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デーゲーム

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匿名ユーザー

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 白いボールが小さくなっていく。

 深く暗い青に消えていく――原色の空に飲み込まれていく。

 高く打ち上げられたボールが、グラウンドを飛びだし土手を越えていくのを、
みさおはマウンドで呆然と見つめていた。

 生ぬるい風が吹く。

 観客席でわき上がる人の波。

 ――ああ、夏が終わっちゃう。

 そう、思った。


――――――――――――――――――――――――

    デ ー ゲ ー ム

――――――――――――――――――――――――


 
1x


 みさおは泣きじゃくった。
 あやのの膝の上、頭を乗せて。
 暴走するエンジンのような熱の残滓を抱いて、吹き出す汗を拭おうともせずに。

 あやのはただみさおの髪を撫でる。
 その顔を優しく見つめながら。
 ピンクのフレアスカートが汗と涙で濡れるのを構いもせずに。

 傍らには空になったバスケット。
 みさおは試合直前でも沢山食べるから。
 あやのが腕によりをかけて作ったサンドイッチ。
 ピーナッツクリーム――イチゴホイップ――ツナと卵――サラダとハムサンド。
 すべてみさおのお腹の中に収まって、いまそのカロリーが膝の上で燃えている。
 土手の上、グラウンドを見下ろす合歓の木陰で。

「ひぐ……あ、あいつら……ずりぃよ……け、敬遠ばっか……バット、振ることも
できねぇで……ちきしょう…ちきしょう!」

 3打席連続敬遠。
 それが、修篤学園のピッチャーが4番みさおに下した評価だった。
 累に出たみさおの俊足を警戒して、牽制球が何度も投げられた。
 彼には甲子園の常連校からもスカウトがきていると聞く。

 徹底したファール攻勢。
 それが、修篤学園の重量打線がピッチャーみさおに下した評価だった。
 修篤学園は前回の全国中学校軟式野球大会で打点No1に輝いた学校だ。
 それでもみさおが許したヒットは3本だけ。
 ――それと、決勝点になったホームラン。

 鷹宮中学校は、関東大会の準々決勝で敗れた。
 中三の、夏の出来事だった。

 その戦績と奮闘は誇っていいことだとあやのは思う。
 事実彼女の胸のなかでは今、親友に対する憐憫と哀切と尊敬と欣喜の念がないまぜに
なっている。

 ――ましてや、女の身で。

 けれどそれだけはいってはいけないとあやのは知っている。
 みさおは“女の子にしては”などという条件付きで褒められたくて野球をやって
いたわけでは決してない。
 むしろみさおは、女の子でも男の子と並び立つことができると証明したくて、
ずっと努力してきたのだ。直接みさおからそう聞いたわけではないけれど、
あやのにとってそれは自明だった。
 ずっと見てきたから判る。それこそ男も女もなかった子どものころからずっと。
 いつからなんだろう? 私たちが女の子になったのは。
 赤いランドセルを背負ったあの日から?
 月の物が来たことに動揺して泣いたあの日から?
 ドキドキしながらお母さんとでかけ、初めてブラジャーを買ったあの日から?

 気がついたらあやのは女の子になっていた。
 昔から可愛いものは好きだった。ピンク色のスカートを穿いておしとやかに
微笑むと、お母さんも親戚の人も可愛い可愛いと誉めてくれた。あやのはそれが
嬉しかったし、自分でももっと可愛くなりたいと思ったものだった。
 壁紙をパステルカラーにした。大きな熊のぬいぐるみをねだった。テレビを
見て可愛い女の子の口調を真似た。nicolaを読んでジュニアモデルにあこがれた。
 やがてわたしはお嫁さんになって、男の人を支えてあげるんだ。そうやって幸せに
生きていくんだ。
 そんな未来図も違和感なく受け入れて、あやのは育っていった。

 けれどみさおは違っていた。
 いつまでたっても男の子と一緒に泥だらけになって遊ぶ。樹から落ちては大きな
タンコブを作って帰ってくる。カマキリを捕まえてきては、ニコニコしながら
イナゴを食べさせる。
 あやのは、ずっとそんなみさおが眩しかった。
 みさおだって、日々丸みを帯びていく自分の身体に気づかないはずがない。
 日々がっしりと強くなっていく、周りの男の子との違いを考えないはずがない。
 4年生のころ、みさおはガキ大将だった。
 5年生になると、よくケンカに負けてはあやのに泣きついてきた。
 6年生になったころには、男子は恥ずかしがってまともに相手しなくなっていた。
 それでもみさおは諦めなかった。
 大きく口を開けてお陽様みたいに笑うと、また男子の輪の中に入っていく。
 あやのにとって、みさおはずっとヒーローだった。
 時という敵、性別という壁に、たった一人で戦いを挑んでいく不屈のヒーロー。 

 そのヒーローは、けれどずたぼろになって、今あやのの膝の上で泣いている。
 小さな暴風雨のようだった慟哭も、今は落ち着いてきていた。
 ときおり思い出したようにうめき声をあげると、ぐしぐしと涙を拭う。

「ごめん……ごめんなあやの……もうちっと待って……」
「うん、いつまででも待ってるよ」

 そういって優しく額を撫でる。
 つけてきたフレグランスは、みさおの甘ったるい汗の匂いでとっくに吹き飛んで
しまった。
 合歓の木陰に差し込む木漏れ陽が、二人の肌にまだら模様を描いている。
 遠雷のように、川向こうで啼く蝉の声が聞こえてくる。

 中三のみさおにとって、この大会は野球ができる最後の機会だった。

 高校野球に参加できるのは男子のみ。規定でそう定められているから。
 どれだけ速く投げられても、どれだけ遠くまで飛ばせても、女子の部員を取る
学校など存在しない。

 だから。
 だから、この大会がみさおの最期の戦いだった。
 そして全てだったのだ。

 気がつけば嗚咽も止んでいた。膝の上のみさおは、目を閉じて動かないまま、
規則正しい息づかいをしている。
 あれ? 寝ちゃったのかな? そう思ってあやのが顔を覗き込んだとき、みさおは
急にぱっちりと目を開けると、勢い良く跳ね起きた。

「おぉっしゃーー! 日下部みさお復活だぜぇー!」

 太陽に向かって大声で叫ぶと、くるりと振り返ってニカリと笑う。
 目尻を赤くしながら、けれどひまわりみたいな笑顔で。
 やっぱりみさおには笑顔がよく似合う。ましてやこんなに抜けるような青空なら
なおさらだ。
 だからあやのもお返しにニッコリと微笑んで云う。
「おかえり、みさちゃん」
「お、おぉ…ごめんな、いや、ごめんじゃねぇな? うーん?」
 途端にみさおは首をひねって考え込んでしまった。
 あやのはそれが可笑しくて、またくすっと笑う。
 みさおが自分になにを伝えたいのかは判っているし、どこで引っかかっている
のかも判る。
 だからあやのは先回りして云った。
「ありがとうっていってもらえた方が、わたしは嬉しいな」
 あやのがそう云うと、みさおはポンと手を打って親指を突き出した。
「おぉ、そうだそれだ! ありがとうだ! サンキューだぜあやの!」
「ううん、どういたしまして。それより……」

 あやのがいいかけたとき、二人の間を突風が言葉もなく吹き抜けた。
 途端に目をつぶる二人。
 風は生暖かかったけれど、汗ばんだ身体にはそれでも心地よい。
 熱闘に灼けたグラウンドの砂が、風に舞い上げられて届いてくる。
 合歓の梢がざわざわと鳴り、綾なす木陰もゆうらりゆらりと形を変える。
 見上げれば、木漏れ陽を背負って、紅い合歓花が髪飾りみたいに揺れていた。
「……んで、なんだっけ?」
 風が吹き止むと、改めてみさおは訊ねる。
「ん……あのね……脚、痺れちゃって立てないの……」
 恥ずかしそうに、あやのはそう答えた。

 誰のせいでそうなったかをすっかり棚に上げて、みさおはあやのを散々弄んだ。
あやのも悶絶しながらも一緒になってケタケタ笑った。
 ようやく痺れも消え、ふらふらした足取りで立ち上がったあやのは、目尻の涙を
拭いながらみさおに云った。
「そうそう、みさちゃんに渡すものがあるんだよ」
「おぉ? なんだなんだー?」
 興味津々という態で、みさおは身体を乗り出して訊ねる。
「ふふ、みさちゃんもきっと喜ぶと思うな」
 そういってハンドバッグから取り出したのは、くたびれて泥だらけになった帽子。
額の部分にはSのマークが入っていた。
「あれぇ? これって修篤の帽子だよなぁ?」
「うん、修篤のピッチャーの子が、みさちゃんに貰って欲しいって。本当は交換
したかったみたいなんだけど、みさちゃんそんな状況じゃなかったから……」
「そっかぁ……」
 みさおは帽子を大事そうに手にとって、ためつすがめつ眺める。所々ほつれて
破れかけ、汗がしみこんでまだらになっていた。
「それでね、あの子から伝言。『お前のことは、もし俺が今後プロになっても絶対
忘れない。お前は最高のピッチャーだった』だって。あと、『すまない』っていってた。
ふふ、かっこいいじゃん、あの子」
「そっかぁ……へへ、そっかぁ……」
 薄汚い帽子を目深に被って、みさおは呟いた。再び頬に光るものが流れ落ちる。

 そんなみさおを見て安堵しながらも、あやのはどこかもどかしさを感じていた。
 足りない。全然足りない。
 みさおに対するご褒美として、こんなものでは全然足りていない。
 毎日朝早く起き出してジョギングしていたみさお。
 豆が潰れて血が出るまでバットを振っていたみさお。
 レギュラーを奪われた男の子に陰口を叩かれながら、意に介さず頑張ったみさお。
 そんなみさおを、どうやればもっともっと褒めてあげられるのだろう。
 頑張ったとか、凄いとか、誇りに思うとか、そんな思いは口にすればすぐに空虚に
なりそうで、今更二人の間でそんな言葉に意味があるとは思えなくて。
 だからあやのは提案した。
「ね、みさちゃん――」

   ☆   ☆   ☆

「い、いいんかなぁこれ…」
「んー? 駄目だと思うよ」
「だ、だめって、んなっ、自分から云っといてっ」
「大丈夫だよみさちゃん、バレなければいいんだよ」
「……あ、あやの?」

 なめらかに均されたグラウンドに、二人の足跡がついていく。
 誰もいない観客席。静謐な野球場。ただ遠くから蝉の声だけが降り注ぐ。

 小脇に籠を抱え、ピクニックに向かうような軽やかな足取りで、あやのは
マウンドに向かう。
 けれど籠のなかに山盛り入っているのは、サンドイッチではなく白いボール。
 初めは少し不安がっていたみさおも、いまやノリノリでバッターボックスに立ち、
バットを振っている。

「さーこい、あやのぉー!」
「ふふふ、いくよー」
 マウンドより大分手前にあやのは立った。
 真上から照りつける灼熱の陽射しに、少しくらくらする。グラウンドがこれほど
熱くなっているとは思わなかった。
 ――ああ、日灼けしちゃうな。
 あやのはそう思いながら、けれどニコリと笑って両手を大きく振りかぶる。
 そうしてボールを投げた。ひるがえったフレアスカートが、風をはらんでばたばたと
はためく。
 ボールはふわりと放物線を描いてみさおの元へと向かっていった。
 ボスンッ!
 バットに真芯を撃ち抜かれたボールが、軟式ならではの鈍い音を発して飛んでいく。
空を切り裂いてぐんぐん伸びていくボールは、やがてバックスクリーンの天辺に
当って落っこちた。

「わ、すごーい、いきなりホームランだ」
「へへ、あやのこそ、ここまで届くボール投げれんじゃん。ちゃんとストライク
ゾーンだぜぇ」
「うん、よく一緒にやったよね」
 そういいながらボールを放る。
 打ち返されたボールは外野席に飛び込む。

 夜の学校。部員がみんな帰った後も、みさおは残って練習をしたものだった。
 あやのはそんなみさおを放っておけなくて、よく押しかけて練習を手伝った。
今みたいにピッチャーをしたり、ボールをトスしたり、投球練習で壁に当てた
ボールを投げ返したり。

 そんな思い出話をしながら、投げ続ける。
 みさおは打ち返し続ける。

 あの日みた夕焼け。一緒に食べたアイスの冷たさ。怪我をしたときの湿布の匂いが
我慢できなかったこと。開けられないままだったラブレター。初めて二人で電車に
乗って出かけたときのドキドキした気持ち。

 投げる。打ち返す。
 あやのの身体から、滝のような汗が流れ落ちていく。
 びしょ濡れのブラウスが肌に張りついて気持ち悪い。
 きっと透けててブラも丸見えなんだろうな。ちらとそう思ったけれど、そんなことは
なぜだかどうでもよく思えた。

 打球は全てホームランだった。
 一本も野球場の柵を越えていないのは、回収するときのことを考えているのかも
しれない。
 気がつけば、二十個ほど用意したボールも最後の一個になっていた。
 みさおに笑いかけてそれを確認すると、慈しむように大事に投げた。
 打ち返されたボールは、けれどホームランにはならず、三塁線を強襲するライナーになる。

「おーっと! これは長打コースだぁーっ!」

 みさおは自分でそう云うと、バットを放って駆けだした。
 砂埃をなびかせながら一塁を踏み、二塁を回る。まるで小さなつむじ風のような勢いで。
「速い! 速い! 俊足の日下部選手、もう三塁を回ったー!」
 息を荒げて、何かを振り払うように大声で喚きながら。
「バックホォォーム! 矢のような送球だー!」
 叫ぶと、頭からホームベースに突っ込んだ。

 盛大な砂煙がもくもくと上がり、みさおの姿を覆い隠す。
 煙が晴れても、みさおは突っ伏して動かなかった。小さな背中が、呼吸の激しさを
物語って大きく上下するのみで。

 あやのも息を整えながら、みさおを見つめていた。
 掛ける言葉など見つからなかった。
 掛ける必要などないと思った。

 やがてみさおはバネ仕掛けのように跳ね起きると、大きく空を振り仰いだ。
 そうして叫ぶ。太陽をキッと見つめて叫ぶ。

「わぁぁぁぁああああぁぁぁあぁぁぁあああーーーーー!!!!」

 その声も、青く澄んだ空に消えていく。
 真白く入道雲のそびえ立つ、夏の空に吸い込まれていく。

 空はいつも、人の営みなどまるで忖度せずに、ただ青く青く。

 二人の間で、夏が溶けていった。




 ――まるでそう、あの日みたいな青だ。
 みさおはマウンドで空を見上げて思った。
 そうだ、あの入道雲、あんな雲があの日もあったんだ。
「――さきちー」
 誰かがみさおを呼ぶ声が聞こえる。へにょへにょした、なぜか耳をくすぐる声だ。
「みさきちー!」
 途端に現実に引き戻されて、みさおは声のするほうに振り向いた。
 青い髪をした子どもみたいな女の子が、バッターボックスでバットを構えて
立っていた。
「ふふん、どうしたのさみさきち! さてはわたしに怖じ気づいたなー!」
「……あんた、普段は野球嫌い嫌い云ってる癖に、やけにハイテンションだな」
 キャッチャーマスクを被ったかがみが、あきれ顔でこなたに云う。
「なにを云うかがみん、野球が許せないのはアニメが潰れるからさ! あと、
やりたくないだけで嫌いなわけじゃないのだよ!」
「威張って云うようなことか! ってか違いがわかんねぇよ!」
 そんな二人の掛け合いを聞きながら、みさおはくすっと笑う。

 今日の体育は合同授業だった。それぞれ野球の練習を続けてきて、その仕上げに
クラス対抗でミニゲームをするというカリキュラムなのだ。

「おー、わりぃわりぃ。ちっとボーっとしちまったぜ。だいじょぶ、ちびっこの
番はすぐ終わってベンチに帰れるぜ」
「ぷぇ、弱い犬ほどよく吠えるって云うよね! ヘイヘイ! ピッチャーびびって――」

 バシンッ!

「――る?」

 その球のスピードに、みさおの投球を見たことがなかったB組の全員が凍りついた。
「ちょ、ちょっとタンマッ、みさきちタンマッ」
「あっはっは、それは認めらんねぇな!」
 大口を開けて笑うと、みさおは次の投球モーションに入る。

 バスンッ!「ほわぁっ!」
 ビシッ!「うみゃぁっ!」

 こなたが空振りした勢いのままくるくる回って、ペタンと座りこむ。なびいた髪が
遅れてふわりと降りてきて、こなたの身体を覆った。
「ニヒヒ、いくらあんたでも日下部の球はそうそう打てないだろー。あいつ、中学の
とき野球部のエースで四番で、関東大会までいったのよ」
 かがみがまるで自分の手柄のように自慢する。
 みさおはマウンドでニヤニヤしながら云った。
「えー? なんだっけー? 弱い犬ほどよく吠えるって云ったかー? そのセリフ、
そっくりそのまんまお返しするぜ!」

「とほほ、みさきちってただのバカキャラじゃなかったんだね…」
 こなたは悄然としながら、木陰で見学中のあやのに云った。
 次のバッターはつかさだった。
 つかさはバッターボックスで目をつぶりながら縮こまっていて、最初からまるで
打つ気が感じられなかった。
 ボールがミットに収まってから目を開けて、何もない空間をバットで振るう
ありさまだった。
「ふふ、みさちゃん凄いでしょー」
 あやのは、まるで自分が褒められたように満面の笑みを浮かべて答える。
「う、うん、でもあれだ! 子どもキャラなのは変わんないよね! 経験者が体育の
野球で本気になるなんてね~」
 人差し指をピコンと立てて、照れ笑いを浮かべながらこなたは云う。
「うふふ、そうみえる? あれでみさちゃん、すっごく手抜いてるんだよ」
「え……そ、そうなの?」
「うん。ほら、みて。みさちゃん、柊ちゃんが構えたミットに正確に投げ込んでる
でしょう?」
「あ、ほんとだ……」
 あやのが云うとおり、かがみのミットは最初に構えた位置から全く動くことが
なかった。かがみは、ボールが勝手に飛び込んで来たあと手を閉じるだけで、捕球が
できるのだ。
「少しでもスピード上げたらやっぱり狙いからずれるし、そうすると柊ちゃんじゃ
捕れないかもしれない。だから今のみさちゃん、捕れるボールを正確にミットに放る
ことしか考えてないのよ」
 あやのはそう云いながら、どこか寂しそうに微笑んだ。
「みさちゃん、凄く大人になったよ。昔のみさちゃんだったら、ムキになって柊ちゃんに
怪我させてたかもしれない。本当に大人に、大人の女の子になってきたんだから……」
「むう……」
 こなたはそう云ってうなった。
 その顔は先ほどまでのだらけた顔ではなく、心の底から悔しさが滲み出てくるような
顔だった。

「ふぇ~…全然ダメだったよぅ…。気がついたらボールがミットに収まってるんだもん、
消える魔球とはあのことだよぅ…」
 つかさが二人のところにとぼとぼとやってきて云った。
「い、いや、つかさ? そりゃ目閉じてたらみえないよ~?」
「あ、あれぇ? わたし、目閉じちゃってた? エヘヘ…」
 つかさは笑いながら頬を掻いていたが、ふと何かに気づいたようにこなたをみつめると、
不思議そうに云った。
「こなちゃんどうしたの? 怖い顔してるよー」
「ん……ちょっとね……よし!」
 そう云って何か決心をしたようにうなずくと、こなたはグラウンドに向かっていった。

「あら? 泉さんどうなされましたか?」
 バッターボックスできょとんとしているみゆきにひらひらと手を振ると、こなたは
かがみの前に立って云った。
「かがみ、交替」
「は、はぁ!? あんたなに云ってんの?」
 かがみは鳩が豆鉄砲をくらったような顔で問い返す。
「ごめんかがみ、かがみに凄く失礼だって思うよ。……でも、かがみじゃみさきち
本気で投げられないみたいだから、わたしが替わりに捕りたいんだ」
 おかしなことを云うこなたに皮肉の一つも云ってやろうと口を開いたかがみだったが、
こなたの神妙な顔付きに思わず口を閉じる。ぼそぼそと二言三言話したあと、かがみは
納得した顔つきでキャッチャーマスクを脱いだ。
「って、おいおい! なに云ってんだちびっこー! おまえB組じゃん! ってあれ?
柊もなんで素直に替わってんの? いつものツンデレは? なぁ?」
 マウンドから慌てて叫ぶみさおにむかって、キャッチャーマスクを被ったこなたが
云い返す。

「なんかさ! 悔しいんだよね! 手抜かれてるっつーかさ、ホントはもっと速いの
投げられるのに、本気出せないみさきちがさ! ずっと野球頑張ってきて、それで凄い球
投げられるようになったんでしょ!? その本気が見たいんだよ!」

 その横でかがみは肩をすくめてみさおに云う。
「だ、そうだわよ? まぁ私もあんたの球これ以上受けずに済んで良かったわ。手、
痛いんだもん」
 手を振りながらバッターボックスから遠ざかるかがみの背中に、こなたは云った。
「ごめんねかがみ、今度なんでも一個云うこと聞くから!」
「……ほう? それはいいこと聞いたわ。あんた、覚悟してなさいよね…」
「う……かがみが怖い……」

 そんなやりとりを、木陰に座ったつかさとあやのが眺めていた。
 初夏のまだ少し涼やかな風が二人の髪を揺らしている。
「泉ちゃん……不思議な子だね……」
 あやのが呟くと、つかさはニコニコ笑いながら答える。
「でしょ? なんていうのかな。誰かが何かを我慢してるのが我慢できないんだよね、
こなちゃんは」
「まったくあいつもおせっかいったらないわね。ま、そのおかげでこの時間だけ
つかさと一緒の組になれたけど」
 そういってかがみは二人の横に腰を下ろす。
 みると、先ほどのボールがスローにみえるほどの剛速球を、こなたは平然と受け
止めていた。
「うわぁ、なにあれ、あんなのほんとに見えないよ……」
「すっごいわね…こなたも平気なふりしてるけど、あれ絶対手真っ赤だわ」 

「ナイスピーッ! 球走ってるよ! これならイチローも扇風機だよー!」
 そう云って、こなたはボールを投げ返す。
 みさおはボールを受け止めながら、いまだとまどった顔を拭いきれていなかった。
「おまえ…凄いけど変なヤツだなぁ…」
「みさきちにいわれたくないって。それよりみゆきさんごめんね、おまたせ! さあ、
かっとばしてやってよ!」
「おまえはどっちの味方だ!」
 みさおの突っ込みに、
「みんなの味方だ!」
 と云ってこなたは胸を張っていばる。
 そのときふいに漂ってきた恐ろしいプレッシャーに、こなたの背筋が凍った。
 みると、傍らのみゆきがいつになく精悍な顔付きで立っている。
「そういうことでしたら……私も全力を尽くさせていただきます」
 そう云ってバットを構える動作には一部の隙もなく、よるものを全て叩き切る
剣豪のような緊張感が感じられた。
 こなたの目には、みゆきの髪が金色になって逆立っていくのがはっきりと見えた。
「ひえぇぇ、みゆきさんが、みゆきさんが本気に! これは、穏やかな心を持ちながら
激しいボインによって目覚めた伝説のスーパーミユキサンだー!」
「んなわけあるかーっ!」
 遠くの木陰から、かがみが大声で突っ込んだ。

 みさおはそんなみんなをぽかんと眺めていたが、次第に上がっていく口元を押さえ
きれず、ついには大声で笑い出した。

「あ、あっはははははははははははははっ!!! なんだおまえら! なんだおまえら!
最高だぜ!」

 その笑い声も、青く澄んだ空に消えていく。
 真白く入道雲のそびえ立つ、夏の空に吸い込まれていく。


「おっしゃこーい、みさきちー!」
 叫ぶこなたに、
「おー!」
 と答えてみさおは振りかぶる。

 ちらと木陰のあやのを眺めると、心から安心した笑みで、みさおのほうをみつめていた。

 ――よかったね、みさちゃん。

 あやのが声が、みさおの心のなかに響いてくる。


 見下ろす空は今日も、人の営みなどまるで忖度せずに、ただ青く青く。

 夏はまだ、始まったばかりだ。

(了)













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  • 素晴らしい作品!あやのが
    観音菩薩に見えました。 -- チャムチロ (2012-08-14 16:43:34)
  • 野球部は中学までしかやらなかった俺は泣いた!
    全力で泣いた!
    乙でした! -- 名無しさん (2010-03-17 11:50:11)
  • 青春だなぁ^^ -- 名無しさん (2010-03-16 18:52:00)
  • とても良い話で感動した。
    これを読んで、みさおとあやのが好きになりました。 -- 名無しさん (2010-03-14 21:36:29)
  • ユニコーンの不完全燃焼な曲をよくぞここまで爽やかにww -- 名無しさん (2008-11-08 04:08:19)
  • 超すがすがしい。超さわやか。最高。 -- 名無しさん (2008-08-10 18:03:45)
  • 感動 -- 名無しさん (2008-03-10 02:09:19)
  • 元野球部の俺から言わせてもらうと、泣いた -- 名無しさん (2008-02-06 21:24:23)
  • 不覚にも荒んだ心が癒された。
    やはりあなたは凄い。
    -- 名無しさん (2008-01-31 01:12:28)
  • あなたはらきすたに様々な可能性を見出ださせてくれますね -- 名無しさん (2008-01-20 22:56:30)
  • これは…感動した! -- 名無しさん (2007-11-20 11:20:21)
  • ……いいねぇ。青春だねぇ(遠い目  -- 名無しさん (2007-11-18 09:05:41)
  • いー話だなー -- 名無しさん (2007-11-17 21:03:06)

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