2001年6月、日曜日の夜。
その日、1人の男が道を歩いていた。
スーツ姿の男は酔っているらしく、顔も赤らんでいて足下もおぼつかない。
暗闇を照らす僅かな街灯、それを頼りに男は千鳥足で我が家へと向かう。
その時だった、目の前に小さな人影が現れたのは。
それは小学六年生くらいの少女だった。
絹のように艶やかで柔らかそうな、二つ結びにした藍色の髪。
月の光に透けるような白い肌。
蒼いカーディガンに膝まである紫のスカート、白いタイツ。
そして、血のように紅い唇と瞳。
その手には茶色く古ぼけた、日記帳のようなものが握られている。
酔ったせいで見える幻覚ではない、紛れもなく少女だ。
なぜ、こんな時間に?
男の酔いは早くも醒めかけている。
とにかく、一刻も早く帰らせなければ。
そう思って口を開こうとしたその時、少女は透き通るような声を発した。
「……ねえ、こんなところにいたら危ないよ。早く帰らないと」
わずかに口の端を歪める少女。
「はぁ? 危ないのは君だろう。こんな時間まで女の子がうろついていちゃ駄目だろ」
顔をしかめ、注意を促す男。
その場に吹く一陣の風、たなびく少女のスカート。
少女は再び微笑み、口を開く。
「闇は本来アヤカシの棲み処、人間が歩いていい時間じゃないよ」
「へー、そうかい……」
全く興味がないといった表情の男。
馬鹿らしい、おばけなどいるはずがない。
「おじさんの後ろにもいるよ。さっき、風に乗ってきたやつが」
ハッとし、思わず後ろを見る男。
そこには、充血した白目を、飛び出さんばかりにカッと見開いた老婆が。
そのしわだらけの顔をいっぱいに歪め、所々歯の抜け落ちた口でニタニタと笑う老婆。
「ギャアァァァァァァァァァァァァァァァァッッ……!!!」
夜の静寂は、男の耳を劈くような悲鳴によって破られた……。


次の日の朝。
柔らかな光と爽やかな冷たい空気が辺りに溢れている天の川小学校の通学路。
そこを、5人の子どもが並んで歩いていた。
「ふぁ~あ、眠ぃ……。休み明けってどうしてこんなに辛いんだよ。
いっそのこと、月曜日も休みだといいんだけどな……」
そう言って、健康的に日焼けした長身の少年は思い切りあくびをする。
触ると刺さりそうな固く所々跳ねた黒髪も、どことなく元気がない。
天の川小学校の6年3組「青山ハジメ」だ。
「進歩無いわねぇ。あたし達、もう最高学年なのよ!」
ハジメを呆れ顔でたしなめる、ジャージに赤いミニスカートを履いた気の強そうな少女。
背中まである赤毛の三つ網とパッチリとした翡翠色の瞳が彼女の健康的な魅力を一層引き出している。
ハジメのクラスメイトである「宮ノ下さつき」だ。
途端に、その太い眉を吊り上げる少年。
「んなこと言ったら、お前の体の成長だって5年生で止まってるじゃねえか!」
「なんですってえ!! あんたの頭なんて、幼稚園児止まりじゃないの!!」
「なにぃっっ!!」
互いに歯を食いしばり、睨みあうさつきとハジメ。
それを呆れた顔で見るのは、帽子をかぶったタラコ唇の少年。
不健康そうで、眼鏡をかけた容姿からはオタクを想像する。
自称天の川小学校一の心霊研究家にして、二人のクラスメイトの「柿ノ木レオ」である。
「やれやれ、お二人とも、変わりませんね」
そう言って肩をすくめるレオを2人は思い切り睨みつける。
「お前にだけは言われたくないんだよ!! この心霊オタク!!」
「ちょ、なんてこと言うんです!! オタクでは無く研究家です!!」
さらに喧嘩に加わろうとするレオを1人の大人びた少女が抑えた。
薄紫の、しなやかで長い髪を、桜色のリボンでとめた、飴色の瞳を持つ少女。
グレーのブレザーに紅いリボン、ブラウンのスカートから中学生であることがわかる。
色素が薄く、みぞれのように白い肌は、どこか儚げな印象を与える。
天の川中学校の1年生「恋ヶ窪桃子」だ。
「まあまあ、3人とも抑えて下さい。もう、最高学年ですし」
まるで春風のように穏やかな桃子の微笑みに、ハジメとレオは同時に顔を赤らめる。
「も、桃子さんがそう言うなら……」
その鶴の一声で、いつもの喧嘩は終りだ。
自分に接する態度とは違って、桃子の前だと途端にもじもじするハジメをすかさず睨みつけるさつき。
なんでこんなにも態度が違うのか。
それは、桃子はスタイルも良くて、頭も良いし、穏やかで料理が上手で……。
考えるのが空しくなってきたので、さつきはそこで思考を止める。
「それにしても、天の邪鬼さんがいなくなって1年だっていうのに、僕達の関係って全然変わりませんねぇ」
なにげなく口に出すレオ、途端に慌てて口を押さえる。
天の邪鬼……さつきは、1年くらい前に起きた事件に、思いをはせる。

去年、さつき五つ下の弟「宮ノ下敬一郎」が転校してきた直後から、旧校舎にたくさんのおばけが現れた。
先祖代々おばけ退治を使命としてきた神山の一族の血を引くさつきはここにいる仲間と共に、数多くのおばけを霊眠(封印)させてきた。
その時、色々と手助けをしてくれたのが「天の邪鬼」だ。
ひねくれ者の鬼である天の邪鬼は、最初はさつき達を敵と見なして襲い掛かってきた。
さつきは、なんとか天の邪鬼を退けることに成功したが、誤って飼い猫である「カーヤ」の中に誤って霊眠させてしまった。
その後、天の邪鬼は色々と嫌味を言いながら、さつき達を陰ながら助けていった。
神山の宿敵「逢魔(おうま)」の怨霊を霊眠させることができたのも、天の邪鬼のおかげだ。
しかし、その戦いのせいで、天の邪鬼は行方不明となってしまった。
母の三回忌の時にその影らしきものは見たのだが、未だに姿を見せない。

「カーヤ……」思わず呟き、敬一郎はどことなく姉に似たそこ顔をうつむかせる。
天の邪鬼と1番仲が良かったのは敬一郎、寂しさもそれだけ深いだろう。
それからさつき達は、学校に着くまでに一言も喋らなかった……。

天の川小学校……。
その教室は朝から騒然としていた。
みな落ち着きがなく、男子は後ろの席の女子にちょっかいをかけていたりする。
チャイムが鳴り、若くて小太り気味の6年3組担任「坂田先生」が教室に入ってきた。
「みんな、席に着け。今日は転入生を紹介するぞ!」
途端に、一層教室はガヤガヤと湧く。
そんな中、レオは落ち着き払って腕を組んでいる。
「へー、転入生ですか。どんな人でしょうね?」
「可愛い女の子だといいなあ……」
そう言って、ニヤけ面になるハジメ。
そのたるみきった顔を、思い切りひっぱたきたい衝動にさつきは駆られる。
「入って来い、堂ノ上」
坂田先生がそう言うと、1人の少年が教室に入ってきた。
耳にまでかかる少し長めの青みがかった髪に、伏せ目がちの瞳が特徴の小柄な少年。
少年は壇上に立ち、軽く頭を下げる。
「堂ノ上むつきです。よろしくお願いします」
その横で、黒板に字を書く坂田先生。
「堂ノ上はお父さんの都合で東京から引っ越してきた。みんな仲良くするんだぞ。
特に宮ノ下、お前も去年東京転校してきたんだから、色々教えてやってくれ。
ということで、堂ノ上の席は、宮ノ下の後ろの空いてる席がいいな。
そこに座れ。じゃあ、朝の会を始めるぞ!」
「なーんだ、男かよ……」
がっくりと首を落とし、落ち込むハジメ。
「残念だったわね~」
そう言って意地悪そうに隣の席のハジメを笑うさつき。
その直後、むつきがさつきの後ろの席に座った。
「よろしく……」
「よ、よろしく……」
相変わらず暗い表情のむつき。
その気持ちは、さつきとハジメ、むつきの隣の席にいるレオにまで伝わってくる。
「はぁ……」
これから面倒ごとが起きそうな予感がし、さつきはそれを大きな溜息と共に流そうとした。

朝の会が終わると、むつきはクラスのみんなに囲まれた。
目を輝かせながら、興味深々に質問を浴びせる児童達。
「ねえねえどんな学校だった?」
「今どこに住んでる?」
「いっつも何して遊んでるだよ?」
「趣味は? 特技は? 必殺技は?」
その様子を見て、自分が転入して来た時を思い出すさつき。
そういえば、あの時もしばらくたくさんの人に囲まれていた。
まるで好奇の目そのもののようなあの視線……たまらなく嫌だった。
そんな時、いつも助けてくれたハジメ。
人並みを掻き分け、いつも屋上や廊下の隅に連れて行ってくれた。
「よし、いっちょあたしもやったげますか」
手に力を込め、人並みにむかってズンズンと歩いていくさつき。
彼らを押しのけ、さつきはむつきの手をつかむ。
「いこう! 堂ノ上君」
そう言った途端、疾風のように駆けるさつき。
その姿は、普段の鈍重さからは想像できない。

屋上には先客のハジメとレオが待ち構えている。
本来立ち入り禁止のそこは、彼らの秘密基地のようなものでもある。
「ねえ、そろそろ授業始まるよぉ!」
声をメガホンにし、叫ぶさつき。
それに応えハジメは手を振って近づいてくる。
「あれ、堂ノ上じゃん。どうしたんだよ?」
「こ……こんにちは」
ぎこちなく腰を曲げ、頭を下げるむつき。
「堂ノ上君ね、みんなに囲まれて困ってるようだから連れてきたの!」
「へー、お前優しいところあるじゃん」
からかうように言うハジメに、さつきは内心ムッとする。
そんな時、口を開くむつき。
「あの……ごめん。もう、行ってもいい?」
おどおどと言うむつきに、さつきは向日葵のように明るい笑顔を向ける。
「なんか困ったことがあったらいつでも言ってね! 力になるからさ」
むつきは無言で、その場を去っていった。
その後に開かれる、レオの口。
「ひょっとして、迷惑だったのかもしれませんね」
「え?」
「もしかしたら、助け出して欲しいなんて思っていなかったのかも。余計なことをしてしまったのではないかなあ……と。いや、あくまでも推測ですよ」
レオは最後の言葉で表現を柔らかくしようとしたようだが、深く考え込むさつき。
そういえば、むつきの態度は、なんとなくよそよそしかった。
もしかしたら、レオの言う通りなのかもしれない……。
そんなさつきの肩を、軽く叩くハジメ。
「まあ、考えたって仕方ないだろ? とにかく授業始まるし、早く行こうぜ!」
太陽のようにまぶしいハジメの顔。
いざという時に頼りになるハジメ……その顔にいつも助けられる。
「ありがとう、ハジメ」
その時だった、屋上に一陣の風が吹いたのは。
「キャッ!」
思わず顔を赤らめ、ひらひらとたなびくスカートをさつきは押さえる。
次の瞬間、後ろをキッと振り返るさつき。
「見た!?」
途端に、レオは慌てふためく。
「み、見ていませんよ!!」
「くまさんパンツ……」
屋上に、まるで鈍器で殴りつけたかのような鈍い音が響き渡った。

そして放課後。
空に浮かぶ茜色の雲、電柱も家々も路地もすっかり夕焼け色に染められている。
そんな通学路を歩く、5人の子どもは、さつき達だ。
「へぇ、そんなことがあったんですか」
その穏やかな顔を上品な笑みで満たす桃子。
「うん。……ハァ、やっぱり堂ノ上君誘って帰ればよかったかなぁ」
溜息をつき、うなだれるさつき。
「んだよ、まだ今日のこと気にしてるのか?」
「そうじゃなくって、1人で帰って寂しくないかなぁ……って」
「ふふ、相変わらずさつきちゃんは優しいですね」
プルプルと首を振り、慌ててそれを否定するさつき。
「そんな! あたし優しくなんか」
「そうそう、今日も屋上で俺にかかと落とし食らわせたし」
「なに? またやられたいの?」
「いえ、遠慮しときます……」
苦笑いを浮かべながら、ハジメはプイと顔を背ける。その時、突如大声を発するレオ。
「ああっっっ!!?」
その声により、全員が振り返る。
「どうしたの、レオ兄ちゃん?」
「狂ったか?」
「違います!! 卒業制作を教室に忘れてきたんです!!」
そういえば、レオが今日の朝持ってきた緑の手提げ鞄がない。
あれは、卒業創作を入れたものだったのか。
「確かあれって、締め切りは2月でしょ? そんなに早く作ったんだ」
「はい。僕の隠れた芸術性が目覚め、急ピッチで完成しました。皆さんにお見せしようと今日持ってきたのに……」
「まあ、そんなにすごい作品なのですか?」
途端に目を輝かせるレオ。
「フフフ、僕の最高傑作『シャカシャカ』の人形です! テケテケの従弟という設定で、武器はその鋭い爪です!」
「明日取りに行け」
冷たく言い放つハジメ。
敬一郎以外の他のメンバーも呆れ顔をしている。
途端に憤るレオ。
「なんてこと言うんです!! 誰かに盗まれたらどう責任取ります!?」
「いや、誰もとらねえよ。そんなマニアックな造形物」
そう言って取りに行くことを反対するハジメをなだめる桃子。
「まあまあ。例え皆さんにとっては屑のようなガラクタでも、レオさんにとっては宝物なんですから」
突き刺さる桃子の言葉、この人は本当に天然でこれを言っているのだろうか?
とりあえず、一同は学校に逆戻りすることにした。

放課後の教室……そこには藍色の髪を二つ結びにした小柄な少女が立っている。
その小さな手で五円玉を持ち、黒板に向ける少女。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでくださいませ……」
少女は何度も同じ言葉を呟く。
そのうち、禍々しい紅の光が少女を包み始める。
次の瞬間、黒板から漏れる青白い光。
「くすくす、いらっしゃい……」
少女はその血のように紅い唇をわずかに歪めた。

「あれぇ、おっかしいなあ。ありませんよ……」
教室で自分の鞄をひっくり返すレオ。
出てくるのは塵ばかり。
「レオさんの仰るとおり、本当に誰かが盗んでいったのかもしれませんね……」
「いや、それはないでしょ」
「ハァ、勝手に歩いて出て行ったんじゃねえ? もう帰ろうぜ……」
疲れきった表情で廊下に出るハジメ、途端に響き渡る叫び声。
「うおおおおおおおっっ!!?」
その場の全員の表情に緊張が走る。
慌てて廊下に出るさつき達。
そして、信じられない光景に唖然とした。
そこは紛れもなく廊下だった。
だが、いつも自分達が歩く見慣れた場所ではない。
ひびだらけの、テープで補強した跡が見られる窓硝子、ギィギィときしみを上げる床板、そして茶色く埃だらけの扉や壁。
間違いない、ここは旧校舎の廊下。
さつきは慌てて教室を振り返る。
やはり見慣れた教室ではなく、旧校舎の教室になっている。
みな思い思いに動揺し、敬一郎はさつきの袖をつかむ。
その手は汗ばみ、小刻みに震えている。
「これは、紛れもなく心霊現象……う~ん、久しぶりです」
「なにのんきなこと言ってるんだよ!! 心霊研究家ならこの状況を解説しろよ」
途端に、しどろもどろし始めるレオ。
「いやぁ、その……判断材料が少なくて今のところはなんとも……」
「ハァ、お前って本当にいざという時使えないよな……」
大きく溜息をつくハジメ。
そんな2人の言葉をさえぎり、発言する桃子。
その琥珀色の瞳には、年長者である責任感が宿っている。
「とにかく、ここから出ましょう。これがおばけの仕業なら、早く抜け出さないと……」
桃子の言うとおりだ、旧校舎には、たくさんのおばけがいる。
もたもたしていたら、いつ襲われるかわからない。
そう思って、薄暗い廊下の奥に目を向けるさつき。
なにか、聞こえてくる……まるで地響きのような音。
足下の板、窓硝子もびりびりと震えている。
ハジメやレオも、異変に気づいたらしく、辺りを見回し始める。
「地震……ですかね?」
「いや、地震にしては揺れが不規則ですわ。まるで、なにか大きなものが近づいてくるような……」
桃子がそう言った時だった、天井からなにか巨大なものがぬっと顔を出したのは。
それは、下駄を履いた子どもの巨大な足だった。
電信柱の数倍もの太さを持つ足は、まるで廊下を突き破らんばかりに地響きを立てながらさつき達に向かってくる。
「キャアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
悲鳴を上げ、全力で疾走するさつき達。
「随分大きな足ですわねぇ、靴を探すのが大変そう」
「そんなのんきなこと言っている場合じゃないよお!!」
普段は足が遅いさつきも、この時ばかりはハジメ達と並んで逃げた。

「はぁ、はぁ……ここまで逃げたらもう安心だろ」
荒い息を吐きながら、教室につっかえ棒をするハジメ。
心臓を落ち着けながら、さつきは考えを巡らせる。
正直、逢魔との戦いで完全に決着がついたと思い込んでいた。
おばけがいまだにいるというのはわかっていたつもりだったが、いざ目にするとやはり怖い。
そんな中、声を上げるレオ。
「あのぉ……この教室おかしくありませんか?」
薄暗い教室……窓からは血のような夕陽がわずかに差し込んでいる。
その僅かな光は、窓ガラスに鈍く反射し、教室に深い陰影を刻んでいた。
次第に慣れてくる目、思わず声を上げそうになるさつき。
その時、突如足下の電灯がつく。
そう……ここは逆さ教室。
慌てて扉を開けようとするハジメ。
だが、扉はまるで癒着したかのように、ビクともしない。
そんな時だった、さつきの耳に奇妙な音が聞こえたのは。
シャカシャカシャカシャカ……と、まるでなにか鋭いもので壁を引っかくような音。
途端に、天井から何かが降ってきた。
「キャッ!!?」
思わず悲鳴をあげ、壁に張り付くさつき。
それは、唐草模様の風呂敷をマントにした上半身だけのおばけ。
マントからはみ出ているのは、まるで刃物のように鋭い爪の生えた手、鼻から上しか見えない坊主頭。
肌は血を塗ったように紅く、そのギョロリとした目でさつきを睨んでいる。
「シャ、シャカシャカ……僕の考えたおばけ……実体化したんだ……」
途切れ途切れに言うレオ、生みの親である彼でさえも震えている。
さつきを放すまいと必死にしがみつく敬一郎。ハジメはすかさずつっかえ棒にしていたモップを手に取り、シャカシャカに向かって殴りかかった。
「こんにゃろうっ!!」
瞬間、バラバラになるモップ。
「いぃっ!?」
ハジメは呆気にとられた表情をする。
どうやらその鋭い爪で切り裂かれたようだ。
すぐ目の前にかかる、シャカシャカの荒い鼻息。
あの爪が自分に突き刺さると思うと……想像しただけでカタカタと震えてくる。
シャカシャカは爪を光らせ、さつきの前にその手を差し出す。
思わず目を瞑るさつき。
終わった……そう思った。
だが、いつまでたっても痛みはない。
恐る恐るその目を開く。
目の前には、一輪のバラの花があった。
ポカーンと口を開け放つさつき。
周りの人間も同様の顔をしている。
シャカシャカはもじもじと、恥ずかしそうにうつむく。
「……もしかして、シャカシャカさんは、さつきちゃんのことが好きなのでは?」
「あは……あはは、そうだったの……」
引きつった笑みを浮かべるさつき。
内心げんなりしている。
「せっかくだけど、ごめん……あたし、好きな人いるからさ」
さつきは、丁寧に断る。
正直、何をされるかわからないからだ。
途端に首を垂れ、うなだれるシャカシャカ。
すると、そのままするすると小さくなり、元の粘土細工に戻ってしまった。
さつきは気が抜け、へなへなとその場にへたりこむ。「お、お姉ちゃん……だいじょうぶだった!?」
心配そうに言い、涙に潤んだ目を向ける敬一郎。
「ああ、なんとか。心配してくれたありがとう、敬一郎」
力なく笑顔をさつきは作った。
「あーあ、断っちゃってかわいそう。ところでお前、好きな人って誰だよ? まさか俺?」
そう言って、ハジメは意地悪そうに笑う。
さつきはドキリとし、顔を紅潮させる。
「ち、違うわよ!! あんたなわけないじゃない!!」
そうは言うものの、さつきの心臓は未だ高鳴っている。
「まあ、いいや。とにかく、こんなところからさっさと出ようぜ」
「う~ん、でもどうやって出ましょう……」
鞄にシャカシャカの像を納めながら考え込むレオ。
その目が、突如見開かれた。
「どうしたの、レオ君?」
「あ、あれを見てください!!」
レオは黒板の方を指差している、思わずそちらを向くさつき。
逆さまになった黒板には、紅いチョークでなにやらたくさんのことが書いてある。
数字、「あ」から「ん」までのひらがな、そして鳥居……。
先程まで、間違いなく書いていなかったもの。
自称心霊研究家のレオが解説するまでもなく、さつきにも見当がついた。
「これって……こっくりさんじゃない?」
「まあ、本当ですわ!」
その、白樺の小枝のような指で口元を覆い、驚く桃子。
「お姉ちゃん、こっくりさんってなあに?」「こっくりさんっていうのはね、霊をこの呼び出すおまじないなの。色々その霊に質問をするのよ」
「だけど、ひょっとしたらこっくりさんに憑依される……そうやって廃人になった人が何人もいるようです」
暗い表情をするレオ、その時だった。
教室の黒板がぐにゃぐにゃと曲がり始めた。
思わず辺りを見回すさつき。
同じように、天井の机も椅子も、足下の電灯も大きく波打っている。
さつき達は教室の一箇所に身を寄せ、息を飲んだ。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす……」
「あははははははははははははははははははははは……」
「うっひっひっひっひっひっひっひ……」
あちこちから聞こえてくる笑い声。
そのうち、周りに数多くの鬼火が現れた。
チロチロと青白い炎を揺らめかせ、一箇所に集まる鬼火。
やがて、ひとつの形を成した。
それは、一匹の動物――狐と狗、狸の顔と三本の尾をもつ青白い獣。
その目はまるで、鬼灯のように紅く、禍々しい。
「くっくっく、初めましてだな神山の娘よ。我が名はこっくり、万能を知る者」
口元を歪め、男女ともつかぬ声を出すこっくり。
「怖いよぉっ!! お姉ちゃん!!」
泣き叫ぶ敬一郎、すかさずさつきはそれを抱きしめる。
「そうだな、ためしにお前の考えを当ててみよう。『おばけ日記がない、どうしよう?』といったところだろう?」
――図星だった。
これまでの霊眠は、母から受け継いだ「おばけ日記」に全て記してあったもの。
だが、それも逢魔霊眠の後に、白紙となってしまった。
「くくく、霊眠方法のわからない貴様など、怖くはないわっ!!」
カッと口を開け放つこっくり。
途端に、天井の椅子や机がガタガタと、恐ろしげな音を立てる。
「みんな、逃げろっっ!!」
必死なハジメの声が聞こえる。
次の瞬間、雪崩のように降り注ぐ机や椅子。
「ひぃぃぃぃっ!? お助けぇ!!」
頭を押さえて慌てふためき、壁際に非難するレオ。
さつきも、同様の行動をとろうと考える。
と、その時、さつきの頭上に落下する机。
まるで車のようなスピードで落ちてくるそれを見た瞬間、さつきは頭の中が真っ白になった。
「さつきぃぃっっ!!!」
再び聞こえるハジメの声――気づいたら、自分は痛みを感じていなかった。
どうやら、助かったらしい。
うっすら瞳を開くと、すぐ前には、机の下敷きになったハジメが。
さつきを押し倒し、自分が代わりに……。
「ハジメ!!? そ、そんな……」
翡翠色の瞳に涙を一杯にためるさつき。
「どうして……どうしてあたしなんか……」
力なく呟くさつきに、ハジメは苦痛に歪んだ顔で笑いかけた。
「へ……へへ、ただじゃねえぜ。朝見たパンツ……帳消しってことでどうだ?」
そんなものじゃ、おつりがあるくらいだ。
拳を握り締めるさつき――そのままこっくりを睨みつける。
「くくく、どうした? 悔しいか? ならば我を霊眠してみよ。できるものなら……な」
嘲るこっくり。
――負けたくない、守ってくれたハジメのためにも、絶対。
そうだ、おばけ日記はない。
今はないもののことを考えるより、今できることを考えるべきだ。
そういえば、こっくりさんについて聞いたことがある。
確か、五円玉を……。
ハッとし、目をパッチリ開くさつき。
急いでポケットに手を入れ、五円玉を取り出す。
それをかざし、さつきは深呼吸する。
駄目で元々、とにかくやってみよう。
失敗した時は――その時だ。
「……こっくりさんお帰りください!! こっくりさんお帰りください!!」
顔色を変えるこっくり。
「こっくりさんお帰りください!! こっくりさんお帰りください!!」
「やめろ……やめろぉぉぉぉぉぉっっ!!」
こっくりは黒板の中に戻ろうとする。
だが、ぐいぐいとさつきの方へと引っ張られていく。
「こっくりさんお帰りください!! こっくりさんお帰りください!!」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!! ぐぎょおおおおおおおおおっっ!!!」
悲鳴を上げ、こっくりは、もがき苦しむ。
次の瞬間、あっという間に五円玉に吸い込まれるこっくり。
こっくりが完全に消えると、まるで巻き戻したかのように教室は元に戻っていく。
もう、逆さ教室ではない。
思わず息をつくさつき。
レオや桃子もハジメに寄ってくる。
「ハジメ、大丈夫ですか?」
恐る恐る聞くレオにハジメは二カッと笑って答えた。
「へへ、かすり傷かすり傷!! いててててて……」
起き上がろうとし、思わずまた座り込むハジメ。
どうやら、足をくじいたようだ。
「ハジメ。……んっ!」
ハジメの肩に手を回し、起こし上げるさつき。
「家まで送っていってあげる、すぐ隣だし」
「へへ、悪いなぁ……」
すまなそうに笑うハジメに、さつきはくすりと笑いかける。
「なぁに言ってるの! お礼はあたしの台詞でしょ? さ、帰ろう!」
そう言って、教室を出るさつき達。
その途中、ハジメとの身長差に気づくさつき。
――こいつ……こんなに背伸びたんだ。
以前は自分と大した変わらなかったハジメとの身長差を噛み締めながら、さつきは校門へと歩いていった。
その姿を、蒼いカーディガンの少女が笑いながら見ているとも知らずに……。

次の日の朝、教室にて。
「あの……宮ノ下さん」
そう言って、むつきが近づいてきた。
うつむき加減にぽつりぽつりと話すむつき。
「昨日は……その、ありがとう。本当に、僕……助かったよ」
それだけ言って、むつきは後ろの席に座った。
昨日のなんとなくよそよそしい態度が自分のせいでなかったと知り、晴れ晴れするさつき。
大きく伸びをする。
「うーん、今日も1日がんばるぞぉ! どっこいしょお!!」
朝の爽やかな教室に、さつきの晴れやかな声が響き渡る。
さあ、今日も一日がんばろう。



次怪予告
「え、プールに!?」
「だってあいつは、旧校舎のトイレにしか……」
「うわぁ!! 来ましたぁ!!」


「ヒヒヒ……赤い紙やろかぁ、青い紙やろかぁ……」



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最終更新:2007年04月05日 09:39