冬風のマーチ 第一章
2月も下旬から3月にさしかかろうとしていた。いつもはやる気のなさそうに飛ばされていた枯れ葉も、冷えた風が嫌で有給をとったのだろうか。舞う葉すらなくなったと思えるくらいの強い風が、この辺り一帯を寒さで包んでいる。俺は暖かい季節を待ち遠しく思えながらも、まだ続くと思われるこの寒さに非常に深いため息を漏らしていた。まあ、俺がため息を漏らしていたのは、勿論そんなセンチメンタルな理由だけじゃない。そんなに繊細でもないと我ながら思っているさ。そう、その理由の一つが目の前で繰り広げられている光景だ。当然、いつものことである。「あんたも参加すんのよ、いいわね!」毎度お馴染み涼宮ハルヒが教室で会話をしていた。というかこの怒鳴り声は会話と呼ぶに値するのであろうか。俺ならば恐喝と答えるだろう。そのマシンガントークはまさに弾の尽きることなど知らぬが如しだ。だがしかし、いつもと違う点がある。それは、そのマシンガンの標的が俺ではないという点だった。そう。俺じゃない。なぜならおれは今現在、自分の席でその会話と呼ぶも危ぶまれるやり取りを呆れ半分、申し訳なさ半分で聞いていたからである。余計に話がこじれるだけだろうから手もださない事にする。 では一体誰と話しているのかと言うと……。「いや、そりゃ力にはなりたいけど、僕にもやらなくちゃいけないことがあるしさ」国木田である。「力になりたいならなってあげなさいよ!来ないと罰金にするわよっ!」あいつはまさしくお構いなしだ。「そんな急に言われても…とりあえず困るよ涼宮さん」怒涛の勢いでガミガミ喋るハルヒと腰低く曖昧な笑顔を浮かべる国木田。この現場を恐喝と呼ばずに何と呼べばいいのだ。俺には的確な単語が浮かばない。
しかしどうだろう。なんとも珍しい組み合わせだとは思わないか。そしてなんとも珍妙な光景だとは思わないか。入学当初はクラスの誰とも関わりを持とうとしなかったハルヒが、クラスの真ん中で喚き散らしているんだ。 コイツも大分変わってきたな。いや、それもわかっちゃいたんだが、少し離れたところから見てみるとそれが顕著に現われているのがよく判った。そして何故か俺は嬉しいような、安心するような何なのかよく分からん気分になっていた。複雑だ。 まあ、国木田は俺もよく一緒に行動するし、無理矢理コラムを書かせたこともある程だから話しやすいのかも知れない。そうやって近しい人間を作っていくのもあいつにとって実にいい傾向なのだろう。…保護者みたいだな、俺って。 ちなみに周りのクラスメイト達はハルヒのこの性格にまだ少し面食らっているようだ。これでも大分慣れているんだろうがな。だが俺程じゃないだろう。もちろん自慢できることじゃない。 「僕だって余裕ってわけじゃないんだよ。僕自身しっかりやんないと本末転倒だし…」今度はニヤついている。実に楽しそうである。戸惑いを隠せない国木田は相変わらず曖昧な表情のままだ。「あら、あんたならこのクラスじゃあたしの次くらいに大丈夫よ。保証してあげるわ」はっ。あいつの聞こえない所で俺は軽く噴出した。ハルヒの「保証」が役に立った記憶は、今のところ、無いんだなこれが。どうせ適当に言っているんだろう、俺はそう勘ぐってしまう。「そう言われるのは嬉しいけど。でもそれとこれと…」
国木田のささやかな発言に耳を貸すこともなく、ハルヒはぐいっと顔を国木田によせる。ノリノリだ。あいつがノリノリなら、おれは大概へろへろである。今回だってもちろん例外ではないのだろう。「だから、今日はあんたも来るのよ。いい?来なかったら懲役にするわよ。うちの部室でとことん労役を科してやるわ」「ええっと、ちょっと聞いてる?」無駄だぞ国木田。それがハルヒだ。遂に国木田は観念した様で、深いため息をついた。「わかったよ、涼宮さん。だからとりあえずその手を離してくれない?」ハルヒはいつものしたり顔をする。思い通りとも言いたげだな。「最初からそう言えばいいのよ!」
……どうやら一段落した様だ。そろそろ帰りのHRが始まるな。だが、岡部が来るまでもう少しかかるだろう。ちなみに俺はこのやり取りに一切手を出さなかった。徒労は真っ平御免だからだが、それはいつものことなので慣れている。それ以上に、俺は手を出したくないと思う理由があった。なぜならこの会話の内容は俺に深く、とても深く関係していたからである。……凹む、鬱だ、メランコリーだ。ああ、なんとも愚かしい。己の浅はかさを深く自戒する。ま、その気持ちも次の日にはすっかり消えうせているのだろうけれども。なぜ俺が深く関係しているのか。それも遂先程始まったばかりの、話なんだよな。 6限目が終了したあと、俺は自分の列の分の宿題を集めて担任に提出した。こういう事は普通に考えて列の最後尾がやって然るべきなのだが、俺の親切改めハルヒのものぐささのお陰でおれが集める事が通例となっていたのだ。集めて岡部に渡したとき、奴はこんなことを口走った。「そうだ。お前、今度の試験、本当に大丈夫なんだろうな。早く心を入れ替えないと近いうちに大変なことになるぞ」…多分こんな感じだ。いつも言われていたことだったし、とりわけ今更考えるべき事項ではないので、自分の席に戻った時にはもう正確に思い出せなかった。
そう、試験だ。進級するための最後の関門。学期末試験が控えているのである。そんなに俺は成績に難有りだったか?いやいやまさかそんなことは…考えたくない。ていうか俺より谷口に言ってくれよ。あいつがああだから俺も大丈夫かなって思ってしまう、のは流石に冗談だけどさ。でも、そんなに下の方にいた覚えは無いぞ。ひょっとして俺の意識が低すぎるだけなのか。脳内でくだらない思考が巡り、俺を無駄に焦らせる。 試験前にそういったことを言われるとどうもそわそわする。いらぬ不安が芽生えかねないじゃないか。こうして俺はいらぬ不安を幾つも幾つも抱きながら、実にめんどくさそうに席に着いたのだ。 そしてその不安の一つが俺の背中をシャーペンで突っついた。「なにその落ち着かない感じ。岡部に何言われたのよ」ま、予想通りさ。何事もないようにおれは振り返る。「試験は大丈夫なのか、ってよ。今更の話だ。…ふぅ、まったく参ったもんだ」あえて余裕っぽく振舞う。…そしてあえて反省はしない。半分うつ伏せのハルヒはそんなおれを少し見上げるようにじとっとを見ている。「なに開き直ってるのよ。テスト前に言われるのって結構重傷なんじゃないの?」「滅相もない。おれはいつも通り普段どおりだ」ハルヒは窓に顔を向ける。学校に植わっている木々は、直立不動で寒空に晒され、染まりゆくグレーの世界で凍えているかの様だ。…ああ、単にハルヒの視線にビビってるだけかもしれない。 「それが問題なんでしょ。普段のあんたに何の問題も無いなら岡部もなにも言わないわよ」ごもっともで。まぁわかってんだがなそんなこと。「ふうん、あんたがねえ。前も言ったけどウチの団から落第生なんてごめん被るわよ。今日の部活から勉強合宿でもやる?」「それこそ御免被る。これ以上俺の胃を締め付けるようなことはやめてくれ。この年齢にして胃薬の世話になるのは嫌だ」
「ふん」ハルヒは立ち上がりながらぶつぶつぼやいている。そういえばもう掃除の時間じゃねーか。「何いってんのよ。あんたはホントに追い詰められないと何もやんないんでしょ。夏休みがそうだったしね」 …あの永遠の夏休み。こいつにそう言われて真っ先に思い出したのは、深夜に朝比奈さんと一緒にいた古泉という構図だった。忘れよう。何も無かったのだから。あまり実感は無いが、確かにあれほど追い詰められたのも初めてだと考えるべきなのだろうか。追い詰められたというか、まぁなんともアホな話だったよ。
とりあえず無視ししておいた。「掃除だ。椅子上げろ」軽く睨むハルヒ。これもいつも通りさ。
只今掃除時間。俺は可能な限りハルヒから離れいつもの二人と掃除をしていた。持ち場が違ってて助かった。箒でゴミを集めながら国木田がおれに話し掛けてくる。「もうすぐテストだよね。今回は勉強とかしてるの?」掃除時間にテストの話題に触れる時点で俺とはテストに関する心構えからして違うよな。
「別に。何事も程ほどにだよ」
「ははは。でも岡部に言われてたのって、テストのことでしょきっと」
核心に触れられ俺は固まってしまう。中々に良い勘をしている。その発言を聞き、ちりとりを持った谷口が実に嫌みったらしくため息をつく。「そういう話はやめてくれ。テストの話なんてしたくないね」うむ。全く同感だ。「でもさ、そろそろ取り掛からないと危ないよ。特に谷口はもうちょっと緊張感を持った方がいいよ」ゴミを集め終わった谷口がゴミ箱にゴミを放り込みながら反論する。「なんで俺だけだよ。キョンもおれと同じくらいあぶねーっつの。お前の対策が万全ならちょっとくらい教えてくれよ。なっ?」待て谷口。今のは同意しかねるぞ。「俺の成績がそこまで落ちこんだ覚えは無い」「へいへい」不機嫌そうな返事をする谷口。横から国木田が俺に不可思議な発言をする。「キョンの成績は詳しくは知らないけど、まあなんとかなるんじゃないかな」「…へ?」
こいつは何を言っている?何をどう判断して何とかなると?お前がそう言うのなら今日からおれはフリーダムに生きることも吝かでは無いぞ。「本当か?何か根拠があるなら俺を安心させてくれ」
軽く言ったつもりが割りと真剣みを帯びた発言になってしまった。頭では屁理屈でかわしつつも、自身の状態はやはり本能的に把握しているのだろう。国木田は妙に笑顔だ。よく判らないが何故か鼻につく。
「とりあえず、俺はお前の様にに優秀になった覚えは無いんだが…」国木田はわかってるくせにとでも言いたげに笑っている。珍しくにやりと笑っている。いやいや、さっぱり伝わってこないんですけど。そして国木田が俺に発した言葉はこうだ。
「だってさ、よく涼宮さんがキョンの勉強を見てくれているじゃないか」…俺はやはり欠片も理解出来ない。国木田の意を察したのだろう。隣で谷口が実にわざとらしくため息をついた。なんなんだこいつらは。二人しておれをからかってるのか?「そうだよなぁ。お前には涼宮がいるんだよな。羨ましくないけどな」大きなお世話だ。「何バカなこと言ってんだ二人とも。第一あれが役に立ったっていう自覚は無いからな」「そうなの?どっちも結構楽しそうだったじゃない」「なんなら代わるか?国木田」国木田はあははと笑っている。ある種のマイペース。こいつの持つ独特の雰囲気。読めないといえば、読めない。「いや、遠慮しとくよ。僕じゃ、つり合わないだろうしさ」言葉を微妙にぼかしてかわす国木田。言葉を選ぶのが上手い奴だ。「さ、机を戻さなきゃ。そろそろチャイムが鳴るよ」まさしくいつも通り。平凡な学校生活の一ページだった。
掃除を終え、俺は席に着いては帰宅の準備を始める。帰りのHRのために岡部がくるまで暫く空いた時間は有効に使わねばなるまい。俺がそう思いながら引き出しを漁る。ハルヒが国木田と絡みだしたのはその時のことだった。そいつが俺に一言。「キョン。今日から勉強会やることにしたから。だからこのテストでいい成績を修めなさいよ」いきなり何を口走ってんだコイツは。「は?」「だから、部活で勉強みたげるって言ってんの。夏休みみたいに前日でどうにかするのはナシだからね」「ちょっと待て。そんな事をわざわざしてもらわなくてもだな。俺は俺で、自分で何とかするから全力で遠慮させてもらう」心にもない事だと自覚しつつ言い放った。本当に何とかなるのか。我ながら不安を隠せない。一方ハルヒは案の定、俺の言葉を全く信用していない様である。「何とかなるならもうなってるわよ。これもいい機会だわ。たまにはこういうのもいいんじゃないかしら。ウチの団全員が好成績を修めれば教師も生徒会もおとなしくなるに決まってるし。うん、やるしかないわね」 なんだかんだで俺はほったらかし。自分で言い出したことに自分で納得して会話を終了させようとしている。方法がどうたら、目的がどうたら。壮大な独り言なら俺を巻き込まないでくれ。 「大体、お前の解説が絶対正しいなんて自信があるのか」「へえ、いい度胸じゃないの。言っとくけどあんたにだけは言われたくないわよ。有希も古泉くんもいるんだし大丈夫よ。」まぁ、その通りだ。それに、ハルヒが問題に悩んでる姿なんて確かに想像がつかない。だが万が一ってものがあるだろう。長門が問題を教えてくれる姿も想像できないし、古泉になんて教えられたくない。何ともなく息を吐き、俺は少し灰色に染まっている空を窓の傍から見上げていた。もちろん窓は開けてない。そんなことができるほど、俺はこの寒さと仲良くなれそうにない。俺はあくまで夏が好きなのさ。こればっかりはどうしようもないね。「でもそうねえ。先生役も他にいた方が見栄えがあるわね」俺の憂いなんてなんのその。見栄えなんて勉強とは極めて関係ないことをこの馬鹿殿様は気にし始めた様である。その時、急に思い立ったようにハルヒは国木田の席へ向かい、俺がそれに気がついた時には既に国木田と話し始めていた。ハルヒは実にいい笑顔を浮かべている。コイツがこんな顔をする度に俺は寿命が縮むほど疲れる目に遭うんだよな。「国木田。あんた今日はちょっとあたしのとこに来なさい」当然だが国木田は意外そうにハルヒの方へ振り向く。そして今に至る、というわけだ。この流れがまるで思わぬ方向へ向かうことなど、この時の俺は知る由も無かったんだがな。
教室に岡部が入ってきて、みんな習性なのだろうとスムーズに席に着く。テスト前の激励のようで説教のような担任の一言も淡々と終わり、帰りの挨拶をして担任が教室から出て行いった。さて、部室へ向かうかな、と鞄を持って立ち上がったその時。涼宮ハルヒはここから私の時間とでも言いたいが如く疾風の如き速さで行動を開始した。もちろん俺には嫌な予感が全身に迸り、対応する前にまもなく現実のものとなった。いきなり俺のネクタイが引っ張られる。「うおっ、ちょっと待て!ちょ、首が絞まるっておい!」ハルヒは俺の必死の抗議を無視して走りだした。その細腕のどこにこのような馬鹿力を蓄えているのだろうか。俺はどこまでも引かれて行く。不安定な引っ張られ方に転びそうになるもそれすらさせてくれない。 このまま教室を出る、と思ったらそうではなかった。ハルヒは国木田の席に直行し、そのまま国木田のネクタイも掴み、無理矢理立ち上がらせようとする。「うわっ!涼宮さん。僕まだ帰りの準備ができてないんだけど…」「そんなの、中身を全部鞄に突っ込めばいいのよ!」ハルヒは片手をネクタイから離し国木田の鞄に荷物を全部詰め込み、再びネクタイを掴んだ。「じゃあ行くわよ!」そしてそのまま教室を颯爽と出ようとする。もちろん国木田も抗議をする。「待って、ちょっと待って!苦しいよ。とりあえず離してくれない?」激しく同感だ。さぁ離せ。いいから離せ。だが当然ながらこいつは離さない。ていうか俺達の抗議など最初から聞いていない。そのまま教室の扉を通過しようとした時、俺は必死で扉にしがみついた。奇遇や奇遇。国木田も教室の端を片手で掴む。 「離せハルヒ!窒息死させる気か」「少し苦しいなあ。離してくれたらありがたいんだけど」壁にしがみつき、顔を赤くしながら二人は健気に抵抗していた。傍目から見たらなんと滑稽なことだろう。 ハルヒはいつもの馬鹿力を存分に発揮する。「うだうだ言わないっ!」これまでか、と思った時、俺は谷口と目が合った。「おい谷口、これが見えてるなら助けてくれ」「谷口頼むよ、ちょっと引っ張ってくれるだけでいいから」俺達が 苦しんでるのを目の当たりにした谷口は、どこから出したかよくわからんハンカチをもって気の毒そうに手を振った。「ちょっとお前ふざけ、うおっ!」「谷口助けてって、うわあっ!」ハルヒの馬鹿力もあって、二人とも手を壁から引き離され、俺達は奈落へと堕ちていくが如くそのまま部室へと向かうことになった…強制的に。とりあえず、覚えてろよ谷口。ハルヒの性格を知っている人間ならば、おそらくああいった行動をとるだろうとわかっていながらも、全ての責任を谷口に帰結させることで自分の精神を落ち着けた。慣れてる俺はまだいいが、災難だったな国木田よ。いつもなら、ゆっくりと周りを眺めながらしみじみと歩いていた部室への道。そこを今日はハルヒに無理矢理引っ張られながら超スピードで進んでいく。周囲の生徒や外の風景に全く感慨をもてない。いつの間にか雪が降り始めていた。しかしそんなことに気を配れる余裕はなかった。まったく、風情も何もあったものではない。そんなこんなで俺達は部室に到着した。道中他の学生に奇異な物をみる目で見られたのは言われるまでもないだろう。「やほー!」いつも通りの掛け声でハルヒは扉を勢いよく開けた。ただ、いつもと違うところと言えば、両手が荷物で塞がっていることくらいだ。…勿論その荷物とは俺と国木田である。部室には既に全員揃っていた。朝比奈さんが俺と国木田に少し驚いたが、その反応も瞬く間に消え、急いで三人分のお茶を淹れ始めた。もうみんな慣れっこということだ。人間ふたりを引っ張ってこようが紙袋二袋ひっさげてようが、そこに大した違いはないのだ。古泉はこちらを見て意味もなく微笑んでるだけだし、長門はこっちをちらりと見ただけでもう読書に戻っている。相変わらずの日常。部室の中で解放はされたものの、国木田は少し居心地が悪そうに俺の隣の席に着いた。無理もない。ハルヒは団長席に座り朝比奈さんのお茶待ちだ。「僕はどうすればいいのかな?」そんなこと俺が知るはずもない。「さあな。とりあえず座っとけばいいんじゃないのか」朝比奈さんがお茶をおれと国木田に差し出す。「はい、お茶です。うまく淹れられたかわからないけど」朝比奈さんは遠慮しがちにおれ達にお茶を差し出した。そんなことは地球が逆回転しようとありえるはずが無いね。彼女の手を通ったものはどんなものだろうと最高の何かに生まれ変われるのさ。「ありがとうございます」この声は古泉かと思ったら国木田だった。朝比奈さんは国木田に笑顔を振りまく。「ええと、国木田くんでしたよね?あのときの映画とか、その他諸々、ありがとうございます」「え、いえいえいえ。別にいいんですよ。お役に立てたんですから」
朝比奈さんは軽く微笑み、その人間性から溢れ出る暖かさを存分に醸し出していた。「それにしても…似合ってますよね。似合わない衣装なんて存在しないんじゃないんですか?」国木田は俺が心でいつも思っていることを口に出す。朝比奈さんは控えめな笑顔で国木田に応えた。朝比奈さんの笑顔の後ろを深々と降っている雪が飾り付けている。今この世で最も素晴らしい絵面になりえるだろう。
「ありがとう。そう言ってくれる人ってあんまりいないから嬉しいです」いやいや、そんなことはございません。なんなら俺が心行くまで褒めちぎりましょうか。などという妄想を繰り広げていると、横から古泉が話に割り込んできた。「こうして話すのは初めてですか。古泉です。よろしく」「僕は国木田。9組の人だよね。よろしく」国木田と古泉か。似たキャラではあるがどこか違う感じがするな。古泉の超能力者という属性のせいか?「ところで、お二人して涼宮さんに引っ張られてきて今日は一体どうしたんですか?」国木田は首をかしげる。「さあ。むりやり引っ張られてきたから。ねぇ、キョン」「ああ。チェスでもするか?」確かに、国木田を連れてきてどうするつもりなんだか。「それを今から説明するわ」いつの間にかハルヒは立ち上がり、いつもながらの演説ポーズに入っていた。国木田含む全員がハルヒの方向へ振り向く。「あんたたち、もうすぐ何が始まるのかわかってるわね」返答はない。だがハルヒの発言はもう決まってるようだ。「そう、期末テストよ」ハルヒの口はとどまることを知らない。「この期末テスト。なんとしても私たちは好成績を修めなければならないわ。われらが崇高なるその目的は、文化面でも優秀であることを学内に示し、我々の知名度アップや、生徒会につけこむ隙を与えないため。また、依頼者獲得の層を広めるためにあります。いい、あんたたちはこのテストで全員学年トップまたは五本指に入れるよう尽力なさい。うちのサイトのアクセスカウンターが大爆発するほどの存在感を見せ付けるのよ。そのためにこれからテストまでの一週間。我々SOS団は勉強特訓を敢行するわ」…なんだって?爆発するカウンターって、こいつはパソコンを一体なんだと思っているんだ。ハルヒの演説は一見凄みがある様で、実は総理大臣だと思ってたらそっくりさんが街頭演説してることに気づいてしまいました、テヘッ、といった感じの胡散臭さを纏っている。 勉強特訓?学年五番以内?そんなこと無理だ、無理に決まってる。第一それに国木田は含まれるのか?数的にはギリギリだが、もしハルヒの頭の中にインプットされてなかったら国木田があまりに可哀そうだ。俺が頭の中でさまざまな不安や心配を頭の中で繰り広げていたら隣から国木田が話しかけてきた。「ねえ、このSOS団っていつも涼宮さんのこういう気まぐれで活動しているの?」そうだ、その通りだ。今更気づいたのか国木田よ。俺がそう答えようとするが、ハルヒの演説がそれを邪魔した。「この勉強特訓では総員の学力の劇的向上を図るわ。もともと大丈夫な人が多いけど、どういようもなく果てしないアホがいることも否めないしね」そのとき、奴が俺を睨んだのは言うまでもない。 ハルヒはそう言って「学長」というシンプルな二文字が書かれた腕章を身に着けた。「あたしはこれから学長としてみんなの勉強をはかどらせるように見張りを行います。みんな怠けちゃだめよ。時間もないんだから」暗に自分はなにもしないと言ってるようなものだが、果てさてそんなことは毎度おなじみなので最早誰も気にしない。「でも教える側があたし一人じゃ少し手が足りなくなる可能性も考えられる。だから、今回はそのためにある特別ゲストを招待したの。一年五組クラスメイトであり、キョンの数少ない割とまともな友人。国木田くんよ!」 ハルヒが力強い目つきで国木田を見つめた。自然と国木田に視線が集まる。急に名指しされ面食らった国木田は、少し間をおいておずおずと「ど、どうも」とだけ言った。更にハルヒの追撃がかかる。「さあ、国木田」みんなはハルヒか国木田を見てるだけで微動だにしない。ここまでノリノリになったハルヒを止めようとする人間はここにはもう存在しないのさ。徒労に終るのは目に見えてるからな。「え、なに…」「起立!」「は、はいっ」背筋をピンと伸ばして国木田は立ち上がった。「この腕章をつけなさい」「う、うん」国木田は遠慮がちに腕章を受け取った。戸惑っている。誰が見てもそれが判る。ま、そりゃこんな意味のわからん集団に無理矢理入れられたらそんな気分にもなるさ。同情するぞ国木田。そして諦めろ。 国木田がつけた腕章には違う二文字が書かれていた。「教官」「あんたは今からこのSOS団の臨時教官よ。誇りを持ってあたしに尽くしなさい!」その腕章をピンで留めながら国木田はハルヒに問いかける。
「ええと、じゃああつまり、僕はここでみんなと勉強するために呼ばれたってことでいいの?」ハルヒは人差し指で国木田を指した。「教えるためよ。ま、そのための努力なら認めてやらんでもないけどね」そっか。と小さく呟き、自分なりに納得したのだろう。俺の様に無駄な反論をしたりはしなかった。
そして国木田は、なんとハルヒに軽く笑顔を見せている。俺はその表情にこっそり度肝を抜かれてしまった。意外性と順応性。…意外とたいした奴じゃないか。「うん、まあそれならいいよ。ある種、ここなら集中できそうだし」俺は少しばかり驚いた。コイツ、なかなかやるな。こんな状況でもハルヒに笑顔かませるやつなんて俺の知る限り古泉だけだ。ハルヒも少し驚いたような顔をしている。俺とは少し違う理由だったが。「教室でもそう言ったじゃない。アンタ何気に人の話聞いてないのね」「い、いやそういうわけじゃなくてさ。あの…涼宮さんのことだから適当な理由つけてどっか怖い所にでも連れて行かれるかと思ってたからさ……はは」成程。わかる。その気持ちはよくわかるぞ。だが当のハルヒは勿論気に入らないようで、「アンタ、あたしをなんだと思ってるのよ。あたしはそんなことしないわよ。極めて心外だわ、まったく」お前の認識はそうでもな、一般人から見れば国木田の方が遥かにスタンダードなんだよ。「…まあいいわ。じゃあ今から試験までの計画を立てて早速実行に移るわよ!」
ここからのこの日の動きはめんど、いや地味なので割愛しようと思う。そのかわりハルヒの説明やおれたちの活動をかいつまんで説明しよう。ハルヒによれば、試験勉強とは教科ごとに系統で分けて1日ごとに集中してやると効率が良いそうだ。そんなの誰だって知ってる。大体で理系、文系に分けて一日おきに集中してやるという方針に決まった。別に特別というわけではない。でもそれぞれのペースってものがあるし、概ねの概要をハルヒが決めて、何をするかはこちらで決めることになった。ハルヒ自身は勉強する素振りを一切見せていなかったが。本当にコイツは勉強しないのか?上級生の朝比奈さんも試験の内容が違えども、会議や計画作成には参加していた。古泉はいつも通りに笑顔で、長門は無表情のまま計画を作成している。そして案外楽しそうにやってたのが国木田だった。「まぁ、なんだかんだ言って楽しいというかなんというか、ちょっとやる気が出てきたかな、なんて」そうか?ということはお前は今まで大してやる気がないのにいい点を量産してたのか?「そういうわけじゃないけど、今まではひたすらに勉強してたって感じだったからね」その時、団長机でネットの中を怪しく徘徊しているハルヒが口を挟んできた。「国木田。あんたはあたしと同じく教える立場の人間なのよ。その自覚を持ってやってちょうだい」わかってるよと言ってる様な笑顔をハルヒに向けた国木田であった。ちなみに俺は未だにペンを走らせていない。俺はこういう計画の類を一度もしたことがなく、ないのなら当然どうすればいいのか皆目見当がつかない。それに敏感にも反応したのが――まあ予想通りだが――涼宮ハルヒだった。「ちょっとキョン。まだ一文字も書いてないじゃない。何やってんの?」俺は深いため息を吐いた。「そうは言ってもなあ。俺にとっちゃどうすりゃいいかさっぱりだ。古泉、お前のやつ見せてくれないか」古泉は軽く微笑む。「ええ、まだ途中ですが。どうぞ。」またもやハルヒが横から口を出す。俺を見張ってるのかよ。見張ってるんだろうなぁ。「だめよ。アンタが古泉くんのペースについて来れるわけないでしょ」えらい言われ様だな。でも事実だから反論する気にもならない。そう思って白紙の一枚紙を見つめる作業にもどってすぐ、ハルヒが俺に右手を差し出した。「しょうがないわね、貸しなさい。あたしがアンタに相応しいの立ててあげる。そもそも一番危ないのはアンタなんだから」俺は一瞬躊躇し、逡巡したが、自分で立てることもできそうにないからと渋々ハルヒに手渡した。無茶な計画立てるなよ。とんでもない地雷を踏むはめになるのは御免だ。だが、俺の期待を見事に裏切り、あいつは紙を奪い取って実に楽しそうにペンを走らせている。…後悔しそうな予感が自身の背中を貫く。暇だったので周囲を見渡した所、長門と朝比奈さんは計画を立て終わったようで、その計画表はボードに磁石で貼り付けてあった。そして既に勉強を始めていた。朝比奈さんはともかく長門は勉強する必要あるのか?こいつこそ何もしなくても世界トップにでもなってしまいそうなやつだろうに。そう思って長門を見ていたら、ふと長門が俺の視線に気付いたようで、ちらりとこっちを見てから、表情を変えることもないまま視線をノートに戻した。その俺と長門の目が一瞬合うだけの本人同士にしかわからないようなやり取りに、意外にも気付いたやつがいた。「あれ、キョン。何を見てたの今」「別に何も。ぼけっとしてたさ」ふーん、と国木田は軽く流す。そこにチクリと刺すような一言。「ユキを眺めていたんですよ」あ、古泉め。その笑顔が尚更いらっとくるぜ。「雪?もう止みかけてるね。最近あんまり降らなかったしなあ。うん、キョンも一応風情ってのがわかるんだねぇ」古泉は軽やかな笑顔を俺に向けた。無視。その時ハルヒがフンと鼻を鳴らした。無視は無理。「キョンにそんな繊細な感情があるわけないじゃない」いかにもハルヒの言いそうなことで。俺は反応するだけして、朝比奈さんに話を振った。「真面目ですよね。学年も違うんですし、そう真面目にしなくてもいいと思いますよ」
学長さんのただの気まぐれなんだしな。「いえ、私も集中して出来るし、みんな勉強してるのに私だけってわけにはいかないし」なんて気のつく、そして視野も心も広いなお方だろうか。古泉も見習えこの野郎。そんなこんなで各自の計画表がボードに貼られ、それぞれが勉強を始めた。学長のハルヒと教官の国木田は、おれ達が座って教科書を眺めたりノートをまとめたりしているのを歩いて見回っていた。ハルヒはどこかから持ってきたのか教鞭を持ちながら、国木田は自分の教科書を持ちながらの違いがそこにはあった。個性って出るよな。ちなみにハルヒは全員に眼鏡をかけさせようとしていたが、俺の反対によってあえなく没になった。俺自身アホなことに反対したものだが、眼鏡好きと勘違いされたくもなかったしな。まぁ俺に眼鏡属性が存在しないことくらい長門の件で承知済みだ。あとそのついでに、ハルヒが書き上げたおれの計画表を見せてもらった。俺はこの計画というモノを最初から当てにしておらず、とりあえず形だけ繕って国木田に頼りきって試験の波を乗り切ろうと画策していた。しかしそんなこと知ったことではないハルヒは笑顔で俺に書きあがった計画表改め分刻みのタイムスケジュールを見せる。 なんともまあ、実行する人間がおれであると理解していないんじゃないか?びっしり。とにかくびっしりだ。何をどうすればいいかが事細やかに記してあるのが幸か不幸かはわからない。俺はため息が止まらない。先を考えると気が重いな…。 とりあえずこの日の活動もとい勉強会は終了し、全員で帰途を共にすることとなった。今日は人数がいつもより一人多く、それはもちろん国木田だった。最前列でハルヒと朝比奈さんの会話が弾み、そのすぐ後ろで長門が読書に勤しむ。そして最後尾には俺と古泉と国木田が続く形となっていた。傍から見れば健全な仲良し高校生達の帰り道だったろう。問題は間違っても健全とは言い難いその中身である。しかし、こういう日常もたまにはないと俺の身ももたないってものだ。そして、一人また一人と俺の帰り道から消えていき、柄にもなくこの大切な日常をかみ締めながら家へ向かって歩いていた。冬全開の冷たい風も今の俺には心地が良い。2月もたまには悪くない、よな。そう思えただけでも、今日はいい日だったと言えるだろう。 翌日。期末試験まであと六日。授業を淡々と終らせ、今日は文系に統一して一同は試験勉強に勤しんでいた。相変わらずハルヒは実に楽しそうな顔をしてその教鞭を振るい――対象は専ら俺にだが――それぞれの姿勢に目を光らせていた。あいつの頭にはどうやら自分が勉強をするという選択肢は無いらしく、本当にあいつの単なる暇つぶしに付き合わされているような気がしている。だが、これも俺の為にもなると腹を決め、俺はシャーペンを忙しく走らせている。他の長門も古泉も朝比奈さんも同様だ。だから俺もたまにはそれに倣ってやろう、そう思うことにした。 教官という腕章を今日も身につけている国木田も、一応部室を歩き回りもしたが、どちらかというと自分の教科書に目を通す時間の方が多くなっている。頭が良いという国木田も悩むところがある様で――当然俺とは段違いだが――ハルヒと一緒に問題に取り組む姿はなんだか新鮮だった。よりにもよってハルヒに聞きに行く国木田も国木田だが、それにあっさり応える様になったハルヒに俺はなんとなく嬉しい気分になった。 ちなみに肝心の俺はというと、ハルヒの作った無理無茶無謀の三拍子が揃った計画に、ものの見事に振り回されていた。ハルヒは教えるといっても、いつも通り「アンタこんなのもわからないの?馬鹿じゃないの」と教鞭で俺の頭をぺしぺし叩くだけだったりするので、ところどころ国木田の力を借りつつ、俺は果てしないゴールに向かって一歩一歩進んでいたのだ。我ながら健気なものだよ。 それにしても、お前も自分の勉強があるのにすまないな国木田。「いいんだよ。こうして教えるのも自分の理解を深めるからね。それに頭の中の整理もできるんだよ。」そう言って国木田は自分の教科書に視線を戻した。俺は国木田を元々できた人間だと思ってはいたが、ここで認識を改めた。こんなに素晴らしい人間性を持ったやつだったとは。今だけは言いすぎだと思わない。ハルヒがハルヒだけに、今はこいつの人間性が輝いて見えた。 ふと俺は窓の向こうを眺める。慣れない勉強に疲れてた頭を冷ます意味合いもあったのかもしれない。外は相変わらずの強い風と寒さだ。枯れ葉もすっかりどこかへと去っており、丸裸の木々が咳をして体を丸めている。風に吹かれて曲がりくねっている木々はいつも以上に弱弱しく見えた。 昨日との違いと言えば雪がやんでいたという点だけで、またいつ降り出してもおかしくない。灰色の雲に覆われていたうちの学校だが、この部室だけはそんなもの小賢しいと言わんばかりにハルヒの声が響いていた。 そうそう、他にも昨日と大きく異なる点があったんだっけ。こちらは俺にとっても嬉しいものだった。主に朝比奈さんの周りを徘徊しつつ指導というよりちょっかいをかけているもう一人の教官がいたのだ。
そう、鶴屋さんだ。 ハルヒがどうやら捕まえてきたらしく、彼女もここで試験勉強に参加することになった。彼女自身相当乗り気で教官の腕章を身につけ、教鞭を振るっていた。「みくるちゃんのためにも参加してもらっていい?」「あはは面白そうだっ、やるやる」即答。いかにもこの人らしい受け答えで参加が決定した。ハルヒから腕章を受けとったあたりで、彼女は国木田に気付いたようで、話し掛けていた。「おやおや、国木田くんじゃないか。お久しぶりっ。君もハルにゃんに連れてこられたのかい?」「え、ええ。同じクラスですから」「そうかっ。ほお、君も教官なんだねっ。あたしも教官なのさっ。一緒にがんばろっ国木田先生っ!」そういって鶴屋さんは右手を上げて国木田とハイタッチした。「は、はい!頑張りましょう」鶴屋さんはハイタッチした手を握ったまま、明るい笑顔で国木田を見ている。二人ともそんなニヤニヤしてないで早く手を離してくれ。俺が鬱で死んでしまうぞ。国木田。そういう羨ましい役は今度から俺に譲ってくれないか?
こうしていじるだけのハルヒ学長を中心にどちらかと言えばやる気の教官が二人、ワキをがっちり固めるというシステムが完成してしまったわけである。朝比奈さんは鶴屋さんと協力しながら古典に苦戦。俺は国木田の手を借りて英語に苦戦。古泉と長門は普通に独力で何かをこなしていた。今回ばかりは確認する気にもなれなかったから詳細は知らない。
国木田は基本独力だが、時々鶴屋さんの手を借りて色々とこなしていた様である。国木田から聞きに行くこともあれば、鶴屋さんの方からちょっかいを出すこともある様だ。学年が上になれば判る。だから色々教えてあげる、そう言われていた。その真っ当な青春丸出しの光景は俺の心にストレートで突き刺さってきた。…なんともまぁ、羨ましい。 ちなみにハルヒはただただ歩き回っていただけだ。 今、朝比奈さんは敬語の用途と使い分けについてやってるらしい。「え、ここは語尾に『けり』が使われてるから過去で訳すんじゃないの?」朝比奈さんの遠慮がちに尋ねる声。「いやいやっ、これは和歌だから詠嘆で訳すといいよ!」鶴屋さんの元気で朗らかな声。いやあ、勉強って実にいいもんですね。心ここにあらずの俺が言っても説得力はゼロだが。
ここから少し余談に入るが、そのとき俺はふと思った。彼女の時代から考えると古典ってどれだけ昔の話なんだろうか。かの預言者ノストラダムスの予言はだいたい3000年くらいまで残っているらしい。あの恐怖の大王騒動も今となっては懐かしいものだ。3000年といっても千年後。今から千年前と言えば大体平安時代だ。おれ達はこの辺りからの古典を学んでいるわけだが、遥かなる大昔というわけでもない。殷、周や、中国だけがあると主張している夏なんかがあったような伝説時代とはわけが違うのである。つまりあのノストラおじさんですら、自分から千五百年ほどの未来しか頭の中に無かったようなのだ。アカシックレコードが見えるとかいう話なのにそっから先は見通せなかったのか、単に妄想が冴えなかっただけなのか、それともその時既に人類は滅んでいるのか。あのおじさんはそのくらい先の未来までしか人類に自信が持てなかったのだろうか。あまりにも悲しいじゃないか、それ。こうしてタイムマシンが存在して、いつの時代からきたのかわからない可憐な少女がここにいるというのに。遥か向こうの時代から来たかもな。残念だったなおっさんよ。ちなみに奈良時代の古典もあるにはあるが、それ以上高校でやると俺の頭が水蒸気爆発でも起こしてしまいそうだからやらないでもらいたい。その気持ちは決しておれだけのものじゃないはずだろう?まぁ彼女にとっては俺達より更に昔のことだろうから、古典は相当苦戦するのだろう。最高敬語がどうやらとつぶやいている。朝比奈さんと鶴屋さんの楽しい四苦八苦を快いBGMに設定して、おれは英語を頑張っていた。「あ、sはつけられないよ、informationは不加算名詞だから。」
不加算?加算?なんだその概念。こんな細かい違いが会話で問題視されるはずがない。「l'm『ooking forward to』はイディオムだからまんまで覚えた方がいいって。」
長い。もっとコンパクトにできないのかアメリカ人。せめて三文字だ。「あ、こっちのItは形式主語だからこのitとは違うものなんだ。」
これって何?何がどれ?私は誰?こっちもどっちももう頭がついていかない。懸命に説明する国木田には悪いが、はっきり言って理解できなかった。やばいのか、やばいんでしょうか?やばいんだろうな。自分の不甲斐無さに落胆しつつも、五秒後にはそんなことを忘れるのだろうと理解している俺。それがまた悲しい。そんなこんなで時間が過ぎ、俺が英語に振り回されていた時、ただ見回ってただけで存在を忘れられていたとも言える人物が一言。「あんたたち、休憩にしなさい!」いきなりハルヒが叫んだ。それぞれがペンを止めた。「休憩?」みんながハルヒに視線を集める。奴は急に生き生きした顔つきになった。…構ってほしかったのか?「そ。みくるちゃん。みんなにお茶淹れてあげて」はいはいっと立ち上がる朝比奈さん。そんな素直に守らなくてもいいんですよ。「休憩といっても雑談タイムじゃないわ。時間がもったいないものね。だから、あたしがテストしてあげる」なるほど。これがやりたかったのか。俺が密かに納得していたとき、やる気がさらに削がれていく中、朝比奈さんは俺にお茶を手渡してくれた。急上昇。いやあ、いつもすみませんね。あなたが淹れたこの極上の霞のごとき深き旨みと天上から降り滴る雫のごとき透き通った潤いは、俺の五臓六腑へと染み渡る至極の癒しを与えてくれますよ。 「ありがとうございます。朝比奈さん」俺は勉強詰めの中で彼女から手渡しされたお茶で表情は緩んでいたのだろう。ハルヒがじとっとした目で俺に話し掛けてきた。「ちょっとキョン、あんた何鼻の下伸ばしてるのよ。たるんでるわね、特別にランクアップしたテストを出してあげる」俺に鼻の下を伸ばしたという実感はまるで無いのだが。ハルヒがそこまで俺の表情について熟知しているのには驚きだ。「やれやれ」俺は小さな声でつぶやいた。その小さな声に敏感にも反応したのはもちろん古泉だった。「まあいいじゃないですか。みんなで揃って勉強会。健全なことこの上ありません。損する人間は誰もいませんよ。」俺の疲労はどうでもいいのか。「まさか。あなたがそう感じているのはあなたが彼女に一番近いところにいるからですよ。でもいつものことじゃないですか」いつものことと軽く流すには俺には荷が重過ぎる。なんであんなに元気なんだあいつは。「決まっています。涼宮さんにとって一番のやる気の素はあなたの存在なのですよ。あなたがこうして頑張ってるから彼女もあんなに生き生きとしているんですよ」そういうことをいけしゃあしゃあと言うもんじゃない。「照れているのですか?柄にも無く」付き合いきれん。一人で言ってろ。「失礼。ですがそれも事実ですよ。このSOS団という存在が、今のところ彼女が最も生きていると感じられる場所なのでしょう。僕個人としても、ここには他とは違う感慨を抱いていますし、あなたもそうではないですか?涼宮さんとあなたは最早セットなのかも知れませんね。彼女にとって」帰っていいかな、俺。「罰ゲームを味わいたいのでしたらどうぞ」わかっているさ。逃げ場はなし、だ。俺は深いため息をつく。もちろんばれない程度にな。「あなたはそう言っておられますが、段々と落ち着いてきてるのも事実です。以前でしたら他人に構う、とりわけ勉強を見るなんて考えられませんからね」「毎度毎度のことだがな、どんな形だろうとあいつがああなる度に、俺は足が棒どころか枝になるくらい疲労がたまるんだ。お前もわかっているならたまには労ってくれ」 「そうでしたら良いマッサージ師とエステティシャンを紹介しましょうか?あと疲労に効く湯治場も。あなたの言う疲労そのものを吹き飛ばしてくれますよ。」「お断りだ」肩をすくめる古泉。正直かなり魅力的に感じたが、如何せん古泉の紹介だ。慎重すぎるくらいが丁度いい。「ならば、今まで通り頑張るしか無いですね。我々としても、あなたには期待しているんですから」していらんわ。そんなもん。「ほら、そこの二人!私語はやめ」バレた。姿勢を正す二人。「良し。文系の日だから現社の問題を出すわよ」こいつの社会か。胡散臭いことこの上ないな。「とりあえずお前の考える社会と現実の社会をなるべく合致させてから出直してくれ」「なに人を異常者みたいに言ってんのよ。あたしはいたって常識人よ。あたしこそ常識。言わばあたしが社会よ」そう言ってハルヒは手を両脇に添え背筋をピンと伸ばす。
もう何度目だろう。俺は実に深くため息を吐いた。
…とりあえず言いたいのは、そこの三人を刺激するようなことを言わないで欲しいということだ。今ハルヒがそう言ったことによって、古泉が目を細め、朝比奈さんが途端に焦りだし、恐らくだが長門は動きそのものが完全に止まった。ああ、そこまで理解できるようになった自分が恨めしい。
ん?
そのとき冷たい風が吹いた気がした。俺の首筋に軽く触れる。まぁ気のせいかと思える位弱い風だ。窓でも開いていたのだろう。
三人の細かなリアクションなどお構いなしにハルヒは話を進めていく。もう少し周りを見回せば見えてくるものもあるだろうに。これ即ち青い鳥だ。この場合、運ぶのは幸せだけとは思わないけどな。こうしてハルヒのいわゆるテストが始まったわけだが、思った通りこのテストは一般人が考えるテストとは程遠いもので、世界の中心にいる存在は何だとか(答えはハルヒではなくSOS団だった)、 自分が3年前の七夕で使った文字を解読させようとしたりとかで(空気を読んだのか長門は黙っていた)ようするに暇だったハルヒが暇つぶしのために催した感が丸出しだったわけだ。
こういう時は俺でも言ってやりたい。形だけでも勉強してろい。そのハルヒの暇つぶしの間、古泉は膝を組み目を細めたり笑顔に戻したりで、朝比奈さんはそういう問題が出される度に挙動が不安定になる。長門は取り出したハードカバーを読んでいたがハルヒの挙動に注意を払っているようだった。 いまさらハルヒにそんなに神経質にならなくてもいいと思うけどな。ちなみに国木田は教科書とハルヒを交互に見ていて、鶴屋さんはただ一人爆笑していた。隣にいた国木田の肩を叩きながら笑い転げていた。このテストはハルヒがお茶をずびびっと飲んで休憩時間とともに幕を閉じた。ところがハルヒがお茶をすすっているころにはもう下校のチャイムが鳴っていた。まったく、休んだ実感がまるで無いぞ。しかし、俺のそんな感情などいちいち気にしないのがハルヒのハルヒたる所以である。チャイムの音を聞き窓から外を見やったハルヒはいつもの調子で話しを切り替える。「あら、もうこんな時間?仕方がないわね。今日はここまでにしましょ。もちろん明日もやるんだからね」そう言ってハルヒは教鞭を鞄にしまう。「あーい」「は、はいっ」「わかりました」「うん、わかったよ」「……」「やれやれ」もう誰のリアクションか音声のみで判別可能だ。これほど際立った連中をよく集められたものだな。
朝比奈さんの着替えの為、男三人は肌に凍みるほど寒い外に放り出された。もちろん寒い。本当に寒い。耳がうなじが首筋が、風に晒されて震えている。だから冬は嫌なんだ。この風は夏と違い、あまりにも清々しく感じるが、吹き荒ぶ季節を明らかに間違えている。夏に吹いたら冷え冷えのスイカを用意して大歓迎したことだろう。 この風共。お前らに意思があったなら言っておきたいことがある。 空気読め。「もういいよっ!」鶴屋さんの天上から響くような呼び声が聞こえてきた。俺達はよし来たといわんばかりにドアを開ける。その俺達の視線に映ったものは、いつも通りの長門。ニヤついたハルヒ。同じく鶴屋さん。そして、こっちを今にも泣きそうな目で見ていた朝比奈さんだった。おもむろにブラウスに手を通そうとしてたところにわれわれ男どもが侵入してしまった構図である。時が止まった。本当に。そして「うそぴょん」という鶴屋さんのまさしく鶴の一声で時は動き出したのである。「きゃあああっ!」いきなり悲鳴(当たり前だ)をあげた。「うわあっ!」「本当にごめんなさい!」「し、失礼」朝比奈さん以上に取り乱してしまった三人は光の速さでドアを閉めた。ちなみにあの古泉ですら焦っていたことには触れないことにした俺であった。こっそり戸に耳を立ててみると鶴屋さんとハルヒが朝比奈さんに謝ってる声が聞こえる。謝るくらいなら最初からしなくていいだろうに。ちなみにもちろん長門の声は聞こえなかった。もう一度「もういいよっ!」という声が聞こえ、相当敏感になってしまった男三人はドアを慎重に、ゆっくりとドアノブを捻る。制服姿に戻っていた朝比奈さんを見て安心し、三人とも彼女にとりあえず謝った。朝比奈さんも快く許してくれたし、一安心して帰りの準備に取り掛かる。ハルヒの担任っぽい説教の様な激励も終わり、それぞれ教室から出ていく。俺も出ようかとした所、ハルヒがこっちに来て話しかけてきた。「あんた、調子はどうなの?」どうって言われてもな。ただひたすら勉強してるだけさ。「それじゃだめよ。あんたは今回は結果出さなきゃいけないの」何でだ?俺はテストの点数にそんなにこだわりは持ってないぞ。「そうじゃなくて。その…なんていうか、進級の時とか……いや、クラスの…ああもう、とりあえずあんたは今回いい結果を出しなさい!これは団長命令よ!」言葉はもうちょっと考えて口に出してくれ。自分の中でしっちゃかめっちゃかになっても伝わらないんだから。「わかったよ。俺なりにがんばってみるから」ハルヒは少し照れくさそうだ。顔を少し横にそらして右手の小指を出す。なんだ?「約束よ。小指を出しなさい。破ったら針千本じゃ済まさないから」って指きりか。懐かしい。ここ最近ではまるで見ない風習だ。どうしよう。だが、せっかくハルヒが小指を出せと言ったのだ。あまり乗り気ではなかったが、俺はそれに乗ることにした。素直に互いの小指が繋がり、それに反応してハルヒが俺へニヤリと笑顔を向ける。「約束よ。誓う?」「…誓わせていただきます」俺とハルヒは部室の中で指きりをする羽目になってしまった。たぶん相当ご無沙汰していた行為だとと思う。だって指きりだぞ。今更ですか、みたいな感覚だってあった。 …だが、正直嫌じゃなかったがな。ハルヒらしいし。それになんというか、照れながら右手を出して指きりと言い出したハルヒは、はっきり言って、かなり可愛かった。口には絶対出さないけどな。「よし、誓いを破ったら昼ごはん一週間おごりだからね!」そう言ってハルヒは足取りも軽く部室を出て行った。スマン、今の発言はなかったことにしてくれないか。
こうしてハルヒが教室を出て、俺も出ようと一歩踏み出したとき、今度は長門が俺の傍を通り過ぎた。いたのかこいつ。今の全部見てたのかなやっぱり。「…何を言ってた?」はい?「涼宮ハルヒ」「え、ああ。テストがんばれってよ」長門はおれを見据えてすぐにドアの方へ振り返った。「…そう」ふと思った。こいつがすぐそばの会話を聞きそびれる事なんて在り得るのか?それを察したかの様に言葉を発する。
「あなたの口から、あなたの言葉で聞きたかったから」いつ、どんな時だろうと、俺の疑問には的確に答える長門。お前は俺の心を読んでいるのだろうか。いささか気になるところだ。「それはできない。心という不確かで不安定な存在を分析することはできない」だからノイズなのか。「そう」心に分析なんていらないんだがな。ただわかる。それだけで十分なんだ。俺はそれを長門に伝えられるだろうか。「でも、お前が以前とは明らかに違うことも確かなんだぜ。いつかお前にも、明確にじゃなくても、うっすらと解る時だって来るだろう。それも、近いうちにな」「……」
そのとき俺は珍しいものを見た。嬉しそうな悲しそうな、いつもの無表情とは明らかに異なる曖昧な意思表示。それは昔の長門には全くなかったものだった。「…そう」そう言い残して長門はドアノブに手を触れる。そうそう、その前に聞いておきたいことがあった。「長門」長門は立ち止まる。こちらには振り返らないまま。「何」「お前、指きりってわかるか?」お前がさっき見てただろうやつさ。長門はまだ振り返らないままだ。だから表情はわからない。表情もわからなければ、真意も読み取れないくぐもった答えだった。「少し」そうか。
そうそう、聞きそびれる所だった。「なんで直接聞きたかったんだ?」長門はこちらへ振り返る。さっきまでとは違った。
「…どうした?」
なぜかその面持ちは、鬼気迫る真剣味を帯びていた。「さっきのやり取りを忘れないで」「どういうことだ?」「あなたの中に存在するノイズに、最も深く働きかけることになるかもしれない」何の話だ?いきなり話がかなり飛んだ気がするぞ。「…先に行ってる」そう言って部室を後にした。と思ったら、もう一言残して先に行った。「私もあなたを待つことにする」そう言って長門は俺の視界から消えた。「ん、ああ。わかった」困惑せずにはいられない。
なんだかなあ。わかったような、わからんような。今の長門の言動。このときの俺にはまだ理解できなかった。。そして部室を出る。冷たい風が俺をピンポイントで射抜く。本当に寒い。でもこの風は昨日感じた心地いい風とは違っていた。まったく違う。決定的に違う。体の芯に響くような心寒い風だった。妙に不安を抱かせるような風。この風によって始まった何か。それがはっきりと理解できたのは、まだ少し後の話だった。
今思えば、この時からもう始まっていたのかもしれない。あいつはそれが解っていたいたのだろうか。
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