7th Direction ~怒りの日~  ◆j1I31zelYA




出題:あなたは、そこにいますか?



――新しい明日はまだなのね。



そういえば、と振り返る。

今より以前に、私の『日常』が変わったのはいつの頃だったろうか。
『むかし』はいまと、そこそこ違っていたと、それはハッキリと憶えている。

今とは違うむかしの話。あれはまだ小学生だった時期のこと。
あの頃はまだ、京子は今とは違っていた。
怖がりで、オドオドとしていて、よく泣く子だった。

だけど、私の方だって今とは違っていた。
むかしのわたしは、ごらく部での京子にも似た立場で。
戦隊ごっこの赤いリーダー役をやりたがるような、わんぱくな女の子だった。
きっかけも、理由も、今はもう、よく思い出せないけれど。



――君は、君がここに存在する意味についてどう思う?



京子が今の……違う、今はもういないのか。
とにかく誰もが知る歳納京子へと変わっていったのと同じ時期。
私もまた、今の船見結衣へと変わっていった。
『船見さんはクールだね』とか『落ち着いた子だね』とか言われるようになっていった。
それは単純に、ヤンチャ盛りだった子ども時代を卒業しただけのことかもしれない。
もしかすると、明るく騒がしいリーダー役になっていった相方との釣り合いを取るために、性格を合わせたのかもしれない。
……いや、それはないか。いくらなんでも、友達のためにそこまでするなんて重すぎる。
そこまでは否定したいけれど、あれで京子の成長に釣られたところはあるかも、なんて。
私はどうにも、肝心なところで他人に合わせるというか、基準にするところがあるから。
たとえば、小学校にあがったばかりの頃に、長かったツインテールをばっさりと切ったこと。
あれも、京子がまだ泣き虫だった頃で、幼いなりに自分がしっかりしなきゃと意気ごんでのことで。

たとえば、もしもの話。
もしもレナのような子が幼なじみだったとしたら、私はその子に合わせて『かあいい』髪型のままでいたんだろうか。
あるいは、まれにレナがかいま見せる、かっこいい『青い炎』のような姿に惹かれて。
彼女と釣り合いを取るために、『赤い炎』のような熱血やんちゃを目指したのだろうか。

考えても、栓のないことだけど。
私の幼なじみは歳納京子と、そして赤座あかりでしかないのだし。
私は昔も今もひっくるめて、ああいう性格のアイツが好きだったし。
レナのことはレナとして、ちゃんと…………うん、好きだし。



――君だけが持っている特別なこと
――出来ること、やるべきこと
――君をここに呼んだ人は、きっとそれが見たいのだから、ね



特別、と言われたら。
あかりの果たした仕事は、まさに特別だった。
そんな仕事をするよりも、無事でいてくれたらどんなに良かったかというのが本音なんだけど。
仲間になってくれるか分からない人にも、自分を殺そうとする人にも。
なんでもお話し聞かせて、どんなことでもしてあげる。
言葉と心で、直接に間接に幾人かを救った。
RPGに出てくるような世界を救った勇者にだって、きっと引けを取らないはずだ。
いい子なのは分かっていたけど、あの妹分みたいだった子が、勇気を振り絞ってそこまでのことをするなんて。
嬉しくて、悲しくて、あかりらしい。
誰が好きかと聞かれてみんな大好きと答える、赤座あかりらしい。

私の場合は、少し違うんだろうな。
もちろん、あかりほど誰にでも優しくできるわけじゃないけれど。
それでも、ごらく部のことは好きで、大切だ。
ただ、殺し合いが始まって最初に心配したのは。
いつもと変わらない『日常』が消えること。そして、みんなに会いたいってこと。
これがあかりなら、まず私たちが危ない目に遭っていないかどうか心配しただろう。
ちなつちゃんも、私たちの無事を案じてくれたと思う。
京子のヤツは想像力がたくましいから、最悪は私たちの誰かが殺人者になってしまうことも想定したかもしれない。
綾乃は……しっかりしてるし、逆に私たちが殺すはずないって信じてくれてるかもな。

こうやって挙げていくと、まるで私だけが想像力貧困で、危機感の足りてない奴みたいだ。
いや、本当にあの頃はさっぱり実感なんて湧いていなかったし、
真希波さんの死体を見てからは、それも無くなったけれど。
でも、きっとそれだけじゃない。

私はきっと、『居場所』としてのみんなを失うことが怖かった。
恐れていたのは、七原からも指摘された『仮に赤座あかりたちが生きていても普通とかけ離れて』しまうようなこと。
京子とちなつちゃんとあかりが部室で待っていて、綾乃や千歳が押しかけてきて。
そこにいればほっとする、『それまでどおり』のごらく部に、しがみついていたかったんだ。
きっと、それが私の『みんな大好き』のカタチ。
安心させてほしいという、甘え。
京子に言わせれば、私はぜんぜん寂しがり屋で、甘えんぼなんだろうな。



――僕から見れば君は十分に、普通の人とは違う存在かも、と感じるけどね



だとすれば、神様が私なんかを舞台に招いたのも納得がいく。
みんなそれぞれ、違う世界から来て、戦って、喪って。
誰もが自発的に、もしくは必要に迫られて変わっていく、そんな場所で。
変わっていくことを拒否する私は、さも滑稽に見えただろうから。

いや、願っただけじゃなくて、行動に移そうとした。
失われた者を取り戻すために、殺し合いに乗ろうとした。
そこまでするのは、きっと5人のなかでも私ぐらい……とまで言い切るのは独りよがりだな。
でも、そうであってほしい。

あの日々を取り戻すために、殺し合いに乗る。
そんな役割を選び取れば、神様も応援してくれただろう。
それもまた『新しい私』の、有り得た姿だったはずで。



でも私は、『新しい私たち』を選んでしまった。



――どれだけ他のものが元通りになったって、結衣ちゃんだけは、別なんだよ。



喪いたくないなら、まず自分が変わってしまっては駄目なのだと。
新しい友達と歩いていけるような、そんな変わり方もあるのだということを。
変わらないままで、変わっていくことを教えてくれた。
相変わらず行く先は暗すぎて、一瞬先はどうなるか分からなくて、
京子たちへの未練よりも、新しい友達の示したことを優先してしまった自分が、ちょっとだけ嫌で、

それでも、別の道を選んでいたら得られなかった、ぽかぽかとしたものがそこにはあって。
だからわたしは、居心地のいいごゆるりワールドが欠けてしまったことを理解して。
それでも、そこに『帰ろう』とする道を選んだ。

戻ってこなくても、喪われてしまっても、
『■』ぐらいは、見られるかもしれないと思った。




「黒子、遅いな……」
「そうだな……もしかして、七原が逃げちまったんじゃねぇのか?」
「それなら一旦は、私たちのところに知らせに戻るよ。
黒子だって、独断専行して七原を追っかけるほどバカじゃないはずだし」
「それもそうか」

七原秋也を止めるために白井黒子が一人で飛びだしたのは、佐天涙子のこと以外にも理由がある。
屋外を殺し合いに乗った参加者がうろついていて、それも七原と言い合いをしている真っ最中に遭遇したりすれば、黒子一人だけの力で三人を守りきれる保証がないからだ。
黒子のテレポートを用いて逃がすことのできる人数は、一度に二人か、多くても三人なのだから。
黒子からは、もし飼育日記の犬が不審な匂いを嗅ぎつけたりすればさっさと逃げるように言い含められているし、結衣たちもそうなったら仕方がないと頷いた。
しかし……待つ時間があまりにも焦れったいものだということを、その時は考慮していなかった。

心配しながら待つ時間は、長い。

あてどころのない視線は、自然と卓上へ向いてしまう。
怖い。
怖いことが書かれた、たくさんの紙切れが散らばっている。

40人の少年少女の、死に様を克明に記録した書類だ。

目にしたときは、ひどいという言葉が出た。
よく考えて、想像をすれば、『ひどい』は『こわい』になった。
同じ教室で、机をならべて勉強していた同士で殺し合う。
休み時間に、一つの机に集まってだらだら雑談していた者同士で殺し合う。
まさに船見結衣だって、殺し合いの真っ只中にいるけれど。
それは、ただの知らない他者から殺されるという恐怖でしかなかった。

たとえば、いつも仲が良かった同じ部活動の女の子たちが、お互いにお互いを殺そうとしていると思い込んで、憎しみの弾丸をぶつけ合う。
いとも簡単に、強い恐怖が『みんな大好き』を忘れさせてしまう。
クラスメイトが――それも歳納京子や杉浦綾乃たちがそうなってしまったら――船見結衣はきっと、心が壊れてしまうだろう。

それはもう悲劇とさえ言えない。『惨劇』だ。

きっと竜宮レナも、同じ想いを抱いたはずだ。
『部活動』という仲間たちのことを、本当に楽しそうに話していたのだから。
たとえば、竜宮レナが園崎魅音という少女を殺そうとしたり、
前原圭一という少年が、竜宮レナを殺すようなことが、起こるわけないと信じているはず――

「――レナ?」

竜宮レナは、報告書の一枚を拾いあげて、じっと考えこんでいた。
天井からの明かりが紙の裏面を透かして、どのページを読んでいるかがうっすらと分かる。

『大木立道』という名前が読めた。
覚えている。ちょっとだけ見た遺体の写真があまりにもグロテスクで、夢に出そうな思いをしたから。
ナタのようなもので顔を叩き割られて殺されたらしいことは分かった。

レナは右手で持ち上げたその報告用紙をじっと凝視する。
左手は五指を広げたまま顔にあてて、額から顔の左半分にかけてを隠すように覆っている。
まるで、『自分も写真に写っている顔と同じ部分を、斬られるか叩き潰されるかして殺されかけたことがある』みたいに。

結衣たちの視線に気がつくと、「えっとね……」と言いよどんだ。
困ったような顔で、言いたいことがありそうなのに沈黙している。それはレナらしからぬ姿だった。
意を決したように「結衣ちゃん」と名前を呼んできた。

「前に、結衣ちゃんは信じてくれたよね。
レナたちが、『神様に心当たりがある』っていうお話のこと」
「うん、信じたよ」
「じゃあさ、もっと漫画みたいなお話。
『実は私には前世の記憶があるんだよ』って言ったら……信じてくれる?」

前世。

突拍子もない。
占いでしか聞いたことがないような言葉だ。

しかし、レナはごく真剣そのものだった。
時間をかけて感情の波が強くなるように、瞳に潤んだものが貯まり始めている。
彼女にとってはただならぬことだと、それだけは間違いなく信じられたから。
詳しく聞かせてと、返事をしようとして。



ズズン、と。



地震でも起こったかのような轟音と振動が、室内を大きく揺さぶっていた。





「――お前らは、俺を敵に回したくはないんだろ?」


そう言われ、反駁しようとした黒子の口を塞いだのは、七原ではなかった。
音だった。

最初はびりびりと細かな振動が。
そして、ある臨海点を境として轟音が。

研究所といっても、趣は大学のキャンパスのそれと近い。
一面に芝をしいたゆとりのある敷地に、大きさも形もばらばらな研究棟が5、6戸ばかり林立している。
そのひとつが、ガラガラと積み木を崩すように倒壊を始めていた。

「…………なぁ、この会場には怪獣でも棲息してるのか?」

張りつめていた七原でさえ、その急変にはたじろいだ声をあげる。
幸いにしてレナたちがいる建物とは別のそれだったけれど、だからといって『ああよかった』と胸をなでおろせる光景でもない。

破壊の意志を持った強大な力の持ち主が、そこに迫っているということだ。

「あの壊れ方から察するに、ビルの支柱を威力のある刃物か鈍器かで潰していったのでしょう。
以前に、同じやり方で解体したビルを見たことがありますの」

黒子としては、過去に自身も似たような能力でビルひとつを潰した経験があったので、方法に心当たりをつけるぐらいのことはできた。
殺し合いに乗っている人物ならば、その破壊はとても効率的な方法なのだろう。
建物のひとつひとつを探し回る手間をはぶいて、施設ごと人間を圧死させることができるのだから。
……もっとも、その手段を効率的なものだと冷静に判断して、そして実行してしまうような人間は、間違いなく色々な意味でぶっ壊れている。



「なるほどな。じゃあ、さよならだ」



緊張が抜けるほど、あっさりと。
黒子の言葉を聞き終えるや、くるりと七原は踵を返した。

「なっ……!」

脱兎のように走り出す後ろ姿に黒子はあっけにとられ、そして手をのばし、
――そして、苦い顔でやめた。

七原秋也は、黒子たちと別行動をとりたがっていた。
そして七原秋也はリアリストであり、他者を救うために自らの命を危険に晒したりはしない。
つまり七原にとって、この場にとどまる理由など何一つないのだろう。

しかし、白井黒子はこの場にとどまるしかない。
七原を追いかけて捕まえようにも、危険人物は依然としてここにいるのだから。
七原秋也を確保することか、船見結衣と竜宮レナの安全を確保することか。
失敗したら取り返しがつかないのはどちらか……考えるまでもない。

(……また会ったら、覚えていらっしゃい!)

毒づいて、急ぎテレポート。
テンコに教えられた近場の資材置き場から、持てるだけの釣り針をひっつかんで元の中庭へと戻る。
さすがは『海洋研究所』というべきか、いつもの鉄矢の代わりとなる漁具が入手できたのはありがたかった。

釣り針を指の間にはさんで構え、黒子は倒壊跡から広がってくる土煙のむこうを見据える。

変わらない心と、変えていく勇気を奮いおこす。
油断をするな。
恐怖に縛られるな。
もう、『最悪は起こらない』なんて思い上がるな。
それでも助けるために、『正義』を成すために、戦え。

そして食い止めるべき対象は、煙の中を歩いて現れた。
まるでテニスコートの端と端のような、そんな距離をおいて中庭の芝生で対峙する。



「『人間』。やっと見ーつけた」



現れたのは、朱に染まりだした西日を背負った、赤色の悪魔。

血塗られた色の肌に、白い海藻のようにちぢれた髪の上から真っ黒い帽子をかぶり。
眼球までもが赤く濁りきった異様な外見は、テンコが目撃したという男に一致していた。
ホテルの跡地で、狂ったように皆殺しにしてやると叫んでいた少年だった。
裂けるような笑みを浮かべる悪鬼じみた姿は、こちらを『殺し合う相手』ですらなく『獲物』として見ているかのごとき眼光を向ける。

「伺います。どうして貴方は、殺そうとなさいますの?」

右手には、真円の形をした巨大な刀剣。左手には、何故だかテニスラケット。
威圧しようとして威圧されている、そんなただならぬ対峙に、黒子は思わず問いを放っていた。

「簡単じゃねーか。みんな殺して、欲しいものだけ生き返らせて、ハッピーエンドだ」

言い切ると同時、右腕が大きく振り抜かれるや、円刀が正面から『投げつけられ』た。

「くっ……!」

等身大ほどの直径はあるリングが軽々と投擲されて、丸鋸でえぐるように空気を裂く。
黒子は左へと走って回避し、丸鋸は黒子のすぐ右脇を抜けた。
それは回転による風圧をうみながらそのまま飛び、十メートルばかり後ろにあった電柱に『食いこんで』止まる。

「これは……」

電柱がすっぱりと切断されて倒れゆく。その光景を見て、黒子は倒壊を起こした原因を理解した。
投げつける腕力の問題だけではない。
あの円刀は、明らかにただの鉄ではない材質からできている。

「ほら、潰れろ」

よそ見をしている暇は、なかった。
朱色の逆光を背にして、悪魔は高く跳んでいる。
周囲には、十数個ほどの石ころがずらりとトスアップされていて。
右手にかざされたラケットが、音を立てて振り抜かれ。

見上げる黒子へと、石礫の弾丸による集中砲火がきた。

「……っ!」

危険。
考えるより先に肌で理解して、瞬間移動(テレポート)。
キュン、と空気をきる音を残して消える。
ドスドスと鈍い音が起こり、石礫が芝生へとめり込んで埋まった。

転移した先は空中。
切原赤也が滞空するよりさらに上、位置取りは背後だ。

(決めます――!)

右手で触れて悪魔を転移させ、地面へとめり込ませる。
そのつもりで無防備な背中を見下ろし、さっと右腕を突き出す。



――ラケットが背後へと振り抜かれ、黒子がのばした手を打ち据えた。



「がっ……!」



激痛がすぐさま駆け抜けて、右腕を灼く。
目の前にはくるりと身をひねった悪魔がいて、
バックハンドで振るわれたラケットが、赤い眼光が、白井黒子を捉えていた。

「オラァ!!」

続けざまに振るわれるフォアハンドでの一撃を、とっさに転移して避けた。
距離をとり、着地したのは切り倒された電柱の根元だ。
強く打たれた右腕をさすり、背中に冷や汗をつたわせる。

「ずいぶん、お疾いようですのね……」

死角をつくことはできた。背後への転移も、不意打ちとなるものだった。
ただ、黒子がテレポートを実行してから右手で攻撃をするよりも、
相手が気配に反応して、攻撃に移るまでの時間が早すぎたというだけのこと。

「ククク………ヒャヒャヒャヒャ」

悪魔は着地すると目を合わせ、黒子を再認識する。
今の獲物の動きはなんだったんだろうと、小首をかしげた風に一瞬。
しかし、まぁいいかと勝手に納得した風に笑い声をあげた。

「何だそのチンケなワープはァ!? 真田副部長の方がよっぽど速かったっつーの!!」

嘲笑して、次なる弾丸を取り出した。
片腕にディパックを提げ、そこから掴めるだけの瓦礫の礫を。
それらは、研究棟を瓦礫に変えた時にかき集めたものなのだろう。

「どうしてですの……!」

左手に掴めるだけの石礫を投げ上げ、サーブの構え。
嘲笑いながら恐怖を与えようとする姿に、黒子は問いかけを放っていた。

「生き返りを願うあなたが……喪う痛みを知っている貴方が!
どうし痛みを与える側に回るんですの!?」

恐怖したテンコでさえも、一時は同情を寄せていたと聞いている。
惨劇が起こったホテルの跡地で、焼死体を前に慟哭していたことも。
その少年は、黒子に対して不快だとばかりの怒声を放った。

「亡霊と……同じこと言ってんじゃねぇよ!!」

すぐさま石礫をトスアップ。
鋭いスイング音を響かせ、ラケット面にたくさんの礫を打ち付けた。

「亡霊……?」

亡霊とは誰を指すのか。
答えを得ないまま黒子は転移して、石礫の散弾から射程を外す。
出現したのは少年の左側方。
指の間にはさんだ釣り針を強く握り、反撃をすべく意識を集中させる。
釣り針の転移先として狙うのは、相手の右手首と、シューズ。
ラケットを取り落とさせ、そして跳躍を封じるために。

「どんな風に戦ったって! 負けたら死体になるし、俺のいないところでみんな欠けていくじゃねぇか!!」

キュン、と指の間に空気をきる音が起こり、転移が発動する。
しかし、釣り針は『何もない空中』へと出現していた。

(なっ……)

なぜなら、悪魔はとっくに、『一瞬前までいた場所』から動いていたのだから。
瞬間移動にも劣らない疾さで数歩を跳び、左手をディパックに差し入れて。

「だったら! 俺が勝ち続けりゃいいだろ!!」

地に伏せるように低いテイクバックの姿勢から、次弾となる拳大の瓦礫が放たれていた。
その攻撃はさながら“かまいたち”のように、ラケットの描いた軌跡が空気に裂傷を刻んで、

ドン、と腹部を貫く衝撃が走り抜ける。

「…………っは」

内蔵を圧し潰されるような激痛。
そして、黒子の体はあっけなく宙へと舞っていた。
たっぷり数秒は空中にいて、痛覚のシグナルがテレポートの計算式を阻害して。
十メートルばかりは飛んだだろうか、研究所の外壁へと背中から激突する。

全身が軋むような感覚と同時に、聴覚が怒声を拾った。

「奪う側になって、好きなものを拾っていきゃいいだけのことだろうが!!」

相性が悪すぎる。
あがいても覆せない絶対的な差を、体が認識した。
テレポートが移動先へと出現するのにかかる時間は、約一秒。
それはロベルト・ハイドンのように大振りの攻撃をする者にとっては、弱点にすらならないロスだが――

「この俺が――常勝不敗の、立海大の、切原赤也が」

――一瞬の隙を狙える悪魔に、一秒というタイムラグは遅すぎる。

「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ! それとも何か!
正しいことしたらみんな帰ってくるのかよ!
お前の言うことを聞いたら、なくしたもんを返してもらえるのかよ!」

背骨が折れたかのような激痛に顔をしかめ、歯を食いしばる。
ふざけるなと、自分が一番不幸みたいな顔をするなと叫びたいのに、声が出ない。
チカチカと点滅する視界のなかで、悪魔の姿が歩み寄り、大きくなる。

「お前が正しくて俺が間違ってるなら……それなら、返してみろよ!
俺を置いてった連中を、俺の前に返してみろよ! できねぇだろうが!」

油断はしなかった。
恐怖はあるけど、震えもするけど、縛られてもいない。
『最悪は起こる』覚悟だってしている。
貫きたい想いがあって、守りたい人がいて、。
それなのに、それでも。

「できねぇんだから…………お前はそこで潰れてろ」

どうして、こんなに呆気ない。

体をくの字にして壁によりかかる黒子へと、悪魔は次なる石の弾丸を取り出した。
それを見上げ、黒子は気づく。
悪魔が、安堵したような笑みを浮かべていることに。



――この悪魔はもはや、生き返らなくったって、全てを破壊するつもりでいることに。




(死にやすそうな性格だとは思ってたけど……もう死にそうになってるとはね)

七原秋也は実のところ、逃げてなどいなかった。
走り出した後に、裏口から元いた研究所へと侵入。
姿を見られないよう身をかがめながら壁伝いに移動し、二階へと続く階段をのぼる。



白井黒子の邪魔がはいらないところで、赤い悪魔を確実に射殺するために。



生かしておく理由など、カケラも存在しない。
殺し合いに乗っていて、危険性が大きく、しかも正攻法では太刀打ちできそうにない。
そして白井黒子は間違いなく止めにかかるだろうとなれば、方法はひとつだった。

廊下を横切り、中庭に直面する窓辺へと向かい、窓枠の下へとぴったり身を寄せた。
窓ガラスはビリビリと震えて、大砲でも打ち込んでいるかのような鈍い音が断続的に鳴った。
そして、壁ごしに白井黒子のうめき声と、悪魔の叫び声が聞こえる。

どうやら白井黒子の戦況は芳しくなく、というより一方的に攻撃されて、回避を繰り返しているらしい。
重傷を負わされているのを見捨てる形になるのは、べつに仕方がないと判断する。
撃つタイミングを誤れば、七原が悪魔に殺されるのだから。
黒子を生かしておく優先順位は高いが、それでも自身の安全に比べたら切り捨てることは厭わない。そういう覚悟を、固めたばかりだ。

悪魔の方は白井黒子をいたぶることに夢中になっているようで、何度も返せと吠えていた。
自分から喪われた命を、返してみせろと。
それができない世界なんて、絶望だけの世界なんて、滅びてしまえと。

――要するに、ただの駄々をこねてる餓鬼だ。

苛立ちを感じながら、そう結論づける。

喪ったことを嘆いて立ち止まり、安易にやり直しを選択して、狂うことで痛みをまぎらわして。
何も背負おうとせず、過去だけにすがりついて、前を向いて走らない。
七原秋也が、それだけは選ぶまいと拒んでいる有り様だった。
そんなに死者が恋しいなら、お前もそちら側に逝けばいい。切符なら銃弾で払ってやるから。

グロック17の有効射程は50m。
その射程内で、窓から見下ろすように狙える場所で。
悪魔が無防備に立ち止まったタイミングが、そいつの終わりになる。

そして。
悪魔と最後の空中戦を繰り広げていた白井黒子が、ラケットに叩きつけられ、墜落した。
落ちた場所は、窓から見て直線距離にあたる真下。
すでにその身は、血と痣とでいたるところを赤黒く染めている。

拳を握り、小刻みに震えていることから、かろうじて生きてはいるようだ。
それはまるで、立ち上がりたいのに叶わないかのように。
七原は驚かないし、心配もしない。
遠からずこうなることが読めていたからこそ、『他人のことより自分たちを心配しろ』と、警告を与えるだけはした。
見殺しも同然の真似をしたことに、心が痛まないわけではない。
しかし、むしろ彼女が悪魔を救うところでも見せられたりすれば、その方がよっぽど眩しくて堪えたはずで――

――そうかと、思い至る。
七原は彼女たちの思想を尊いものだと認めてきたつもりだったけれど。

その裏で、自分の終わらせ方ではなく、彼女たちのハッピーエンドが実現することは、ちっとも望んでいないのだ。

でなければ、『白井黒子たちと対立してでも、主催者は殺そう』と決断するはずがない。
それはそのまま、彼女たちのハッピーエンドに立ちはだかることを意味するのだから。
理想を持つことを諦めた革命家は――しかしその一方で、『理想なんかがまかり通ってたまるか』という、矛盾した情念を抱えこんでいる。

なぜなら、自分の力で世界を変えることができなければ――それこそ自分には、何もなくなってしまうのだから。

(ったく……あの坂持って『担任』は糞野郎だが、ひとつだけ有意義なことを教えてくれたよ)

実際の時間で言えば、ほんの一秒ばかりの逡巡。
悪魔が続けざまに地面へと降り立ち、黒子の姿を七原の視界から隠す。
止めを刺す獲物を探るようにディパックを探り。
そして、黒子を見下ろすためにかるく身をかがめた。
七原が照準をつけた先に、ちょうど背中があたるように。

(それは――『殺らなきゃ殺られる』ってことだ)

引き金を引き絞り、七原は撃ち放った。
指先には狙いを違えなかった感触が残る。

これが七原にとって、二度目の殺し合いで奪う最初の命。



――ガキン、と。



すらりとディパックから引き抜かれたのは、銛だった。
太く、人間大ほどの長さがあり、先端にはギザギザした返しがついている、小型の鯨くらい仕留められそうな、そんな銛だ。
悪魔はそれをディパックから引き抜き、七原の放った弾丸をたやすく弾いていた。

(え……?)

悪魔が銛を入手していたことは分かる。
ここは海洋研究所であり、そして悪魔はさっきまで、その建物のひとつで破壊活動をしていたのだから。
漁具があることも、悪魔がそれを入手していることもおかしくない。
おかしいのはそれで銃弾を弾かれたことと、そして奇襲を予期されたかのようにそれを取り出されたことで、

「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! びびったかよ!
新手が来ることぐらい、最初っから予想してたっつーの!!」

逃げなければ。

一瞬で決断をくだした七原だったが、しかし悪魔の方が早い。
銛で穿たれたサーブが瞬間よりも素早く空気を裂き、窓ガラスを割り、七原の即頭部をえぐるように殴りつけていた。




七原秋也の失敗は、悪魔の言動と暴力的な振る舞いを見ただけで、単純かつ幼稚な生き物だと決めつけたこと。
そして、悪魔が勝利のために磨かれた狡猾さを持っていると、知らなかったこと。
ホテルで宗屋ヒデヨシがテニスプレイヤーたちの奇襲に成功したケースとは違う。
他でもない悪魔自身が、人を呼び寄せることも計算づくで建物を破壊したのだから。
そしてテニスの試合にはダブルスというものがあり、意識を同時にふたつの方向に向けておくぐらいは容易い。
窓から銃口が覗いていたことぐらい気がついていたし、自分が動きを止めた時点で撃ってくることも予想できた。

そして、そんな思考までを把握できなかったにせよ。
倒れていた白井黒子もまた、七原が奇襲に失敗したことを把握していた。
今さら助けに戻ってくれたのか、それとも最初から黒子を囮にしていたのかは分からなかったが。
しかし、悪魔の標的が七原に切り替わったことは確かだった。

「やめ――!」
「うぜぇ」

転移を行おうと必死にのばした手が、蹴り飛ばされる。
銛を持った右腕を振り上げ、ギラつく紅い眼光が黒子を見下ろした。

「俺を叱ってくれる人を奪っておいて、『人間(テメー)』なんかに今さら説教されたかねぇんだよ」

言い終わると同時。
黒子の内側を、ずしりと何かが穴をあけて貫いた。
何が起こったのかを最初は認識できずに、
しかし、脇腹のあたりに『返し』のようなギザギザしたものが引っかかったことと、その下の地面に何かが刺さった感触を知覚して。



あ、貫通している……と思って。
次の一瞬で、焼けるような熱が思考を埋め尽くした。



「あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛――――!」



――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!



止めなければと、動かなければと分かっているのに、ぴくりと震えるだけで内蔵が引っかかれ、能力を奪う。
灼熱が意識を遠のかせて、届けたいはずの声を発生できなくさせる。
立ち塞がらなければいけないのに、悪魔から七原を庇わなくてはいけないのに、



「残念だな。テメー『は』もう、狙ってやらねぇ」



その言葉に、一撃で殺されなかった理由を悟る。
その悪魔は、どうすれば人間が苦しむのかを知っていたのだ。




衝撃は脳天を揺らし、七原を床へと倒した。

「いっ……てぇ」

しかし、その痛みに屈するような七原ではない。
桐山和雄に襲われて、全身にマシンガンの弾を浴びたこともあったのだ。
その時の傷に比べたら大したことはないと、七原は身を起こす。
おそらく襲撃にかかる前に、悪魔は黒子にとどめを刺しているだろう。
その間に、どれだけ遠ざかれるかが生死をわけ――



(……見えない?)



目を開けているのに、視界が真っ黒に閉ざされていた。
かろうじてチラチラと認識できる自身の体も、輪郭が二重三重にぼやけて写る。
何が起こったのか、わけが分からずに床を手探りする。
しかし、すぐに思い出した。
さっきの一撃を受けた時に感じた、脳天が揺さぶられる感覚を。
だから、否応にも理解させられる。
それは頭部を打ったことからくる、一時的な視力の喪失だと。
顔から、ざっと血の気が引いた。

「見ーつけた」

窓辺から、声とともに窓を開け閉めする音がした。
まさか、跳躍することで、二階へと登ってきたのか。
ガラガラと床に何かを引きずるような音は、銃弾を弾く時に遣った銛か、それとも似たような形の武器か。
もう片方の手にはラケットがあることを示すように、ブンと素振りの音を鳴らす。
見えないのに、その悪魔が口の裂けるような笑みを浮かべていることがはっきりと認識できるようで。

『死』の質感をもった絶望が、七原に覆いかぶさろうとしていた。




危険を感じたら逃げろと言われた船見結衣と竜宮レナは、しかしそれを実行できずにいた。

「逃げないなら選択肢はひとつしかないんだけど、それはわかるよね」
「うん」

半日をともに過ごしたパートナーと、二人は互いに頷きを交わす。

ちなみにテンコは彼女たちよりも『大人寄りの判断』で逃げることを主張したのだが、竜宮レナの手で強引にディパックへとしまいこまれている。
テンコの所有権はあくまで――『友達』に所有権が発生するかはともかくとして――植木耕助という少年にあるからだ。
決断しようとしている選択肢がどう転んでも、『植木と再会するまでは死ねない』という都合をかかえているテンコは巻き込めなかった。

そして二人は、決断する前に前提を確認していく。

「まず、さっきの音を出した侵入者は、まだ捕まってない。そして二人ともピンチになってるっぽい」
「うん、迎撃に成功してたなら余計な心配だけど、こんなに長い時間戻ってこないからには、ね」
「助けるとしたら、二人とも、だよね?」
「うん……襲ってきた側の人も止めたくはあるけど。まずは救出かな」
「七原さんも含めるのは、『輪の中』からハズしたくないから?」

肉じゃがを作っている時に持ち出された例え話を引っ張り出して、再確認する。

「それもあるよ。でも、それだけじゃなくて……思い出したことがあるから、かな」
「前世の話?」
「うん」

もはやレナの顔に、涙の跡はない。

「泣いてる人を泣き止ませたくて、手をのばしたことがあったの。
『私を信じて』って、それだけ伝えたかったのに言えなかった。
嘘みたいなお話だけど、苦しかったのも、悔しかったのも覚えてる。
だから私は、もう見逃していきたくない。誰かを一人にしたくない」

船見結衣は、レナのいう『前世』で何が起こったのかを知らない。
けれど、その言葉がまぎれもなくレナの内側から出てきた結論だということは伝わる。
だから、自分はどうなのだろうと顧みていた。

七原秋也には、冷水を浴びせるような言葉ばかりをかけられてきた。
むしろ、今でも腹ただしいヤツという認識さえある。
それでも。
竜宮レナの、一緒に休もうという申し出に頷いたことを覚えている。
船見結衣が謝ったときに、『気にしちゃいないよ』と言われたことを覚えている。
肉じゃがをかきこんで気絶した白井黒子に、毛布をかけてやっていたことを覚えている。
メイドの格好をした黒子をレナたちといっしょに弄りまわして、笑っていたことを覚えている。

そしてレナの推理から、知ってしまった。
あんなに頑なでひねくれた態度しか見せてこなかった七原秋也だって、最初は『一人でいたくない』と思っていた時期があったことを。

もし七原秋也が、『帰る』ための場所などないと思いつめているならば。
誰にだってあるはずの『帰る』場所がないというなら。

――あの革命家を助けようとする者は、いるのだろうか。

そんな自問を、船見結衣は声に出して自答する。

「わたしは……七原さんを助けたい」

頷いて、笑顔を見せ合い、想いをひとつにした。
起こるかもしれない惨劇を、回避するために。

「……って、決めたはいいけど、どうしよう」
「戦況が把握できてないのが、難しいところだよね」

現在、二人のいるフロアでは窓から外を見渡せない。
どうやら海洋生物の研究を中心とした一角だったらしく、ほとんどの部屋に大きな水槽と、シャッターのように固く閉ざされた雨戸があった。
戦闘音は、電柱でも倒れたかのような地響きが聞こえてきてからは届かない。

せっかく決意を固めたのに、これなら振り出しと同じだ。
焦れた思考は、殺し合いが始まったばかりの時を思い出していた。
秋瀬或と出会った時。まだ何も分からなかった時。

――せめて最後に一つ、アドバイスを送ろう。分らないときはまず手元を見るといい。

ぽわりと泡のように、そんな言葉が記憶から蘇った。

「分からない時は……まず、手元を見るんだよね」

視線は床に置かれた、支給品のディパックへと向く。
レナの荷物と、結衣の荷物と、黒子が残していったディパックもそこにある。
二人は立ち上がり、それを漁りに向かっていた。
どんな支給品が入っているかは情報交換で確認したけれど、それがこの局面で役に立つかは分からない。
それでもレナは、黒子のディパックからまずそれを引き当てていた。

それは、竜宮レナにとって、決意を思い出させる道具だ。
秋瀬或に尋ねられて答えた、竜宮レナの初心を。

「私は、私が正しいって思えることをしたい。誰かを助けたい」

そのボイスレコーダーは、『正義日記』と呼ばれていた。




悪魔は、七原を甚振りにかかっていた。

「ヒャッヒャッヒャッヒャッ! まーだ逃げるのかよ! 見えないのによくやるねぇ!」

目が見えないまま、それでも廊下を走り続ける七原へと、一方的に瓦礫のサーブを浴びせかけ、血を降らせていた。

「ちくしょ……どんだけ瓦礫の備蓄があるんだよっ……」

方向感覚さえつかめないまま、それでも記憶を頼りに裏口へと走り、背中に瓦礫が直撃して、前方に吹き飛ばされる。

(死んで、たまるかよ……!)

息を切らし、手をついて、立ち上がろうとしたところを石礫がその手に直撃する。
秋也はうめき声をあげて、再び伏した。
正確に狙いをつけてうちこんでいるとしか思えなかった。
悪魔は明らかに、秋也が倒れる様を見て楽しんでいる。

(悪趣味な野郎だぜ……無駄な嗜虐趣味が無かっただけ、桐山の方がまだマシかもな……クソ、痛ぇ)

鉄の弾丸でさえない石礫なのに、全身がショットガンでも叩き込まれたように痛かった。
血で湿った手をのばして這い、手探りで階段を見つけて、そこから一階へと転がるように落ちる。

(……そのおかげで、かろうじて生きてはいるけどな)

打ち付ける全身を背中のディパックでかばいながら、踊り場で停止。
もちろん、のんきに「これでちょっとは距離が開いた」と喜ぶわけにはいかなかったが。

「おいおい、自滅か? それとも何か? このまま出口まで逃げ切るつもりなワケ?」

段上から、嘲笑を含んだ問いかけが投げられる。
ああ、できればね。
七原はそう思ったが、代わりに挑発する言葉を吐いた。

「まっさか……俺は、そこまで非現実的なことを考えちゃいないよ。
死人が生き返るとかアホな夢を信じこんでる、どっかの誰かさんと違ってな」
「テメェ……今なんつった」

会話を続けさせて、声を聞き取ることで正確な位置取りを知るために。

「言葉どおりの意味さ。白井との話は聞かせてもらったぜ。
バカのひとつ覚えみたいに『返せ返せ返せ』って、おもちゃを取り上げられた餓鬼かっつーの。
あたたかいお家に帰れないって泣いてる迷子は、迷子らしくへたりこんでりゃいいんだよ」

ついでに冷静さでも奪えたりすれば、上々だ。
返せ返せ返せと、過去に向かって叫ぶしかできない亡者なんかに。
前を向いて歩み続けている『革命家』が、倒されたりしてはならない。

「おい『人間』…………黙れよ」

怒気を宿した声で、悪魔がコツリコツリと階段を降りてくる。
目が見えなくとも、声が、音が、ゆっくりと接近するのが分かる。
七原は起き上がる動作を装って、さりげなくディパックの肩紐を肩から外した。

「黙らないね。はっきり言ってやろうか。
テメーは弱い。こんなに無様に這いつくばってる俺なんかより、ずっと弱いんだ。
俺は帰る家がなくたって戦える。一人っきりになったって、戦えるんだからな」
「黙れよ!!」

口を動かしながら、手を動かす。床に手をつく振りをして、右手の指先をディパックに差し入れた。
コツリコツリと、足音は大きくなっている。
踊り場に到達するまでに、あと数段もないだろう。
だから、

「……だから、アイツらの無念を晴らすまで死ねないんだ!」

だから、仕掛ける。
ディパックから引っ張り出したスモークグレネードを、床に叩きつけた。

「何だぁっ!?」

煙は一瞬で充満して、踊り場を白く満たす。
七原にはその白煙が見えなかったけれど、同時に『相手も見えない』状態には持ち込めた。
そして七原は、悪魔がいるおよその位置を正しく認識している。

「終わりだ!!」

なればこそ、続けざまにレミントンM31RSを取り出して、引き金に指をかけたのだ。
レミントンは散弾銃であり、発射するのは弾丸のシャワー。
つまり、およその位置さえわかれば、こんなに近ければ、狙いをつけずとも命中する。

迷わず、ためらわずトリガーを引く。
レミントンM31RSが、吠えた。

破裂音と同時に、踊り場が硝煙で満たされる。

「どーだ……俺は、強い、だろ」

撃ち終わり、背中からどっと汗が噴き出す。
どくどくと鼓動を加速させたまま、悪魔がどさりと倒れる音を聞くために耳をすませた。



「誰が、強いって?」



声は、天井近くから降ってきた。
背中がぞわりと冷える。

上空から叩きつけるようにラケットが振り下ろされ、七原の肩をたやすく薙ぎ払った。

「ごっ……」

弾丸のシャワーを、真上に跳ばれて回避された。
七原がそう認識した頃には、もうその身は一階へと投げ出されている。
無重力が体に襲い掛かり、続けざまにゴロゴロと階段に全身を打ち付け、落下する。

「ぐっ……あ゛ぁっ」

どうして。
見えないのに、なぜ正確に把握できた。
問いかけずとも、そんな疑問を予測したのか。
悪魔は嘲笑い、声を張り上げる。



「見えなくたって……気配で分かるに決まってんだろうが!!」



視界が奪われていても、気配だけでボールを探り当ててプレイを可能とするテニスプレイヤーがいる。

もちろん、本来はごく一部の、極端な感覚に特化したプレイヤーでなければできないことだ。
しかし、こと『気配』という観点から言うならば。
悪魔のそれは、殺し合いで磨かれてきた。

手には凶器を持って、夜の荒野で支給品の灯りにも頼らずに獲物を探していたこと。
出会った人間は、凄惨に壊された死体か、放っておいても害をなす標的かのどちらかで。
つまり、彼にとっては恐怖や警戒を強いられるモノばかりだった。
人類への憎悪を芽生えさせてからは、『人間』の気配そのものに対して過敏になった。
ホームセンターで見せられた地獄の映像が、『人間』のありのままだと理解したからには、この世界では潰すか潰されるかの、どちらかしかない。
ならばいたるところに『地獄』が転がっているはずだと、全神経をはりつめていた。
ホテルを去ってからは実体を持たない『亡霊』の声を聴き続け、いもしない幻影を見逃すまいと視線をぎらつかせていた。
心の傷は悪魔の精神をひどく抉っていたけれど、限界まで神経を砥ぎ澄ませてもいた。

今の悪魔には、見えている。
七原秋也の姿を、はっきりと捉えている。

「俺より強い? 一人でも生きていける?
偉そうなこと、言ってんじゃねぇよ!!」

尽きることない礫の弾丸をディパックから取り出し、雨霰と七原に連打する。
七原の額が、背中が、膝が、えぐられ血に汚れていった。
血が流れていく。意識が飛びかける。
気を喪うまいとしている七原に、悪魔はその言葉を叫んでいた。



「『人間(テメェ)』がそんなこと、言える立場かよ!
殺し合いをやって、身内を殺してきたくせに!」



七原から、すべての思考が吹き飛んだ。

(ぇ……今、なんて?)

その悪魔は、言ったのだから。
七原秋也は、身内を死なせて、生き延びたのだと。

神視点を介入させるならば、それはただの言葉のアヤだった。
『黒の章』を見た悪魔にとって、『人間』とは皆ひと括りなのだから。
悪魔にとっては、真田弦一郎を殺した犯人も、白井黒子も、七原秋也も、対主催派もマーダーも、すべての『人間』が同類であり、仲間の仇でしかない。
『殺し合いをやった』というのも、現在進行形のゲームを指しているにすぎない。
『身内』だってクラスメイトではなく、今回のゲームの参加者という意味でしかない。
だからこれは、『真田副部長の仇が、ぬけぬけと生きていく宣言をしている』ことに対する怒りの発露でしかなく。

しかし、七原にそんなことが想像できるはずがない。

「殺しあえって命令されただけで、簡単に殺し合いに乗ったのは!
殺すつもりなんて無かったのに、襲いかかってきたのは!
仲間がすぐ近くにいたのに、見殺しにしやがったのは!
全部、全部、テメーらがやったことだろうが!!」

何故、知っている。
白井黒子の持っていたような支給品が、そうそう手に入るはずもないに。
どうして、知ったように語ることができる。
どうして、『簡単に殺し合いに乗った』なんて、クラスメイトを貶める。

(こいつ……もしかして、典子に会ったのか!?)

情報源になるとすれば、ともにプログラムの終わりを見届けた中川典子しかいなかった。
だから悪魔の言葉にだって、耳を傾けてしまう。
そして、悪魔は叫んだ。

七原秋也の矜持を、踏みにじる言葉を。



「テメーも! その仲間も! 平気で人を裏切るクズばっかりだ!!」



ブッツリと、『革命家』は理性が切れる音を聞いた。



それまで、どれほど宗屋ヒデヨシや白井黒子や竜宮レナたちから否定されても、
ヒデヨシや船見結衣から人の気持ちがわからないと罵倒されても、微塵も揺らがなかったのに。

答えは簡単。
それらの矛先はすべて『七原秋也』に向いていて、『クラスメイト』には向かなかったからだ。





「俺の仲間を、否定すんじゃねぇよ!!」





叫び返していた。
クールになることが、できなかった。
七原には、『革命』しか残されていないのだから。
クラスメイトの無念こそが『革命家』を形づくり、
死んでいった仲間たちの精一杯がんばった結果を無碍にしないことで、支えられていたのだから。

七原は、気づけない。
どうしてこれほどに、激情を抑えられないでいるのか。
たとえ世界中の人間から愚かだと言われても、仲間を誇りに思う気持ちは揺るがないというのに。
死んでいった者達に中傷を受けて、その痛みを持て余すことしかできない。

それは、たった一つのシンプルな理由であり、傷跡。
理想を信じられない七原に、だからこそ耐えられない現実があったということ。

もちろん、誰もいない喫煙所で『革命家』として叫んでいた決意に、一切の嘘偽りはなかった。
たんなる『表』と『裏』の話である。
慶時を無情に殺された怒りが。
三村達が知らない所で死んだ理不尽が。
川田が自分達を護って死んだ後悔が。
典子を護り切れなかった絶望が。
そのほかの、己自身を許さないために背負っているすべての重みが。
『痛みと向き合って決意したことであるがゆえに、しっかりと七原の一部になっていたもの』だとすれば。

これから述べることは、『目につかないほど小さな傷だったけれど、向き合ってこなかった』からこそ。
癒されない傷となって、本人も気づかないまま膿んでいたことだ。
それは革命家らしかぬ、考えるだけ停滞にしかならないことだったから。
後ろ向きで陰湿で、まったくクールではなく、ちっとも必要さを感じられず。
それでも吐き出してしまうなら、こういうこと。


◇  ◆  ◇  ◆  ◇


――前のプログラムは一回目の放送で少なくとも二桁は呼ばれたし、狂っちまったり、シラフのままに殺して回るクラスメートも少なくはなかった。

桐山にも言ったことだが、俺の知っている『殺し合い』ってのは、そういうものだった。

――私はこのゲームの主催者を殺さずに捕まえるべきだと思います。他者を害する者も含めて殺さずに然るべき所で裁かれるべきです

――そっか……よかったよぉ~。結衣ちゃんが無事で。

――わ、私が撃たないって……そう、思ってるの……!?
――ちょっと違うかな。度胸がないとか、そういう話じゃないよ。
だって、私は『信じたい』。結衣ちゃんの事、友達だって思ってるから

そうだな。あんたらは正しくて、人を信じることができて、心がきれいだよ。
お前らみたいな連中ばかりなら、どんなに良かったかと思うさ。
でも、それはあくまで『理想論』だ。
俺がなりたかったもので、それでも、なろうとしちゃいけないものだ。
なれない方が当たり前。あんたらのやり方で万事が上手くいくはずがない。

俺は、『ハッピーエンド』を信じちゃいけない。
だって、さ。
そうじゃなかったら。


――みんなよく考えろ……俺たち、仲間だぞ! 殺し合いなんてできるわけないじゃないか!


――あいつがあんなやつだとは思わなかった。自分が生き残るためにみんなを殺そうとするなんてな。このゲームのルールなら俺も分かってるよ。だけど、本当にやる奴がいるなんて、俺は思わなかった。


――川田、誰かを信じるっていうのは――難しいな。
――そうだな。難しい。とても。


みんな仲間だと思っていたのに、蓋を開けてみれば『信じる』だけのことがあまりにも難しかったクラスメイトたちは。
桐山という殺人マシンが殺した数を例外として差し引いたって、とうてい『殺戮し合った』という結果はごまかせないあの死亡者は。
プログラムが起こるまでは、まぎれもなく七原秋也にとっての『日常』で、不良や非行少女はいたし、いじめられっ子もいたけれど、そこそこ良いクラスだったはずの仲間は。
七原秋也の、しあわせだった日常は。

川田が、『容赦なくやれ』と諭してくれたことを。
三村が、友人と合流できたにも関わらずに死んでしまった失敗を。
女の子たちが、ささいな誤解から疑心暗鬼に囚われて殺し合ったことを。
クラスメイトが、拡声器で呼びかける少女たちを誰も助けにいかなかったことを。

アイツらを、『間違ってた』なんて、言わないでくれよ。


◇  ◆  ◇  ◆  ◇


最終更新:2021年09月09日 20:02