「京介と桐乃の流星観察」




八月の初旬。
俺は妹を流星観察に誘った。

「ペルセウス座流星群?」
「ああ、名前くらい聞いたことあるだろ?」
「……知らない」
「そうか?流星群の中じゃ結構有名なんだぜ?」
「だから、知らないって言ってるじゃん。バカにしてんの?」
「バカになんかしてねーよ。とにかく、一緒に見に行かないか?」
「……なんで?」
「あん?」
「なんであたしを誘うの?」
「兄貴が妹を誘うのに、理由がいるかよ」
「大学で気になってる女の子でも誘えばいいじゃん」
「生憎、俺の周りには一緒に星を観に行ってくれるような女がいなくてな」
「ふぅん。それで、妹のあたしを慰み者にするんだ?」
「ネガティブ思考も大概にしとけよ。
 行きたくないならハッキリそう言え」
「だ、誰もそんなこと言ってないじゃん」
「お前、さっきから、のらりくらりと質問かわしてばっかりじゃねーか。
 行くのか?行かないのか?どっちなんだよ」
「あたしは……兄貴がどうしてもあたしと一緒に行きたいって言うなら、行ってあげてもいいケド?」
「はぁ……俺はどうしても、お前と一緒に行きたい。どうだ、これで満足か」
「………………うん」
「日時は明後日の夜。車で迎えに行く。
 着く直前にメール送るから、玄関先で待っててくれ」

「……あ、あのさ。流星群は、あたしたちだけで観に行くの?」
「そのつもりだ。大所帯で観に行くようなモンでもねえしな。
 なんだ、誰か誘いたいヤツでもいるのか?」
「ううん。あやせも加奈子も、その日は予定があって忙しいって言ってたし……」
「そっか。じゃあ、明日の朝早いから、切るぜ。おやすみ、桐乃」
「うん。……おやすみ、兄貴」

携帯電話を充電器に挿し、ベッドに寝転がる。
耳を澄ませば、隣の部屋から桐乃の声が聞こえるような気がした。
でも、それは錯覚だ。
ここは安普請のアパートの一室。両隣に住まうは赤の他人。
今年の春から、俺は一人暮らしをしている。
大学への通学時間を短縮するため。
自由気儘な独身生活を満喫するため。
理由はいくつか挙げられるが、最後に背中を後押ししたのは、やはり、妹の存在だった。

――『どうして、何も言ってくれなかったの?』――

耳許で蘇る、湿った声。

――『嘘でしょ?ねえ、嘘って言ってよ』――

碧眼が潤み、涙が頬を伝う光景は、今でも瞼の裏に焼き付いている。

――『やだっ、取り消して!無かったことにして!』――

痣が残っているわけでもないのに、叩かれた胸が痛んだ。

家を出てから、もう四ヶ月が経というとしている。
時の流れを早く感じるのは、充実していた証だろうか。
大学、バイト、一人暮らし。
環境の変化に追われて、慣れることで精一杯だった。だから、過去を顧みる余裕がなかった。
違うだろ、と誰かが心の裡で言った。
順序が逆だ。お前は過去を顧みることを避けていた。だから、忙殺されることを望んだ……。

「……もう、許してくれてるよな」

独りごちて、目を閉じた。
その夜、俺は久しぶりに、ガキの頃の夢を見た。


時は流れ二日後。
バイトを早上がりさせてもらい、俺はその足で実家に向かった。
車は中古のトールワゴン。無数の擦り傷はご愛敬。

『あと五分で着く』

と桐乃にメールを送ると、

『お母さんとお父さんに会ってけば』

と返ってきた。
そこから一度も赤信号に遭わなかったために、返信することなく自宅に到着する。
遠目に見えた三つの人影は、お袋と、親父と、桐乃だった。

助手席側の窓を開けて、俺は言った。

「一家総出かよ。大げさだな」

お袋が言った。

「あんたねえ、夏休みくらいは顔を見せに帰ってきなさいよ。
 あたしはそうでもないけど、お父さんなんか京介が出てってから、ずっと寂しそうにしてるんだから」
「なっ、でたらめを言うな!」と親父が慌てて否定する。
「ほらね?」

親父は咳払いを一つ、衰え知らずの眼光で俺を射貫くと、

「……京介、学生は学業が本分であることを忘れてはいないだろうな」
「酒にもギャンブルにも溺れてねえよ」

もちろん女にも、な。

「健康には常に気を遣え。体が資本だ、若い内は特にな」
「へいへい」

いい加減、電話で耳にタコができるほど聞かされたセリフだ。
なんだその返事の仕方は、ちゃんと分かっているのか、と憤慨する親父を宥めながら、

「気を付けて行ってらっしゃい」

とお袋が桐乃の肩から手を離した。
コクリ、と肯く桐乃の様子は、まるで借りてきた猫のよう。

「くれぐれも危険のないようにな」と親父。
「あんたが変なことしちゃダメだからね」とお袋。

「分かってるっつーの。……行ってきます」

桐乃が乗り込んだことを確認し、俺は車を発進させた。
バックミラーに映る親父とお袋の姿が、どんどん小さくなっていく。
今度バイトの休みをもらって、ゆっくり帰省するか……。
そんな思いを巡らせつつ、俺は助手席の寡黙な妹に話しかけた。

「今日は随分とめかし込んでるな」
「……悪い?」
「悪かねーけど、お前、これからどこ行くか、ちゃんと分かってんのか?」
「知らない。ていうか、あんただって教えてくれなかったじゃん」
「星を見るなら、光害の少ない田舎と相場が決まってんだよ」

ファッションセンスを競い合う都会の街角じゃねえぞ。
それに、いくら夏とは言え、あんまり露出度の高い格好は感心しねえな。
大きく胸元が開いたシャツも、ピチピチ丈のミニスカートも、
ちょいと派手な動きしただけで、大事な部分が見えちまうぞ。

「うっさい、エロい目で見んな!
 あたしがどんな服着ようが、あたしの勝手でしょ?
 それよか、あんた、他に言うことがあるんじゃないの?」
「……髪、黒に戻したんだな」
「反応遅すぎ」

「気づいてなかったわけじゃねえよ。
 お袋からも電話で聞かされてたしな。
 にしても、いったいどういう心境の変化だ。
 俺は茶髪の時より、今の方が断然好みだけどよ?」
「べっ、別に、あんたを喜ばせるために戻したワケじゃないし!
 これからは清純系がウケるってプロデューサーの人に勧められたから、その通りにしただけ」

じゃ、俺はその人に感謝しねえとな。
ついでに清純系の流行が長続きしますように、と祈っておくか。
県道に入るためにハンドルを切ると、ふと、左手の甲に視線を感じた。

「……車の運転、もう慣れたんだ」
「そりゃあ、毎日使ってるからな。
 ついでに言うと、料理の腕もかなり上達したんだぜ」
「ドヤ顔で言うのやめてくんない?」
「毎日自炊してんだ、少しくらい自慢してもいいだろ。
 お前もモデル業に飽きたら、俺みたいにキッチンで働けよ。嫌でも腕が上がるぞ」

その前に客の苦情で辞めさせられなければ、の話だがな。
桐乃が作った料理の不味さは、実兄の極書つきだ。

「モデルの仕事に飽きるとか有り得ないから。
 ていうか、なんでこのあたしが暑苦しい厨房に立たなくちゃならないワケ?
 フツーに考えて、ウェイトレスでしょ?適材適所って言葉知ってる?」
「料理が出来ない女は、いい嫁さんになれねえぞ。
 花嫁修業だと思ってやってみたらどうだ」
「女の子は可愛ければ、結婚できるし。
 それに……料理ができなかったら、料理ができる男捕まえればいいだけじゃん」

なんつー安直な思考回路だ。
しかし桐乃が中学の頃と比べ、さらにワンランク上の美貌とプロポーションを手に入れているのは事実、
このまま順調に歳を重ねれば、成人する頃には男を侍らす小悪魔系女子になっていること請け合いである。
同じ母親の腹から生まれたってのに、俺とはえらい違いだよな、まったく。
懐かしの劣等感に溜息を吐きつつ、俺は言った。

「高校はどうだ。楽しくやってるか」

料理下手をからかわれたことをまだ根に持っているのか、

「お父さんみたいなこと、訊いてこないでよ」

と桐乃はつれないことを言う。

「妹の学校生活を気に掛けるのは、何も親父だけの特権じゃねえだろ」
「さっきみたいなアバウトな質問が、一番答えにくてウザいの」
「じゃあ、質問を変える。高校生入ってから、何人に告白された?」
「ちょ……いきなり何聞いてきてるワケ!?」
「可愛い妹を持つ兄として、至極まっとうな疑問だろうが。ほら、言ってみ」
「……手紙とかメールとかも合わせたら、十人くらいかな」

俺は堂々のゼロ人だというのに。
ここに顔面偏差値による格差社会の縮図を見た。

「で、返事はどうしたんだ?」
「全部断ったに決まってんじゃん」

桐乃は声を尖らせて言った。

「前に言ったよね?
 最低でも三つ以上年上の男じゃないと、あたしの眼中には入んないって。
 いきなり告白とかしないで、普通に喋りかけてくる男もいるケド……。
 下心見え見えで、相手にしてらんないっつーの」
「お前な……、その調子じゃいつまで経っても男の友達できねえぞ」
「できなくていい」

即答かよ。

「あの、さ……、仕事場でもそういうの、全然ないから。
 変なのが寄ってきても、先輩が追い払ってくれるし……あたしも隙見せないからね」
「仕事と言えば、この前、御鏡がお前の仕事ぶりを誉めてたぞ」
「御鏡さんと?この前って、いつの話?」
「先週、一緒に飯を食った時の話だ」
「御鏡さん、あたしのことなんて言ってた?」
「んー、そうだな……お前が毎回質の高い仕事して、エタナーブランドの売上に貢献してくれてる、とか、
 これからも良き仕事のパートナーとして、趣味を語り合える友達として、末永く付き合いたい、とか」
「……なんか、照れる」
「お前はどう思ってるんだ、御鏡のこと」
「どうって、すっごくいい人だよ。
 新作できたら、一番にあたしのところに持ってきてくれるし、
 仕事場で趣味を明け透けに話せる、唯一の人だし……」
「それだけか?」
「……言っとくけど、あの時みたいなことは、有り得ないから。
 御鏡さんには好きな人いるし、あたしにもそういう気持ちはない。これっぽっちも」

車中に微妙な沈黙が立ち込める。
ストレートに探りすぎたか、と後悔したそのとき、桐乃が砕けた調子で言った。

「てか、さっきからあたしが質問されてばっかりじゃん。
 兄貴は、大学どうなの?」
「お前、さっき自分が言ったこともう忘れてるだろ」
「あっ、ごめん。……兄貴は確か、地味子と同じサークルに入ってるんだよね」
「そのこと、お前に話したっけ?」
「お母さんが言ってた」

なるほど。

「でも、正直ありえなくない?サークル、文芸系でしょ?創作とかできんの?
 兄貴は運動系の緩いトコ、地味子は料理同好会にでも入ると思ってたんだケド」
「最初はお互い、そのつもりだったんだけどな、
 それじゃあ余りに接点が無くなるってことで、一緒に無難なところを選んだんだ。
 俺も麻奈実も、サークルじゃ専ら読み手に回ってるよ」
「ふぅん。……兄貴と地味子、学部は別々なんだよね」
「ああ」
「前から聞きたかったんだけど、なんで同じ学部に入らなかったの?」
「それは聞くな」

同じ地元の大学に通う――麻奈実との約束を果たすため、致し方なく取った安全策だ。

「他に、高校から一緒に行った人、いないの?」
「瀬菜の兄貴も一緒だぞ」
「その人の学部は?」
「麻奈実と同じところだ」

「……兄貴、その人に地味子取られちゃうかもね」
「ハハ、なにバカなこと言ってんだ」

と笑い飛ばしつつも、それはない、と言い切れないのが苦しいところである。
『どうすれば田村さんの気を引けるんだ?』と赤城に泣きつかたのが先日の話、
なげやりに答えた『和菓子屋巡りでも誘えよ』の一言をあいつが真に受けていれば、
近日中には麻奈実から、『京ちゃんどうしよう、赤城くんからね……』と相談電話がかかってくるはずだ。
高二の時から麻奈実が気になっていた、と赤城に聞かされた時は心底ビックリしたっけ。
おかげで俺は今、恋のキューピッドなんて柄でもない役回りを押しつけられている。

「大学でも、あんたと地味子の関係、周りから誤解されまくりなんじゃない?」
「まあな。でも、その都度、ただの幼馴染みだってちゃんと説明してる。
 それに色眼鏡で見られるのは、中学、高校の時から慣れっこだしよ」
「……兄貴、サークルで、あんまり女の子から話しかけられないでしょ?」
「どうしてそう思う?」
「フツー遠慮するって。彼女じゃなくても、彼女みたいな女があんたの隣にひっついてたら」
「そうかぁ?俺も誤解されないように、ちっとは努力してんだぜ」
「例えば?」
「具体例を挙げるのは難しいな」
「ぷっ……全然努力できてないじゃん」

桐乃は小馬鹿にするように笑い、話題を変えてきた。

「ね、兄貴のバイト先って、大学から少し離れたところにある居酒屋だよね」
「ああ」
「今度、撮影で近くまで行くんだけど……、寄ったら、何かサービスしてくれる?」
「バカ、居酒屋は高校生が来るようなところじゃねーよ。
 そもそも、俺はキッチンで仕事してんだ、お前が来ても分からないと思うぜ」
「大きな声で兄貴の名前を呼んだら、聞こえるんじゃない?」
「恥ずかしいからやめろ」

「冗談だって。……ね、兄貴が一緒に働いてる人って、どんな人たち?」
「んー、厨房はおっさんと、俺と同い年か、少し上くらいの男ばっかだな。
 ホールは店長の趣味で、若い女の子で固められてる」
「……バイト上がりに、みんなでどこか遊びに行ったりするの?」
「いいや。毎日鬼のように忙しくて、上がる頃にはクタクタで、遊ぶ体力なんて残ってねえよ」
「ホールの子たちと、話したりはしないんだ?」
「事務的な会話ばっかりだ。キッチンの奴らとは、だいぶ打ち解けてるけどな」
「……あんたさぁ、知らない間に何かやらかして、ホールの子たちに嫌われてるんじゃないの?」
「なわけねーだろ。
 店長曰く、俺が入るよりも前から、ホールとキッチンは仲が悪かったんだとよ。
 ホール側からしたら、新人の俺に罪が無くても、キッチン側にいるってだけで、
 話しかけにくいところがあるんじゃねえ?」

と信じたい。

「ふぅん、そうなんだ。
 残念だね、大学でもバイト先でも女の子と話す機会がないとかさぁ」

残念がってくれている割には、声からまったく同情の念が感じ取れないんだが

「一昨日に電話で言ってたコト、嘘じゃなかったんだね」
「なんの話だ?」
「兄貴の周りには、一緒に星を見に行ってくれるような女がいない、って話」
「…………」

実を言えば、新しくできた女の知り合いには、誘えば肯いてくれそうな候補が二人いた。
サークルで、好きな作家が同じで話が盛り上がった同期の子と、バイト先で、帰りが一緒になったホールの子。
が、それを明かせば、桐乃が機嫌を損ねるのは目に見えている。

「どうしたの?急に黙り込んで」
「別に。運転に集中してただけだ。
 そういやお前、最近は沙織や黒猫と、連絡取ってるのか?」
「沙織は受験勉強で忙しいみたいだから、たまにだけど、黒猫とはほぼ毎日電話で話してるよ」
「ほー、ラブラブだな、お前ら」
「いいじゃん、友達なんだから」

黒猫が松戸市に引っ越して以来、桐乃と黒猫は、互いに素直になることを覚えたようだった。
呼び方も「黒いの」から「黒猫」へ、「ビッチ」から「桐乃」へと変わり、
さっきのように、逡巡無く相手を友達と認めるデレっぷりである。

「兄貴はどうなの?沙織や黒猫と連絡取ってる?」
「や、最近は全然だな。
 沙織はお前も言った通り、受験で忙しそうだから遠慮して、黒猫は……」
「……黒猫は?」
「俺さ、今あいつから着拒食らってんだよ」
「へ?それ初耳……なんで?
 あんた、何か黒猫怒らせるようなことした?」
「さあな。今度電話したときにでも、聞いといてくれよ」
「な、何その言い方。自分で聞かなきゃ意味ないじゃん。
 後であたしの携帯貸すから……」
「いいって」

知らず、語気が尖っていたのか、桐乃が萎縮する気配がした。

「……着拒されてんの、いつから?」
「四月の頭からだ」
「あっ……」

桐乃は少し考え、俺が黒猫から着拒されている理由に思い当たったようだった。

――『失望したわ。臆病で、懦弱で、弱虫で……なんて、意気地のない雄。
   わたしが拱手傍観を決めた理由を、あなたは何だと思っているのかしら?
   その貧相な頭が答えを出すまで、金輪際、わたしには連絡をしてこないで頂戴』――

最後の電話で浴びせかけられた、辛辣な言葉を思い出した。
車内に、再び居心地の悪い沈黙が降りる。
文字通り空気を入れ換えるべく、俺は運転席側の窓を開けた。桐乃もそれに倣う。
緑と水が豊かな土地のせいだろうか、真夏の夜にしては涼しい風が、肌に心地よかった。
周囲に人工の明かりはなく、道の両脇に広がる梨畑を、月影が静かに照らしていた。
舗装された山道を、安全運転で走ること十分。
小さなログハウスが見えてきた辺りで、俺は言った。

「着いたぞ」
「……看板に休憩所って書いてあったけど、ホントにここで合ってんの?」
「ああ。俺たちの他にも、星を見に来てる奴らがいるはずだ」

駐車場に車を停め、用意してきた荷物を、荷台から引っ張りだしていく。
手持ち無沙汰そうにしている桐乃に、俺は虫除けスプレーを手渡した。

「しっかり吹っ掛けとけよ」

シュッ、と三秒にも満たない噴霧音が聞こえ、

「はい。兄貴もすれば」
「……お前な、香水の匂いが消えるのと、ヤブ蚊に噛まれまくるの、どっちがイヤなんだ?」
「どっちもイヤ」
「ワガママ言うな。じっとしてろ」

俺はスプレー缶を振り、桐乃の無駄に露出した肌に、満遍なく吹きかけていった。
虫取りの前に、夜祭りの前に、花火の前に――今と同じことを、幼い桐乃にもしてやっていたことを思い出した。
自分でやれと言うと嫌がるクセに、俺がしてやると大人しくなるところは、あの頃とちっとも変わっていない。

「かけすぎ。ベタベタして気持ち悪い」
「大げさなくらいが丁度いいんだよ。すぐ乾くから我慢しろ」

俺は自分にも虫除けスプレーをかけ、荷物を抱えてログハウスの裏手に回った。
裏手は斜面が横にせり出した、小さな平地のようになっていて、
既に結構な人数の先客が、流星観察の準備に取りかかっていた。
望遠鏡も星図も持たない俺たちは、ブルーシートを引き、蚊取線香を焚いて、それで準備完了である。
靴を脱いで寝っ転がる。
ややあって、俺から体一つ分を空けて、桐乃が寝転がる気配がした。
息を呑む音が聞こえ、隣を見なくても、桐乃が星空に見入っていることが分かった。

「こんなに綺麗な星空見たの、生まれて初めてかも……」
「いいトコだろ。中々の穴場らしいぜ」
「どうやって知ったの?Beegle?」
「学部に、高校で天文学部だったヤツがいてな。そいつから仕入れた情報だ」
「じゃあ、その人も、ここに来てるワケ?」
「いんや、そいつは別の場所で見るそうだ。ここは初心者向けなんだとよ」
「――あっ」

不意に桐乃が、空の一点を指さして言った。

「流れ星!ねっ、兄貴も見た?今スーッて流れてった!」
「見逃した」

俺はそもそも、夜空を見ちゃいなかった。
星空に魅入る桐乃の横顔を眺めていた。
見逃した理由を明かさずに、俺は言った。

「流星群は、まだまだこれからだぜ。
 一時間に三十から六十は星が流れるらしいからな。
 運が良けりゃ、一分に一つ見られる計算だ」
「そうなんだ。……じゃあ、お願いし放題だね」
「……くっ」
「なんで笑ってんの?あたし、何か変なこと言った?」
「やっぱり桐乃は、桐乃だと思ってな」
「い、意味わかんない」
「ガキの頃にも、親父に連れられて流れ星見に行ったこと、覚えてるか?」
「覚えてない」
「そっか。あの時のお前、小さかったもんな。
 で、流星観察に行く前から、お前は大はしゃぎしてたんだよ。
 親父にたくさん流れ星が見られるって聞かされて、紙に願いごとを山ほど書いてた」
「……こ、子供の頃の話でしょ。
 流石に今は、流れ星が流れる間に三回願いごとを念じれば、それが叶うなんて話、信じてないし」
「そうか?別に信じてても、俺は笑ったりしねえぞ。
 せっかくなんだし、あの日のリベンジを果たせばいい」
「リベンジ?」
「親父に連れてってもらった時は、結局一回もお願いが成功しなかった、って大泣きしてたんだぜ、お前」
「もうっ、昔の話蒸し返すの、やめてくんない?」

桐乃が八重歯を剥いてこちらを向く。
視線が交錯し、手が触れた。が、それも一瞬のことで、

「…………」

威勢を失った桐乃は、再び夜空に視線を戻す。

横顔を見ていたことがバレた俺も、夜空に視線を移した。
一口には表現できないほど、素晴らしい情景がそこにはあった。
深い暗黒を背景にした、無数の星の瞬き。
夜空には一筋の雲霞さえ見て取れず、月は主役の座を譲るかのように、端で鳴りを潜めている。
北の空に、黒地のキャンバスにナイフで切れ込みを入れたかのような、白い筋が見えた。
次に星が流れたら、話を切り出そうと決めていた。

「桐乃」
「なに?」
「話があるんだ。そのままの姿勢で聞いてくれるか」
「……その話をすることが、あたしを流星観察に誘った理由?」
「ああ」

四ヶ月ぶりに電話がかってきて、いきなり流星観察に誘われて、戸惑ったよな。
でも、俺はお前の目を見ながら、この話を最後まで話し終える自信が無かったんだ。

「ごめんな、桐乃」
「…………」
「お前に相談もせず、勝手に家を出て、悪かった」
「…………」
「あの時の俺は、お前に――」

告解は、零下の声で遮られた。

「やめてよ」
「桐乃……」

「なんで兄貴が、あたしに謝るワケ?
 その言い方だと……、まるであたしが、傷ついてたみたいじゃん。
 あたしが兄貴のこと、ずっと恨んでたみたいじゃん」
「…………」
「あたしは……兄貴が出てって、せいせいしてる。
 壁が薄いの、気にしなくて済むし、
 友達だって好きなときに呼べるし、
 楽なカッコしてても、お父さん以外に文句言われないし……それに……」

その言葉が嘘で、強がりだということを、俺は知っている。
桐乃は傷ついていたし、俺のことを恨んでもいた。
なんでそう言い切れるかって?
逆に言わせてもらうが、俺が何年、桐乃の兄貴をやってると思ってる。
それに何より、俺が家を出るときに桐乃が見せた涙が、全てを物語っていた。

――『勝手に行くなっ、バカ兄貴っ!あたしを……あたしを一人にしないでよっ!』――

そうだ。あの時の俺は、本当に勝手で、独り善がりな大バカ野郎だった。
距離を置くことが、妹の兄離れのための、最良の選択だと信じていた。
でも、違ったんだ。やっと分かったんだ。
溢れそうになる思いを押さえて、俺はもう一度言った。

「ごめんな、桐乃」
「だから、やめてってば。
 もう、あたしに気を遣わなくていい。優しくしてくれなくていい。
 兄貴はさ、あたしが近くにいるのが、イヤだったんだよね?
 あたしの気持ちが迷惑で、気持ち悪かったんでしょ?
 あたしと一緒にいるのが堪えられなくて、それで、家を出たんでしょ?」

脳裏に、桐乃に告白された時の情景が浮かぶ。
大学の合格祝いに、家族で外食に出かけた日の夜。
胸に重みを感じて目を開けると、目の前に桐乃がいた。
暗闇の中、思い詰めた妹の表情を仰ぎ見ながら、
俺は初めて、桐乃が人生相談を持ちかけてきた時のことを思い出していた。
それから長い時間をかけて、桐乃は言葉を紡いでいった。
小さい頃から、俺のことが好きだったこと。
冷戦を隔てて、関係が修復されてからは、兄としてではなく、男として好きになったこと。
思いの丈を語り終えた桐乃に、俺は返す言葉を持たなかった。
沈黙を貫く俺の頬に、一粒の熱い雫を落として、桐乃は部屋を出て行った。
翌日、俺たちは何事も無かったかのように接した。
しかしその日から、俺は一人暮らしのための準備を整え始めた。
桐乃に悟られないよう、こっそりと……。

「あんなこと言うなんて、どうかしてた。
 フツー有り得ないよね、兄妹で……好き、とか
 あたしも後から冷静になって、自己嫌悪で死にそうになってたんだ」
「…………」
「あはっ、あんたからしたら、超キモイよね。
 いくらシスコンでも、ドン引きだよね。
 だからさ、謝らなきゃいけないのは、あたしの方。
 兄貴がいっぱい優しくしてくれて、それを勝手に、
 兄貴もあたしのことを好きなんじゃないかって勘違いした、あたしが……ひくっ……悪かったの……っ……」

俺は言った。

「勘違いじゃねえよ、桐乃」

「えっ」
「……俺も、お前のことが好きだった。
 お前と仲直りした二年前から、妹じゃなくて、女として、お前のことを見てた」

はっきりと自覚したのは、つい最近のことだ。
俺はずっと、俺は桐乃のことが妹として好きなのだ、と自分に言い聞かせていた。
その自己暗示に、桐乃の告白がヒビを入れた。
漠然と、家を出なければならないと感じた。
自分の臆病さを、桐乃のせいにした。
これ以上桐乃に好かれないために、桐乃から離れなければならないと思った。
でも、実際は違ったんだ。
俺が本当に恐れていたのは……俺が本気で、桐乃を愛してしまうことだった。

「兄貴……」

手が触れ合い、指が絡んだ。
洟を啜って、桐乃は言った。

「あたしね……今でも、兄貴のことが好き」
「そうか。じゃあ、俺たちはめでたく両思いだな」

ぎゅ、と桐乃は俺の手を握りしめながら、

「でも、さ……やっぱり兄妹で恋愛とか、おかしいのかな」
「世間様から見りゃあ、異常だろ。
 でも、二年前、お前に人生相談を受けるまで、俺とお前は他人同然だった。
 そっから仲直りして、ガキの頃みたいな兄妹関係を再開する、っていうのが、土台無理な話だったんだよ」
「あたしが兄貴のことを男として見るようになったのも、仕方ないことだったってコト?」

「そういうことだ」
「ぷっ……変な慰め方」
「俺の溢れんばかりの魅力のせいだ、なんて言っても馬鹿にするだけだろ、お前」
「馬鹿になんてしない。
 だって、あたしは、あんたが兄貴だったから、兄貴のことを好きになったの。
 趣味を守ってくれて、友達を作るのに協力してくれて……」
「あーあー、それ以上言うな」

真面目に返してくるとは、予想外にも程がある。

「……あたし、これから週末は、兄貴のアパートに行く」
「どうやって?結構な距離があるぞ」
「あんたが車で、あたしを迎えに来るの。当然でしょ?」
「別に構わねえけど、俺の部屋に来て何するんだよ?」
「何って……掃除とか、料理とか?」

料理、という単語に不穏なものを感じつつ、俺は言った。

「なんか通い妻みたいだな。お前って尽くすタイプだったのか」
「う、うるさい」
「それにお前、俺の部屋に来てやることで、大切なことを忘れてるぞ」

桐乃の体が強張る気配があり、

「俺が家を出る時に、お前、こっそり段ボールにエロゲ詰めただろ。
 あれ、忙しくて全然手を付けてなかったんだ。一緒にやろうぜ?」

はぁ、と溜息を吐く音が聞こえた。

「……うん。あと、シスカリの新作、持ってくね。久しぶりに対戦しよ?」
「おう」
「でも、一人暮らしの大学生の部屋に、超可愛い女子高生が通ってたら、変な噂が立っちゃうかも」
「問題ねえよ。表向きは仲の良い兄妹だ」

俺たちは同時に笑い、

「あっ」

同時に空いている方の手で、夜空の一点を指さした。

「見た?」
「見た」

それからしばらく、夢中になって流れ星を探した。
童心に還って、見つけた流れ星の数を競った。
三十も数えた頃だろうか。

「……できたっ」

と、桐乃が嬉しそうに言った。
何ができたんだ、と尋ねると、

「今、流れ星が消える一瞬の間に、心の中でお願いを言えたの。一回だけ」
「一回だけなら、叶う確率は三分の一だな」
「……あと二回、別の流れ星に一回ずつ祈れば百パーセントになるし」
「どんな願いごとをしたんだ?」
「ひ、秘密」
「いいじゃねえか、隠さないで教えろよ」

隣を見る。
蒼白い星明かりの下、桐乃は顔を真っ赤にして言った。
その声に、今のように夜空を見上げた、幼い桐乃の声が重なった。

「兄貴と、ずっと一緒にいられますように……」
『お兄ちゃんと、ずっといっしょにいられますように……』


おしまい!

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最終更新:2011年07月20日 21:34
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