736: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 16:55:05 ID:iWJxOaSw
目を覚ますと、カーテンの隙間から刺す茜色の光が波打っていた。

「おはよう」

僕のすぐ隣には、優しい笑みを浮かべる彼女が居た。

布団の隙間から見える彼女の裸体、そして肌から感じる肌の感覚で、己の置かれた状況を改めて理解した。

「!」

そうだ、僕は…。

結局、責任から逃れたいと寝てしまっても、逃げる事など叶うはずもない。

色々と思うところもあるが、まずは彼女の心配が先に浮かんだ。

「華…その、大丈夫かい?」

「ん…何が?」

「ほら…血が…さ、かなり出てたように見えたんだけれど」

「心配してくれてるの?嬉しいなぁ…。大丈夫、って言いたいところなんだけど、動くとまだ少し痛いかな」

嘘偽りなど感じない、優しい声色。

過ぎたことは戻せないのだから、一々頭を悩ませてても仕方がない。

まずは自分の落ち着きを取り戻そう。

少しだけ頭痛がするが、薬の症状はかなり緩和されているように思える。

「…シャワー浴びる?」

「そうさせてもらおうかな…」

ベットは乾いた精液と血液の匂いで、微かな不快な感覚が嗅覚を擽る。

「お風呂は廊下に出て左前の扉の先あるからシャワー浴びてていいよ。私は少し後始末するからさ」

「僕も手伝うよ」

「大丈夫よ、こういうのは家主の方に任せて」

確かに部外者の僕が手伝っても、かえって邪魔になることもあるかもしれない。

「ごめん、ありがとう」

素直に言葉に甘えることにして、申し訳なさと感謝の気持ちを口にする。

「いいのいいの。夜にはお父さんとお母さんも帰ってくるからそれまでに清潔にしとかないとね」

「ああ…そうだね。じゃあシャワーお借りします」

「はーい」

華の部屋をそのまま離れるが、疑問が幾つか引っ掛かった。

そういえば、当たり前の話だけれど華のご両親は当然いるわけで、夜に帰ってくるのも当然の話である。

それまでに帰れば、鉢合うこともないだろうが、既に宿泊するという約束をしているし、そのための荷物は持ってきている。

そもそも華のご両親は、僕が今日来ることを知っているんだろうか。

言われた通りに廊下を出て左前の扉を開くと、目の前に洗面台が高嶺家の生活を映していた。

洗濯機、洗濯籠、体重計、バスマット、半透明の扉。

その扉の先に浴室があるの想像に難くない。

服を脱ごうと思ったが、そもそも脱ぐ服がないことに気がつき、己の間抜けさに呆れてしまった。

半透明の扉を開き、浴槽への足を踏み入れる。

「他人の家で、シャワーを浴びるなんて初めてだな」

下らない感想が漏れる。

今は何も考えずに体に付き纏う汚れを落とす。

全身の汚れを落としたら、早々に浴室を出る。

737: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 16:57:39 ID:iWJxOaSw

「あっ…」

目の前には丁度、華がバスタオルを抱えていた。

「あの…これ使ってね」

「ありがとう」

華からバスタオルを受け取ると、濡れた全身を拭く。

その間も華はそこを離れず、僕の体をじっと見ている。

「えっ…とそんなに見られると恥ずかしいかもしれない」

「へ?ああごめん」

謝りつつも決して目を逸らすことなく、寧ろ僕に触れてくる始末。

「華…?」

「嗚呼、この。私が付けた愛の印」

目を細め、恍惚とした表情で、僕の"傷跡"をなぞる。

「遍は私だけのもの。誰にも渡さない」

「…僕はどこにも行かないよ」

「うんうん。それでいいんだよ」

僕の返事に満足気な笑顔を浮かべる。

その後。

僕と入れ替わるように華はシャワーを浴びて、何事もなかったかのように本来の目的である勉強会を2時間ほど行った。

窓から見える景色はすっかり暗くなり、腹の虫も鳴きそうな頃に、玄関がガチャリという施錠の音が鳴る。

誰かの来訪、否、帰宅に少し緊張が走る。

もう一度、ガチャリと施錠の音を響かせると一歩また一歩と廊下を踏みしめる音がする。

そして音が最も大きくなったところで、二回部屋の扉がノックされる。

「ただいま、っと。嗚呼君が娘の彼氏かな?」

ワックスで髪を固めた紳士服の男性だった。

あまり華とは顔つきは似ていないように思えるが娘と言ったあたりこの人が華の父親で間違いないだろう。

「あの…お邪魔しています。華さんとお付き合いをさせて頂いている不知火遍と申します」

「娘からは話を聞いてるよ。よく来てくれたね、歓迎するよ」

右手を差し伸べられたのでそれに応じるように僕は握手をした。

「小説家になるのが夢なんだってね」

「あの…はい」

「今日は遍くんの書いた小説は持ってきているのかい?」

「すみません、その明後日から中間考査なので勉強道具しか持ってきていなくて」

「あっはははは。真面目だね遍くん。それは残念だけれど、今度私にも読ませてほしいな」

「そんな、こちらこそお願いしたいくらいです」

「娘から聞いていた通り、随分と好青年のようだ」

ちらりと背後に目を向けると誇らしげに、華は笑みを浮かべる。

「そうだ、遍くん。一つだけどうしても聞きたい事があるんだ」

「はい、何ですか?」

「君は、他人を虐めたことはあるかい?」

不気味な笑顔を浮かべる。

「い…じめ?」

「娘はね、昔虐めにあっててね。そういった連中が私は心底嫌いなんだ。子供の頃だろうが関係ない、一度でもそういったことをした事があれば私は君を認めるわけにはいかないんだよ」

嗚呼、この人は間違いなく華の父親なんだと強く認識させられる。

この黒い瞳に覚えがある。

「その…、僕は昔から本の虫でした。友達と遊ぶよりも読書するのが好きでした。だから一人でいることも多く、どちらかといえばいじめられる側にいたと思います。はっきりとしたいじめというものにはあった覚えはありませんが、そんな僕が他人を虐めた記憶はありません」

「それは良かった。せっかく娘が惚れ込んだ男なのに私が認めないわけにもいかないからねぇ」

満足げな笑顔を浮かべ、顎に手を当てる。

「それに君は虐げられる側の気持ちがわかる良い青年の様だ。これからも娘を宜しく頼むよ」

「…はい」

「さあ夕飯を食べよう。話したい事が山積みだ。改めて遍くんを心から歓迎するよ」

この時になってようやく気付いた。

最初は僕のことを歓迎なんてしていなかったことを。

738: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 16:58:10 ID:iWJxOaSw

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「はい、試験終了。筆記用具を机の上に置いておくように」

「えー中間考査お疲れ様。このままホームルームして解散をしようと思うんだが、一つみんなにやってもらいたいことがある」

「これだ。一回目の進路調査を行う」

これ、と言って太田先生が取り出したのは小さな用紙だった。

「君たちの高校生活はもう折り返し始めている。正直まだ入学してから間もない気分でいる者も居ると思うが、もうそんな時期に入っているんだ」

「君たちは永遠に高校生ではいられない。必ず将来の別々の道を歩む事になる。その歩む道を今の内から少しずつ一人一人が考えなくちゃならない」

「大学へ進学する者、就職する者、色んな人が居ると思う。高校を卒業して進む先によって人生が決まるとはそんな大袈裟なことは言わない。人はいつだって人生を変えられる」

「ただし、今この瞬間が大きな転換点を迎えていることをよく覚えておいてくれ。今一度、小学生の頃の夢、中学生の頃の憧れ、そして今の自分のやりたい事。それらよく考え思い出し、自分の道を決めてもらいたい」

手元に配られてきた用紙には、上から第一希望、第二希望、第三希望と書かれており、それぞれの隣は空白の欄となっていた。

決してそう書いてあるわけではないのだが、まるで大学へ行く事が当然であるかのようなレイアウト。

如何に僕が異端な存在かを、まざまざと表している。

太田先生の言う通り、まだ入学してから間もない気分でいて、自分が物書きを目指す未来を、どこか遠いものだと眺めていた。

けれど、趣味が小説の高校生で居られるのよも、もう半分しかない。

「まだ一回目の調査だから漠然としたもので良いんだが、それすらも考えていなかった者は、一旦うちに帰って改めて考えても良い。また、これはプライバシーに関することでもある為、直接私に提出して欲しい」

それなのに、未だ作品の一つも公募に出さず、なんの実績もない今のままで、果たして僕は小説家になれるのか?

今更になって、己の怠惰している現状に気付く。

739: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 16:58:43 ID:iWJxOaSw
「あーまねっ」

ホームルームが終わり放課後になれば、一目散に彼女は僕の元へやってくる。

僕らの関係が公になってから十日ほどが経とうとしていたが、僕に向けられる悪意は徐々にではあるが減りつつあった。

中間考査があったというのもあるとは思えるが、恐らく暖簾に腕押し、糠に釘、打っても打っても響かない僕に対して悪意を向けるのが、段々面倒になってきたというところだろうか。

とはいえ、まだまだ気が済まない連中は多く、今朝一人でいるところにつけられた、至るところの青痣が痛む。

「どうしたんだい?そんな嬉しそうな顔をして」

「んー?どうしようかなぁー、言っちゃおうっかなぁ~」

対する彼女は、何やら嬉しい事でもあったのか何か言いたげな様子だった。

ここで聞かなければ、意地が悪いとでも言うだろう。

「何か嬉しいことがあったら、是非とも聞かせて欲しいな」

「もーしょうがないなぁ~。そこまで言うなら…」

「高嶺さん!」

僕も気になり始めたその内容は、突然クラスに響く華の姓を呼ぶ声で、途切れてしまった。

声がした方を向けば、見慣れない一人の男子生徒が教室の出口に立っていた。

クラス中の注目が彼へと集まる。

彼もそれをプレッシャーに感じつつも、気合と覚悟を持ってこのクラスの中を突き進む。

確かな歩みを進めながら、やがて僕らの元へと辿り着く。

「…。…なに?」

今の今までの声とは違う酷く冷めた声で睨め付ける。

御機嫌だった彼女は、一気に不機嫌へと様変わりした。

男子生徒は異常とも呼べるその様子に一瞬怖気付くも、直ぐに己の芯を立て直したように見える。

「なにって、昨日も、一昨日も、その前の日だって!呼び出しの手紙を下駄箱に入れておいたのに、一度だって来てくれないじゃないか!」

呼び出しの手紙、の一言で彼が一体何者なのか、大体見当がついた。

「嗚呼、その事。どうせ告白でしょう?私この通り、彼氏が居るから受ける必要なんてないわよ」

この通り、と言って彼女は僕の背後から、首の前で両腕を組む。

その様子を見て、彼は如何にも納得いかないといった様子で僕を見る。

「彼氏が居たっていい!一度で良いからこの気持ちを伝えたかった!」

「じゃあ何で今更、伝えようと思ったのかしら?同じクラスだった時にでも告白すればよかったじゃない」

同じクラス、ということは彼は一年生の頃のクラスメイトだったのだろうか。

「正直、誰とも付き合わない様子の君を見て玉砕する覚悟が出来ないでいた。どこか高嶺の花の君を、皆んなで眺めることに満足してしまっていた」

華から発せられる空気が、明らかに一段階尖ったものへと変わる。

きっとこの男子生徒は気付いていないのであろうが、『高嶺の花』の一言が彼女の機嫌をさらに悪くした。

「ああそう。じゃあ遠くから眺めてるだけで良かったじゃない。今更何の用よ」

「だけど、けど…。未だに納得できない!多くの人たちが君に想いを伝えてきたというのに、君が選んだ人が"コイツ"だってことが!俺だけじゃない!皆んなそう思ってる!」

『嗚呼、随分と失礼な奴だな』と思いつつも、そう思う彼の気持ちも分からないでもない。

けれど流石にここまでハッキリ言われると、内心辛いものが込み上げる。

「遍を"コイツ"ですって?本当にむかつくなぁ、お前」

僕を"コイツ"呼ばわりした彼は遂に、華の逆鱗に触れてしまったようだ。

「…どうしたんだよ高嶺さん。君はそんな言葉使いする人じゃなかっただろう…?明るくて優しくて天真爛漫な君が…どうして…?」

漸く敵意が向けられていることに気が付いた彼は、動揺が隠せないと言った様子。

ざまあみろ

僕はそれを見て、遂思ってしまった。

もう僕には、態々悪意を向けてくる"有象無象"を気遣う余裕なんてものはなく、華がこうして僕のことを守り、支えて、愛してくれることだけを頼りにしている。

「天真爛漫…?高嶺の花…?笑わせないでよ。そんな外面しか見てないから本当の私に気が付かないんでしょう。挙げ句の果てに私の愛する人を"コイツ"呼ばわり。よっぽど死にたいのかしら」

「死にたい…って、そんな…」

「…目障りだからさっさと消えてくれるかな?二度と私たちの前に現れないでね。残念だけどお前らが見てた"高嶺の花"は、有りもしない空想なの。分かったらさっさと消えて、これ以上私を怒らせると何するか分かんないよ?」

その場に似つかない笑顔を浮かべる。

それを向けられていない僕にも、恐怖が伝わるほど、悍しく美しい笑顔だった。

「…君は変わったよ」

最後に僕のせいだと、言わんばかりにこちらを睨み、踵を返す。

そのまま彼はこちらを一度も見ることなく教室を出ていく。

740: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 16:59:04 ID:iWJxOaSw

「…非道い」

「なにもあそこまで、言わなくても…」

「…本当に最近変わったよね、あの子」

クラスの端々から漏れる不満。

そう、これが僕に向けられる悪意が徐々に減っている理由でもあった。

"高嶺の花"の変貌。

最初は誰しもが戸惑いを感じていた。

僕に洗脳されているなんて噂さえ立っていた。

誰しもが思い描く、優しく明るい美しい少女という像とは、あまりにかけ離れた姿。

その姿は、僕に対する嫉みや妬みといった類のものを、鞘に収めるには充分過ぎるものだった。

このクラスの中においてはもう殆どがこう認識している。

『僕らの知っている高嶺華は死んだ』

華の豹変をそのまま受け止めた奴らは、僕に対する悪意を引っ込め、僕が洗脳したなんて馬鹿げた噂を本気で信じてる奴は、より過激に悪意を向けるようになった。

簡単に言えば嫌がらせの量は減ったが、質が悪くなった。

それを知って華もより周りとの溝を深める。

そしてより一層、僕に愛を向ける。

僕ももう覚悟は出来ている。

この孤独な世界を二人で生きていく覚悟を。

「…それで話って?」

これ以上機嫌の悪い彼女を見てられないと、先程機嫌が良かった理由を聞き出す。

「…うーん」

彼女はその黒い瞳で周囲を見渡す。

「ここじゃあ、少し煩いから場所を変えよっか」

彼女は周囲の人が鬱陶しいとでも言いたげな様子で、そんな提案をしてくる。

「…分かった」

正直、僕もこんな注目を浴びた状況は、好ましくないから賛成する。

お互いに荷物をまとめて教室を出る準備をする。

「あ…」

「…」

教室を出る際にすれ違った太一が、何か言いたげな顔をしていたが、敢えてそれを聞き出すことはしない。

もう"有象無象"と関わる日々には戻らないと決めたのだから。

741: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:00:15 ID:iWJxOaSw

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場所を移そうと言われて、僕らがやってきたのは中庭だった。

教室から離れるたびに、彼女の機嫌は取り戻され、中庭に着く頃には先程の機嫌通りになっていた。

「…ラブレター貰ってたんだね」

対する僕は、先程の彼に与えられた胸のモヤモヤから、そんな彼女の機嫌を損ねてしまうような質問をしてしまう。

きっとこれが嫉妬と呼ばれる感情なのだろう。

「え、いやっ!貰ってたっていうか…。私はいらないのに勝手に下駄箱に入れられてて…。勿論、中身なんて見ないで捨てたから安心して」

先程の冷酷な笑顔とは違う、暖かなダンデライオンのような笑顔。

胸のモヤモヤが晴れていくような感覚。

不安が取り除かれていく。

「ははは…、ごめん似合わない嫉妬なんてしてしまった」

嫉妬する男なんて、情けない。

ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「…私こそ不安にさせてごめんね。でも私が愛するのはこの先どんなことがあっても遍、貴方だけだよ」

彼女の温もりに包まれる。

中間考査終わりの放課後、閑静とした屋上とは違い、多少の人目がつく中庭だが、それでも彼女の抱擁を享受する。

「嗚呼…、僕もだ」

彼女の愛が沁み渡る。

心臓が脈打つ。

左胸だけじゃない、右胸からも鼓動を感じる。

両胸で感じる鼓動が、僕は一人じゃないと教えてくれる。

暫くの間、人目を憚らずに抱き合っていたが、時間と共に幸福よりも羞恥心が勝り始める。

抱擁の手を緩めると彼女も抱擁の手を緩め、少し照れたような笑顔を浮かべる。

「えへへ、なんだか照れてきちゃった」

「あはは、僕もだ。…そういえば話って?」

「ん?ああそうだったね。あのね遍、お父さんとお母さんが、遍が18歳になったら結婚して良いって言ってくれたの」

「結…婚?」

「そう結婚!もうこの間のことでお父さんもお母さんも遍のこと気に入っちゃって、法律が許す年齢になれば直ぐにでも結婚していいよって!私嬉しくって!やっぱり親が理解あると幸せなんだねぇ」

今の今まで同じ感覚、同じ気持ちを共有していたと思っていたのに、あっという間に彼女は次の段階に、想いを進めている。

彼女は未来を見ている。

僕は今しか見ていない。

だからこそ僕は進路調査を直ぐに提出することが出来なかった。

「…どうしたの遍?」

「いや…、僕は正直、今を生きるだけでいっぱいいっぱいになってしまっててね。結婚なんて未来の話、考えてなかったんだ。僕らの将来だけじゃない、自分の将来も考えきれていなかった。だから進路調査も僕は直ぐに提出できなんだ。そんな僕が君を幸せに出来るのかなって心配してしまったんだ」

「…なんだそんなこと。大丈夫、私は今充分幸せだよ。幸せすぎて壊れちゃいそうなくらい。…って遍、進路調査出してないの?」

「うん、そうだけどそれがどうかしたのかい?」

「遍のことだから"小説家"って書いてもう提出してるもんだと思ってた」

「いや、僕もそう書こうとしたんだけどね、未だに父親の賛同を得られていないことと、公募に作品を出せていないことを考えると、直ぐにはそうは書けなかった」

「そっか。でも私は誰がなんて言おうと遍の夢を応援してる。もっと自信持って。私を信じて。最期まで支えてあげる」

「ありがとう。君が理解して応援してくれるから僕は救われてる」

それに、と僕は付け足す。

「華が最初の読者で良かった」

僕がそう言うと、華は満足そうに笑う。

「私ちょっと御手洗行ってくるね」

「ここで待ってるよ」

中庭から校舎を姿を消すと、寂しさが身に染みる。

742: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:01:42 ID:iWJxOaSw
「お兄さん」

女子生徒の声が聞こえた。

「あの、綾音ちゃんのお兄さん」

綾音、の一言で背後からかかった声は僕に対するものだということを理解した。

「君たちは確か…」

「お久しぶりです。綾音ちゃんの友達の鈴木久美です」

「瀬戸真理亜です」

振り返れば見覚えのある二人の女子生徒が、そこに立っていた。

「やあ久しぶりだね。夏休み以来かな」

友人の兄に話かけるということで、どうやら二人は緊張しているようにも見えた。

少なくても夏休み、綾音がいた時のような喋り方ではない。

当たり前だ、仲良くもない上級生相手にそんな普段の様子を出すことはしないだろう。

「あの…あやねん、綾音ちゃんはどうしたんですか?」

どうやら綾音は友達想いの友人を持ったらしい。

「二人とも綾音の心配をしてくれてるんだね。ありがとう。正直に言うとね、僕もあまり詳しい様子は分かっていないんだ。部屋に篭りっぱなしで様子を伺うこともできない、そんな状況だ」

「その…なんでそうなっちゃったかはお兄さんは分かってますか?」

気のせいだろうか。

きっとこの子は僕に『何故そうなったか』という事態の原因を聞いているはずなのに、『自分がしたことを理解しているのか』という罪の意識を問うものに聞こえてしまう。

「うん、分かっているよ」

真意を聞くことを恐れた僕は、どちらの答えにもなる曖昧な返事をする。

「…そう、ですか」

僕の曖昧な返事と同じく、彼女の反応もまた曖昧なものであった。

「綾音が元の生活に戻れるように手は尽くしてみるからさ、もしまた戻ってきたら綾音と友達のままでいてくれるかい?」

「はい…」

「当たり前です。そもそも友達ってこんなことで縁が切れるほど安いはないです」

素直に返事をする久美ちゃんとは違い、真理亜ちゃんの方は、随分と耳の痛いことを言ってきた。

やはり僕は責められているのだろうか。

「ははは、そうだよね。僕友達居ないからさ、ちょっとわからなかったよ」

返す刀のつもりで吐いた自虐は、彼女たちの中の感情に憐みと気まずさを生み出しただけだった。

「あ…はは。ごめん、今のは忘れておくれ。変なことを言った。それよりも綾…」

「…ねぇ」

その瞬間、息が、全身の筋肉が硬直する。

これ以上言葉が発せられるなくなる。

743: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:02:08 ID:iWJxOaSw
「なに…してるの?」

背後から底冷えするような声を震わせている。

「なにしてるのって聞ィてるの!!!!!」

怒号が火山のように爆発し、心臓が悲鳴をあげる。

恐る恐る振り返れば、激昂に染まる華が居た。

「また…約束破ったんだ…。私以外の女と関わらないでって…、さんっっっざん言ったのにまだ分からないの?ねぇ?」

「…ち、違うんだ。この子達は」

「何も違わないッ!!!例外はないと言ったはずだよ遍。ぁぁぁぁもう、貴方がそうやって私以外の女と関わるたびにイライラして、本ッ当に頭がおかしくなりそう」

「聞いてくれ華!この子達は…」

「煩い」

「痛ッ」

信じられない様な握力で僕の手首を握りしめると、久美ちゃんたちから引き剥がすように僕の腕を引っ張った。

「貴方も話したいこともあるようだし、まずは二人きりなれる場所に行かないとね。私も貴方に教え込まないといけない事がまだまだあるみたい」

そのまま連れ去られるように右腕を引っ張られるが、それを左腕を引っ張る力で抵抗する。

突然の感覚に僕も華も振り向く。

僕の左腕を掴んでいたのは真理亜ちゃんだった。

「あの…まだ話終わったないんですけど」

右手首の痛みが消える。

指先に血が巡るのを感じる。

すると華は僕の隣を通り過ぎていく。

ドンッッッ

「「!?」」

華は突如として脚を上げ、真理亜ちゃんの鳩尾へと蹴りをいれた。

僕の左腕を掴む感覚もなくなり、真理亜ちゃんは地面へと倒れ込んだ。

「かはっ、けほ、けほ」

「まりあん!」

「…遍に触るな」

手加減なんて一切ない、本気の蹴りが内臓まで響き渡っている様子だった。

「行くよ」

あまりに凄惨な光景に釘付けになってしまいそうな僕を、強引に引っ張っていく。

「遍…自分が罰に値する罪を犯したってこと分かってる?」

早歩きの中、僕に問う。

「はい」

「償ってもらうから」

「…」

この日、僕の身体には数十を超える新たな生傷が刻まれることとなった。

744: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:02:46 ID:iWJxOaSw

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ーーー

幾日か経つ頃。

ここ最近は、放課後に期日が迫る公募の小説を書き進める日々が続いていた。

華も、僕の傍らでそれを見守り続ける。

遠くから届く、部活動に勤しむ者たちの小さな音が、静寂な教室に響き渡っていた。

「不知火、高嶺。丁度良かった」

そんな中、そういって、僕らを呼び掛けたのは担任の太田先生だった。

「二人に少し話したいことがあるんだが、この後、時間空いてるか?」

「僕は大丈夫ですけど…」

「話って何ですか?」

少し刺のある言い方。

彼女のその徹底した、周りとの拒絶の姿勢は、時折心臓に悪い。

今がそうだ。

担任の教師に向けて、放って語気ではない。

けれどその話の内容が気になるのは、べつに華だけに限ったものではない。

そもそも僕ら二人に話って何を話すつもりなのか。

丁度良いとはどういう意味で言ったものなのか。

僕と華が丁度良いと言われれば、僕らの交際絡みの話と予測してしまうのが順当であろう。

嫌な予感がする。

「ああ、この間進路調査出してもらっただろ。まぁそれについて二人にそれぞれ話したいことがあってな」

てっきり僕らの交際が良く思われていないだとか、最悪の話別れろなんてことを言われるじゃないかと思ってたため、少々拍子抜けした。

「これはプライバシーの問題があるから一人ずつ、10分程度だけ面談のようなことがしたいんだが時間あるか?」

進路調査といえば、僕も数日前に『小説家』とだけ書いた紙を提出していた。

何事もなく、通り過ぎることを願ってはいたが、向こうも教師。

流石に夢一つ書いた紙を、おいそれと見逃してはくれなかった。

僕の夢にまた新しい壁ができてしまった気がする。

話というのも十中八九、僕の夢に関する、どちらかといえば否定的な意見を聞かされることだろう。

最悪な予感は外れたが、結局嫌な予感は外れてなかった。

745: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:03:57 ID:iWJxOaSw

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幾日か経つ頃。

ここ最近は、放課後に期日が迫る公募の小説を書き進める日々が続いていた。

華も、僕の傍らでそれを見守り続ける。

遠くから届く、部活動に勤しむ者たちの小さな音が、静寂な教室に響き渡っていた。

「不知火、高嶺。丁度良かった」

そんな中、そういって、僕らを呼び掛けたのは担任の太田先生だった。

「二人に少し話したいことがあるんだが、この後、時間空いてるか?」

「僕は大丈夫ですけど…」

「話って何ですか?」

少し刺のある言い方。

彼女のその徹底した、周りとの拒絶の姿勢は、時折心臓に悪い。

今がそうだ。

担任の教師に向けて、放って語気ではない。

けれどその話の内容が気になるのは、べつに華だけに限ったものではない。

そもそも僕ら二人に話って何を話すつもりなのか。

丁度良いとはどういう意味で言ったものなのか。

僕と華が丁度良いと言われれば、僕らの交際絡みの話と予測してしまうのが順当であろう。

嫌な予感がする。

「ああ、この間進路調査出してもらっただろ。まぁそれについて二人にそれぞれ話したいことがあってな」

てっきり僕らの交際が良く思われていないだとか、最悪の話別れろなんてことを言われるじゃないかと思ってたため、少々拍子抜けした。

「これはプライバシーの問題があるから一人ずつ、10分程度だけ面談のようなことがしたいんだが時間あるか?」

進路調査といえば、僕も数日前に『小説家』とだけ書いた紙を提出していた。

何事もなく、通り過ぎることを願ってはいたが、向こうも教師。

流石に夢一つ書いた紙を、おいそれと見逃してはくれなかった。

僕の夢にまた新しい壁ができてしまった気がする。

話というのも十中八九、僕の夢に関する、どちらかといえば否定的な意見を聞かされることだろう。

最悪な予感は外れたが、結局嫌な予感は外れてなかった。

「僕は…大丈夫です。時間あります」

かといって面と向かって、逃げれるほど肝は据わっていない。

素直に面談に応じることにする。

「私も大丈夫です」

華も最悪な予感が外れたことに関して、少し苛立ちが鎮まったように見える。

そういえば、華は進路調査になんて書いたんだろう。

日々を過ごすうちに、いつの間にか聞きそびれてしまっていた。

746: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:04:27 ID:iWJxOaSw

「そうか、良かった。じゃあとりあえず不知火から始めるか?」

「はい」

これは僕の返事。

「高嶺は少し廊下で待っててくれ」

「はい」

これは華の返事。

華も特に反発することなく教室の外へと向かっていく。

あとでね

声には発せず、口の動きだけでそんなメッセージを残す。

こんなさりげないやりとり一つが、頬を緩めてしまう。

「不知火と高嶺は付き合ってるのか?」

華が教室を出たのを確認すると、太田先生はそんなことを尋ねてきた。

「えっ…、ああまぁそうです…はい」

薄々聞かれるのではないかと思ってはいたが、厳格な担任からそんなことを聞かれたため、情けない返事をしてしまう。

「そうか…。高嶺からやるべきだったかな」

「え?」

意味の分からないことを呟かれ、反射的に聞き返してしまう。

「いやなんでもない。気にするな。それより彼女は大切にしてやるんだぞ」

僕らの交際を否定的に思うどころか、そんな背中を押すようなことを言われ、先程疑ってしまったことに罪悪感が芽生える。

「さて、不知火。進路調査のことなんだが…」

太田先生はそれ以上僕らについて触れる様子はなく、抱えていた荷物の中から一枚の『僕の夢』を取り出す。

「不知火は小説家になりたいのか?」

疑うわけでもなく、馬鹿にするわけでもなく、覚悟を問うようなそんな目で、真っ直ぐ捉える。

「はい」

「本気か?」

「はい」

「何か賞は取ったことはあるか?」

「ありません、けれど今公募に出す作品を書いています」

緊張が僕の中に張り詰める。

そんな様子を見て、太田先生は少し目を細める。

「勘違いしないで欲しいんだが、俺は今日お前のその『小説家』になりたいという夢を否定しにきたわけじゃないんだ。むしろ応援している」

「え?」

思っていたこととは真逆のことを言われ、動揺が隠せない。

「こういった進路調査は大抵の奴が行きたい大学を書く。お前のような自分の夢を真っ直ぐ書く奴は珍しいんだよ。けどそれは決して悪いことじゃない」

少しずつ緊張が解れていく。

じわり、じわりと太田先生の言葉が胸に染みていく。

「それに俺も昔、目指していたからな。小説家」

「えっ…」

まさか太田先生に作家志望があったなんて、担任の知られざる過去を知り驚愕する。

「大学に通いながら小説家を目指してたんだが、単位のために取っていた教職課程が中々に面白くてな、結局教師になってしまった」

「俺は教師だ。生徒が小説家になりたいって言ってはいはいお好きにどうぞとも言えない立場なんだ、分かるな?」

「はい」

「これは適当に言うわけじゃないんだがな、不知火。お前大学に行ってみる気はないか?」

「大学…ですか?」

「ああ。大学ってのはな、自由がある。時間がある。出会いがある。その一つ一つがお前の人生に貴重な経験をもたらしてくれる」

「はあ」

「きっと今のお前は、そんなことよりも良い小説を書くための努力をした方がいいって、そう思ってるかもしれない」

僕の思ったことを見透かしているようだ。

747: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:04:53 ID:iWJxOaSw

「小説を書いてる不知火なら、分かるかもしれないが、自分が感じたことのある感情、風景を描写するときと想像だけで書く描写だと、前者の方が圧倒的に筆の説得力が違うんじゃないのか?」

思い当たる節は、…ある、

それこそ華に出逢ってから、恋愛感情の辛さ、悲しさ、喜びの繊細な表現が出来るようになっていた。

「大学生になって、様々な経験をすることで、きっと不知火はもっといい小説を書けるんじゃないのか、そう思うんだ」

小説家になるために大学に行く。

今まで考えもしなかった発想だった。

自分の中でそれぞれ分かつ道だと思っていたからだ。

「あの…先生」

「ん?」

「今までそういうこと、考えもしていなくて。正直、今すぐ大学行くとまでは考えられませんが、かといって大学に行かないという決断をするのも早計なのではないかという気もしてきました」

僕が考えを改めたのを見て、前傾姿勢だった太田先生は、椅子の背もたれへと体重をかける。

「少し考えさせてください」

「ああ、これはまだ一回目の進路調査だ。よく考えて自分の道を決めなさい」

話は以上だ、とだけ言うと、廊下で待っているであろう華を呼んできて欲しいと言われた。

「華、太田先生が呼んでいるよ」

「もう終わったの?10分どころか5分も経ってないじゃない」

「それだけ簡単な話だってことさ。多分華もすぐ終わるんじゃないかな」

「…。だといいんだけど」

何かに憂いているような、そんな表情だった。

僕と入れ替わるように華は教室へ入っていく。

「なんだったんだろう…」

教室の扉を閉めると、ついそんな呟きを吐いてしまう。

すぐ終わるであろうという予測の元、待ってみることにした。

1分。

2分。

3分。

5分。

10分。

長い。

既に僕の予測が間違っていたことを理解し始めている。

一体何の話をしているのだろうか。

今日は尽く予想が外れる日だ。

想定より遥かに長い時間話し合いをしているみたいだ。

そこまで話し合う、華の"夢"とはなんだろう?

『高嶺さんも将来の夢あるのかい?』

いやあったじゃないか。

一度だけ、彼女の夢を問うた時が。

『あるよ』

彼女は僕の方を真っ直ぐ見ながら、そう即答した。

彼女の中にそれは、確かに存在するもの。

待たされて蓄積された好奇心は、教室への扉に体を一歩近づける。

と同時に、突如として扉が開き、大きく心臓が跳ねた。

748: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:05:16 ID:iWJxOaSw

「不知火、ちょっと入ってきてくれ」

出てきたのは太田先生だけだった。

中の様子を伺うと、華はまだ席についており、面談は終わっていない様に思えた。

「はい」

それなのに、何故だかは分からないが、太田先生は僕を教室へと促した。

「遍…」

「何で不知火は呼ばれたかは分からないだろうが、高嶺の進路がお前にも関係するんだ」

「僕に…ですか?」

「本当はこういうのは他人に見せるべきものではないとは分かっているんだが、高嶺も不知火を交えて話したいと言ってたんだ」

そう言って、太田先生は小さな紙を、高嶺華の夢を、僕に見せてきた。

『結婚』

「他の教師は何年かに一度こういったことを書く奴がいるとは言っていたが、自分の受けもつクラスで実際に目の当たりにするのは初めてでな」

「これって…」

「高嶺はお前と"結婚"するとの一点張りだ。お前たちは若い、苦労することもあるし、そんなに急ぐ必要はないと言っているんだが」

この先は『聞く耳を持たない』と言いたげそうな様子。

「何度も言ってますけど、親の許可ならもう出ています」

「許可を得れば直ぐにしてもいいというわけではないだろう。人生は長い。高嶺も成績が良いんだから良い大学を目指せるんだぞ?」

「大学、大学って。私大学なんていくつもりありませんから」

「何故だ?」

「必要性がないからです」

「それは必要性がないと決めつけているだけだろう。大学には勉学以外にも学ぶことがたくさんできる貴重な場なんだぞ」

「別に…学ぶとかそういうのはもういいんですよ。私はもう目的を達成しましたし」

視線が隣の僕へ向けられる。

749: 高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』 :2020/04/27(月) 17:05:37 ID:iWJxOaSw

「何を訳のわからないこと言っているんだ。そもそも結婚というのは不知火も承知の上か?」

「えっ、あの結婚については一応話は聞いてましたけど、まだ具体的に僕は考えていなかったです…」

「とのことだが?」

「遍…」

ギリッ…と歯軋りが鳴る。

「それに不知火は先程大学へ進学するか否か今一度検討するとさっき言ったばっかりだ。結婚が悪いものとは言わないが、学生生活に少なからず支障はきたす。それは不知火の将来の道を狭める結果にもなり得るんだぞ」

「遍…大学…行くの?」

信じられないものを見るような目だ。

「いやまだ考えてないというか、さっき太田先生に言われて大学に行かないという選択肢を決めつけるのは早計なんじゃないかとは思ったんだけど…」

「わかりました。もし遍が大学に行くというなら私も行きます」

「え?」

随分とあっさりと主張を変更したことに驚きが隠せない。

それでも太田先生は華のことを訝しげに見つめる。

「それはあれか?不知火と同じ大学ならということか?」

「当たり前じゃないですか」

「はぁ…」

太田先生は困ったように頭を抑える。

「分かった。一旦高嶺の進路については保留しておく。まずは不知火、お前が今後どうしたいのかよく考えてくれ」

「はい」

「…少し時間を取って済まなかったな」

それだけ言うと太田先生は荷物を片手に教室を出て行った。

「…何でわざわざ有象無象がいる所に行くの遍?」

これはきっと、僕が大学へ行くことを検討している件について咎めているのだろう。

「その…太田先生に言われたんだ。小説を書くための必要な知識を学べる場なんだって」

「それ本当?本当に必要な知識を学べるの?」

「分からない。だから一通り調べてから行くか行かないかを決めたいってそう先生に言ったんだ」

「そう…。もし大学行くって決めたらまず最初に私に言ってね」

「え、うん」

「有象無象がうじゃうじゃ居る所に、遍一人で行かせるもんですか」

言葉が見えない鎖になって僕を締め付ける。

「あと大学行ってもいいけど一つだけ条件があるから」

「…なんだい?」

「誰一人とも仲良くなるなんてことは許さないから。遍は私だけいればいいって態度で示してもらうからね」

「うん…」

太田先生が示した大学へ行くことで人と出会い、学びなるということは僕には初めから存在しないようだ。

このギリギリのバランスを保った生活はいつまで続けられるのだろうか。

もう一度、紙と筆を取り出し、公募に向けて物語を綴っていく。

遠くから届く、部活動に勤しむ者たちの小さな音が、ただただ静寂な教室に響き渡る。

何か。

何かが限界に近づいている。

華か、綾音か、僕か。

これは漠然とした感覚だ。

嫌な予感がしているだけだ。

けれど、どうしてもそう遠くない日にこの歪な生活が壊れてしまう、そんな予感がする。

いつだってそうだ。

幸福な時間は永遠に続きはしない。

この歪な生活を幸福と呼ぶのであれば、間もなくこの身に不幸が訪れるだろう。

750: 罰印ペケ :2020/04/27(月) 17:23:58 ID:iWJxOaSw
最終更新:2021年04月18日 17:54