序章.ある者による独白


『彼は,唐突に声を失った.
原因は今のところ分からない.
ただ,彼はひとつの強い意志を心に
抱いていた.
その意志は,声にこそ出せなかった.
しかしひとびとは彼の主張に畏怖した.
彼の弁論術,行動学は,とても力強く,
そして,評価されなかった….
気高き意志をもつ者は,環境によって
不当な扱いを受けることがある.
彼がその一例だった.当時の社会は,
動乱の時期にあり,混沌としていたのだ.
彼が生きた時代は,残念ながら対応は良くなく,
真実の意味すらも見出されなかった.
ただただ時のもくずとなって人類の歴史に
刻みこまれることはなかったのである.
彼の功績が語り継がれるようになったのは,
数世紀程の時間を要したという.
まるで,死後にノーベル賞を受けても
申し分のない,近代以前の科学者のように.
彼の名は,ラム・サルーインといった.
真実を探求する力と自身が提唱したものは,
新世紀の人類にとって重宝された.
彼には先見の才があったのだ.
しかし失声するほどの病に侵されたラムは,
自身のことをのどなしと呼んでいたという.
それは,当時にひとびとが作った話なのか,
それとも本当に自身のことを皮肉したのか?
私が持っている,かの著書―――,
【コスモポリタン】
は,いまを生きるための処世術になっている.
相応の価値は,充分すぎるほど.
私には,その本を読み解く義務があった.
のどなしの彼にできたことは,言葉を用いずに
相手の心を汲めることであった.
私はそんな彼を非常に尊敬している.
"【コスモポリタン】は,数世紀経っても
色あせない,未来を生きる上での伴侶である"
こう評したのは,正しくいまの科学者であり,
そして現代社会のひとびとであった』

バリナ・ビーチを口に含む.その夜,
私は【コスモポリタン】を朗読しようとしていた.
"もう一度,彼の声を聴きたい"
そう思わずにはいられない.
失声症の彼は,一体どのような人生を
送ったのだろう?彼方のひとになった
彼を思うに,不遇のハンディを抱えることを
想像してみる.
さぁ,今から語りましょう.
市井の,そして後の世の民にのみ好評を呼ぶ,
愛しき気象学者こそ―――
ラム・サルーインの半生を.

一章.ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった


空が全ての始まりだった.
心を痛めた時に,私はよく空をみていたものだ.
夏の日の入道雲.月が浮かぶ夜空.
空は,いつでも私の相談相手だった.
あの頃,私は友が少なく孤独だった.
ガラス越しに月の映える夜空を見ては,
毎日のように枕を濡らしたり,
死ぬことばかりを考えていた.
私が思い出すことのできる最初の記憶は,
夕焼け空に映える赤,だった.


あの日,夕焼け空の下で,私は泣いていた.
母が,私のおもちゃをゴミ箱に捨てるところを
目の当たりにしたからだ.それからは,夕焼け
空は私のトラウマだった.
いつとも終わらない日没の日々.
人生が始まったばかりだというのに,私の心は,
死に没していた….幼き日々はもう終わって
久しいが,私は空に希望を持つことができなかった.
空は私のなぐさみものだったのかもしれない.



全ての思い出は空に返して.私は新しい道へ入った.
高等学校に入学し,私の空に対する思いは一変した.
というのも,一人の女性に恋い焦がれたからだ.彼女は,
天からの使いのような美しさに富んでいた.
まるで夕焼け空に燃えるような赤,強烈な刺激だった.
彼女の名前は,アンセーヌといった.
初恋にしては…いや,初恋だからこそ,情熱があり,
そして性的な思いがあった.
普通の高校生がするような行為をした.しかし私は
あくまで好意で行為をしていた.言葉遊びではない.
私は自分の慰めかたを学んだ.アンセーヌを思い,
何度も彼女を強く抱く妄想をかきたてていた.
しかし,悲劇はまたもややって来た.
あまりにも美しいアンセーヌは,その美貌ゆえに,
悪い虫に犯された.私は悪い虫を憎んだ.
悪い虫は,何も知らぬ顔で淡々と生きていた.
私は自分を抑えきれなかった.何度も滂沱した.
アンセーヌを失い,私は生きるすべもなくした.
生きるとはどういうことか,分からなくなった.

ある夜のこと.生きているのだか
死んでいるのだか分からない夢のはざまで,
声が聞こえた.
「実に虚しい」
あまりにも明瞭な声に聞こえたので,私ははたと起きた.
だれだ?私は思った.ひょっとして悪い虫か,とも
考えた.「君は,悪い虫に食べられた夢をみている」
ああ,確かにそうかもしれない.
「ヨーク公のことを知っているかね?」いきなりの
問いに,私は錯綜した.ヨーク公?
「ああ,そうだ.全てを照らす,ヨーク公リチャード」
なんだ?世界史の勉強なんて,まっぴらだ.
「世界史なんて,暗記すればいいと思っているのか?
ヒトの歴史,世界は,暗記でどうかできるものじゃない」
何を言っているんだ…?
「そう思うことだろう.君は一度,死んだほうがいいな」
どういう意味だ….
「そのままの意味さ.君はやり直すことができる」
やり直す…?何をだ?

「『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』.
覚えておくといい.暗記はしようとはするなよ」
私は今度こそ目を覚ました.
あの声の主はだれなのだろう?そう思った.
『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』
心のなかで呟いた.確かな,記憶だった.
翌日,高等学校で世界史の先生に私は尋ねた.
「『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』?
それは,物理の先生に聞いてみなさい」
なぜ,物理?つながりが分からなかった.


私のなかのアンセーヌは,まだ生きている.
あの美しい髪.ポニーテールがよく似合うひとだ.
席替えで隣の席になったことがあった.

試験中,彼女は物腰柔らかに「Σ」を書いた.
この頃から,関数の級数展開を知っていて….
なんて美しいシグマなんだろう.そう思った.
私はそういった彼女のところも大好きだった.
倫理の試験中に,余った時間と空白部分を使って,
彼女が解きほぐした数式をチラ見したことがある.
本当にチラッとだった.
こんな感じに.
アンセーヌの風は,いまでも私のなかで吹いている.
私は,確かに恋をした.雨のような涙が出てきて
たまらない.私は,確かに彼女に,恋をしたのだ.
その恋が,私のなかで唯一の青春の思い出だった.
ありがとうアンセーヌ.ぼくはしあわせだった….



私は,高校卒業後,イムペリアル大学に志望した.
専攻は宇宙物理だった.あの声のひと….
「ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった」と
言ったあのひとに導かれたように「そう」なった.
世界史の先生ではなく物理の先生が教えてくれた,
その言葉の意味は,ずっと私の心をとらえ離さない.
私の「空」に対する気持ちは一変した.

"空はどうして青いのだろう?"
アンセーヌのことをしまい,心に余裕ができた時に
ふと頭をよぎった疑問だった.それを機に,私は
空に恋い焦がれていった.
澄みきった空,空気は無色透明で,その集まりで
あるはずの空がどうして青いのか.
そう思った.成人に近づいていくほど,その
「どうして」という気持ちが強まっていった.
あの日の思い出も私はいつの間にか克服していた.
ただただ夕焼け空は「どうして」赤いのか?
私は「それよりも高い空」への関心も高まった.
つまり,宇宙への興味を持ったのだ.
宙が全ての始まりだった.私は宙を畏怖していた.
イムペリアル大学は,宙へ興味を持つ者の探究心を
促進して招き入れた.学問に,傾倒した.
そして,入学試験に失敗した.合格できなかった.
志望は失望へと変わり,再び空は私にとっての
トラウマとなった.失意のどん底で,暗黒の,
色のない世界を彷徨っていた.私は独りで,
辛い想いをしなければならなかった.
そう,「しなければなかった」のである.



親の庇護から離れ,社会へ追い出された私は,
土木工事のアルバイトをして,なんとか生計を
立てていた.激しく体力を消費する仕事だった.
それも,色々な意味で.
当時の最高階級の学部は,宇宙物理だった.
最低階級の学部は,土木だった.ある日,
私を雇っていたひとと酒を飲み交わしてた時の
ことだった.
「最低でも良いから,もう一度,
夢を叶えてみせろ.俺も頑張るから」
それが,一番の友だちからの励ましだった.
私は,もう一度立ち上がった.
最低でもいい.とにかく目指す気持ちを持って
いれば,必ず達成できる.そう信じ,私は
イムペリアル大学理工学部土木科に進んだ.
そこで出会ったのは,「流」だった.
流(「ながれ」,と呼ぶらしい)は,私の大学で
できた友人だった.流は言った.
「それで,君の疑問は解けたのかい」
「ああ,高校時代に言われたあの言葉か」
あの言葉….
『ヨーク公リチャードの攻撃は虚しかった』.
幸いなことに,私の高等学校の物理の先生は
博識だった.
「サルーイン君,それを英語にしてみてごらんよ」
「英語に…ですか」
「そう.君は色々な言語に精通しているだろう」
「…まあ,自信はないですけどね.
"Richard Of York
Gave Battle In Vain."
これで合っていますか?」
「そう.それで頭文字をとる」
「頭文字ですか?ええっと…
R O Y G B I V ,ですね」
… … …
流は答える.「ああ,なるほど
可視光の覚え方か」
「そうだ.
R O Y G B I V.
赤,橙,黄,緑,青,藍,紫,だ.
「いま僕たちが学んでいるもの,そのものだろう」
数学好きの流は得意げに言った.土木科に
電磁気学は必須科目ではなかった.しかし,
「空の青い理由」の説明には必須だったのだ.
「空がどうして青いのか?」
この問に答えるためには,長い時間がかかった.
「レイリー散乱」,「ミー散乱」.
これは覚えた方がよいと,流は話した.

二章.空を見上げて


流と出会って,3ヶ月が経った.
彼と私は,学生食堂でよく議論したものだ.
「しかし電磁気学とはな.土木科なのに,
君も物好きなことだね」
私は返した.「流,自分の興味のある
学問を学んでなにか悪いのか?おれは
空が青い理由を知りたいだけなんだ」
「まあ」流は言った.
「確かに,電磁波について
学ぶことは重要だ.電気と磁石を調べる
ためには.土木科も必須にしてもいいかも」
流は宇宙物理を専攻していた.
彼は私の,憧れだった.流とは友人として
長く続けていけるだろうと考えた.
「おまえのほうは?」私は尋ねた.「僕のほう?
君の専攻しているものと対して変わらない」
自分のあだ名の通り,やはり「流れ」に
すごく熱心に勉学している.そんな雰囲気が
まじまじと見て取れる.流は唐突に言った.
「君に紹介したいひとがいるんだ」
紹介したいひと?私はそのまま疑問符をつけた.
「スカーレットという女性だ」
「可視光では波長が長いほうだ」
「星のスペクトル分類で言うと,早期型だね」
「さすがだな.なあ,宇宙物理は楽しいか?」
「楽しいよ.とても」
流は,腕時計に目をやった.
「そろそろ時間だ.じゃあ,また明日」
ひとりになって,色々と私は考えた.
空のこと.電磁気学のこと
(来週には参考書を読み終えるだろう).
そして,スカーレットのこと.
考えていて正解だった.私は土木科を無事卒業し,
空が青い理由も,きちんと理解した.
空が青いのは「レイリー散乱」のおかげ.
そして流の紹介でスカーレットと出会った.
スカーレットは私の予想通り,情熱的だった.
卒業しても行く当てのない私を,
いつも気にかけてくれた.
彼女は,私にとって「希望」の象徴だ.
「あなたは【そら】が
好きなのね.土木科では何を学んだの?」
出会って間もないころ,彼女は訊いてきた.
「水の流れについて学んだよ.
流れる水の中に,ひたすら円筒の模型を置いて
抵抗力を測っては考えてばかりいた」
「水だけ?」スカーレットは好奇心があった.
「ああ,空気の流れも研究していた」
「どんなの?」
「飛行機の翼についても,研究していたね.
あの翼ってさ.とても簡単な数学で
分かってしまう代物なんだ.
というか,数学の計算一つで,今の翼の形は
求められた.それをジューコフスキー変換と
言ってね…」
スカーレットは,私の長話を真剣に聴いていた.
「ねぇ,思ったんだけど」彼女は言った.
空気と水について詳しい私の道を,照らしたのだ.
将来へ迷っていた私を,落ち込みがちな私を.
「これからどんなことがあっても…」
私も真剣に聴いた.「優しいあなたに送るわ.
…どんなことがあっても,空を見上げて.
ね?私,あなたの支えになるから.
そして…夢を叶えて.大好きなあなたに」
「ありがとう.ぼくも君に送るよ」
スカーレットの心の脈動を感じた.
「これは…指輪?」「そうさ,君に」
「空のように,君を守ってみせる」
ハネムーンでは,コート・ダジュールへ行った.
ふたりで,ハンググライダーを体験した.
スカーレットは,はしゃいでいた.
普段の真剣な目が,安らいでいた.
飛び立って,何時間,何日,何年経ったろう.
私たちは空を渡り,人生を渡っていた.


片方が心に病むと,もう片方が尽くす.
ふたりが幸せになると,ふたりが幸せ.
ふたりが病めば,ふたりで乗り越える.
私たちは,ずっと一緒…だった.
あるとき,スカーレットが木に引っかかって
飛べなくなったことがあった.私は,
速やかに着地し,その木によじ登り,
彼女を探した.しかし,見当たらない.
わたしは段々と心細くなっていった.
そのような私を,後ろからぎゅっと
スカーレットがハグした.私たちはいつでも
ずっと一緒だからそんな寂しそうな顔しないで
私の夢.それは,
みんなが笑顔で生きていてくれれば,
それでいい.
それが,私の夢だ.
スカーレットは,やがて
何者かに連れ去られてしまった.
また悪い虫のせいか.私はそう思った.
悪い虫は,執拗に,私を食べていった.

三章.レッド・サイクロン


私は,独学で気象学…地球を取り巻く風と水に
ついて,必死に学んだ.彼女に会えると信じて.
「災害に遭ったひとのためにできること」
それは,ひとを佑ける心がないとできないこと.
私の国(畏国)では,国の気象に関した専門機関と
言えるものがなかった.
たまに隣の国(鶏国)から,二人の専門家が視察して
くるくらいだ.彼らの名を,ナギアとミツヨシと言った.
「サルーイン君.君の研究は素晴らしい」
ミツヨシは,どこか権威的だった.
「サルーイン君.君を認めよう」
ナギアも,どこか権威的だった.
私はイムペリアル大学から,鶏国にある,
ファイ研究所に異動した.


"コスモポリタン"
「地球市民」という意味だ.
当時の科学者たちがよく使っていた言葉だった.

そう….
「当時」のことを思い浮かべると,涙が出る.
私は,「当時」の科学者だった.
厳密に言うと,気象学者だった.
政府から多額の研究費をもらい,異常気象を
解明するのが我々の使命であり,存在意義だった.


「当時」の世界は,ひどく退廃していた.
年数を重ねるごとに上がる地球の平均気温.
それに反比例の如く減ってゆく子どもたち.

地球のほんの一部,表面で行われている
ひとの営みを見るに,争いごとが絶えなかった.
核兵器に,領有権,難民移住,テロリズム….
荒廃した大地の上で,我々は醜いことをしていた.
そこで我々科学者は立ちあがった.
【コスモポリタン】の提唱である.


【コスモポリタン】は元々,我々気象学者が
立ち上げた組織だった.【コスモポリタン】は,
WMO(世界気象機関)の認可が降り,晴れて
鶏国の気象専門機関となった.
私は,畏国にも気象専門機関を作りたかった.
ナギアとミツヨシは,鶏国から来た私の同僚だった.


「サルーイン君.君は一体何をしようと?」
ミツヨシは,唐突に私の目的に触れた.
「この星の運命に,意味を与えんとするのか?」
ナギアは,だいぶ後に私の目的に触れた.
思えば,この時から私は遥か向こうの世界に
いたのかもしれない.
スカーレット!君はいまどこにいるんだ?
私の本来の叫び声は,次第に遠ざかっていった.
私の同僚が,ナギアとミツヨシが殺された.
【コスモポリタン】内部でクーデターが
あったらしい.起こした者たちは,自分たち
のことを,【レッド・サイクロン】と名乗った.
私は役職を剥奪され,足が浮いたような
状況になった.まるでナヴィエ・ストークス方程式
を初めて目にした,流体力学の,初学者のように.

四章.とらわれし愛妻


思えば,その兆候はあった.
クーデターが起きる前に,確かに
不穏な空気は漂っていた.

ここで,話は現在に至る.私は,
雲塞【レッド・サイクロン】の中に入る前に,
しておくべきことがあった.まず,いま
直面している問題を明確にすべきだ.
何が,何をして,どうなったのか.
それを明確にすべきなのだ.いまこそ,
私は科学者である.

私は,状況を整理する.まず,
【コスモポリタン】という組織があった.
そして,クーデターが起こった.
同僚の,ナギアとミツヨシが殺された.
私は,考えた.

<サブシナリオ>

~ダランベールの背理~


そもそも【コスモポリタン】とは,一体
どんな組織だったのか.私は記憶の糸を
探っていった.

【コスモポリタン】は,もともとはといえば
異常気象の謎を解き明かすための
組織だったはずだ.「地球市民」としての
当然に思い当たる結論だったはずだ.
「協力し合い,地球を救う」
これが【コスモポリタン】の目的だったはずだ.
それがどうしてこんなことになってしまった
のだろう?この組織には,由来があった.
先人の導いた,とある方程式がある.
大陸派のナヴィエと,離島派のストークスが,
それぞれ独自に導いた,粘性流体の
運動方程式だ.
西暦1822年に,大陸派のナヴィエは,その
方程式に関する論文をフランスアカデミーに
提出した.ナヴィエはつり橋理論の
第一人者で,土木技術者だった.
つり橋自体は歴史が古いが,つり橋が,
応用力学の理論として扱われるようになるのは,
19世紀の始めの頃からであった.

つり橋は,長い距離を渡るのに最も適した
タイプの橋ではあるが,川の流れのなかに橋脚
を立てる必要がある.ナヴィエはこれを解決
するために,方程式を導いた.
しかし当時のフランス科学界は,
ナヴィエの論文を突っぱね,拒否した.
当時のフランスでは,技術者より数理物理学者
のほうが受け入れられていたのだ.
19世紀の数理物理学がめざましい発展を遂げた
理由は,ナポレオンが学者好きだったためだと
言われている.実際,無類の数理物理学者だった
フーリエを幕僚として戦地に同行させたくらいだ.
結局,後に離島派の数理物理学者ストークスが
数式を導き,そして粘性流体の理論が
築かれていった.

ふたりの名をとった,
ナヴィエ・ストークス方程式の答えは,
実は,こんにちの数学界での大問題であり,
まだ厳密な答えがみつかっていないのだ….
ナヴィエ・ストークス方程式は,外見は非常に
シンプルな方程式だ.だが,流体のみに限らず,
電気の粒の流れ,さらに株価の変動をも表す,
実に応用性のある方程式なのだ.
気象学でも,もちろん使われる.空気と水の
流れを調べるためだ.この方程式の特徴は,
かけ算,が含まれることにある.
つまり,かけてかけあわされる式なのだ.
【コスモポリタン】創設にあたって,
この方程式を由来にしたのは,
「お互いが手を取り合ってかけあう」ことを,
つまり,無償の愛を意味することによる.
私は,それを何よりも大事なこととした.
ヒトは,「迷惑をかける」と言うが,
迷惑を「かけあう」のが普通なことであり,
だからこそ助け合うことが重要だと思う.
なにか異論があって組織は壊れたのであろうが,
私はそうは思わない.というか思えない.
しかし,本当に起こった出来事をまず認めよう.

<ダランベールの背理>~終~

<サブシナリオ>

~ビャークネスの循環定理~


なぜクーデターが起きたのだろう?
ひとは原因をさぐる前に,結果を
きちんと把握しなければならない.
そう,「事態の明確化」だ.
いま一度,私は結果について熟慮
しなければならない.


古代の墓碑銘には,こんなことが
書かれている.
「私はかつてあなただった.
あなたはいずれ私になるだろう」
ここでの「私」は,埋葬された死者
のことであり,「あなた」とは,
いまこの文章を読んでいるひと,
つまり,生者のことを指す.
ナギアとミツヨシには,墓は
与えられなかった.どうやら
「異端者」とみなしたらしい.
私もそのひとりだと言うのに,だ.
初めて会った時のナギアとミツヨシは
とかく権威的だった.鶏国の政治的な
「しきたり」にはあまり関心がない.
だから,その態度には特に気にならなかった.
【コスモポリタン】創設時に,
ナヴィエ・ストークス方程式が由来に
挙げられる.それがまわりまわって
こうなったわけだが,ここは静観すべきだ.
「いま」の状況を把握しよう.
【コスモポリタン】は,私が提唱し,
成り立っていった組織だ.私の片腕だった
ナギアとミツヨシが殺された.
彼らを異端者とみなして殺したのであれば,
私も殺されてもかまわなかったはずだ.
しかし,「いま」,私は生きている.
誰が何をしてこんなことになったのか?
「クーデター」とは言うが,
その言葉を初めて見たのは,私がとっている
新聞の第一面からだった.新聞には,
こう書かれてあった.
『重役二名暗殺 【コスモポリタン】崩壊か
迷走する組織,回り続ける破綻,クーデター』


その見出しに驚いた.
なぜこんなことが.私はなぜ殺され
なかったのか.そう思った.

「迷走する」,「回り続ける破綻」?
そんなはずはない.組織は,きわめて
順調に機能していたはずだ.

事態が,一人歩きしている.私は考えた.
私ひとりをのどなしにして,世間は
うるさく,歌っているかのように見えた.
メディアは,いつも虚構しか伝えない.
ただ,事実だけを愛した.
ただ,私についてくる者が愛おしい.
そこには,生と死の『循環』はない.
全ての存在意義を,認め,愛するだけだ.
私は,真実だけを求めていた.
そこには見返りを求めない,
確かな「愛」が必要だった.

<ビャークネスの循環定理>~終~

<サブシナリオ>

~ダインズの補償~


なぜナギアとミツヨシが,殺されたのか.
いや….どうして彼らは,
殺されねばならなかったのか?
私ではなく,なぜ彼らが?
世の中には,「埋め合わせねば
ならないもの」がある.あるひとが
抜けたら,別の誰かがやって来る.
ここは私がきりあげる.きりあげられない.
少なくとも私は,鶏国の二人とは
そういう関係でありたいと思った.
だから余計に,彼らは何をきりあげ
られなかったかが気になる.
フィンランドには,ラテン語で
ニュースを発信する局がある.


ある休みの日に,私は壊れかけのラジオ
を直し,適当に周波数を定めた.
それは,ヌーンティウス,つまり,
「お知らせ」の周波数だった.
私は耳を澄ませた.
"今日は,ヒトである全てのあなたに
良いニュースと悪いニュースがあります"
私は,耳をそばだてた.
"ロシアの数学者ペレルマンが,
ポアンカレ予想を解決しました.しかし
彼はフィールズ賞授賞式を辞退し,
森に逃げてしまいました"
西暦2006年のことだった.世界中の
数学者が挑んだ最高の問題を解決し,
世界一の数学賞を辞退したのだ.

数学は,科学ではない.しかし,科学を
語るには,どうしても数学が必要だ.
ペレルマンにとって,「解決」という行為は,
「埋め合わせねばならないもの」だったのか?
だとしたら….ナギアとミツヨシが殺されたこと
を「解決」させることはどう補償される
べきだろう?私は,森に逃げたい気分だった.
ナヴィエ・ストークス方程式は,もう簡単には使えない.
<ダインズの補償>~終~

前編 完

最終更新:2017年11月01日 22:23