661: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:02:10 ID:FtphCcUY

僕らのクラスの喫茶店というアイデアが採用されたのは生徒会へ出す模擬店の申請期限間際のことだった。

当然クラスTシャツだとか衣裳なんてものを用意する時間はなく、それぞれの家庭からエプロンを持ってこようということになっていた。

とはいってもそのエプロンを付けるのも初日の午前を担当する生徒だけで、おおよそクラスの四半分だ。

それでも、普段とは異なるエプロンという家庭的な風貌に浮き足立つ雰囲気を感じる。

こと高嶺の花に至っては。

「やば、高嶺。マジで何着ても似合うな」

「あいつのことだし、絶対料理とか得意そうだよな」

「それありえるな。いやー食ってみてぇなー」

クラスの男子たちの会話を聞き耳立てて盗むと、この様子だ。

改めて彼女の人気の高さが伺える。

「うちの高校の家庭科、調理実習がねぇからなぁ…。調理実習さえあれば一回は食える機会ありそうなのになー」

「ははは、お前じゃ無理無理」

「んだとー!」

彼らが食したいと望むそれは、僕の鞄の中にある。

みっともない、ちっぽけな優越感が生まれてしまう。

器が小さいと己を戒める。

662: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:03:35 ID:Wa88zeS6
「おーっす、遍っち」

背後から太一の声がした。

「おはよう、太一。遅かったじゃないか、遅刻ギリギリだよ」

「いんやぁさ、今日土曜じゃん?おれっち、目覚ましかけるの忘れちゃってさぁ…」

「つまり寝坊したということだね」

「…まぁそんなとこだ、あはは」

「まだ出欠取ってないけどほんとに時間ギリギリだよ。明日は気をつけなよ?」

「任しとけって!」

自信満々の返答に返って不安を覚え、苦笑してしまう。

太一がやってきてからすぐに担任の太田先生が締め切りだと言わんばかりに、教室へ入ってきた。

「みんな、おはよう」

太田先生の挨拶に、皆バラバラの挨拶を返していく。

「えーっと、今日は待ちに待った文化祭だけど羽目を外しすぎて、怪我をしたり、暴れたりしないようにな」

「先生ー!さすがに暴れるはないでしょー!」

どこからか茶化す声が聞こえる。

「分からんぞ?どこぞの阿呆が暴れるかもしれんからなぁ。その時は文化祭は先生が付きっきりになるからな」

「えー!!!」

クラスから笑い声が漏れる。

太田先生の台詞をどうやら冗談だと捉えたものが多いようだ。

太田先生は普段厳格でありユーモアに欠けるため、時折のそういった戯け話が嘘か真か判断が難しい。

「そうならんように最低限の秩序をもって今日と明日を過ごしなさいということだ。ほら、文化祭とはいえ立派な学校の行事だ。出欠を取るぞ、飯島」

クラスメイトたちの名前の読み上げが始まった。

あ行の名前が呼ばれて、その中で出席を確認し終えると次はか行の名前が呼ばれていく。

一人、また一人と出席していることを各々の返事で伝えていく。

そしてさ行に差し掛かる直前、か行の最後の名前が読み上げられる。

「小岩井。小岩井は今日来てるか?」

一人の女子生徒の名前。

それを読み上げられた時、浮き足立っていたクラスの雰囲気は一度、地に足をつける。

不自然な静寂が訪れる。

彼女が学校に来なくなってからもう五日経つ。

彼女の欠席が異常なものだと感じ始めてきた、そんな雰囲気を感じる。

「…まぁ、体調も万全に回復していないのかもなぁ。心配だな」

おそらく太田先生もこの雰囲気もこの雰囲気の原因も気がついているだろう。

「季節の変わり目で体調も崩しやすい時期だから、皆も体調管理しっかりするようにな。じゃあ佐藤」

小岩井さんを欠席とみなし、太一の名前が読み上げられる。

「はい」

太一の名前が読み上げられるということは、すなわち次に読み上げられるのが僕の名前だということだ。

「不知火ー」

「はい」

彼女の欠席について異常だと思っている者のうち、責任感を感じているのは僕だけだろう。

僕が彼女の想いを受け入れられなかったから。

いつもなら自惚れるなと己を戒め、それを簡単に受け入れるくせに、こういった都合が悪くなる場合だと、戒めの言葉を受け入れ難くなっている自分がいる。

どうしてこんなにも被虐的な思想に偏るのだろう。

自分の幸せを自分が一番望んでいないかのように。

663: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:04:38 ID:FtphCcUY

「…。…じゃあ最後、吉田」

「はい」

次から次へと呼ばれていった生徒の名前は、ついに最後の名前まで辿り着く。

結局このクラスにおいて、欠席はただ一人ということとなった。

「小岩井は残念だが、他の者は来れて良かった。じゃあテストも近いが今日は数少ない行事の内の一つだからしっかり楽しむようにな。それじゃあ十六時にまた教室に集まっているように、解散」

その一言を待ってましたと言わんばかりに、クラスの空気が弾けるのを感じる。

「うへぇ、テストの話は余計だよなぁ~」

太一はすっかりテストの一言を聞くだけで、苦虫を噛み潰したような顔している。

「きっとメリハリをしっかりしろってことだよ。勉強する時はする、遊ぶ時は遊ぶ。今日明日は後者ってことさ」

「んなこたぁ、分かってるんだけどさー、やーっぱ、勉強はどうもやりたくないんだよなぁー」

「ははは、そうだね。ほらでも今日は楽しもうよ」

「そうだなぁ。遍っちどっか行きたいことあるか?」

太一にそう聞かれてからしまったと思った。

「あ…ごめん。初日の午前中は綾音と周ろうって約束してて」

苦虫を噛み潰したような表情から剣呑を孕んだ表情へ変わりゆく。

「おい!こら!このシスコン!友達よりも妹か!?というか文化祭まで仲良しこよしか!?」

割と大きな声で僕を責め立てて行く。

「ちょ、ちょっと落ち着いて。別にいいじゃないか、兄妹同じ学校だしちょっとくらい一緒に回ったって」

「いいや、普通じゃないね!文化祭を一緒見て回る兄妹は普通じゃない!」

勢いこそまくし立ててはいるが、雰囲気からは全くもって怒りを感じず、半分本心半分冗談として捉えるべきなのだろう。

けれど、太一の言う普通じゃない、という言葉を割れたガラスの破片の様になって、僕の胸に突き刺さる。

心臓が悲鳴をあげ、反論の句が告げられない。

その間も太一は大きな声を僕に浴びせていく。

徐々にクラスメイトたちの視線と注目が集まるのを感じる。

「みんなも見てるし落ち着いて太一。ならさ、太一も一緒に回ろうよ、綾音とさ」

クラス全体とは言わないが、すで周囲の生徒たちが、僕たちに注目をしているため、なんとか太一の勢いを制止しようとする。

自分で言ってから気がつく。

そうだ、別に綾音と二人っきりで回る必要はないのだと。

「…綾音ちゃんと?ふむ…よかろう」

よかった、太一の勢いにもブレーキがかかった様だ。

注目していた生徒たちも学友達の戯れと分かるや否や、既に各々の興味を文化祭へと向けていた。

幸い、周囲の生徒達以外はあまり見ていなかった様だと、一通り確認をする。

確認し終え、大丈夫そうだなと、安堵の気持ちが湧く。

が確認の時に感じた、一つの違和感。

もうすぐで安堵の気持ちで満たされるところを、一つの違和感がそれを食い止める。

もう一度、もう一度だけ、違和感の元へ、『高嶺の花』へと向ける。

「…っ」

やはりだ。

見ている。

あの黒い瞳で。

数秒かあるいは刹那とも呼べる間、僕と目を合わせた後、彼女は手元にあるスマホへと視線を下ろした。

その動作で、今朝方交わした約束を、脳裡から引きずり出される。

僕のスマートフォンが仕舞われている制服の右ポケットへ、正確には右膝へと神経を集中させる。

覚悟していた感覚は、ものの数秒で訪れた。

知らせの振動。

「…じゃあ綾音に一回連絡取ってみるよ」

小さな嘘をつき、僕はポケットからスマートフォンを取り出す。

ラインと書かれたアイコンを恐る恐る開く。

664: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:05:35 ID:FtphCcUY

『妹ってなに?』

そう一言書かれていた。

返答に困る。

哲学にも似たその質問の、彼女が満足を得られる様な回答を、僕は思いつかなかった。

指が固まっている僕へ、またメッセージが送られてくる。

『まさか私とは回らないとか言っておきながらあの義妹さんと回るとか言わないよね?』

嗚呼、やっぱりだ。

きっと華は綾音を嫉んでいる、妬んでいる。

華の嫉妬の対象は、恐らく家族だろうと関係ない。

いや、華以外の女性を優先するなと、母も妹も含め優先するなと、確かにそう言っていた。

血縁が無ければ尚更のことだろう。

僕にその気があろうとなかろうと関係がない。

『約束したよね?』

僕が固まっている間にも、彼女の追及は止まらない。

『ここで』

『今』

『言ってもいいんだよ?』

何を言うかなんて想像するまでもない。

やめて欲しいと言うのは易いが、どんな無茶なものでも約束は約束だと、それを破った僕にやめて欲しいなどと口にする資格がないと、僕が自分自身を縫い付けている。

『ねぇ』

『何か言ってよ』

『簡単な話だよ』

『私が今、あなたの約束を破るか、それともお仕置きか』

『選んで』

与えられた二択。

クラスメイトや、綾音に知られる覚悟と準備ができていない臆病者は、後者を選ばざるを得なかった。

『ごめん。どうであれ約束を破った僕が悪いんだ。後者でお願いします』

『お仕置きね。分かった言い訳は後で聞くから』

メッセージはそこで止まる。

華の様子を視界の隅で確認すると、どうやら荻原さんに話しかけられている様で、スマートフォンは仕舞われていた。

665: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:06:31 ID:FtphCcUY

「で、綾音ちゃんなんだって?」

「え?」

「え?じゃなくって。どういうことだ?今連絡してたんじゃないの?」

太一に話しかけられて漸く、現実に戻った様な感覚を覚える。

「…ああ、ごめん。今丁度別の要件で立て込んでて」

「なんだそりゃ」

これには太一も呆れた様子を隠せない。

「あはは…ごめんね。とりあえず校門へ行こう。そこで綾音は待っているはずだ」

もう一度、華を確認する。

彼女は僕に視線を向けてはいなかった。

一刻も早く、教室を出てしまいたい。

そんな焦燥が僕を支配する。

「なんか今日の遍っち変だぞ?」

「あはは…僕も変だと思う」

「その返事がすでに変だな」

この問答すら、もどかしく感じる。

僕は半ば強引に、教室への外へと歩みを進める素振りを見せる。

「あ、待てって遍っち」

「僕が変だってことは、歩きながら幾らでも聞いてあげるからさ、行こうよ」

僕は教室と廊下の境目に、一歩踏み入れる。

現実逃避するように、一歩踏み出す。

一先ずは義妹と学友、綾音と太一とこの祭りを楽しんでも良いではないか。

後のことは後で考えよう。

そう考えていた。

「あ゛遍ぇ!!!!!!!!!」

一輪の華の怒号を聞くまでは。

浮き足立っていた教室が再び静まり返る。

そして誰もがその怒号の元へと視線を向けていた。

叫ばれたのは僕の名前だけれど、きっと僕の下の名前を知っているものなど片手で数えられるくらいしかいないだろう。

それ故、怒号から間をおいて、片手で数えられる程度の視線が僕へと向けられる。

瞳孔を開いた彼女はそのまま、僕をしかと捉えながら、こちらへと向かってくる。

クラスメイト達の視線も自ずと、それを追っていく。

まさか。

そんな。

いや確かに、僕は仕置きを選んだはずだ。

僕の脳みそが徐々に固まっていく。

だけど、彼女は止まることなく、間違いなく、こちらと向かってくる。

何故?

分からない。

どうして?

クラスメイト達の視線が僕という点で交わると、彼女は僕の左手首を引っ手繰り、僕と目を合わせずに、僕より先へ。

分からない行き先へ連れていかれる。

只、連れて行かれるしか無かった。

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666: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:07:37 ID:FtphCcUY

混乱した思考を整えるのに、注力していた僕は、抜けていく人々の、怪奇な視線を気にしている余裕なんてものは無かった。

けれども、混乱している僕をどこか冷静に捉えている僕もいた。

殊の外、人は想定外の出来事が起きると、かえって冷静になる様だった。

起こってしまったことは仕方がない、これからどうすれば良いか、そんな風に思考が働く。

人々の賑わいを突き破り、さらにその奥へ。

行く手を阻む『立ち入り禁止』の札も突き破り、その先の階段へ。

上へ、上へ。

辿り着くは、屋上。

華は乱暴に、屋上の戸を開く。

引かれるがまま僕は、そのまま屋上へと踏み入れると、秋の風が僕ら二人の間を吹き抜ける。

無機質に広がるアスファルトは秋の朝日に照らされ、相変わらず雲一つない青藍はただただ美しいだけだった。

そんな美しい天と無機質な地が突如として、反転する。

背中から伝わる痛み。

日向から伝わる温もり。

そして日陰から伝わる冷たさ。

投げ…られた?

667: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:08:55 ID:FtphCcUY

我が身に起きたことを理解すると、今度は四肢に強い圧力を感じる。

目の前に広がっていた青藍を高嶺の花が覆う。

彼女の長い髪が雨の如く降り注ぎ、僕の頰を掠める。

「ね…ぇ…」

余りにも震えた声が、手が、いかに切迫した感情を抱いているのかを想像するのは容易かった。

「遍、貴方…今朝、何処で…誰と…何をしていたの?」

震えた手が僕の頰に添えられる。

昨日とは比べ物にならない程、その手は酷く冷えていた。

「あり…えない、ありえないあり得ない有り得ないアリエナイ…私と遍は、運命の恋人なんだ…赤い糸で繋がっているんだ…なのに、それなのに…うっ」

突如として華は、頰に添えていた酷く冷えた手を離し、自らの手にあてがうと、そのまま屋上の物陰へと向かっていった。

「ぅッッ…ぉぇ…ぇぇぇぇぇ…ッ」

嗚咽。

跳ねる水音。

嘔吐していた。

「気持ち悪い…気持ちワルイ気持ち悪いキモチワルイ。私と遍の世界が穢れた…。最悪…最ッッ低…、どうしてそんなことするの?どうしたらそんな非道いことができるの?ねぇ…聞ィいてるの!?遍!!!!」

「ま、待っておくれ。一体全体何をそんなに怒っているんだい?!」

上体を起こし、何について咎められているのかを問う。

それが火に油を注いだのか、華は僕の胸倉を掴み、起こしたばかりの上体を再びアスファルトに叩きつける。

「惚けないでよッッッ。貴方が今朝、何処の馬の骨とも知らない女と、腕を組んでいたそうね!しかもその女、貴方の『彼女』だそうね?おかしいなぁ…おかしいなぁ!!!!私、貴方と今朝腕を組んだ覚えなんて無いんだけどなぁ!!!!」

ここに来て、この事態を想定をしていなかった己を呪う。

間違いない、荻原さんだ。

彼女がきっと、今朝の出来事を華に伝えたんだ。

「誰よそいつ、どんな奴なのよ。一体どういうつもりなの?貴方、まさか私達の関係を知られたくないって、その女がいるからなの?ぁぁぁ…ぁあああ!!憎い…憎い。腑が煮え繰り返りそうよ!!!」

「ち、違うんだ。聞いておくれ華!今朝、荻原さんが見たのは妹の綾音のことだ」

「…妹?嗚呼……。あの…ッ」

歯軋りが鳴る。

「遍、貴方昨日約束したばかりだというのにこんなにも簡単に約束を破るの?言ったよね、妹も含めて私以外の女に触れないこと、何よりも私を優先すること。なのに破っちゃうんだ…ふぅん。…そういえば夏休みの時もそうだよね、遍はいつも私との約束を破る。やっぱり昨日のお仕置きが甘過ぎたのかな?」

仕置きが甘い、その一言で頰の痛みが蘇る。

「違うんだ!僕はなるべく触れないように努めたし、華の優先度を蔑ろにしたつもりもないんだ!」

「違う?何も違わないよ遍。約束を守るってことは貴方は私以外の有象無象に拒絶をしなければならないんだよ。だけど貴方はそれをしなかった。私ね、遍のどんな所も好きだけれども、すぐ約束を破るところと私以外を拒絶しないところが許せない。あはっ、でも安心して。昨日も言った通り、貴方を見限ることは絶対にしない。絶対に離さない。昨日のお仕置きじゃ足りないならもっときついお仕置きをしてあげる。それでも駄目ならそれよりもっときついお仕置きを。そう、何度も何度だって。私達は運命の赤い糸で繋がれた番いなの。私達の幸せの未来のためなら何度だって、繰り返してあげる」

668: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:10:01 ID:FtphCcUY

運命の赤い糸。

今、この時ほど、僕らの関係に疑問を覚えたことはない。

ーーーーーーーー何故、僕は高嶺の花と交際しているんだろうか?

この一つの問いが頭に浮かんだ瞬間、堰を切ったように、今まで押し殺していた答えが溢れてきた。

「は、華。…落ち着いて、聞いて欲しい」

一度息を整える。

返事はなく、ただ先程と同じように黒い瞳で僕を捉え続けていた。

それを肯定の意として捉えた僕は、答え合わせを続ける。

「僕は…。僕は僕のことがそれほど好きではない。だから僕のことが好きと言う君の気持ちが理解できない。僕は僕が他の人より秀でたものがあると自負したことがない。だから僕を唯一という君の言葉が理解できない。僕はいつも君と釣り合わないと思っていた。だから僕らが運命の恋人だと君のように思ったことはない」

「何を…言っているの…遍…?」

真っ直ぐ僕を捉えていた眼は左右に揺れ始め、僕の胸倉を掴む手は緩くなる。

「いつか君が言っていた運命の人というのは、きっと僕じゃない。僕らはまだ交際を始めて一月も経っちゃいない。なのに僕は君をこうして何度も怒らせる始末さ。衝突が全くないカップルが理想とは必ずしも言えないと思うけれども、少なくともこうして何度も君を怒らせた僕は運命の恋人なんかじゃないんだよ」

心の奥底では気づいていたことを、次々と告げてゆく。

一度、箍が外れればもう止まることはない。

「華…、…別れよう。僕らは本来交わるべきではなかったんだよ」

言ってしまった。

あれだけ悩んでいたことが、言葉に乗ってスルリと蛇のように己の体から逃げ出した。

ただ一つだけ、最も大切なことを残して。

「嘘…だよね?じょ、冗談だよね?遍?」

激昂に染まっていた瞳が、動揺へと塗り替えられる。

「これは嘘でも冗談でもないよ。僕は君に相応しくない」

「相応しくないって何?ふ…相応しいとか相応しくないとか、そ、そんなの関係ないでしょう…私は、私はこんなにも貴方のことが、好きなのに…愛してるのに!!」

「ごめんもっと早く気付くべきだったんだ。でも華…いや、高嶺さん、君ならもっと、もっといい人を見つけられる」

そう、早く気付くべきだったんだ、薄れてしまった初恋に。

敬称に決別の意を込める。

669: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:10:52 ID:FtphCcUY

「嫌…やめて…そんな呼び方、しないで…」

激昂していた高嶺の花が徐々に、徐々に萎れていく。

「…本当は僕なんかが別れを切り出すなんて身の程も知れないことだと思う。高嶺さん、まだ焦っちゃ駄目だ。絶対に、絶対に君の本当の運命の人は現れる。そしてそれが君の本当の幸せだと思うし、僕もそれを望んでいる」

「………」

花はとうとう枯れてしまった。

徐々に緩んでいた彼女の手は、遂に胸倉を掴むことができなくなるまで緩み、解放感を感じる。

分かってくれたのだろうか、はたまた呆れ果てたのだろうか。

どちらにせよ、これで僕達の関係は終いなんだ。

「…高嶺さーー」

「そう。…分かった」

これで最後だと、今までの感謝の気持ちなどを告げようとしたが、彼女のその一言で遮られた。

僕の破談を受け入れたのだろうか、すっかり俯いて見えなくなった表情の様子を伺う。

「…っ!」

ぞっ、とした。

先程まで僕を捉えていた瞳は光を失い、虚ろとしたものとなっていた。

それは可憐な少女のものだったとは思えない、酷く歪んだ姿だった。

その姿に、僕は何も言えずにいた。

そんな僕に馬乗りになっていた彼女はそっと立ち上がる。

「…」

一度僕を見下ろすと、そのまま無言で踵を返す。

ひた、ひた、ひた。

静かな歩みが、やけに煩く聞こえる。

屋上の出入り口のドアに手をかけ、ぎぃと錆びついた音を鳴らし、戸を開ける。

もう一度、錆びついたが鳴ると同時に、彼女の後ろ姿が扉で見えなくなっていく。

がしゃん。

少し大きな音で扉は閉まり、完全に後ろ姿が見えなくなる。

呆気ない、あまりにも呆気ない結末だ。

これで終わったのだ、高嶺華との交際が。

今更になって、鼓動が強く早く脈打つ。

僕を包んでいた夢見心地は、少しずつ失い、現実という棘が、一本ずつ僕の皮膚を刺していく。

僕自身が一番信じられなかったのだ、自ら別れ話を切り出すなんて。

だからこそ、非現実感が僕を麻薬のように酔わせていた。

しかし、酩酊はいずれ覚めるもの。

鼓動は耳鳴りがするほど煩く、全身には鋭い痛みが走り、ひゅるりと秋風が吹き付ける。

「…ぁあ。何をしているんだ僕は」

みっともなく惨めに蹲る。

下らない涙が情けなく溢れてくる。

潜在的に思っていたことであれ、ひと時の感情に任せて、無様に吐き捨てた。

取り返しのつかないことだ。

けれど後悔はしていないつもりだ。

それなのに何故、涙が出てくるのか。

鈍い僕は、自分自身の気持ちさえ、分からなかった。

670: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:13:42 ID:FtphCcUY

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「遅い!何してたのお兄ちゃん!!」

「あ、はは。ごめん。少しトラブルが起きてね」

結局、綾音と合流したのは僕らのホームルームが終わってから一時間以上経ってからのことだった。

「トラブルって何?!どんだけ心配したと思ってるの!?何度も連絡しても返事来ないし、本当に心配したんだよ!?」

「ごめん…」

言い訳をする気力も無くなった僕は一言謝ることしか出来なかった。

その様子を見た綾音は、様子が異常だと悟ったのか、急に鞘を収める。

「どうしたの…お兄ちゃん?元気無いよ…。それによく見たら顔もなんだか窶れてるように見えるよ?」

流石は十年妹をやってきたことはある。

僕の様子の異変など直ぐに察知していた。

「あ、はは…。いや…」

癖になってしまった空笑いと誤魔化しが出てしまったが、今更もう隠す意味もないのでは無いかと、やけくそにも似た感情が湧いてくる。

「…綾音。ごめん、僕は一つ大きな嘘をついていたんだ」

「…どういうこと?」

こうなってしまってはもう、引き下がることも出来ない。

己の心を崖の上から突き落とす。

「昨日、言ったよね?僕は昨日綾音に彼女がいないと」

皆まで言わずとも察したのか、心配の表情から一転、剣呑な様子へと様変わりする。

「どういうこと!?まさかいるの!?彼女とか抜かす女が!」

これで胸倉を掴まれるのは今日だけでも二回目の事だ。

「いたよ。でも別れた」

『いた』で強く歪んだ表情になり、『別れた』で、拍子抜けた表情へと移る。

「本当の本当にどういうことかなぁお兄ちゃん。聞きたいことが多過ぎてあたし訳分からなくなりそうだよ」

「…そうだろうね。僕も自分で何をしているんだろうって、そう思ってる」

「……。…まず彼女ってなに?昨日聞いたよね?なのに嘘ついて、あたしに黙ってた訳?」

「そうだね、…ごめん」

「いや、ごめんじゃなくて。ねぇ?なんであたしに黙ってたの?嘘、ついたの?」

「綾音はさ、もし僕が昨日彼女がいるって言っていたらどうするつもりだったんだい?」

「………」

返答は得られない。

分かってたはずだ。

671: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:14:35 ID:FtphCcUY

「綾音、僕のことをどう思ってる?何故、僕が彼女を隠していたことに憤りを覚えたんだい?僕に彼女がいて綾音に何か不都合でもあったのかい?」

矢継ぎ早に質問を重ねていく。

心の中に黒が溢れていく。

自分が自分じゃなくなっていくみたいだ。

「ど、どうしたのお兄ちゃん?」

「…綾音。綾音がもし、もしもだ。そんなのは有り得ないと笑い飛ばしてくれたって構いやしないだけれどもさ…」

臆病者の僕がやめろと叫んでいる。

それでも自棄になった僕は耳を塞いで戯言を吐く。

「…僕のことを好いているのかい?兄としてではなく一人の異性として」

なんとも気障な台詞を言う。

綾音は揺れる瞳の中で、答えを探している。

けれども、綾音が何と言おうとも僕の中で答えは決まっている。

「綾音。もしそうであるのならば、…そうであるのならば僕は君の気持ちには答えられない。綾音は僕にとって大切な妹だ。今更、一人の異性として見れないんだ」

緩みきっていた綾音の手に、再び力が込められる。

「…う、嘘つき…。嘘つき…、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!!!!!」

綾音が僕の胸ぐらを掴むという姿は、既に周囲の人たちの好奇心を煽るような痴態だったが、綾音のこの怒号が更に多くの人々の関心を引きつけた。

「あたしのことお嫁さんにしてくれるって言ったのに!!大きくなったら結婚してくれるって!!!約束したのに…、約束してたのにお兄ちゃんの嘘つき!!!」

そんな約束した覚えはないと、言い返すことはできなかった。

いつの日かに言った気もするし言ってない気もするからだ。

「綾音、僕たちは兄妹だ。血は繋がってないかもしれないけど、本物の家族と思ってる。だから性愛することを望んでないんだ」

「家族ってなによ…、兄妹ってなによ!?あたしとお兄ちゃんは血が繋がってないでしょ!?あたしたちは家族である前に、一人の男と一人の女なんだよ、そこから目を背けないでよ!いいよ…あたしのことを女の子として見れないならこれから幾らでも教えてあげるわよ!!」

胸倉から手を離すと同時に、僕の顔を鷲掴みし、強引な接吻を行う。

驚きはない。

動揺もない。

けれど、悲しさが胸を締め付けていた。

「…ッ。…ははっ、ほらお兄ちゃん。キスしちゃったよ、これで分かった?あたしが一人の女の子だって、ねぇ?」

歪んだ表情で、僕に微笑みかける。

大切な義妹の、異常なその姿に、性的な興奮を覚える訳もなく、後悔と悲哀が胸中に押し寄せる。

綾音は、そんな僕の表情を読み取ったのか、歪んだ口角が落ちる。

「ファーストキスはあたしのものだから」

「…綾音、僕はもうーーー」

「"カゾク"って便利だね」

僕の初めての接吻は既に元カノと済ませてしまっている。

そう答えようとしたが綾音によって遮られる。

672: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:15:15 ID:FtphCcUY

「…どういうことだい?」

「あたしが、そんな他所の女にお兄ちゃんのファーストキスを、奪われるような真似をすると思う?もう何年も前からキス、してるんだよお兄ちゃん。お兄ちゃんは寝てたから気がつかなかったかもしれないけどさぁ」

聞くときに聞けば、酷くショックな事実かもしれないのに、もう僕の心と頭は理解をしようとすらしない。

「…綾音。どうしても僕じゃなきゃ駄目なのかい?一体何が綾音にそこまでのことをさせたんだい?」

「お兄ちゃん…、愛に理由が必要?」

義妹の姿と元恋人の姿が重なる。

「…僕は必要だと思う。愛も好意も全て人の感情だ。そして感情には必ず、抱く理由がある。理由が無い感情は、それはまるで病じゃないか」

「だったら、その病に罹らせたのはお兄ちゃんだよ。責任…取ってよ」

「…。…責任、そうか…分かった」

「やったぁ!それじゃあ、結婚…してくれるんだよね?」

「綾音、最初にも言ったけれども僕は綾音の気持ちに応えるつもりはないよ。この気持ちは変わらない」

これだけは譲れない想いと主張する。

「ッッ、だったら!あたしもお兄ちゃんを諦めないからね!」

「僕が綾音に応えたくないという気持ちも、綾音も諦めないって気持ちも、どちらも人の感情だ。簡単に変えられるものではない。だから僕はこれからどれだけ時間をかけてでも説得する覚悟だ」

「だったら…さぁ!わかるよね!?あたしが絶対に諦める訳がないってことがぁ!?ねぇねぇねぇ、早く取ってよ、責任。あたしを狂わせた責任を!」

「もちろん全うするつもりだ。綾音がいつの日かちゃんと他の人を好きになるまでは、僕は二度と恋人を作らない。これが僕の責任だ」

「あは、何それお兄ちゃん?それがあたし狂わせたことに対する責任だっていうの?」

「そうだ」

「あははははははははははは」

ケタケタケタと壊れた人形のように笑う。

「意味が分かんないよ。いいよ、お兄ちゃんの気が済むまでそうしたら?あたしは絶対に諦めないし、むしろ変な虫が寄り付かなくて済むからね。好都合よ」

責任なんて格好つけて言ったが、これは責任というより、己にそんなことをする資格がないという、戒めに近いものだった。

「じゃあお兄ちゃん?あたし、ちゃんと一人の女の子だってこと。今からたっぷりと刻み込んであげる」

行こうよ、そう言って綾音は僕の腕に、腕だけではなく指を絡めてきた。

「…そうだね」

もう後戻りはできない。

今日とは言わない、明日とは言わない。

いつの日かでいい。

綾音が僕以外の人の隣に立って、その幸せを兄としての喜びとちょっとばかりの嫉妬で、迎えられる日が訪れて欲しい。

もう後戻りはできない。

やるしかないのだ。

673: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:16:37 ID:FtphCcUY

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午前中、綾音はあの手この手と僕を籠絡させようと試みていたが、実のところ今までとそう大差ないと感じるものであった。

しかしそれは、裏を返せば如何に僕が過ごしてきた日常が、酷く歪なものであったかを如実に語っていた。

綾音もあまり手応えを感じなかったのか、最後に別れる際には、不満げな表情を浮かべていた。

あれだけ意を決したことだったのに、僕が思う通りにも綾音の思う通りにも、お互いの気持ちの変化はあまり起こらなかった。

改めて感情というものの難しさを知った。

綾音と別れてからは一度教室へと戻ろうかとも思ったのだが、今朝の出来事による気まずさで、どうにも戻る気になれなかった。

どこを回ることもなく、ただ人気のない場所で、本当にこれで良かったのかと、何度も思考を繰り返していた。

さらには太一との約束も無碍にしたこともある。

成り行き上、仕方がなかったとはいえ、連絡を取るなりすれば良かったものなのに、乱れに乱れた僕の心に、友人との約束を思い出す余裕が生まれたのが、文化祭の初日が終わろうとした時であった。

友人にも、元恋人にも合わせる顔がない。

教室へ戻りたくない気持ちが強かったが、点呼を取らなければならない以上、そうも言ってはいられなかった。

気持ちが後ろを向いていようと歩いていれば、いつかは辿り着く。

やがて三人で作った思い出の看板が見える。

高嶺華のことは気にするな、太一にしっかりと事情を話して謝ろう。

意を決して教室へと踏み入れる。

入り口のすぐそばに太一がいた。

「ああ、太一。ごめんね…置いていくようなことをしてしまって。実はね…」

「遍っち、お前…どこにいたんだよ」

太一の視線に違和感を感じる。

やはり怒っているのであろうか。

けれどその瞳は怒りと呼ぶべきではないようなものにも思える。

否、太一だけではなかった。

クラス全員の視線が僕へと向けられていた。

教室へと踏み入れたときに感じた賑わいも、気がつけば不自然なまでに静かなものになっていた。

程度に差はあれど、誰しもが僕に対して負の感情を抱いている、そんな目で僕を見ていた。

あまりにも酷く居心地の悪い空間。

逃げ出してしまいたい気持ちに駆られる。

いや、そもそも何故こんなことになっているのか。

脈拍が異常なほどまで上昇する。

ドッ、ドッ、ドッ、ドッ

分からない、どうして皆は僕を見ているのか。

674: 高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』 :2020/02/27(木) 17:17:05 ID:FtphCcUY

「あ!遍。おかえりっ!もーっ、何処行ってたのー?心配したんだからね?」

不自然な静寂を打ち破るは、一輪の花。

黙って僕を見るクラスメイトも、この静寂に包まれたクラスも、僕に話しかける高嶺の花も全て、異常だ。

全てがおかしい、全てが非日常だ。

今朝と同じように高嶺の花は僕に近づくと、僕の腕を撮り、腕を絡める。

「皆、さっきも言った通り、私高嶺華と不知火遍は実は正式なお付き合いをしています!」

え?

何を言っているんだこの人は?

高らかな宣言の後、クラスはもう一度賑わいを取り戻した。

「へー、おめでとう!!」

「やるじゃん不知火!」

「華ー!お幸せにー!」

ピー、ピーと指笛が鳴り響く。

クラスメイトたちが、それぞれの反応をする。

大半がお祝いや肯定的な言葉を僕にかける一方、相変わらず僕に対する敵意とも呼べる視線はなんら変わっちゃいない。

歓迎なんぞされていないことは、肌からひしひしと伝わってきた。

そもそも、何故こんなことになってしまったのか。

高嶺華は、僕らが交際していると宣言した。

それは間違いだ、誤りだ。

違う、僕は確かにさっき別れ話をしたはずだ。

そしてそれは相手も受け入れたはずなんだ。

何故?

何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故

…なぜ?

「…言ったでしょう。"絶対に離さない"、って」

彼女の笑顔は変わらない。

変わらない笑顔のまま、小さく僕にしか聞こえない声で、底冷えした声で呟いた。
最終更新:2020年02月29日 11:55