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『4seasons』 秋/静かの海(第五話)

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匿名ユーザー

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だれでも歓迎! 編集
『4seasons』 秋/静かの海(第四話)より続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


§8

「あ、ほらほら、ハチクロが一週遅れだよ。こういうの見ると、ほんと地方にきたって感じが
するよね~」
 カチカチとリモコンを弄っていたこなたが、テレビに映し出された番組を見て云った。
「へー、ちょっと意外。あんたハチクロなんて見てたんだ」
「あれあれ? 私、何気になんか馬鹿にされてる?」
「いやいや。だってあんたが好きなのって、男の子向けの漫画とかアニメばっかりじゃないの」
「むー、失礼だなぁ。普通に原作漫画好きだよ? これでも一応おにゃのこなんだから、
少女漫画だって読むもん。ほら、CCさくらとか?」
「CCさくら……確かに少女漫画だけど、なんか違くないか?」
「じゃ、セラムンとか?」
「いつの時代の少女だよ」
「なにを云う、ほんの十五年前じゃないか」
「だから幾つなんだおまえは」
「伊代はまだ、18だから~♪」
「ええと、すまん、何のネタだそれは」
「センチメンタル・ジャーニーだよ。松本伊代のデビュー作、一九八一年の。知らないの?」
「知るか! だから幾つだよおまえ!」
「シュビドゥバ♪ シュビドゥバ♪」
「だーー!! もう歌うな! 踊るな! はしゃぐな! 回るな! っていうか、勉強しろ!!」
「ぶーぶー。せっかく遠くまできたんだから、一晩くらいいいじゃん。ほんとかがみって
真面目なんだから……」
 なんて文句を云ってはいたけれど。
 ちゃんと座って勉強を再開するのだから、こなたも随分真面目になったのだ。
 ホテルに戻った私たちは、着替えをすませて楽な格好になると、早速ノートと参考書を
拡げて勉強を始めたのだった。元々泊まりの晩もさぼらずに勉強をするという約束だった
からついてきたのだし、その点こなたに否も応もないはずなのだ。今のはちょっとふざけて
みせただけだろう。
 ――どちらかというと、私の方が気持ちを切り替えるのに大変だった。
 泉家からの帰り際こなたが無邪気に語ったすぐる君絡みの話は、私の心を覆う鎧にひびを
入れてしまっていた。『かがみは私の嫁』。こなたはよくふざけてそう云うけれど、このときほど
その言葉が毒を孕んで突き刺さったことはなかった。
 なんと云っても、そこにはきっとこなたの本心が篭められていただろうから。
 こんなところまで連れてきたのだ。母親のお墓参りにつきあってと、実家まで連れてきたのだ。
こなたが私に好意を抱いていないはずがない。大事に思っていないはずがない。
 こなたはそんな好意をあからさまに示してくれていた。そうしてきっと、そのことで私が喜ぶ
だろうと思ってくれている。
 その気持ちが心から嬉しくて、だからどうしようもなく辛いのだ。
 こなたが私に抱いている好意は、私がこなたに抱いているものとはまるで違うものなのだから。
 ホテルの部屋に戻って、最初にサニタリースペースに向かった。こなたと二人の部屋で、
こなたと二人の夜を過ごす前に、立ち直らないといけなかった。この旅行を、なんとしても
いい思い出にするんだ。出発前に抱いたその気持ちは今も減ずることなく抱き続けている。
 パウダールームの鏡に写った自分の顔をにらみつけて、気合いを入れた。昔ならこんな
ときには顔を洗ったりしたものだけれど、化粧が崩れるからそんなことはできなかった。
女であることが少しだけ恨めしく感じる瞬間だ。
 大丈夫。私は隠し通すことができる。そうだ、一番大切なことを思いだそう。私はこなたが
好きだから、こなたを悲しませたくはない。
 それは単純な二段論法で、単純だからこそいつも私を救ってくれる魔法の言葉だった。
道を見失いそうになったとき、感情の隘路に嵌りこんでどうしたらいいかわからなくなったとき、
その言葉を思い出せばいつでも元の自分に戻ることができたのだ。
 ――サニタリースペースから出てきたとき、私のつけた仮面はすっかり修復できていたはずだ。
「長かったね、さては大だな!」
 なんて子供みたいに喜んで云ったこなたに、即座に枕を投げつけることができたのだから。

「ふわぁあああ、疲れたぁぁ」
 そう云って伸びをすると、そのままこてんと横になるこなただった。二時間ほど勉強に
集中していて、もういい時間になっていた。
「へー、よくまとめられてるじゃないの」
 テーブルに開きっぱなしになっていたこなたのノートを眺めて云った。
「ま、ねー。やっぱりさ、書いていかないと覚えらんないよね」
「うんうん。……って、なにやってんのよ」
 横になっていたこなたはもぞもぞとテレビの方にはいずっていき、投入口にかしゃんかしゃんと
コインを入れていた。
「ん? むふふ、ご・ほ・う・び」
 猫口になってにまにまと笑うこなたをみているうちに、厭な予感がわき上がってきた。
案の定「ぽちっとな」なんていいながらこなたがリモコンを押すと、テレビに映し出されたのは
巨大なモザイクの塊で。
 胸が悪くなるような媚態に塗れた艶声が、大音声で響き渡った。
「こ、こここここらーー! なんて番組見るんだあんたは!」
「えー、いいじゃん。これが楽しみでホテル泊まってるのにー」
 ニヤニヤと目を細めて笑うこなたの目の前で、裸の男女があられもない格好で腰を振り合っている。
「うわぁ、そんなことしちゃうんだ」
 こなたが少しだけ頬を染めて呟いた。
 その光景をみて、全身の血が沸騰するような劣情を感じた。桃色の靄が体中の毛穴から吹き出して
くるような感覚。
 これは危険すぎる。
 いつも通りのいたずらの延長なのだろうけれど、今の私には洒落にならなかった。
「こら! まじでやめろって、リモコン渡せ!」
「やだよーだ。お金入れてるんだからもったいないじゃん」
 リモコンを高く上げてとられまいとするこなたに、私は飛びかかった。
「だー! もう怒るぞ本当!」
「ぷくく、かがみ顔真っ赤だー。本当は興味あるんでしょ?」
 こなたは相変わらずすばしっこかった。
 つかもうとした腕からするりと逃れ、体重で抑えこもうとしてもバランスを崩されて気がついたら
転がされている。
 跳ねるように動くしなやかな身体。それに合わせてこなたの髪がひるがえる。
 ひらり。
 ひらり。
 青い髪がひるがえる。
 それはまるで床に広がった海にも似て。
 その海の間に間にちらほらと、こなたの楽しそうな笑顔がかいま見える。
 小さくあがる嬌声。息を荒げるこなたの吐息。私より少しだけ高い体温。

 気がつくと、こなたの身体が私の下にあった。

 視界をいっぱいに占めるこなたの顔。ほんの少し顔を下げるだけで、触れあってしまいそうな唇。
楽しさを湛えてきらめいた青竹色の瞳。頬にかかる甘い匂いの吐息。額はほんの少し汗ばんで、
はりついた髪の毛が肌に流麗な曲線を描き出している。触れあう足の、すべすべとした感触。
そのしなやかな弾力にみちた肢体。そして抑えつけた私の胸を押し返す、激しい運動にはずむ
こなたの胸。小さいけれどちゃんと柔らかく膨らんだ、こなたの女の子の部分。
 テレビから流れるバックグラウンドノイズ。
 それは今にも気をやりそうな女性の艶声に満ちていて。
 ぬるりと、下半身で何かが零れおちた。
 魔法の言葉は、もう届かなかった。
 頭の中は桃色の靄に包まれていて、思考が上手く結べない。
 あと少し、ほんの少し顔を突き出すだけで、こなたの唇を奪える。
 艶めいて、誘うようにぱくぱくと開閉するその桜色の唇を。
 私はそのとき、本気でこなたにキスをしようとしていた。
 事実そうしようと首筋に力をいれた。
 そのときだった。
 壁から甲高い電子音が鳴り響き、その警報のような音が私の動きを止めたのだ。
「あ、お風呂わいた」
 何事もなかったように快活に云って、こなたはテレビの電源を切ったあとするりと私の下から
抜けだした。そして壁に設置されていた全自動風呂のパネルに歩いていき、アラームを止めたのだった。
「かがみ、先入る?」
 振り返って訊ねるこなたに、私は霧散した理性を必死でかきあつめて、普段通りの口調で答える。
「あんた先入っていいわよ」
「ん。それとも一緒に入ろっか?」
 なんて嬉しそうに目を細めて云うこなたに「入るか!」と怒鳴って、私はちらばった筆記用具を
かきあつめていった。
 顔を背けながら。

 お風呂場にこなたが消えたあと、私はその場にうずくまって泣き続けた。


§9

 ただ月だけが見下ろしている。
 この部屋は、月明かりに満ちて夜の海に浮かぶ難破船のようだった。
 カーテンがあけはなたれた窓からは、鏡のように凪いだ静謐な海と、ただ中天に浮かぶ
満月だけがみえている。
 月の光は死んだ光なのだということを思う。
 自ら輝くことなく、太陽の輝きを反射しているだけの存在。何も生み出せず、惑星も衛星も
ひきよせることができず、ただ地球と太陽に依存して在るだけの存在。
 そんな月の雫を浴びて佇む私も死人のように青醒めている。
 あの辺り、餅つきをする兎の胴体の辺り、そう、あそこが静かの海だ。
 アポロが着陸した海だ。
 人は、そんなことすらなしうるのに。人の営みは宇宙を渡ることすら可能にするのに。
 私はこんなところでこんな海に惑っている。
 そんな自分の余りの小ささに、自嘲しかでてこなかった。

 眠れようはずがなかった。
 なんでもないふりをしてお風呂に入って、たわいないお喋りをして、おやすみといってベッドに
入り込んだけれど。
 目はどこまでも冴えていて、身体は熱病に罹ったように火照っていて、思考はぐるぐると
同じ所を回り続けていた。
 ――私は、こなたを裏切ろうとした。
 こなたの意志に反して、こなたの思いも無視して、一方的に奪うようにキスをしようとした。
 最低だ、私は。
 あのときお風呂のアラームが鳴らなかったらどうなっていたことだろう。それを思うと
背筋が凍る思いがするのだった。
 背後からはすーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。まるで安心しきったようすで、
満ち足りた笑顔を浮かべながらこなたは眠りについている。
 その信頼が悲しかった。その充足を哀れに思った。
 私は同性だけれど、だからと云ってこなたが安心していいような存在ではないのだ。
 あのときの様子を思い出す。私の下になって、息を荒げていたこなたの様子を思い出す。
 顔を赤らめることもなく、恥ずかしがることもなく、ただ楽しそうに笑っていた。友達なら
それが当たり前で、同性ならそれが普通の反応で。わかっていたことだけれど、あらためて
こなたが私にそんな感情を抱いてはいないことを思い知るのだった。
 布団をはだけ、股をおっぴろげてすーすかと眠るこなたを見下ろして思う。
 本当に好きだ。
 どうしても、この子が好きだ。
 ――こんな感情なんて、なければよかったのに。
 そうしたらこんなに惑うこともなく、ただ無心でこなたの一番の親友でいられたのに。
そうできていたら、私もこなたもどれだけ救われたことだろう。
 顔をそむけながら布団をかけなおして、浴衣から普段着に着替えて部屋を出た。せっかく
こんなところに来たのだから、散歩でもしてこようと思ったのだ。少し身体を動かせば眠れる
ようになるかもしれない。そう思った。
 そっとドアを閉めると人心地ついた。こなたの姿がみえなくなることで、やっと私は安心する
ことができたのだ。
「――かがみちゃん?」
 突然聞こえてきたその声に振り向くと、月明かりに照らされた廊下の先、海を見下ろす
ラウンジに、そうじろうさんが座っていた。
 くゆらせた紫煙が、月光を浴びて銀の糸のように中空をただよっている。逆光でできた
影に閉ざされて、そうじろうさんの表情はよくみえない。手に持っていたウィスキーグラスの中で、
氷がピシリと音を立てて割れた。
「……小父さん?」
「どうした、こなたのいびきがうるさくて眠れないかな? あいつ、そんなにいびきかかないと
思ったけど」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」 
 ふと、小父さんは泣いているのかもしれないと思った。
 声はしっかりしているし、涙がみえたわけでもないのだけれど、不思議とそう思った。
 元々どうしても散歩にいきたかったわけじゃない。ただ少しこなたの傍から離れたくなった
だけ。気持ちを切り替えたかっただけなのだ。
 だから、ここで小父さんと話をしていくのもいいなと思った。訊きたかったこともあるし、
こんな夜に尊敬できる大人と差し向かいで話をするというのも、きっと素敵なことだと
感じられたのだ。
 私がそうじろうさんの向かいのソファに腰を下ろすと、小父さんは薄く笑ってウィスキーを
差し出した。
「いえ、未成年ですから」
 そう云って断ると、小父さんは声を立てて笑った。
「はは、やっぱりかがみちゃんは真面目だな。こなたの奴は目を輝かせながら一息で飲み込んで、
盛大にむせてたっけ」
「……それ、いつくらいのお話ですか?」
「ん、中一だったかな。初めてこっちにつれてきた時だ」
「それは……。飲んだことがなければ子供は飲んじゃいますよ。私だって、好奇心にかられて
飲んでみたことはありますし」
「へえ、優等生のかがみちゃんでも、そんなことあるんだな」
 そう云ってわざとらしく驚いてみせる小父さんだった。
 手にもっていたタバコの火がフィルター近くまできている。小父さんはそれに気がつくと、
長く伸びた灰を灰皿に落として火を消した。
「それは……ありますよ。タバコだって、一応。っていうか私そんなに優等生じゃないですって。
こなたを基準にされても困りますから」
「はははっ、違いない。あいつに比べたら誰だって優等生にみえるか」
 そう云ってそうじろうさんは、壁に掛かっている時計をちらと見上げた。
 私もつられてそちらを見上げる。
 三時四十分。さすがのこなたでも、普段なら起きているはずもない時間だろう。
「十一月二十三日、四時五分」
「――え?」
 ぽつりと漏れ出たおじさんのつぶやきに、私は訊ね返す。
「十八年前、あいつが逝った日時だよ」
 しみじみと云って、ウィスキーを一口含んだ。
 そういえば今日は十一月二十三日だった。普段のお墓参りはその前後の休日のいつかに
くるという話だったけれど、今年は丁度命日にくることができたのだ。
「――あ、それで。……ごめんなさい、お邪魔でしたか」
「いやいや、とんでもない。かがみちゃんさえよければ、できれば一緒にいて欲しいくらいだよ。
あいつも喜んでくれるだろうさ。娘にこんな大切な友達ができたことをね」
 その言葉は照れくさくて、そして少しだけ後ろめたい。
「こなたは、一緒に迎えないんですか?」
「ん。時間まで云ったことはないな。なんていうか、こなたにとってあいつは最初から亡き者だった
だろうし。四時五分は、逝くところを見届けた俺だけに意味がある時間なんだな」
 ふと、十八年前の光景を想像する。
 どことも知れぬ、真っ白な病室で。
 それよりなおいっそう白く、青ざめた蝋のような顔色をしたかなたさん――そのイメージは
私にとってこなたに他ならない。
 そっと瞳を閉じたこなたは、かなたさんは、もう二度と動くことはない。どんな箇所の、
どんな小さな動きさえ、もはや二度とみることはかなわない。
 その瞬間に永遠に失われて、決して取り戻すことはできない何か。
 それまで生きてきた迷いも、努力も、誠実さも、夢も、思い出も、愛情も。すべて根こそぎ
消え失せる、完全なるフラット。
 それが死だ。
 そのとき私は、そんな死のイメージにとらわれて、少しだけ涙ぐんでいたと思う。
「……ありがとう」
 私をみつめて、小父さんは優しく云った。なんだか同じことをこなたにも云われた気がする。
「……いえ、そんな……。なんだかかなたさんのことを勝手に思い描いてしまって。そんなこと
本当はしちゃいけないと思うんですけど……」
「いや……。それもあるけどな。俺がお礼を云ったのは、今生きているこなたのことだよ」
「え?」
「こなたは明るくなったよ。陵桜に入って、かがみちゃんやつかさちゃんやみゆきちゃんが
友達になってくれて。今日だって、こんなところまで来てくれてなぁ」
 泣いているように見えたのは錯覚だったのか。小父さんは意外なほどさばさばとした表情で、
こなたの話を続けていく。
「それまでが暗かったってわけじゃないんだけどな。根っこのところでは変わってないと
思うんだが、前までは周りの状況に合わせて的確に演技をしていくようなやつだった」
「……そうなんですか」
 それは、前から思っていたことではあった。こなたのバランス感覚の高さは、例えばまだ
仲良くなる前のみさおやあやのに対するしゃべり方や、みなみちゃんやゆたかちゃんと一緒に
いるときの表情などからもうかがい知れた。どんな状況でも波風を立てず、水のように表情を
変えて自然と溶け込むあの如才なさ。
「それが、場の雰囲気を一変させるようなオタクな発言も平気でするようになった」
「……それ、子供っぽくなったってことなんじゃ……」
「ははっ、そうかもしれないな。でも、子供っぽくない子供よりは安心できるんだよ。無理して
作った仮面をみせられるよりはね」
 そう云ってちらりとこちらをみつめる小父さんの視線は、なにやら言外の意味を含んで
いるようにも思えて、背筋がぞわりとする。
 まさか。いや、そんなはずはない。
 いくらなんでも、小父さんと顔を合わせて話したことなんてごくわずかだ。そんな時間で
私が被っている仮面を見破れるはずもない。こなたにだって隠し通せているのに。
「――小父さんは!」
 気のせいだとは思うのだけれど、ごまかすように云った私の言葉は、つい語気が荒くなって
しまっていた。
「う、うん?」
 そうじろうさんはきょとんとした顔で目をぱちくりとしている。してみるとやはり私の気の回し
すぎだったのだろうか。でも、云いだしてしまったからには、話を続ける他はなかった。
「そ、その。かなたさんが亡くなって……でもお一人でこなたを育てて……その、偉いと云うか、
どうやって立ち直ることができたのかとか……」
 何を云っているんだ私は。
 確かに、かなたさんが亡くなったあと小父さんがどうやって前を向くことができたのか、
訊きたいと思ったけれど。そんなことは普通直接訊くようなことでもないし、なによりなんで
そんなことを訊きたいのかと不思議に思うだろう。
 けれどそうじろうさんは、面白いものをみたとでもいうように興味ぶかげな表情を浮かべながら、
淡々と喋りだした。
「うーん、そうだなぁ。正直云うと、立ち直ろうと思う暇すらなかったっていうのが本当だな」
「……というと?」
「とにかく俺が動かないと、乳飲み子のこなたが死んじまうからさ。必死だったよ。ひたすら
ばたばたばたばたしてて、気がついたらそれが日常になっていたな」
「そうか……そうです、よね」
「当時俺とゆきは東京に出ていて、なんていうか、俺だけじゃなくてゆきも色々あったんだよ。
親父はかんかんになって片っ端から勘当を云い渡すは、お袋はそんな親父に逆らってこなたの
面倒を見に東京まででてきたりして、またそれでぐちゃぐちゃになってさ。まあ、今思い出すと
冷や汗がでるよ。本当にガキだったんだ、俺は」
 自嘲するようにそういって、グラスを傾けるそうじろうさんだった。
 こなたのお父さんだからと、ついなんでもできる大人のように思ってしまうけれど。考えてみたら
こなたが産まれたときこの人は確かまだ大学生で。二十代の前半だったと聞いた。してみると、
今の私とそう大きく歳が違うわけでもないのだ。これから先の数年で私がどう変われるのかは
わからないけれど、少なくともそれで人の親になれる覚悟が身につくかというと、到底そうは
思えなかった。
「でも……」
「ん?」
「あ、いえ、生意気なことを云うようですけれど。そうじろうさんは、こなたをあんな子に
育て上げることができたんですから……その、それは素晴らしいことだと……」
「んー? ふふ、あんな子っていうのはあれかな。ツンデレツインテ萌えーとか云って
かがみちゃんの髪をひっぱって遊ぶような子っていうことかな?」
「そ、そうじゃなくて! っていうかなんでそんなこと知ってるんですか!」
「お、当りか。まあ、あいつがやりそうなことなら大体わかるよ。俺がしたいことと変わんない
からなぁ」
 そういってカラカラと笑うそうじろうさんだけど、要するにそれは、目の前のこの小父さんが
私の髪を引っ張って遊びたいといっているようなもので。
 私は少しだけ、ソファーを後ろにずらした。
「じょ、冗談だってばかがみちゃん、やだなー」
「……なんで棒読みなんですか」
 そう云いながらも、なんだかそんなやりとりが可笑しくて笑ってしまった。そうじろうさんも
苦笑しながらウィスキーをグラスに注いでいる。
「こなた、優しい子ですよね。普段はあんなだけど、それでも学校のみんながこなたのことを
好きなのは、みんなそれを知ってるからだと思います」
「――うん、そうだな。もう少しだけ自分のことも大事にしてくれると安心できるんだけどな」
「それは……。私もそう思います。それがなんだか悔しくて、つい色々口出してしまうんですよね……」
「うん。そのあたりはかがみちゃんたちに任せるよ。……本当にあいつはいい友達をもった。
俺があいつにしてやれることなんて、もうなにもないんだな」
「そんな……私たちもまだ子供ですから、まだまだ大人の手助けが必要ですよ」
 私がそう云うと、そうじろうさんはなぜか薄く笑いながら、グラスのウィスキーを飲み干した。
グラスを振ると、残った氷がカラカラと音を立てる。
「そうかな? 俺が家を出たのは大学入学と同時だったよ。こなただって、そうしてみて
もいいんじゃないかな」
「――え?」
 それは、なんだか不思議な言葉だった。かなたさんが亡くなって、その忘れ形見である
こなたをずっと育ててきて。それこそがそうじろうさんの生きる糧だったのだと、そう理解していた
けれど。
「こなたが家を出て、寂しくないんですか?」
 そうじろうさんの云い方は、そう云っているように聞こえたのだった。
「まぁな。なんていうか、必ずしもこなたが近くにいる必要はないんだよ」
 混乱して言葉を継げられない私に、そうじろうさんはいたずらっぽく目を光らせながら
重ねて云った。
「たとえどこにいたとしても、こなたがこの世のどこかに存在してると信じられたなら、
俺は生きていけるんだな」
 その言葉に、私は一瞬はっとする。
 ――それはなんだ。
 その境地は一体なんだ。
 私は、何も云うことができずに絶句していた。
「そりゃ、近くにいてくれたら嬉しいし、俺が望むような人生を送ってくれるにこしたことは
ないけどさ。でもなんていうかな、こなたは神様みたいなもんなんだ」
「か、神様? それってその、“俺が新世界の神になる”的な?」
 混乱した頭で私がそういうと、そうじろうさんは「なんでデスノネタなんだ。かがみちゃんも
こなたに染まってきたかな」なんて楽しそうに笑うのだった。
 それが堪らなく恥ずかしくて、顔に血が昇っていくのを感じていた。私の顔はきっと耳まで
赤く染まっていたことだろう。
「天にまします我らが父よ、の神だよ。クリスチャンがあらゆる森羅万象に神の御業をみ
て、直接その姿を偶像としてみなくとも神を身近に感じられるみたいにな。俺にとってこなたは、
そういう存在なんだよ」
 ――ただ、在ればいいんだ。
 そう云った。
 それはまるで信仰のようだと私は思った。
 家の職業柄、私にとって信仰と神は身近だ。
 不可知論者の私は、神の実在を信じることはできないけれど。それでも信仰という物が
この世界を受容するための方便として機能してきた、その功績を否定することはできなかった。
 どんなに辛い目にあっても、どれだけ悲惨な運命に弄ばれても、ただ一言“御心のままに”と
云えば、その全てに意味をもたせることができる、そんな人生を受け入れることができる。
 この世のどこかにこなたがいるのなら。
 こなたがいる世界のことならば。
 そうじろうさんは、こなたがそういう存在なのだと云っているのだった。
 それは、なんという強さなのだろうと思う。なんという愛し方なのだろうと思う。
 私にはそんな風にこなたを愛することはできなかった。
 そばにいて欲しいと願った。
 顔を見たいと願った。
 触れたいと願った。
 だから、傷つけた。
 だから、裏切りそうになったのだ。
 でも、そうじろうさんは違う。
 こなたに何も求めない。こなたに何も願わない。こなたのどんなことも受け入れて、なおそれを
世界の中心において考える。
 ――敵わない。この人には敵わない。
 敗北感に押しつぶされそうになった私に、そうじろうさんはぽつりと云った。
「人の親なんて、多かれ少なかれそういうもんだよ。きっとただおさんもね」
 そっとグラスをおいて、窓の外に視線を向けた。

 海が広がっている。

 涯もみえぬほど、世界を覆い尽くすほど、広い海が。
 茫漠としてやがて空へと繋がっていく、暗い海が。
 ――なんて広くて、なんて深くて、なんて暗いのだろう。
 その海のあまりの豊穣さに、少しだけ眩暈がした。

 そのとき、そうじろうさんの浴衣のたもとから、携帯の振動音が聞こえてきた。
 手を差し込んで振動を止めると、そうじろうさんはしみじみと云った。
「――四時五分。十八年前の今この瞬間、あいつは逝ったんだ」
 その言葉に溢れそうになった涙を隠して、私は黙祷をする。
 かなたさんに、こんな思いの全てを伝えられたらと思う。
 あなたの娘さんのことを、私がどれだけ好きかとか。
 旦那さんが、今もこうしてあなたのことを偲んでいることとか。
 この世界のすばらしさとか。
 月が綺麗なことだとか。
 そんなこと全てを。
 でも、それを伝えることは叶わない。
 死んでしまった人に、想いを伝えることは決して出来ない。
 亡くなってしまった人には、もう二度と出会えない。
 それがこの世の理なのだから。
 だから私たちは、せめて日々を誠実に過ごすのだ。
 この一瞬の命の輝きを信じて。

 そっと眼を開けた私を、そうじろうさんは優しい眼差しでみつめていた。
「かがみちゃん」
「――はい」
「辛いかもしれないけれど、こなたのことをずっと好きでいてやってくれないか」
「――はい?」
 なぜ、“辛いかもしれないけれど”なのだろう。
 そのとき私は不思議に思った。
 けれどその意味がわかるのは、それから随分後になってからのことなのだった。


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『4seasons』 秋/静かの海(第六話)へつづく


















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  • もう
    OVA化するべきですね。 -- チャムチロ (2012-08-14 15:43:02)
  • そうじろうの価値観に絶句。陳腐な言葉だけどすごいと思った -- 名無し (2008-10-13 23:40:36)
  • 一言素晴らしいとだけ書いておこうか -- 名無しさん (2008-08-29 00:40:48)
  • なんかこの人の価値観までも伝わってくる -- 名無しさん (2008-08-13 01:55:17)
  • 神様よ…もう様付けだよ… -- 名無しさん (2008-05-31 19:51:42)
  • 神だらけのこの世界に乾杯 -- 名無しさん (2008-03-13 05:47:08)
  • 神よ・・・… -- 名無しさん (2008-03-11 15:24:50)
  • 敵わねえよ
    -- 名無しさん (2008-03-11 13:05:10)
  • じれったい二人の関係に毎度ドキドキさせられっぱなしです
    次も楽しみにしてます -- 名無しさん (2008-03-11 02:36:28)
  • 泣きそう -- 名無しさん (2008-03-11 00:02:03)
  • 毎回読ませてもらってます凄い楽しんで読んでます!次も頑張ってください -- 名無しさん (2008-03-10 18:36:54)
  • これからのかがみとこなたの関係の移り変わりが楽しみで仕方がない。 -- 名無しさん (2008-03-10 01:44:35)
  • 切ない。悶々とする。ああもう。ああ。楽しみにしてました。楽しみにしてます。うん。 -- 名無しさん (2008-03-10 01:37:12)
  • イヤッホオオオオオ!
    かがみの一途なところが良くて良くて…
    至福のひと時、癒し、正直…たまりません、うん -- 名無しさん (2008-03-10 01:26:21)

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