二月十四日、放課後。
ここ双葉学園では激烈なバレンタイン戦線がいよいよ佳境を迎えつつある時間帯、だがそんな流れから置いてけぼりを食らっている人間も確かに存在する。
そう、例えばこの話の主人公である高等部二年N組の生徒、黒田一郎(くろだ いちろう)とか。
(バレンタインなんて考えた奴死ね、爆発しろ)
教室を後にする彼は今、そんな感じの呪いの言葉を心中に垂れ流し続けていた。
取り柄らしい取り柄の無い彼にとってバレンタインデーとはクラスの人気者との差を如実に思い知らされ、そして哀れみとともにしぶしぶという感で心のこもっていないチョコをようやく幾つか恵まれる、そんな拷問じみた時間である。
彼に宿った異能が戦闘で大活躍できるものならば、その戦う様次第では人気を得られたかもしれない。だが、実際に得た異能〈ミストキャッスル〉は決して弱くは無かったものの、発動させたが最後制御のためにその場から動くこともできないほど集中する必要があるという非常に使い勝手の悪いものであった。
結局、この双葉学園に来ても事態は何も変わらず、バレンタインデーは楽しからざる日であった。
「今日はさっさと帰るか」
部屋に篭っていれば、少なくともこの騒ぎを目の当たりにしないで済む。その思考は完全に負け犬なそれであったが、自覚しているのでダメージは無い。…少なくとも一郎自身はそう思い込んでいる。
そんな彼であるから周囲の事象には極力注意を向けないように歩いていたのだが、校舎を出た辺りにいた一人の人間、それだけはごく自然に知覚が受け入れていた。
三墨(みすみ)ちさと。一郎と同じく二年N組の生徒だ。痩せぎすな体と力ないぼそぼそ喋り、そしてそれに相反する強い眼光。そんな彼女は元々その異様さで陰影のごとく目立つ人間だったが、今この場で一郎が彼女を目にとめることができたのはそのせいではない。
(そっか、お前も一緒か)
小さなトランプ柄のトートバッグをきゅっと抱え途方に暮れたように佇む彼女は、まるでマッチ売りの少女のようだ。そう思う頃には一郎の足はまるで引き寄せられるようにちさとの方へと向かっていた。
「どうしたんだ、三墨?」
「…チョコ…余った…」
一郎を確認し、小さく首を動かす挨拶と共にそう言うちさと。その声は心なしか力ないように思えた。
「?どういうこと?」
チョコを持ってきて皆に配ったのだが配りきれなかった。クラスメートはもうほとんど声をかけている人間ばかりなので困っている。幾度かのやり取りを重ね、ようやく一郎はその認識に辿りついた。
「ああ、だからか」
「?…なに…」
彼女を目にしたときの印象と実際の彼女の状況が一致していたことに感心する一郎にちさとが訝しみの目を向ける。
「いや、なんでもない。というかそれならチョコに縁が無さそうな奴に押し付けてぃけばいいだろ」
その視線をごまかすための提案に目を丸くしたまま硬直したちさとは少しの間を置いて、おお、と手を叩いた。
「じゃあ…はい」
とトートバッグごと一郎に押し付けるちさと。
「待てよこら。というか間違って無いのがむかつく」
あえて口にした言葉に更に凹んだ一郎にちさとは素っ気無く冗談よ、と返すとトートバッグを再び自分の胸に引き寄せる。
「まあいいや、それより今まで何枚配れた?」
「十…一…枚」
これ以上この話題にこだわってもいいことなど無いことを実感した一郎が話題を変え、ちさともそれに応じた。
「そうか、まあまあじゃないか」
だが、ということは同時にクラス内でまだ受け取ってくれそうな男子はまず残っていないってことだろうな、と一郎は考える。
つい数ヶ月前までその一人だった自分が言うのもなんだが、N組は変人の吹き溜まりだ。義理というか形だけでも喜んでチョコを受け取るぐらいの空気を読めない人間も一人や二人じゃない。
「…ってことは範囲を拡大しないと埒が明かないよな…いっそ皆槻に渡すか?少なくとも怒り出しはしないだろ?」
と思い付きを述べてみるも応えはない。
「どうした?」
「どうして…人事…なのに…そんなに…真面目に…手伝っ…て…くれるの…?」
「え?あー…」
考えもしなかった。なんとなくだ。そんな言葉が浮かんだものの、即座に違和感がそれを否定する。
(やっぱ、あれかな)
改めて考えてみれば思いつくのは唯一つ、最初に彼女を見たときの途方に暮れたような姿。
理由は違えど自分も彼女もつい数ヶ月前まで他人とできるだけ関わらないような生活を送っていた。
これも理由は違えど今はその考えを改めクラスメートと積極的に接しようとしているけど、半年のギャップが容易く埋まるわけも無く。
もう二年の終わりも近い今なおどこかクラスと噛み合わない感じを抱いていた。
そう、と一郎は自分の中の曖昧だった思考をはっきりと自覚する。
自分は彼女の配りきれないチョコを噛み合わなさの象徴だと思っている。もしこのチョコが配りきれたらきっとクラスメートたちと普通に友人として接することができるようになる、そう思いたいのだ。
「…ま、バレンタインにスケジュールぎっしりな人間じゃないんでね。時間を持て余してるから、さ」
「格好…つけても…似合わ…ないわよ…」
男が生きていくにはプライドが欠かせない。たとえそれが笑えるほどちっぽけなものであろうと。
…そして、往々にして女には男のそんな事情は理解できないものだ。
「そう…いえば…まだ…あなたに…チョコ…渡して…無かった…わね」
ふと思い出したように言うちさと。
「あ、そうだったな。チョコ配布作戦の第一歩として受け取っとこうか」
その言葉に頷き、ちさとはトートバッグから小袋を三つ取り出す。
「三つも?」
「うん…保存…用…観賞…用…使用…用」
「フィギュアか何かかそれ!」
思わず突っ込んでしまう一郎。ちさとは本気なのかそうでないのか全く読めない口調でそう…じゃなく…て…、と淡々と言い直す。
「一つ…は…クラスメート…として…もう…一つ…は…私を…手伝って…くれる…報酬…と…して」
「最後の一つは?」
「私…の…感謝…の…気持ちと…して…本当…に…ありがとう…」
(こいつ、こんな顔もできるんだ)
他者に感情を向けることに慣れない人間に特有なぎこちない笑み。そんな笑みでは誰の心を動かすのも難しいだろう。
だが、同じぎこちなさを抱える一郎にとって、その笑顔は心に染み入り響きあうものだった。
「そういうことなら三つとも喜んで頂くぜ。味見させてもらっていいか?」
「うん…」
ちさとが小さく首を振るのを確認し、一郎は小袋を開く。中には板状のチョコが一枚。
「おおっ…!」
思わず感嘆の息が漏れていた。板状のチョコ、その表面にはいくつものマークと数字が――これはクラブの8を表す模様だ――刻まれている。裏返すとこっちも幾何学模様が刻まれている。よほど丁寧に慎重に作ったのだろう、手作りにしてはかなり出来がいい。
「ん、うまい」
食べてまた感嘆。まあ手作りチョコといっても普通は市販のものを湯煎して型に入れるだけだから普通に手順どおりに作れば市販のものと大きく味が変わるはずもないのだが…。
そこはなんというべきかモテない男の悲しさであった。
「それにしても、本当出来いいよなあこのトランプチョコ」
とそこまで言ったところで一郎の脳裏に不吉な思念が舞い降りる。
ビーカーの水の中に垂らしたインクのように、その黒い可能性は瞬く間に心を埋め尽くしていく。何かにつき動かされるように、一郎は乾いた喉から無理やり声を絞り出した。
「…ってちょっと待て。三墨、お前何枚作ったんだ?」
「トランプ…は…一セット…五十…四枚…に…決まってる…じゃ…ない…バカ…?」
煮立った熱湯に指をつける時にも似たこわごわとした問い、それに返されるのは思った通りの、そして最悪の答。
おい五十四枚なんてそりゃ配りきれるわけないだろそのくらい分かれよ付き合い上会社で配りまくらなきゃいけないOLだってそんなにもっていかないってこいつ絶対おかしい
「まさか…今更…やめた…なんて…言わない…わよ…ね」
有無を言わせぬ口調と爛々と見据える眼光のダブルパンチが一郎を射竦める。
「言わない…わよ…ね」
更に容赦ない駄目押しを放つちさと。
試合終了のゴングが一郎の頭の中で高らかに鳴り響いた。
頑張れ一郎。
負けるな一郎。
ちなみに今からだと三~四分に一枚のペースで配っていかないと日が暮れちゃうぞ!
おわれ
最終更新:2010年02月28日 20:21