自衛隊がファンタジー世界に召喚されますた@創作発表板・分家

278 外伝58

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924 :外パラサイト:2010/11/09(火) 20:58:55 ID:hmz3gFpM0
栄光の陰に涙あり。
ひとつの新兵器が華々しくデビューを飾るいっぽう、駄作の烙印を押され桧舞台から蹴落とされる兵器があ
る。
F世界大戦への参加を決めた頃、アメリカ陸軍はM3軽戦車の後継として試作戦車T7を開発していた。
当初M3軽戦車と同じ37ミリ砲を装備していたT7だが、火力の増強が求められたため主砲として英国の
6ポンド砲をコピーした50口径57ミリ戦車砲が採用される。
弾重2,724gのAP弾を初速843m/sで撃ち出すこの砲は、対装甲火力だけならM4中戦車の前期
型に装備された75ミリ砲を上回っていた。
足回りはM3軽戦車と同じ垂直スプリング式サスペンションを踏襲していたが、出力450馬力のR-97
5EC2空冷星形エンジンとスパイサー・マニュファクチャリングが開発した自動変速トルクコンバーター
の組み合わせによって、高い機動性を発揮する。
そんなこんなで用兵側があれこれ要求し、技術陣があちこちいじり回した結果、全備重量が20トンを超え
てしまったT7は1942年8月、M7“中戦車”として制式化される。
12月には量産を請け負ったインターナショナル・ハーベスター社との間で3,000両を生産する契約が
結ばれたが、なんとも間の抜けたことに、ここまで来て陸軍はM7をどう扱えばいいのか全く考えていなか
ったことに気付いた。
当初M3軽戦車を代替するものとして開発が始まったM7だったが、出来上がってみれば偵察戦車として使
うには重量過大、かといって主力戦車として使うには装甲防御が不足気味というなんとも中途半端な存在で
あった。
F世界に転移することがなければそのままお蔵入りの運命は免れないところだったM7ではあるが、折りし
も南大陸諸国との軍事同盟が結ばれ、アメリカの援助を受け軍の近代化を図ることになった南大陸諸国から
は、どんな戦車でもいいからとにかく送ってくれという声が届けられていた。
そこでアメリカ陸軍はM3/M5を更新する軽戦車として新たにT24の開発に取り掛かる一方、M7は同
盟国軍向け供与専用戦車として生産が開始される。
不思議なことに、訓練計画および補給面の混乱を理由に制式採用する戦車の種類を増やすことは好ましくな
いと一貫して主張していた陸軍地上軍(AGF)は、M7中戦車の制式採用と量産の決定に対してはなんの
クレームもつけてこなかった。
M7が輸出専用モデルであり、アメリカ陸軍には装備されないことも理由のひとつではあったが、実際のと
ころAGFを牛耳っていたマクネア少将の最優先事項は自分が育てた戦車駆逐部隊を守るとともにその影
響力を拡大することであり、補給体系の簡略化云々は戦車駆逐部隊の存在価値を否定しかねない陸軍内の重
戦車開発推進派を押さえ込むための方便に過ぎなかったという見方が真実に近い。
そんな陸軍内の派閥争いとは関係なくM7中戦車の量産は粛々と進み、完成車は次々と南大陸同盟軍に引き
渡されていった。
供与先の南大陸同盟軍では、シャーマン戦車より高速でスチュアート戦車に火力で優越するM7中戦車を機
甲師団の騎兵偵察大隊や機甲偵察旅団に配備し、装輪装甲車やM3/M5軽戦車とともに部隊の先陣をきる
快速戦闘チームを編成している。

925 :外パラサイト:2010/11/09(火) 21:00:40 ID:hmz3gFpM0
実戦部隊におけるM7中戦車の評価はおおむね好意的で、特に自動変速機のもたらすスムーズな操縦性は戦
車兵に強い印象を与えていた。
だが1484年(1944年)8月、南大陸の戦場にデビューしたM7中戦車は初戦でいきなり黒星を喫し
てしまった。
ジャスオ領南東部のブルアカルを巡る戦いに投入されたバルランド陸軍第4バルランダー軽騎兵連隊に所
属するM7中戦車がシホールアンル軍の待ち伏せにあい、大損害を被ってしまったのだ。
ダークエルフの女性兵士が部隊のほとんどを占めていることで有名なこの部隊は、バルランド建国以来の伝
統ある部隊だが、戦車部隊に改変されるにあたりほぼ総入れ替えに近い人事異動が行われたうえ、エルネイ
ル上陸作戦に間に合わせるため戦車乗員の訓練もかなりタイトなスケジュールで行われため、正直言って練
度に不安の残る部隊ではあった。
8月13日、ブルアカルに向けて前進を開始した第4バルランダー軽騎兵連隊は、進撃途中にあるボカヴィ
レという農村で、歩兵を中心とした小規模なシホールアンル軍の抵抗を受ける。
短時間の撃ち合いののち後退を始めたシホールアンル軍を追撃する戦車隊は、仕掛けられた罠に頭から飛び
込んでしまった。
実戦経験が不足のうえ戦車の突破力を過信していたバルランド軍はなおも前進を強行しようとしたが、偽装
した射撃陣地の中で待ち伏せていたキリラルブスと野砲の十字砲火を受け、19両のM7中戦車を含む27
両の車両を失い、退却せざるを得なかった。
だがこの戦いが大きく取り上げられた理由は、戦闘終結後に起きたある事件だった。
第4バルランダー軽騎兵連隊を撃退したのは、悪名高いツィッタ・ダイバルブ少佐が指揮する部隊だったの
だ。
シホールアンル軍は指揮官ダイバルブ少佐の命令のもと、捕虜にしたバルランド軍のダークエルフ娘に息絶
えるまで暴行を加えたうえ、死体を串刺しにして道路沿いに晒したのだ。
それ以前の残虐行為によってすでに戦犯の指定を受けていたダイバルブ少佐は、戦後法廷に引き出されるこ
となく11月に始まったコマホルクを巡る戦いで戦死する。
この事件は「ボカヴィレの蛮行」として大々的に報道され、アメリカ市民の反シホールアンル感情をおおい
に煽ったのだが、事態は意外な方向に飛び火した。
国家権力に対し常に挑戦的なスタンスを取ることで知られるとある全国紙が「壊滅したバルランド戦車隊が
装備していたM7中戦車は、アメリカ軍が採用を見送った曰く付きの戦車であり、政府は同盟国軍に欠陥兵
器を押し付けている」という趣旨のキャンペーンを張ったのである。
バルランド戦車部隊が大損害を受けた理由は、戦車の性能よりも慎重さを欠いた現場の指揮と、乗員の練度
不足にあることは明らかなのだが、善良だが軍事に疎いうえうら若いダークエルフの女兵士を襲った悲劇に
すっかり感情移入してしまったアメリカ市民は政府に対し猛然と抗議を行い、有権者の突き上げを受けた議
会は陸軍に早急に事態の改善を迫った。
後に戦車スキャンダルと呼ばれることになるこの騒動によって、M7中戦車の生産打ち切りが決定する。
この騒動がアメリカ軍に何かプラスになるものをもたらしたとすれば、それは「陸軍は前線で戦う兵士にも
っと強力な戦車を与えるべきだ」という世論の盛り上がりが、M26の実線投入を早める追い風になったこ
とだろう。
補充のなくなった前線部隊のM7は急速にその数を減らしていき、終戦時には完全にその姿を消していた。
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