愛のしるし

340 愛のしるし ◆X.Oo3mDyag sage 2008/06/02(月) 19:55:42 ID:6JF8VwcM
「愛」という言葉がある。僕はこれほど重たい言葉を生涯知りえないだろう。
  人は、このために死に、このために生きる。
 「愛」を二人で分かち合う。みなそうして生きてきて、泣いて、喜んで、怒って、そして死んでいったのだ。
  そして、僕と姉もその「愛」を分かち合った。甘い、甘い蜜のような、鎖のような愛を。


     ―愛のしるしを―    

  だんだん夕暮れが遅くなってきた、と感じるようになってきたと同時に雨が降る日も多くなってきた。
  そして今も、しとしとと絶え間なく雨が降り、傘を待たない僕の髪や肩を濡らし続ける。
  少し大きめな制服のYシャツが濡れ、肌に貼りついた。
  ぶつけようのない苛立ちと嫌悪感を募らせて、小石をひとつ蹴る。
  陰鬱な梅雨が今年もやってきたのだ。僕はこの季節は嫌いだ。
  それこそ寒気がするほどに。
  なぜこんなに雨が降るんだ?
  この季節を好き、という者はあまり聞いたことがない。
  しかし僕のように大嫌い、という人もあまり見たことがない。
  なぜなのかは当の自分にもわからない。わかるのは、自分がこの季節をひどく嫌悪しているという事実だけ。

  僕はどんよりと曇った空を見上げる。
  せっかく中間考査が終わったというのに。まったく開放された気分にならないのはこの空のせいだろう。
  空を見ている僕の後ろから小走りの足音が聞こえてくる。タッタッタッタ・・・。
  そしてふいに視界が黒い傘だけになった。
  雨が傘に遮られ、後ろから傘ごと抱きすくめられた。
  「遼(はるか)、傘忘れたの?私、朝に傘持っていきなさいっていわなかった?」
   姉の美華(みか)が傘のなかに僕の体をいれてくれたのだ。
  「ごめん、ほんとに降るとは思わなくてね」
  違う。僕は本当は雨が降ると信じたくなかったのだ。
  まだ僕を抱きしめている姉の手をそっと外す。暖かいが、それ以上に恥ずかしかった。 
  人通りの少ないこの道では、二人の姿を誰も見てはいなかったが。
  「私の言うことは絶対に従いなさいっていつも言ってるじゃない」
  怒ったように頬を膨らます姿は、姉ながら愛らしい。
  「ありがと、姉さん。部活さぼって着たんでしょ?」
  「・・・うん」
  かすかに顔を赤らめて姉は頷く。
  この姉はいつもこうなのだ。
  ずっと僕につきっきり。姉はそれで満足らしいが、僕は僕でやりたいことがあるのだ。
  しかし姉のせいでいろいろと僕の行動が制限されてしまう。
  そんな困った姉だが、憎めない。僕にいろいろ気配りをしてくれるのはありがたいと思う。
  そしてとびっきりの美人。艶やかな黒髪に切れ長の瞳が映え、自慢の姉だ。
  ほかの女子高生に比べるとすらっとしていて、男の中ではあまり背の高いほうではない僕と同じ身長である。 
  その姉が近くにいるせいか、そうでないのか僕には彼女はむろんのこと、女友達もあまりできない。
  唯一仲がいいのは、同じ映研の奈多(なた)さんだけ。映研内で話す程度に過ぎないのだが。



341 愛のしるし ◆X.Oo3mDyag sage 2008/06/02(月) 19:56:27 ID:6JF8VwcM
 ふたりで相合傘をして細い帰り道を歩く。それはなんだか恋人みたいだな、と僕は不意に思って、
  慌てて頭を振って妄想を打ち消す。
  しかし傍目から見ても、それは恋人同士にしか見えなかったであろう。この姉弟は。
  学校から家まで20分の道のりである。
  二人の通う学校は浅倉高校という小さな学校である。
  そして姉はテニス部に、僕は映画研究部に所属している。
  ごく普通の姉弟である。少なくとも他人にはそう見えるだろう。
  二人は静かに家にむかう。二人だけの家に。

  帰ったらすぐに風呂に入ろう、と姉から渡されたタオルで髪を拭きながら僕は考えていた。
  姉は口を開き、小さな町の小さな静寂を、破った。
  「ねえ、遼。部活って明日からよね」
  「どうして?」
  「私、まだ映研のぞいたことないもの。一回見てみたいなってね」
  またこれだ。姉は教室もちょくちょく見に来るし、前なんて所属している図書委員の会議も見に来た。 
  僕が心配なんだろうが、結構迷惑なものである。
  保護者のつもりなのか三者面談の時に来たときもあるのだ。
  呆れた姉である。
  「いいかげん僕も大きくなったんだから、もう17だよ」
  「・・・でも遼は私の弟よ」
  強い口調になった姉は僕の眼をじっと見据える。
  鋭い眼差しに怯んだ、僕の弱い心まで見透かされているような気がして。
  「関係ないでしょ」
  そう言うと、僕は早足で歩いた。それはせめてもの抵抗のつもりであった。
  「関係あるわ」
  姉は強く僕の肩を掴み、爪を立てた。痕が残るほど、強く。 
  そして近くに引き寄せ、僕の耳元で言葉を繰り返す。
  「関係あるわ」
  僕は、細い姉の体からは考えられぬほど強い力で肩を掴まれていた。 
  「い、痛いよ」
  「遼、あなたは私と二人でひとつなのよ。『約束』を忘れたの?」
  姉の顔はいつもの顔からだと考えも及ばないような顔をしていた。
  恐ろしい、と僕は思った。
  姉はときどき異常なほど怖い顔をする。僕と姉、その二人の関係のことになると。
  僕は地雷を踏んでしまったようだ。
  脚が震えるほどの戦慄を僕は覚える。
  謝らねば、絞め殺されるような錯覚にも陥るほどに。
  「・・・ごめんなさい、姉さん」



342 愛のしるし ◆X.Oo3mDyag sage 2008/06/02(月) 19:57:19 ID:6JF8VwcM
席替えにより運良く後方窓際の席を獲得した僕は窓の外を眺める。
  しかし工場からの煙で汚れた町の空しか見えない。
  あまり大きくはないくせに工場が多いのがこの町の特徴のひとつである。
  最近は不景気なのか倒産する工場が増えて、なんの役割も果たさぬ廃工場もぽつぽつと見られるようになった。

  今日姉が映研に来ることを考えると、僕は憂鬱な気分になる。
  姉が映研内で何かしでかさなければいいが。
  いつだったか、姉が教室に来たときには僕のシスコン説が流行した。
  実際シスコンかもしれないが。怖いところも、迷惑なところもあるがぼくは姉のことが好きだった。
  姉は今何をしているのだろうか。
  すると不意に昨日の光景が脳裏によみがえった。
  気を付けなければ。小さいころから姉は非常に繊細なのだ。
  今日、なにか姉に買っていってやろうか。
  いや、そういえば今日の映研に姉は来るのか。 
  「鶴来(つるぎ)--、鶴来ーーー!」
  数学の教師の声で、はっと我に返る。
  まわりを見渡すと、今は中間考査のテストを返却している最中のようであった。
  あ、僕もテストを取らなければいけないのか。
  「次はもっと頑張りなさい」
  そう返しざまに数学教師は言った。周りの奴らがくすくす笑う。
  だからこの教師は嫌いなんだ。
  溜息をつきながら席に座る。
  そして僕は答案をくしゃくしゃに丸めて窓の外に投げた。
  窓際でラッキーだったな、と小さく呟いた。
  「鶴来、また悪かったのかよ」
  声をかけられ振り向くと、岬がにやにや笑っていた。
  「うるさいな、どうせお前も悪いくせに」
  「馬鹿め、今回の俺は一味ちがうわ」
  そういう岬の答案を見ると、「A組 32番 岬剛 47点」 と書かれていた。
  47点か、僕のほうが5点高い。
  岬は急に真面目な顔になると、僕の顔を窺うようにして言った。 
  「どうしたんだ今日は。姉ちゃんとなんかあったのか?」
  こいつは妙なとこで鋭い。頭は悪い代わり、人の心の機敏な動きを察するのがうまいのである。
  僕は人間そういうものなのかな、と最近思い始めている。
  姉は成績はいいくせにまったく人の気持ち、というものを全く気にしない。
  「いや、今日姉さんが映研覗きにくるみたいでね。部長としてなんか姉さんにいってくれないか」
  「いいじゃんか、来たって」
  そういえばこいつはどこか姉に甘いとこがあることを忘れていた。
  岬は僕の姉に顔を合わせる度に、にへらにへらと浮つくのである。
  少し前に、もしかすると姉を好きなのかと僕が聞いたのだが、こいつは赤くなって否定していた。 
  それを見て、僕は内心複雑であった。
  やはりシスコンなのだろうか、僕は。
  「ふーん、美華さんくるのかぁ、へー、ふーん」
  こいつは何を想像しているのか、にやにやしながら自らの席へ帰っていった。
  仕様のない奴だ、とその後ろ姿を見ながら僕は悪態をつくのだった。



343 愛のしるし ◆X.Oo3mDyag sage 2008/06/02(月) 19:58:01 ID:6JF8VwcM
「はい、じゃあ今日も張り切っていきましょう!映研バンザーイ!!」
  「うるさいよ」
  姉が後ろで見学しているからだろう、岬がさっきからうるさい。
  映研は岬が立ち上げた部である。
  僕、岬、特進クラスの奈多さん、同じく特進クラスの楔さん、後輩の釘、の五人と部員数は少ない。
  作って間もあまりない部なので、武知さんや、野梨と打ち解けるのはまだかかりそうであった。

  「えー、今日の活動内容は文化祭に向けての映画製作の話し合いであります!」
  しかしこんな時期から、秋の文化祭までに間に合うだろうか。
  というより本気でやる気があるかどうか。
  もしやこやつは姉の前だけいい顔しようとしているだけなのでは・・・。

  「はい、恋愛ものがいーでーす」
  いつでも元気いっぱいがモットーの奈多さんが意見を出す。
  部室の端で、姉は汚れたパイプ椅子に座ってただ静かに僕達を見ていた。
  しかし姉からどこか威圧感を感じるような、そんな気がした。
  僕は後ろに座る姉を意識しながら、佐多さんにたずねた。
  「恋愛ものって、誰と誰のラブストーリーにするのさ」
  奈多さんはわざとらしく楔さんを見ながら、
  「うぅーん、私はメグと鶴来くんがいいと思うけど?」
  「メグって楔さんでしょ?そんなの楔さん、かわいそうじゃないか」
  楔さんは真っ赤になって困っている。
  僕だって困る。内気な楔さんとはまだあまり話しておらず、そんな役は正直気まずいのだ。
  「わ、私は別にいいけど・・・」
  楔さんはおずおずと言った。
  どうしよう。断ったら悪いし、かといってやりたくもない。
  僕はあまり他人との交流が得意ではないから。
  だれかに押し付けてしまおうか。
  こんな事を思うなんて、僕って嫌な奴。
  「やっぱり男役は岬のほうがいいんじゃ?」
  「いや、俺は監督だからな」
  「じゃ、じゃあ釘っていうのも」
  「いやいや、僕はまだ高1ですし」
  奈多さんはイライラするように、人差し指で傷だらけの机をとんとんと叩いている。
  「鶴来くんもしかして嫌?」
  「そんな事は・・・」
  内心焦った僕は知らず知らずのうちに姉の方をちらちらと見ていた。
  姉はその僕の姿を見るとどこか満足げに微笑んだ。
  そして姉は何も言わずに部屋からでていった。
  ガラガラ、ピシャン。扉を閉める音が響いた。
  なんなんだろうか。なんだか嫌な予感がする。

  部室の窓からふと空を見る。 
  叩きつけるような雨が降っていた。
  汚い木の葉が窓に張り付いている。
  本当に嫌な季節。
  それは僕の心をネガティブにするには十分であった。
もう僕がなんと言ったところで反論されるだけであろう。
  雨を見ていると何もかもやる気が失せてくる。
  すっかりあきらめた僕は言った。
  「やります。僕」



344 愛のしるし ◆X.Oo3mDyag sage 2008/06/02(月) 19:58:39 ID:6JF8VwcM
「愛してるよ、秋子」
  「え、ええ。わ、わ、私も愛ひてるわ、秋夫しゃん」
  「カーット!!なんでそんなに噛み噛みなんだよ、楔さん!もっとリラックスして」
  「は、はいぃ・・・」
  真っ赤になっている楔さん。
  これは明らかな人選ミスだ。
  そんなの最初からわかっていたことだが。
  彼女はいつも僕の前だとああなってしまう。
  理由はわからないが、いい気分はしない。
  僕は心の狭い男なのだろうか。
  そういうタイプ人のを見ると苛々するのだ。
  姉をずっと見てきたせいだろう。
  僕はサバサバとした女性が好きだった。僕を引っ張っていってくれるような人が。
  そう、例えば奈多さんのような。
  僕は奈多さんと演じたかったのに。  
  感情表現もストレートだし、社交性もあるので僕も接しやすい。
  成績も良ければ、容姿も良く、人気がある。
  多分彼女は演技だってうまいのだろう。
  なのに奈多さんはやたらと僕と楔さんを一緒にさせようとする。
  それは僕にとって苦痛でしかなかった。

  久しぶりに晴れの日曜、昼の日差しが心地良い公園での撮影会。
  脚本は釘が書いたらしいが、異常につまらない。
  これも人選ミスだ。
  最初から映画を撮り直してみようか、と岬が提案しても奈多さんは猛反対した。
  休憩に入り、僕はほっとして公園の木製のベンチに座った。
  昨日までずっと降っていた雨や灰色の分厚い雲が信じられないほどの好天気である。
  梅雨のあいだ、生き物達は生き生きと活動をする。
  人間以外は。
  そんなことを考えながら僕は無意識に肩をさすっていた。
  やはり痕になっていた。

  僕はバイブレータで携帯電話にメールがきたことに気づいた。
  姉からのようであった。
  何だろう。
  メールを確認しようとすると、楔さんがこっちに向かって歩いてきた。
  「あ、あの・・・」
  「どうしたの?」
  「これ・・・」
  楔さんは「おーい紅茶」とかいている缶を、僕の携帯を持っていない方の手の上においた。
  「私、いっぱい失敗しちゃって。お詫びにと思って・・・」
  もじもじと楔さんは動きながら言った。
  「あ、いや、悪いからいいって」
  「ううん、気にしないでッ!」
  また顔を赤らめて奈多さんのもとへ走っていってしまった。
  奈多さんがにやにやしながら、楔さんの肩を叩いている。
  また奈多さんがなにか言ったに違いない。
  僕は内心溜息をつく。 
  ・・・僕は紅茶は嫌いなのに。
  我慢して、ちびりちびりと紅茶を飲みながら、僕はメールを読んだ。

  『もう我慢しなくていいからね』



345 愛のしるし ◆X.Oo3mDyag sage 2008/06/02(月) 19:59:16 ID:6JF8VwcM
夕食を終えた僕と姉は二人でテレビを見ていた。 
  寄り添うように。僕の大好きなひととき。
  姉も心なしか幸せそうな顔をしていた。

  この家には、僕と姉の二人しかいない。
  父と母は自殺したと、聞いていた。僕が小学生3年生のころに亡くなったのだという。
  僕は、小学3年生頃までの記憶がない。
  だから両親の記憶は全く無かった。 
  小学生なのだから、親が死ぬということは非常に大きい、重いことなのではないのか。
  小学生ならば両親の記憶ぐらいあるはずなのに。
  僕は全く憶えていなかった。
  また、僕はもっと大切な何かを忘れたような気がするのだ。
  大切な、何か。しかしそれを思い出そうとすると、頭が割れそうに痛む。
  それは思い出してはいけない事なのだ、となぜか思う。
  この梅雨になると、自然とこのことについて考えるようになる。
  憂鬱で心が沈んでいるからなのだろう。
  僕の一番古い記憶、それは姉との『約束』であった。

  「遼、テストの結果が返ってきたでしょう。見せなさい」
  「あー、あれねぇ、食べちゃったかも・・・」
  「バカ!早く見せて」
  しぶしぶ鞄の中から取り出す。
  そして姉に渡す。
  姉は順位の悪さに驚く。
  怒られる。
  いつものパターンだな、と思う。
  「遼は頭が良さそうな顔してるのにね」
  「そうかな?」
  「そうよ。かわいい顔よ、遼」
  そう言って姉は僕の髪をくしゃくしゃと撫でた。
  暖かい姉の体温を感じた。
  気持ちいい。

  ひとしきり撫でると姉は立ち上がった。
  そして、ジャケットを羽織り、ハンドバッグを肩にかけた。
  「姉さん、どこかに行くの?」
  姉は、思わずドキッとするほど美しく僕に笑いかけて、言った。
  「ええ、あなたを自由にするために」

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年06月08日 20:12
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。