人生最悪の三日間 第二章 ~疑惑と鈍器~
午後五時十分。自宅にて。
突然、携帯が鳴った。別に珍しいことじゃない。ハルヒだろう。携帯の液晶に表示されていた文字は、相手が朝比奈さんであることを示しているが、もしかしたらハルヒが朝比奈さんの携帯を使って俺に電話を掛けている可能性も考えられる。俺が朝比奈さんの電話ならすぐに出ることくらい、ハルヒならお見通しだろうからな。用心しながら電話に出る。「もしもし?」「もしもし、キョンくん!? 大変です! 六日後に、キョンくんが! キョンくんが!」電話の相手は液晶が示していたように朝比奈さんだったが、様子がおかしい。「どうしたんです? 落ち着いてください!」「とっ、とにかく! いそいで長門さんの家に来てください!」何があったんです?と聞きたかったのだが、その前に電話は切れた。圏外ではないし電池切れでもない。朝比奈さんが一方的に切ったのだ。彼女らしくない。なんとなく、予想はついた。すでにありえないことが、俺の周りで起こっていたから。しかも、あいつは俺の未来の姿だということだ。つまり、あの「俺」は朝比奈さんもしくはハルヒ絡みでこの時間帯に来たということだ。これが朝比奈さんあるいは俺の問題でなかったら、誰の問題だと言うのだろうか。急いで上着を着て、俺は家を飛び出した。
午後五時二十一分。長門のマンションにて。
「で、なにがあったんです?」俺は朝比奈さんに聞いたのだが、答えたのは綺麗に正座している長門の方だった。「貴方の異時間同位体が貴方の別の異時間同位体を殺害した」いきなりややこしいが、俺はその現場をこの目で目撃したので頭がこんがらがることは無かった。「え、え~と、つまりですね!」朝比奈さんが、長門のややこしい説明をなんとか簡単にしようとするが、今の俺にはその必要は無い。「長門、殺されたほうも俺のなんとか同位体なのか?」長門は珍しく、大きく頷いた。殺された方も異時間同位体?困ったな。つまり未来の俺は、さらに未来の俺を殺したのか。「どうすればいい?」「過去に戻って直接阻止するしかない」いつもと違って非常にわかりやすい説明だ。いつもの改変やら、閉鎖空間やらは一切関係ないのか。「今回はハルヒは関係ないのか?」長門はまた頷いた。俺はなんの為にそんな問題を起こしたんだ? しかも殺人! 大問題じゃないか!「で、俺が過去に戻るということですか」「はい。すいません」と朝比奈さん。
数分後、いや、一日前か? とにかく気がつくと俺は部室にいた。時刻は三時四十分。まだ授業中だな。いや、ホームルームか?当たり前だが、ここには俺以外には誰もいない。驚いたのは朝比奈さんすらいなかったということだ。朝比奈さんは俺と一緒にこの時間帯に来たんじゃないのか?俺は数学の授業中に寝ているはずだ。そう、そのはずだった。
部室のドアが開かれた。もう一人の俺によって。「な、な、な、なんで?」俺は授業を受けているはずだろ?「ああ、確かに授業を受けてる。この時間帯の俺はな。でも、お前の時間帯からさらに未来の俺は、授業を受けてない。そして俺を殺した」つまりコイツは……あの時、俺を殺して、翌日に俺の前で消えた「俺」か?「そうだ」じゃあ、これから俺を殺すのか?「違う。俺はもう俺を殺した。死体を持ち上げるのは二回で十分だ」コイツは本当に喋り方が本当に気に入らない。「じゃあ、なんでここにいるんだ?」「知らん。朝比奈さんに聞け」さっぱりわからない。朝比奈さんは何をしたいんだ? 未来に戻せばいいのに。「お前はまだ気づいてないだろ、矛盾点に」なに? 矛盾点?「ああ、まあ後で気づくだろ」今、教えてくれてもいいじゃないか。「それはできないな。あれだ、禁則事項とか言うやつだ」お前が「禁則事項」とか言うな。あれは朝比奈さん専用の台詞だ。お前みたいな冷たい野郎は「企業秘密」とか別の言い方をしろ。……あれ? 俺って古泉と電話で話したとき、「企業秘密」って言った?「まあ、しばらくすれば元の時間帯に戻れるだろう。暇つぶしにオセロでもやるか?」俺が返事をする前に、「俺」はオセロの用意を始めた。こいつ、結構自分勝手だな。まあ、オセロくらいなら構わんが。「黒と白、どっちがいい?」同じ人間なんだから、どっちでも変わらんだろ。「それもそうだな。じゃあ、お前が黒でいいか?」「ああ」
~ちょっとキョンのまめ知識~オセロとリバーシは違う。オセロは8×8=64の升目で、濃緑色の盤面に黒い罫線、石(駒)は白と黒と決められているが、リバーシにはそんな決まりは無い。最初の駒の置き方もオセロは黒と白を互い違いに置くが、リバーシは同じ色を同じ列に置いてもいいし、最初の四手に制限が無い場合もある。そしてリバーシでは「駒」、オセロは「石」だ。これはオセロが日本発祥の遊びであるところからきている。囲碁の名残だな。オセロの石の直径が35mmなのも理由がある。オセロの開発者である長谷川五郎が初めてオセロを試作したときに、牛乳瓶の紙蓋の片面をフェルトペンで黒く塗って石として使用したため、オセロの石の大きさは牛乳瓶の紙蓋とほぼ同じである。この部室にあるのは純粋な「オセロ」だ。リバーシではない。気になる方はアニメの第五話でも見て確認してくれ。ちゃんと升目は64マスだし、石の直径は3.5cm、もちろん濃緑色の盤面に黒い罫線だ。名称の由来は、シェイクスピアの悲劇『オセロ』のストーリーが黒人の将軍「オセロ」と白人の妻「デズデモーナ」の関係がめまぐるしく変わる展開であるところから開発者の父である長谷川四郎が名づけたらしい。ちなみにオセロのキャッチフレーズは、“A minute to learn, a life time to master”(覚えるのに1分、極めるのに一生)だ。この言葉の通り、単純な遊びだが非常に奥が深く、飽きることが無い。おそらく一生かかっても極めることはできないだろう。CUBE ZEROという映画に、コンピューターのような頭脳を持ち、チェスをする際はすべての動きのパターンを頭の中で再現し、相手がどんな手を打っても必ず勝つことができるという驚くべきキャラクターが登場した。こういう人間と、情報統合思念体の可愛らしい子供たち(597歳)なら極めることも可能だろうが、世界の99.999パーセントは普通の人間だ。みんな一生かかっても極めることはできない。だからオセロは面白い。日本での競技人口は約九千万人。これは推定の数字であり、競技内容を理解している人間、つまりルールを知っている人間は競技人口に含まれるとも考えられるため、この数字はさらに増えていくだろう。しかし、古泉はその奥の深さがあまり理解できていないようで、いつまで経っても上達する気配が無い。……演技かもしれないが。
「それにしても、古泉はなんで上達しないんだろうな」やる気と集中力と気合と根性と楽しむ心が足りないんじゃないか? あいつ頭はいいからな。それ以外のものが原因だとしか考えられん。「演技かも知れないな」「なんのために演技をするんだ?」「俺」は黒石を次々と裏返していく。「気づかないか?」何に?「よく見てみろ。あいつは常に演技をしてる。同級生や年下にも敬語で話しかけるところにお前は違和感を感じないのか?」あ、角とられた。「そりゃ、たまに思うさ。なんでコイツは敬語なんだろうな、とか。家族にも敬語で話すのかな、とか」「その理由を考えたことはないか?」残念ながら、俺はそんなことを考えている余裕があるほど暇人じゃない。お前だってわかってるだろ?俺は毎日毎日偉大なる将軍様……もとい団長様に振り回されてるんだ。授業中だってその呪縛からは逃れられん。珍しく真剣に授業を受けようと思っても、後方からのシャーペンによる波状攻撃があるんだ。寝ててもな。「そりゃ大変だな。俺のほうは少し楽だぞ。ここ数日ハルヒに会ってないからな」なに? なんでだ?「何度も過去に遡ったりして忙しいからだ。ハルヒに振り回されるほうがずっと疲れるがな。話を戻そう。古泉は常に敬語だ。考えてみろ。何でだと思う?」真剣に考えたことは今までに一度も無かった。考えろ、と言われてもどこから考えればいいのかわからない。フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズが、最終定理を解く際にどこから手をつければいいのか、さっぱりわからなかったのと同じだ。……いや、違うか。「よーく考えろ。あいつは『機関』にいるんだ。特殊な能力を持っているんだ。その能力はハルヒによって与えられた能力なんだ。あいつはお前たちを信用させるため、そして油断させるために常に敬語なんだ」わけがわからん。どういうことか教えてくれ。「よく聞け。『機関』の目的は――」そのとき、ちょうどチャイムが鳴った。ホールルームが終わる。三人娘が欠席しているのはわかっている。だが古泉がいるじゃないか。古泉はホームルームが終わればまっすぐ部室に来るだろう。「そこの紙取ってくれ」先に行動を起こしたのは「俺」だった。俺は後ろの棚に置かれていた紙を一枚とって、「俺」に渡した。「俺」はフェルトペンを取り出して、紙にこう書いた。『三名欠席により、今日の活動は休みです』「こいつをドアに貼っとけ。古泉はそれで帰るだろ」「でも俺が来るだろ?」「俺は職員室に呼び出されたから来るのは一時間後だ。古泉が帰った後に紙に『by古泉』とでも書き足しときゃいいだろ」なるほど。この男は本当に俺か? かなり頭が回るじゃないか。俺は早速ドアを開けて、この紙をドアにテープで貼り付けた。「これでよし、と」そのとき、廊下に消火器が見えた。「……お前、ドア壊すなよな」「俺はもう壊した」ん? もう壊した? ちょっと待てよ……ああ、こいつはあの「俺」だから、次にドアを壊すのは「俺」じゃなくて俺か。ドアを閉めて、オセロを再開した。「古泉が帰るまで静かにしていたほうがいいな。中に俺たちがいるとバレたらただじゃ済まない」鍵でも閉めときゃいいんじゃないか? 俺が帰ったと思わせるには、戸締りしとかなきゃ駄目だろ。「そうだな」「俺」はドアまで歩いていき、鍵を閉めた。「音を立てるなよ」わかってる。
午後四時四十分。部室にて。
それは予想していた時刻よりも遥かに遅かった。足音が近づいてきた。ゆっくりとした足取りだが、これは女ではない。なんというか……紳士の歩き方だ。この学校で紳士、ジェントルマンは誰だろうか。決まってる。あの笑顔を常に絶やさず、どんな人間にも敬語で話すあの男だ。足音はドアの前で止まった。ドアノブが回るが、鍵がかかっているのでドアは開かない。古泉はドアの前で小さく何かをつぶやいた。俺の耳が正しければ多分「珍しい」と言ったんだろう。そして、足音は向きを変えて遠ざかっていった。「……帰ったか?」「ああ、間違いない。帰った。貼り紙に書き足すぞ。剥がして持って来い」そんなに俺をこき使わないでくれ。俺は召使じゃないんだ。「いいだろ。それとも俺に殺されたいか?」だが断る。やればいいんだろ? ご主人様。俺はドアを開け、貼り紙を剥がして「俺」によこした。「俺」はそいつに『by古泉』と書き足した。……古泉は『by』なんて使わないんじゃないか?「もう遅い。書く前に言ってくれよ」すまん。白い紙の三行目には見事に『by古泉』と書かれている。「やっちまったな。まあ、どうせそんなこと気づかないだろ。俺だって気づかなかったし」そう言われてみればそうだ。俺は気づかない。絶対に。「じゃあ、貼っとけ」だからこき使うなって。「そういえば、さっきの古泉の話なんだが……」俺は紙を持って再びドアを開けた。「ああ、あれか。古泉の機関の目的はだな……」俺はドアに紙を貼り付けた。「ハルヒの抹殺だ」再び真っ赤な消火器が目に入った。『真っ赤』で思い出したが、今日(この時間帯での今日だ)の俺の夕食は珍しく蟹だった。ああ、また食いたい。「聞いてるか?」ええ、聞いてますよ。一字一句聞き漏らしませんでした。だから、今は別のことを考えようと思ったんでございますよ。あれ? 俺の日本語おかしい?俺は視線を廊下に向けたまま、「俺」を問い詰めた。「なあどういうことだよ。『機関』がハルヒの抹殺? それは一部の派閥だけだろ? なあ!」「まあ、落ち着け。お前も『機関』の人間の立場になって考えてみろ。ある日突然、普通の人間じゃなくなる。それがどんなに辛いか想像したことあるか? 俺自身はそんなこと体験したことは無いが、辛くないということは無いだろう。まず例外なくいじめられるな。そして友人が近づかなくなる。会社をクビになる。最悪の場合、隔離される」でも、それは能力のことを人に話した場合だろ? そんな人間は少ないんじゃないか?「調べればいくらでも出てくるさ。三年前からそういう事件が相次いでる。それに人に話せないという辛さも尋常じゃないぞ?自分がどんなに辛い思いをしていても、人に悩みを相談することができない。もしかしたら、自分の頭は変になっちまったんじゃないか、と考える人間も少なくない。三年前から自殺者数が増加してるのもそのせいだ」俺は一度も自殺者数なんて調べたこと無いから、そんなのは知らない。「それだけじゃない。なんとかそれを乗り越えたとしても、最大の難関が待ち受けている。神のわがままを聞かなきゃならんからな。神は機嫌が悪くなるとタチの悪い怪物を暴れさせる。それにやられて死んだ人間も山ほどいる。SOS団ができてからは閉鎖空間が現れる頻度は減ったが、神のわがままはさらに無茶なものになった。どれだけの金がかかってるか知ってるか? 数十兆円はかかってるんだぞ? そんなに金をかけて、多大な犠牲を出し、どんなに苦労しても、世界はいつ滅亡してもおかしくないんだ。こういうのなんて言うか知ってるか?『骨折り損のくたびれもうけ』だ。自分たちにプラスになることは全くと言っていいほど無い。お前だったら、ハルヒのことどう思う?」……近くに鈍器があったら殴り殺してるだろうな。「ああ。古泉を含めた機関の人間は、機関の仕事をする際にはここまで近づく必要は無いんだ。監視したいのなら、遠隔操作ができる監視カメラでも使えば良いだけの話だからな。凸レンズのカメラのほうが人間より視界が広いし。何の為に近づいてきたのかというと。ひとつしかないだろ? 暗殺だよ。証拠を一切残さない方法でな」俺の視界には、まだ消火器が映っている。「古泉は危険だ。もうアイツには近づかないほうが身のためだ」コイツは何を言っているんだ?コイツは俺の親友を侮辱した。「長門と朝比奈さんにも注意するんだ。あの二人も同じ理由でハルヒを憎んでいるだろうからな。機会があればすぐに殺すだろう。事情を知ってるお前もな」コイツは……この男は俺じゃない。こいつは人間失格だ。俺の目の前で、SOS団の団長含めた団員四人、いやSOS団を侮辱した。俺がこの高校生活を懸けてきたこの団を。そして俺の親友を。あの三人がハルヒを殺す? ハハハ、馬鹿げてる。「……おい、お前。なにやってるんだ?」「ん?」気がつくと、俺は消火器を手にしていた。ちょうどいいところにちょうどいい物があった。俺は消火器を手にしたまま扉を閉め、「俺」の方を向いた。「お、おい、ま、待て! 何考えてる!? 待て!」「待たない」俺は消火器を振り上げた。「ま、待て! 殺す気か!?」「よくわかったな」俺はそのまま消火器を真っ直ぐ振り下ろした。「俺」の断末魔は校舎中に響き渡ったが、文芸部室から大声が聞こえるのは珍しいことではないので誰も気に留めることは無かった。
刑法 第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
第三章 ~三年間の罠~
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