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鏡面界 - 2

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匿名ユーザー

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 息苦しかったのは、狭い部屋にはじめて自分以外の人間を入れたからではない。

 きっと、春の匂いのせいだ。

 三年ぶりに顔を合わせた妹が運んできたのは、両手いっぱいの荷物だけではなかった。
 開いたドアの隙間から流れ込む風は、少しだけ肌寒かったけれど、シャワーのあとの肌には心地よ
かった。穏やかな風の薫り。やわらかな光。菫色の頭のその向こうには、抜けるような青空が広がっ
ている。こんな青一色の空は、水彩画の授業だったら減点ものだ。高らかに鳴く、名も知らぬ鳥の声
は、どこか間が抜けていた。
 一晩のうちに季節が変わってしまったのだろうか。
 スプリングコートから覗く首筋は、じんわりと汗ばんでいた。鎖骨のすぐ下では、薄紅色のワンピ
ースが、たおやかにギャザーを寄せている。目のまえに立つ妹からは、一片さえ冬を見つけることは
できなかった。
 なにより満開の桜のような笑顔。
 この子が華やいで見えるのは、上手になったお化粧のせいでも、ちょっとだけ大人びたファッショ
ンのせいでもないのだと思う。そういう星の下に生まれたのだ。

「前もって連絡したら、きっと断られると思ったから……ごめんね。日曜日なのに」
 笑顔を崩さぬまま、けれど眉を八の字にして、丁寧に言葉を紡ぐようにつかさはそう言った。
 かつて見慣れた、あの顔だ。大した失敗をしでかしたわけでもないのに、さも重大な悪事を働いて
しまったかのような、申しわけなさでいっぱいのあの顔。そんなに謙る必要もないのに、相手の機嫌
を伺うようなあの顔。怯えたように揺れる瞳は、潤んでいるようにも見える。

 大嫌いだった。
 違う、つかさを嫌いなわけではない。大切な大切な、血を分けた双子の妹だ。時にその煮え切らぬ
態度に苛立つことはあっても、嫌いと断じてしまえるような部分は一つもない。
 嫌いだったのは、それを見るとついつい面倒を見てやらなければ気が済まなくなってしまう、そん
な自分だ。
 私は躊躇うことなく、つかさを部屋に招き入れていた。


―――――――――――――


 鏡面界 - 2


―――――――――――――


「ちょっと片付けるから、待ってて」
 この狭い部屋ではどうせ玄関からすべて見渡せてしまう。それはわかっていたが、それでも一応そ
う言ってみたのは、昔の名残のようなものかもしれない。几帳面でなんでもそれなりにこなせる姉。
今さらそんな虚像に縋るつもりもなかったけれど、頭も体も自然とそれをなぞっているようだった。
習性とはおそろしいものだ。
 つかさもつかさで、言われたとおり素直に、靴も脱がずに待っていた。きょろきょろと部屋じゅう
を見回していたが、それが悪趣味な好奇心によるものでなく、ただ目が泳いでいるだけなのだと私に
はわかる。あまり待たせても悪いので、片付けを急いだ。
 床に落ちているリモコンを棚に戻す。マグカップはシンクに放り込んだ。無色透明のプラスチック
で溢れかえったゴミ箱は、近くにあった紙袋で無理矢理押し込んで蓋をしてしまう。バリバリと音が
響き渡ったとき、つかさが驚いて跳ね上がるのが見えた。
 投げ出したままの筆記用具は机の端に揃えて寄せた。参考書類は本棚に戻そうかとも思ったが、す
ぐに考え直して、その場で裏返すだけにした。表紙も背表紙も隠してしまうには、これがいちばん自
然に思えた。

 ……私はいったいなにをしているのだろう?
 私たちのあいだに、隠さなければいけないものなんていつから生まれたのだろうか?

 時計を見ると、まだ八時にもなっていない。今日のアルバイトは昼からだから、午前中は勉強をし
ようと思っていた。本来なら、三時間は勉強に充てられたはずだ。無性に腹が立った。けれど、なに
に腹を立てているのかはわからなかった。
 不思議と笑みがこぼれた。呆れているのか、嘲っているのか。ともかく私は私が情けなかった。大
丈夫、背を向けているからつかさには見えないはずだ。だけれど、それを喜んでいいのかどうかさえ、
今の私にはわからない。
 大体つかさも、よくもこんな早くからはるばる電車を乗り継いでやって来たものだ。
 振り返ると、つかさはちょうどあくびをしていた。どれだけきれいに化粧をしても、気の抜けた顔
は幼いままだった。あくびの拍子に荷物を落としそうになって、慌てて抱きかかえる。ぱんぱんに膨
らんだ布製のトートバッグは、どこからどう見てもバランスが悪かった。どうにか持ち直すと、途端
に今度は反対の手の荷物がずり落ちそうになり、膝と顎を駆使してどうにか持ちこたえる。
 なんて間抜けなんだろう。ああもう、そんなに足を上げたら下着が見えるし、とりあえず落ち着け。
 私の視線に気づくと、つかさはばつが悪そうに笑った。

 ああ、腹が立つ。

 その、わけのわからない苛立ちをぶつけるように、ちょっとぶっきらぼうに言ってみた。
「で、今日はなんの用なの?」
 するとつかさは急に話しかけられて慌てたのか、言葉を用意していなかったのか、両手をばたばた
と動かしながら、
「えっとね、あのね、しししし新メニューの試食をしてもらいたくて、今日は来たんだけど」
 と言った。荷物がまた落ちそうになって、「あうぅぅ」とつかさは声を出す。
 なんにも変わっていないな、と私は思う。
「新メニュー?」
「えっと、うん。うちのお店ね、季節のメニューっていうのがあってね、それで、その、今度の春の
メニューを私が任されたのね」
 その声が上ずっていたのを私は見逃さない。この子はまったくもって本当になんにも変わっていな
いのだ。呆れるほどに。
 でも、それが嬉しいのか残念なのか、自分にもわからなかった。
「嘘ね。それだけならこんな朝から来ることないじゃない。朝から甘いものなんて食べたくないわよ!」

 言ってから、自分がいちばん驚いた。思いのほか自分の言葉に抑揚がなかったことに。思いのほか
刺々しかったことに。
 つかさは目を丸くして私を見ていた。手から今度こそ荷物が落ちてしまう。ごろごろと床を転がっ
たのは、玉ネギとニンジンだった。
 違うのだ、こんなことを言いたかったわけではない。
 なにか気の利いたフォローでもしなきゃ、と焦って言葉を探した。脳内をフルスキャンして、この
場に最適な返答を検索する。どれだろう、どれだろう、どこにあるのだろう?
 しかし相応しいフレーズはひとつも浮かんでこなかった。
 そんな自分にまた驚いて、私は咄嗟に愛想笑いをしていた。
 無理に吊り上げた口角が、ひくひくと動く。
 私は嫌な女だ。
 つかさが慌てふためいていてくれてよかった、と心底思う。あの場で落ち込まれでもしたら、私は
自己嫌悪の無限スパイラルのなかへ永遠に落ちていったことだろう。
「はわわわわわ、お姉ちゃんごめんなさいっ!! そうじゃなくて、あの、その、」
「そうじゃなくて、なに?」
 ゆっくり喋ろうと心がけた。穏やかに、落ち着いて喋れば、あんなに尖った物言いにはならない。
「ええとええとええとね、その、新メニューっていうのはでも本当で、でも、さっきもゴミ箱があん
なだったし、ええと、」
 あたふたとするつかさはおかしかった。
「あんなって、どんな?」
「ええええええ!? そういう意味じゃないの、そうじゃないの! そうじゃなくてぇ、」
 いちいち予想通りの反応を返してくれるつかさを見ていると、自然と口もとが弛むのがわかる。懐
かしい感覚。にやけそうになるのを誤魔化すために、私は一つ大きな息を吐いた。肩が軽くなった気
がした。
「あーーはいはい、わかったわよ。どうせ、私がろくに料理もしてないだろうからたまにはまともな
ものを食べさせてくれようって言うんでしょ?」
 つかさはぶんぶんと首を縦に振ると、照れたように笑った。

 この笑顔。
 ああ、私はこの笑顔に弱いのだ。
 こんな日ぐらい勉強をしなくてもいいじゃないの、と私のなかのもう一人の自分が囁きかける。
 そうかもしれない。だって、そのつもりがなかったら、最初から部屋に上げなければよかったのだ。
 心が揺らぐ。頼ってしまいたくなる。藁をも掴む溺れる者を、誰に批難することができようか。

 それで、またしても選択を誤ってしまうのだ。


 ……とはいったものの、なにが正しくてなにが間違っているかなんて、本当はわからない。

 多くの人が望むものは正しいのだろうか?
 正しければ人は幸福なのだろうか?
 多くの人が幸福になれば、少数の犠牲はやむを得ないのだろうか?

 私には、法律というものがよくわからない。
 こんなありさまで弁護士を志していただなんて、片腹痛いとはこのことだ。
 百人いれば百通りの正義や幸福がある。そんなことは思春期を過ぎるころには誰にでも理解できる
ことだけれど、そのうえであえて一つの正義を厳正に設定するのが法なのだ。世の中は矛盾だらけな
のに、法律は矛盾を許してくれない。
 それを私は許すことができるだろうか?
 それでも今なお、その仕事への憧れを捨てられない私は、なにがしたいのだろう?

 つかさは、つかさを知るすべての人が想像したとおりの、そして望んでいたとおりの職に就いた。
 それは、寝ても覚めてもケーキ作りのことばかり考えていればいい職業。私からすると拷問のよう
な生活だけれど、料理好きのつかさにとっては、きっとそれは楽しくて楽しくて仕方のない日々なの
だろう。
 もちろん仕事だから、楽しいことばかりではないに決まっている。
 でも、つかさは前向きな子だ。どんなに辛く苦しい目に遭っても、そのなかから一片の幸せを見出
すことのできる子だ。幸福になる才能があるのだ。
 私とは違う。
 だから、いつでもあんな輝いた笑顔を見せていられる。その笑顔で幸せを掴むことができる。
 だから、私はつかさに会いたくなかった。

 でも、いざ会ってしまうと、その眩しくて暖かで穏やかな光を拒むことなんてできない。
 なぜって、その光の届く距離にいれば、私まで輝いてるように錯覚できるのだ。ちょうど、太陽の
光を浴びて輝く月のように。

「お姉ちゃん、朝ご飯まだでしょ?」
 言うやいなや、つかさは早速キッチンに立った。その後ろ姿に、私ははっとする。見慣れぬ背中だ。
独特の雰囲気というか、オーラというか、そういうものが感じられた。プロとしてのプライドがそう
させたのだろうか、あるいは、大人の女としての凛とした振る舞いを身につけたということだろうか。
いずれにせよ、纏ったエプロンが見覚えのある子どもっぽいものでなければ、別人かと思ってしまうほどだっ

た。
 けれど、口を開くと昔のままのつかさで――
「なに作ってくれるの?」
「えへへ、内緒!」
「でも、材料が丸見えだからだいたいわかるぞ」
「はうぅぅぅぅぅぅ!!」
 ――そのギャップに頭がくらくらした。
 この三年という月日が、三日とは言わないまでも、せいぜい三か月程度だったように思えてくる。
それが、ずっと一緒に育ってきた家族というものなのだろうか。
 つかさと話をするのは楽しかった。久々に交わしたまともな会話だということを差し引いても、凝
り固まった心がほぐれていくような心地は、きっとつかさとの会話でなければ得られなかったろう。
軽快な包丁のリズムも手伝ってくれたのかもしれない、いつのまにか私は昔のように自然に言葉が出
るようになっていた。自然な笑顔は、顔の筋肉が痛くならないのだと思い出した。声がいつもより少
し高くなっていることに気づいて、恥ずかしくなる。些細な話を共感し合うだけで楽しい。

 ……今なら、すべてをつかさに話してもいいのだろうか?

 そうこうしているうちにいい香りが立ちはじめ、素材でしかなかった食品たちは見る見るうちに料
理という美しいアンサンブルに姿を変えた。魔法のようだと思う。同じ材料を与えられたって、絶対
に私にはああはできない。
「ケーキだけじゃなくて、ちょっとした小料理屋なんかもできるんじゃないの?」
 素直に褒めると、またしてもつかさはぶるぶると小動物のように首を振った。
「全然だよ! 全然まだまだだよ! ケーキだってまだ半人前だもん!」
「私のまえでそんなことを言うとはいい度胸ね」
「あうぅぅ、そういうつもりじゃないのぉ」
 つかさをからかうのはやっぱり面白い。同じDNAという素材から生まれた双子なのに、どうしてこう
も違うのだろうかと不思議になる。いつまで見ていても飽きない。できることなら、ずっとこうして
いたい。
 けれどあんまりからかいすぎるのも悪いかなと思って、私は食器の準備をすることにした。これぐ
らいは自分でやらなければ申し訳ない。つかさの料理の様子から、必要な皿の大きさと深さを推測す
る。自慢にもならないが、食器並べに関しては私のほうがずっと慣れているのだ。なにせ、実家にい
たころから、私に手伝えるのはこれしかなかったのだから。箸とフォークがプラスチックの使い捨て
なのは勘弁してもらうことにしよう。ここには何人分もの食器は存在しない。
 二人で食事するには我が家の机は小さすぎるが、そこに所狭しと食器を並べていくと、なんだかお
ままごとセットで遊んでいるような気になってくる。私のしていることはおままごとのようなものな
のだろうか? ひとりぼっちのおままごと。
 ぐつぐつと煮立つ鍋の音がつかさの背中に重なると、つい実家にいたころを思い出してしまう。

 私は、帰りたいのだろうか?
 ……帰るって、どこに?
 わかっていた。たぶん、私の帰りたい場所はもうどこにも存在しないことを。あの場所へは、どん
な最新鋭の音速旅客機を使ったって、永遠に辿り着くことはできないのだ。
 それなら、どうして私は今さら勉強しようとしているのだろう? 過ぎた時間は取り戻せないのに。

 気を紛らすために見飽きたはずの部屋を見回した。こちこちと冷徹に時を刻んでいく時計が、なぜ
だか頼もしく思えた。
 そうだ。時は止まらないから勉強をしているのだった。戻りたい場所が存在しないなら、また未来
に新しい自分の場所を作ればいい。そう決めたじゃないか。それで会社も辞めたし、ゼロから出発し
ようと決めた。考えなしに生きているわけではない。前へ進んでいるのだ。

 でも……とまた考えが巡ってしまう。
 でも、そうやってポジティブで立派なことばかり考えているけれど、私には実態が伴っていない。
全然勉強が足りていない。これで自分を変えられるだなんて、人生をなめているにもほどがある。
 時間がないなんていうのは言い訳だ。時間は誰しもに平等に与えられている。頭の出来が違うなん
ていうのも言い訳だ。それならその分たくさん努力すればいい。
 ただの理想主義者じゃないか。努力が足りないくせに夢ばかり見ているんだ。おまけにその理想ま
でぶれているときた。
 思わず笑いがこぼれてしまって、鼻唄で誤魔化した。

 やっぱり、つかさには話すことはできない。
 夢を、理想を、希望を、すべて描いたうえですべて叶えたつかさには、私なんて口先だけの人間に
映るだろう。
 手を伸ばせば触れる距離にある、あの背中が、今の私には果てしなく遠いものに見えた。




















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