「ちょっと違った未来26」 ※原作IF 京介×桐乃 黒髪桐乃の過去編
ピンポーン
「…」
ピンポーン
「…」
「まだ寝てるのかな…」
ここはお兄さんのアパートの部屋の扉の前だ。昨日のサークルの飲み会からはや空けて数時間しか経っていない。朝に弱いお兄さんなら寝ていても不思議はないはず。
「…」
私は無言でスペアキーを鞄から出して鍵穴にさす。どうやってお兄さんから許可を取って作ったって?乙女のナイショですよ♪
合鍵作成の時の抵抗するお兄さんをくすりと笑いもって思い出しながら、私は彼の部屋の扉を開け中に入った。
「…」
…案の定部屋の中は真っ暗だった。いくら前日が飲み会だからって、毎日の健康は規則正しい生活リズムから得られるんですよ、お兄さん。
パチ
部屋に灯りが点る。…と、
「きゃ、きゃあ!」
「…」
…なんとお兄さんは部屋の片隅で肩膝を立てて座っていた。び、びっくりした~!
「きょ、今日はお早いですね、お兄さん…」
「…」
驚いた。この時間彼が起きている所は私はこの半年間見たことがないからだ。それほどまでに彼は昼夜逆転型の生活サイクルを送っていたのだけど…。
「…」
「…お兄、さん?」
お兄さんは目線を相変わらずこちらに向けない。それはいつも通りの…よくある彼の態度なのだが、今日はどこか思いつめた顔でじっと自分の部屋の床を見ていた。
「お兄さん」
「…」
「朝、ですよ。起きて顔を洗いましょう?」
「…」
「…一体どうしたんですか?」
「…」
「…まさか、あれから桐乃と何か…」
その時、くん、とお兄さんの体から微かに漂う覚えのあるあの香り。これって…。
(桐乃の…石鹸の、香り…)
間違いない。中学時代から彼女が使い続けているフランス製の弱酸性のものだ。肌の弱い彼女はこれしか使えないということを中学の時の修学旅行で一緒にお風呂に入った時に知ったからだ。
そして大学生になった今現在も使い続けていることは彼女の体臭から明らかだった。
彼女そのものを表すかのような、淡くて甘い香り。それが何故お兄さんの身体から?
…そんなこと考えるまでもなかった…。
ぎり…
知らずに私は唇を食い締めていた。後から考えると彼女…高坂桐乃に明確な敵意を抱いたのはこの時が初めてだった。
おそらくこの時の私は嫉妬に染まった誰にもとても見せられない醜い顔をしていたことだろう。彼は相変わらず床をじっと見つめている。この般若のような顔を見られなくてよかった…。
昨日のあのサークルでの飲み会の後、何があったのか。部屋から出て行った桐乃を追いかけたあの後、何があったのか。私の女の勘が正しければ…。そしてその事から導かれる解がもし本当にそうなのだとしたら…。
…もう私に残された時間なんてどこにもなかった。
「お兄さん」
相も変わらずじっと何かを考え込みながら地面を見つめるお兄さんに対し私は努めて淡々と、
「私とお付き合いをしませんか?」
「…え?」
お兄さんが私の顔をうっそうと見上げる。いつも平静で無表情を崩さない彼には珍しく、ほんの少しだけ今の言葉の意図が掴めないというばかりに動揺していた。
座っている彼の目線に合うように私も彼の傍に寄って彼の目線の高さに合わす。
「お兄さん。私と…お付き合いをしましょう」
「新垣…それは…」
お兄さんは渋い顔をする。だが、私はお兄さんの言葉を続けさせないように、次の言葉を被せた。
「だってそれは…許されるはずがないでしょう?」
「ッ!」
お兄さんはばっと私の顔を凝視する。相変わらずの無表情だが、顔には緊張の色がほとばしっていた。…半年間も彼を見つめ続けたのだ。彼の心の機微がどのように顔の表情として表れるかなど、全て掌握済みだった。
「新垣…おまえ…」
どうして?いや、なんでそんなこと…。そこまで言いかけてはたと気づいたようだ。
「麻奈実、か」
「…はい」
さすがはお兄さんだった。これだけのやりとりで何故私がお兄さんのことが分かっているのかすぐに思い至ったらしい。こんなにまで思いつめた余裕のない顔をしていても、頭の切れは健在だった。
「新垣…俺は…」
す…
言葉を紡ぐ彼の唇に人差し指を当てる。
「あやせ、って呼んで下さい」
「…」
「ふふ…」
私は俯く彼を前から柔らかく抱きしめる。この部屋に充満している、大好きな彼のにおい。そしてほのかに漂う…あの女の、桐乃のにおい。
「私なら、私ならお兄さんの求めに全て応じてあげられますよ?何だってしてあげられます」
「…」
「いつも私がお兄さんに対して言っていたことって…どれも本気なんですよ?」
「…」
「…お兄さんは疲れているんです。久しぶりに昔の「幼馴染み」に再会したから…。昨日はちょっと舞い上がっちゃいましたね」
「…」
「もちろん今すぐ何もかもやっていこうってわけじゃありません。そんなに何もかもすぐに出来るわけがないですから」
「…」
「でも私達には…一緒に積み上げてきたこの半年間があるんです。ふふ…私って自分で言うのもなんだけど、凄く一途なんですよ?それにこう見えても花嫁修業だって欠かさずにしているんです。それから美味しいお料理もいつだって作ってあげられますし…」
貴方が望むならその先だって…。
私はこの言葉はあえて言わなかった。彼が私の身体を、肉体を求め欲しているならいつだって奉げるつもりだ。だけど、今の彼は見ていられなかったから…。今の彼に必要なのは女の性よりも抱きしめるような母性のはずだ。
「…」
「ね?何も今すぐ深い仲になろうというわけではないんです。ゆっくりと、一歩一歩進めていきましょう?私達には私達に合った歩調で。あの出会いの日から始まった平穏な、だけど何物にも代え難いお兄さんと私の毎日を…」
「…」
そして、そして、これが…。
「そしてそれはあの子にはなくて、私達にはあるものですから」
そう。これこそが私があの子に勝てる唯一のアドバンテージだ。このお兄さんと私が丹念に積み重ねた半年間は、あの子になくて私にはあるもの。
つまり、桐乃は所詮は想い出の中の肉の帯びない偶像であり、私は肉の帯びた生身の人間なのだ。
現実に生きる人間が偶像(想い出)如きに負けるものか――。
「新垣、俺、は」
「ほぉ~ら。ま~た」
彼の、お兄さんの捨てられた子犬のような目をしている顔を両手で包みこんで、
「あやせ、って、呼んでください」
「…」
「ほら…。もう一回」
「あ…」
ごくん、とお兄さんは唾を飲み込む。
「あ…やせ」
「…」
「あやせ…」
「ふふ…よく出来ました」
す、っと彼の頭を解放する。彼はじっと私の顔を見つめていた。
ちゅ
唇と唇が軽くふれ合う。中学生がするような初々しい口付け。そしてこれは…
「ファースト、キスなんですから」
「…」
彼のことをぎゅっと優しく抱きしめる。
「私が今まで誰とも…手を握ったことすらないっていう話…本当なんですよ?私の初めての恋は…初恋はお兄さんなんですから」
「あやせ…」
「女の子の初めてなんですから…大事にして下さいね」
「…」
見つめ合う瞳。彼の瞳には私の顔が。そして私の瞳にはお兄さんが映っているはずだ。だって彼しか見えないのだから。
「お兄さん…これからも、よろしくお願いしますね」
「…」
そして、私とお兄さんの恋人関係が始まった。
最終更新:2013年03月16日 20:49