春は夢を見ていた
あるいは、夢の現の狭間のような場所で揺蕩っていたのかもしれない


『ともに逃げよう、姫』

長身ですらりとした狩衣姿の青年が春の手を握った
いや、違う
自分はこんなふうに爪を伸ばしていないし、牡丹のような色に染めてもいない

『君と添い遂げたいんだ。神境も島も何もかも捨てて、都で暮らそう。心配はいらない。
 僕は当主様の遣いで何度も都に行っているし、絵を売れば金になる。君に不自由はさせない。
 だから…僕の妻になってくれないか』

青年は整った容貌をしていた。髪の色こそ黒いが、どことなく京太郎に似ているような気もする
高貴な生まれであることを匂わせる涼やかな目元に愛おしげな笑みが浮かび、
形のよい唇は甘い言葉を吐く

『死ぬまで君だけを愛すると誓うよ。僕の妻は、僕が妻にしたい人は、君しかいない』

唐突に、青年の微笑が陰った。彼は戸惑いを隠せない様子で続ける

『なぜ…。僕のことが嫌いになったのかい?違うのなら、どうして…』

春は、否、春の中に入ってきた姫と呼ばれる誰かが、辛そうに首を横に振った

「逃げられないわ。だって、わたくしが逃げたら家族が…皆が無事ではいられないもの」

不思議な感じだった
自分の喉から出た声なのに、自分の声とは全く異なる響きだったから

「わたくしは六女仙として…ゆくゆくは当主様の妻になるために神境に行かなければならないわ。
 神代本家から直々にお声がかかったのよ。家族はとても喜んでいるし、支度も調えられているの。
 だから…ごめんなさい」

はらはらと目尻から涙がこぼれた。春は困惑するが、涙はとめどなく溢れてくる

「あなたのことが好きだけど…一緒には行けないわ」

青年の面に失意が広がった。胸を引き裂かれたかのように唇を噛み、姫の手を撫でる

『君は当主様の…兄上の花嫁になってしまうんだね』

ごめんなさい、と春の唇から春のものではない涙声がもれる。
姫は、青年の求めに応じたくてたまらない
彼女の望みは彼と結ばれることだけなのだから

しかし、情熱のままにすべてを捨てることなど不可能だ
姫には優しい両親がいる。幼い妹がいる。子どもの頃から何くれと世話を焼いてくれた多くの親戚がいる
そして、ともに巫女となるべく修行を積んだ仲間たちがいる

彼女らを捨てて恋を追いかけられようか
自分が幸せになれば、家族や友が不幸になると分かっているのに

『泣かないで、僕の恋しい人』

姫を引き寄せて、青年はその手の甲に口づけした

『これが最後の逢瀬だというのなら、君の笑顔を目に焼きつけておきたい』

青年は一目で偽りのそれと分かる笑みを見せた
今にも暴れだしそうな感情を抑え込み、姫を力ずくで連れ去ってしまいたい衝動をこらえて、
最後に美しい思い出を残そうとする、悲痛な微笑だった

『君はきっと兄上に寵愛されるよ。六女仙の筆頭、卓越した力を持つ神境の巫女として永く名を遺すだろう』

姫は青年に抱きしめられた

『どうか…どうか幸せに』

彼の衣に沁みこんだ慣れ親しんだ香も、今日ばかりはうら寂しさを感じさせる

「どれほど当主様のご寵愛を賜ろうと、わたしくしが愛おしく思うのはあなただけ」

涙が、青年の衣に染みを作った

「いつか…命が尽きたら、あなたに会いにいくわ」

きつく抱きしめられるたび、焼けるような熱さと痛みが胸を襲う

「あなたがくださった紅をさして、髪飾りをつけて、会いにいくから…」

姫の切々とした恋情が、まるで春自身のもののように感じられた

「来世では必ず…そのときまで…どうか待っていて」

『なら僕は…』

青年が何か答えるが、もはや聞こえない
急速に彼のぬくもりが消えていく

目覚めたとき、夢の記憶はその残滓も残っていなかった

春「…おはよう」

京太郎「おお、春。おはよ…ってどうしたんだお前。目が真っ赤だぞ」

春「何でもない。それより朝からどうしたの?」

京太郎「どうしたって、今日はお前の誕生日じゃねぇか」

春「あ」

京太郎「なんだ自分が忘れてたのかよ。じゃあ、はい」ポンッ

春「黒糖と…何コレ」

京太郎「俺的には黒糖の詰め合わせで十分かなって思ったんだけどな」

春「口紅と…髪留め?」

京太郎「まあお前も休みの日なんかはオシャレ化粧することもあるんじゃないかと」

春「…そう」

京太郎「何かお袋が『春ちゃんも16歳になったからこれ持っていきなさい』ってさ。使わねーならまあ…好きにしてくれ」

春「ううん。使う」

京太郎「あ、そ。しかしお前も16か…この年で結婚するのが当たり前だった時代もあるってのはスゲーよな」チラッ

春「…なに」

京太郎「いや何でも?別に、『滝見家にも今のお前と同じ年で本家に嫁いで六女仙の筆頭に
    なった人もいるのにこの黒糖狂ときたら…』なんて思ってないぞ?」

春「…!?」

京太郎「なんだ?どうした?」

春「それ本当?うちの家から私と同い年で本家に嫁入りして六女仙になった人がいるって…」

京太郎「なんで当のお前が知らないんだよ…お婆様が話して聞かせてくれたことがあるだろ」

春「…覚えてない」

京太郎「歴代でも五本の指に入る優れた力を持った巫女で、容姿端麗。しかも歌舞音曲にも長け、
    彼女の歌声を聴いた人は感涙にむせび、舞を見た者は仙境で遊ぶかの如く浮かれ、
    奏でる琴音を耳にした者は魂が抜かれたように放心したらしい」

春「ふーん」

京太郎「偉大なご先祖様のことくらい知っとけよ。古今東西の詩にも詳しかったらしいけど…」

春「けど?」

京太郎「なぜか自分の姿絵を描かれることだけは好まなかったらしくて、肖像画的な物は残ってないらしい」

春「…そう」

京太郎「ま、そんな美人なら絵でもいいからぜひ一度お目にかかってみたいもんだけどな」

春「…」ムスッ

京太郎「どうした?」

春「何でもない。ところで、京太郎からこのプレゼント貰ったって、皆に言ってもいい?」

京太郎「へっ?まあいいけど…何で?」

春「滝見家の女に男が口紅とか髪飾りを送るのは求婚の印」

京太郎「へー………はぁ!?何だそれ!?」

春「理由は分からない。いつから始まったかも知らない」

京太郎「聞いてないぞ!さてはお袋のヤツ図ったな!って言うか求婚って別に別にそんなつもりじゃ…!」アタフタ

春「これは姫様と私たち六女仙の筆頭である霞さんに報告する義務がある」

京太郎「!?」

春「じゃあ本殿に行ってくるから」サッ

京太郎「速っ!いつものあの緩慢な動きは何なんだ…!っていうかちょっと!
    霞さんと小蒔さんにだけはやめて!お願い!後生だから!」バッ


『なら僕は、来世ではもう一度、君に新しい紅と髪飾りを持って会いにいこう。約束するよ』


カン!

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最終更新:2019年03月11日 00:55