愛餐と聖餐(主の晩餐)


関連聖句

  • マタイ26:17-20
さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。

  • マタイ26:26-29
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

  • マルコ14:12
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。

  • マルコ14:23-25
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

  • ルカ22:7-8
さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。

  • ルカ22:14-20
時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

  • 使徒2:42
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

  • 使徒2:46,47
そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。

  • コリント第一11:17-34
ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。 まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。

  • ユダ12
彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。

まとめ

  • 「聖餐」という語は聖書には出てこない。聖書ではこれは「主の晩餐」と呼ばれる(コリ一11:20)。
  • 「愛餐」(アガパイ(愛の複数形))という語は聖書に一度限り登場する(ユダ12)。


  • イエスは亡くなる日の前夜、過越祭(ペサハ)の日(ニサン十四日)、十二人の弟子たちと共に過越の食事を行われた。
  • 食事の時、イエスはパンを手に取り、感謝してこれを割き、弟子たちに与えて、「これはあなた方のための私の身体である」と述べ、「わたしを記念するため、このように行いなさい」と述べた。
  • また杯も同様にして、杯を取り、感謝して、「あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」、または「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と述べた。そして、「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」と述べた。

  • 使徒たちは、個人の家に集まり、説教と祈りと賛美を行い、パン割き(聖餐)を行っていた。その時、食事(愛餐)も共にした。

  • コリント教会へのパウロの言葉では、聖餐のことを「主の晩餐」と呼ばれている。
  • コリント教会では、愛餐の後に聖餐が行われていた。しかし、富んだ人だけが自分の食事を済ましてしまい、貧しい人が何も持っていないので飢えている状態だった。パウロはこれを叱責し、食事は持ち合わせて皆が分け合って食べれるようにせよ、あるいは自分の家で食事を済ませてから来て、貧しい人が食事に与れるようにしなさいと命じる。
  • 主の晩餐が行われる度に、主の死をふれ告げることになる。それは主が来られる時に至るまで行われつづける。
  • ふさわしくない状態で聖餐に与るなら、裁きを受けることになる。そうするなら、教会の中に病人や死者も多くなる。しかし、その裁きは、滅びの裁きではなく、世の人と同じく罪に定められないための主の懲らしめである。

  • ユダの書簡では、「愛餐」に同席するが、自分の腹を肥やして、背教的な教えを広める人々がいた。
最終更新:2017年08月29日 01:18