雨脚が強まっている。

先ほどまでは宙に消え入りそうな雨音が、今では砂嵐のように響いている。
欄干に雫が垂れ落ち、カンカンといったような甲高い音が時たま聞こえてくる。


この部屋には、たった二人、ただ二人の男女が居るのみ。
なんてことはない、片やベットに寝ころび本を読み、片や机に向かってシャーペンをグルグル回している。

雨音だけが響いている。蒸し暑さを感じる。

――彼は憂いていた。

二年生になり、新入生も入ってきたものの、先輩っぽい姿を見せれていないことを。
麻雀が思うように上達せず、来たるインハイ予選で結果を出せるか分からないことを。
そんな自分を周りはどのように思っているのか、表面上では朗らかに接してくれているが…
そんなことを思うと背筋がゾッとする、見捨てられないか、呆れられていないか、不安でしょうがなくなっていく。

梅雨のじめったい匂いが鼻につく。

だからなのであろう、雑用を自ら進んでやるのは。
そうでもしなければ、自分は皆から置いて行かれてしまって、そのまま一人ぼっちになってしまいそうな気がして…

カンカンと音が聞こえた。

そんな音にハッとして

__らしくない思考をしてしまったな

などと思い、目の前に広がる謎の数式の世界に取り組もうとする


「ねぇ、京ちゃん」

ベットに横たわる彼女が声をかける。

「ん、なんだ」

「宿題終わった?」

「いーやぜんぜん、何が何やらさっぱりだ」

「もう、しっかりしてよ、京ちゃんが解けないと私が写せないじゃん」

「なんで俺のを写す前提なんだ」

「えへへ…」

軽口を叩く幼馴染に対してやや強めに返答するものの、彼女ははぐらかすように微笑むのみ。

…沈黙が間を繋ぐ。

彼は知っていた、彼女が何の意味もなく無駄話をし始めることは少ないと、特に読書を中断してまですることは稀であると。
だからこそ次の言葉を待っていた、彼女が意を決して話そうとしているソレを遮ることがないように、沈黙を続ける。

「京ちゃんはさ」

彼女が言葉を発す。

「考えすぎだと思うよ」

唐突な一言。普通であれば、なんのことか分からないだろう。
だが、彼は思い当たることがあった。今抱いている不安、焦燥、憂い…頭に纏わりつくじめっとした感情。

「そうかなァ、普段からテキトーだし、よく咲にだって…」

しかし、そんなことをおくびにも出さないように努めて軽く返そうとするも

「京ちゃん」

強かな声で遮られる。違う、そうじゃない、そう諌めるように…
空気が張り詰める、ナニカがピンと張られたような気がする、妙な圧迫感によって後ろを振り向くことも出来ない。

「…私は、京ちゃんみたいに」

「お友達作るの上手じゃないし、面白いお話できるわけじゃないし」

「むしろ…出来ることって言ったら、麻雀ぐらいしかないし」

「それでも、こうやって楽しく…えーと…楽しんでるよ」

淡々と言葉が紡がれ、ちょっとほつれ、結ばれていく。
彼女が何を言いたいかは分かる、頭では理解できる…が

心は理解してくれない。

「それは咲が麻雀がバカみたいに強いからだろ」

自然と口調が強くなってしまう。
だから嫌だったのだ、すぐに話を逸らしたかったのだ、こうやって苛立ってしまうから。
ただの八つ当たりをしてしまった自分がさらに嫌いになっていくから、こうして嫌な気持ちになるから。

「うん、そうだね、そうだと思う…」

「ああ」

そうした苛立ちに引っ張られ、ぶっきらぼうに返してしまう。
だが、こんな態度とは裏腹に、嫌な気持ちにしてしまっただろうか、傷ついてしまったのだろうか、などと考えてしまう。
そんな不安が渦巻いていき、恐怖へと成長していき、背筋に冷や汗がつたる。
終わりの沈黙が辺りを包み込んだ、と思っていた。

「京ちゃんはさ」

だが、彼女は止まらない。

「不安なんでしょ」

胸にズブっと突き刺さる。その言葉は重く、重く沈んでいき、得体の知れない不安が広がっていく。

__自分は、こんな咲を知らない

彼女は他人の深いところにむやみに触れるようなことはしない人間だった。
なぜなら彼女自身がそうだったから、深くまで触れられることから逃げていたから、だからそんなことはしなかった。

だが、今はどうだ。

「部活に居場所がなくなるんじゃないかって思っちゃって」

「誰からも必要とされなくなるのが怖くなっちゃって」

他人の深いところを、触れられたくないところを、傍若無人に踏み荒らしている。
気づかされたくなかった不安が、はっきりとした言葉として襲いかかってくる。
思わず肩が震えてしまう。それは怒りなのか、怯えなのか、分からないが、急激に血が駆け上ってくるのは分かる。
振り向いて何か言ってやろうと思ったその瞬間、

スッと後ろから優しく抱きしめられた。

「さ、咲…?」

思わず言葉が零れ落ちる。
彼女はそんな言葉を意に介さず、その手に少しだけ力を込め、頭を肩に乗せてくる。
そして、その頭をスリスリと摺り寄せ、伸ばしていた手を首に軽く巻き付けてくる。
その仄かな温かさが、蒸し暑いにも関わらず、安らぐような心地よさをもたらしてくる。
駆け上っていた血が、ゆったりと、ゆるやかに収まっていくの分かる。
その熱で、融解されているような、そんな気がした。

静寂が続く、雨音が遠く、幽かに、聞こえる。

「…私がそばに居るから」

虚空に消え入りそうな、小さな声だった。

「たとえ京ちゃんが皆から見放されちゃっても、私はずっと一緒に居るから」

「だから、京ちゃんは安心していいよ」

「私が…」


「京ちゃんの居場所になるから」


「だから…」

それでも、確かに、ハッキリと、そう聞こえた。

静寂が続く。

顔が熱くなってくる、鼓動が段々と速まっていくのが分かる、頭の中でその言葉を反芻してしまう。
その言葉の真意を読み取ろうとすればするほど、頭が熱くなってきて、体温が上がってしまう。
まるで、甘美な毒のような、そんな錯覚をしてしまうほど、その言霊はあまりに強く、全身に染み入ってしまう。
さらに全身が、心が、あったまってしまう。蒸し暑さが増し、汗が額から垂れ落ちる。その汗は目の前の数式にスッと吸い込まれていった。

心なしか、隣の彼女も段々と熱くなってきて、首に巻き付く腕があったかくなってきて…

「あぅあぅ…」

そんな声が聞こえた気がした。

彼女は急に離れ、顔を真っ赤にして、慌てた様子で荷物をまとめ始める。

「あああああの、も、もう時間だひゃら帰るね!」
「お、おう…」

そして物凄い勢いで噛みまくりながら喋る彼女に対して、思わず相槌を打ってしまう。
そうして彼女は走り去ろうとしたが、その戸をくぐる寸前で、彼は

「あ、ありがとな!」

その後ろ姿にそう言葉を投げかけた。
彼女は一瞬硬直した後に、喉からかすかに音を出し、そのままドタドタと去ってしまった。

部屋に残ったのはただ一人、雨はカンカンと欄干を叩く。当分は止みそうにない。
相変わらず部屋は蒸し暑く、纏わりつくような湿気が辺りを覆っている。
彼はそんな今日を、一生忘れないだろう。

梅雨はもうすぐ終わりそうだ。

カン!

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最終更新:2020年04月06日 22:57