公会議/教会会議

■公会議

※ここで列挙されているのは、ローマ・カトリック教会が承認している公会議である。したがって、東方正教会やプロテスタント教会は非承認の公会議も含まれるし、ここで列挙された公会議以外にもカトリックが非承認の教会会議は幾度も行われている。

◆第1回 第一ニカイア公会議

【開催年】325年(5月23-6月30日)
【開催地】ニカイア(トルコ)
【招集者】ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)
【議長】ホシウス
【主要人物】アレクサンドリアのアレクサンドロス(「同質」派)、アレイオス、カエサリアのエウセビオス(「相似」派)

…アレイオス派は御子の絶対的な神性を否定し、子は神の被造物だと主張していた。一方、アレクサンドリアのアレクサンドロス司教とアタナシオス(助祭)は、父と子の神性は同質であると主張した。父と子は「同質」(ホモウーシオス)なのか「相似」(ホモイウーシオス)なのかで議論され、アレイオス派は追放された。

出席者は250-300名程。カエサリアのエウセビオスによれば「250名以上」、アタナシオスによれば「およそ300名」、アンティオキアのエウスタティオスによれば「270名」、コンスタンティヌス帝によれば「300名以上」。

●ヒスパニア代表
 ・ホシウス(議長、アレクサンドロス派)

●西方教会の代表
 ・ローマのウィクトル
 ・ローマのウィンケンティウス
 ・カルタゴのカエキリアヌス
 ・ガリアのニカシウス
 ・カラブリアのマルクス
 ・パンノニアのドムヌス

●東方教会の代表
 ●アレイオス派支持者
  ・ニコメディアのエウセビオス(エウセビオス派)
  ・カエサリアのエウセビオス(中央左派:オリゲネス的従属説)
  ・エフェソスのメノファントス
  ・スキュトポリスのパトロフィロス
  ・ネロニアスのネエルキッソス
  ・マルマリカのテオナス(アレイオス派)
  ・リビュアのプトレマイスのセクンドス(アレイオス派)
  ・ニカイアのテオグニス
  ・シュリアのアナツァルボスのアタナシオス
  ・カルケドンのマリス

 ●アレイオス派反対者
  ・アレクサンドリアのアレクサンドロス
  ・アタナシオス(助祭)…アレクサンドロス司教に随行して参加
  ・アンティオキアのエウスタティオス(極右:サベリオス主義)
  ・アンキュラのマルケロス(極右:サベリオス主義)
  ・エルサレムのマカリオス

●決定事項
  • ニカイア信条
  • 復活祭の日付を確定
  • アレイオス派の排斥
  • 父と子は「同質」(ホモウーシオス)

◆第2回 第一コンスタンティノポリス公会議

【開催年】381年
【開催地】コンスタンティノポリス(トルコ)
【招集者】ローマ皇帝テオドシウス1世
【議長】ナジアンゾスのグレゴリオス

…マケドニウス1世(マケドニウス派)は聖霊の神性を認めず、排斥された。

  • アレイオス派、サベリウス主義、アポリナリオス主義、ホモイウジオス主義を排斥
  • ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニカイア信条を改訂)

◆第3回 エフェソス公会議

【開催年】431年
【開催地】エフェソス(トルコ)
【招集者】東ローマ皇帝テオドシウス2世
【主要人物】アレクサンドリア総主教キュリロス、コンスタンティノポリス大主教ネストリオス

…ネストリウスはアレイオス主義とアポリナリオス主義を批判する目的で、キリストの神性と人性は分離していると説明した。さらにその裏付けとしてマリアは「神の母」ではなく、「キリストの母」と呼ぶ方がふさわしいと論じた。しかし、ネストリウスのその理論は異端となった。

  • ネストリウス派の排斥
  • ペラギウス派の排斥
  • マリアはテオトコス(神の母)

◆第4回 カルケドン公会議

【開催年】451年(10月8日-11月1日)
【開催地】カルケドン(トルコ)
【招集者】東ローマ皇帝マルキアヌス
【議長】コンスタンティノポリス総主教アナトリオス
【主要人物】ローマ教皇レオ1世(両性論)、アレクサンドリア総主教ディオスコロス(被告、単性論)

…448年コンスタンティノポリス地方会議でエウティケスが破門となるが、アレクサンドリア総主教の働きで、449年のエフェソス会議でエウケティスが逆転勝利した。教皇レオ1世は再度カルケドン公会議を開き、ディオスコロスを断罪し、単性論を排斥した。

  • キリスト単性論排斥
  • カルケドン信条 

◆第5回 第二コンスタンティノポリス公会議

【開催年】553年(5月5日-6月)
【開催地】コンスタンティノポリス
【招集者】東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(単性論)
【議長】コンスタンティノポリス総主教エウテュキオス
【主要人物】ローマ教皇ウィギリウス(両性論)

  • ユスティアヌス帝は単性論に理解を示すようローマ教皇を促すが、ウィギリウス教皇はこれを拒否したため、単性論を反駁した三つの著作を排斥した(三章書問題)。
  • 単性論派と両性論派の調停が試みられるが決裂
  • オリゲネスを異端と宣告

◆第6回 第三コンスタンティノポリス公会議

【開催年】680-81年
【開催地】コンスタンティノポリス
【招集者】東ローマ皇帝コンスタンティヌス4世
【主要人物】ローマ教皇レオ2世(両意論)、ローマ教皇ホノリウス1世(単意論)

…ホノリウス1世は生前、両性論と単性論を調停する為に「単意論」を説いた。単意論は、子の内に神の意志のみを認める考えであるが、レオ2世は単意論を排斥し、すでに死去しているホノリウス1世をも破門した。

  • 単意論排斥→東方のマロン派は単意論を信奉した。

◆第7回 第二ニカイア公会議

【開催年】787年
【開催地】ニカイア
【招集者】コンスタンティヌス6世
【主要人物】皇后エイレーネー

…726年、東ローマ皇帝レオーン3世は聖像廃止に取り掛かり、730年に聖像禁止令を発布。レオーン3世の子、コンスタンティノス5世は754年、イエリア公会議で聖像擁護派を排斥し、聖像破壊運動(イコノクラスム)を推進した。そこで、聖像擁護派だった皇后エイレーネーの働きで第二ニカイア会議が開かれ、聖像破壊主義者は排斥された。

  • 聖像破壊主義者排斥(イコンは偶像崇拝ではないと定義)

◆第8回 第四コンスタンティノポリス公会議

【開催年】869-70年
【開催地】コンスタンティノポリス
【招集者】東ローマ皇帝バシレイオス1世、ローマ教皇ハドリアヌス2世
【主要人物】東ローマ皇帝ミカエル3世、コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世、ローマ教皇ニコラウス1世、前総主教イグナティオス

…東ローマ皇帝ミカエル3世によって、学者フォティオス1世は総主教に就任したが、それまで聖職者でなかった者が総主教になるのは適任ではないとして、863年、反対派の前総主教イグナティオスとローマ教皇ニコラウス1世により、ラテラノ教会会議で廃位を宣言される。フォティオスはこれに対抗して、867年の教会会議で反対派のローマ教皇ニコラウス1世を破門する。破門の際、「フィリオクエ問題」が持ち出された。それは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の翻訳問題であった。原文は「聖霊は父から出る」だが、カトリック側はそれを勝手に「聖霊は父と”子より(=Filioque)”出る」と付け加えていたことを突いたのである。しかし、バシレイオス1世が東ローマ帝国に即位すると、ローマ教皇との関係改善の為にイグナティオスが総主教に再任される。そして869年、第4コンスタンティノポリス公会議が開かれ、総主教フォティオス1世は排斥された。しかし、ローマ教皇と関係改善効果がなかったので、バシレイオス1世は、再びフォティオス1世を総主教の座に復位させている。

  • コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世追放
  • 五大総主教のランク付け(ローマ教会→コンスタンティノポリス教会→アレクサンドリア教会→アンティオキア教会→エルサレム教会)
  • 「フィリオクエ問題」は未解決のまま

◆第9回 第一ラテラノ公会議

【開催年】1123年
【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)
【招集者】ローマ教皇カリストゥス2世

…西方における最初の公会議。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世以来、叙任権闘争が生じていたが、1122年、ドイツのヴォルムスで成された協約によって、「聖職者の叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威の任命権のみ」と定められた。ラテラノ公会議では、このヴォルムス協約が確認され、正式に承認された。

  • ヴォルムス協約の承認
  • 聖職売買禁止の再確認
  • 十字軍参加者に対する部分免償の実施
  • 十字軍参加者の家族と財産の保護の徹底
  • ローマ巡礼者への略奪禁止
  • 叙階や叙任に関する権限の確認

◆第10回 第二ラテラノ公会議

【開催年】1139年
【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)
【招集者】インノケンティウス2世

…ローマ教皇ホノリウス2世の死後、後継者を巡って対立が生じた。フランス側はインノケンティウス2世を、ローマ側はアナクレトゥス2世を擁立した。アナクレトゥス2世の死後、インノケンティウス2世は、事態を清算するために公会議を開いた。

  • アナクレトゥス2世を支持した司教・枢機卿の罷免
  • 修道者が法学・医学を専攻することを禁止
  • 聖職者と修道者の婚姻は無効
  • 司教選挙権が司教座聖堂(カテドラル)参事会員であることの確認
  • アルノルド・ダ・ブレシアの説教・著述の禁止(聖職者が財産を持つべきでないと教えた)
  • 危険な馬上槍試合の禁止

◆第11回 第三ラテラノ公会議

【開催年】1179年
【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)
【招集者】ローマ教皇アレクサンデル3世

…神聖ローマ皇帝赤髭王フリードリヒ1世は、アレクサンデル3世が教皇となることに反対し、対立教皇としてウィクトル4世、パスカリス3世、カリストゥス3世を立てた。しかし、1177年にヴェネツィア条約が結ばれ、アレクサンデル3世が教皇となった。対立教皇が乱立する混乱を収拾すべく公会議が招集され、コンクラーベは投票者の三分の二以上の賛成を必要とすると改定した。

  • コンクラーベ改正(投票者の三分の二以上の多数決)
  • ワルドー派は、信徒による説教を許可してくれるよう申請したが、拒否された。
  • カタリ派排斥
  • カタリ派討伐の兵を「十字軍」と認める→後のアルビジョワ十字軍
  • 司教の複数教区掛け持ち禁止
  • 司教座聖堂(カテドラル)に教師配置義務
  • ソドミー(同性愛行為など)を行う聖職者は追放

◆第12回 第四ラテラノ公会議

【開催年】1215年
【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)
【招集者】インノケンティウス3世

…1380名以上集まる大規模な公会議だった。

  • 聖体の「全実体変化(transsubstantiatio)」の宣言…化体説、ミサの際、パンと葡萄酒がキリストの実際の体と血に変化する。
  • 異端と異端を保護する事への処罰
  • 教会の順位の確認(ローマ教会→コンスタンティノポリス教会→アレクサンドリア教会→アンティオキア教会→エルサレム教会)
  • 司祭の避けるべき行動規則を定める(狩猟・外科手術など)
  • 全信徒に、年一回の聖体拝領と告解を義務付ける
  • ユダヤ人とイスラム教徒への特別な服装の義務付け
  • フリードリヒ2世を神聖ローマ皇帝として承認

◆第13回 第一リヨン公会議

【開催年】1245年6月
【開催地】リヨン(フランス)
【招集者】ローマ教皇インノケンティウス4世

  • 教会を迫害したとして、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門

◆第14回 第二リヨン公会議

【開催年】1274年
【開催地】リヨン(フランス)
【招集者】ローマ教皇グレゴリウス10世

…東ローマ帝国の使節も招待した。また、モンゴル帝国の皇帝クビライも出席した。

  • 以後6年間の十分の一税は十字軍の資金に充てる
  • 東西教会の和解として、西方教会の首位権を認める代わりに、フィリオクエ問題について東方教会の伝統を認めると合意したが、見せ掛けだけの和解だった。
  • コンクラーベでは、教皇没後すぐに選出をはじめ、決定するまで枢機卿たちは外界から遮断される。
  • ハプスブルク家のルドルフ1世にドイツ王の権威を認める(大空位時代終結)。

◆第15回 ヴィエンヌ公会議

【開催年】1311-12年
【開催地】ヴィエンヌ(フランス)
【招集者】ローマ教皇クレメンス5世

…1308年、ローマ教皇はフランスの要請を受けて、アヴィニョンに教皇庁を移転した(教皇のバビロン捕囚)。そのため、教皇に対するフランス王フィリップ4世の影響力が強い状態だった。フィリップ4世は、テンプル騎士団の財産に目をつけていた。1307年、フィリップ4世は、テンプル騎士団に冤罪を負わせて修道院を襲撃し、逮捕した。クレメンス5世はこれに反対することができず、公会議でテンプル騎士団を有罪とし、解散させた。

  • テンプル騎士団解散命令(修道会の財産は聖ヨハネ騎士団に相続された)。

◆第16回 コンスタンツ公会議

【開催年】1414-18年
【開催地】コンスタンツ(ドイツ)
【招集者】神聖ローマ皇帝ジギスムント

…1378年、ローマのウルバヌス6世とフランスのクレメンス7世が、共に教皇権を主張し、二人の教皇が並立する事態(シスマ)となった。1409年、ピサ公会議で二人の教皇(当時はローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネティクトゥス13世)を罷免し、新たにアレクサンデル5世を擁立した。しかし、二人は退位しなかった為、教皇が三人並立状態となった。アレクサンドル5世は翌年に急死し、ヨハネス23世が選出された。皇帝は公会議を招集するが、ヨハネス23世は逃亡してしまう。そこで、教皇さえも公会議の決定に従うべきとする「公会議主義」の考えで会議を続行し、新たにマルティヌス5世を教皇として立てた。こうしてシスマ(教皇分裂)は終結した。

  • シスマ終結(教皇統一)
  • 教皇の暴走を食い止めるため、公会議を定期的に開催すること
  • ジョン・ウィクリフ排斥…墓から遺体を掘り起こされて著書と共に焼かれた。
  • ヤン・フス排斥…火刑に処せられた。

◆第17回 バーゼル公会議、フェラーラ・フィレンツェ公会議

【開催年】1431-45年
【開催地】バーゼル(スイス)1431~、フェラーラ(イタリア)1437~、フィレンツェ(イタリア)1439~、ローマ1443~
【招集者】ローマ教皇エウゲニウス4世

…バーゼル公会議が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派はイタリアに会議を移転し、公会議派はバーゼルに留まった。公会議派は対立教皇としてフェリクス5世を立てた。教皇派はファラーラで会議を続けたが、財政難と疫病が流行した為、フィレンツェに移動した。

  • フィリオクエ問題は、「父から子を通して」とすることで、一応の決着がつく。しかし、東西教会の一致の促進には至らなかった。
  • 教皇首位説(公会議が分裂した為)
  • 七つの秘跡(サクラメント)が確立する。秘跡とは、洗礼・堅信・聖体・赦し・病者の塗油・叙階・結婚のこと。

◆第18回 第五ラテラノ公会議

【開催年】1512-17年
【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)
【招集者】ローマ教皇ユリウス2世、レオ10世

…ユリウス2世が中々公会議を開かないので、1511年、教皇なしでピサ公会議を開催する。これを無効にするため、教皇はやむやむ正規の公会議を開く。

  • 公益質屋(モンテ・ディ・ピエタ)が公認される。(ユダヤ人が高利貸付をして民衆を苦しめたので、教会が低利貸付を始めていた)。
  • 教会の独立と司教の権威を確認(1438年、フランス王シャルル7世が公布した「ブルージュの国体勅諚」を排斥…教会は国家に独立しておらず、国家に従属すべきとの理論)
  • 対オスマン帝国戦争の承認
  • 当初は教会改革が目的だったが達成できず、ルターの宗教改革を招くことになる。

◆第19回 トリエント公会議

【開催年】1545-47、1551、1562-63年
【開催地】トリエント(イタリア)
【招集者】教皇パウルス3世、ユリウス3世、ピウス4世

…宗教改革に対抗するカトリック側の教理の確認と自己改革(対抗宗教改革)

  • ニカイア・コンスタンティノポリス信条の再確認
  • 第二正典が正式に承認される(ルターが第二聖典を省いた為)
  • 聖書と聖伝が教えの拠り所(ルターは聖書のみと主張していた)
  • ラテン語訳『ウルガータ訳聖書』が唯一の公認聖書(ルターは聖書を母国語に翻訳すべきと主張していた)
  • 救いは神の恩寵と人間の協働による(ルターは救いは恩寵のみと主張していた)
  • 七つの秘跡(サクラメント)を再承認(洗礼・堅信・聖体・赦し・病者の塗油・叙階・結婚)
  • 聖体の実体変化(化体説)を再主張
  • 司教の定住、養成施設の充実(聖職者の世俗化を防止する対策)
  • 今後、免罪符(贖宥状)の販売を禁止(但し効果や意義は保たれる)
  • 聖人や聖遺物への崇敬、煉獄、諸聖人の通効など、伝統的教義は依然として有効と確認
  • 禁書目録を作成(~1966年廃止)

◆第20回 第一バチカン公会議

【開催年】1869-70年
【開催地】バチカン
【招集者】ローマ教皇ピウス9世

…目的は近代思想における誤謬を排斥すること

  • 「デイ・フィリウス」…極端な合理主義を否定
  • 「パストール・エテルヌス」…教皇首位権、教皇不可謬説(一定の条件下での教皇の発言に誤りはない)
→教皇無謬説を否定した一部の司祭たちが教会から分離し、「復古カトリック教会」を創立した。

◆第21回 第二バチカン公会議

【開催年】1962-65年
【開催地】バチカン
【招集者】ローマ教皇ヨハネス23世、パウルス6世

…教会の現代化(アジョルナメント)で世界と教会の一致をはかる。

  • 四つの憲章『典礼憲章』『神の啓示に関する教義憲章』『教会憲章』『現代世界憲章』
  • 礼拝において自国語を用いる自由を認める
  • 信徒の聖書研究が推奨される
  • エキュメニズムの推進


■その他の教会会議

◆252年 カルタゴ会議
  • 幼児洗礼を承認
◆397年 カルタゴ会議
  • 聖書正典確立
◆411年 カルタゴ会議
  • ドナトゥス派異端宣告
◆448年 コンスタンティノポリス地方会議
  • エウティケス(単性論)排斥
◆449年 エフェソス強盗会議
  • アレクサンドリア総主教ディオスオコロスが皇帝の許可を得て開催
  • エウティケス(単性論)排斥を撤回
◆589年 トレド公会議
  • フィリオクエ(聖霊は父と子から出る)が成文化される
◆754年 イエリア公会議
  • コンスタンティノス5世主催、聖像擁護派を排斥
◆863年 ラテラノ教会会議
  • ローマ教皇ニコラウス1世、コンスタンティノポリス総主教フォティオスの廃位を宣言
◆867年 教会会議
  • 東ローマ皇帝ミカエル主宰、フォティオス1世のコンスタンティノポリス総主教就任に反対したローマ教皇ニコラウス1世を破門する。
  • 「フォリオクエ問題」で、カトリック側がニカイア・コンスタンティノポリス信条の原文に勝手に「フォリオクエ(子より)」を追加した教義を異端とする(聖霊は父と"子より”出て)。
◆879-880年 コンスタンティノポリス教会会議
  • ローマ教皇の特使、フォティオス1世の総主教再任を認める。
◆1046年 スートリ教会会議
◆1095年 クレルモン会議
  • 第一回十字軍を承認
◆1409年 ピサ公会議
  • 二人の教皇(ローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネティクトゥス13世)の代わりに、新たな教皇(アレクサンデル5世)を選任する。
◆1511年 ピサ公会議
  • 教皇ユリウス2世が中々公会議を開かないため、公会議主義者が教皇なしで公会議を開いた。教皇はこれを無効にするため、第5ラテラノ公会議を開いた。
◆1618-19年 ドルト会議
  • プロテスタント(オランダ改革派)の教会会議
  • アルミニウス主義(万人救済説)排斥
◆1643-49年 ウェストミンスター会議
  • プロテスタント(改革派)の教会会議
  • 「ウェストミンスター信仰告白」1646年
  • 「ウェストミンスター大教理問答」1647年
  • 「ウェストミンスター小教理問答」1647年


最終更新:2017年07月23日 05:03