まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。
スポーツ留学をするにあたって、あたしは一つだけ自分に縛りをした。
陸上の強化プログラムに参加している強化選手の誰かに公式のタイムトライアルで一勝するまで日本の友人達と連絡をしないこと。
電話も、メールも、SNSも、一切。
最初は寂しい思いをすると思う。
なにせ周りは言葉も国籍も違う子達しか居ない。
でも、それ位しないと、あたしは勝てないんだ。
周りの人たちからは完璧な人間ってみられてるけど、あたしはそんなに強い人間じゃない。
陸上だって、なんだって。
結構、泥臭い努力をしてきたんだ。
それもこれも兄貴に振り向いてもらいたかったから。
お兄ちゃんの自慢の妹でいるために。
いつからか、兄貴はあたしのことを避けるようになった。
ゲームの中の妹達は、お兄ちゃんに無条件に愛してもらえるけれど、現実はそうでもない。
だから、スポーツも、勉強も、もちろんおしゃれも、全部頑張って、もっといい子になって。
また自慢の妹になるんだと。
でも、あたしが頑張れば頑張るほど、あたしを避けるようになってた。
だから、あたしは意地になってた。
スポーツも、勉強も、もちろんおしゃれも、もっともっと、なんでも頑張った。
陸上だって県の上位入賞はあたりまえ。
学力テストだって常に県内トップクラスを維持してる。
同年代の女子が読むファッション雑誌の読モにもなった。
だけど、兄貴はあたしのことをみてくれない。
それどころか、口もきいてくれなくなった。
寂しかった。
どんなにあたしががんばったところで「妹」であることからは逃げられない。
だから、あたしは兄貴に冷たくしてみた。
だけど、兄貴はあの地味子のところに入り浸るようになって、完全にあたしをみてくれなくなってた。
気がついたら妹もののエロゲーにはまってた。
冷戦状態、っていうのかな。
そんな関係がずっと続いてた。
そんなある日エロゲーをやっていることが兄貴にばれた。
自慢の妹、っていうあたしの虚像がこわれた。
それでも兄貴はあたしの「人生相談」にのってくれた。
お父さんからあたしとあたしの趣味をかばってくれた。
親友のあやせとの仲を取り持ってくれた。
あたしの携帯小説も盗作から守ってくれた。
うれしかった。
少しずつ、兄貴の自慢の妹に戻れた気がした。
だから、また、頑張ってみようと思った。
スポーツ留学をして、もっと速く、もっと高く。
もっと兄貴の自慢の妹になるんだ。
お父さんとお母さんに留学の話をした。
最初お父さんは反対していたけれど、結局あたしのことを認めてくれた。
モデルの仕事を見に来てくれたのも、うれしかった。
出国前の夜、兄貴があたしのことを認めてくれた。
すっげえな、って。
本当にうれしかった。
ようやく兄貴があたしのことをみてくれたんだ。
だから、あたしは安心して留学にいけたんだ。
iPodからiPhoneに移した、小さい頃の兄貴と一緒の写真をお守り代わりにして。
まだ兄貴の後ろを追いかけていたあのころの写真。
予想はしてたけど、やっぱり世界中のトップ選手が集まる強化プログラムはきびしかった。
頑張っても、勝てない。
壁にぶつかるのは初めてじゃない。
高坂桐乃はその壁を乗り越えてきたんだ。
でも、世界を相手には乗り越えられなかった。
悔しかった。
寂しかった。
そのうち、体調も崩しがちになった。
同室のリアちゃんがあたしのことを気遣ってくれたのはうれしかったけど、やっぱり日本の友達に、両親に、なにより兄貴に逢いたくなった。
しばらくそんな状態が続いてへこんでた。
そうこうしてるうちに、コーチから両親にあたしの状態が報告されてしまった。
きっとお父さんが心配してあたしを連れ返しにきちゃうんだろうな。
でも、それじゃあ、あたしがお兄ちゃんの自慢の妹になれないまま、アメリカを離れなきゃいけないんだ。
何とかしなくちゃ。高坂桐乃。
そうして、兄貴に一通のメールを送った。
アンタに預けたあたしのコレクション ぜんぶ 捨てて
ちょっとしたルール違反かもしれないけど、兄貴は友達じゃないから、いいよね。
背水の陣って奴?
トレーニングを禁止されてたとき、リアちゃんが居ないことをいいことにエロゲーをやってたんだけど、そうやって逃げるのはやめた。
同じように日本に残してきた妹たちにも逃げられないようにして、とにかく頑張ろうとした。
あたし自身が自慢の妹になるために。
メールの返信の代わりに、兄貴がアメリカまで来た。
情けないところをみられてしまった。
それでも、兄貴はあたしのことを、俺の妹だ、と、いってくれた。
あたしが居ないと寂しいと、肩を抱いて泣いてくれたんだ。
あったかかった。
うれしかった。
やっとお兄ちゃんの妹になれた気がした。
それからあたし達は帰国した。
ちょっと不意打ちだけど、リアちゃんにも一勝できた。
もうちょっと充電して、もう一回世界に挑戦しよう。
空港であの黒いのがあたしを出迎えてくれた。
うれしかった。
あたしの趣味を包み隠さず話せて、喧嘩もして。
大切な友達。
そういえば、これも兄貴のおかげだった。
でも。
帰国した翌日、あの黒いのがあたしのうちを訪ねてきた。
帰国して初めてだから、最後にうちに来てからずいぶん経ってる気がする。
たまたま、お母さんが家にいて焦ったんだけど、なぜかスルーされた。
知らない子のはずなのに。
なんだろう。
妙な焦燥感に襲われた。
あの地味子に感じるのと同じ感覚。
階段を上がって、あたしの部屋にあがってもらおうとしたんだけど、その足取りがずいぶん慣れたものに感じられた。
なぜか兄貴の部屋の前で一瞬あの黒いのが立ち止まりそうになったのに気がついた。
なんだろう。
あたしともあろうものが、どうしてこんなに焦ってるんだろう。
それからあの黒いのをあたしの部屋に招き入れた。
開口一番、あの黒いのは言った。
あたし、あなたのお兄さんとキスをしたの。
あなたと同じくらいあなたのお兄さんが好きだと伝えたわ。
それから、あなたのお兄さんのベッドであなたのお兄さんと寝たの。
くすくす、と、泥棒猫が笑った。
なんだろう。
あたまががんがんする。
予想もしなかった。
地味子なら越えないだろうという一線を、この泥棒猫は軽々と越えてしまったのだ。
どうしたらいいの。
あたしはどうしたらいいの?
反射的に平手で黒猫の頬を叩いていた。
かえってよ。
帰れ!泥棒猫!
あたしともあろうものが、叫んでいた。
くすくす笑う黒猫を後にして、あたしは兄貴の部屋に行った。
どうやら兄貴は帰っていたらしく、珍しく机に向かって受験勉強をしていた。
突然ドアをあけたあたしに抗議する兄貴。
裏切り者!
そういわんばかりのあたしの目をみるなり、兄貴がひるんだ。
その隙に兄貴のベッドに飛びつく。
清潔なシーツと布団に、かすかにあの女の匂いがした。
どんなに、スポーツができて、学業ができて、どんなに可愛くなっても、どんなにお兄ちゃんが好きでも、お兄ちゃんの恋人にはなれないんだ。
あたしはどうしていいかわからずに、泣いた。
ただ、泣いた。
心の底から泣いた。
最終更新:2010年01月18日 20:40