暖かな空気が、泥沼の底に沈んでいたセインの意識を覚醒させた。
 白く清潔に保たれた室内に、かすかに漂う消毒液の臭い。セインは医務室のベッドに寝かされていた。
 セインが上体を起こすと、三枚重ねて乗せられていた毛布がずり落ちる。
「来たか、一輝」
 小さな呟きに振り向くと、室内の色に溶け込むように、キグナスの聖衣をまとった氷河が窓辺にたたずんでいた。
 氷河は遠い眼差しを窓の外へと注いでいた。まるでよく知る誰かがそこにいるかのように。
 その瞬間、セインは絶対零度の凍気によって自分が倒されたことを思い出した。
 蘇ってきた寒気と恐怖に、セインは震えながら毛布を抱き寄せる。もしやと思って指先を調べるが、凍傷にかかった様子はなかった。
 セインはひとまず胸を撫で下ろす。
「気がついたようだな」
 氷河が視線だけをこちらに向けてきた。キグナスの聖衣の氷はまだほとんど解けていない。セインが敗北してから、さほど時間は経っていないようだ。隣には、水瓶を抱えた乙女のオブジェとなった黄金聖衣が置かれている。
「黄金聖衣とコスモに感謝するんだな」
 氷河が突き放すように言う。その二つのどちらが欠けても、セインは凍死していたはずだった。
 しかし、セインは毛布に包まりながら、にっこりと氷河に笑いかける。
「優しいんだね」
「何のことだ?」
 氷河はとぼけるが、セインにはお見通しだった。
 セインが意識を失っていた時間はごくわずかだ。なのに、アクエリアスの聖衣は表面に結露こそ生じているが、どこも凍結していない。
 黄金聖衣を凍結させるには、絶対零度が必要となる。つまり最後のオーロラエクスキューションは、絶対零度にわずかに足りていなかったのだ。氷河が手加減してくれたのだろう。
 仮にセインを倒すのにそこまで必要ないと判断していたとしても、同じことだ。凍傷にすらかかっていないということは、氷河はセインをあの極寒の室内からすぐさま連れ出し介抱してくれたのだ。
 三枚重ねの毛布に、室内の気温はエアコンによりやや高めに保たれている。セインが寒くないようにという配慮だろう。敵である自分にここまでしてくれるのだ。どんなにクールを気取ろうと、氷河が人情家であることは疑いようがない。
(そして、甘いんだね)
 セインは心の中で舌を出し、ディープダイバーの準備をする。
 助けてくれたことには感謝しているが、それはそれ、これはこれだ。連行される前にとっとと逃げ出すに限る。
 セインはにこにこと愛想笑いを浮かべつつ、慎重に氷河の隙を窺う。
 氷河はしばらくセインを見ていたが、やがて興味を失ったように窓の外に視線を戻した。
 セインは即座にディープダイバーを起動させた。ベッドを突き抜け、一息に床下まで潜行しようとする。
 ピタリと氷河の人差し指が、セインの額に突きつけられた。
 セインの体は、わずかにベッドに沈んだだけだ。いつの間に隣まで移動したのか、セインにはわからなかった。聖闘士のスピードの凄さを改めて実感する。
「逃げるつもりなら、動きを封じさせてもらうが?」
 氷河の指先に凍気が集中する。カリツォー、またの名を氷結リング。氷の輪で相手の動きを封じる技だ。
「……あ、あははは、冷たいのはもう勘弁」
 セインは両手を上げて降参の意を示す。どうやら逃亡は無理のようだ。
 凍結の恐怖はセインにしっかりと植え付けられていた。セインが冬を好きになることはもうないだろう。

 その頃、通路の中で、聖闘士の兄弟とナンバーズの姉妹が互いに牽制しあっていた。
「兄さん、気をつけて。彼女たちは黄金聖闘士の技の他に、魔法を使うんだ」
 チンクから視線をそらさず、瞬が一輝に警告する。
「魔法か。どうりで面妖な術を使うわけだ」
「ピスケスは僕に任せて。兄さんはスコーピオンをお願い」
 一輝の問いかけるような眼差しに、瞬は笑顔で応える。
「僕もアテナの聖闘士だ。一人でも大丈夫だよ」
「そうか」
 一輝がドゥーエに拳を向ける。
 チンクとドゥーエは素早く通信を交わすと、ドゥーエはその場から身を翻した。
「逃がさん!」
 一輝がドゥーエを追いかけ、二人は建物の外へと走り去っていく。
 瞬とチンクが通路に取り残された形になる。瞬が鎖を構えると、
「すまない。私の姉が無礼をした」
 いきなりチンクが頭を下げてきた。
「えっ?」
 まさか謝られるとは思っておらず、瞬は意表を突かれた。
「信じてもらえないだろうが、私はこの戦いを誰にも邪魔させるつもりはなかった」
 チンクは瞬の目をまっすぐに見据えて言った。
 これまでチンクは戦いに信念など持っていなかった。そもそもナンバーズは闇討ちや破壊工作など、聖闘士からすれば卑劣と罵られる行為を、平然と行ってきた。
 もしドゥーエの行動が最初からの計画通りならば、それは知略の勝利だろう。しかし、ドゥーエはチンクに何の説明もなしに潜んでいた。別にチンクが劣勢になっていたわけでもない。これではチンクの力量を信じていないようではないか。
 チンクは戦う為に生み出された戦闘機人だ。己の性能を限界まで引き出せるアンドロメダとの戦いは、存在意義を認められたような気分にさせてくれる。この上で、勝利を得られるならば、それは最高の栄誉となるだろう。
 もしかしたら、知らず知らずのうちに聖衣や聖闘士に感化されているのかもしれないと、チンクは自嘲する。
「さあ、仕切り直しと行こう」
 ドゥーエにこの場から去ってもらったのは、チンクの意思だ。邪魔をされたくなかったのも理由だが、これでランブルデトネイターを思う存分使うことができる。
 黒バラを両手に構えるチンクに対し、瞬は両腕をだらりと下げたままだった。
「どうした? 決着はまだついていないぞ」
「……わからない」
 瞬のコスモが急速に勢いを失っていく。
「やっぱり君からは邪悪な気配が感じられない。なのに、どうしてスカリエッティに協力しているんだい?」
 ネビュラチェーンを地面に垂らしたまま、瞬は尋ねる。
「我らはドクターの夢を叶えるために生み出された。それ以外の理由など必要ない」
「そうか…………君たちと僕らは似てるんだね」
 瞬たちは、アテナの養父、城戸光政によって聖闘士の候補生として集められた孤児たちだった。兄弟からも無理やり引き離され、この世の地獄と呼ばれる修行の地へと送り込まれた。生きて日本に帰るには、聖闘士になるしかなかった。
 子供は無力だ。大人の言いなりになるしかない。
 それでも、瞬は自分をまだ恵まれている方だと思っていた。修業はつらく苦しかったが、師にも修行仲間にも恵まれ、兄とも再会できた。そして、今はアテナの聖闘士。戦いは嫌いだが、地上の愛と平和を守る礎となれる。
「知った風な口を。もういい。戦わないと言うならば、この場で倒す!」
 チンクが右腕を振りかぶる。
 瞬は悲しげに目を伏せ、ネビュラチェーンを地面に落した。
 チンクの視界が激しい怒りで真っ赤に染まる。最高の戦いになるはずが、相手の戦意喪失によって幕引きとなる。こんな結末、物語なら三流以下だ。
「ピラニアンローズ!」
 激情に任せ、黒バラを投擲しようとする。その時、瞬のコスモが爆発的に膨れ上がった。
「なっ!」
 チンクが黒バラを振りかぶった不自然な体勢で停止する。どれだけあがいても、指先を動かすことすらままならない。
「これは…………風!?」
 瞬の掌から発せられる風が渦を巻き、見えない鎖となってチンクを縛り上げていた。
「ネビュラストリーム」
 憂いを帯びた声で瞬が呟いた。
 アンドロメダ最大の奥義だ。瞬の生身の拳は威力があり過ぎる。ゆえに、普段はネビュラチェーンを使い、拳を封印してきた。
「この技だけは使いたくなかった。でも、これ以外に君を傷つけずに捕まえる方法がない」
 ネビュラストリームは、拳から気流を生み出し相手の動きを封じる。気流は、瞬のコスモの高まりに応じて激しくなり、最後は嵐となってあらゆる敵を粉砕する。ピスケスの命を奪った忌まわしき技だ。
「この程度……」
 気流を遮ろうとバリアを展開するが、間髪いれずに気流の圧力によって砕かれる。
「無駄だよ。本物のピスケスならばともかく、君はもう動くことはできない」
 ピスケスの黄金聖闘士アフロディーテは、瞬の気流に捕らわれながらも必殺のブラッディローズを放ってみせた。だが、ナンバーズの機械頼みのコスモでは、ネビュラストリームを破る域にまで達しない。
「スカリエッティは犯罪者だ。いくら親だからって、そんなものに従う必要はないんだ」
「ドクターを侮辱するか!」
「もっと君にふさわしい居場所が、きっとある。それを見つける為にも、罪を償う為にも、今は降伏してくれ!」
 瞬が必死にチンクに降伏を呼びかける。
 ネビュラストリームから抜け出す方法を見つけられず、チンクは唇を噛みしめる。
 その時、ウーノから戦況報告が送られてきた。
「何だと?」
 チンクが表情を一変させる。
「ノーヴェとウェンディが……ディエチとセインもか?」
 それはチンクの妹たちがことごとく捕縛されたという知らせだった。
「お願いだから、降伏してくれ!」
「………………」
 重ねて呼びかける瞬に対して、チンクは怒りの消えた静かな眼差しを返した。
 瞬は猛烈に嫌な予感に襲われた。チンクの眼差しは静かでいながら、奥底にはこれまでより強い覚悟が潜んでいる。瞬はあの目を知っている。あれは死を覚悟した戦士の目だ。
「残念だが、それはできない」
 チンクの周囲に二本の黒バラが出現する。気流で体の動きは封じられても、武器の転送だけはできる。しかし、その手で投げなければ、聖闘士に通用する速度はとても出せない。
「IS発動ランブルデトネイター」
 チンクの声に合わせ、黒バラが爆発する。しかし、距離が遠すぎるのと、ネビュラストリームの気流に邪魔されて、爆風は瞬の元へは届かない。
 何の意味もない行動を、瞬はいぶかる。
 次の瞬間、爆炎を突き破り、チンクが飛び出してくる。
「まさか!?」
 瞬は我が目を疑った。
 チンクはランブルデトネイターの爆発で気流を乱し、拘束を弱めたのだ。
 いかに黄金聖衣をまとっていたとはいえ、至近距離での爆発はチンクに深いダメージを与えていた。
 瞬が再びネビュラストリームを放つと同時に、チンクは両腕に持っていた黒バラを宙に放り投げる。
 再び起こった爆発が、ネビュラストリームを霧散させる。
「まだだ!」
 爆風でピスケスの兜が吹き飛び、地面に落ちる。眉間から血を流しながら、チンクは隻眼で瞬を睨む。
「もうやめるんだ。これ以上やったら、君が死んでしまう!」
 瞬が気流を強めると、チンクはより多くのバラを爆発させ対抗する。熱風と衝撃波に命を削られながらも、チンクは決して歩みを止めない。
「どうして、そこまで……君はそこまでスカリエッティを……」
「違う」
 チンクは首を横に振った。
「アンドロメダ。白状するが、お前の指摘は正しい。私はドクターの夢に共感できているわけではない」
 チンクは生みの親であるドクターに感謝しているし、願いを成就させる手伝いもしたいと思っている。だが、それは強い動機になりえなかった。
 チンクは生まれてからというもの、命じられるまま粛々と任務を遂行してきた。
 しかし、妹たちが次々と誕生し情を移していくにつれ、研究と発展のためとはいえ、同じように家族がいて平穏に暮らしている者たちを犠牲していいのかという迷いが発生した。
 迷いが生まれるまでに、チンクは随分手を汚してきた。今さら生き方を変えることはできないから、他に生きる方法を知らないからと思考を停止させ、迷いから目をそらし続けてきた。
「だが、先ほど連絡があった。私の妹たちはほとんど捕まったらしい。お前たちに兄弟の絆があるように、私たちにも姉妹の絆がある。妹たちを助けられるのなら、この命など惜しくはない!」
 今のチンクにはもう迷いはない。ドクターの夢の為ではなく、捕らわれた妹たちを助けたいという強く純粋な願いが、チンクを修羅と化した。
「アンドロメダ、貴様の命もらい受ける!」
 チンクが血を吐くように宣言する。爆発にさらされ続けたチンクの両腕は、もうほとんど力が入らない。残された攻撃方法は、ランブルデトネイターによる自爆しかない。
 ネビュラストリームは黄金聖闘士すら縛り上げる恐るべき技。ナンバーズで瞬の気流を破れるのはチンクだけだろう。
 六課のメンバーは勝利こそすれ、ほとんどが戦闘不能で事実上相打ちに近い。残ったメンバーや聖闘士たちも、かなりのダメージを負っている。敗走中のトーレとクアットロが回復すれば、まだ勝機はある。
 チンクはここで諸共にアンドロメダを排除し、残った姉たちに後を託そうとしていた。
「君にも守りたいものがあったんだね」
 チンクの覚悟を知った瞬の頬を、一筋の涙が伝う。
 傷つけずに降伏させるはずの拳が、かえってチンクを追い詰め、死を覚悟させてしまった。やはりネビュラストリームは封印しておくべき技だったのだ。
 瞬は後悔の念に苛まれながらも、こちらも覚悟を決めるしかなかった。
 もしも瞬一人が命を差し出すことで、チンクが救われるならばそうしたかもしれない。しかし、チンクは瞬を道連れに死ぬつもりだ。
 瞬たちの世界は、常に神々の脅威にさらされている。黄金聖衣はアテナと世界を守る最後の砦だ。瞬たちの世界とミッドチルダ、二つの世界の愛と平和を守る為に、瞬はここで死ぬわけにはいかない。
「ごめん」
 瞬のコスモが高まり、気流がさらに激しく荒れ狂う。
「すまない、妹たちよ」
 愛する者たちの姿を思い浮かべながら、チンクは最後の力で跳躍する。アンドロメダはもうすぐそこだ。
「姉は先に逝く!」
 チンクはありったけの黒バラを召喚する。
「オーバーデトネイション!!」
 黒バラが一斉に起爆し、通路を爆炎が満たす。この瞬間、炎のバラが回廊を埋め尽くした。
「ネビュラストーム!!」
 瞬の拳から放たれた嵐が、炎のバラを吹き飛ばした。

 ピスケスの聖衣がチンクから離れ、魚のオブジェへと姿を変える。
 ネビュラストームによって天井に叩きつけられたチンクが、地面に横たわっていた。まるで手向けの花のように、周囲を炎の残滓が舞っている。
 美しくも悲しいその光景に、瞬は再び涙した。
「僕の拳は……また人を殺したのか」
 オーバーデトネイションは、瞬の体も激しく傷つけていた。瞬は足を引きずりながら、チンクの元へと歩いていく。
 瞬を倒したと確信したのか、チンクは安らかな表情をしている。
 せめて手厚く葬ってあげようと、瞬はチンクに向かって手を伸ばした。
「……」
 その時、かすかに、ほんのかすかにだが、チンクが身じろぎした。
 瞬はすぐさまチンクの口元に耳を近づけ、首筋に指を当てた。
 微弱だが、呼吸も脈も確かにある。
「……生きてる」
 瞬の体が歓喜に打ち震える。
 全力で放った互いの技が相殺しあったのだろう。もしも瞬が少しでも手心を加えていれば、どちらも助からなかった。
 奇しくも、相手を殺すはずの技が、相手を救ったのだ。
「僕の拳が……命を救ったのか?」
 瞬はわななきながら、己の手を見つめる。
 ただの結果論でしかないことはわかっている。チンクを殺す覚悟で拳を放った事実も消えるものではない。
 それでも、瞬は祈るようにチンクの前に跪いた。
「……ありがとう……生きててくれて、ありがとう」
 瞬は感謝の言葉を繰り返す。今度は悲しみではなく、喜びの涙が溢れてくる。
 ずっと、相手の命を奪うことしかできない呪われた拳だと思っていた。たった一つでも命を助けられたことで、どれだけ救われただろう。
 瞬は震える手で、量産型ストラーダを取り出した。爆発の余波であちこち破損していたが、まだかろうじて動いている。
 瞬はアースラにチンクの救助を要請すると、力を使い果たし、その場に倒れ伏した。

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最終更新:2013年12月25日 22:05