本日最後の授業は芸術の選択授業だ。
俺は四月になんとなく美術を選択した。ハルヒは音楽だ。
ハルヒの音楽的才能は文化祭のバンド代役事件でまざまざと見せつけられていたから、授業でもさぞかし目立っているだろうと予測できた。
たまにコーラス部の阪中が、「涼宮さんね、今日の授業ではソロで歌い上げたのね」と自分のことのように喜んで話すのも聞いている。
でも俺はハルヒがどんな絵を描くのか見てみたい気もする。やっぱり抽象画だろうか。長門あたりしか理解できないような。
そんなことをぼんやり考えて授業は過ぎていった。
美術の授業はチャイムが鳴るより少し早めに終わってくれる。こういうとき美術を選択していて良かったと思う。
教室に戻り掃除当番でもないので、しばらく谷口や国木田と他愛もない話をしている──というか聞き流していると、音楽を選択している奴らがようやく戻ってきた。
自然、教室になだれ込んでくる人の流れを横目で観察する。
流れが途切れてしばらくしてもハルヒは現れなかった。
胸騒ぎがした。
俺は無意識にある人物の姿を目で探す。
何の事はない、阪中は自分の席にいた。
しかもどうやら阪中もこちらを見ていたようだ。すぐに目が合ったからな。
俺は阪中に「ハルヒは?」と聞いた。
阪中はちょっと眉根を寄せて、
「あのね、教室に戻る途中9組の前でクラスの子に話しかけられてついて行っちゃったのね。──誰だったのかな、あの人」
「──そうか」
俺は答えると席を立った。阪中のもたらしてくれた情報の意味することがわかったからだ。
「あれキョン、鞄置いたままどこ行くの?」
国木田の問いに短く「便所」とだけ答え、
廊下に出た途端、俺は猛ダッシュしていた。
ハルヒ!
──何走ってんだよ俺。
どこにいる!?
──俺がしゃしゃり出てどうすんだよ。
間に合ってくれ……!
──大人しく結果を待つんじゃなかったのか?
「できるかよ」
ムリだ。今ハルヒを見失ったら、俺こそ閉鎖空間作って神人暴れさせて世界を作り変えたくなっちまう。
ハルヒが欠落した日常なぞ俺は堪えられない。
だから筋違いでも俺は足掻くぞ。今決めた。
足は自然と昨日の階段に向かった。犯人は現場に戻るって言うしな。いや犯人役は俺か?
階段の下で一度足を止める。ひとつ深呼吸して、ゆっくり踏みしめるように上った。
五段ほど上ったところで声が聞こえてきた。ハルヒの声。ビンゴだ。
俺がもう一段上ったときハルヒの声がはっきりと聞こえてきた。
「キョンは関係ないわ」
──驚いたね。聞こえてきた第一声が俺の名(あだ名だが)だったのだから。
俺は息を呑み声がした方を振り仰ぐ。
くすりとハルヒとは違う笑い声が聞こえた。
「僕は『彼』としか言ってないよ?古泉のことかもしれないじゃないか」
この声も聞き覚えがある。昨日の奴だ。
しかし話が見えてこない。何故俺の名前が出てきているんだ?
しかもさっき『キョンは関係ない』とか言ったな、ハルヒ。軽く傷ついたぞ。
さて今この状況はハルヒが返事をする前か後か。俺は様子をみるべくその場に留まった。
ハルヒは先ほどの男の指摘に言葉を詰まらせたかの如く黙っている。
数秒の沈黙の後──
「涼宮さんの本当の気持ちを教えてくれないかな?」
どくん、と心臓が大きく脈打った。
ハルヒがなにか躊躇っているような雰囲気が俺にも伝わってくる。
しかしその戸惑いもすぐ消え、意を決して「答え」ようとするハルヒ。
「あたしは── 」
「ハルヒいるか?」
ハルヒが次の言葉を紡ぎ出すその前に、俺は無意識に声を掛けていた。
「──!! キョン!?」
ああこりゃもう出ていくしかないな。俺は残りの段を消化し、踊り場で振り返った。
見上げると二つの影。ハルヒと見知らぬ男。逆光で顔は見えなかった。どんな表情をしてるかもな。
「あんた一体……何でここに!?」
ハルヒの声は僅かに上擦っていた。何をそんなに慌てているんだか。
俺は白々しくいつも通りに話しかけた。
「ああ、ここにいたのか。探したぞ?」
これは事実だ。
「なんで?」
そりゃごもっともな質問だね。まあ確固たる理由は存在しているのだが、それをこの場で口にしていいものか──
ここは誤魔化すか。
古泉が──と言いかけて阪中の言葉を思い出す。こいつ9組の前で連れていかれたんだっけ。辻褄が合わないな。
一瞬の逡巡の後、
「長門が探してたぞ」
長門、すまん。頼んだぞ。朝比奈さんだと心許ないからな。
「有希が?なんでまた」
ハルヒは意外だという声を上げた。
「さあな」
「そう── 」
ハルヒは少し考えこんでパッと顔を上げた。男の方を向き、
「じゃ、そういうことだから」
とあっさり一言告げると、一段飛ばしで階段を駆け下りてきた。こら危ないだろ。
そして俺の顔をちらりと見ながら、スピードを緩めず横を通り過ぎてった。
寄越してきた視線がちょっと物騒だったのは気のせいかね?
その場に取り残されたのは面識もない男二人。
うーん、やはり気まずい。特に俺が。
俺は頭上の人影に声を掛けた。
「あー、そのなんだ、お取り込み中邪魔して悪かったな」
あまり悪びれていないような態度に見えるだろうが許してくれ。俺も必死だったんでな。
「別にいいよ」
とさらりと受けて、その人影は階段をゆっくり降りてきた。
ここで一悶着あるかと内心身構えていた俺は拍子抜けた。
さすが『温厚』と評される人物だな。感嘆に値するぜ。
近づいてくるそいつの外見も柔和そのものといったカンジだ。
男は俺の前まで辿り着くとにっこり笑っていった。
「もう返事は聞いたから」
「へ?」
俺が思わず上げた声はかなり間抜けたものだった。
──じゃあさっきのあの問答は一体何だったんだ?
俺の顔を見て男はふふっと軽く笑った。嫌味なカンジではなく純粋に可笑しそうに。
「さっきの聞いていたんだ?」
ここで誤魔化すのはフェアじゃないと判断し、俺は正直に話した。
「ああ、すまない。聞こえちまった」
「うん、多分そうじゃないかな、と思ったけどね。あのタイミングは」
男は笑いを噛み殺している。だんだん居心地悪くなってきたぞ、おい。
「しかも告白のことも知ってるみたいだね?」
う、と返答に詰まる。ハルヒ、お前がコイツにたじろいだ理由がわかったぜ。
「まあいいけど。結果はもう出たし……さっきの答えも涼宮さんの態度でわかったし」
そこまで言うと、男は俺に向き直って言った。
「君のことも何となくわかったしね」
は?俺のこと?
おい待て。何がわかったんだ?というか俺もセットなのかよ。
なにやら釈然としない俺を置いてきぼりにして「じゃあ」と言って男は階段を降りていく。
「おい」
思わずその背中を呼びとめた。男は足を止め振り向く。
俺は率直な疑問を投げかけた。
「一つだけ聞くが、アイツのどこが好きになったんだ?」
男は俺の顔をまじまじと見上げ、それから一つ微笑んで答えた。
「それは君が一番よくわかっていると思うけど?」
――続く