ」
DVDを停めてあたしは一旦部屋へ戻ると、着替えと下着を持ってお風呂場へと向かった。
脱衣所で服と下着を脱いでお風呂場に入る。
「っと。その前に~♪ へへへ」
部屋から持ってきたメルルちゃんが描かれた箱から入浴剤の入った袋――ちなみにこれが最後の一袋ね――を取り出してお湯が張られた浴槽にサラサラサラ。
薄いピンクの色合いがすぐにお湯の中で広がっていき、花の匂いが鼻腔へ届く。
「うー良い匂い。これで最後だったけどまた今度買ってこよう」
空になった入浴剤の箱を脱衣所に置き、髪と体を洗ってから湯船につかり、ちゃぷちゃぷと手で温かいお湯を遊ばせながら、あたしはメルルちゃんの入浴剤を楽しんだ。
あやせと遊んで、リビングの大画面でアニメ観て。あとはこのままお風呂から上がってまたDVD鑑賞の続きをすれば、あいつと話したことがちょっと気に食わないことだけど、まぁまぁ満足な一日が終わりを迎えるかな?
だけど――、
そんな充足感を引き裂いて壊すように、突如として世界が豹変した。
「ッ!?」
蛍光灯とは違う光が瞬いたと思ったら、バリバリバリバリッ! と轟音が家の外で鳴り響いた。
どういう事態が起こったかさえ脳が判断する時間も与えられないまま、バチッと電気が走る音がして視界が闇に閉ざされた。
「へぇぇッ!? な――な、なんなの? ど、どうなって…………キャあッ!?」
暗闇に刹那の青白い光りが走って、バシーンともう一度大きな音が轟き。
間髪いれずザーッと激しい雨音が聞こえ、次いでゴウゴウと強い風が巻き起こる。家の壁や窓に横なぶりに雨が打ちつけられ火薬が爆ぜるような音。
それらに呼応するようにギシリと家鳴りがする。
「か、雷が落ちて……。な、なんで!? 台風なんて来てないのに!?」
あやせが雨が降るって言っていたけど、こんなの知らないよっ!
ようやく身に起こったことを飲み込めたが、あたしはヒドイ混乱状態に陥っていた。
幼いときから嵐や雷がニガテだった。
大人になってもその頃の記憶は簡単に拭い去れるわけじゃないけど、来ると知っていればヘッドホンをつけて考えないようにしたり、さっさと布団の中に包まって寝たりとそれなりの対策をしてやり過ごしていた。
だけど、突然襲いきたことに、服も着ていないあたしは対処しきれず……、
「ゃ……やだ。あ、あたしこんなのキライだもん! ――早く、早く電気点いてよぉぉ!? …………ィヤ、ィャだよぉ」
重く、暗く。恐怖があたしを潰してしまおうと圧し掛かる。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――ッ!
首筋まで湯船に沈め、目と耳を塞いで足を抱きかかえるように折り曲げて、あたしは必死に恐怖から逃れるようとした。
「こんなの…………いや。…………………………助けてよ、…………ぃ」
小さい頃に経験した恐怖が記憶の奥深くから浮かび上がってくる。
あの時も凄い怖かったことを覚えている。お父さんは仕事、お母さんもおらず今日みたいに留守番をしていて、幼いあたしは絶望するように泣いていた。
だけど、それでも。
怖がるあたしを安心させてくれるように柔らかく腕に抱きしめて、頭を優しく撫でてくれる手があった。
でも…………その手はもう、無い……。

「……………………」
体を丸めてジっと嵐が過ぎ去るのをひたすらに待ち続けたけど、一向に雨と風は収まってくれない。
時間にして十分くらいなんだろうけど、そのときのあたしには何時間ものように思えた。
風が当たってガタガタと鳴る窓は恨めしく。
早く、早くどっかいってよ! あたしを怖がらせてどうする気よ!? い、いつまでも怖がってるアタシじゃないんだかんね!?
恐怖心を叩きのめそうと無理やりに怒りを起こして雨と風と雷に向かって心の中で吼えて叫ぶ。
それでも嘲笑うように風雨は激しく吹きつけてきて、「……っ…………ゃだもう」あたしの目には涙が浮かび始めた。
と、
脱衣所の扉が開き、磨りガラスの向こう側から光が現れた。
懐中電灯だろうか、鳥の子色をした丸い光が揺らめいて近づいてくる。
「きゃっ……だ、誰!?」
「うえっ!?」
「だ、だだだ誰!? そこにいんの誰! は――入ってこないでよ変態! 殺すよ!?」
イヤ! なんのホラー映画よコレェッ!? 嵐が具現化して襲ってきたって言うの!?
普通に考えればそれが誰かなど分かろうというものだが、恐怖で混乱していたあたしは色を失って闖入者に金切り声を上げる。
叫んだ言葉にライトの動きが止まって、
「え!? き――桐乃か!?」
「ええっ? あ――」
そこでようやく入ってきたのが誰かを認識した。
「…………なんだ、あんたか……はぁ……」
入ってきた人間がよーく知っている相手と分かり安堵の息を漏らす。
ていうか、そりゃそうよね。この家にはアタシとコイツしかいないわけなんだからさ。
「も、もぉ~~~~~~~~! びっくりさせないでよ!」
薄らいでいく恐怖に安心して驚かされたことを責めると「す、すまん」と素直に謝られた。
突発的な事態が精神状態を普通に戻さなかったのか、あたしは自然と口が動いて『普通』にコイツとしゃべりだしていた。
「お、お風呂入ってたら……い、いきなり真っ黒になって……」
「そ、そか」
「電気……点かないわけ?」
「……………………」
ちょ、ちょっと! どうして黙ってんのよ!? な、なんか話してよ!
こ、怖がらせようとしてんじゃないでしょうね、あんた!? だったら許さないケド!
「……………………もう、そこにいないの? いるでしょ?」
薄い扉の向こうへ、不安の色と沈黙していることへの憤慨の色を混ぜ含めて投げつけると、ややあって返事が返ってきた。
「ブレーカーは上げてきたけど、見てのとおりだ。まだ家中の電気が点かねえよ」
「……じゃあ、いつ点くわけ?」
「知るか」ぶっきらぼうな答え。
チッ、使えねー。
電気の復旧はいつになるか不明ってことか。まだビュウビュウと風も吹いてて、雷の音もまだ聞こえてきてる。しばらくはこのままとか?
「……外、風すごいし……窓とか、大丈夫かな?」
「雨戸閉めといたから、平気だろ」
「そ、そう」
「ああ」
へ、へー。
やることやってるんだ、へー。いつもモノグサそうにしてるくせに。ふーん、へぇ~。
珍しくコイツのことをほんのちょっとだけ見直したアタシ。ちょっとだけよ? う、うん、砂糖一粒ぐらいちょっとだけ……。

会話が途切れ、継穂が探せないままに風の音を聞いていると、今度は向こうから言葉が投げかけられてきた。
「へっ……さてはおまえ、怖いんだろ」
「なッ――」
図星。
湯につかって赤くなっていた顔が更に赤らんできたことに、そんなわけ無いのに見られているような羞恥を覚え、
「なわけないじゃん!」
湯船の水面に音の震えで波紋を広げる。
サ、サイッテー! からかうとかウザ、超ウザ! あ、あたしは怖がってなんかないもん、ちょっとだけビビっちゃって震えていただけだもん!? バ、バカにすんな!
なにをアホなこと考えているのやら。見ているわけでもないの鼻を鳴らしてそっぽを向き、ほんとアタシは何やっているのやらだ。
顔を赤くしたままほっぺたを膨らませ。
こいつがまたつまんないこと言いだしたらキモいって百回は言ってやろうと考えていると……。
思いもしなかった言葉が磨りガラスを通ってあたしへと届いた。
「そうか? いま思い出したけど、おまえガキのころ雷で停電になって泣いたことあったよな。あれ、まだ治ってないんじゃねーの?」
相変わらずあたしのことをからかうような言葉、だけど柔らかく優しい、まるであたしのことをしっかりと見つめているような音律で。
そして、それはあたしがさっき暗闇の中で浮かび上がらせた思い出の出来事。
「……………………」
覚えてたんだ…………あたしと同じように。あんたも……。
現われた記憶の情景が目の前で像を結ぶように描き出され動き出す。

『うえぇん、怖いよぉ! お母さん、お母さん! 雷様怖いよぉ。ひぐっ……っぐ、うえぇぇん!』
あたしはぐずって泣いている。出かけているお母さんを必死に呼んで。
そんなあたしを泣きやまそうとふわりと体に抱き抱えてなぐさめる声。
『だ、だだだ大丈夫だぞ桐乃!? こ、これくらいの雷なんて平気だ。お母さんもすぐに帰ってくるから。ほら、泣くなよ。怖くない、怖くないから』
自分だって怖がっているくせに、必死にあたしが泣いているのをあやす……。
『うぅ……でもまだ雷様怒ってるしぃ。あぐっ、えぐ、えぐ。……うぇ、うぇぇん』
『よしよしよし。だ、大丈夫。怖くない、怖くないから。兄ちゃんがいるから、な? ちゃんとずーっとずっと、おまえのそばにいてやるから』
頭を撫でて、アタシから離れないって。ずっとそばにいてくれるからって……。
『ぅ、ぅえぇぇ……。ひく……ひっく…………』
『ずっとそばにいるから…………』

それからお母さんたちが帰ってくるまで、話もせずに二人きりでずっと一緒にいた。
そんな〝いつか〟のように、今のあたしたちも。
「……………………」
未だ雨も止まず外から風の音がひびいてきている暗い心細い空間に、あたしはなぜか心が安らいでいた。
「あの……まだ、そこにいんの?」
「ん、おう」
そっか。いるんだ、あんた。
「桐乃、懐中電灯つけっぱで、ここ置いとくからな」
「う、うん……」
あたしにそう告げると、置かれた懐中電灯の光が揺らめいて、背を向けて脱衣所の外へと出ようとする影を映す。
「ね、ねぇ……ちょ、待ってよ」
湯船から上がり、薄い磨りガラスの扉一つを隔てて、向こう側にある影へ呼びかける。
「あん?」
「あ、あのさ……」
「あんだよ?」
すげない台詞に一度噤むが、振り返ってあたしを見つめている相手はいつかのようにそばにいる。
あたしはどこかへ繋がっている細い細い糸を追って言葉を紡ぐ。
その糸の先に……、
無くなっちゃったと思っていたものが目の前に……、手の届く場所にあって……、
それを取り戻そうと掴むように……。

「――――てよ」

言葉に重ね合わせるように雷鳴が起こり、あたしの伸ばした指先は消えた。
と、そこでぱちぱちと電灯が煌いて部屋の電気が点き、家の中に明るさが戻る。
心なしか、風の音も小さくなっていってるみたい。
「……なんだって?」
雷の音に邪魔されて聞こえなかったのか、聞き返してくる。
だけど家に明るさが取り戻されると同時にあたしの平常心も戻ってきて、
「な――なんでもないっての! お風呂上がるからさっさと出てけっ!」
き、聞こえてなくて良かったぁぁぁ――――ッ! あ、あたし何を恥ずかしいこと言おうとしてんのよ!?
うかつ。どうかしてた。
よりによってこいつに……~~~~っくうぅぅあぁあぁぁ! ば、ばばばっかじゃん!?
「…………」
どんな顔をすればいいか分からず顔面をうにうにと動かしていると扉の向こうで舌打ちが聞こえた気がして、イライライラっと頭にいつもの感覚がやってきた。
そうそう、こいつにはこう感じるのが当然なの! さっきのなんて無し無しッ!
「……ちょっと! まだいんの?」
電気ついてるからって、ガラス越しにアタシの裸を視てんじゃないでしょうね、この痴漢!
「へいへいへいへい――邪魔したな」
スケベはそんな言葉を残して去っていった。
いなくなったのを確認してからアタシはお風呂から出て、体を拭いてバスタオルを身に纏う。
はぁぁ、長湯になっちゃったなぁ、ちょっとノボせちゃった。
「早くリビング行って冷たい麦茶でも飲も」
髪の毛をタオルで押さえつけて水気を拭きとっていると、すみに備え付けられたゴミ箱にあるものを発見する。
「えっ! メ、メルルちゃん!?」
ゴミ箱に捨てられた入浴剤の箱を拾いあげてポンポンと丁寧に埃を落とす。
「信じらんない、誰がこんなヒドいことを!?」
って一人しかいないじゃん、さっきまでここにいたあのやろうよ。ゆ、許さないんですけどォ~!
しかし、はたとそれが自分の重大な秘密事項だと気づいて怒りから瞬転、ちょっとしたパニック状態へ。
「あ、危な! 危なかったあぁぁぁぁッ!? バ、バレてないよね!? 暗かったしなんにも言わなかったし!?」
きっと暗いから足にでもぶつかって、中身も無いから興味も出ずにそのまま捨てたんだ。
「はぁぁぁ~~良かったー。…………にしたってさぁ」
捨てるとかふざけてるよね、ほんっと分かってないんだから。中身使った後でも箱には可愛いイラストが描かれてんだから充分楽しめんのに、この愛くるしい絵が目に入らなかったのアイツ?
暗くて目に入らなかったからバレずに済んだんだけど、そんなこと知らない! メルルちゃんをぞんざいに扱う方が悪いっつうの!
箱のイラストを見つめたままあたしは口を尖らせる。それから天井のアイツの部屋の方を睨めつけて文句を言ってやろうとしたけど、諦観が無駄なことはするなとアタシにささやいた。
「分かるわけ……ない、か」
この箱見てなんとも思わなかったのかな……?
ひょっとして、あたしのモノだって気付いてても黙って…………そんなわけないじゃんね。
箱に描かれたメルルちゃんの顔を見ながら、あいつがいなくなった脱衣所であたしは独り呟く。
「あたしとメルルちゃんのことが分かってくれる人。――――欲しいね」


そして一ヶ月後。
あのとき呟いたあたしの願いは叶った。
……ま、叶ったっつっても百分の一くらい? しかも相手がこいつってのがチョー気に食わないとこなんだけどねー。
誰って。決まってんジャン、こいつよ、こ・い・つッ!
あたしがこの世でいっちばん話したくも一緒にいたくもなくて、ウザくてキモいヤツよ。
お父さんとお母さんの子供で、あたしの年より三つ上、名前は高坂京介。
そんでせ~~っかくこのあたしがメルルちゃんの良さを教えてあげようとしてんのに、半目でうんざりしたような顔している――、
「このバカ〝兄貴〟! あんたちゃんと観てんの!? さっきからぼーっとしてさあ!」
「ッちょぉ~!? 腕掴んで引っ張るな! うぉおぉ、脳が揺れる!? ――し、しっかり観てますって!」
「本当に?」
「ま、マジで」
「じゃあ、今さっきのシーンの台詞、言ってごらんなさいよ?」
「そんないちいち覚えていられるかッ!」
「はぁ゛ん? 頭悪いのアンタ? あるちゃんがメルルちゃんを助けようとしているところで神シーンだったでしょ! 覚えてないとか有り得ないんですケド!? ねえ、聞いてんの?」
「あ~~、てゆうか今思い出したけどさ」
とあたしの言葉を聞き流して(あとで殺す)、何やら合点したように話しかけてきた。
「そっか。一月前におまえが観てたのって――メルルだったんだな。だからあんなに慌てて消したわけか。あと入浴剤も」
「は? なんのこと?」
「先月さ。雷で停電になったとき――親がいないからって、おまえリビングでメルルのDVD観たり、メルルの入浴剤使って風呂入ってたりしてたろう」
「あー、あれね。それがどうしたっての?」
「当時の俺、もうちょいでおまえの秘密に気付いてたなってさ。そう思っただけだ」
「ふん、だからなに?」
そう言えば、あんたメルルちゃんの入浴剤の箱をゴミ箱に捨ててたよね?
う~思い出したら腹立ってきた。今日はまたお母さんたちが法事で留守だからちょうどいい機会ね、もったいない気がするけど入浴剤使ってあげて、捨てるなんてとんでもないって教え込ませてやろう。
なんか言ってきたら浴槽に沈めてやる!
「あのときって、おまえさ、俺に何を言いかけてたんだ?」

な――ななな!? あ、あのときって、ど、どのときよ!? い、一ヶ月も前のことなんていちいち覚えてんじゃないっつうの、こっちは忘れたい記憶だってのに!
「い、いまさらどうでもいいじゃん、そんなの」
追及されたくないのでそっぽを向いて強制的に話を終わらせる。
時間を見やると、夕方か。兄貴とアニメ観てて気付かなかったけどお腹空いてきたな。
「そんなことより、もう六時過ぎてんじゃん。御飯作って」
「え? 俺が作んの?」
「とーぜんでしょ? それともなに? 妹の手料理が食べたかったわけ?」
最近分かったことだけど、兄貴ってシスコンなんだよね。あたしのことでチョー必死になってんの。うひぃ~三次元の兄貴キモ!
でも認めようとしないけどね。食べたかったら素直に言えばぁ~?
「冗談じゃねえ」
はいはい無理しちゃって。
「あっそ。じゃあほら、早く、作って」
「しょうがねえな。炒飯でいいか?」
「ばっかじゃないの、そんなカロリー高いの食べられるわけないじゃん。あたしって読モなんだよ? 読者モデル。分かる? ねえ?」
「シリアルでも食ってろ!」
なんかふざけたこと言って目を丸くしてんですけど、このバカ兄貴。スルースルー。
「ホラぁ、早くしてよ。ご飯食べたら、お風呂入って、そんで新作のエロゲーやるんだからさあ」
「へーえ、そりゃスゲー、さすが桐乃、素晴らしい予定でございますね」
ソファから立ち上がった兄貴はキッチンの方でエプロンをしながら、あたしの超満足いく休日の予定を称えてくる。
「まあねー、ちなみに『真妹大殲シスカリプス』っていってぇ、いまチョー流行ってる対戦アクションなの! 今夜も沙織とネット対戦する約束してるんだ! さっきまでずーっと練習してたから、今日は絶対負けないし! あのぐるぐる眼鏡にマジでリベンジかますから!」
ふるぼっこされた恨みは恐ろしいわよ、沙織? あんた踏み台にしてあのクソ猫にもいつか勝っちゃうんだからね!
あーでもその前に、ひっくい土台が勘違いしちゃっているから、釘刺しておかないとねー♪
「あのさ、他人事みたいに言ってるけど、あんたもやるんだよ。また貸してあげるから」
「なんで!?」
冷蔵庫から顔をあげて変な顔をこっちに向けている。
当たり前のこと言わせないでくんない? そんなの……、決まってんじゃん?
「人生相談。まだあるっつったっしょ?」
「……っかぁ~~~~~~~………………マジかよ…………」
驚いてやんの。言っとくけど、あんた今日はずっとアタシといっしょにゲームだかんね。
顔に手を当てながら天井を仰いでいる兄貴。
足を伸ばしてソファのいつもの定位置からそれを見ているあたしの顔は――――――

自分でも、よく分かんないや。へへ。





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最終更新:2010年10月22日 22:03
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