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<p>諸君! 2007年3月号</p> <p>「子供を守るための七つの提言」</p> <p>石原慎太郎 東京都知事・作家</p> <p> 義家弘介 教育再生会議担当室長・横浜市教育委員会委員</p> <p><br> (1)新たないじめを生むジェンダーフリーの是正<br> (略)<br> 義家 私は、いまのいじめの問題には戦後教育の腑の部分が凝<br> 縮されているように思えるのです。というのは、本来、「知・徳・体」の<br> 三つをバランス良く育てるのが教育の目的であるはずなのに、戦後の日本では<br> 「知」の部分、勉強さえある程度できればそれでいい、「体」や「徳」すなわち<br> 規律意識などは後回しというような扱いをしてきた。その膿が、いまいじめ問題と<br> なって現れているのではないでしょうか。<br>  今のいじめの実態をみますと、これまでには考えられなかったようなケースが<br> 頻出しているんですね。たとえば、男子が女子を殴ったり、トイレで男子のズボンを<br> 脱がせて女子に見せたり、といったいじめが実際に起きている。</p> <p><br> 石原 男が女を殴る?そんなことまで起きているんですか。それは全く論外だね。</p> <p><br> 義家 男子による女子のいじめが起きる背景のひとつには、近年進められた<br> ジェンダーフリー教育が考えられますね。たとえば、いま、小学校の名簿は<br> 男女混合名簿が主流です。男女を一緒に扱うべきだ、という議論の中で、小学校<br> 低学年では更衣室まで男女一緒というとんでもない教育まで行われている。<br> <u>ジェンダーフリー論者に言わせれば、「女を殴るのは男として恥ずべきことだ」と<br> いうごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、と<br> いうわけでしょうか。</u></p> <p> <u><br></u>石原 それは浅薄きわまりない言い分で反論にも値しないが、肉体的な優位性を<br> 持った者が弱者を一方的に殴ってはならない、というのは、世界のどこでも共通する<br> 超えてはいけない最低限の規律ですよ。日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな<br> 病的な現象が起こり得るのは。</p> <p><br> <u>義家 もし私が子供のころ、女の子を殴ったりしたら、父親にボコボコに殴られた<br> でしょうね。</u>弱い者を集団でいじめるということ自体、恥ずかしいことなのですが、<br> 今の子供たちにはそうした意識は希薄です。</p> <p><br> 石原 そういう基本的な恥の意識が、日本人から本当になくなったんだな。<br> 「勝ち組負け組」という品のない言葉がありますが、マネーゲームの勝者と自称した<br> 連中の、理をふりかざしての居丈高な居直りにも通じるものがあるね。</p> <p><br> 義家 そうした歪みが、いじめの問題に投影されているように思えてなりません。<br> これを正すには戦後教育を土台から見直す必要があると思います。そもそも「知・徳・<br> 体」といいますが、実は順序が逆で、まず健康な「体」、それから「徳」、最後に「知」<br> というのが、子供の生理にも則った正しい順番ではないか。<br> <u> 私は明治生まれの祖父に育てられたので、まず空手で徹底的に体を鍛えさせられました。<br> その上で、鉄建制裁で、曲がったことは許さない、という教えを受けた。<br> </u>その後は不良少年、ヤンキーと呼ばれるようになってしまったのですが(笑)、祖父の<br> 教えはしみついています。おそらく十歳までに「体・徳」の基本的な教育を徹底しなくては<br> もう間に合わないのではないでしょうか。<br> (略)</p> <p><br> 義家 その結果、子供が”お子様”になってしまいましたね。家庭内にも悪平等が罷り通って<br> ます。たとえば、<u>テレビでホームドラマを観ていて</u>、親と子供が同じものを食べているのを<br> 観ると、私なんかは違和感を覚えるんです。私の家では、<u>おじいちゃんや</u>父のところには<br> いっぱい品数が並んでいて、子供である自分には食べられないものを食べていました。<br> 私がうらやましそうに見ていたら、祖父が一品分けてくれて、「やっぱりじいちゃんは優しいな」<br> と感謝したり。<br>  ところが今では最初から子供も、大人と同じものを食べさせてもらって、「大人になんか<br> なりたくない」とうそぶいている。権利だけは平等で、責任は負わないんだったら、子供のほうが<br> いいに決まってますよ。<br> 石原 同感ですね。<br> 義家 バスに乗っても、<u>おじいさんは</u>私に席に座るのを許しませんでした。「半額しか料金を<br> 払っていないのに、どうして堂々と席に座れるのか」と言って、必ず自分の膝に私を乗せてくれた。<br> これも今では逆ですね。電車でも子供が堂々と席に座って、親が立っている。「子供を大事にする」<br> ということの意味、普遍的感覚が決定的にズレてしまって、「大事にする=甘やかせる」に<br> すり変わってしまった結果、石原さんが言われたように、子供たちの耐性、我慢する力が衰えて<br> しまっているのだと思います。<br> 私などもよく経験したことですが、親が先生に「そんなに厳しく言わないでください」とお願いする<br> ケースがずいぶん増えていますね。</p> <br> <p><font color= "#000099">ジェンダーフリー論者がそんな教育をしているというのは初耳ですね。っていうか、これは義家の脳内ジェンダーフリー論者の言っていることなんじゃないの?石原の言うように当たり前のことであって、男女を問わず他人を殴ってはいけないという教育はしているはずですが。わざわざ、ジェンダーフリーを持ち出してまで、教育がなされていないと言うのは、義家自身が「男は女を殴っても良い」という意識があるからでしょう。</font></p> <p><font color= "#000099">「不良少年の夢」に書いていた、”義母を階段から突き落とし、姉と弟に暴力を振るった”というのはなかったことにしたいようですね~サンケイ新聞のインタビューで「地元のトップ校に通う姉が弘介がくるなら私は学校を辞めると言った」という発言も忘れたのかな?姉が弟の進学でそこまで言うというのは、よほどひどいことをされたんでしょうね。</font></p> <p><font color= "#000099">家庭内の悪平等の例がホームドラマwこれもバーチャル社会が義家にもたらした悪影響。いいかげん、公の場で「おじいちゃん」「おねえさん」と言うのは恥ずかしいことだと気がついてねwいい年なんだからさ。</font></p>
<p>諸君! 2007年3月号</p> <p>「子供を守るための七つの提言」</p> <p>石原慎太郎 東京都知事・作家</p> <p> 義家弘介 教育再生会議担当室長・横浜市教育委員会委員</p> <p><br> (1)新たないじめを生むジェンダーフリーの是正<br> (略)<br> 義家 私は、いまのいじめの問題には戦後教育の腑の部分が凝<br> 縮されているように思えるのです。というのは、本来、「知・徳・体」の<br> 三つをバランス良く育てるのが教育の目的であるはずなのに、戦後の日本では<br> 「知」の部分、勉強さえある程度できればそれでいい、「体」や「徳」すなわち<br> 規律意識などは後回しというような扱いをしてきた。その膿が、いまいじめ問題と<br> なって現れているのではないでしょうか。<br>  今のいじめの実態をみますと、これまでには考えられなかったようなケースが<br> 頻出しているんですね。たとえば、男子が女子を殴ったり、トイレで男子のズボンを<br> 脱がせて女子に見せたり、といったいじめが実際に起きている。</p> <p><br> 石原 男が女を殴る?そんなことまで起きているんですか。それは全く論外だね。</p> <p><br> 義家 男子による女子のいじめが起きる背景のひとつには、近年進められた<br> ジェンダーフリー教育が考えられますね。たとえば、いま、小学校の名簿は<br> 男女混合名簿が主流です。男女を一緒に扱うべきだ、という議論の中で、小学校<br> 低学年では更衣室まで男女一緒というとんでもない教育まで行われている。<br> <u>ジェンダーフリー論者に言わせれば、「女を殴るのは男として恥ずべきことだ」と<br> いうごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、と<br> いうわけでしょうか。</u></p> <p> <u><br></u>石原 それは浅薄きわまりない言い分で反論にも値しないが、肉体的な優位性を<br> 持った者が弱者を一方的に殴ってはならない、というのは、世界のどこでも共通する<br> 超えてはいけない最低限の規律ですよ。日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな<br> 病的な現象が起こり得るのは。</p> <p><br> <u>義家 もし私が子供のころ、女の子を殴ったりしたら、父親にボコボコに殴られた<br> でしょうね。</u>弱い者を集団でいじめるということ自体、恥ずかしいことなのですが、<br> 今の子供たちにはそうした意識は希薄です。</p> <p><br> 石原 そういう基本的な恥の意識が、日本人から本当になくなったんだな。<br> 「勝ち組負け組」という品のない言葉がありますが、マネーゲームの勝者と自称した<br> 連中の、理をふりかざしての居丈高な居直りにも通じるものがあるね。</p> <p><br> 義家 そうした歪みが、いじめの問題に投影されているように思えてなりません。<br> これを正すには戦後教育を土台から見直す必要があると思います。そもそも「知・徳・<br> 体」といいますが、実は順序が逆で、まず健康な「体」、それから「徳」、最後に「知」<br> というのが、子供の生理にも則った正しい順番ではないか。<br> <u> 私は明治生まれの祖父に育てられたので、まず空手で徹底的に体を鍛えさせられました。<br> その上で、鉄建制裁で、曲がったことは許さない、という教えを受けた。<br> </u>その後は不良少年、ヤンキーと呼ばれるようになってしまったのですが(笑)、祖父の<br> 教えはしみついています。おそらく十歳までに「体・徳」の基本的な教育を徹底しなくては<br> もう間に合わないのではないでしょうか。<br> (略)</p> <p><br> 義家 その結果、子供が”お子様”になってしまいましたね。家庭内にも悪平等が罷り通って<br> ます。たとえば、<u>テレビでホームドラマを観ていて</u>、親と子供が同じものを食べているのを<br> 観ると、私なんかは違和感を覚えるんです。私の家では、<u>おじいちゃんや</u>父のところには<br> いっぱい品数が並んでいて、子供である自分には食べられないものを食べていました。<br> 私がうらやましそうに見ていたら、祖父が一品分けてくれて、「やっぱりじいちゃんは優しいな」<br> と感謝したり。<br>  ところが今では最初から子供も、大人と同じものを食べさせてもらって、「大人になんか<br> なりたくない」とうそぶいている。権利だけは平等で、責任は負わないんだったら、子供のほうが<br> いいに決まってますよ。<br> 石原 同感ですね。<br> 義家 バスに乗っても、<u>おじいさんは</u>私に席に座るのを許しませんでした。「半額しか料金を<br> 払っていないのに、どうして堂々と席に座れるのか」と言って、必ず自分の膝に私を乗せてくれた。<br> これも今では逆ですね。電車でも子供が堂々と席に座って、親が立っている。「子供を大事にする」<br> ということの意味、普遍的感覚が決定的にズレてしまって、「大事にする=甘やかせる」に<br> すり変わってしまった結果、石原さんが言われたように、子供たちの耐性、我慢する力が衰えて<br> しまっているのだと思います。<br> 私などもよく経験したことですが、親が先生に「そんなに厳しく言わないでください」とお願いする<br> ケースがずいぶん増えていますね。</p> <br> <p><font color= "#000099">ジェンダーフリー論者がそんな教育をしているというのは初耳ですね。っていうか、これは義家の脳内ジェンダーフリー論者の言っていることなんじゃないの?石原の言うように当たり前のことであって、男女を問わず他人を殴ってはいけないという教育はしているはずですが。わざわざ、ジェンダーフリーを持ち出してまで、教育がなされていないと言うのは、義家自身が「男は女を殴っても良い」という意識があるからでしょう。</font></p> <p><font color= "#000099">「不良少年の夢」に書いていた、”義母を階段から突き落とし、姉と弟に暴力を振るった”というのはなかったことにしたいようですね~サンケイ新聞のインタビューで「地元のトップ校に通う姉が弘介がくるなら私は学校を辞めると言った」という発言も忘れたのかな?姉が弟の進学でそこまで言うというのは、よほどひどいことをされたんでしょうね。</font></p> <p><font color= "#000099">家庭内の悪平等の例がホームドラマwこれもバーチャル社会が義家にもたらした悪影響。というか、石原良純のトーク番組のネタですね。そんなことで石原都知事にコビを売る義家室長。</font><font color="#000099">「俺様のおかずを一品増やせ」と家に帰って奥さんに言えばいいだけじゃんw</font></p> <p><font color= "#000099">それと、いいかげん、公の場で「おじいちゃん」「おねえさん」と言うのは恥ずかしいことだと気がついてね、いい年なんだからさ。</font></p>

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