結局彼女は買ってしまった。
 無論現金一括払いなど出来る訳はない。
 フルローンの36回払い。手数料込み。金利3.1%
 そんな寒風吹き荒ぶ懐と引き換えに手に入れたものはと言えば、襤褸々々の魔導書、給料手取り7か月分。
 同時に買った古代ギリシア語辞書。
 貰い物の弾丸、0円。
 割と疲れた買い物、プライスレス。


第三話 魔導書とティアナ


 寮までの道を溜息を吐きながらとぼとぼ歩く彼女の背中は、煤けていた。
 衝動買いで凄まじい金額を使ってしまったのだから、溜息が出るのも当然と言えよう。
 まさに散財だったのだ。
 しかし散財だとは思えても、何故か損をしたと思えないのが不思議だった。


 寮に帰り着き、自室のドアを開けると、そこには静かに闘気を発する修羅が扉に背を向け佇んでいる。
 ―――ヤバイ。何がなんだかよく分からないが、兎に角ヤバイ。
 ドアを閉めようとしたが、何故か出来なかった。

「……おーい、スバルー? 何怒ってるのかな?」

 ギリリ、ギリリと金属が軋む様な音と共に振り向いたスバルの目は、怒りに染まっていた。

「ティーアーッ!!」

 地獄の底から響くような低音の声。そして床を蹴る音。数瞬遅れてばたん、と人の倒れる音。
 ティアナは床に押し倒されていた。マウントポジション、両手は頭上にてスバルの左手一本で拘束されている。
 その有様、まさに俎上の鯉。
 そしてスバルの右手には、朝にティアナが使った細身の油性ペン。つまりこれから行われるのは意趣返しである。

「ちょっとスバル、待って!」
「待ったなーし! だって今日、私がどんなに恥を掻いたかわかるよね? だから、このくらいはしてもいいよね!?」

 有無を言わせぬ迫力。しかし、まだ瞼には落とし切れなかったであろうインクがうっすら微妙に残っているため、少し間抜けに見えた。
 ティアナはスバルの拘束から逃れようと必死に身をよじるが、その程度で常人離れした怪力を誇るスバルから逃げ遂せる筈も無く、顔に落書きをされるのであった。
 その後スバルは、落書きだけでは解消し切れなかった鬱憤を、ティアナの乳房を存分に、容赦なく、盛大に、満足するまで揉みしだく事で見事発散する事に成功していた。
 その時のティアナは既にマグロ状態で、抵抗すら出来なかったとか。
 これぞ因果応報。


 洗面所で顔の落書きを丹念に落とす。
 自室に戻って机の前に座る。ザクザクザクザクと四本の針が不快な音を立てる、棺の形をしたアナログ時計を確認すると、時刻はまだ20時を少し回ったところだった。
 スバルが戻ってくるまで多少の猶予があるだろう。
 そう思い、彼女はポリ袋を机の下から取り出した。
 袋の中身は、魔導書、辞書、弾丸。全てあのアンティークショップで買ったものだ。
 それら全てを取り出す。そして用済みとなったポリ袋は、ゴミ箱へ直行と言う正しい運命を歩む事となった。

 ふと、弾丸を見る。魔力カートリッジにも似た、ティアナの親指よりもなお大きい弾丸だ。

「んー、これ何処かで……」

 彼女はこの弾丸に見覚えがあった。
 兄が存命時に、よくご飯をたかりに来た貧乏探偵とそのパートナーが使っていた弾丸ではなかっただろうか?
 幼い頃のことなので詳しくは覚えていないが、きっとそれと同じものだと言う確信が何故かもてた。

 その弾丸は、多数の文字に彩られた12.7mm50AE(フィフティアクションエクスプレス)。
 フィフティキャリバーとも呼ばれる強力な弾丸で、たとえ当たった箇所が手足であったとしても、その強烈な衝撃力を以って血液を逆流させ、心臓を破裂せしめる脅威の弾丸だ。
 更に、パウダーには霊的存在の物質化を促す霊薬『イブン・ガズイの紛薬』が混ぜられている。
 洗礼とメタルジャケット化が施された弾頭に刻まれたる文字は『The minions of Cthugha』。ミッドチルダの文字に似ているが、微妙に違っていた。
 唐突にこの弾丸をプレゼントされた時に、女が言った言葉が再生される。

「この弾丸は……そう、言うなれば一種のお守りさ。ただし一回きり、一発きりのね。どうしようもない敵に、どうしても倒さなければならない敵に出会った時、きっと君は使う筈さ。こいつをね」

 疑問が生じる。弾丸だけでどうせよと言うのか? 弾丸だけでは使うことは出来ない。弾丸には対応する銃が必要なのだ。
 ……だが銃ならある。規格こそ合わぬものの、銃はあるのだ。インテリジェントデバイス、クロスミラージュが。
 そこで更に疑問が生じる。あの女は自分が銃使いだと言うことを知っていたのか? 答えは否だ。そんなことを言った覚えは無く、そもそも魔導士であることすら伝えてない。
 ―――尤も、魔導書を買い求めた時点で、魔導士であると言うことだけなら解るかもしれないが。
 そこまで考えた時点で思考を停止させた。これ以上は無駄だと悟ったからだ。


 気を取り直し、魔導書と辞書を開く。

「うわ、やっぱり……」

 魔導書の頁をぱらぱらと捲り確認したところ、およそ3分の1が焼失していた。
 無事な頁もあったが、やはり彼女に読める文字ではない。
 先ず無事な頁から翻訳することにした。

 たった二行の文章。それを辞書とにらめっこしながら翻訳すること実に一時間。ようやく形となった。
 ディスプレイにはこう映っていた。

 That is not dead which can eternal lie,
 And with strange aeons even death may die.

「――久遠に臥したるもの死する事無く、怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん――か。ちょっと変わった言い回しよね……」

 彼女は魔導書を広げたまま、その文章を音読してしまった。そう、『音読』してしまった。
 そして……怪異が起こる。

 ティアナの言葉が終るや否や、魔導書と辞書の頁が全て引き千切られ、空中へと舞い上がる。
 魔導書の頁が舞う。辞書の頁が舞う。
 それらの頁は、あたかも竜巻の如く渦を巻き、解け合い、溶け合い、混ざり合う。
 それはとても幻想的で、とても神秘的で、とても冒涜的な光景。
 空中をぐるぐると舞うだけだった頁は、確かな法則と秩序をもって重なり合い、ひとつの魔導書として新生した。
 ―――読める。表紙には『ネクロノミコン』と書かれているのが読める!
 心臓が早鐘のように鳴り、目の奥が脈打つ。呼吸が荒くなり、顔面が紅潮する。
 まるで熱病にでも侵されたかのように小刻みに震える指で、恐る恐る魔導書の表紙に触れた瞬間のことだった。
 魔導書の頁がまた解け、今度はティアナを襲ったのである。
 それらはまるで暴風のように、彼女の肉体を食らい、意識を食らい、精神を食らい、魂すらも喰らい尽くさんと殺到する紙片、頁、紙束、表紙、背表紙、裏表紙。
 やがて彼女は魔導書の頁に埋もれて行く。まるで埋葬されるかのように。
 魔導書そのものに包まれると共に、流れ込んできたのは情報。質量を持つ――それこそ人間の限界など遥かに超越する――狂気を孕んだ、否、狂気そのものの圧倒的な情報だった。
 視界が明滅する。体が捻じ曲がる、神経が焼き付く、脳が灼ける。鈍痛、激痛、痒痛。
 理解するな! 理解するな! 本能が放つ警告は次々に増え、警告が増えるたびに理性が発狂してゆく。
 意思とも呼ぶべき彼女の根幹をなす部分は情報の奔流によって削られ、貫かれ、抉られ、侵食される。

「――――!!」

 声にもならぬ悲鳴と共に彼女の意識は、情報に溶けていった。

――――

「……ぁ。てぃ……。……ィア……ば!」

 誰かが彼女を呼ぶ声がする。
 懐かしい、とても懐かしい声だ。
 ――誰の声だったろう?
 思い出せない。しかし、その声の主がとても大切な人のものであると彼女は感じた。
 彼女の意識は既に、魔導の知識に翻弄され、蹂躙され、破壊されている。
 しかし、まだ意思は死んでいない。削られ、貫かれ、抉られ、侵食されながらも未だに原形を留め、生存しているのである。
 呼び声だけを頼りに、意思が砕け散った意識の欠片を集め、組み上げた。
 組み上げられた意識は、渦巻く狂気に幾度と無く砕かれそうになりながらも、深淵で眠っている記憶へと接続(アクセス)する。
 ここに己が再構成された。

「てぃ……ぁ。……ィア……ティア!」

 ティアナを呼ぶ声。その声に導かれるようにして、つい今しがた組み上げられた意識が記憶を伴い、浮上を開始する。
 ―――嗚呼、自分はこの声の主を知っている。スバルだ。パートナーとも、相棒とも言える大切な少女。失いたくない存在だ。
 そこまで思い出したところで目が覚めた。


「ん……っ、んっぅぅん……?」

 スバルは机に突っ伏すように眠っていたティアナの背後から、乳房を異様なまでにエロい手つきで鷲掴みにしていた。

「おーい、ティアー。起きてよー、起きないと生で揉んじゃうぞー」
「……だぁぁぁぁっ!!」

 怒声と共に頭を振り上げ、後頭部をスバルの鼻の下、つまり人体急所のひとつ人中へとぶつける。ぶつかった衝撃でほんの少し頭がくらくらしたが問題はない。

「あんたはいつもいつもそうやってセクハラをーっ!」

 鼻の下を押さえて床をゴロゴロ転がりながら悶絶するスバル。どうやら割りとシャレにならない痛みのようだ。

「ひ、酷い……」
「セクハラするあんたが悪い!」

 抗議の声を上げるスバルを一刀のもとに切り伏せる。
 未だ床を転がり続ける物体を無視して時計を見る。部屋に置かれているデジタル時計が示す時間は20:05。
 矛盾が生まれた。
 彼女が翻訳を始めてから優に一時間以上経ってる筈である。しかし時計は数分しか進んでいない。

 ならばあの現象も、全て夢だったのだろうか?
 そう考えながら机の上を見る。次の瞬間ティアナが凍りついた。
 指が震える。膝が笑う。歯がガチガチと鳴る。口の中がからからに乾く。顔から血の気が引く。

「あ……ああ、ああ亜阿AHAAAAaaaァぁ!!」

 絶叫と共に膝からくず折れるティアナ。自身を両腕で掻き抱き、震えている。

「ティア! どうしちゃったの!?」

 余りにも尋常ではないティアナの様子に、スバルは悶絶から瞬時に復帰し肩を揺さぶりつつ問いかけた。
 ティアナはただ震えるばかりで何も答えようとはしない。いや、答えられない。
 ただ、その焦点の合わぬ目が見つめる先、そこにあるものが
 そこには、ティアナの体験した現象が現実であると言う証拠『ネクロノミコン』が鎮座していた。




 ここは何処かの地下施設。
 強化ガラスで構成された幾つものシリンダーが並んでいた。内部には女性のシルエット。
 そんなところを一人の男がゆっくりとした速度で歩いている。ジェイル・スカリエッティだ。
 男が大広間に行き着くと、まるで彼の到着を待っていたかのように通信が入る。

「ゼストとルーテシアが活動を再開したみたいだね」

 通信を入れてきた相手はクライアントの一人だった。
 蟲惑的なスタイルと妖艶な美貌を誇る女。アンティークショップを経営してる筈の女、ナイアだった。
 その女の姿を確認すると同時に、彼の顔が苦虫を噛み潰したかのように歪む。彼はこの女が苦手だった。女の目は、まるで何もかもを見透かしているようで得体が知れないのだ。

「おやおや、僕の顔が気に入らないのかい? これでも一応、容姿には自信があるんだけどね」

 巫山戯たようにおどける姿も、彼からしてみれば不快以外の何物でもない。

「…………」

「他のクライアントからはゼスト、ルーテシアに無断で協力するなって言われてるらしいけど、それじゃ僕が詰まらないんだ。
 だから、彼らを使ってもらうよ? まあ、使うと言っても今回はその内、二人だけなんだけどね。
 ああ、楽しみだ……。あの二人を相手に彼らは如何立ち回るんだろう? 考えるだけでもワクワクしてくるじゃないか!」
 その嬉しそうな言葉にジェイルの顔色が僅かに変わる。
 彼らとは六人の魔導師の事だ。一人一人が恐ろしく強力で、残虐極まりない連中。
 ――冗談ではない。恐るべき機械の神を招喚し、使役する異界の魔導師を二人も使えと言うのかこの女は!? 
「ああ、君が危惧するような事態には決してならないさ。出撃時には僕の方から、その二人に制限(リミッター)を掛けて置くからね。勿論、鬼械神の招喚に関しても制限を掛けるから安心してくれていいよ」
「私の考えを読まないで頂きたいものだ」
「ははは、考えを読んでる訳じゃないさ。ま、そんな事は如何でも良いんだ。僕が訊きたいのは『巫女』の製造状況さ。無ければ無いで何とでもなるんだけど、やっぱり予備は有った方が良いからさ」

 ウェスパシアヌスの奴、完全にやる気無くしちゃってて使えたもんじゃないんだよね。と女は苦笑する。

「予備、と言うことは『巫女』候補が見つかった。と言う事になりますかな」
「その通り。中々のものだよ、彼女は」

 その答えは全くを以って不愉快だった。片手間とはいえ、己の創造する筈の『巫女』が予備扱いされているのだ。面白い筈が無い。

「おや、気に障ったかい? そうなら謝るよ。でも僕としてはね、もうちょっと早くに結果を出して欲しかったのさ。何しろ追われてる身だからね。……おっと、もうこんな時間か。夜更かしは美容の天敵だ。これにて失礼するよ。おやすみ、ジェイル君」

 女との通信が切れ開放されたと思った瞬間、彼の鼻腔が吐き気を催す強烈な――大漁の魚介類、獣の内臓、汚物をいっしょくたに詰め込んで煮込み、腐らせたような――腐臭を嗅ぎ取る。臭いの出所は背後からだ。
 振り向けばそこには、潰れた蛙のような緑色の仮面をつけた肥満体の道化師と、抜き身の刀の如き雰囲気を纏う着流し姿のサムライが立っていた。

「おこんばんわ、ジェイルちゃん☆」

 道化師の悍ましい聲が広間に響いた。


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最終更新:2008年04月15日 00:08