02

仮題 02


 『ストーカー』とは、一体何なのだろうか。

 難しいことはさて置き、ここでは、事実を体系的に並べていこうと思う。

 まず、『ストーカー』という言葉は、英語の『stalk』という単語からきているのはご存知だろうか。
 『stalk』とは、獲物などに忍び寄る者を表す語のことであり、つまりは、狩猟に携わって生計を立てている人々のことを指すものなのだ。
 そこに『――er』という、人物を表す接尾辞を加えることによって、『stalker』、ひいては、『ストーカー』、という語が生まれ、そこから俺たちが現在認識している意味での『ストーカー』へと近づいて行ったのだ。

 また、『ストーカー』の歴史については大して造詣に深くないので割愛とさせてもらうが、個人的な意見を言わせてもらえば、人類が長い歳月の中で築き上げてきた英知と同様、長い歴史の中には然るべき『何か』がたくさんあったはずだと、俺は信じている。
 ……敢えて、その『何か』を答えることは控えさせていただくがな。

 近年の『ストーカー』被害についても、軽く触れておくべきだろう。
 知っての通り、『ストーカー』被害という問題は深刻だ。
 犯罪件数は年間に1万2千から1万5千の間を推移しており、主に若い女性が被害の対象となっている。
 男性についても、件数は全体の総和から見れば事件数自体は少ないものの、約1割以上の方が被害に遭われているのが現状だ。
 だからこそ、両性の被害者に共通する点はと言えば、加害者に並々ならぬ好意を抱かれているということくらいだろう、と俺は勝手に結論付けている。

 ご存知の通りこの顔なので、被害にあったことがないことは恐縮だが、恐らくは、とても精神的にきついものがあるのだろう、と、俺は思っている。

 いくら自分のことを好いているからこその行動なのだと言っても、執拗に無言電話をかけられたり、捨てたごみを漁られたりしたら堪ったものではないからだ。
 そんなことをされてもその人物に好意を抱けるわけもなく、むしろ二度と関わってほしくないと思ってしまうのが関の山なのではないだろうか。
 つまり、被害者と加害者、両方ともに何のメリットもない訳で。こう言っては何だが、プラスを生み出すことのない、お互いへの傷つけ合いの連続なのだ。

 だからこそ、そのような生産性のない行為は、即刻にもやめるべきものなのだ。

 そう。やめるべき、ものであるのだが……――。



 「――俺が言えた義理じゃ、ねぇんだよなぁ……」

 はぁ、と、本日何度目かしれない溜息を、俺は、勿体なげに吐いた。
 ……今日の自分の行為を思い返しながら。

 「……なーにが悲しくて、あいつらの後をこそこそつけまわんなきゃなんねぇんだよ、俺は……」

 小さく毒づく。
 全くもって遺憾だ。はなはだしく遺憾だ。

 ――そりゃ、あやせはストーキングしたくなる位可愛いけどさ。
 何ッッで、あんのクソ生意気な妹様の後を、こんな平日の夕方にまで……。

 ……まぁ、だからと言って別にあやせの後をつけようとは思わないのだが、それにしたって、何というか、気分っつーものがある。
 うまくはいえねぇけどさ。

 「……」

 俺は、近隣の方に不審に思われないよう、なるべく普通の格好、そして様子で、二人の後を追っている。
 あらかじめあやせに帰宅するときの通り道を聞いているので、見失うか失わないかという距離を保ったままに、だ。

 なぜなら、この距離ならば万が一桐乃に見つかったとしても、『”偶然”通りかかっただけだ』という言い訳が出来るかもしれないし、なにより、桐乃をつけているとかいう不審人物と遭遇する可能性がある、というあやせの持論に基づいているからだ。

 そううまくいくかねぇ、と内心訝りながらも、俺はあやせの指示に従っている。
 その理由は、ま、後に語ることにするけどな。

 やるからには不真面目にするつもりはない(というか、不真面目にしたらあやせにガチで殺される)ので、一応周囲には目を配らせているのだが、まだ、これと言った怪しい人物は見つかっていないのが現状だ。

 「……アツイ」

 夏本番、というにはまだまだなこの時期。しかしながら、額から流れる汗が止まることはない。このジメッとした空気に汗腺がやられているからだろう。
 延々と歩いているというのも、その一端を担っているかもしれない。
 ――だってあいつら、ぐるぐるぐるぐる色んな所を回っているからサァ、いい加減キツイ訳よ、俺も。

 「……ふぅ」

 自前のハンカチで、汗を拭う。
 ポケットに戻す時にふと見えた布の表面は、歪な斑模様で一杯だった。
 じっとりとシャツに滲む汗も、なんだか異様に鬱陶しかった。

 「……」

 俺はハンカチをポケットにしまい、あの二人の姿を見ることのできるすぐ手前の角を、右に曲がった。

 「――っ」

 曲がった先は西の向きだったらしく、眩しく、そして濃い赤光が、立ち昇る陽炎の揺らめきと共に俺の目に差し込んだ。

 「……ったくよぉ~」

 俺は眉毛の辺りに手で陰りをつくって、そして目を細めた。
 思ったよりも小さくなっていたあやせと桐乃の後ろ姿に少し驚きつつ……、
 『ストーカーのことなんか忘れてんじゃね?』、と思わずにはいられないほど、仲睦ましげな様子で帰宅している二人の影を遠目に見つめて、俺は、思った。

 ――あんな約束、かっこつけてするんじゃなかった、と。






   ――昨日(さくじつ)の昼過ぎから、午後6時半ばまで。

 先日のあやせとの熱いあつい逢瀬から帰宅した俺は、心機一転、入試に向けての勉強をするというとても有意義な時間を過ごしていた。
 ……別に気が変になったわけじゃねぇよ? ただ、『今年一年くらいは悔いが残らないようにしよう』と思ったからこその行動なんだ。
 ……だってさ、入試に落ちたら親父とお袋にも悪ぃし、麻奈実との約束もあるしよぉ。
 それになにより、茶髪の誰かさんの、努力に裏打ちされた華やかな輝きに触発されたのも大きいからってのは、否定できないわけで……。

 ……オホン。

 とまあ、そんなこんなで、夕飯までの5時間弱を、俺はなんということもなく勉強に注ぎ込んでいたんだ。

 だけどまぁ、このようにやり始めるまでは気乗りのしない勉強も、案外集中しだすうちに苦にならなくなってくるもので。
 小休止を挟みながらの勉強はいい感じにはかどった。
 ただ分からない箇所も多々あったので、『後で麻奈実に電話して教えてもらおう』と、ぼんやりと考えながら勉強していたのも事実だった。

 カリ、カリッ、と、一心不乱にシャーペンを握りしめていた俺。
 そんな俺の集中が途切れたのは、階下から聞こえたお袋の、「京介~、桐乃~、晩ごはんよぉ~!」という間延びした声が聞こえた時だった。

 ちょうど切りの良いところまで進んでいたので、適当に返事をしながら、食事の席へと着くためにドアに向かって足を運んだ。

 「……あ」
 「っと」

 そこでドアをひらくと、当然というべきか、バッタリと桐乃に出くわした。
 幸いにもぶつかることはなかった。
 けれども、出くわしたのが妙なタイミングだったことと、昼のあやせとの一件があったため、主に俺が原因の気まずさを含んだ一瞬の間がこの場に発生してしまった。

 「……」

 なんとなくいたたまれなくなった俺は少し視線を下ろした。

 目に映ったのは、白を基調に黒の水玉がのったドルマントップス、そしてその下にのぞくピンク色のタンクトップ。
 下は、豊かな脚線美を強調する黒色のフリルショートパンツ。さらには、どっかのピアスやらネックレスやらなんやらが一堂に会す、という、かなり気合いの入った装い。

 どっかに出かけてたのだろうか、とも一瞬思ったが、こいつにとっては普通の私服なのだろうと思い直した。
 ま、天下の読者モデル様だしな。こんくらい普通なんだろ。

 「……何、アンタ。家の中にいたの?」
 「……はい?」

 桐乃は俺のいたたまれなさなど無視して、唐突に話しかけてきた。
 ……ていうか、俺、家にいちゃいけねぇのかよ。

 「……朝、急いでどっか行ってたジャン」
 「……あー」

 ――なるほど。
 つまり、いつの間に帰ってきたのか、ということを聞きたい訳なのだろう、コイツは。
 どうしてそうつっけんどんな言い方しかできないのかね、うちのお姫様はよ。

 俺はいちいち話すようなことでもないと思ったので、無難に、

 「……その用事は昼過ぎぐらいに終わったからな。
  そのあとは部屋でずっと勉強してたよ」

 とだけ返しておいた。
 桐乃には言わない、という内容の約束をあやせとしたというのもあるが、コイツに余計な心配をかけたくなかったのも本音だ。
 ストーカーなどといったデリケートな話題は、出来る限り避けておいた方が賢明だからだ。
 相手にされなかったりパニックに陥ったりと、どちらにしろ良くないリアクションが返ってくるのは目に見えてるしな。

 「……ふーん」
 「そういうお前は?」
 「……は?」
 「お前もどっか行ってたんじゃねーの?」

 一応聞いてみる。
 すると桐乃は、口を尖らせながら、ちらりとこちらを見て、

 「……ナニソレ? アンタにカンケ―なくな~い?」

 と、言葉を紡いだ。
 そしてすぐにそっぽを向かれた。

 「……そりゃあ、まぁ、そうだけどよ……」

 お前、知ってんのか。結構なストーカーに付きまとわれてんのかもしれねぇんだぞ?
 それにあやせはそんなお前のこと心配してくれて、嫌いな筈の俺にまで相談してきたんだぜ?
 なぁ、ホントに大丈夫なのかよ? 

 「……」

 口に出すのには、憚られた。
 そんな俺の歯切れの悪い返事と沈黙を見て、なぜか、先ほどまでの桐乃の不機嫌さが一転した。
 桐乃は唐突に、ニヤ~、と口元を緩ませてこちらに詰め寄りながら、

 「そうだけど……って、な~にィ~? やっぱりィ~、あんたってェ~、そんなに妹のこと気になるワケェ~?」

 ププッ、と、俺や黒猫をからかう時特有の表情と、妙に間延びした声で尋ねてきた。

 「……そんなんじゃねーよ。つか、まだ根に持ってんのかよ、あん時のこと」

 『あん時』というのは、アメリカで俺が桐乃に泣きついた時のこと。

 「は? 忘れるわけないジャン。
  ……それにィ~、あれのことだけじゃないしィ~」
 「じゃあ他にどんなのがあんだよ?」
 「……自分の胸に手を当ててみれば?」

 俺は黙って、胸に手を当てて、

 「……心当たりがねぇな」

 と、すっとぼけた。
 なぜならこれ以上は都合が悪いから。

 「……フン、忘れたとは言わせないから」
 「……わ、分かってると思うが、言わなくていいからな?」

 言いながら、しまった、これじゃあフリになっちまうじゃねぇか、と思ったのはご愛嬌だ。

 俺の葛藤などつゆ知らず。桐乃はその丸い顔を僅かに膨らませ、バッチリ決めたメイクの下から綺麗な赤い頬を表にだして、

 「……あ、アンタ、が……あ、アタシの胸、を……さ、触ってきたこと……とか」
 「だから言わなくて良いって言っただろうがよぉ!」

 やっぱりこうなるお約束! 
 ていうかやめて! あれは全部過去の過ちなんだよぉ!
 それに、言ってる自分が恥ずかしがってんならそもそも言うなよなっ! 

 桐乃の暴走はさらに続いて、

 「アタシを抱きしめて、い……『妹が、大ッッ好きだぁぁぁ』とか、叫んでたこと……とか」
 「それはお前も理由知ってるよなぁ!?」

 曲がりなりにもお前を助けたんだぞ?
 それにそのおかげでおかげであやせたんに嫌われちまったじゃねぇか!
 どうしてくれんだよ、この人生で最大の過ちをよぉ! 

 「それにこないだだって、いきなり電話してきて『おまえさ、俺のことどのくらい好き?』とか聞いてきたし」
 「それっ! ……は……」

 黒猫のことが、あったからで……。
 でも、コイツには…………いえねぇ。

 「それは…………なに?」
 「え、と……」
 「ねぇ…………何でなの?」
 「……な、なんでもいいだろっ?」

 すると桐乃は「ッチ」と舌打ちをしたあと、何故かまたも唐突に不機嫌な様相を表情の全面に表した。山の天気みたいな顔面だ。
 桐乃はクルリ、とこちらに背を向け、小間使いにかけるような声で、

 「…………つーかサァ、出かけるなら出かける、昼過ぎに帰ってくるなら帰ってくる、ってちゃんと言っときなさいよ」
 「……え?」
 「……今日の予定、狂っちゃったジャン」

 と、言ってきた。

 ……うっっっっっっっぜえぇぇぇぇぇ!!
 なに、さっきからよぉ!? 俺何も聞かされてないんですけど!!
 つか、俺は出かける度にいちいちお前に許可を取って、何時に帰ってくるかってことまで言わなきゃなんねーわけ?
 それに自分のことは差し置いて、なんで俺がお前の予定に合わせて行動しなきゃなんねーの?
 今日も変わらずにお美しくて、そしてそれ以上に理不尽ですこと!

 いつものこととはいえちっとばかしカチンと来たのだが、予定がどうのこうの言ってたので気持ちを鎮めながら、俺は、

 「……それはスマンな。
  ……で? どんな予定だよ」

 とだけ、尋ねた。
 それを聞いた桐乃は、先ほどの表情に、器用にも不満げな様子までつけ加えて、

 「メルルの3期に備えてのDVD鑑賞会に決まってんでしょ。
  家でやる予定だったのに、アンタがいなくなったせーで中止になったんだから。
  沙織と黒いのとアタシにメーワクかけた分、今度なんかしてもらうから」
 「何が決まってんだよ!初耳だよ、んなことはよぉ!!
  つか、そういうイベント事があるときは前もって言っとけよ!!」

 いつにましても無茶振り飛ばしてんなぁ、おい!
 ついつい大声で反応しちまったじゃねぇかよ!

 「昨日の夜にチャットで決まっちゃったんだから仕方ないジャン。
  ……どーせアンタ”地味子”ぐらいしかつるむ相手いないしぃ~、だったら一日中暇なハズっしょ?
  ……てゆ~か~、何? なんで出かけてる訳? マジ信じられないんですケドッ!」

 こちらを見ずにそう吐き捨てた。

 「仕方なくねぇし、地味子って言うんじゃねぇっ!
  あと、俺にだって麻奈実以外に友達はいんだよ!!
  だからお前にバッカ構ってられっほど暇じゃねぇの!」

 主にシスコン兄貴(俺のことじゃないぜ?)とかな。
 それに、最近はあやせに着拒解いてもらったし、相談だってされてんだぜ?
 ……ま、あやせのことは秘密だけれども。

 「っ!……あっそ!」

 ぷいっ、と、すげなく返される。
 なんかもぉ、ツッコミ所が多すぎで、どこから手を付けていいのやら。

 ……ただ、なんで俺がいなかっただけで鑑賞会を中止にしたのか、という理由だけが良く分からない。
 でも、それ聞いたら怒るんだろうなぁ、コイツ。
 ま、触らぬ神に祟りなしって言うし、ここは全部まとめてスルーしておこう。

 「……あーはいはい。
  後であいつらには謝っとくから」

 俺が話を切り上げて結論をまとめようとすると、そのことにまた腹を立てたのか、桐乃は、顔だけをこちらに向けて、

 「……謝るだけじゃなくて、行動で示しなさいっていってんのっ!
  あと、ハイは一回って小学校で習わなかったの、アンタ?」

 と、訳わかんねぇことを口走った。

 ……もうツッコマねぇぞ? 俺は。

 このメンドクサイ妹様をどうやって言いくるめようかなぁ、と思案していると、「ふたりともぉ、何してるの? はやくしなさーい!」、というお袋の声が階下から響いた。
 ――久々にナーイス、お袋!

 「……ほら、飯だってよ。早く行こうぜ」

 にやけてしまいそうになる口元を必死に引き結びながら、俺は桐乃にそう言った。
 桐乃は言い足りなさそうな様子だったが、俺の言うことにも一理あったためか、

 「……この続きは後でするから」

 ブスッとした様子でそれだけ言って、ポスポス、とスリッパで大きな音を鳴らしながら階段を降りて行った。

 「……ふぅ」

 なんとなく勝利の余韻に浸りながら……、
 俺は、部屋の電気を消した後、自室のドアを閉めてから桐乃の後に続いた。

 今の俺なら、カレーに味噌汁とかいう訳の分からん組み合わせでも、嬉し泣きしながら食べられそうだった。





――夕食後。桐乃の自室。時刻はおよそ、7時ジャスト。


 先ほどのものは負け惜しみを隠すためのポーズだと思っていたのだが、どうやら考えが甘かったようだった。


 食べ終わった食器を流しへと運び、その足で階段を昇ってきた俺だったが、ピタリ、と、歩調を止めて、階段の途中でしばらくの間立ち止まってしまった。

 なぜかって?
 そりゃ、

 「……何してんだよ、んなとこで」

 桐乃が俺の部屋の扉に寄りかかり、訳の分からない証明問題でも解いてそうな難しい顔して佇んでいたからだ。
 俺からしたら不機嫌な顔して怒っているようにしか見えなかったが。

 「……フン」

 桐乃は、ちらり、と、大きな瞳を細めてこちらを一瞥すると、無言で自分の部屋の前まで歩を進めた。
 醸し出される雰囲気から察するに、どうやら”ついてこい”という意味らしかった。
 あってんのかどうか知んねぇけどさ。

 「……やれやれ」

 どうやら高坂家きっての可愛いお姫様は、まことにご立腹のようだ。
 背筋をピン、と伸ばした、その細っこい背中をしげしげと見つめつつ、俺は、いそいそとあいつの後に続いた。



 ばたん。扉を閉める。

 「……」

 相っ変わらずの甘ったるい匂い。ここ最近、まぁ、数えられる程度のことだけれども、こいつの部屋を訪れたものだ。だが、なぜだか一向に、この匂いにだけは慣れることが出来ないでいる。
 これから先も慣れることなどないと思うが。

 「あんたはそこね」

 ベッドに腰掛けながら桐乃は、ポイっ、と、見覚えのある猫のクッションをこちらに投げて寄越し、剥き出しのフローリングに座るよう俺に要求した。
 少し既視感を覚える。最近のものだ。だけどそれは勘違いだともすぐに分かった。

 ……もう、一年も前のことになったんだな。

 一年前……初めてコイツに人生相談をされた時とは、同じ様で、ほんの少しだけど違う状況だった。
 あのときはこちらから座布団を要求した。けれど、今回は、桐乃が何も言わずに座布団を渡してくれた。

 「……」

 もしかしたら気まぐれなのかもしれない。
 もしかしたら偶然近くに座布団があっただけなのかもしれない。

 だけど俺は、この一年間で僅かに変わった俺と桐乃との間にある距離を見て、こみ上げてくる嬉しさを隠せずにはいられなかった。

 だってよぉ、”ほとんど”変わってねぇんだもん、一年前とさぁ。


 「……何? なんでいきなりニヤケてんの?」

 桐乃は、疑惑半分困惑半分、と言った様子を表情全面に出した。
 いや、しかめっつら成分の方が若干多いのかもしれないな。
 そしてまぁ、そのしかめっつらには、『超キモいんですケド……この変態』とでも書かれてありそうだった。

 「……くく」

 その気持ちは分かるよ。お前からすれば、お前が座布団を投げた瞬間俺がにやけだしたんだから。俺だってお前と立場が逆ならお前と同じことを思うだろうよ。

 ……けど、仕方ねぇだろ、表に出てきちまうもんはよぉ。


 「……あぁ、いや……なんでもねぇんだ。ホント」

 ホント、なんでもねぇ。
 ただ、悪くはなかったな、って思っちまっただけだからさ。
 こんな風に変わらない関係がいつまでも続けばいいなってさ。

 「……ま、アンタがキモいのなんていつものことだケド」

 そうだな。
 今回ばかりは反論の余地もないよ。

 だから俺は話題を変えることにした。

 「……で、何したらいいんだ?」
 「……ホント、アンタ一体どしたの? マジでキモいんですけど……」

 人生相談ではないことはもちろん知っている。ただ、今の俺は気分がよかったのだ。
 ついつい尋ねてしまう。

 「……ふん。ま、イイけどさ。……さっきの続きに決まってんでしょ」
 「さっき?」
 「そ。さっき廊下で言ったっしょ? この埋め合わせはとってもらうからって」
 「……あー」
 「で? なにしてくれるわけ? 言っとくけどぉ、アタシ、結構期待してるんだよね~」

 ふふん、と口元を綻ばせながらにやけだす桐乃。その姿だけ見ると、年相応に幼くて非常に可愛らしかった。
 発言自体は全然可愛らしくなかったがな。

 ……てか、やっぱりその話はしないといけないのか。
 つくづく面倒な話だ。気分が良いからって、何でもかんでもモノを言うもんじゃねぇな。
 また面倒事に巻き込まれそうだ。
 あーあ、失敗した。発言には、今度からはもっと気を付けないとな。

 漠然と、そんな風に思った俺だった。
 だが、言葉にする以上にそんなに嫌な気分でもなかったことも、なんだかちょっとくやしかったのは事実だ。

 「……じゃあ例えば、どんなことしたらお前は喜ぶんだよ――?」

 俺と桐乃の大声交じりの交渉は、30分もの長い時間に及んだ。 




 ―――7時半、自室。
 先ほどまで桐乃の部屋に連れて行かれていた俺は、ようやく自室に帰ることが出来たことで、少し安心していた。
 フゥ、と、ベッドの端に腰かけながら、一息を吐く。
 緩慢な動作で、俺はポケットから携帯を取り出し、アドレス帳から”田村麻奈実”の項目を見つけ出す。先ほどの勉強で分からなかった所を質問するためだ。

 ……ちなみに、俺は桐乃との一方的な交渉の末、秋葉原でメルルのグッズを買うことを約束させられた。
 メルル関連の商品をほとんど網羅している桐乃には意味ねぇんじゃ、と思ったのだが、そこは桐乃。抜かりはなかった。
 一緒についていき、その場で持っているかいないかを判断するのだそうだ。

 だが、そこで当然のように疑問も生じたわけで。
 『だったら俺いらねぇじゃね?』と思って、 
 『金やるから自分で行けっ!』と、言うと、
 『それじゃあ意味ないジャン。……何言ってんの?』と、蔑んだ視線で逆にバカにされてしまった。
 ……なんなんだかなぁ。
 最近、ドンドン理不尽になっていってるような気がするぞ、俺は。

 「……」

 ……ま、それはそれ。別のはなしだ。
 俺は無機質なコール音をカウントしながら、パラパラ、と分からなかった箇所を捲った。
 先ほど解いた時、後で復習をしやすいように、と付箋していた問題のほとんどが、数学。
 ……しょうがねぇだろ? 数列とか三角関数とかわからねぇんだもん。

 ノートを開いたままにしておく。
 4回目。5回目。6回目。コールのカウントが淡白に過ぎていった。
 7回目で、ピッ、と、音の趣が変わり『は~い』という、妙に聞き慣れた声がスピーカーから聞こえた。
 ……ほっとする。
 俺は、どうしようもない落ち着きを押さえきれずに、

 「よう、麻奈実」

 と、平坦な声色で切り出した。

 『こんばんわ~。……どうしたの、きょうちゃん?』

 そしてそのまま、会話を続けた。

 「ちょっと、な。……今、時間だいじょうぶか?」
 『うん。だいじょーぶだよ~』

 例え機械越しだったとしても、やっぱり、こいつの声は落ち着く……。
 声だけじゃなく、こいつの持つ雰囲気も一役買っているのかもしれないが。

 「あー。まぁ、数学の話なんだけどよ。……分かんねぇ問題がいくつかあってさ」
 『うんうん』
 「ヒントっていうか、解法の方針みたいなものを教えてくんねぇか?」
 『ふふ。うん! もちろんだよ~!』
 「サンキュー」
 『その、それで……どんな問題なの?』
 「あー……ちょっと待っててくれ。……あぁ、あった、これだ。えー、携帯越しで悪いけど、えっと……ⅡBのチャート式の412ページに載ってる――」

 分からなかった問題と同じものが載っているページを口頭で説明していった。
 麻奈実がそれに、逐一答えてゆく。

 「……なるほど――」
 『……そうそう。それでね~、そのnが――』

 そんな調子の会話が続き、一通り聞き終わると、気付けばくだらない日常会話に。
 ふとした拍子に覗いた壁時計を見ると、短針がひとつ進んでいた。
 要するに、8時30分くらい。
 これ以上はあいつの邪魔になってしまうと思い、俺は、

 「――じゃあ、そろそろ自分でやってみるわ。邪魔したな」

 と、申し出た。

 『そんなことないよ~。
  ……それじゃあ、勉強頑張ってね、きょうちゃん』
 「おう。お前もな」
 『うん。……ありがと』


 ピッ。
 終わりも始まりと同様、無機質な効果音で終わった。
 だけど心は無機質なんかじゃなく、穏やかな気持ちで一杯だった。
 ――こういうの、郷愁って言うのかな。
 やっぱおばあちゃんっていいなぁ、なんてことを思わず思ってしまうほどに、全てが満たされた。

 そんな柔らかな気持ちの中、俺は携帯の通話終了ボタンを押そうとした。
 押そうとして、しかし、ふと、何かが脳裏をかすめた。

 ――何だろ。
 ……何か、もの凄く大事なことを忘れているような……。

 「……ま、いいや」

 その内思い出すだろ。
 そう思い直して、俺は件のボタンを押した。
 通話中の画面が待ち受け画面へと戻り、俺は安心しながら携帯を閉じた。
 そのまま携帯をベッドに放り出し、携帯と同じように、ベッドの上でごろんと横になった。
 目を軽く閉じて、つかの間のまどろみに溺れる。
 麻奈実との会話で得た穏やかな感情が、余計、俺を深海へと誘う。
 そんな夢と現との間をゆらゆらと彷徨いながら、俺は今日一日の出来事を、ぼんやりとながらも、軽く思い返してみた。

 ――あやせと会って、桐乃の話を聞いて。

 桐乃のストーカー被害に悩んでいたあやせ。
 神経質になりすぎるほどに、頑張って解決しようとしてたっけ。
 だからこそ、心の底から互いのことが好きなんだってことが分かるくらい、一途な友達関係を築けている二人。
 性別や容姿。その他諸々の要素を全て差し引いたとしても、俺は、あいつらが羨ましかった。
 無条件にあそこまで俺のことを思ってくれる人。
 そんな人は、いままで、俺の周りにいただろうか……。


 「……なに言ってんだか」

 他人と比較するなんてことは間違っている、か。
 それに、こんな受動的な態度じゃあ出来るものも出来ないだろう。
 例としては悪いが、俺と桐乃の今の関係も、受動的なものだった場合はありえなかったものだろう。

 「……それに」

 それに、少なくとも……。
 親父と、お袋。
 それと、もしかしたら、麻奈実や、沙織。黒猫。あやせ。赤城。……桐乃。
 両手で数えられる程度の人数。
 だけど、俺にだっている、大事な人たち。
 こいつらを守るためだったら、何だって出来るって思えるほどの、かけがえのない人たち。
 ちゃんと、いるじゃんか……。

 「……」

 ――やば。
 より深くに溺れる。これ以上溺れると、沈み込んでしまうほどのところまで。まだ勉強をするつもりだったのに、これじゃあできなくなっちまいそうだ。
 ……でも、たまには、こんな日があっても……。

 プルルルルッ。

 「っ!」

 耳元に轟く着信音。
 深海から強制サルベージされて、意識が覚醒する。
 思わずベッドから跳ね起きて、微かに焦点の合わない目で、誰からなのかを確かめた。

 「……あや、せ?」

 表示されたデジタルは、”新垣あやせ”。奇しくも俺の、マイエンジェル。
 ……いかん。自分でも何言ってんのかわかんねぇ。
 ここは寝ぼけているせいだということにしておこう。

 とりあえず無視するわけにもいかなかったので、おそるおそる携帯を開き、俺は通話ボタンに指をかけた。
 ピッ。
 再度聞くこととなった効果音。それにあわせて、俺は、寝起きを隠すため、努めて明るく声を出そうと――。

 「――おにいさんっっ!!」

 ――して、無理だった。
 耳を劈くほどの大きな声。それは、あやせが紛れもなく怒っている証拠で。
 だから俺は、情けないながらも、小さな声で、

 「……はい?」

 と、返すので精一杯だったからだ。


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最終更新:2011年08月26日 00:33
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