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【無音声ピアノソナタ】第一楽章/テンポ・ジュスト

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【 無 音 声 ピ ア ノ ソ ナ タ 】

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第一楽章/テンポ・ジュスト(正しいテンポで)
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§1

 八十八の鍵盤の上を、たおやかな指先がはね回る。
 ほっそりと白い指が、鍵盤という大地の上で舞い踊る。
 その舞踏は、まるで何か見知らぬ美しい生き物が春を言祝いで踊る、求愛のダンスのようだった。
 だが、それは紛れもなく人間の指先だ。
 正確な自動機械のように淀みなく動く。鍵を押すための動作だと云うことすら感じさせないほど、なめらかに動く。
 岩崎みなみの、指だった。
 C、E♭、G、B、A。指が跳ねるたび、アトリエに新たな音階が産まれおちていく。
 それは繊細なアレグロ・モデラート。ときにピウ・モッソに速くなり。水のように流れるディミヌエンドはどこまでも穏やかに。そしていたずらなアルペジオ。
 素早く動く白い指先が鍵盤を押し込むと、ハンマーが弦を叩いて音が鳴る。
 みなみは、その瞬間が好きだった。
 鍵盤を押した刹那、いつもこれでいいのかと思う。もしもこのあと音がでなかったらと不安になる。でもピアノは忠実に決まりを守っていて、しっかりといつもの音を出してくれる。
 その誠実さが好きだった。 
 その音を聞くのが好きだった。
 一つ一つの音はただ空気を振るわす振動でしかない。けれどそれが水の流れのように繋がったとき、そこに何か別の新しいものが立ち現れるのだ。音楽という、素晴らしい何かが。
 今このアトリエを満たすのは、まさにその水の流れのような音楽だ。
『水の戯れ』。移りゆく水の様態を描いた、モーリス・ラヴェルのピアノ曲。ゆるやかに流れる、川のような音楽。その気まぐれなアルペジオ――和音を構成する音階を連続的に弾く奏法――の難しさから、最高難度のランクを与えられた曲だった。
 みなみはその曲を、易々と弾いていた。
 やがてその音が途絶えても。みなみがダンパーペダルから足を離しても。アトリエには濡れたような音の余韻がしばらく残っていた。
 その余韻が霧散するのを待っていたように間をあけて、ぱんぱんと乾いた拍手の音が聞こえてくる。
「素晴らしい。みなみはもう、この曲をマスターしてるね」
 その声に、みなみは顔を赤らめながら無言で会釈を返した。
 喋るのは得意じゃない。少なくともピアノを弾くほどには。
「並のピアニストじゃ、あのアルペジオは弾きこなせないよ。奏法に注力する余り情感をおいてけぼりにしてしまうところさね。なによりたゆたう清流のような優しさがいいんだな、うん。うまく曲想を掴めている」
 拍手をした女が、真っ白なボブヘアーの髪先をいじくりながら云った。
 小さな体躯をしている。みなみよりも頭一つ分低かった。それは未だ成長しきっていないからというわけではなく、むしろその逆で、彼女の生きてきた古い時代の栄養事情の悪さのせいだろう。髪は純白に漂白されていて、顔には深い皺が何本も刻まれている。だが、それでもなお彼女からは溌剌とした生気が感じられるのだ。ぴんと伸びた背筋。強い光を保った眼差し。引き結ばれた薄い唇。
 来島かおるは、齢八十を過ぎた今でも、少女のように若々しい女性だった。
「……ありがとう、ございます……」
 この老境のピアニストに師事するようになって、もう八年になるというのに。未だにみなみはかおると話すことに慣れていない。もっとも、そもそもみなみは誰かと話すこと自体に慣れていないのだ。みなみが心易く話せる相手は、家族を除けばごく少数でしかない。近頃できた同級の小さな友人と、子供のころから一緒だった、色々なところが大きな姉のような人。そしてその周辺の何人か。それだけがみなみにとって心安らげる関係だ。
 けれどみなみがかおるに対して上手く話せない理由は、生来の人付き合いの不器用さからくるものだけではなかった。
 みなみは、かおるのことを尊敬していたのだ。人として、ピアニストとして。心の底から。人前に出るだけで上がってしまうみなみにとって、それはつい言葉を失なってしまうのに十分なことだった。
 今でもみなみはそのときのことを思い出す。
 初めて来島かおるの演奏を聴いたときのこと。
 母に連れられて出かけた演奏会は、来島ピアノ教室の定期発表会だった。有名なピアノ教室なのだと、母から聞いていた。職業ピアニストを沢山輩出していて、来島かおる自身も高名なピアニストだったのだと。
 けれど、みなみがその発表会に行きたいと思った理由は、そんなことではなかった。
 当時そのピアノ教室に通っていた、みなみが実の姉のように慕っている近所の優しいお姉さん――高良みゆきが演奏をすると聞いたからだった。
 三番目に登場したみゆきはランゲの『花の歌』を演奏した。それは単純な音階ながらもどこか哀切なメロディーで、音楽のことはよくわからないながらも、みなみは胸にこみあげてくるものを感じていた。みゆきが着ていた臙脂のクラシカルなドレスも、その物悲しさに拍車をかけていた。上気した顔でぺこりとおじぎをしてから袖にもどろうとしたみゆきが、ドレスの裾を踏んで転んだことを覚えている。
 他の演奏者のピアノもそれぞれに感動を与えさせる物だった。その発表会が終盤にさしかかるころには、みなみは自分でもピアノをひいてみたいと思っていた。
 だが、その最後に。
 本物の演奏に触れるためということで、来島かおる自身が演奏を始めたのだった。
 ベートーヴェン作曲『ピアノソナタ第23番ヘ短調 Op.57』。
 そのアレグロ・アサイが聞こえた瞬間、みなみは泣いていた。
 そのタッチに潜む感情が、ただひたすらにみなみの胸をえぐった。
 厳粛な哀感に満ちた第一主題。優美でのびやかな第二主題。速く、遅く、強く、弱く。
 それは音だった。
 けれど音ではなかった。
 そのときホールを満たしていたのは、物語であり、感情そのものだった。
 みなみはその感情の嵐の中、さんざんに引きずり回された。そしてそれを心地よく感じていた。かおると共に泣き、怒り、奮い立ち、悲しんだ。
 そうしてみなみは知った。
 喋らなくても、言葉にしなくても、こんなに伝わるものがある。百万言を費やしても伝えることができない“感情”をこんなに伝える方法がある。
 みなみはそのとき、はじめて音楽を聴いたのだ。
 やがて穏やかな第二楽章が過ぎ、第三楽章に入ろうとするころには、みなみはすでにかおるの演奏に取り込まれていた。
 ただ音楽しか耳に入らなかった、ただかおるの姿しか目に映らなかった。
 みゆきと大して変わらない、大人にしては小さな肢体に、世界を打ち倒さんばかりの激情がみなぎっている。跳ねるように動くバネ仕掛けめいた身体。目にもとまらないほどの指先の動き。寄せられた眉。今にも叫び出しそうに開かれた大きな口。
 そして第三楽章のアレグロ・マ・ノン・トロッポに入った途端、みなみは砕け散った。その和音がたたきつけられた衝撃で、身体がこなごなになり、どこか暗い暗渠に放り投げられるのを感じていた。その暗い情念を孕んだ旋律は、みなみを形作っていたもの全てを打ち壊し、そうしてそこにあらたな物を詰め込んだ。
 ――音楽を。
 本物の、音楽を。
 第三楽章の終盤になり、コーダに入る。
 それは爆発するようなプレストで。
 その激情に、世界が壊れてしまうとみなみは思った。
 鮮烈な和音が圧倒的なスピードで飛び散って、そして激甚なフォルティッシモ。
 音楽が唐突に鳴りやんだとき、みなみは何が起きたのかわからなかった。静まりかえったホールの中、ここがどこで、自分が誰なのか、全てを見失って漂っていた。
 やがて自分を取り戻した聴衆が立ち上がって拍手を始めたときも。
 みなみは立ち上がることもできず、ただ呆然と座っていたのだった。

 ――その曲が『熱情』と呼ばれているのだと知ったのは、次の週に来島ピアノ教室に入ってからのことだった。

「うんうん、みなみはいいピアニストになったね」
 その尊敬する人から頭を撫でられてしまって、みなみはますます赤くなる。かおるの身長は、椅子に座ったみなみより少し頭の位置が高いくらいで、その小ささにみなみは改めて驚いていた。
 ピアノを弾いているときはあんなに大きく見えるのに。鍵盤を駆ける指はどこまでも長く見えるのに。今頭に感じる感触は、ゆたかの手の大きさと大してかわらない。みなみにはそれが不思議なのだった。
「正直私としては、音大の付属にいってほしかったんだけどなぁ。……でも、普通校に行って正解だったかな」
「すみません、あのときは……」
 小学生のころ、みなみはコンクールにでたことはなかった。そのころはまだ基礎の練習曲ばかりしていて、ただ指裁きを身につけることばかりを心がけていた。曲想に沿って情感を込めたり、発想に独自の色をつけていくことは、ピアノを使いこなせるようになってからでいい。上手い下手云々などそれからなのだから、コンクールなどに意味はない。そういうかおるの方針だった。
 そして中学生になったみなみは、その頃にはピアノを辞めていたみゆきと同じ地元の学校に通いながら、出場したコンクールでいくつかの賞をとった。その師の名前の高名さも手伝って、一時期中学校の音楽関係者の間で話題になったこともあったのだ。
 だがみなみは普通高校に入学した。
 合格していた音大の付属校を蹴って、陵桜に入学したのだった。
「すみません、じゃないだろ。正解だったかなって云っている。本当にもうみなみは、そのなんでも謝る癖をどうにかしないとな」
「す、すみま……あ、いえ……」
 自分でも、よくわからなかった。
 どうして音大付属にいかなかったのか。
 ピアノを弾くのは好きだったし、ピアノ科の同級生となら、きっと話も合うだろう。なにより、口べたな自分でもピアノを介してならきっと友達ができるはず。楽しく喋り合うことができなくても、その人のピアノを聴いて、そして自分のピアノを聴いてもらえれば、きっと分かり合うことができる。みなみはそう思っていたし、だから音大付属に通うことを楽しみにも思っていたのだ。
 それなのに、どうして陵桜に入ったのか。
 自分でも馬鹿みたいだと思いながら、みゆきを追いかけるようにしてとりあえず受験をしてみただけの陵桜に、どうして入学届けを出したのか。
 みなみにはそれがよくわからなかった。
 なんとなく陵桜の方が楽しいかもしれないと思ってしまって、気がつけばその気持ちは音大付属への憧れを凌駕するほど強くなっていた。
 当時はよくわからなかった。
 けれど今になって思い起こせば、その理由は明白だ。
 それがあまりにも馬鹿げているから、とうてい受け入れがたく、だからこそ考えたくないと思っていたその理由。

 ――あの子に、会えたから。

 あの日、受験の日にトイレでうなだれていた女の子。今にも壊れそうで、何かに押しつぶされそうで、けれどそれに懸命に耐えながら凛々しく立とうとしていた女の子。
 小早川ゆたかの、そのあまりにも小さな背中をみてしまったから。
 そんな理由で、きっとみなみは高校を決めたのだ。
 最初は、受験生の姉妹だと思った。また会えるなどとは思いもしなかった。差し出したハンカチがあの子の元にあればそれでいいと、そう思っていた。けれどその出会いがもたらした感情はみなみの中でどんどん膨らんでいって、気がつけば陵桜高校そのもののイメージを、何か素晴らしい物へと変えていた。
 そんな、一番馬鹿げている理由で。
 だからみなみはそのことに触れられると、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。
「あのさ。多分音大付属にいったときより、みなみは陵桜に入ってからのほうが成長しているよ。所詮本物の教育は音大からだからね」
「……成長、成長ですか……?」
 そう云って、なぜだか胸を隠すように手を組むみなみだった。
「高校に入る前のみなみは感情を出すのが苦手だったわよね。ううん、出せてはいたけれど、なんていうか、譜面に書き込まれた発想記号に忠実に演技するような感じだったな」
 うんうんと、腕組みをしながらかおるはうなずいた。
「でも、今のみなみの音からは、本物の感情を感じるのさ。――高校で、いい友達ができたんだろう?」
 そうなのかもしれないと、みなみは思う。以前までの自分は、きっとずっと醒めていたのかもしれないと思う。
 ピアノの前に座っていない自分は、どこか抜け殻のようだと感じていた。目の前で笑うクラスメイトをみて、自分は彼女たちとは違うのだと思っていた。どうでもいいテレビ番組の話で大げさに驚いたふりをしたり、耳障りな流行歌を素晴らしいと騒ぎ立てる彼女たちの輪に、自分は入る必要がないのだと思いこんでいた。
 でも、それは逃げでしかなかったのだと今のみなみは思う。
 口べたで人と気軽に話せない自分を、ピアノにすがることで慰めていただけなのだ。
 ゆたかと出会って、みなみはそれに気がついた。
 ずっとずっと、心を通わせ合える友達を、自分が求めていたことを。
 相変わらず感情を表に出すのは苦手だけれど。素直な気持ちを口に出すのは面映ゆいけれど。
 でも、ゆたかに対して抱く感情は嘘じゃない。楽譜に書かれた発想記号のように、“表情豊かに”と書かれただけの紛い物のエスプレッシヴォではない。
 例えばつり革に手が届かなくて背伸びした、そのかかとの浮き具合だとか。具合が悪いのを隠して我慢しようとするその意地だとか。学校を休まなければいけなくなったとき、ベッドの中でみせる涙とか。チェリーを撫でるときの優しい笑顔だとか。みなみのピアノに聞き惚れているときの恍惚とした表情だとか。
 そんなものに触れるたびに感じる感情は、あの日かおるの『ピアノソナタ第23番』を聴いたときに感じたものに、勝るとも劣らないものだった。
 口べたなみなみにとって、そんな感情を口にするのは難しかった。言葉にして誰かに伝えることなんて、できなかった。だからみなみはピアノを弾いた。わき上がってくる感情を誰かに伝えたくて、ゆたかに、伝えたくて。ひたすらにピアノを弾いた。
 音楽に、想いを乗せて。優しさだとか、悲しさだとか、哀切だとか、楽しさだとか。そんな想いを乗せて、みなみはピアノを弾いた。
「――はい。大切な友達ができました」
 だからみなみはそう云って微笑んだ。この人には伝わっていると思うから。言葉にしなくても、その思いがすでに伝わっていると知っていたから、口ごもらずにそう云うことができたのだ。
「そうかそうか。みなみが一人前のピアニストになりそうで嬉しいよ。私の最後の弟子だからな、みなみは」
「……え?」
「いい加減身体も動かなくなってきたからな……そろそろ潮時だと思っているのさ」
「そんな……」
 かおるの言葉に、信じられない思いでみなみは呟いた。
 後進の指導とはいえ、自らが弾けないものを教えることはできない。自分が弾けなくなったときが引退するときだと、かおるは常々公言していた。八十という年齢を考えると、それはいつきてもおかしくないできごとだっただろう。けれどみなみは何の根拠もなく、かおるはずっと弾き続けるのだろうと思っていた。八十九まで現役を続け、九十五で死去した偉大なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインのように。
「みなみには、本当に悪いと思っている。なんだか途中で放り出すような形になってしまってさ。でも今日みなみの『水の戯れ』を聴いて確信することができた。私の指導がなくても、みなみはこれからもやっていけるだろうって」
「……もう、決めてしまってるんですね……」
「ああ。老人ホームへの入居も決めてある」
「そうですか……。ご、ごめんなさい、その、上手く言葉にできなくて……」
「あははっ。解ってるよ、みなみのことならね」
 涙ぐむみなみの頭をぽんぽんと叩いて、かおるは少女のような無垢な笑顔を浮かべた。
「引退記念に演奏会を開くよ。私の弟子を色々呼ぶつもりだ。みなみも、弾いてくれるだろう?」
「……はい。勿論……」
 うつむいて袖で涙を拭ったみなみは、そのときもう弾く曲を決めていた。
 みなみがかおるに捧げる曲は、あの曲以外にありえなかった。 
 ベートーヴェン『ピアノソナタ第23番』。
『熱情』と呼ばれるその曲を、自分は弾かなければならない。
 みなみはそう思った。


§2

「そうですか、かおる先生が……」
 頬に手を寄せてため息をつくみゆきだった。
 受験勉強で忙しいだろうと思ったけれど、どうしてもみゆきに報告しなければいけないと、みなみは思ったのだ。
 みゆきの部屋に入るのも久しぶりだった。壁面は一般的な室内装飾のように壁紙を貼って終わりではなく、落ち着いたクリーム色の漆喰細工で仕立てられている。唐草文様がふんだんに使われた書き物机やクローゼットはロココ調の猫足を持ち、ニッチには景徳鎮の壺が鎮座していた。アンピール風のビロードのカーテンが掛かった出窓からは、庭園とも呼べそうな、草木溢れるテラスが見えている。
 まるでお姫さまの寝室のような部屋だと、みなみはいつも思う。
 けれど、どんな家具よりもお姫様を思い起こさせるのは、目の前にいるみゆきそのものなのだった。
 その柔らかい物腰に、女性らしい身体の丸みに、ふわりとした笑顔に、みなみは憧れたものだった。憧れて、そうして近づくことすらできなかった。みなみにとってみゆきは、そんな女性だ。
「……はい。……それで、引退レセプションを開くそうです。みゆきさんにも招待状が届くと思います」
「まあ、それは是非とも参加させていただきますね」
「……私は、ひさしぶりに……みゆきさんのピアノをちゃんと聴いてみたいですけど……」
 みなみがそう云うと、みゆきは慌てて顔の前で手を振って、苦笑いを浮かべた。
「そ、そそそんな、滅相もありません。きっとプロの方などもいらっしゃるのでしょうから、私のピアノなんてそんな……」
「……でも好きです。みゆきさんのピアノは優しいから。……本当に聴いてみたいです」
 それは本当のことだった。みゆきに憧れていたみなみにとって、当初目標としていた音は、みゆきが奏でるピアノなのだった。
 でも、出せなかった。みゆきのような柔らかい、包み込むような優しい音は、みなみには出せなかった。だから技術に走った。だからより先鋭的な超絶技巧を身につけた。そうすればするほどみゆきの音からは離れていき、その反対に、人から褒められることは多くなった。
 その構図はピアノだけにとどまらず、不思議なほどあらゆる分野にあてはまった。気がつけばみなみは、みゆきと正反対な印象を人に与える人間になっていた。
 それは畢竟みなみがみなみであり、みゆきがみゆきであったという、ただそれだけのことだったのだろう。けれどみなみがそんな自分を受け入れられるようになったのは、実につい最近のことだった。ゆたかに出会ってからのことだった。
 ふと、みなみの目が壁際に泳ぐ。そこに置かれたアップライトピアノに目を留める。
 いつもより帰りが遅くなった夕方や、うららかな陽射しにのんびりとした気持ちになる休日のお昼時など。ふとみゆきの家の傍を通りがかったときに、この部屋からかすかに流れ出るピアノの音をみなみは聴いたことがある。
 それを証明するかのように、ピアノの上には塵ひとつなく、普段弾かなくなったピアノがよく陥るように、物を置く棚と化している様子もなかった。
「……あの、お恥ずかしい限りですけれど」
 そんなみなみの視線を読んだかのように、みゆきはピアノの前に座ると、蓋を開けて鍵盤の上に指を走らせた。
 目を閉じて、深く息を吸い込む。
 みゆきが鍵盤を押し込んだ瞬間、部屋は初夏になった。
 水面におちた雫が波紋を拡げるように。
 五音音階の柔らかな旋律が、幼き日の初夏へとみなみを連れて行く。
 ドビュッシー「前奏曲集」の第一巻の八『亜麻色の髪の乙女』。 愛らしいドルチェはみゆきらしい甘やかさに満ちていて、和音が紡がれるたびに、その音が心臓のときめきへと変わっていく。
 花畑で歌う亜麻色の髪の少女の、その唇の色すら、見える気がした。
 けれど短いこの曲は、三分も経たずに終わってしまう。途端にみなみは秋の部屋に立ち戻り、微笑みながら控えめな拍手を送った。
「……素敵です」
「ありがとうございます。本当に、こんな簡単な曲をみなみさんにお聞かせするのはお恥ずかしいのですけど……」
「いえ、そんな……その、難しい曲を弾ければいいというわけでは……難しくても簡単でも価値は一緒ですし……」
 顔を赤らめながらも懸命に思いを伝えようとするみなみだった。みゆきはそんなみなみを眩しい物をみるような眼差しで見つめて、にっこりと微笑んだ。
「そうですか。みなみさんがそう仰るならそうかもしれませんね」
 ぱたん、とピアノの蓋を閉めて、みゆきが訊ねる。
「――みなみさんは、演奏会でどんな曲をお弾きになるのですか?」
「……『熱情』を弾こうと思います」
 力を篭めてそう云ったみなみに、みゆきは驚愕の表情を浮かべる。
「まあ! あんなに難しい曲を!……いえ、でも、みなみさんなら弾けるのでしょうね。あの『幻想ポロネーズ』をあそこまで弾きこなされたのですから」
 前年の中学生を対象にしたピアノコンクールで、みなみはその曲を弾いて大賞に輝いたのだ。
 黒い幻想に満ちた退廃的な死を、みなみは弾いた。
 技巧の難しさでは『水の戯れ』や『熱情』に並び、その表現の難しさはリストをして“この痛ましい幻影は芸術の域を超えている”とまで云わしめた、ショパンの一大傑作だった。
 中学生に弾ける曲ではない。
 中学生に出せる表現ではない。
 かおる以外の誰もがそういった。
 では、それを弾けてしまった自分は一体誰なのだろうと、みなみは思った。
“みなみならこれを弾けるだろうね”そう云ったかおるの、どこか悲しそうな表情を、みなみは覚えている。
「でも、『熱情』を……あの激しい曲想を持った曲をみなみさんが弾いているところは、なんだかあまり想像できませんね」
「……ええ。先生にも、そのようなことを……」
 そう云って、みなみは目を伏せた。

「――本気なの?」
 かおるは云った。
「はい」
 みなみは云った。
 しばらく真剣な眼差しでみなみを見つめていたかおるだったが、ふ、と相好を崩して楽しそうに笑った。
「なるほど。ふふっ、面白そうね。やってみなさい」

 ――どうして、かおるはそんな顔で笑ったのだろう。

 みなみは、それが少しだけ不思議なのだった。





















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  • 「4seasons」に続き名作の予感。。。
    -- かんぷ (2008-03-27 07:30:06)
  • あなたの文章大好きです -- 名無しさん (2008-03-27 00:19:26)

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