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紫煙に溶けゆく

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 疲れた。
 漸く大学の講義が終わり、私は校門の前で一息を吐いた。辺りには私と同じように講義の疲れを友達らしき人に訴えている人や、早々に帰宅している人が眼に入る。私と違う点と言えば、傍に友達が居る事ぐらいだった。
 雑踏に賑わう校門前は騒々しい喧騒に包まれていて、その煩さが私をより一層暗い気持ちにさせる。周りが悪い訳ではないのだけれど、どうしても心中で毒づきたくなるのは人間の性なのだろう。
「はあー、疲れたー」
 何となく心の中だけでは収まらない気持を吐露してみると、思いの外気分が楽になった。校門の前で佇んでいるのは私くらいで、他の人達は私を置き去りにするかのように歩みを進めて行く。何だかそれが妙にやるせなくて、そして寂しかった。昔の事を思い浮かべると、それがまた色濃くなるのだ。
 私は鬱積を晴らそうと首を勢い良く振り、肩に掛けたショルダーバッグを掛け直すと帰路に向かって足を踏み出す。ハイヒールがコンクリートを踏みしめて、カツ、と小気味良い音を鳴らした。それが何だか私が大人になった事を示しているみたいで、嬉しくもあり、また寂しくもあるのだ。私が望んだ大人の理想像は、今の私ではないのだから。
 空を見上げれば、晴天が広がっている。澄み切った蒼い空に漂う綿菓子のような雲はその進路を固定する事なく自由気ままに風に乗って流れて行くのだろう。そんな雲に、少しだけ憧れの念を抱いた。我ながらセンチメンタルな思考回路が形成されたと自嘲気味に笑みを零して、私は小気味良い音を二、三と続けて行くのだった。





紫煙に溶けゆく




 歩き慣れた大通り、道路を自動車が喧しい音を立てながら走り去って行く。私はその傍らに設けられている歩道を淡々と歩いていた。排気ガスの臭いが鼻に付く。前に住んでいた所も十分に都会だったはずなのだけど、私が越してきた此処は空気の味と言うか臭いが、全然違うように思う。あまり、好きではなかった。
 都会に出れば何かが変わる、そんな時代錯誤な期待を胸に秘めて此処に越してきたのが三年前。
 私は大学三年生になり、二十一歳と言う立派な成人女性として新たな人生をスタートした。今でも私が引っ越して一人暮らしをする、と言った時の皆の表情を覚えている。忘れようにも忘れられない、色んな表情を見た。
 お母さんは表情を暗くしていたけれど、それでも頑張ってね、と激励してくれた。私が此処に来る前に食べた、お母さんとつかさが作ってくれた柊家での食事は文字通り涙を飲むものだった。
 家を出る、たかがそれだけの事なのに、私は声を出すまいと喉に力を込めながら食べていた所為で上手く食べ物を咀嚼出来なかった。そんな私を、お母さんは何時もと同じ優しい目で見ていてくれた。私が家を出る決意を固める事が出来たのも、お母さんのお陰だったと思う。
 子供を四人も生んで、特に私はつかさと二人一緒に生まれた訳だから子育ても楽ではなかったはずだ。私はまだ母親の気持ちになって考える事は出来ないけれど、それでも母親が持つ強さと言う物を実の母親から常に教えられていたのだ。だから、小さい頃から私の理想の大人像は常にお母さんだった。
 最後の食卓、いのり姉さんは嗚咽を必死に堪える私の背中をずっと撫でていた。お母さんに一番似ていると、他の家庭からも言われている姉さんは私にとって羨ましい人だった。きちんと自立して、毎日私やつかさの事も気遣ってくれて、何時も優しいお母さんを映したような人だった。そんないのり姉さんを、私は目標の対象にして生きていた。
 お母さんよりも私と年が近くて、だからこその目標だった。若い私にはお母さんのような人になるにはまだまだ時間が掛かる事だと思っていたから、そう言う意味では私の本当の目標はいのり姉さんだったのかもしれない。
 だから、兄妹の中でも特に姉さんと似ていると言われた時は何時だって嬉しかった。
「……」
 ふう、と一息、溜息を吐く。そろそろ春だろうか、真冬の寒さは最近になってめっきり影を潜めている。夜になればそれなりに寒いと感じるけれど、今の時間帯では暖かな春の陽気さえ感じる事が出来た。もう少し空気の綺麗な所であったのならば、私は大きく深呼吸をしていた事だろう。此処ではそんな気も失せてしまうけど。
 人通りが先ほどに比べて多くなってきた。歩道ですれ違う人々はスーツを着ているサラリーマン風の男性であったり、疲れた表情をしているOLの人だったりと、みんな一様の姿をした人だった。他から見たら、私も大学帰りの一般人に見えるのだろうけど、そう見られていると思うと言い知れない恥ずかしさが込み上げて来た。
 私は大学に通っていても、立派な人間ではない。学歴社会で高学歴が色んな所から求められているこの世の中から見たら立派な人間なのかもしれないけれど、もっと根本的な所で私は立派ではないのだ。
 それを考えれば気分が悪くなってしまうので、考えないようにはしているけど、それでも胸の蟠りは何時だって残ったままだ。それが私を蝕んで、この眼にモノクロのフィルターを掛けてしまう。
 私は見るもの全てがモノクロに見えてしまうほどに、淡白な人間に成り果てていた。
 以前は何処にでも彩りがあって、見ているだけで楽しい事ばかりだったのに。
 途端に、春の陽気が恨めしく思えた。いっその事なら真夏時の熱い日に晒されれば、真冬の寒さに身を震わせる事が出来たなら、こんな嫌な事は考えないのに。こんな心地の良い陽気は今の私には場違いに思えた。
「……」
 人通りが多くなっていたのは駅が近付いていた証拠だ。程なくして私は目的の駅へと到着した。此処から電車を一本、その後はバスに乗って、自宅近辺のバス停で降りれば数分で自宅に着く。こんな暗澹たる気持ちだと、どうしてもそんな道のりがとても長く思えてしまって、私は再び溜息を吐いた。
 駅は多種多様な人々で賑わっている。外国人だって少なからず見受けられるし、老人や若者まで、年齢層も様々だった。こんな光景も見慣れているはずなのだけど、酷くその光景が異質に見えた。以前とは違う、全く別世界に居るかのような錯覚だ。ラノベでよくある、多次元世界に迷い込んだとでも例えようか。
 私は人々の雑踏の中に紛れ込んで、改札を定期で通りホームへと向かった。座る席が確保出来たら良いのだけど。そんなどうでもいい事を考えながら。
 別に座れなくともいい。ただ、もしも座れたなら足に溜まる疲労も多少は和らぐだけのこと。
 ――私はとことんまで淡白な人間だった。
 階段を降りると、丁度良いタイミングで電車は到着した。扉が開くと、溢れかえるようにして人が出てくる。私は端の、出来るだけ人ごみから離れてその光景を見守り、人波が収まった頃にゆっくりと電車に乗った。けれど、そんな緩慢な動作では勿論座れる席を確保するなんて出来るはずがなく、私は手頃な位置に立つと吊革に捕まった。
 それをスタートの合図とするかのように、電車はがたんと揺れて、やがてそれは定期的なものへと変わって行った。
 私の前は電車のロングシート。したがって、窓の外も良く見える。普段なら席を確保してラノベに読み耽るのだけど、生憎立ったままではそれも難儀なものになってしまう。
 どうしようもないので、私は吊革に捕まりながら流れる外の景色を車窓から眺める事にした。
 映るのは、モノクロの世界だけだけれど。
「ねえ、寝るのー?」
「うーん……ちょっとだけ……」
 ふと、そんな会話が下から聞こえてきた。気になって視線を車窓からロングシートに移してみると、まだ幼い、小学生高学年くらいの女の子二人がそこに座っていた。
 一人はリボンで髪の毛纏めて、小さなツインテールを作っている可愛らしい印象を受ける女の子、もう一人は肩に掛かるくらいまでの髪をストレートに伸ばしているもう一人とは対照的に大人っぽい印象を受ける女の子だ。
 ツインテールの女の子はどうやら春の陽気に当てられたらしく、頻りに首をカクンと揺らしては隣のストレートの女の子に意識を強制覚醒されている。そんな姿が微笑ましくて、私は二人に気付かれないように微笑んだ。
 まるで、私とつかさを見ているみたいだ。二人の様子を見て、初めて思ったのはそれだった。
 つかさが寝そうになって、私がそれを起こす、そんな何気ない日常の一ページがとても昔の事のように思える。昔と言えば昔だけど、昔と言う言葉を使うにはまだ経過した時間は短すぎるだろう。それなのに昔に思えてしまうのは、やはり今の生活に前のような面白さを見出せていないからかもしれない。それは痛いぐらいに理解していた。
「ねえってば。私だって眠いのに……」
「うーん……あと……少し……」
 最早会話さえ成り立っていない。何だかストレートの子が不憫に見えてしまって、そう思った時には私はその子に声を掛けていた。ツインテールの子はもう完全に睡魔に敗北を喫したのか、穏やかな寝息を立てながら電車の揺れに身を任せていた。電車が揺れる度に動くツインテールの髪の毛が可愛らしい。
 本当につかさみたいだと思った。
「君たち、何処の駅で降りるの?」
 出来る限り身を屈めて、困った表情できょろきょろしているストレートの女の子に尋ねると、その子は一瞬びくりと身体を分かりやすいくらいに震わせて私を見た。なるべく怖がらせないように、私は自分の出来る最大の笑顔で彼女を見つめる。丸い瞳が不思議そうに揺らぎ、やがて私の質問に対する答えが小さな唇からか細く紡がれた。
 聞けば、彼女が降りる駅は私が降りる駅よりも早く着く位置にあった。これは好都合、むしろこういう答えを期待していたのだから、私は密かに喜んでいた。目の前の女の子は何だろう、と言った表情で私を見つめている。黒で縁取られた丸い瞳が更に丸くなり、未だ何も行動を起こさない私に対して首を傾げていた。
「そこなら私が降りる駅よりも早いから、良かったら起こしてあげるよ」
「え……でも……」
「眠いんでしょ? 隣の子も、もうぐっすりだよ」
 私がそう言うと、その子は今度は困ったように隣のツインテールの子と私を見比べていた。コロコロと変わる表情に、つかさに与えられていたような安心感が芽生えてくる。つかさは私に心配ばかりかけていたけれど、それでも言葉では説明出来ない癒しがあった。私はつかさのそんな所が大好きだったのだ。
「あの、じゃあ……お願い……しても、大丈夫ですか……?」
 ストレートの子は何度かちらちらと私を見てからそう言った。やはり眠いのだろう、早く眠りたがっているように瞳が微睡んで見えた。私は満面の笑みで頷いて、その子の頭に手を置いて撫でてあげた。さらさらの糸のような黒い髪の毛が抵抗なく私の指の隙間を流れる。触っているだけで心地良い。このままだと私にも睡魔が襲って来そうだ。
「ん、じゃあ着いたら起こすから、今は寝てても大丈夫。安心してね」
 彼女は私の言葉に笑顔で頷いて、恐らくは既に夢心地の状態なのだろう。途切れ途切れにありがとうございます、と言っていた。どうやら頭を撫でてあげると睡魔はその強さを増すらしい。
 私はこの子が静かな寝息を立て始めた後も、暫く頭を撫でてあげていた。
 我が子が居たら、こんな気持ちになるのだろうか。何とも言えない、優しい気持ち。全てを包み込めるような寛大さが身に付いた気さえする。此処が電車の中ではなかったのなら、私はこの子達を抱き締めていたかも知れない。
「私達にも、こんな時期があったわよね……」
 また吊革を掴み直し、私は寄り添いながら眠る二人の少女を眺めながら昔を思い出す。どうしても最近は昔の事ばかりが私の頭を過ってしまう。一種の懐郷病だろうかと疑ってしまった程だ。
 つかさは私が家を出る決意の旨を話した時、泣きながら私に縋り付いて来た。あまりにも豪快で子供みたいな泣き方だったので、深く印象に残っている。行かないで、と捲くし立てるつかさの姿を思い出す度に胸が熱くなるのだ。あそこまで私を慕ってくれていた事が素直に嬉しくて、私も子供みたいに泣きそうになってしまった。
 それでも姉の威厳を保ちたいと言う今になって思えば下らない理由で、私は必死に涙を堪えていた。結局最後には泣いてしまったけれど、その時はつかさの前で涙を見せまいと必死だった。
 まつり姉さんには泣きたかったら泣けば良いのに、と言われたし、お父さんからも無理しなくて良い、と言われた。その気遣いの所為で、私の涙腺は最終的に決壊してしまったのだ。それでも何とか声は押し殺したけど。
 結局つかさは最後まで泣いていた。
 友達間の送別会をやった時も、終始泣きっぱなしでみんなが困っていた事もよく覚えている。みゆきやこなたも、困った笑みを浮かべていた。日下部なんて、柄にもなく慰めようと頑張っていたくらいだ。
 私が傍から離れる、ただそれだけの事で泣いてくれるのが本当に嬉しかった。
 傍から離れてもつかさは私を覚えてくれている、そう思う事が出来たから。
 ……今の私は何なのだろう。
 高校時代には確かにあった将来の夢も何だか薄れてしまった。ただ、行かなければならない、と言う使命感に突き動かされて大学に通っている、それだけの日々。勉強に勤しんでも、それに意義を見出せない。何の為にこんな事をしているのだろう、と疑問に思う時さえある。私には、何も無い気がした。
 高校の時は楽しかった。友達も沢山居て、その誰もが良い人ばかりで。学校に行く事が億劫とは思えなくなったのも高校に入ってからだった。毎日に彩りがあった。毎日に幸せがあった。ただ友達と話しているだけで楽しくなれる、そんな毎日が当り前のように感じられていた。いや、私にとって、それこそが紛れもない当り前の事だったのだ。
「……」
 窓に顔を向けると、そこには顰め面で私を睨みつけている私が居た。
 そんな私を、私も睨みつけている。途端に、気分がどん底まで転げ落ちた気がした。先ほどまでの安らかさなんて何処にも感じられない。むしろ、安らぎを感じていた自分に腹が立った。
 私はこんなに意味のない日々を送っているのに、何でこの子達はこんなに幸せそうに寄り添って眠っているのだろう。
 以前の私達姉妹を彷彿とさせる光景、それが煩わしく思えた。
 独り善がりだと、分かっている。
 自分勝手だと、分かっている。
 この子達には何も非はない。私の過去にだって、そんなものは存在しない。
 悪いのは、今の私。こんな考え方しか出来ない私が悪い。そんな事は重々承知だった。
 けれど、私は此処まで分かっておいて、それなのに感情をコントロールする事が出来そうになかった。この、嫉妬にも似た感情が暴走してしまいそうな、そんな身の毛がよだつような感覚がお腹の奥から迫り出してくる。ズルズルと、生暖かな蛇が身を這いずるような感覚に対する嫌悪感。それと必死に戦っていた。
 景色の流れが遅くなってきた。電車が止まろうとしている。目的地――彼女達の――に近付いているのだ。
 電車のブレーキ音の甲高い音が聞こえてくる。もう何秒としない内にこの電車は停止するだろう。そして、乗客を吐き出し終えたら再び発進するのだ。何も言わなければこの子達は目的地を過ぎた事も知らないまま眠り続けるだろう。束の間の不幸を、その幼い精神に受けて泣き喚くかも知れない。それは私の望んでいる事だろうか。
 この心の蟠りを無くす事が出来るだろうか。この幼い子供達に、私が原因となって不幸を与える事で、この嫌悪感から抜け出す事が出来るだろうか。他人を捌け口にして自分の鬱積を晴らすだけの事だ。それは、度が過ぎているといっても他人に愚痴る行為と然程変わるものはないだろう。だから、私にとってはその方が楽なのかも知れない。
 景色が、止まった。アナウンスと共に扉が開け放たれる。私の前には、安らかに寝息を立てる少女が二人。
 起こさなければならない立場に居る私は、何もしないで吊革を掴んだまま突っ立っている。人々が吐き出されるようにして電車から出て行く光景を遠巻きに見ている私は訳の分からない葛藤に苛まれていた。
 どうしようもなく、白黒の世界を見ている事が辛かった。
 何がそれを変えてくれるのか、私には全然分からなかった。
 何かから置き去りにされた私を乗せた電車がアナウンスと共に重い音を立てて発進する。金属を擦り合わせるような不協和音が耳に聞こえ、動くのが気怠いとでも訴えるかのように電車は走り出していた。
 流れる景色は、相変わらず気分が悪くなるくらいのモノクロだった。





 流れる人波の中を歩いている。後ろの人に押されて、前の人を押して、それでも移動するスピードは変わりはしないのに。それが不毛な争いのように思えて、小さく喉を鳴らして嘲笑した。
 ――頭の中に先ほどの光景が思い浮かんでくる。
 寝息を立てる二人の少女。その姿が。
 けれど、私が最後に見た二人の姿は眠り続ける子達ではなかった。人の波に押されて、でもそれに必死に抵抗して私に手を振る姿が、最後に見た二人の姿。周りが五月蠅くてまともに聞こえなかったけれど、それでも一生懸命に伝えようとしていた感謝の言葉が唇の形だけで私に伝わってきた。何故だか、それが心に重く圧し掛かっている。
 あれで良かったのだ。二人を不幸晒す事に意味は無い。それをしてしまえば、今度は訳の分からない感情よりもその行いに対する罪悪感で余計に悔恨する羽目になる。私のした事は正しかったのだ。
「ちゃんと、駅から出れたかな」
 その呟きはまるで第三者が罪を滅ぼす時のような響きを称えていて。自分が行ったとも知れない客観的な呟きが滑稽に思えた。何故なら私は、一時でもあの子との約束を破ろうとしたのだから。
 それも、自分の為だけに、自分の鬱積を晴らす為だけに。最低な、自分を擁護する為だけの行為だ。
 だからこそ、あの子達の身を案じる事で少しは救われる気がした。
 誰かに、"何も悪い事はしていない"と優しく言われたかったのに周りには誰も居ない。自分の目的の為に他人を押し出している人間しか存在しなかった。
 狂おしい程に、誰かに優しくされたかった。
「……」
 改札を抜けて、駅の外に出てみればそこには漆黒の帳が徐々に降りて来ている街の情景があった。
 薄っすらと暗くなった道路を車のライトが裂き、足元が見え易くなるように街灯が光を提供していた。街の様々なネオンは鮮やかな色彩を醸し出している。私にはよく見えなかったけれど、私以外の人が見ているのならば、このネオンは心が躍る色彩を出しているのだと思った。
 ふと、駅前のバス停に足を止めた時。何処にでもあるような書店が眼に入った。硝子越しに見える店内には、丁度良い時間だからか結構な数の客が入っていて、立ち読みをしている人が何人も居た。
 また、懐かしい昔の記憶が舞い戻ってくる。今になって私を苦しめる思い出の日々が。
 丁度、あんな感じの書店だっただろうか。私より頭一つ分くらいの背丈の親友と肩を並べて立ち読みをしていたのは。買う所は殆どその手のマニアックな店だったけれど、アイツが新刊などを確認する時は近場のこういった書店で済ませていた。その為だけに私は付き合わされていたのだけど、それが嫌だとは微塵も感じていなかった。
 アイツ――こなたは本当に楽しそうにアニメ雑誌を眺めていた。まるで、女性がカタログに載っているブランド品を見て眼を輝かせるように、雑誌の中の内容を食い入るようにして眺めていた。そこに載っているのは私にはよく理解出来ないものばかりだったけれど、純粋に楽しんでいるこなたを見ると私も楽しくなった。
 口では決して言わなかったけれど、二人で黙々と本を読んでいる時間が心地良かったのだ。たまにこなたが「あー、もう少しで発売日じゃん」なんて話を振ってきて、私は適当な相槌を打って。そんな他愛のないやり取りが今ではどんな宝石よりも輝いていたように感じる。今、アイツは何をして過ごしているのだろう。
 何時ものようにネトゲをしている?
 それとも、この時間だったらバイトをしているかも知れない。
 でも、こなたの事だから面倒くさいなんて理由で家でアニメを鑑賞しているかも知れない。
 もしかしたら、大学で出来た友達と一緒に遊んでいる、なんて事もあるかも知れない。
 その全ての光景が眼に見えるように浮かんできて、こなたと過ごしたのは高校での三年間だけだったけれどその分密度の高い日々を送っていると私に実感させる。そして、それすらも私を苦しめる一つの材料になってしまうのだ。
 あんなに輝いていた日々が過去になり、それが今の私には眩し過ぎた。今の生活には色が無かったから。
「……」
 日々募る過去への想いを全て吐き出せたらと思い、私は長い溜息を吐いた。
 けれど、それが徒労になるなんて事は私がよく分かっている。今までに幾度と試してきた事だ。いい加減に諦めを付けた方が良いとは思うのだけど、それでも肺に溜まる嫌な思いを吐き出さずにはいられなかった。
 と、長い溜息を全て吐き出した時、丁度良いタイミングでバスが到着した。この土地にあるこのバスは、外見も前の場所とは全然違う。私は並んでいた列が動き出したのを見計らって、自らもバスの方へと歩き出した。
 車内は暖房が掛かっていて、私には少し熱いくらいだった。
 春と言っても、まだ少しだけ肌寒い季節だから暖房をつけるのも分かる気はするけど、今日の気温なら必要無いだろう。確か、今朝に見たニュースでは今日の最高気温は十八度くらいだった。それならば、この時間でも暖かい。
 私は着ていた上着を脱いで膝の上に乗せると、窓枠に肘を付けて窓の外を見遣った。
 人々と自動車の群れが、それぞれ一様の方向に向かって流れていた。
 車内が人によってすし詰めにされた頃、バスは重苦しいエンジンを唸らせて走り出した。それと同時、ズボンのポケットから震動が伝わった。メールか、着信があるらしい。直ぐに震動が止んだ所から、メールだと分かった。
 誰からだろう、と緩慢な動作で携帯をポケットから取り出すと、高校生の時からずっと変えてない同じ姿の携帯が姿を現した。傷などは増えたものの、携帯としての本来の機能は普通に使える。これもまた、過去を忘れられない私の悪あがきみたいなものだった。変えるに変えられないのだ、思い出が沢山詰まっているこの携帯を。
「……みゆき?」
 携帯を開いて、メールの受信ボックスを開いてみれば、そこに表示されていた名前は"高良みゆき"と言う文字だった。越して来た最初の頃は頻繁に連絡を取り合っていたのだけど、最近はあまりしていなかった。
 それだけにディスプレイに表示されているこの名前は私が安堵の溜息を洩らすには充分過ぎる要素を持ち合わせていた。
 少しの間逡巡した後、私はメールを開いた。
 丁寧な文体は紛れもなくみゆきのもので、私は再び安堵の溜息を吐く。そして、メールの内容を黙読し始めた。
 お久しぶりです、そんな挨拶から始まった文章だった。メールでもこんなに丁寧なものだから、前に一度からかった事があった。メールぐらいはっちゃければ良いのに、と。その時のみゆきははっちゃける、と言うのがどういったものなのか今一つ分かっていなかったらしく、おろおろと狼狽していた事を覚えている。
 メールの中に記された文章は続く。それは、私にとって見た方が良いものなのか、それともそうでないものなのか、判断が難しい内容だった。結局は、見た事を後悔する事になるのだけど。
 私は他愛のない近況報告だろうと、その時は何も気にせず読んでいた。自らの行動が軽率だと考える間も無く。

 お久しぶりです。
 そちらでは障害なく生活を送れていますでしょうか。こちらは何の問題もなく、穏やかな日々が続いています。
 今日、メールを送らせて頂いたのは、少し聞きたい事があるからです。
 先日、つかささんが私の家に尋ねて来られました。元気が無かった様子だったので、一先ず上がって頂いてその理由を聞かせて貰ったのですが、その原因はかがみさんにあるらしいのです。
 最近、つかささん――引いてはご家族の方々に連絡を取っていますでしょうか。
 つかささんの話を聞いた限りでは、最近になって連絡が来なくなったらしいのです。何でも、メールを送っても返信が来ない、電話を掛けても出て貰えない、などが続いているみたいで、それが心の負担になっているようです。
 私に話を聞かせてくれている間も、苦しそうな表情をなさっていました。
 だから、お願いです。忙しい事は重々承知の上ですが、少しでも暇を見つけられたなら、その時にでもつかささんやご家族の方々に連絡を取ってあげてくれませんか。
 大切な家族から連絡が来なくなる事はとても悲しい事だと思いますし、心配を掛ける事だとも思います。
 前に企画した同窓会にも出席なさらなかったので、私も心配になってしまい、こうしてメールを送らせて頂いている次第です。このメールを見たなら、どうかお願いです。つかささんはとても寂しそうでした。私としても、こういった事でつかささんが悲しんでいる所を見たくありません。
 重複になりますが、どうかつかささんとご家族に連絡を取って下さい。お願いします。
 P.S
 今度の祝日、もう一度同窓会を企画しようかと考えています。かがみさんも是非いらして下さい。泉さんやつかささん、峰岸さんに日下部さんなど、多くの友人を招く予定ですので、きっと楽しくなると思います。
 開催場所は私の自宅の予定ですが、詳しい事などは追って連絡致します。それでは、これで失礼します。

 携帯の右上にあるボタン。それを押すだけでこのメールに対する返信画面が開けるのに、私の指先はまるで凍ってしまったかのように動かなかった。押すだけ、ただそれだけの行為までがとてつもなく遠い。それを押すよりも、電源のボタンを押して画面を待ち受けに戻してしまう事の方がとても近く思えた。
 指が震える。バスの揺れの所為かも知れないけれど、別の何かがそれに加担している事は理解出来る。そして、それが何なのか、それさえも。ただ考えたくなかっただけだ。物を言わず、何も考えない人形のようになれたらどんなに楽だろうか。考えても無駄な事ばかりを考える自分が居て、それに嫌気が差した。
 私は返信ボタンを押さなかった。
 押す勇気云々ではなく、押してはならなかったのだ。
 数か月前。私はみゆきが主催した同窓会を欠席した。思えばそれが私がこうなった原因の一つなのかも知れない。終わらない負の連鎖は繋がり続けている。それを断つ事が出来る機会を私はみすみす逃したのだ。
 あの時、同窓会に参加して悩みの全てをみんなに吐き出していたなら、私はこんなに卑屈になっていなかったかも知れない。
 けれど、それは出来なかった。私はみんなと過ごした想い出に縋り付いている。高校に居た時から何も変わらないままなのだ。あの時に戻れたら、そんな有り得ない事ばかりを望んでいる。そんな醜態は晒したくなかった。
 でも、気付いてしまった。それこそ私達の想い出を汚す行動なのではないかと。
 私達が過ごしてきた時は本物で、そこで培ってきた私達の友情も紛れもない本物で。それならば何故私は悩みを打ち明けなかったのだろう。友達だからこそ、全てを晒し出すべきだろう。それを隠すなんて、友達を友達と思っていない何よりの証拠ではないか。私は想い出だけでなく、みんなさえも裏切った。
 こんな私が同窓会に行ってはならないのだ。これは、私なりのケジメ。破ってはならない自分への戒めだ。
 バスが停車する。軋むブレーキの音を響かせて、私が降りるべき駅の前でゆっくりと止まった。
 私はすっかり重くなった足で立ち上がり、開きっ放しだった携帯を閉じてポケットに仕舞い込みながらバスを降りた。漆黒の帳が下りたバス停。街灯に照らされた暗い道。自宅への帰路は果てしなく遠く、暗く見えた。




 嗅ぎ慣れた家の匂いが私の鼻孔を擽り、微かな安心感をもたらしてくれた。
 家の敷居を跨いで、ワンルームの然程大きくはないリビングに持っていた荷物を投げ出して、私はソファに倒れ込んだ。シャワーを浴びる気力が湧かない。明日は休みだったはずだし、朝に浴びるのも良いだろう。今日は何もしないで此処に倒れ込んだまま眠りに落ちるのも悪くない。夕食はあっても食べる気にはならなかった。
 思慮深い人間になったものだと思う。何もせず、ぼんやりとしていると色んな事を考えている。いや、思い出しているのだ。昔あった出来事。楽しかった事や、苦しかった事、悲しかった事も嬉しかった事も。その全部が彩りを持っていて、荒んだ私の心を癒してくれる。けれど、それも刹那の間だけだ。気休め、この言葉がぴったりかも知れない。
 つかさ。
 例えば困ったようにおろおろして私に助けを求めてくる時。私は嘆息を交えながらも助けてあげるのだ。そして、その後に見せてくれるだろう満面の笑みの為に尽力する。それを知っているかのように、事が終った後、つかさは見る者全てに癒しを与えるかのような明るい笑顔を振り撒いてくれるのだ。それが大好きだった。
 こなた。
 例えば私をからかっている時。私は羞恥やら屈辱やらでこなたを怒鳴る。こなたはその反応が分かっているかのように「かがみんが怒ったー」なんて軽く言いながら何時もの猫口顔で躱してしまう。私の三歩先まで走って逃げて、口元を押さえながら含んだ笑い方をするのだ。表面では怒っていても、内心はそんなやり取りがとても楽しかった。
 みゆき。
 例えば些細な心境の変化を鋭く読み取ってくる時。私が些細な事で悩んでいると、みゆきは真っ先にそれに気付く。幾ら私がみんなの前で何時も通りに振舞っていても、必ず気付いていまうのだ。その時のみゆきは少し強引だ。有無を言わさぬ態度で私の悩み事を聞いてくる。結局私が折れて、悩みを吐き出すと実に合理的な解決方を教えてくれるのだ。そして最後には聖母のような微笑みで私を見つめ、応援してくれた。私はみゆきに何度も励まされていた。
 峰岸。
 例えば私が峰岸を少しだけからかっている時。私が峰岸の彼氏との経過を聞くと、峰岸は分かり易く顔を熟れた林檎みたいにして俯いてしまう。それは聞かないで、と言うニュアンスを秘めているのだろうけど、好奇に駆られた私は構わずその奥に踏み込んで、尋ねるのだ。すると峰岸は赤い顔を更に赤くしながらもそれに答えてくれる。前髪を上げている理由や、髪を伸ばしている理由、他にも色々と。そんな峰岸が羨ましくもあり、また見守りたいとも思うのだ。
 日下部。
 例えば体育の授業ではしゃいでいる時。バスケットの授業では率先してキャプテンをやりたがって、それに見合うプレーを見せて、その度に私の方を見ては八重歯を光らせて自慢げに笑うのだ。私は悔しいから食い掛るけど、運動神経が良い日下部には敵わなくて、最後には日下部の運動神経を認めて笑う。その時に見せるアイツの表情は照れ臭そうな、嬉しいような、歯痒い表情で。生き生きとスポーツをしている時の顔よりも私はその顔が好きだった。
 色んな事があって、色んな事を感じて、色んな事を好きになって。
 思えば私の人生の中で一番充実していた時は高校での短い三年間だった。
 けれど、それはもう過ぎてしまった。色褪せない過去の記憶となってしまった。
 ふと、ソファの前に置いてある硝子製の簡単テーブルに眼を遣った。
 透き通った硝子のテーブルの上には一つの箱が置いてある。その横には銀色の灰皿。中には吸殻が何本かと、崩れた灰が溜まっている。私はおもむろに煙草の箱に手を伸ばした。
「……」
 その箱の中には白く細い円筒が入っている。残り数本、その内の一本を取り出し、一緒に入れていた安物のライターも同時に取り出すと、私はベランダへと足を向ける。
 窓を開けて、上着を脱いだ体には少しだけ寒い外気に身を晒すと、街の光が私を出迎えた。点々と彼方此方で光る光を見て、私は夜空を見上げる。汚れた空気が蔓延するこの街では、星は数えるくらいにしか見当たらず、その代わりに銀色の光を漆黒の帳が降りた街へと注ぐ月が爛々と輝いていた。
 ベランダの柵に肘を乗せて、体重を預ける。そして持ってきた煙草を口に咥えた。火の付いていない煙草はほんのりと独特の香りがして、それを少しだけ愉しんでから、私は浅く息を吸い込みながら煙草に火を付けた。
 赤い炎が円筒の先を焼き、そこを赤く色付ける。立ち上る紫煙は一つの筋を作りながら遠い夜の空へと浮かび上がった。一度、煙草を咥えながら息を吸い込み、それが体を駆け巡る感覚を味わってから吐き出す。そうすれば程よい倦怠感を覚えている体には心地良い悦楽を得る事が出来た。
 吸い始めた当初は噎せてばかりだったけれど、今ではもうすっかり慣れた。
 此処に越してきて、少しの時間が経って、私が見る世界がモノクロになった頃、私は初めて煙草に手を付けた。喫煙者が煙草を吸う理由の一つに、"嫌な事を忘れる為"と言うのがあって、それを見かけたのが動機の理由。
 最初はこんな物吸うんじゃなかった、と後悔していたけれど、諦めずに吸い続ける内に煙草の味を覚えた。
 そのお陰なのか知らないが、鬱積は少しだけ晴れた。
 頭がぼーっと遠くなる感覚に体を預けると、鬱積も一緒になって遠くに行ってしまったように思えた。少なくとも、煙草を吸っている少しの間では私は救われている。それを実感できるこの時が、今の私が唯一安らげる場だった。
「……」
 もう一度、煙草の煙を含んで、吐き出した。
 立ち上る紫煙に溶けて、私の過去を持って行ってくれたなら私はどんなに楽になれるだろうか。
 この紫煙が夜空に溶けて行くように、私の想いも全て溶けてくれたなら。
 何時だってそう思う。明日の事を考える時、明後日の事を考える時、昨日の事を思い出す時、一昨日の事を思い出す時。そして、今も見ているモノクロの世界を眺めている時も。
 これからもこの淡白な生活は続いて行く。
 何時までも、私はこのままで生きて行くのかも知れない。
 それでも私は何時か私に訪れる未来を想像するのだ。
 同窓会に抵抗なく行けるようになった自分とか、日々を楽しく感じられる生活を得た自分の事とか。
 確証なんか微塵も持てない願いだけれど、何時かは何かが変わってくれる。そう思わずして日々を過ごす事なんて出来るはずがなかった。
 円筒の先端が今にも崩れそうになっていた。
 私がもう一度煙草を吸うと、それはベランダの下へと落ちて行く。灰は中空に投げ出され、ばらばらになって、地面に着く前に風に吹き飛ばされるだろう。
 空を見上げた。
 私の煙草から立ち上る紫煙が月を隠している。私はその様を眺めながら一つ願い事をした。
 "あの頃のような生活に戻れますように――"
 無駄な願いが私の心を揺さぶって、目尻から何かが溢れた。煙草の煙が眼に染みたのかも知れない。眼が痛くもなっていないのに、私はそんな事を考えて煙草の火を消した。
 眼下に広がる世界は、何も変わらない黒白の世界だった。







――end.














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  • 文章がすごくウマいですね
    -- 名無しさん (2009-03-08 13:15:17)
  • 虐待やいじめ系はやだけどこういう欝系はいいね -- yomirin (2009-02-19 13:33:59)

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