女大学評論-17

【女大学・17】
 下僕を多く使っていても、すべてのことを自分で辛労を堪えて勤めるのが女の作法である。
 舅姑のために着物を縫い食事をととのえ、夫に仕えて衣服を畳み敷物を掃き、子を育て汚れを洗い、常に家の中にいてみだりに外へ出てはならない。



【女大学評論・17】
 下女、下男を多く使っていても、婦人である者は万事自分からつとめて、舅姑のために着物を縫い食事を整え、夫に仕えて着物を畳み敷物を掃き、子を育てて汚れを洗い、常に家の中にいてみだりに外へ出るなという。婦人は多忙である。

 果たしてこれが一人の力でできることか、そのあたりはさておくとしても、とにかく家を治める婦人の心がけとしては非常によい教えである。
 体の許す限りは努力するべきであろうが、本文中で耳障りなのは夫に仕えてというその「仕」の字である。

 もともと「仕える」とは、君臣主従などという上下の身分で使うもので、下の者が上の者に接する場合に使う字である。
 ならば、妻が夫に仕えるというのなら、その夫妻の関係は君臣主従に等しく、妻もまたこれ一種色替りの下女であるとの意味を丸出しにしたものである。私は断じてこれを許さない。

 営業は男子の役割であり、一家の中のことを経営するのは妻の役割である。
 衣服、飲食を整えて家の清潔に注意し、子供を養育することはすべて人生において大切なことであるから、男子の外の役割と比較した場合、難易軽重があるわけではない。
 だからこの家の中の経営を以って妻が夫に仕える作法であるというのなら、夫が外のことにつとめるのは妻に仕える作法であると言わざるを得ない。

 男女が結婚して一つ屋根の下に同居し、内外を区別して各々その半分ずつを負担し、苦楽を共にして同じように心身を労するのに、何のためにこれを君臣主従のような関係にしなければならないというのであろうか。ばかばかしいことこの上ない。

 もしかすると、戸外の業務は家庭内のことに比べて心労が大きい、また、その仕事の成果も大きいのだから、と言う人がいるかもしれないが、夫が病気になったとき妻が看病するときの心配、苦労は果たして大きくないというのであろうか。
 妊娠の十ヶ月の苦しみを経て出産の上、夏の日も冬の夜も、寝食も十分せずに子供を育てるその心労は果たして大きくないというのであろうか。
 子供に暑さ寒さに合わせた衣服を着せ、無害の食物を与え、言葉を教え行儀を仕込み、怪我もさせぬように心を配って、成人させるというその成果は果たして大きくないというのであろうか。
 要するに、夫婦の仕事に軽重、大小の別などというものは存在しないのが事実であるから、これを争う必要もないのだ。

 これを政治の世界で例えて言うならば、妻が家庭内のことを治めるのは内務大臣であり、夫が戸外の経営にあたるのは外務大臣である。
 両大臣は共に一国の国事経営を負担する者であるから、その名称に内外の別こそあれ、身分的には軽重がない。

 だからつまり女大学の「夫に仕えよ」云々の文は、内務大臣が外務大臣に仕えよと言っているのと同じである。これはおかしなことであろう。
 一国において行われないことは一家にも行われるべきでないと認識するがよい。


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最終更新:2007年05月01日 14:37
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