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<p>(2)占領期の亡霊「体罰禁止」通達を廃止せよ<br>
(略)<br>
義家 体罰に関しては、興味深い資料があります。<br>
「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」というもので、昭和二十四年に法務府(現在の法務省)から<br>
出された通達なのですが、現在も効力を失っていません。文言は違いますが、この通達に則した内容が<br>
今なお教員研修で教えられているのです。<br>
この内容が驚くべきもので、たとえば”授業中に生徒が怠けたり騒いだりしても教室外に出すことは<br>
許されない”といった条項が並んでいる。こんなものを遵守していたら、教師は生徒指導も何も出来ませんよ。<br>
私は教育再生会議で、この通達の見直しを提言しています。<br>
石原 なるほど、この文章は初めて見たけど、驚いたな。これはもうナンセンスに近いな。<br>
義家 「トイレは授業中じゃなくて、休み時間に行くものだ」「学校には時間通りに来るものだ」と教えるのが<br>
教育なのに、それは体罰だ、というのです。<u>この通達に示されているとおり、授業中でも勝手にトイレに<br>
行ったり、遅刻した生徒が平気で教室を出入りしたり、授業を妨害する生徒を教室にとどめておいたら、<br>
どういうことになるか。</u>やっていいことといけないことの区別も曖昧になってしまいます。<br>
その帰結が、昨今の学級崩壊でしょう。<br>
それでも、戦後なんとかやってこれたのは、皮肉にも受験体制があったからです。学校に逆らったら<br>
内申書に響くなど、教師のさじ加減で、進学にある程度の影響を与えることが出来たから、生徒がまだ<br>
教師の言うことを聞いた、という側面は確かにあった。しかし、学歴神話も崩壊しつつある現在、教師たちは<br>
両手両足を縛られたまま、生徒に立ち向かわなければならない。<br>
現状はまさに危機的です。<u>端的な例を挙げれば、公立小中高等学校の対教師暴力が五千三十二件(平成十七年度)<br>
と過去最高の数字を記録しました。特に小学校ではこの三年間とも三〇パーセント以上増えている。子供たちは<br>
それを見越して、やっているんです。しかも、その対教師暴力に対して、子供にも親にも責任追及ができない。<br>
</u>石原 昭和二十四年ということは、GHQ占領下に出された通達がいまになってよみがえってしまったということですね。<br>
しかし、これはアメリカで実際に行われている躾の内容とはずいぶん違うな。<br>
義家 そうなんです。アメリカでは九十年代から<u>ゼロ・トレランス(寛容さなしの生徒規律指導)</u>によって、暴力や<br>
いじめ、麻薬、アルコール、教師への反抗に対して、ルールを厳格に適用する厳罰主義を実施しています。<br>
石原 教育再生会議でも、いじめた生徒の出席停止が大きな問題となっていましたね。<br>
義家 ええ。実は、問題を起こした生徒の出席停止は学校教育法二十六条に明記されていて、現在でも十分に可能なのです。<br>
ところが、その運用に関して、この通達のような手かせ足かせが存在している。<br>
石原 しかし、いくら占領下であっても、こんな文言は現実には通用しなかったはずです。この通達が厳然たる効力を<br>
持ってきたというよりは、一部の教師や役人たちが今になって古証文を持ち出し、不作為の口実にしているんでしょう。<br>
義家 そうした面もあると思います。<br>
この五年間で、いじめを理由にした出席停止はわずか十二件でしかありません。これはいじめが原因で死んだ子供の<br>
数よりも少ない。しかも、加害者に対する教育もなんらなされていません。<br>
このままじゃおかしい、と私は言っているのです。人を死に至らしめる行動をしてしまった人間には、年号や数式よりも<br>
教えなくてはならない規範があるはずです。<br>
まず第一に、善悪に関する明確な線引きが必要です。それが教師によってまちまちであれば、子供はもっとも緩い<br>
線引きにしか従いませんし、線引きの正当性すら疑いを持つでしょう。戦後の「個性重視」の名のもとに、「私」だけを<br>
重視する風潮のなかで、やっていいことと悪いことの線引きさえも教えられない教師が出てきているのも、残念ながら<br>
事実です。そうなると、子供たちには「個」どころか、みんながやっているならそれでいいや、という悪しき多数順応主義が<br>
はびこってしまう。<br>
では、<u>誰が共通の線引きをするかといえば、私は今こそ国がやるべきだと思っています。</u>集団で人を死に追い詰めた<br>
子供たちがいるのに、「犯人探しはやめましょう、厳しく叱ったら、その子たちが不登校になる」などといった<br>
甘っちょろい教育で、いったい誰を育てようと言うのでしょうか。<br>
石原 まったく同感だけど、国家がきちっと線引きをしようとすると、必ず朝日新聞あたりが、国家による統制だ、<br>
ファッショだと騒ぎ出すだろうね。教育再生会議でも、議論が百出するのは結構だけど、最後はやっぱり国が責任を取る<br>
しかない。<br>
義家 「これだけは許されない」という線を、きっぱりと子供たちに示すのは、公教育である以上、国の使命でしょう。<br>
いま、多くの親たちは、公立は規範が曖昧だから嫌だと言ってますよ。公立不人気の根本には、規範教育の崩壊があることを<br>
認識する必要があります。<br>
石原 私立のほうが躾の面でもずっと厳しいですよ。ルールに従わない生徒は、義務教育である中学校だろうと退学させることが<br>
できるんだから。<br>
義家 <u>高校になったら、煙草一本吸ったら一週間停学なのに、</u>中学生なら人を殺すようないじめをしても何のお咎めもない。<br>
こんなゆがんだ教育を放置していいはずがありません。</p>
<p><生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得><br>
(1)用便に行かせなかったり食事時間が過ぎても教育に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に<br>
違反する。<br>
(2)遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせないことはたとえ短時間でも義務教育では許されない。<br>
(3)授業時間中怠けたり、騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。教室内にたたせることは体罰に<br>
ならない限り懲戒権内として認めてよい。<br>
(4)人の物を盗んだり、こわしたりした場合など、こらしめる意味で、体罰にならない程度に、放課後残しても差し支えない。<br>
(5)盗みの場合などその生徒や証人を放課後訊問することはよいが自白や供述を強制してはならない。<br>
(6)遅刻や怠けたことによって掃除当番などの回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。<br>
(7)遅刻防止のための合同登校はかまわないが軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。<br>
(昭和24年8月2日 法務府発表)</p>
<br>
<p><font color=
"#000099">あれ?ゼロ・トレランスには反対だといってましたよね~しかも、文春のコラムにも「教育とは愛、愛とは寛容である」という意味不明な根拠で反対を唱えていましたが。それもお忘れ?自分が担任の頭に火をつけるという対教師暴力をやったことも忘れたのかなー。この前、スマステで再現VTRやってたでしょうが。ヤンキーって鳥頭?三歩歩いたら忘れるの?自著「ヤンキー母校に生きる」で、北星余市高校では1年では学級崩壊状態だと自慢してましたが、北星余市は私立ですよね。まず、線引き基準とか厳罰制が必要なのは、公立小中高よりも学級崩壊が当たり前な北星余市では?義家室長の母校は煙草どころか、大麻吸っても退学にならないゆる~い線引き基準の国にあるんですか、そうですか。</font></p>
<br>
<p>(2)占領期の亡霊「体罰禁止」通達を廃止せよ<br>
(略)<br>
義家 体罰に関しては、興味深い資料があります。<br>
「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」というもので、昭和二十四年に法務府(現在の法務省)から<br>
出された通達なのですが、現在も効力を失っていません。文言は違いますが、この通達に則した内容が<br>
今なお教員研修で教えられているのです。<br>
この内容が驚くべきもので、たとえば”授業中に生徒が怠けたり騒いだりしても教室外に出すことは<br>
許されない”といった条項が並んでいる。こんなものを遵守していたら、教師は生徒指導も何も出来ませんよ。<br>
私は教育再生会議で、この通達の見直しを提言しています。<br>
石原 なるほど、この文章は初めて見たけど、驚いたな。これはもうナンセンスに近いな。<br>
義家 「トイレは授業中じゃなくて、休み時間に行くものだ」「学校には時間通りに来るものだ」と教えるのが<br>
教育なのに、それは体罰だ、というのです。<u>この通達に示されているとおり、授業中でも勝手にトイレに<br>
行ったり、遅刻した生徒が平気で教室を出入りしたり、授業を妨害する生徒を教室にとどめておいたら、<br>
どういうことになるか。</u>やっていいことといけないことの区別も曖昧になってしまいます。<br>
その帰結が、昨今の学級崩壊でしょう。<br>
それでも、戦後なんとかやってこれたのは、皮肉にも受験体制があったからです。学校に逆らったら<br>
内申書に響くなど、教師のさじ加減で、進学にある程度の影響を与えることが出来たから、生徒がまだ<br>
教師の言うことを聞いた、という側面は確かにあった。しかし、学歴神話も崩壊しつつある現在、教師たちは<br>
両手両足を縛られたまま、生徒に立ち向かわなければならない。<br>
現状はまさに危機的です。<u>端的な例を挙げれば、公立小中高等学校の対教師暴力が五千三十二件(平成十七年度)<br>
と過去最高の数字を記録しました。特に小学校ではこの三年間とも三〇パーセント以上増えている。子供たちは<br>
それを見越して、やっているんです。しかも、その対教師暴力に対して、子供にも親にも責任追及ができない。<br>
</u>石原 昭和二十四年ということは、GHQ占領下に出された通達がいまになってよみがえってしまったということですね。<br>
しかし、これはアメリカで実際に行われている躾の内容とはずいぶん違うな。<br>
義家 そうなんです。アメリカでは九十年代から<u>ゼロ・トレランス(寛容さなしの生徒規律指導)</u>によって、暴力や<br>
いじめ、麻薬、アルコール、教師への反抗に対して、ルールを厳格に適用する厳罰主義を実施しています。<br>
石原 教育再生会議でも、いじめた生徒の出席停止が大きな問題となっていましたね。<br>
義家 ええ。実は、問題を起こした生徒の出席停止は学校教育法二十六条に明記されていて、現在でも十分に可能なのです。<br>
ところが、その運用に関して、この通達のような手かせ足かせが存在している。<br>
石原 しかし、いくら占領下であっても、こんな文言は現実には通用しなかったはずです。この通達が厳然たる効力を<br>
持ってきたというよりは、一部の教師や役人たちが今になって古証文を持ち出し、不作為の口実にしているんでしょう。<br>
義家 そうした面もあると思います。<br>
この五年間で、いじめを理由にした出席停止はわずか十二件でしかありません。これはいじめが原因で死んだ子供の<br>
数よりも少ない。しかも、加害者に対する教育もなんらなされていません。<br>
このままじゃおかしい、と私は言っているのです。人を死に至らしめる行動をしてしまった人間には、年号や数式よりも<br>
教えなくてはならない規範があるはずです。<br>
まず第一に、善悪に関する明確な線引きが必要です。それが教師によってまちまちであれば、子供はもっとも緩い<br>
線引きにしか従いませんし、線引きの正当性すら疑いを持つでしょう。戦後の「個性重視」の名のもとに、「私」だけを<br>
重視する風潮のなかで、やっていいことと悪いことの線引きさえも教えられない教師が出てきているのも、残念ながら<br>
事実です。そうなると、子供たちには「個」どころか、みんながやっているならそれでいいや、という悪しき多数順応主義が<br>
はびこってしまう。<br>
では、<u>誰が共通の線引きをするかといえば、私は今こそ国がやるべきだと思っています。</u>集団で人を死に追い詰めた<br>
子供たちがいるのに、「犯人探しはやめましょう、厳しく叱ったら、その子たちが不登校になる」などといった<br>
甘っちょろい教育で、いったい誰を育てようと言うのでしょうか。<br>
石原 まったく同感だけど、国家がきちっと線引きをしようとすると、必ず朝日新聞あたりが、国家による統制だ、<br>
ファッショだと騒ぎ出すだろうね。教育再生会議でも、議論が百出するのは結構だけど、最後はやっぱり国が責任を取る<br>
しかない。<br>
義家 「これだけは許されない」という線を、きっぱりと子供たちに示すのは、公教育である以上、国の使命でしょう。<br>
いま、多くの親たちは、公立は規範が曖昧だから嫌だと言ってますよ。公立不人気の根本には、規範教育の崩壊があることを<br>
認識する必要があります。<br>
石原 私立のほうが躾の面でもずっと厳しいですよ。ルールに従わない生徒は、義務教育である中学校だろうと退学させることが<br>
できるんだから。<br>
義家 <u>高校になったら、煙草一本吸ったら一週間停学なのに、</u>中学生なら人を殺すようないじめをしても何のお咎めもない。<br>
こんなゆがんだ教育を放置していいはずがありません。</p>
<p><生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得><br>
(1)用便に行かせなかったり食事時間が過ぎても教育に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に<br>
違反する。<br>
(2)遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせないことはたとえ短時間でも義務教育では許されない。<br>
(3)授業時間中怠けたり、騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。教室内にたたせることは体罰に<br>
ならない限り懲戒権内として認めてよい。<br>
(4)人の物を盗んだり、こわしたりした場合など、こらしめる意味で、体罰にならない程度に、放課後残しても差し支えない。<br>
(5)盗みの場合などその生徒や証人を放課後訊問することはよいが自白や供述を強制してはならない。<br>
(6)遅刻や怠けたことによって掃除当番などの回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。<br>
(7)遅刻防止のための合同登校はかまわないが軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。<br>
(昭和24年8月2日 法務府発表)</p>
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<p><font color=
"#000099">あれ?ゼロ・トレランスには反対だといってましたよね~しかも、文春のコラムにも「教育とは愛、愛とは寛容である」という意味不明な根拠で反対を唱えていましたが。それもお忘れ?自分が担任の頭に火をつけるという対教師暴力をやったことも忘れたのかなー。この前、スマステで再現VTRやってたでしょうが。ヤンキーって鳥頭?三歩歩いたら忘れるの?自著「ヤンキー母校に生きる」で、北星余市高校では1年では学級崩壊状態だと自慢してましたが、北星余市は私立ですよね。まず、線引き基準とか厳罰制が必要なのは、公立小中高よりも学級崩壊が当たり前な北星余市では?義家室長の母校は煙草どころか、大麻吸っても退学にならないゆる~い線引き基準でしたねー。母校の現場にいたときはゆるゆる基準で寛容だの愛だの転ばせる教育だのと言ってたくせに、全国の公立小中高校にはどうして線引き基準が必要なんでしょう?北星余市は特別な高校だからユルユルでOK?じゃあ、ほかの学校を知らないのだから、特別な北星余市を元にして語らないでほしいものですね。世の中、やり直しが必要な学生ばかりじゃないんですからw</font></p>