女大学評論-10

【女大学・10】
 女は常に心遣いをしてその身を固く慎み守るべきだ。
 朝は早く起きて、夜は遅く寝て、昼は寝ずに家の中のことに心を配り、織り裁縫を怠るべきでない。また、茶や酒などを多く飲んではならない。
 歌舞伎、小唄、浄瑠璃などの乱れたものを見聞きしてはならない。宮寺などすべて人の多く集まるところへは老齢になるまではあまり行くべきでない。



【女大学評論・10】
 婦人が内を治めて家事に心を配り、織り物や裁縫を怠るべきでないというのはもっともな教訓で、婦人にとっては大切な務めである。

 西洋の婦人にはややもすれば衣服を裁縫する法を知らない者が多い。
 この点において、私は日本婦人の習慣をこそ貴ぶ者である。世の中がどんなに発展しようとも、家がどんなに裕福になろうとも、糸針の一事は婦人のために必要であり、高尚な技芸として怠ってはならぬことである。

 また、茶酒などを多く飲むなという。茶も過度に飲めば健康に害があり、言うまでもなく酒量が過ぎることについては男女共に慎むべきことである。
 これも本文の通りにて異議はないが、歌舞伎、小唄、浄瑠璃を見聞きしてはならない、宮寺などへ行くことも遠慮しろというのはいかがなものであろうか。不審に思われる。

 人生楽あれば苦あり、半々あるのは常である。苦楽が平均してよく働きよく遊び、それで人生が成立するという道理は女大学の作者も許すところであろう。
 それならば、夫婦が一緒に家にいるのはその苦楽を共にする契約であるのだから、一家が貧しくて衣食住にも困るなら確かに歌舞伎音曲など楽しむ余裕などないだろう。夫婦共に辛苦して生計にのみつとめるべきである。
 しかし、その努力した結果、多少の財産を成した場合には、平生の苦労の憂さ晴らしのために夫婦子供が連れ立って物見遊山も差し支えないであろう。
 これもまた女大学の作者だって許さないわけではないだろう。つまり、よく働いてよく遊ぶとはこのことである。

 このように本文の意味を考えてみると、歌舞伎云々以下は家の貧富に言及しておらず、ただ、婦人たる者は芝居見物はよくない、鳴り物を聴くことはよくない、老齢になるまでは宮寺への参詣も差し控えよと、厳しく婦人に禁じながら暗に男子のほうへは自由を与えているように見える。

 人生の苦楽を共にしながらその歓楽の一方は男子だけのものとして、女子には生涯苦労の一方のみを負担させようとするというだろうか。無理無法も甚だしいといえよう。

 この社会の実際としては、婦人は内を治め、男子は外で働けという。
 その内外の趣意を濫用して、男子が外で奔走するのは実業経営社会交際のためだけではない。その経営交際と称して酒を飲み花柳に戯れる者が多いのだ。
 政府と民間問わず、我こそは紳士と自称している俗輩が、何々の集会、宴会といって会合を持つのは、果たして実際の議事、真実の交際のために必要であるか否か。
 十中の八、九は会議のために集まるのではなく、会議の名を利用して集まるものだ。交際のために飲むのではなく、飲むために交際するものだ。

 その飲食、遊戯の時間は男子が内を外にする時間であり、すなわち醜体百戯、芸者と共に歌舞伎をも見物し小唄、浄瑠璃をも聴き、酒に酔い、あるいは花を弄ぶなど淫れ(うかれ)に淫れながら、内の婦人は決まって女大学の教えの範囲内に引きこもってひとり静かに留守を守っているということで、安心してますます佳境に入る時間である。

 このように、女大学の作者が特に婦人をいましめて淫らなことを見聞きするなと禁じているこの教訓は、男子には遠慮なく淫らな行いをさせる自由を与えているにすぎない。
 女を内に幽閉し、男を外で好きなようにさせている。一家の害悪を止めることなく却ってこれを奨励しているのである。

 こればかりでなく、不品行で狡猾な者は、自分の獣行を勝手にしようとして、さすがに妻から不平を言われ、それならばと策を案じて妻の歓心を買いその機嫌を取ろうとして、衣装でも何でもその妻の望むがままに買い与え、芝居見物、温泉旅行、季節ごとの行楽、何一つとして思いのままにならないことはないようにする者がいる。

 こんなことをしたら、俗にいうお心よしの妻は身の安楽さを喜び、世間の贅沢な付き合いに浮かれて自分の内を外にし、家の中の取り締まりはさておき子供の教育さえいい加減にしてしまうと同時に、夫の不義、不品行をもいい加減に見てあたかも平気な顔をすることがないとはいえない。

 まさにこれは好色な男子の得意とするところで、ひどい者になると妻、妾が一つ屋根の下に同居し、たとえうわべの嘘でもその妻が妾と親しくして、妻も子を産み、妾も子を産み、双方の中はとても睦まじいなどというおかしな話がある。禽獣界の奇いよいよ奇なりといえるだろう。


 今年の春の頃、ある米国の貴婦人がわが国に来遊して日本の習俗を見聞きする中で、妻妾同居云々の話を聞いて最初は大いに疑っていたが、ついにその事実を知ると

「私は確かにこの話を知ったけれども、さて、帰国したときにこれを婦人社会の友人たちに語っても容易に信じてくれる人はなく、却って目立ちたがって嘘を伝える者であるとされて、その他の報告までも信用を失うことになってしまうでしょう。
 日本の婦人たちはこの世に生きても実に生き甲斐のない人たちです。気の毒な人たちです。憐れむべき人たちです。私たち米国の婦人は片時もこのような境遇に安んずることはありません。死を決してもなお争わなくてはならない、いや、日米、国が違っても、女性は同胞姉妹です。
 私たちは日本の姉妹のためにこのような怪事を打破して悪魔退治の法を考えなくてはなりませんね。」

・・・と、歯を食いしばって憤り、涙を払いながら語ったことがあったのだ。  私はこの話を聞いて他人事とは思えず、新日本の一大汚点を摘発され、大いに恥じ入った次第である。

 条約改正、内地雑居もわずかに数ヶ月のうちにあり、なおこのままにして国の体面を維持しようとするというのか。その厚顔ぶりはただ驚くべきものだ。
 東洋も西洋も同じく人間の世界であるというのに、男女の関係ではその趣がこのように違う。日本においては青天白日の下一妻数妾あり、妻と妾が同居し、妻と妾が親しくしていることもある。

 つまりその親愛が嘘であっても、男子が世にもあられぬ獣行をはたらきながら、婦人には柔和忍辱のこの頂上まで至らせているのは上古蛮勇時代の遺風であり、特に女大学の教訓はその頂上に達している結果であることにほかならない。

 代々の婦人たちが自分から結婚の契約に伴う権利を忘れて、かりそめにも夫の意に逆らうのは不順である、その醜行をとがめるのは嫉妬であると信じて、一切万事これを黙々と付し去るだけではなく、当の敵である加害者の悪事を隠しかくまって、自分でそれが婦人の美徳であると認識するのは文明の世において権利とは何なのかをわきまえていないことだといえるだろう。

 夫婦が同居して、夫が妻を扶養するのは当然の義務である。
 しかし、その妻がわずかな美衣、美食を与えられて満足してしまい、自分にとって大切な本来の権利を放棄しようとするのは愚かなことでなくて何だろうか。

 だから、夫婦が苦楽を共にするという一事は決してなおざりにしてはならない。苦でも楽でもそうだが、それを隠して共にしようとしない者は夫であって夫ではない、妻であって妻ではない。
 あくまでも議論しあうことだ。時にはそのために騒ぎを起こすこともやむを得ない。


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最終更新:2007年04月27日 12:52
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