792: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:37:09 ID:l17.YzuE
心臓を貫く刃が勢いよく引かれる。

綾音が力無く倒れ込む。

錆びた鉄の匂いが爆ぜる。

「綾音、綾音綾音綾音綾音!!!」

クソなんで動けないんだ!

妹が死んでしまう!

「…」

華がもう一度、刃を振り上げる。

「待ってくれ!華!お願いだ!!死んじゃうよ!!!!」

僕の願いがまるで聞こえていない。

「やめてくれえええええええええええ!!!!!!!!!」

願いも虚しく、残酷にも刃が振り下ろされる。

「ぁぁぁぁぁッッッ!綾音!綾音ぇ!!」

一番見たくなかった光景が、目蓋に焼き付けられる。

綾音は静かに僕の方へ顔を向ける。

「おに……ちゃ…」

僕を呼ぶ声は最後まで続かない。

糸の切れた人形のように綾音は動かなくなる。

待っておくれッッ

こんな結末到底受け入れられない!!!

死んだ人間は何度か見たことがある。

祖父や祖母がそれにあたる。

けれど人が死ぬのは一度だって見たことはない。

こんなにもあっけなく死んでしまうのか?

いや綾音は死んでない!!!

まだ生きてるはずだ!!!

「綾音ッ、綾音!綾音………綾音ぇッッッ!!!!!」

もう死んでるよ。

煩い黙れ。

本当は分かっているんだろう?

このまま放っておけば死ぬかもしれないが、まだ助かる、僕が助ける!!!

いつまで現実を愚かに誤魔化すの?

綾音を助けられるなら、いくらでも愚か者になる!!

まだ分からないの?

黙れ!!!

君は本当に

煩い、それ以上はなにも思うな!!!




僕は本当に愚かだね。





「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」

793: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:37:37 ID:l17.YzuE
脳が焼き切れそうだ。

なんだよ…

なんなんだよ!!!

こんなのあんまりだ!!!

「遍…」

赤く染められた包丁は彼女の手からこぼれ落ちる。

その足で静かに僕に近づいてくる。

よくも…

よくも僕の妹を殺したな…

赦さない

赦せない!!!

「良かった………無事で」

「ぁ………」

腑が煮え繰り返りそうなほど、憎い相手から掛けられたのはこれ以上ない、柔らかく優しい声だった。

それだけで…

それだけで僕の初恋が蘇る。

狂わしい程に愛し愛された彼女を思い出す。

なんでこんなに、惨めな思いしなければならないんだ。

涙が溢れて止まらない。

自分の感情がもう理解できない。

「辛かったね」

そんな惨めな僕を彼女は抱き寄せ、静かに撫でる。

「これで分かったかな?私が世界で…ううん、この世で一番貴方を愛してるってこと」

「なんで…どうしてだよ………」

どうしてと問いたいのは、自分ではもう舵が効かない己の心。

どうして。

どうして世界一憎い相手を愛さなければならないんだ。

「何者にも変えがたいのよ遍は。私から遍を奪おうとするなら殺してでも取り返す。死んでも渡さない」

「ぅぅぅ…ぁぁぁ…ぁ……ぇっ」

言葉にならない感情が嗚咽になって吐き出される。

そんな僕を2、3回優しく撫でると、身体から少し離し向き合う形になる。

「…待ってて」

「………え?」

「人を殺したんだから私は捕まる。当たり前の話だよ。昔ならまだしも捜査技術が進歩した現代で一生バレずに過ごせるなんて、そんな甘ったれたこと考えてなんかない。そんな半端な覚悟で殺したわけじゃない」

何かの覚悟を決めたような表情。

「自首するわ」

「何を言って…」

思っても見なかったことを言われた。

794: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:38:16 ID:l17.YzuE
「もしかしたら私は何年も刑務所に囚われるかもしれない。そしたら何年も貴方と離れ離れになる」

どこか人ごとのように淡々と語られる。

「でも私は必ず貴方の元へ帰る。ただいまっていつの日か言う。だからそれまでさ…」

けれどそれは彼女の中に、確かにある絶対なモノ。

「絶対に、絶対に私以外の女に愛を囁かないで。愛おしそうに名を呼ばないで。私が戻ってきたときに、もしもそんな遍に愛を囁かれるような女がいたら必ずまた排除する。綾音ちゃんは正直、貴方への愛は私程でもないにしても並大抵のものじゃなかった。それは認めてあげる。だからもう殺すしかない、そう思った」

「殺すしかない、だって…?…そんなわけないじゃないか。そんな…そんなことあってたまるか!」

「じゃあ黙って指を加えてろって?言っておくけどそんなことしてたら、殺されてたのは私の方よ」

「…違う。綾音は…そんなこと…しない…。綾音は」

否定しきれないのが悔しい。

「嗚呼そう。やっぱり殺して良かった」

「…殺して良かっただと……?僕の、…僕の妹だぞ!?」

「貴方にそれだけ愛されてるのが妬ましくて、妬ましくて堪らない。それが例え家族愛だとしても。絶対にどんな形であれ、遍の愛を受けるのは私ただ一人だけ、それ以外は認めない」

彼女の嫉妬の領域はもう、狂気の域まで足を踏み入れている。

「どうしてだよ……。僕は君を愛しているのに、どうして妹を殺されなきゃいけないんだよ…。どうして君を憎まなきゃいけないんだよ!!!」

「いいよ。憎んで。貴方の感情を全て私にぶつけて。貴方の全ては私のもの…、誰にも渡さないから」

彼女の独占欲に雁字搦めになって何処にも行けやしない。

何をしても無駄だという絶望。

僕はもう、初めてこの子と交わった日から全てが狂い始めていたんだ。

不可能なのは分かっているが、半年前の自分に警鐘を鳴らすべきだったんだ。

『高嶺の花には毒がある』

一人の少女と出逢ってしまったが為に、義妹が殺された。

十年も共に人生を歩んできた義妹が。

運命が歪み始めてから気付いたってもう遅い。

既に破綻しているのに、ああすればいい、こうすればいいと、足掻いていた昨日までの自分が馬鹿みたいに思えてくる。

僕が頭を抱えていた頃にはもう、こうなることは決まっていたのだ。

残酷なカウントダウンが知らず知らずのうちに刻まれていた。

それなのに、馬鹿みたいに希望を持って、考えてるフリして何にも分かっていないで、今日この時まで悪魔の掌の上で踊っていたのだ。

795: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:38:53 ID:l17.YzuE


ーーーーーープツン


今までどうにか均衡を保ってきた糸が切れた。

全てがもう……どうでも良くなった。

「…どうして、ここが分かったの?」

意味のない質問する。

「さっきも言ったけどGPSアプリっていうのを遍のスマホに入れてあるの。遍が、…正確には遍のスマホがどこにあるのか、それを私の携帯で見ることができる」

「ははっ、便利な世の中になってるもんだね」 

何も可笑しくないのに笑いが出る。

「最初はデートで別れてから、いっぱいメッセージ送ってるのに返ってこないから凄くイライラして。でも電話をかけてみたら電波が繋がらないって。慌ててGPSを起動して遍を探したんだけどこの山に入ってしばらくしたら反応が消えちゃってさ。後悔したよね、適当なGPS入れてたから圏外の範囲行っちゃうと消えちゃうみたい。ちゃんと圏外でも見つけられるGPSにすればもっと早く見つけられたのに」

「…。僕は一体ここに何日居たんだい?」

「遍がプロポーズしてくれた日から8日が経ったよ。ずっと、ずっと探してたんだから。もう会えないんじゃないかって思ったら震えが止まらなかった。もし遍が死んでるなら私も死ぬつもりだった」

「…死ぬとか殺すとか、君の中ではそんなに簡単なことなのかい?」

「ッ…簡単なわけないでしょう?!人一人の命の重みくらい分かってる!じゃなきゃ今頃、世界中の女たちを殺してるわよ!今だって肉体に包丁が沈み込む感覚が残ってる…」

かつて刃が握られていた手が震えていた。

「じゃあなんで綾音を、僕の義妹を殺したんだよッ…」

「分からないかなぁッ…?私の中で…私の中で命が軽いんじゃない…、貴方への愛が重いんだよ?」

「…分からないよ、そんなの…」

「ッッッ!好きなの!愛してるの!今だって貴方への愛が1分1秒経つ度に、私の中の愛が重く重くなっていくの!貴方が他の女と笑う所を想像すれば、殺してやりたい…壊してやりたいって気持ちが湧いてくる!もうわたしの中にある"コレ"はどうしようもできないの…」

人を痛めつけることはあっても、殺すことは彼女の中で正真正銘、初めてのことなのだろう。

動揺が瞳から隠せない。

「きっと遍ば私のこと狂ってるって思うよね…。他でもない私自身が狂ってると思うもの。今だって自分のしでかしたことの重さを理解してるはずなのに、"私には宿らなかった貴方との新しい命"が綾音ちゃんのお腹の中いたとしたら腹を掻っ捌いて無かったことにしたいって…そう思ってる」

ああそうか。

そういえば僕はこの娘に直接…

忘れていたことが思い出される。

「ねぇ遍、もう一回子作り…する?」

馬鹿げた質問だった。

「…そんなこと、できるわけないだろう?」

「ごめん、聞いてみただけ。忘れて」

気まずい沈黙が流れる。

796: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:39:27 ID:l17.YzuE

5分かあるいは1分にも満たない静寂が続いた後、再び彼女は口を開いた。

「ねぇ…遍。キスしてもいい?」

「…それも聞いてみただけかい?」

「これはちゃんとしたお願い。多分…貴方とキスができるのはこれで最後な気がするから」

「…。いいよ、もう。好きにして」

どうせ今の僕は心も身体も身動きが取れない。

抵抗する気力なんてないし、それよりも全てがどうでも良かった。

「ありがとう…」

彼女はそっと僕の唇に重ね合わせる。

短く触れるだけのキス。

「遍、愛してる。永遠に愛してる。決して貴方への愛が消えることはない。忘れないで」

彼女は誓いとも呪いとも呼べる言葉を僕の耳に刻む。

「うん…」

返事に意味などない。

もう僕は彼女の愛からは逃れられないのだ。

嫌というほど分からされた。

「手錠を壊してあげるから山を下ろ。ここじゃ圏外だから警察に通報できないよ」

最後に彼女は寂しそうな笑顔を浮かべた。

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797: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:39:51 ID:l17.YzuE

「遍くん…」

「あ…」

あの後、電波の届く位置まで山を下るとそのまま警察に連絡し、事の顛末を説明するとあっという間にパトカーが来た。

到着した警察に小屋の位置まで案内し、綾音の死体を確認すると、その場で華は手錠をかけられ逮捕。

僕も重要参考人として警察署まで連行され、詳しい事情を根掘り葉掘り聞かれた。

何時間にも及ぶ調査を解放されると、そこにいたのは義母だった。

義母の顔を見るなり、僕の瞳からは涙が溢れて止まらなかった。

「ごめん…なさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」

謝罪の言葉も同様だった。

そんな僕をそっと抱きしめてくれる。

「大変だったわね」

義母の胸中など想像するまでもない程のものだというのに、僕にはただ一言、温かい言葉をかけてくれた。

「うっ、あっ、あやっ、綾音はっ、もう…!」

嗚咽が止まらない。

「分かってる…。警察の方から少しだけ話を聞いているから」

義母にとって僕は本当の息子じゃない。

さらに言ってしまえば、唯一の血の繋がった家族"綾音"を奪った原因を作った人間だ。

恨まれたって仕方ないのに、仕方ないはずなのに。

それでも義母は温かい。

涙が溢れて止まらない。

疲弊し切ってしまって僕をそのまま車に乗せ、義母がそのまま僕を連れて帰る。

「…すん」

虚な気分で、止めどなく涙を流し続けていると、一度だけ義母が鼻を啜る音が鳴った。

罪悪感がこの上なくのしかかる。

家まで辿り着き、重い足取りで車から降りる。

「この後、病院に行って綾音の遺体を見てくるんだけど遍くんはどうする?疲れてるなら休んでていいのよ」

頭では綾音の遺体を見に行ったほうがいいとは分かってるのに、どうしようもなく無気力が体の自由を奪う。

「ごめんなさい、今は行けそうにもないや」

「そう。少しだけ冷蔵庫に食事を入れてあるからもし何か食べたくなったら食べて」

「うん…ありがとう」

「今は何も考えないで。体も心も今は安静にしなきゃ」

「はい」

何も考えるなと言われても無理な話だった。

目蓋を閉じれば、綾音が殺される場面が、何度も何度も何度も繰り返される。

終わらない責め苦。

地獄。

身体の中を駆け上がっていくような不快感が走り、慌ててトイレへ向かう。

798: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:40:33 ID:l17.YzuE

「ぅ…ぉぇええ…ぇぇぇ」

血の匂いが鼻にこびりついて取れない。

嘔吐が止まらない。

とてもじゃないが何かを口にすることなど出来ない。

嘔吐して

落ち着いて

横になって

目蓋の裏に焼き付いた光景が再生され

また嘔吐して

その繰り返しで、精神も胃もすり減っていく。

疲弊していく。

そうやって何時間も苦しんで苦しんで苦しむ。

もうどれだけ時間が経ったのかもわからない。

空腹なのに、生きる気力を失い、「このまま死んで仕舞えばいいのに」とベットに横たわっていると、トンッ、トンッ、と二度聴き慣れないノックが響き渡った。

「遍。入るぞ」

父だった。

仕方がないので無気力に倒れていた上体を起こすことにする。

「………」

口下手な親と口下手な子。

会話が弾むことは決してない。

そもそも用がないのに態々部屋に来るような人ではない。

その癖、黙ってるようじゃ何をしに来たのか分からない。

できることなら早く出て行って欲しい。

「綾音は…いつもお前と妙子に任せっきりだった。父親らしいことは何もできなかった」

そんな苛つきを察したのか、独白のように語り始めた。

「もっと言えば綾音と遍が抱えていた気持ちの葛藤すら気が付かなかった。親としてこれほど恥ずかしいものはない…済まなかった」

済まなかった。

その謝罪の一言で燃え尽きかけていた僕にもう一度、薪がくべられる。

「済まなかった?…一体何について謝ってるんだよッ…。何も出来ませんでしたの間違いだろう!?だから陳腐な謝罪の言葉を並べることしかできないんだよ!頭では謝るべきことなんて分かってないくせにさ!!!!」

八つ当たりもいいところだった。

父親に無様にぶつけたのは、全部自分自身に言いたいことだ。

最後の最後まで無様を晒しているのは僕の方だった。

「…こんなことが起きるなど夢にも思わなかった。今はそれを恥じている。遍…本当に済まなかった」

「だから謝るのをやめろよ!!!何について謝ってるのか分かってないのに赦してもらおうって気持ちだけで、上っ面だけの言葉を並べてるんだろ!!?」

「そう言われても仕方のないことだ。私は本当に最低な父親だ…。お前の目にもそう映っているのだろうな」

「…ッ、何しに来たんだよ!態々僕の部屋まで来て上っ面の謝罪と自己否定しに来たのかよ!?」

「…。そうだ」

「ッッッ!!!何か言い返せよ!!認めるなよ!!」

「遍。お前はなにも間違ってない。全て私が悪かった。何が、ではない。全て、全て私が悪かったんだ」

「ふざけるなよッ…!何が"全て"だよ。自分が何が悪かったか考えるのが面倒だからそうやって"全て"とか言って考えるのを放棄してるだけだろ?!」

「…父親失格だな私は」

それだけを言い残し、部屋を出て行こうとする。

「待てよッ…、本当にそんなことだけ言いに来たのか…?」

信じられないといった気持ちで呼び止めると、一度だけ足を止めてこう言った。

「遍…、こんなことがきっかけで言われるのは腹立たしいかもしれないが、お前が叶えたい夢を私はこれからどんなことをしても支えてあげたいと思う」

「ッッ!!今更なんなんだよ!!!出てけ!!」

まるで僕の夢を認めてもらうためだけに綾音が死んだみたいじゃないか。

ふざけるな。

こんな認められ方は望んでなんかいない。

僕の夢を馬鹿にするな。

綾音の死を愚弄するな。

…赦さない。

この日を境に僕と父の溝はもう決して埋まることのない決定的なものになってしまった。

799: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:40:55 ID:l17.YzuE

僕の中の怒りは業火となって一昼夜燃え続けたが、綾音がいない家を歩き回るたびにそれは鎮火していく。

無気力に過ごす日々はあっという間に師走を迎えた。

それでも心のどこかでは復学しなければと思うのに、学校なんてものになんの意味があるのだろうかと身体を縫い付ける。

カレンダーの日付は増えていくのに、彩音が殺されたのが毎日毎日、昨日のように思える。

いつになれば前に進めるのかな。

そうして十二月の初旬が過ぎようとした頃、事件性ゆえに直ぐには行われなかった葬式だったが、この頃になって綾音の葬式が漸く行われるになった。

何も変わらない無にも等しい非日常を繰り返してきた中で、唯一無ではない意味のある日。

黒装束に身を包み、綾音との別れを告げに行く。

棺桶の中で眠る綾音の顔は安らかとは言えないものだった。

多くの人が花を添え涙を流している中、僕一人だけ涙を流さずにぼーっとそれを眺めていた。

誰しもが涙しているというのに、一粒も涙が出てくる様子はない。

それはお経を唱えている間もそれは変わらない。

綾音が火葬場に運ばれた時でさえそうだった。

花を添え、別れを告げる。

「ごめんな…綾音」

不甲斐ない兄でごめん。

綾音の想いを受け入れることができなくてごめん。

綾音の思いに今まで気がつかなくてごめん。

一言で謝罪しても、謝りたいことは幾らでも出てくる。

これ以上ないくらい人生を悔やむ気持ちが湧いてくる。

綾音が火葬される間、別室で待機してた。

死因が死因ゆえ、あまり親族も呼ばず、本当に身内での葬式だった。

しばらくの間、待機してると綾音の遺体を焼き終わったと伝えられ、もう一度火葬場へと足を運ぶ。

ほんの数ヶ月までは隣にいて笑っていた義妹は、今じゃ骨だけになってしまった。

もう命の形ですらない。

この骸を骨壺に収める。

二人一組、箸で骨を拾い、骨壺へと入れる。

これを骨上げという。

これには故人が三途の川を渡り、無事あの世に渡れるように橋渡しをするという意味が込められているらしい。

それともう一つ。

遺された人たちが、故人が死んだとはっきりと理解し、けじめをつけるためにするのだと、葬式場の方に教わった。

僕は母と二人、綾音の骨上げをし、壺に綾音の骨を納めたとき、これまで出なかった涙が洪水のように溢れてきてしまった。

結局僕は最後の最後まで、綾音の死をどこか理解していなかったのだ。

800: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:41:15 ID:l17.YzuE


……
………


生気まで失いそうなほど泣いた後、どうでもよい問題にぶつかってしまった。

期末試験だ。

師走の半ば。

もうすぐ冬休みが訪れようとしているが、必ずその前に期末試験という関門があった。

それを受けなければ進級はできないことになっているらしい。

もう既に一月ほど学校には通っていない。

心が空っぽになった今、学校に通う意味も分からなくなっていた。

恐らくこのまま期末試験に行かなければ、二度と復学することもないだろう。

単に期末試験を受けるか受けないかということではなく、復学するかしないか、そういったどうでもよい問題なのだ。

少し考える。

惰眠を貪り、漠然と虚空を見つめ、死なない程度に胃袋に何かを詰める。

人間として死んでいるような生活。

屍は僕の方だ。

これ以上こんな生活を続けるなら死んだ方がマシだろう。

けれど僕には死ぬ勇気が無い。

ならば答えは一つだった。

実に一ヶ月ぶりに足を運んだ学舎は、期末試験初日という日を迎えていた。

教室に入れば空気が凍るのを感じる。

視線が僕を貫く。

けれどどうでもいい。

自分の席に着き、時間を待ち、テストを受け、家に帰る。

それを三回ほど繰り返せば、あっというまに冬休みだ。

また屍としての生活が始まる。

801: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:41:34 ID:l17.YzuE













聖夜が訪れる。














除夜の鐘が鳴る。














年が明ける。















間も無くしてまた学校が再開する。

再開された学校で渡されたのは赤点スレスレの紙の数々だった。

そこからはクラスの腫物として生きる日々。

まだ彼らは事態を知らない。

けれど数日不登校だったが急に復学した男子学生と突如として消えた高嶺の花と呼ばれる女子生徒。

それは彼らの好奇心を煽るものだった。

注目が絶え間ない。

どうでもいい。

どうでもいい。

…どうでもいいはずなのに、ストレスが溜まっていく。

802: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:41:53 ID:l17.YzuE

無自覚のうちに心が蝕まれていく。

遠くから

遠くから

小さく

本当に小さなものだが

何かの足音が聞こえる。

革靴でアスファルトを蹴るような音が。

訳も分からない足音が聞こえるようになった頃、高校から自宅へ帰ると、ポストに『八文社』と書かれた封筒が一通届いていた。

それを見たとき、急速に目が覚めるのを感じる。

間違いない。

選考結果だ。

ひったくるようにポストから封筒を取り出し、駆け足で自室へと向かう。

荷物を投げ捨て藁にもすがる思いで封を開ける。

何か一つで良い。

生きる理由になる何かが一つ、一つだけでもあれば。

ハサミなど使わず素手で不器用にちぎる。

「何か…僕に…ッ。………」



























しかしそこに書かれていたのは『落選』の旨を伝える文章だった。

803: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:42:11 ID:l17.YzuE

ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
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ーーー

「遅いお兄ちゃん!」

「ごめんよ綾音。人混みがすごくてトイレに行くのも帰ってくるのも困難だったんだよ」

「折角お兄ちゃんと花火を観たくてお祭りに来たのに、これじゃ花火大会の意味がないよ!」

「意味がないは言い過ぎなんじゃあないかな?」

「お兄ちゃんがトイレに行ってる間に花火大会の花火が終わったんだよ?…それに何回も変な男に声かけられたし…」

「えっ?大丈夫だったかい綾音?」

「大丈夫だからここにいるの!全くそんな心配するならもっと早く帰ってきてよね」

「面目ない」



「お兄ちゃん…」

「ん?」

「来年こそ花火一緒に観ようね」

「うん、約束する」

「あ、そういえば射的の罰ゲームの内容まだ決めてなかったね」

「こらこら。最初に僕は罰ゲームは無しっていったじゃあないか」

「勝ち負けにリスクがなければ勝負なんて面白くないよ」

「はぁ…、無茶なお願いはやめてね」

「お兄ちゃん…これからもずっと傍にいてね」

「ん?それがお願い?」

「うん、そうだよ」

「なんだ…そんなこと。言われなくてもそのつもりだよ」

ずっと傍にいることなんて不可能だ。

いつかは僕らも別々の道を歩む時が来る。

ただ今は、純粋に綾音の喜ぶ顔が見たかった。

「分かってないなぁお兄ちゃん。ずっとだよずっと」

「はは、何回も言わなくても分かってるさ」

「むぅ、絶対分かってない。ずっと傍にいてってことはあたしがどんなに遠いところに行っても必ず着いてきてね。逆にお兄ちゃんはどこか遠いところに行っちゃダメだからね」

「後者はまだしも前者はありえるのかい?」

笑いながら問う。

「人生何があるか分かんないでしょ?もしかしたらあたしたちが想像もできないことが起きて離れ離れになるかもしれない」

人生何が起こるか分からない…か。

僕が高嶺さんと秘密の逢瀬をするような関係になるとは数ヶ月前の僕なら想像もできなかった。

逢瀬は少し言い過ぎかもしれない。

密会がせいぜい良いところだろう。

「今度こそ分かったよ。罰ゲームの内容はそれでいいんだね?」

「…なんか罰ゲームって言われると嫌々やらせてるみたいで嫌だなぁ」

「はは、ごめんよ。少し意地悪なことを言った。ずっと綾音の傍にいる。約束だ」

「ありがとうおにーーーーー




ーーーーーグシャリ





「え…?」

綾音の胸から刃が飛び出す。

付け根を中心にして赤が染まり、広がっていく。

「ダメじゃない。私以外の女の傍にいちゃあ…」

呪いが囁いた

804: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:42:29 ID:l17.YzuE














「ッ…はっ!!!」

硬い椅子に硬い机。

その感触に嫌というほど現実を教え込まれる。

どうやら悪夢を見ていたようだ。

いや、むしろ今の方が悪夢と言えるか。

脂汗が滲む。

ぼやけた視界を確認すると、教室には誰一人としていなかった。

「起きたか」

否、間違いだったようだ。

一人いたらしい。

背後から声がかかる。

「次の時間、移動教室だから早く移動しな。もうすぐ始まるぞ」

「ありがとう萩原さん」

久しぶりに声を出した気がする。

こうした萩原が気を利かせたときだけ僕は人と会話することができる。

そんな毎日じゃあ良くも悪くもならない、変わらない日々が続くのは当然か。

相変わらずどこからか足音が聞こえる。

コト

コト

コト

日に日に近づいてくるような大きくなるような、僅かに、ほんの僅かにだが迫りくるような感覚だった。

この足音が僕の足音と重なる日が来た時、どうなるのであろうか。

本人である僕ですら見当がつかない。

こんなことを考えても仕方ない。

荷物をまとめて移動することにする。

「あれ…。そういえば移動教室って、どこに行くんだろう」

805: 高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』 :2020/05/31(日) 11:42:47 ID:l17.YzuE

…。
……。
………。


放課後。

施錠係の義務として、最後の一人になるまで教室で残っていた。

誰もいなくなった後、重たい腕でノートと鉛筆を取り出す。

そこまでは良かった。

けれどいつまで経ってもノートを開けず、ペンすら握れない。

ボーッと机の上を眺めるだけ。

それだけで、あっという間に冬の景色は暗く闇に染まっていた。

何も考えない。

何も考えたくない。

誰かがどんなに辛いことも時間が癒してくれると言った。

そんなものは嘘だ。

日に日に苦しくなっていく。

静かな家に帰るたびに、もう妹がこの世にはいないんだと胸に強く刻まれる。

後悔で苛まれ続ける。

おまけに公募した小説も落選。

もう面白いと言ってくれる唯一の"読者"もいない。

怖くて筆が持てない。

筆が持てないなら想像すればいい。

僕の物語。

僕にしか書けない物語。

脳内には、ある一つの物語の構想が思いつく。

筆を取るのは怖いが、心を無にしてノートに世界を写しとればいい。

決心がつき、筆を取る。

「えっ…」

筆を持ちノートを開いた瞬間、頭の中の物語は白紙になった。

「まっておくれよ…今の今まであったじゃないかッ…なんで…なんでだよ!!!」

こんなことは今まで起きたことがない。

理解しかねる状況だ。

代わりにとつまらない物語を一つ想像し、書いてみようとする。

しかし筆がノートについた瞬間、つまらない物語すら

失ったものは妹だけじゃない。

恋人だけじゃない。

僕はもう…











物語を書けなくなっていたのだ。
最終更新:2021年04月18日 17:59