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七夕に願いを 作者:弥月未知夜「山里、お前は気を張りすぎなんだよ」 本気で言ってるのか疑わしい態度だった。放課後の生活指導室。片肘をついた目の前の教師はひどく若い。実際、去年大学を卒業し教師生活二年目に入ってまだ数ヶ月。 「そうですか?」 話が出来ると性別問わず生徒にそこそこ人気のあるこの男は、真面目な一部の生徒からは緊張感が足りないと酷評されてもいる。 生活指導室で彼と向き合う知佳はそこまで真面目なつもりはないが、どちらかと言えば辛い評価をする側に分類される。愛想の欠ける声で応じると、「そこだよ、そこ」と苛立たしげに教師は指摘してきた。 「どこですか?」 まともに話すつもりは毛頭なく、知佳の言葉には何の感情もこもっていない。教師は大げさにため息を吐き出し、がしがしと頭を掻いた。「……わからないのなら、いい」 自らの手で乱した頭髪を整えながら、教師は諦めた様子だった。「じゃ、もういいですね? 浅本先生」 断定するような知佳の言葉に、教師はやる気のない様子でひらりひらりと手を振った。 公立校の悲しい性なのか、霧生ヶ谷市立南高校には冷暖房がない。涼を呼び込むべく開け放たれた窓から思惑に反して温い風が吹き込み、知佳の髪を揺らした。 梅雨と言えば六月という印象があるけれど、七月に入った今も梅雨はまだ明けていない。昨日は雨、今日は朝から晴れていたものの、今晩から明日にかけては雨のようだった。 「七夕って、いっつも雨よね……」 正面玄関で空を見上げながら、知佳は呟いた。 時には晴れた年もあるのだろうが、知佳の印象としてはいつも雨が降っている。笹にいくら願い事を書いた短冊をつるしても、叶った気がしないのはいつも雨だからかもしれない。 今も少しずつ雨雲が出てきて、徐々に青い空を染めている。ため息を漏らしながら知佳はバスを待った。 無邪気に七夕に短冊をつるしたのは遠い過去の話だ。何も知らないのは幸せなことだった――あの日に戻りたいと、近頃強く思う。現実に目を向けて、過去を消し去りたいと思うこともある。 バスの到着と同時に知佳は大きく頭を振った。 現実的に考えて、それはどちらも不可能だった。なかったように振る舞うこと、それが最善の策。そう思って、ずっと努力してきた。でもらしくなく感傷的になってしまうのは、七夕が迫っているからに違いない。 揺れるバスの外に時々短冊の下がる笹の葉が見える。ひときわ大きいのは商店街のもの、アパートのベランダは小さいもの。 昔の知佳と同じように無邪気に書かれた願いが下がっているのかもしれない。そう思うと胸にズキリと痛みが走る。 よりによって、こういう時期に、わざわざ。 際限なくため息を清算しながら、胸中知佳は繰り返した。重なるごとに胸の重みが増すけれど、どうしても止めることが出来ない。 七夕行事は知佳にとって大事な思い出だから。その思い出にケチがつけられた今も、どうしたって忘れることが出来ないから。「結局諦めきれないってことだよね」 ため息とともに吐き出して、知佳は降りたバスを見送る。 これまでの通学路とは違うけれど、高校に入って三ヶ月も経てば新しい通学路にもすっかり通い慣れる。感傷混じりにゆっくりと歩いていた知佳は、予報通りにポツリと雨が落ちてきて再び空を見上げた。 泣いているような雲から雨粒が落ちてきて、アスファルトを濡らす。知佳は慌てて小走りになった。家は最寄りのバス停から徒歩で十五分。朝まで降る予報ならば、すぐに強い雨になるかもしれない。 「帰るまで降らないと踏んでたのに……!」 それもこれも、あの教師のせいだ。親切めかした忠告は知佳の心に届かなかったし、あれは時間の無駄だった。 予想した通りに雨脚は徐々に強くなり、道の側を流れる水路からの水音が大きくなる。日中に熱をため込んだアスファルトが水蒸気を生み出しでもしたのか、たちまち霧が辺りに立ちこめた。 まるでビデオを早送りしたかのように、瞬く間に。霧生ヶ谷とはよく言ったものと思う。「最悪ー!」 知佳は思わず叫んだ。 霧と水路はこの街の名物だけど、その二つにはろくな噂がない。ほのぼのしたものからグロテスクなものまでその数は枚挙にいとまなく、霧生ヶ谷っ子なら一つや二つはそれについて語れるくらいだ。 思わず杉山さんの話を思い出してしまって、知佳は泣きそうになった。夜じゃないのが救いだが、濃くなった霧は夜を想像させる。「ダメじゃなーい!」なんて叫びながら白衣の老人が追ってくる姿を想像したら、もうアウトだ。 「――お嬢さん」 自然と全力で走っていた知佳は、雨音を切り裂くように聞こえた涼やかな声に思わず足を止めた。 声のした方、霧の中にポツリと明かりが浮かんでいた。霧にかすんで灰色に見えるのは、何かの露店。誘われるようにそちらに足を向ける。 小さな机の奥に、フードをかぶった人の姿。「はいこれ」 男性とも女性ともしれないその人は、すっと知佳に手を差し伸べる。「――え?」 思わず知佳がそれを受け取ると、その人の手はすっと引いた。かわいらしいピンクの、涙型のストラップ。「お嬢さんの想いが成就するように……ね」 それを聞いて知佳が呆然としているうちに簡易な造りの露店はいつの間にかなくなり、その人もどこかに行ってしまったようだった。濃く立ちこめていたはずの霧さえ、それが幻であったかのように綺麗さっぱり消えてしまっている。 「ウソ、これって……」 雨の中立ちつくしていたことに気付いて我に返ると、知佳は手の中のストラップを見下ろしながら再び歩き始める。 霧の中の露店、涙型のピンクの石のストラップ――そのキーワードの指し示すものはただ一つ。「恋愛成就の、神様?」 それもやはり霧生ヶ谷に住む女の子なら誰でも知っていて憧れる噂話だ。恋愛成就の神様にストラップをもらうとその想いは必ず成就する、と。「実在、するの……?」 信じられない思いで知佳はそれをきゅっと握りしめ胸に当てた。「でも、見込み違いだな。叶うはずないもの」 大事にストラップを握りしめながらも、知佳はふくらむ期待に塩をかける。叶うはずがない、叶うはずがない――だって、康くんは私のことなんて邪魔に思ってるから。 「やすにいちゃんのおよめさんになれますように」子どもの頃に書いた無邪気な願い。色とりどりの飾りの中からつたない字の短冊を見つけた年上の幼なじみは、気軽に「いいよ」なんて言ってくれたけれど。子ども相手の言葉なんて、すっかり忘れているだろう。 こっちはまだまだ学生で、向こうは立派な社会人。無邪気に背を追うことは、知佳にはもうできない。 涙が流れ落ちそうになって、知佳は空を見上げた。どんよりした雲間からは一筋の光も差し込んでこない。「試験前に、風邪でも引く気か?」 頭を振って気を取り直して帰ろうとした、その時だった。「こんなに濡れるなんてバカめ」「なっ」 知佳の驚き顔を気にもしない様子で、知佳を驚かせた人は近づいてくると持っていたタオルを彼女の頭に被せた。差し出される黄色い傘が、知佳の周りを明るく染める。 それはつい先ほどまで知佳を指導室に呼び出した教師でもあり、寸前まで諦めようと思っていたその人でもあった。「なんで?」「とりあえず、頭拭け。ったく、なにぼーっと歩いてるんだよ」 呆然と立ちすくむだけの知佳に業を煮やしたのか、乱暴な手つきがタオルを動かす。「ちょ、くすぐったいってば! いきなりなんなの、康くんッ。髪がぐしゃぐしゃになるじゃない!」「感謝の言葉くらい言えないのかお前は」「というかなんでここにいるの。ってか、それ私の傘でしょ? 何で持ってるの」 知佳の頭には疑問符ばかりが浮かんでパニック寸前、反射的に意地っ張りの仮面がはがれる。叩きつけるような問いかけに、年上の幼なじみはふふんと笑う。知佳にとってはよく見慣れていて、だけど最近は一度としてみたことがなかった一番好きな表情。高鳴る胸が諦めようとしていた弱気を吹き飛ばす。 「やー、今朝出勤しようと思ったらおばさんが知佳が忘れたからよろしくって。困るよなー」 あんまり特定の生徒にかまうのはよろしくないわけで、とか何とか康の言葉は続いている。 反応に困って知佳はタオルに顔を埋めた。手に持ったままのストラップが熱い気がする。信じられないくらいの効果だ。なにしろ、二人がこんなに和やかに話をしたことなんてこの春以来なのだから。 知佳は信じられない御利益をもたらしたストラップを大事にポケットにしまい込む。「ええと、それは……どうも」「そういう時はありがとうって言うんじゃないか?」「ありがと」「上出来」 ぽんと頭を叩く仕草は子どもに対するようなものなのが気に入らないけれど、久しぶりの温かな仕草に先ほどとは違う意味で泣きそうになる。 髪を拭くふりで知佳はその衝動を誤魔化した。「だからせっかく俺がタイミングを計って待ってたって言うのに、何ちんたらと歩いてるんだよ」 ほれ帰るぞと彼は知佳の背を押した。「え?」「車、そこに停めてる」「は?」「すれ違ったかと思ったじゃないか」 勝手な理論で憤る幼なじみを知佳は肩越しに睨み上げる。「だいたい、今私がここにいるのって、康くんのせいじゃない」「何の話かなあ」「康くんが……先生が、今日に限って生活指導室に私を呼び出すから。私何もしてないのに」「してるだろ、お前俺に対して態度が激悪」「だ、だとしても普通呼び出すとしたら担任とかじゃないの?」「いんやー、光田先生はお前のこと真面目でいい子だとか勘違いしてるからなー。呼び出すなんて言ったら理由がないなんて一刀両断だぞ」「待ってよそれ、私何のために呼び出されたの? あの険悪な時間は何」 呆然と呟くと、康は「お前が悪いんだろ」とけろりと言った。「俺は温厚に話そうとしてたし、傘をどうにか受け渡そうと思ってたのに」「どこが温厚だったのよッ」 噛みつく知佳の頭に大きな手がぽんと乗せられる。「似合わない真面目な真似なんてしてるなよ。そして俺を睨むな。俺は校内でお前を見るたびに吹き出していいんだか悲しんでいいんだかちょっと迷うような複雑な気持ちになるんだが」 「どういう意味」 頬をふくらませるなんて子供じみていると自覚はしていても、自然とそうなってしまう。「もう高校生だろ、お前。子どもじゃないんだから、いつまでもすねてんな」「すねてなんかないわよ」「いやすねてるだろ、ずっと」 去年三年ローンで買った愛車の助手席を開けて知佳を中に押し込むと康はぐるりと運転席に回った。「そんなことない」「あるだろ」 傘を知佳の横に押し込んで康は断言する。ため息とともに彼がキーをひねると、エンジンと同時にエアコンがかかる。すぐに出ないつもりか康は腕を組んだ。「入学式の日にちょっと知らないふりしたのをいつまでも根に持つなよ」「だって」「処世術だよ処世術。あんまり特定の生徒と仲良くするわけにいかないんだよ」「でも」「フォローしようにもあれ以来さっきまで、にべもなかったろ」「ご、ごめん?」「うむいい子だ」 伸びてきた手が再び知佳の頭をなでる。子どもじゃないんだからと自分が言ったばかりなのに、あからさまな子ども扱い。だけど、春からの空白を埋めるような暖かさだから知佳に文句はない。 「校内で公私混同されちゃ困るが、まあ家の近くでくらい仲良くしようぜ」「うん」 なっと微笑む幼なじみに知佳は素直にうなずいた。安心したように康はハンドルに手をかける。徒歩で十五分の道のりだから、車ならばほんのちょっとだ。ドライブとも言えない時間はすぐに過ぎて、慣れたように康は知佳の家の前に車を止めた。 「よし、帰ったらすぐに着替えるんだぞ。風邪ひいて期末をすっぽかしたら補習が待ってるぞ」「追試くらいあると思うけど」「――中間もギリギリだったくせに何言うか」「何で知ってるのよ!」「おばさんが今朝嘆いていたから? 俺の指導がいいのか、現文だけはそこそこだったけどなー」「うううう、母さんめー」「ま、がんばんな」「言われなくても!」 気合いを込めた声を上げ、知佳は扉に手をかける。「もし赤点が一つもなかったら、お兄さんがいいところに連れてってあげようじゃないか」「え?」「他の生徒に見られたらコトだからな、高校生が行きそうにないちょっと郊外にでも?」「ほんとにっ?」 車の中に舞い戻り、知佳は運転席に身を乗り出した。「おうよ。九頭身川を下って海にでも行くか? 学生はわざわざ市外には出ないだろ。モロキップで海がせいぜいだ」「いいの?」「国道を北上して、式王子港市に出るって手もあるな」「やった、康くん大好き!」 子どもっぽい言葉に思いを込めて知佳は満面の笑みを浮かべる。「お前そーゆーことを軽々しく言うなって。ほれ、傘」「ありがと! 約束だからね!」 康は傘を知佳に差しだし、代わりにタオルを回収して後部座席に投げる。そして彼女を車内から追い出して、斜め向かいの自宅に車を走らせていった。 知佳は少しの間それを見守って、自宅の玄関に飛び込む。「ウソみたい。すごいかも、恋愛成就の神様って」 ポケットからストラップを取り出し、目の前にかざす。そして祈るように両手で握って、知佳は笹ではなくストラップに願いをかける。 ――どうか、康くんの恋人になれますように。 願いを受けてきらりと涙色の石が光ったような気がしたから、諦めずに頑張ろうと知佳は心に誓った。感想BBSへ
七夕に願いを 作者:弥月未知夜
「山里、お前は気を張りすぎなんだよ」 本気で言ってるのか疑わしい態度だった。放課後の生活指導室。片肘をついた目の前の教師はひどく若い。実際、去年大学を卒業し教師生活二年目に入ってまだ数ヶ月。 「そうですか?」 話が出来ると性別問わず生徒にそこそこ人気のあるこの男は、真面目な一部の生徒からは緊張感が足りないと酷評されてもいる。 生活指導室で彼と向き合う知佳はそこまで真面目なつもりはないが、どちらかと言えば辛い評価をする側に分類される。愛想の欠ける声で応じると、「そこだよ、そこ」と苛立たしげに教師は指摘してきた。 「どこですか?」 まともに話すつもりは毛頭なく、知佳の言葉には何の感情もこもっていない。教師は大げさにため息を吐き出し、がしがしと頭を掻いた。「……わからないのなら、いい」 自らの手で乱した頭髪を整えながら、教師は諦めた様子だった。「じゃ、もういいですね? 浅本先生」 断定するような知佳の言葉に、教師はやる気のない様子でひらりひらりと手を振った。
公立校の悲しい性なのか、霧生ヶ谷市立南高校には冷暖房がない。涼を呼び込むべく開け放たれた窓から思惑に反して温い風が吹き込み、知佳の髪を揺らした。 梅雨と言えば六月という印象があるけれど、七月に入った今も梅雨はまだ明けていない。昨日は雨、今日は朝から晴れていたものの、今晩から明日にかけては雨のようだった。 「七夕って、いっつも雨よね……」 正面玄関で空を見上げながら、知佳は呟いた。 時には晴れた年もあるのだろうが、知佳の印象としてはいつも雨が降っている。笹にいくら願い事を書いた短冊をつるしても、叶った気がしないのはいつも雨だからかもしれない。 今も少しずつ雨雲が出てきて、徐々に青い空を染めている。ため息を漏らしながら知佳はバスを待った。 無邪気に七夕に短冊をつるしたのは遠い過去の話だ。何も知らないのは幸せなことだった――あの日に戻りたいと、近頃強く思う。現実に目を向けて、過去を消し去りたいと思うこともある。 バスの到着と同時に知佳は大きく頭を振った。 現実的に考えて、それはどちらも不可能だった。なかったように振る舞うこと、それが最善の策。そう思って、ずっと努力してきた。でもらしくなく感傷的になってしまうのは、七夕が迫っているからに違いない。 揺れるバスの外に時々短冊の下がる笹の葉が見える。ひときわ大きいのは商店街のもの、アパートのベランダは小さいもの。 昔の知佳と同じように無邪気に書かれた願いが下がっているのかもしれない。そう思うと胸にズキリと痛みが走る。 よりによって、こういう時期に、わざわざ。 際限なくため息を清算しながら、胸中知佳は繰り返した。重なるごとに胸の重みが増すけれど、どうしても止めることが出来ない。 七夕行事は知佳にとって大事な思い出だから。その思い出にケチがつけられた今も、どうしたって忘れることが出来ないから。「結局諦めきれないってことだよね」 ため息とともに吐き出して、知佳は降りたバスを見送る。 これまでの通学路とは違うけれど、高校に入って三ヶ月も経てば新しい通学路にもすっかり通い慣れる。感傷混じりにゆっくりと歩いていた知佳は、予報通りにポツリと雨が落ちてきて再び空を見上げた。 泣いているような雲から雨粒が落ちてきて、アスファルトを濡らす。知佳は慌てて小走りになった。家は最寄りのバス停から徒歩で十五分。朝まで降る予報ならば、すぐに強い雨になるかもしれない。 「帰るまで降らないと踏んでたのに……!」 それもこれも、あの教師のせいだ。親切めかした忠告は知佳の心に届かなかったし、あれは時間の無駄だった。 予想した通りに雨脚は徐々に強くなり、道の側を流れる水路からの水音が大きくなる。日中に熱をため込んだアスファルトが水蒸気を生み出しでもしたのか、たちまち霧が辺りに立ちこめた。 まるでビデオを早送りしたかのように、瞬く間に。霧生ヶ谷とはよく言ったものと思う。「最悪ー!」 知佳は思わず叫んだ。 霧と水路はこの街の名物だけど、その二つにはろくな噂がない。ほのぼのしたものからグロテスクなものまでその数は枚挙にいとまなく、霧生ヶ谷っ子なら一つや二つはそれについて語れるくらいだ。 思わず杉山さんの話を思い出してしまって、知佳は泣きそうになった。夜じゃないのが救いだが、濃くなった霧は夜を想像させる。「ダメじゃなーい!」なんて叫びながら白衣の老人が追ってくる姿を想像したら、もうアウトだ。 「――お嬢さん」 自然と全力で走っていた知佳は、雨音を切り裂くように聞こえた涼やかな声に思わず足を止めた。 声のした方、霧の中にポツリと明かりが浮かんでいた。霧にかすんで灰色に見えるのは、何かの露店。誘われるようにそちらに足を向ける。 小さな机の奥に、フードをかぶった人の姿。「はいこれ」 男性とも女性ともしれないその人は、すっと知佳に手を差し伸べる。「――え?」 思わず知佳がそれを受け取ると、その人の手はすっと引いた。かわいらしいピンクの、涙型のストラップ。「お嬢さんの想いが成就するように……ね」 それを聞いて知佳が呆然としているうちに簡易な造りの露店はいつの間にかなくなり、その人もどこかに行ってしまったようだった。濃く立ちこめていたはずの霧さえ、それが幻であったかのように綺麗さっぱり消えてしまっている。 「ウソ、これって……」 雨の中立ちつくしていたことに気付いて我に返ると、知佳は手の中のストラップを見下ろしながら再び歩き始める。 霧の中の露店、涙型のピンクの石のストラップ――そのキーワードの指し示すものはただ一つ。「恋愛成就の、神様?」 それもやはり霧生ヶ谷に住む女の子なら誰でも知っていて憧れる噂話だ。恋愛成就の神様にストラップをもらうとその想いは必ず成就する、と。「実在、するの……?」 信じられない思いで知佳はそれをきゅっと握りしめ胸に当てた。「でも、見込み違いだな。叶うはずないもの」 大事にストラップを握りしめながらも、知佳はふくらむ期待に塩をかける。叶うはずがない、叶うはずがない――だって、康くんは私のことなんて邪魔に思ってるから。 「やすにいちゃんのおよめさんになれますように」子どもの頃に書いた無邪気な願い。色とりどりの飾りの中からつたない字の短冊を見つけた年上の幼なじみは、気軽に「いいよ」なんて言ってくれたけれど。子ども相手の言葉なんて、すっかり忘れているだろう。 こっちはまだまだ学生で、向こうは立派な社会人。無邪気に背を追うことは、知佳にはもうできない。 涙が流れ落ちそうになって、知佳は空を見上げた。どんよりした雲間からは一筋の光も差し込んでこない。「試験前に、風邪でも引く気か?」 頭を振って気を取り直して帰ろうとした、その時だった。「こんなに濡れるなんてバカめ」「なっ」 知佳の驚き顔を気にもしない様子で、知佳を驚かせた人は近づいてくると持っていたタオルを彼女の頭に被せた。差し出される黄色い傘が、知佳の周りを明るく染める。 それはつい先ほどまで知佳を指導室に呼び出した教師でもあり、寸前まで諦めようと思っていたその人でもあった。「なんで?」「とりあえず、頭拭け。ったく、なにぼーっと歩いてるんだよ」 呆然と立ちすくむだけの知佳に業を煮やしたのか、乱暴な手つきがタオルを動かす。「ちょ、くすぐったいってば! いきなりなんなの、康くんッ。髪がぐしゃぐしゃになるじゃない!」「感謝の言葉くらい言えないのかお前は」「というかなんでここにいるの。ってか、それ私の傘でしょ? 何で持ってるの」 知佳の頭には疑問符ばかりが浮かんでパニック寸前、反射的に意地っ張りの仮面がはがれる。叩きつけるような問いかけに、年上の幼なじみはふふんと笑う。知佳にとってはよく見慣れていて、だけど最近は一度としてみたことがなかった一番好きな表情。高鳴る胸が諦めようとしていた弱気を吹き飛ばす。 「やー、今朝出勤しようと思ったらおばさんが知佳が忘れたからよろしくって。困るよなー」 あんまり特定の生徒にかまうのはよろしくないわけで、とか何とか康の言葉は続いている。 反応に困って知佳はタオルに顔を埋めた。手に持ったままのストラップが熱い気がする。信じられないくらいの効果だ。なにしろ、二人がこんなに和やかに話をしたことなんてこの春以来なのだから。 知佳は信じられない御利益をもたらしたストラップを大事にポケットにしまい込む。「ええと、それは……どうも」「そういう時はありがとうって言うんじゃないか?」「ありがと」「上出来」 ぽんと頭を叩く仕草は子どもに対するようなものなのが気に入らないけれど、久しぶりの温かな仕草に先ほどとは違う意味で泣きそうになる。 髪を拭くふりで知佳はその衝動を誤魔化した。「だからせっかく俺がタイミングを計って待ってたって言うのに、何ちんたらと歩いてるんだよ」 ほれ帰るぞと彼は知佳の背を押した。「え?」「車、そこに停めてる」「は?」「すれ違ったかと思ったじゃないか」 勝手な理論で憤る幼なじみを知佳は肩越しに睨み上げる。「だいたい、今私がここにいるのって、康くんのせいじゃない」「何の話かなあ」「康くんが……先生が、今日に限って生活指導室に私を呼び出すから。私何もしてないのに」「してるだろ、お前俺に対して態度が激悪」「だ、だとしても普通呼び出すとしたら担任とかじゃないの?」「いんやー、光田先生はお前のこと真面目でいい子だとか勘違いしてるからなー。呼び出すなんて言ったら理由がないなんて一刀両断だぞ」「待ってよそれ、私何のために呼び出されたの? あの険悪な時間は何」 呆然と呟くと、康は「お前が悪いんだろ」とけろりと言った。「俺は温厚に話そうとしてたし、傘をどうにか受け渡そうと思ってたのに」「どこが温厚だったのよッ」 噛みつく知佳の頭に大きな手がぽんと乗せられる。「似合わない真面目な真似なんてしてるなよ。そして俺を睨むな。俺は校内でお前を見るたびに吹き出していいんだか悲しんでいいんだかちょっと迷うような複雑な気持ちになるんだが」 「どういう意味」 頬をふくらませるなんて子供じみていると自覚はしていても、自然とそうなってしまう。「もう高校生だろ、お前。子どもじゃないんだから、いつまでもすねてんな」「すねてなんかないわよ」「いやすねてるだろ、ずっと」 去年三年ローンで買った愛車の助手席を開けて知佳を中に押し込むと康はぐるりと運転席に回った。「そんなことない」「あるだろ」 傘を知佳の横に押し込んで康は断言する。ため息とともに彼がキーをひねると、エンジンと同時にエアコンがかかる。すぐに出ないつもりか康は腕を組んだ。「入学式の日にちょっと知らないふりしたのをいつまでも根に持つなよ」「だって」「処世術だよ処世術。あんまり特定の生徒と仲良くするわけにいかないんだよ」「でも」「フォローしようにもあれ以来さっきまで、にべもなかったろ」「ご、ごめん?」「うむいい子だ」 伸びてきた手が再び知佳の頭をなでる。子どもじゃないんだからと自分が言ったばかりなのに、あからさまな子ども扱い。だけど、春からの空白を埋めるような暖かさだから知佳に文句はない。 「校内で公私混同されちゃ困るが、まあ家の近くでくらい仲良くしようぜ」「うん」 なっと微笑む幼なじみに知佳は素直にうなずいた。安心したように康はハンドルに手をかける。徒歩で十五分の道のりだから、車ならばほんのちょっとだ。ドライブとも言えない時間はすぐに過ぎて、慣れたように康は知佳の家の前に車を止めた。 「よし、帰ったらすぐに着替えるんだぞ。風邪ひいて期末をすっぽかしたら補習が待ってるぞ」「追試くらいあると思うけど」「――中間もギリギリだったくせに何言うか」「何で知ってるのよ!」「おばさんが今朝嘆いていたから? 俺の指導がいいのか、現文だけはそこそこだったけどなー」「うううう、母さんめー」「ま、がんばんな」「言われなくても!」 気合いを込めた声を上げ、知佳は扉に手をかける。「もし赤点が一つもなかったら、お兄さんがいいところに連れてってあげようじゃないか」「え?」「他の生徒に見られたらコトだからな、高校生が行きそうにないちょっと郊外にでも?」「ほんとにっ?」 車の中に舞い戻り、知佳は運転席に身を乗り出した。「おうよ。九頭身川を下って海にでも行くか? 学生はわざわざ市外には出ないだろ。モロキップで海がせいぜいだ」「いいの?」「国道を北上して、式王子港市に出るって手もあるな」「やった、康くん大好き!」 子どもっぽい言葉に思いを込めて知佳は満面の笑みを浮かべる。「お前そーゆーことを軽々しく言うなって。ほれ、傘」「ありがと! 約束だからね!」 康は傘を知佳に差しだし、代わりにタオルを回収して後部座席に投げる。そして彼女を車内から追い出して、斜め向かいの自宅に車を走らせていった。 知佳は少しの間それを見守って、自宅の玄関に飛び込む。「ウソみたい。すごいかも、恋愛成就の神様って」 ポケットからストラップを取り出し、目の前にかざす。そして祈るように両手で握って、知佳は笹ではなくストラップに願いをかける。 ――どうか、康くんの恋人になれますように。 願いを受けてきらりと涙色の石が光ったような気がしたから、諦めずに頑張ろうと知佳は心に誓った。
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