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すばらしい日々

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匿名ユーザー

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 青い空は嫌いだ。あの子を思い出すから。

 臆面もなく青く晴れ上がった空をみあげて、かがみは小さく舌打ち一つ。

 ――特にこんなに空気の澄んで、底の底までのぞき見えるような秋の空は最悪だ。

 そう、あの地平線の淡いから天に向けて濃くなるグラデーションの、丁度真ん中あたり。
 水色から群青に変わりゆく、宇宙の始まりの色。

 むかし、そんな色の髪をした女の子が隣にいたのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――
         す ば ら し い 日 々
――――――――――――――――――――――――――――――――――


 神辺駅で電車から降りれば、潮風が髪を揺らす。
 駅の東には神辺港が広がっていて、いましも大きな遊覧船がのんびりと就航しているところだった。遠くにかすむポートタワーは、相も変わらずパイプ構造のおかしな姿でちんまりと鎮座し、行き交う船を見下ろしている。
 ハーバーランドは今日も賑わっているようだった。海洋博物館に向かう親子連れの歓声が、遠くから聞こえてくる。

 海に背を向けてかがみは歩きだす。改札を抜け、北口を出ると、バスターミナルを通って湊河神社に入った。
 多少遠回りでも、彼女は毎朝かならず湊河神社の境内を通ることにしている。神社の掃き清められた静謐な空気の中にいると、実家の鷹宮神社を思いだして懐かしく感じるからだ。
 境内をでて橘通りに出ると、道の左側に神辺地方裁判所がみえてきた。
 赤煉瓦のファサードに、近代的なガラス張りのビルが増築されている、おかしな建物だ。

 そこが、かがみの今の職場だ。

 出勤してみると、新しく民事保全事件が二件振り分けられていた。抱えている合議事件も佳境に入っていて、少年事件の下調べにも向かわないとならない。今日も一日休まる暇もないな、とかがみは思った。

 判事補になってまだ二年。
 最近ようやく仕事内容にも慣れ、判例に対する考え方や、自我を通すべきところと通してはいけないところ、裁定を下す際の判断基準をどこにおくかなど、色々なことを自分なりに解釈できるようになってきた。
 それらは弁護士時代にはおぼろげに掴んでいた部分だったけれど、いざ自らが裁定を下す立場になると、また違った見え方をしてきたものだ。
 判事補としての経験はまだ浅いけれど、弁護士任官制度で裁判官に転職したかがみは、少しでも周りにおいつかないといけないと思っていた。経験不足のまま判事になってしまうことを、彼女はなにより恐れているのだった。
 自らの職能に疑問を抱きながら仕事を続けることの辛さを、彼女は身にしみて知っていたからだ。

 弁護士を辞めようと決断したときのことを、かがみは忘れたことがない。

 そのとき彼女は、婦女暴行犯の弁護をひきうけていた。
 斜視がちの、ひねこびた目をした男だった。
 自分の知り合いである女性をレイプした男だった。
 可能ならば断っていたところだったが、国選弁護人として指定されてしまったため、引き受けざるをえなかった。

 被告は強姦が合意だったのだと主張していた。が、被害女性が自ら告発をしている以上、それはありえない。
 彼女はその発言を撤回させ、性欲が強い被告にたいして女性が無防備に誘ったのだという論を展開した。
 その外見から周囲に排斥され、妄想癖と異様なフェティシズムに傾倒していった被告の半生を描き出し、そんな男性に性的魅力を発揮することで彼がどういう行動に及ぶか、女性にはわかっていたはずだと結論づけた。
 結果、減刑を勝ち取ることができた。

 公判が終わったあと、かがみは被害女性に呼び止められた。
 そのとき彼女にいわれた言葉は、いまでも一言一句にいたるまではっきりと覚えている。

 いっそのこと、ヒステリックに罵倒されたほうがましだと思った。

 いまでも、弱気になった夜にはふとそのときの場面が蘇る。
 そういう夜には自分の肩を抱き、まるで緊張病にかかった患者のように小さく丸まって、朝までやりすごすのだ。



 §

 結局、家に帰りついたのは、そろそろ日付が回ろうかという頃だった。
 それでも仕事が全部片付いているわけではなく、明日以降に繰り越す分を残してきていた。
 予想はついていたことだが、仕事ははかどらなかった。

 あの青空をみてしまったから。

 この十年間忘れようと努力し、半ばそれに成功しつつあった思い出だった。

 でも、思い出してしまった。あの空のせいで。

 何をしていても、青い髪の幻影がちらついて離れなかった。道行く女の子の着た青いオーバーオール。高い音で沸騰を知らせる青色のケトルの、そのけたたましさ。同僚の少し跳ねた髪の毛。

                 『かがみー!』

 そういって抱きついてくるあの声が、聞こえた気がした。

 ――今日はもう、何もしないで寝よう。

 ため息と共にそう思う。
 誰もいない部屋に入れば、センサーが関知して明かりが点る。風呂はいつもの時間に自動で沸いている。
 何もしなくても動く部屋。いつものルーチンワーク。この部屋は、私がいなくなってもなにも変わらず動いているのだろう。そうかがみは思う。

 湯船に身を横たえると、ちりちりと肌を刺す刺激に思わず深い吐息が漏れる。
 浴槽に頭をもたせかけて、何度か湯船に腕をくぐらせた。
 その肌にまとわりつく水滴をみて、かがみはもう自分が若くないことを実感するのだった。
 ――いつ頃からだろう、肌の張りの違いに気づきだしたのは。強くこするときに小さな小じわのよる肌をみながら、そんなことを考える。
 毎日お風呂にはいっていながら、それに気づかずにいられたのはなぜだろう。
 十代の頃はなにも気にしたことがなかった。こんな日々がずっと続くのだと思っていた。歳をとるなんてことは、死と同じようになにか遠くの世界のできごとだと思っていた。
 二十代の頃、そんなことを考える暇もなかった。ただ必死だった。常に自分の能力以上のものを求めてくる社会に、必死ですがりついていった。周りを見渡す余裕もなかった。

 やんわりとけぶる湯気に包まれながら、かがみは考える。

 ――あいつはどうなんだろう。いつも子どもみたいだったあいつ。
 あの子も、自分の歳を実感してたりするのだろうか。

 ねえ、結婚生活は幸せ? 子育ては大変? 相変わらず、アニメとか漫画とかばっかりみているの?

 ――もう、私のことは忘れたかしら?

 かがみはそう考えてどきっとする。
 もしあの子が私のことを忘れてくれていたなら――きっと会いにいっても平気だ。

 同じように青い髪をした子どもの手を引いて買い物にでるあの子。胸を弾ませながら何度も何度もかよった、あの大きな家の前で。私はふと通りがかったふりをする。なんでもないように会釈をして、『いい天気ですね』と声をかける。そうするとあの子も、あの頃の笑顔のままで『ええ、本当に』と返すのだ。
 その妄想はあまりにも甘美すぎて、かがみは何かに撃ち抜かれたように痺れて動けなくなった。

 ――忘れていて欲しい。私のことなんて、全部。

 かがみは祈るようにそう思い――そうして、あの日のことを思い出している。


「もう二度とあんたとは会わない」
 かがみはそういった。
 いわれたその子の表情は、彼女がいままで一度もみたことがないものだった。あのエメラルドグリーンの瞳があんな風に憂いをたたえて濡れることがあるなんて、かがみには思いもよらないことだった。
 その子はふらふらとした動きですがりついてきた。その暖かいぬくもりに、肌を重ねたときの感触が蘇り、少しふるえた。
 かがみは微動だにしなかった。
 貧血のときのように視界が狭くすぼまり、全ての動きがスローモーションになる。

 その子がそっと口づけをしてきたときも、かがみは動かなかった。唇を弄ばれるままにしていた。
 そっと唇を離したときも、吐息が首筋にかかって眩暈がしたときも、体を離したときの寒さに慄然としたときも。
 彼女は立像のように立ちつくしていた。

 「…わかった」
 その子は力なくそういって、去っていった。

 それが、その子の声を聞いた最後になった。


 ――ふう。
 ため息をついて湯船に沈む。息を吐くとぶくぶくと泡が立つ。子どもみたいにそれを繰りかえしている。
 いまでも間違ったことをしたとは思っていない。けれど正しいことをしたとも思わない。
 あの頃あの子は壊れかけていた。
 当時、あの子は日大で知り合ったという彼氏とつきあっていた。繊細で、感受性に溢れ、よく気が利く男の子。
 大学を出たら結婚しよう。そういわれたと、かがみに打ち明けた。

 彼氏のこと、好きなんでしょう?――だったら。
 彼女がそういうと、その子はうつむいたまま動かなくなった。

 かがみは卑怯なことをいっていると自覚していた。
 その頃二人は何度か肌を重ねていた。高校時代の戯れの延長のような、軽い愛撫。
 それがなにをもたらすか、考えもしなかった。なんの覚悟もできていなかった。ただ一緒にいるのが楽しくて、そういうことをしてもいいかな、と思った結果だった。
 そのつけが、あの拒絶へと繋がっていったのだ。
 絶対的で完全な拒絶――それ以外に、当時のかがみには解決法が思いつかなかった。

 女二人でどうやって生きていくことができるだろう。かがみはそのときそう思った。

 男が働いている間、女は家事をし、子どもを産む。男女共同参画社会基本法は随分昔に制定されたし、憲法二十四条からは“両性の”という記述が削除されたけれど、社会の基本は全く変わらない。子どもを産めるのが女だけである以上、そうした性役割分担はどうやっても残る。
 そして、この社会では結婚し子どもを持って始めて一人前と思われるのだ。
 それは生命を次代につなげるという生き物としての使命から考えるに、当然のことだとかがみも思った。
 けれど、では、女はどうすればいいのだろう。
 主婦という生き方も素晴らしいものだと思うけれど、それは彼女がしたい仕事ではなかったのだ。
 女がただ仕事を続けていくというだけで、社会の中で社会人として生きていこうとするだけで、こんなに後ろめたく思うのに――女二人でどうやって生きていくことができるだろう。

 だから彼女はその子を捨てた。
 あんな風に揺れ惑うその子をみていられなかったというのもある。
 真っ当に男と結婚をして、幸せになって欲しかったという思いももちろんある。
 けれどそれはどう取り繕っても自分自身のためだったと、かがみは思う。二十数年も生きていれば、マイノリティが気軽に蹂躙される場面は何度もみてきた。街中でも、テレビやインターネットの中でも、判例の中ですら。
 かがみは大学卒業後、わざわざ地方の法科大学院を選んで入院した。逃げるように家をでていった。
 それ以降、埼玉に足を踏み入れたことはない。
 両親には心から申し訳ないと思う。かがみのことを懸命に擁護してくれるつかさ夫妻にも頭が上がらない。

 二度と会わないと誓ったのだ。
 もし実家に戻って、なにかの拍子に顔を合わせてしまったら――たぶん私は壊れてしまう。

 だから、全てを忘れていて欲しかった。あの子がなにもかも忘れてしまえば、あの子の顔を見ることができる。話すことも、触れることも、もしかしたら最初からやり直すことも。
 もしそうできるなら、私はすぐにでも会いに行くのに。

 あの懐かしい、ひなたの匂いのする子のもとに。



 §

 半年が瞬く間にすぎた。
 光陰矢のごとしとはいうけれど、30を過ぎてからつとにそれを実感する。
 職場にいき、仕事をこなし、ふと一息つくともうその日が終わっている。
 時間は急流のように流れいく。
 さながら自分は水泡に翻弄される木の葉のようだ。かがみはそう思う。

 ――すばらしい日々だ 力あふれ 全てを捨ててボクは生きてる
  ――キミはボクを忘れるから そのころにはすぐにキミに会いに行ける

 出先でランチを摂りながら、かがみは口ずさむ。このところよく頭の中で流れる曲だった。昔のバンドの曲だったが、CMや映画などで使われたり、色々なミュージシャンにカバーされたりしていて、名曲だと認知されていた。

 ――なつかしい歌も笑い顔も 全てを捨ててボクは生きてる
  ――それでもキミを思い出せば そんなときは何もせずに眠る眠る

 その歌詞がかがみの心に突き刺さる。それはあの日お風呂場で感じた思いだ。
 会いにいける。キミがボクを忘れるなら。そう考えたとき、彼女は捨ててきたものの大きさに気づいてしまったのだ。

 でも、実際どうやって会いにいけるだろう。こんなに慌ただしい毎日のなか。
 かがみはそう思って苦笑する。


 石矢川駅で電車を降りて、石矢川公園沿いにあるく。
 東那田区と那田区の間を流れるこの小さな川の流域は、閑静な住宅街の佇まいをしている。
 葦屋と三ノ宮の間にぽかりと開いたエアポケットのような未開発地域だ。
 その、時代から忘れさられたような静謐さが、かがみは気に入っていた。

 公園に植えられた満開の桜並木が、怖いくらいに綺麗だった。
 雨のように舞い落ちる桜吹雪を浴びながら、かがみは帰宅の途についていた。
 今日は珍しく陽があるうちに帰ることができた。たまには手間のかかる料理でもして、秘蔵のワインも開けてしまおう。

 ――朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
  ――キミはボクを忘れるから そうすればもうすぐにキミに会いに行ける

 またあの歌を口ずさんで。自宅のあるマンションはもう目の前。

 そのとき、青色の幻影がかがみの視界に飛び込んできた。

 ピンク色をした桜のカーテンの向こう。マンションの前に佇んでいるその姿。

 目を疑った。なにかの錯覚かもしれない。そう思って瞬きを繰りかえすけれど、その像はいまだ明瞭にそこにある。
 かがみの体から力が抜け、持っていた食材の入ったビニール袋が地面に落ちる。
 ついに幻覚をみるようになってしまったのだろうか。
 かがみが正気を疑い始めたとき、荷物が落ちる音に気づいたか、その子がゆっくりと振り向いた。

 そうして、かがみをみて笑った。あの頃のままの笑顔だった。ひまわりのような、初夏の日差しのような、舞い散る桜のような、そんな笑顔だった。

「かがみ」

 笑いながら、いった。昔のままの発音で。
“み”が少し鼻にかかってともすれば“みん”になりそうになる。そんな呼び方で。
 思いだす。
 自分がどれだけこの子にそう呼ばれるのが好きだったのかを。甘えた口調でそう呼ばれただけで、どれだけ幸せになれたのかを。

「……こ……な……た……?」

 積み上げてきた世界が、がらがらと崩れ落ちる音がした。



 §

「わー、なんか凄いね、かがみお金もちだー」
 bruhlのソファーにちんまりと収まって、こなたがいう。
 応接間は、海外の高級ブランド家具でかためてあった。それはかがみの趣味ではなかったけれど、来客に自身の社会的地位をしらしめて信用をえるためには必要なことだった。

 一体どうやって部屋まで上げたのか、まるで覚えていない。
 気がつけばこなたがここにいた。夢のような非現実感。

「そのソファー、百五十万したのよ」
 そういうとこなたは「ひえぇ!」といって慌てて飛び上がった。
 その跳ねるような体の動きは高校時代と同じように溌剌としていて、年齢をみじんも感じさせなかった。

 ――なにいってるんだろう私。そんなことわざわざいうようなことかよ。十年ぶりに再会したこなたに。

 ああ、私は壊れかけている。かがみはそう思う。

 気がつけば、こなたの一挙手一投足を目で追っている。
 きょろきょろと動く、あのエメラルドグリーンの瞳。ティーカップを掴む小さな手。相変わらずの長い髪が身体の線に沿って流れ落ちるさま。少し大きくなった、胸のふくらみ。

 すこし、目元が優しくなっただろうか。
 あの無邪気でいたずらっぽい雰囲気が多少なりをひそめて、その分全てを受け入れるような優しさがでている気がする。
 母親になるというのは、こういうことなのだろうか。
 かがみはそう思って、女としての義務を果たしていない自分を後ろめたく感じた。

「かがみ、じろじろ見過ぎー」
 そういって照れながら上目遣いでつぶやくこなたに、かがみはどきっとして目をそらす。
「ばっ、ち、違うわよ、そんなつもりで見てたんじゃないってば!」
「えー? そんなつもりってどういうつもり?」
 こなたはニンマリと笑って口元に手を当てる。

 ――まるで、あの頃のままだ。
 かがみは苦笑する。

 本当に忘れていることを期待していたわけじゃない。あんなことが忘れられるはずがない。人間はそんなに都合良くはできていない。
 でもこれは――。
 こなたがいるだけで、あの頃のままになる。
 こなたが笑うだけで、あの頃の気持ちになる。
 こなたが喋るだけで、あの頃の私になる。

 まるで十年の時の流れなんて、なかったかのように。

 このまま、流されてしまえばいい。かがみの中で誰かが呟く。
 あんな別れなんてなかったようなふりをして、忘れたふりをしてこのまま、昔みたいに。
 その欲望はあまりにも甘く強く、つい受け入れてしまいそうになるけれど、かがみは懸命に自制する。

 そうやって流された結果が、あの別れに繋がったのではなかったか。

 向き合わないといけない、見据えないといけない。今ここにいるこなたを。

「なんで……あんなところにいたのよ」
 絞り出すように言葉を紡ぐ。なんて間抜けな質問だろう。
「やだなー、かがみに会いにきたに決まってるじゃん」
 当たり前だ。道に迷ってたまたま私のマンションの前にいたとでもいうのか。
「それは……わかってるわよ。でもなんでいきなり……。電話するとか、メールするとか、あるじゃないの。今日はたまたま定時に上がったからよかったけど……普通に泊ってたらっておもうとぞっとするわ」
「うん……。でも、電話でなに話せばいいかわからなかったし……。出てくれないかもって思ってね。会えばなんとかなるかなー、なんて」
 そういって寂しそうにほほえむ。ああ、あの笑顔だ。いつも私を殺していたあの笑顔。
 どんなに喧嘩をしたときでも、最後にこの子がこういう顔で微笑めば、いつでもすぐに許してしまうものだった。

「かなたちゃんは……どうしたの? まだ小学校前だよね。ってか旦那さんにいってあるのか?」
 かなたは、五年前にできたこなたの子だ。つかさがいつもの電話の最後に、ぽつりと教えてくれた。こなたに子どもができたって。
「ん、かなたはゆい姉さんのところに遊びにいかせてる。あそこのゆう君と仲いいんだよね、歳も近いし……」
 そういうとこなたはためらうように目を伏せる。
 やがて顔を上げると、かがみの方をじっとみつめてこういった。

 ――君とは、離婚したよ。



 §

 一瞬頭の中が真っ白になる。
「……え? 離婚……な、なんで? あんなに優しくていい人そうだったのに……」
 ――だから、この子を捨てることができたのだ。
 一緒にいてこの子が幸せになれないと思ったなら、私はあんなことはしなかっただろう。
「うん、――君のことは今でも好きだよ。十年一緒にいて、悪いところなんて一つも見あたらなかった。もっともっと好きになれたらよかったのに……。離婚したのは、全部わたしのわがまま」

 言葉もなく、うつむくこなたをただみつめるだけだった。
 離婚に関する民事保全なんて、それこそ数限りなくやってきたのに。仕事でならいくらでも声をかけることができるのに。どうしうてこういうときになにもいえないのだろう。

 うつむいたままのこなたが、ぽつりと呟く。
「あのね……お父さん……死んじゃったんだ」
「え……」
 寝耳に水の話だった。背筋につららを突き刺されたような衝撃を感じる。
「……うそ……つかさはそんなことなにも……」
「うん、いわないでっていっといた。わたしから伝えたいからって……」
「そっか……あのおじさんが……」
 すてきな人だった。
 かがみはそうじろうのことを思い出す。
 こなたと同じでオタクな所は困りものだったけれど、自分の人生を楽しんでいるのがわかって不快ではなかった。そしてたった一人で泉家を、こなたたちの家を支えていた。
 今になってみると、その凄さがわかる。自由業で、日々自らを律しながら平均を遙かに越える収入を稼ぎ、異性の子どもを育て上げる。それも、こなたのように他人に気をつかえる優しい子を。
 そんな人が亡くなるなんて。まだ六十前だったはずなのに。
「うん、半年前に。腎臓ガンだった。大きい仕事の追い込みでずっと気を張った生活してて、だるいのになかなか気づけなかったみたい。病院にいったときにはもう手遅れで……」

 悄然とするこなた。かがみも今まで沢山の人の死をみてきたけれど、これには堪えた。
 楽しかった高校時代。それを支えてくれた人の死は、楽園に差し込む影のようにかがみの心を覆っていった。
 こなたもさぞや私に伝えたかったことだろう。そう思うとかがみは慄然とする。
 あの青空をみてこなたを思い出したころ――あの時に会いに行っていたなら、そうじろうの死に目にも会えたかもしれない。落ち込むこなたをサポートできたかもしれなかった。

「それで――気づいちゃった。お父さんが死んで」

 こなたはぽつりぽつりと言葉を繋ぐ。

「わたし、お父さんにかなたを見せてあげたいだけのために、子ども作ったんだなぁって。お父さんに、もう大丈夫だよ、育ててくれてありがとうっていいたいためだけに、家庭を作ったんだって」

「……こなた?」

 泣いていた。その濡れた瞳はあの別れの日ともまた違っていた。深い悲しみのなかになにかの決意を感じられる複雑な色味をしていて。かがみはそこに、こなたの生きてきた人生の重みを感じるのだった。

「ずっとずっと、我慢してた。あの人に抱かれながら、なんか違うって思ってた。でも、あの人は求めてきてくれて、わたしも喜んで欲しかったから、それでもいいやって……」

「でも気づいちゃった。わたしが家庭を作って子どもを育てたかった理由。かがみより、あの人を選んだ理由……わたしが生まれたせいで、お父さんから一番大切な人を奪ってしまったことへの、罪滅ぼしだったってこと。でも、そんなお父さんももういなくって……」

「そう思ったら、もうあの人と一緒に暮らせないって思って……。違う人のことを想いながら、目的もなく普通の家族のふりをして暮らしていくことはもうできないって思ったから……」

 ――だから――そういってこなたは言葉を詰まらせる。
 次々と溢れる涙が頬を伝わって、顎から滴り落ちていく。
 嗚咽を抑え、肩をふるわせてむせび泣く。
 その小さな肩は歳月の重みと社会の大きさに、今にも押しつぶされそうにみえて。

 この肩を抱いてしまえばどうなることだろう。かがみの中の冷静な部分が考える。
 けれどもう、そんなことはどうでもよかった。
 今この子を抱きしめられるなら、全てを捨ててもかまわないとかがみは思った。

 だから抱きしめた。

 強く強く、自分の身体に取り込もうとするように。

 十年分の思いを篭めて。 


 こなたはびくっと身体を震わせたあと、激しくすがりついてきた。
 かがみの胸に顔を埋め、わんわんと、子どもみたいに泣き出す。
 かがみの名を呼ぼうとしては嗚咽が邪魔して、かがっ、かがっ、と繰りかえす。
 喉の奥から低いうめき声が、途切れ途切れにむせび出る。

 細い首、軽い体重、なめらかな肌。
 とても子どもを産んだとは思えない身体だけど、この身体でこなたはこの残酷で複雑な世界を生き抜いてきたのだ。
 そんなこなたがいま、見栄も外聞もなくすがりついている。

 かがみはそのときやっと気づく。

 ――ああ、私、この子のことが好きなんだ。
 それはわかっていたことだった。十六年前、桜の舞う季節に初めてあった時から。
 けれどかがみがその気持ちの本当の意味に気づくためには、今までの長い人生経験が必要だったのだ。

「……かがみ……」
 少し落ち着いたのか、それでも涙声でこなたがいう。
「……なぁに?」
 頭をなでながら、かがみが優しく答える。
「わたし……かがみのことが好き」
「うん、わたしもこなたのことが好き」
 そういうとこなたは、胸に埋めた顔をぐりぐりと動かした。
 心臓の音を聞こうとするかのように頬を胸に当てて呟く。

「ずっとずっと好きだった。結婚式のときも、あの人に抱かれてるときも、かなたを産んだときも。この十年間、忘れたことなんて一日もなかったよ」
「そう……ごめんね。私は時々忘れてた。いや、忘れようと努力してた……かな」
「そっか。忙しかったんだね」
「うん」

 すすり泣きの声はもう聞こえない。
 その場には、感情が爆発したあとの静謐な余韻と、あらゆるものが満たされて充足した満足感が漂っていた。

「この十年間、楽しかった? 毎日輝いてた? どれくらい笑った? どれくらい泣いた? なにみて感動した? 本気で怒ったことは? 好きになった人はいる?」
 こなたがかすれた、でも楽しげな声で尋ねる。

「……そんなの、一言でいえるわけないでしょ」
「そうだね。今度全部聞かせてね」
「うん。ねぇこなた……」
「うん」
 かがみは迷いなくこなたをみつめていう。
 その口調にこなたはなにかを感じ取ったのか、じっと見つめ返してくる。
 またたきもせず見開いたエメラルドグリーンの瞳が本当に綺麗だ。

 そうしてその言葉を口にする。十年前にはいえなかった言葉。
 社会の大きさの前に簡単に押しつぶされそうで、どこかの誰かに石を投げられそうで、知らない大人に鼻で笑われそうで、いえなかった言葉。
 でも今ならいえる。それだけでも、この十年は無駄ではなかった。
 そう、すばらしい日々だった。辛くて寂しくて、逃げ出したいときもあったけれど。
 そしてこれからは、もっともっとすばらしい日々を送るのだ。

「これからさき、ずっと一緒に生きていこうよ」

 そういうとこなたは、かがみをまじまじと見つめて――

「うん!」

 笑った。

 その笑顔は、かがみが一度もみたことがない、まるで人という華が今開いたような、満面の笑顔だった。



 §エピローグ

「うん、そう、そうだよ……ありがとう。……今までごめん。今度そっち帰るからね。うん。お父さんたちにもよろしく」
 そういってケータイを切った。
 ここで起きたことと自分の決意を報告したとき、つかさはあられもなく泣き出した。“よかった……よかったよぉ……”そう呟きながら鼻をすする音が、ケータイの向こうから聞こえてきた。
 この十年、ずっと気に病んでいたのだろう。そういう子だった。そう思うと、かがみは今まで自分がどれだけの人に心配をかけてきたのかに気づくのだ。

 ベランダから眺めやれば、公園の桜が、夜を桜色に塗り込めようとするように咲き誇っている。
 まだ少し冷たい風がかがみの髪を揺らす。
 高い空には大きな月が架かっていて、銀色の光を地上に投げかけている。
 その全てが、今までと少し違ってみえた。
 全ての物の色や形が、急に意味を持って輝きだしたように思えた。

 眼下の一つ一つの灯りの下で、それぞれの人がそれぞれの家庭を営んでいる。
 その世界の大きさに眩暈がするけれど、今のかがみはそれを正面から受け止めることができる。

 あの子と一緒なら。

 こなたは、抱き合っているうちに安心したのか寝入ってしまった。
 ここにくるまで、どれほどの思いをしてきたのだろう。そう思うと愛しく思えて仕方がなかった。

 すやすやと眠るこなたに毛布をかけ、優しく微笑みながらかがみは呟く。

「ずっと一緒だよ」

 そういって灯りを消した。


 そんな二人を、ただ月だけがみつめているのだった。

(了)












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  • マシマロの前作なんですね
    色々書き込みたいことはあるけど、あえて一言で

    …GJ
    -- オビ下チェックは基本 (2009-10-20 13:11:10)
  • これ最初は暗め・死人ありに避けてたけど、読んでみたらすごい感動作やんっ!!
    これは泣ける!
    暗いだけじゃないって入れといてほしいと思った。
    良作の中の良作!! -- 名有りさん (2009-07-26 17:23:53)
  • 神作品の一つ!!GJ!! -- コメント職人U (2009-07-26 11:25:21)
  • 刑事法の勉強をやるたびに、この作品の冒頭のかがみの心情を思ってしまう・・・。
    寂しがり屋のかがみにとって、愛する人と二度と会えなくなった、しかもその原因が自分にあるという
    その10年間の状況は本当に苦痛だったでしょうね。
    こなたにとっても人生の上で一番の目的を果たせなかった、計り知れない無念さは、想像するだけで胸が痛みます。
    そんな、感情的にものすごくマイナスの経験の後に、確かめ合えた愛。
    非常に美しくみえます。 長くなってすみません。 -- 名無しさん (2008-05-02 23:19:30)
  • ちょっと物悲しい、けれど希望に満ちていて。
    こなたとかがみの心情がうまく表現されていて。
    名作と呼ぶに相応しい作品だと思います。 -- 名無しさん (2008-04-04 22:03:58)
  • く -- 名無しさん (2008-04-04 05:28:31)
  • これしか言う言葉が見当たらない。ありがとう -- 名無しさん (2008-04-02 02:46:31)
  • このスレにこんなレベルの職人がいるなんて、
    暫く留守にしてたものだからさっぱり気づかなかった。。。

    時を越えても紡がれる深い愛が描き出されているのに本当感動した。
    ……あくまで個人的に言うと、髪の毛の色を描写するのは微妙かなぁと。
    それ以外は、職種に関する知識とかしっかり理解している文章で、思わず引き込まれてしまった。
    感動をありがとう。 -- Foolish Form (2007-12-05 14:05:26)
  • こういう、素直にいい話だったと思えたのはホントに久しぶりだった。
    ありがとう -- 名無しさん (2007-12-05 02:42:28)
  • こう、なんと言うか、暖かい気持ちになれました。 -- 名無しさん (2007-10-23 21:37:13)
  • リアルで面白い、こういうのもっと描いてくださいよ! -- クロ (2007-10-23 02:16:21)
  • ガチで泣いた、、。感動をありがとうございました!! -- 将来ニートになるかも (2007-10-23 00:14:31)

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