自分がもう二度と得られないものを持っている彼女の傍にいるのが辛くて、巻き込みたくなくて逃げ出した先で、また出会ってしまった。
李舜生――彼もまた、自分の為に命を懸けてくれた人だった。
「あんた……どうして……」
現れた李に、か細い声で千晶は問う。
いつもそうだ。彼は頼んでもいないのに、助けて欲しくてどうしようもない時に現れる。まるでどこかで見ているかのように。
「そろそろ待ち合わせのファミレスに向かおうかと思いまして……。よろしければ一緒に行きませんか――」
李が言い終わるより早く、千晶は李に縋り付いていた。一緒に行こう――その言葉が今の千晶には何よりも嬉しかった。
「うっ……うっ……」
「大丈夫ですよ……原口さん」
幾ら巻き添えにしたくないと言っても、本当は心細くて押し潰されそうだった。そしてまた彼に縋ってしまう弱い自分が情けなくて堪らない。


「そうですか……なのはさんが。確かに翠屋にも迷惑が掛かってしまいますよね」
空は赤く染まりだし、ファミレスにも、徐々に人が集まり出した。その中の一席に李と千晶は向かい合っていた。
「あんたも……私に構わなくていいんだよ?」
それが彼女に出来る精一杯の拒絶だった。それでも――本当は行かないで欲しいと内心では叫んでいる。
「いえ……僕は協力します」
「でも……」
「きっと……これも運命なんですよ。あなたに会うことも……占いに、そう出てました」
「信じて……いいの?」
李は何も言わず、ただ優しく千晶に微笑んだ。その微笑が余りに優しくて眩しくて、千晶はテーブルに突っ伏した。
「原口さん……」
占いに運命、そんな都合のいい台詞も今の千晶には効果覿面だったようだ。嗚咽を漏らす千晶の肩を軽く叩いて慰める李の瞳は暗く、光が灯っていなかった。


「知り合いがいるんです。マカオの方で貿易とかそういう関係の仕事してて……。パスポートとか、用意してくれたり……」
李は途中からは千晶に顔を近づけて囁くように話した。なにせ内容が内容だ。
「偽造……?密入国とか、そういうこと?」
声を抑えなかった千晶を、李は自らの口に人差し指を立てて止める。周囲を見回すが反応している者はいない。
「あんた……留学生じゃなかったの?」
「いろいろと、事情はあるものです」
今度は声を抑えた千晶に、李はおどけて答えて見せた。
ニュース等で取り沙汰されているが、よくよくこの国も物騒になったものだ、と千晶は思う。だが、その御陰で僅かに希望が見えた。
「でも……お金、沢山必要です」
明らかに胡散臭い、詐欺臭いと思わなくもないが、組織の契約者に追われる女を狙うなんてリスクが大きすぎる。そんな風に思考が働く程度には、千晶も活力を取り戻していた。
「お金か……。銀行からもっと下ろせると良かったんだけど」
「何か代わりになるものがあれば……」
そこに千晶は反応した。今の自分に払えるものと言えば、
「情報はどう?パンドラの中枢にアクセスして得た極秘情報とか……」
PANDORA――天国門を巡った天国戦争の後に、地獄門が紛争の火種になることを防ぐ為に設立された国連主導のゲート・契約者研究機関。一国の独占を防ぐための協定も存在する。
だが、そんなものは既に形骸化しているのが現状だ。どの国も自分達がゲートの謎と力を手にする為に諜報員を多数潜伏させている。東京の裏に跳梁する契約者こそがそう。
「本当ですか?ゲート関連の情報は高く取引されてるはずです、どんなちっぽけなものでも」
「圧縮式重力反発素子やME技術以来の革新理論だよ?」
「じゃあ、きっと物凄く高く売れます!大丈夫です、連絡取ってみますから」
いちいち驚きの声を上げる李が面白いのか、千晶もやや自慢げだった。


対策会議は順調に進み、互いのことを少しだが話す機会もあった。彼と話していると不思議な安心感があった。
「お待たせしましたー」
ウェイトレスの運んできた料理に千晶は目を見張った。ピザにステーキ。スパゲティ、ピラフ、ハンバーグetc――。
「あんた……これ全部食べる気!?」
「すいません……いつもよりは少ないんですけど……」
テーブルを埋め尽くす料理を前に李は申し訳無さそうに縮こまった。このほっそりとしたどこにこれだけの量がはいるのか――。
「あんたねぇ……太るよ!今は良くても30過ぎたら絶対太る!でなきゃ世の中間違ってる!」
千晶はいつの間にか自分も頼んでいたワインを一気飲み。それも不安の裏返しだろう。飲まなければ不安で堪らないのだ。
「そんな先のこと、心配してる場合じゃないか……」
顔を赤らめながら遠い目をした千晶の真意を察しながらも、敢えて李は大声で笑ってみせた。すると千晶も釣られて笑いだす。
周囲の視線もまるで気にならない。笑うことで少しでも恐怖を払拭しようと、千晶は笑い続けた。


手洗いに立った千晶を見送り、李はひたすら料理を平らげていく。だが、その目は食事を楽しんでいる目ではない。それは後ろの男の存在だけが原因ではないだろう。
「聞いてはいたが見事なお手並みだな……」
「黄〔ホアン〕」
李の背後の席には40代そこそこの小太りの男が座っている。黄と呼ばれた男は軽蔑を込めて、李にだけ聞こえる大きさで呟く。
「お前ら程この仕事に向いてる奴らはいないだろうよ。なんせ罪の意識ってもんがねぇんだからな」
皮肉たっぷりの挑発的な物言いにも、李は構わず食べ続ける。尤も挑発に乗るようでは意味が無いのだが。
「ブツの目星は付いてるんだろう。さっさと手に入れろ」
そして彼から反応が無いことも黄には分かっていた。手短に指令を済ませて席を立つ。
「奴ら近くまで来ている。面倒なことになる前に女は消せ」
無慈悲な指令にも李は全く動じない。少なくとも表面上は。
ピラフを皿ごと持ち上げて掻きこむその態度は、或いは黄の言葉が正しいことを証明しているのかもしれない。
ファミレスに向かう二人の男を見下ろしながら、李は口の中の物を流し込んで席を立った。


男達が入店するのと、李が手洗いから帰った千晶をそのまま厨房へと押し込むのはほぼ同時だった。
「お、お客様!?」
店員を押し退けて、黒人の大男とスーツの男が李と千晶を追う。
「ちょっと、困りますよ!」
戸惑いながらも怒りを口にする厨房のコック達をよそに、スーツの男が拳銃を発砲した。店内中で次々に悲鳴が上がる。もう隠れて捕らえる気もなければ、生かしておく気すらないらしい。そして他者を巻き込むことも、能力を隠す気も、だ。
辛うじて棚の向こうに隠れた李は小麦粉を放り投げた。撃たれた小麦粉は厨房内に充満する。
「今です!」
李が駆け出し、全てが白く染まった中で、大男の瞳が赤く灯った。
この隙に千晶の肩を抱いて逃げ出そうとする李の頭上に積まれた、塩か何かの袋が爆発、四散した。粉状のはずのそれの"破片"がまるでショットガンのように、怯えて身を隠す二人のコックの頭を"貫く"。
おそらくは、爆発させた対象の破片をも硬化させるのだろう。
千晶と外に飛び出した李は肩に傷を負った程度で済んだが、中のコックは無事で済まない。
目的とその為の犠牲を天秤に掛けて、目的へと針が振れればいかなる犠牲も厭わない。これが契約者のやり方なのだ。
だが、そんなことも肩の傷も気にしてはいられない。手近なロッカーで扉を塞いで、階段を駆け下りる。結局はこうして逃避行を続けるより他に選択肢は残されていないのだ。


懐のガラス板がまたしても光を放ち出す。これは契約者と何らかの関わりがあるのではないか、そうなのはは見ていた。
「光は……あっち!」
夕陽が徐々にゲートへと沈んでいく。聳え立つゲートに向かい、なのはは飛んでいた。
彼女はまだ一人で逃げ続けているのだろうか?李はどうしているのだろう、巻き込まれていなければいいのだが。
部屋を出る彼女の顔はとても寂しそうだったように思う。自分達の団欒が彼女の孤独を煽ってしまったのだろうか?それともフェイトの言葉が傷つけてしまったのか?
助けるだけでは駄目なのだ。危険を払うだけでは彼女を本当に救うことはできないことに、ようやく気付くことができた気がする。
彼女に謝りたい。そしてもっともっと話したい。
焦るなのはは更に速度を増し、光の導きのままに、ファミレスへと降り立った。


男達が裏へと回った時には、既に女は逃げた後だった。スーツの男――アランは歯噛みしながらも、携帯を手に取る。
「ジャンか?逃げられた、合流しよう」
ふと、大男――ポールを見やると、道端のタンポポを毟って口に放り込んでいる。
ファミレスの裏手は小さな工事現場だ。道具や何やらが無造作に転がっているが、隅には僅かな野草は生えている。それを彼は食っていたのだ。
契約の対価だそうだが、何度見ても彼には理解できないものだった。
黙々と対価を払うポールに呆れたアランは、
「先に行ってるぞ」
と言い残して、合流地点へと向かった。答えを返すことなく、野草を咀嚼するポール。
そして、彼の傍に空から彼女は舞い降りた。


「あなたは……千晶さんを狙った人の一人ですね。答えて!あなた達は何故、千晶さんを追うの!?」
問うことなどせず、バインドなりで捕獲するべきだったのかもしれない。だが、なのはは知りたかった。他者をこれほど巻き込んでまで千晶を追う理由を。
まだ話せば分かると思っていた。
「お前は……あの時の女か!」
アランと二人で追跡した、篠田千晶の片割れ。そして千晶の逃亡を補助してる女だ。
「答えて!」
そんな必要は無かった、生かしておく必要も。立ち上がるポールの瞳に光が灯った。
「っ!!」
なのはが危険を感じて飛び退くと、一瞬前までいた背後の壁が爆発した。
コンクリートの一部が中心から放射状に破片を撒き散らし、BJを傷つける。
「くあっ!」
破片はBJを貫通して身体を貫く。破片でもこの威力――爆破を受ければどうなるか。これを防げるのかはまったくの未知数だった。迂闊に手が出せず、バリアを張って逃げ回るしかできない。
なのはは、ポールの目が赤く光る度に、自らの懐が青く輝くことにまで気が回らなかった。
身を隠す場所には事欠かないとはいえ、このままではまずい。破片も至近距離で受ければ危ないかもしれない。
しかし、隠れていて分かったこともある。それは、爆破する対象の前に障害物ができれば咄嗟にそれを透過して対象を爆破はできない、ということだ。
「それなら――」
身を乗り出すと同時に、なのはの胸に青い光が揺らめく。それはポールの能力の照準だ。
ポールは慎重に先を読み狙いを定める。それが収縮した瞬間、
――今!
操作した鉄板で目の前を塞ぐ。爆散した鉄片をラウンドシールドで、シールドの範囲を越えたものはプロテクションで防ぐことができた。
爆発それ自体がどこまで貫通するのかは賭けだったが、立ちこめる土埃が晴れた時、彼女の射線上には無防備なポールが立っていた。
「アクセルシューター!」
「ぐぉぉぉ!?」
5発の魔力弾がポールを打ち、彼は派手に地面を転がった。契約者――異能の力を持っていても、その身体は人のものだろう。これだけ受ければ昏倒は避けられないはず。
現にポールは意識を失おうとしていた。なのははポールへと呼びかける。
「答えて、何が目的で千晶さんを狙うの?あなた達は誰?」
気を失いかけていても、ポールの頭は働いていた。
この女は何か特別な力を持っている、それも契約者とも違うようだ。彼はそう分析した。
「彼女とあなた達の関係は?」
これだけの力を持って篠田千晶を保護し、こちらを捕獲して情報を得ようとしている。そこから彼女についてもっとも可能性の高いものを、彼は導き出した。
「千晶さんを殺せば彼女の情報は得られないはずじゃ――」
それならば対策もおのずと決まる。対価を払わずに連続で能力を使ってしまった、最後の使用用途も合理的に考えれば――。
なのはの目の前でポールの左胸が弾けた。血と肉が噴きあがり、硬化した肉片がなのはへ飛び散る。
バリアがあったため、ダメージこそないが、赤黒い血がべっとりジャケットに付着した。それは指で触れると、ぬるりと嫌な感触がした。
ポールの目は見開かれている。胸に穴を開けたまま、もう動くことはない。
「え……?」


空は完全に黒く染まり、夜が訪れる。座り込む李に千晶は身を寄せ、涙を浮かべた。
「ごめんね……。私のせいでこんな……」
破片を受けた李の腕にハンカチを巻いているのだ。彼が顔を歪める度に、彼女の顔も不安に歪む。
「やっぱり無理なんだ……。あいつらから逃げるなんて……」
だから李は痛みを堪えて笑ってみせる。
「疲れた顔をしている、まるで死人みたいだ……。少しでも休んだほうがいい……」
「疲れた……本当に。もうあいつらに振り回されるのはたくさん……許せない」
そっと千晶は李の膝に頭を乗せた。彼はそんな千晶の髪を柔らかに撫でる。
「でも、一番許せないのは自分自身……。気付くと目の端であいつらを追ってる自分。両親を殺した時に証言しなかった自分が一番……」
「無くしてしまったほうが良かったんだ。契約者の記憶なんて……」
李は心からそう思う。契約者などと係わりを持つべきじゃない――彼らは人の命も心も躊躇いなく壊す冷酷な生物なのだから。
「こんな記憶でも、今まで捨てられなかった。無くなったら私は私じゃなくなる……そんな気がして、怖いんだ……」
「契約者は人間じゃない、人の皮を被った殺人機械だ。リスクを最小限に抑える為に目撃者は必ず殺す。奴らは嘘吐きで……裏切り者だ……」
契約者に魅入られた女に彼は暗く呟く。
そんなことは分かっている。それでも止められないのだ。
その言葉は誰に対してのものだろう。その言葉の意味を李も、千晶も、そしてなのはもすぐに知ることになる、それも最悪な形で。


小休止の後に、千晶は李に鍵を渡した。それは彼女なりの信頼の証でもあった。ほんの一日にも満たないはずなのに、彼"だけ"が、少しだけでも自分の孤独を埋めてくれたから。
それは駅のコインロッカーの鍵だった。ロッカーに入っていたのは、無地の装丁の本。機密というからにはデータディスクの類と思っていたが、まさか紙媒体とは李も意表を突かれた気分だった。
「あんたは見ない方がいい。この情報は知ってしまえば、私と別れても狙われる……」
彼女はそう言って中を確認させてはくれなかった。自分で抱えて先へと進んでしまう。
「それで?マカオの知り合いとは連絡できるの?」
「はい、大丈夫です。行きましょう」
勿論、そんなものはでまかせに決まっている。嘘吐き――早速彼はそれを実感した。
二人は駅を出て、夜の街を歩く。そのうち、背後からは気配を感じだした。


「ねぇ……。あんたさ……あの娘とどんな関係なの?」
歩きながら千晶は言った。胸にはしっかりと本が抱えられている。
「どうって……バイト先の喫茶店の娘さんです。昨日会ったばかりですよ」
「仲良さそうに見えたけど?」
「ほとんど話したこともありません」
すると、彼女は嬉しいとも悲しいともつかない表情で振り向いた。
「それでも……これからは話すでしょ?」
二人には多分これからがある。そして自分はどう転んでも二人との"これから"は無い。なのはとはもう会うこともないだろう。
「あの子に会ったら伝えておいてほしいんだ。『ごめん』って」
色々と言いたいことはあったが、今はそれしか出てこない。それに――。
「それだけでいいんですか……?」
「うん。私のことなんて早く忘れて欲しいから……」
多くを語ればきっと彼女は背負ってしまう。それだけは嫌だった。
彼女も同じく、出会って一日も経っていない。なのに、彼女の考えそうなことは分かる。彼女は優し過ぎるから。
暖かく迎えてくれたなのはの家族も、なのはを心配する友人も、千晶には孤独を際立たせるものでしかなかった。それでも、一緒にいればいつかは自分も――そう思わせてくれた。
だから彼女にだけは闇に染まって欲しくない。光であって欲しいのだ。
「わかりました、伝えます」
その彼女の意志を李も汲み取ったようだ。だから彼女も笑顔を返す。
「ありがと……」
その笑顔は僅かに晴れやかで、とても哀しかった。


「あの娘のこと、私はきっと忘れられないだろうけどね……」
暫く歩いていると、警察署の前に差し掛かる。おあつらえ向きに警官も立っていた。
「それと……あんたのこともね」
言い終わるよりも前に、李は千晶に密着するほど接近していた。そしてそっと首筋に触れる。
「いや……忘れるんだ」
契約者のことなど忘れたほうがいい――そう言った。だから自分のことも忘れた方がいい。
警官達の見る前で千晶は膝から崩れ落ち、その手には何も持っていなかった。李は倒れた彼女に見向きもせずに歩き去る。
背後からは警官の声、そして二人分の足音が速まった。李もそれに合わせて足早に歩きながらポケットから折り畳まれた黒い布を取り出す。
警察署の角を曲がった李は、走りながらそれを広げて羽織る。それは布地の全てが黒に染められたジャケット。
そして李は契約者――黒〔ヘイ〕へと変わった。


パトカーを運転している最中も、水咲は苛立ちを隠せなかった。篠田千晶もそれを追う連中も未だ不明、と目ぼしい成果は上がっていないからだ。
そこに飛び込んだ無線、まずは朗報。
「〈斎藤です。三田署から捜索中の篠田千晶を保護した連絡が入りました。フランス人らしき男達も、目撃されています。すぐに現場に向かいます〉」
「わかった、今すぐ応援を要請する」
相手が契約者ならば警官では荷が重いだろう。しかし彼らも正面きって警察とやり合うことは無いはずだ。
契約者は合理的に行動する。尤もそれ以上に優先すべきことならば躊躇いはしないだろうが。
「〈天文部はBK201の活動を観測しました!〉」
次は天文部との連絡役、大塚の報告。BK201――その正体、せめて能力だけでも探れると良いのだが。
そして最後の報告、これには水咲もハンドルを握った手を放しそうなほど驚いた。
「〈課長、松本です!篠田千晶の死体を確認しました!〉」
「何!?」


首都高下、川に面した駐車場。駐車した車はおらず、夜にはすっかり人気も無い。そこまで走って黒は足を止めた。
「契約者か、ルイを殺ったのもお前だな」
ジャンとアランが黒の背後に立った。ここならば存分に戦える。
黒は二人を前にしても眉一つ動かさない。当然だ、ここには追い込まれたのではない。誘い込んだのだから。それに、もう演技をする必要もない。
計算外なのは、いつの間にか拳銃を持って前に立っていた千晶だ。
「あんたが……ルイを殺したの……?」
彼女が何故ここにいるのかは解らない。拳銃は警官から奪ったものか。
「言っただろう。契約者は嘘吐きだって……」
黒はたった一言、そう答えた。
すべては演技に過ぎない。ブツを手に入れる為に、そして彼らを始末する為に。
そう、演技のはずなのに――。
「鼠は罠に掛かった……」
千晶の瞳から光が消え、アランは銃口を千晶へと向けた。囮を予想はしていた、ならば千晶はもう用済みなのだろう。
咄嗟に黒は千晶を庇って射線に割り込む。
乾いた銃声は夜に響き、黒は前のめりに倒れる。しかし硝煙が立ち昇るのはアランの銃ではなく、背後の千晶の銃からだった――。


「この女は篠田千晶じゃない。MEを使って抽出された篠田千晶の記憶を移植されたドールなんだよ。たった今、キーワードによってプログラムされた人格から引き戻された」
倒れ伏す黒にジャンが真相を語る。彼にとってそれは勝利宣言だった。現に苦悶の黒には何もできない。
「どの道、人格は2、3日しか持たない。罠だったんだよ、お前をおびき出す為のな」
それならば、本物の篠田千晶は既に生きてはいないだろう。全ては仕掛けだったのだ。入れ替わったのは、おそらく昨日の夜。千晶が拉致された時点だ。
真実を話したということは、次の行動は決まっている。アランは倒れた黒の背中に銃弾を撃ち込んだ。千晶――と呼ぶべきか、ドールはそれをただ虚ろな瞳で眺めていた。
二発ほど撃った時点で既に黒は動かなくなった。それでも念を入れておくに越したことはない。
「こんなに簡単とはな、本当にこんな奴にルイが――」
「残念。黒のジャケットは彼が着ることによってのみ防弾効果を持つんだ」
それは低い、男の声だった。しかしどこを見てもそんな男はいない。それ以前に気配すら感じなかった。
「び っ く り し た?」
アランとジャンは声の源を見つけた、それは猫だった。黒猫が喋る、びっくりしたに決まっている。
そして生まれた一瞬の虚を突いて黒は立ち上がった。
「なっ!?」
素早く放ったワイヤーは一直線にアランに向かう。苦し紛れの射撃も黒のジャケットに弾かれた。
黒は絡め取られたアランを手繰り寄せる。
「ぎゃぁあああああ!!」
断末魔。アランは全身を激しく痙攣させ、やがて弛緩した。がくりと折れたアランの背後に立つ黒の瞳には赤い光が輝いている。
まず一人。


それも束の間、青白い光が黒の胸に当てられた。ジャンが壁に当てた掌は同じ光が輝いている。
彼の能力は物質交換型テレポーテーション。すぐに殺らない辺り、発動に時間が掛かるようだが、重要な臓器を適当に石とでも交換してしまえば人など簡単に殺せる。
逃げてもそれはしつこく黒の胸に狙いを定めてきた。逃れられない光がぐっと収束し、次の瞬間、ジャンの掌で心臓が潰れた。


「チッ!」
黒の前に飛び込んだドール。心臓があったであろう部分には大きなコンクリートが詰まっている。
黒はすかさずジャンへとワイヤーを飛ばすが、命中する寸前で彼の姿は水に変わった。
どうやら逃げたようだ。能力を知られた以上は正面から戦うのは不利、合理的な判断という奴だ。
そして初めて黒は篠田千晶だったドールへと目を転じた。当然、即死だろう。
ドールが自発的に動くことなど有り得ない。それも銀のように本来の人格や記憶を残したドールでもなく、完全に契約者の支配下にあるはずのドールが。
僅かに残った記憶の残滓が自分を生かそうと働いたのか、それとも彼女が魅入られたランセルノプト放射光の輝きに惹かれたか――今となってはどうでもいいことだ。
「やっぱりこっちが囮だったか。本物のブツは既に別ルートで押さえてある。組織には全てお見通しだったってことだ」
気付けば背後には黄が立っていた。先程と同じ、嫌悪の視線で黒とドールの骸を見やる。
「どうしてその人形を殺しておかなかった?」
「人形じゃない。生きていた……」
昨日の夜から入れ替わっていたのなら――孤独と恐怖に震えていたのも、自分や彼女を巻き込みたくないと強がったのも、忘れないと言ったのも彼女だったのだ。
それをどうして人形と言えよう。自分達契約者よりも遥かに人間らしい。
「所詮ドールだ、受動霊媒なんざ……。そしてお前達契約者も所詮殺人マシーンに過ぎん」
黒は否定しなかった。代わりに間に割って入ったのは先程黒を助けた黒猫。
「止せ、黄!まだ仕事は終わっていない。銀、奴の行方は?」
黒猫の背後には水溜りに手を浸ける少女。
連絡役、監視役の黄〔ホアン〕。情報収集の猫〔マオ〕。ドールの銀〔イン〕。これが彼のチームの初仕事だった。
「糸は付いてる……」
「だ、そうだ。さっさと殺してきな、契約者。俺は報告があるんで先に帰るぜ」
立ち去る黄。そしてゆらりと立ち上がった黒に、銀は無言で仮面を手渡した。
黒もまた、何も言わずそれを被る。契約者――黒の死神としての仮面を。
そして誰もいなくなった駐車場の上空を、人型の影が過ぎった。


水と自分の交換テレポート。咄嗟のことだがどうやら上手くいった。
ジャンは必死に泳いで川を上がる。力を連続で使ってしまった為、彼はかなり疲弊していた。
対価を、対価を払わなければ――。
今の彼は契約者の冷徹さも合理性も無くし、ただ石並べに――対価を払うことのみに没頭していた。意味が無くとも、払わなければという激しい衝動が絶え間無く襲ってくるのだ。
それほど没頭していたせいもあるだろう。ジャンは幽かに水面に浮かぶ観測霊にも気付くのが遅れた。
「ひっ!?」
気付いた時には既に遅く、背後からは仮面を被った黒が歩いてくる。
仮面から表情は読み取れない。できるだけ長く恐怖を与えるよう、走ることもせずにジャンへと迫る。


なのはも懐のガラス板に導かれ、この場所へと降りた。目の前には仮面を被った黒衣の男がジャンへと迫っている。男の正体は分からないが、契約者であろうことは想像に難くない。
千晶の言うとおりなら、東京には無数の契約者が潜んでいるらしい。フランス人であるジャンを誰か別の契約者が狙っても不思議ではない。
「ひぃぃ……!」
だが、ジャンの様子は明らかにおかしい。酷く怯えて歯を鳴らしながら後ずさる。そこに川があることも忘れる程、動転している。
「はぁ……はぁ……うわぁ!」
川に転落したジャンを黒は追い詰めていく。それは無様で、とても滑稽だった。
いい気味だ。彼らは千晶を、李を、自分の命を散々狙ったのだから。最初はなのはもそう思った。
「あぁ……来るな……来るなぁ!」
少しでも黒から逃れようとするジャンは、とても冷酷な契約者には見えなかった。パニックになりながらも、生き残ろうと必死に逃げる様はとても人間らしかった。
黒人の男や仮面の男とはまるで違う。
なのはには契約者が何なのか分からなくなった。自ら迷わず命を絶つ者、命乞いする相手を淡々と追い詰める者、無様に生きようとする者。
「止めて……」
この男は自分達の命を狙ったはずなのに。どこまでも憎い相手であるはずなのに。
間違いなく人間だった。
「助けて……助けてくれぇ!!」
「止めてぇぇぇぇぇ!!」
気付けばなのはは叫んでいた。
それほどまでに今は黒が恐ろしく見えた――人でない何かに見えた。
背中に覚えのある叫びが突き刺さるのを感じながらも黒は歩みを止めない。一歩一歩ジャンへと歩み寄り、ゆっくりと川に片足を浸けた。


「何で……」
川面には動かなくなったジャンが浮いている。黒もなのはも含め、ゆらゆらと漂う死体以外に動く者はない。
「何で殺したの……!」
もう殺す必要なんて無かった。ジャンは明らかに戦意も力も喪失しているように見えた。
後は法に任せればよかった。なのに――。
「奴が契約者で……俺も契約者だからだ」
なのはは愕然とした。これまで接触した犯罪者達、例えばプレシアは娘の復活を目的としていた。その為に他者を犠牲にする思考は、納得こそできないが理解はできた。
他の犯罪者だってそうだ。少なくとも理解の範疇にはあった、いや無理にでも理由を付けて理解の中に押し込んできた。
そうでなければ恐ろしいから。 
「それだけ……?」
だが、目の前のこの男は明らかに理解の範囲外にあった。
黒は振り向くことなく、
「それだけだ」
「!!」
次の瞬間には、なのはは黒へと魔力弾を発射していた。
彼は危険だ、絶対に放っておくわけにはいかない。本能が黒に警鐘を鳴らしていた。
「くっ!?」
初めて目にする魔力弾に驚きながらも、黒はそれを避けて見せた。超人的な身体能力が成せる技だろう。
そして避けながらも、なのはへとナイフを投げた。こうなっては黒も退く理由は無い。たとえ相手が彼女であっても、だ。
そうでなくとも、危険に身体が反応していた。


「プロテクション!」
光の障壁がナイフを弾く。避けるまでもなく、バリアがあれば彼の攻撃は届かない。
見たところ彼の能力は電撃。近寄らせず、水にも入らなければ防御を貫くことは不可能。
「っ!」
彼もそれを悟ったのだろう。ワイヤーを高所へ引っ掛け、闇に消えた。
――逃げた?いや、まだだ。
どこからか分からないが、微かに感じる。この暗闇のどこからか虎視眈々と狙っている。
「!?」
風を切る音に反応して振り向くより早く、ワイヤーがバリアに弾かれた。黒の攻撃はなのはの反応速度を確実に上回っているが、防御を貫くには至らない。


黒が隠れてなのはの隙を狙い出してから、何分が経過しただろう。ほんの数分でも、身動きできずに周囲を窺うなのはには無限にも思える時間だった。
今は動くべき時なのか?その一瞬の隙を彼は狙っているのではないか?そう考えると金縛りになってしまう。長いブランクが無ければ、或いは結果は違っていただろうか?
周囲は全くの無音。明かりは黒が壊してしまった。今、この場を照らすのは偽りの星『BK201』のみ、なのはの味方になるものは何も無い。
彼は何度もなのはの反応を超える攻撃を繰り出しては、すぐに消える。
防御は完璧だ。たとえ彼が凄腕の暗殺者だとしても、この防御を貫くことは簡単ではない。
なのに――何故こんなにも落ち着かない?
夜道でふと暗がりに何かが潜んでいると感じることがある。この感覚はそれに似ているのかもしれない。
あるはずがないと知っていても、一度自覚した瞬間に、闇は何かの形を作り始める。
怪物や獣。もしくは、もっと得体の知れない何かか。
今のなのはにとって、黒はまさにそれだった。闇の中に無数の彼が潜んでいるのではないかとさえ思えてくる。
そんな根源的な暗闇への恐怖かもしれない。彼はそれほどまでに完全に闇に溶け込んでいる。契約者という異能者に対するイメージが独り歩きしているせいもあるだろう。
夜は怖いほどに静謐で深い闇に彩られている。その闇に、なのはは呑み込まれそうになっていた。
偽りの夜、偽りの星。東京の裏の世界。それは、今が彼の時間でここが彼の世界――黒よりもなお暗い。
彼が契約者という、なのはには到底理解できない種だから。
「奴が契約者で……俺も契約者だからだ」
なのはは黒の冷たい声を思い出す。思い出してはいけないと思いつつも、考えてしまう。
彼は一体何人の命をその手で奪ったのだろう。幾人の血と業でその手は黒く塗れているのだろう。偽りの夜に何人を闇に堕してきたのだろう――。
今の自分は、まるで黒色の中に落ちた一点の白の絵の具のように、この世界では異分子だった。
目が彼を捉えられないのは、彼が暗過ぎるからだ。
自分も夜を注ぎ込まれてしまうのか。闇色に染められてしまうのか――彼の穢れた指先で。
震えが止まらない。自分の内から何かが蘇ってきそうだった。


――怖い……!怖い!
更に時が経ち、なのはは狂乱しそうに神経を磨り減らしていく。正気に戻してくれたのは、懐から漏れる眩い光。ランセルノプト放射光にも似た幻想的な青の光。
「この光は……」
胸のガラス板だ。それも熱いくらいに熱を放っている。
「何で…………――!」
懐を探ろうとした瞬間、光が一際強まった。ポールと相対した時も同様の現象が起こった。
同時に膨れ上がる殺気、そして風を切る音はナイフの音。
「そこ!」
振り向き様に放った魔力弾とナイフが空中で交差した。黒は辛うじて身を反らして回避。
なのははそれがナイフだと分かった時に回避を切り捨てて、攻撃に集中した。自らの防御を信じた選択だったが、結果としてそれが仇となる。


「そんな……!?」
ワイヤーが括られたナイフがバリアに弾かれると同時に、身体を包むバリアも、纏ったバリアジャケットも青白い燐光と化して霧散した。
そして唯一の味方、レイジングハートも待機モードに戻り、手から零れ落ちた。
「魔力結合が分解!?」
魔力がそっくり光へと変換された。それがただの電撃ではないことになのはも、当の黒自身も驚いている。
すかさずもう一度ワイヤーを飛ばす。今度は拒絶するものはない。
なのはの首筋に巻きついたワイヤーを黒は強く引き絞る。
「かはっ……!」
キリキリと嫌な音でワイヤーが巻き取られる。
殺される――。強烈な"死"のビジョンがなのはの目に浮かんだ。
なのはがワイヤーを握り締めて引くと、更に強く反発される。なのはは恐怖の中で、この先に黒がいることを悟った。
不思議と恐怖は消えていく。闇は見えない、得体が知れないからこそ恐ろしい。見えてしまえば、そこにいるのは敵でしかなかった。
意識を集中させて、まだ生きている魔力弾を操作する。それを悟られないように、そして黒の位置を確かめる為に強くワイヤーを引く。
「ぐぅっ……!」
首が絞まって、か細く息が漏れる。握った手からは血が垂れ落ちる。だが、おかげで位置が掴めた。
蛇の様に地を這って飛ぶ桜色の魔力弾は、周囲を僅かに照らしてくれる。光に気付き、黒が振り向いた時、既に弾は彼の顔面に迫っていた。
飛び退こうと黒はワイヤーから手を放そうとするが、なのはにワイヤーを引っ張られバランスを崩す。
「がぁっ!」
魔力弾は黒の仮面を直撃し、右目を欠けさせた。
強い――。黒も同様に、得体の知れないなのはを恐れていた。
契約者でもなさそうなのに、妙な力を使う。もう手加減はできない。
なのはの懐の光が、夜闇を塗り潰す勢いで輝いた。
「あああああ!?」
なのはの全身を刺激が駆け巡り、意識が遠のく。
最後に見えた景色は、割れた仮面から覗く、赤く煌く瞳。身体を包むランセルノプト放射光。そして一際空に瞬いたBK201――。


「情か?黒……」
黒猫、猫〔マオ〕はその外見とは裏腹の、渋い響きで黒に問い掛けた。
「……」
黒は何も答えようとはしない。直前で顔を反らしたので右目に支障は無く、傷も無い。
「"自分を殺すには高くつく"……契約者にそう思わせるのが、あの女の狙いだった。だが、あの女は知り過ぎた。契約者のことも、俺達のことも」
構わず続ける猫の口から出たのは、愛くるしい容姿とはかけ離れた、恐ろしいまでに冷徹な計算。
「リスクは承知の上、何を措いても殺すべき。それが当然だ。契約者ならばそう考える。……何故あの女を殺さなかった?もうほんの数秒、数秒で済んだはずだ……」
それでも黒は何も答えず、猫に見向きもせず、歩みを止めない。
「あの力……か?……ま、いい。黄には黙っておいてやる。お前にも考えがあるんだろ。俺は連帯責任を負うのも、黄に嫌味を喰らうのも御免だ。だが……」
猫は前足で顔を擦りながら黒の背中に言い放つ。それは彼女が泥沼に片足を踏み込んでしまったことを示唆していた。
「あの女には今後糸を付けさせるし、俺もある程度は監視する。組織の害になるようなら俺が黄に報告して始末させる。それが契約者ってもんだ。いいな、黒」
「好きにしろ……」
どうあれ自ら踏み入れた道だ。
黒はそれだけ言い捨てて猫から離れた。やがて黒の死神はジャケットを脱ぎ捨て、仮面を外し、黒から李の顔に戻った。


コンコン。
深夜の海月荘――201号室の扉が遠慮がちに叩かれた。
「はい……」
「ごめんね、李君……」
開けると立っていたのは高町なのはだった。まるで昨晩助けた時の千晶ように、彼女も疲れ切っているようだった。おそらく身体だけでなく心も。
「どうしたんですか……?」
「うん……。ちょっと聞きたいことがあって……」
取り敢えず李はなのはを部屋に上げた。
テーブルの上には遅めの夕食か、中華料理がこれでもかと埋め尽くしている。
「あ、よかったらどうぞ」
彼女は俯きがちに入り、勧められるままに座った。
食欲はまったく無かったが、飢えた身体は意思とは反対にそれを求めていた。本当はこんなことをしにきたのではないが、切り出すタイミングも掴めない。
「ねえ……李君。千晶さんはあれからどうなったのか知ってる……?」
やはり来たか。彼女は千晶が翠屋を飛び出して以後は会っていない。気にするのも当然だ。
「ええ、原口さんでしたら僕が知り合いに頼んで外国に逃がしてもらいました。彼女の情報がかなりの価値のものでしたので、家や職場もちゃんと世話してくれるそうです」
なのはは一度目を見開くが、またすぐに沈んでしまった。
「もう、今頃は成田を発ってる頃です。あ、信用できる人ですから大丈夫ですよ?」
「そう……なんだ……」
よくもこれだけすらすらと嘘が出るものだと、自分でも呆れる。だが、千晶の無事を伝えても彼女の表情は晴れなかった。
なのはは暫くテーブルに並んだ中華をぼぅっと見つめていたが、やがて遠慮がちに手を伸ばす。
「温かい……」
心身ともに凍るような戦いの後には、それはとても温かくて優しい味だった。それでも心は晴れず、上を向けない。
「原口さんからあなたに伝言です」
「何……?」
「『ありがとう』……だそうです」
契約者は嘘吐きだ――自分が千晶に言った言葉はあまりに正鵠を射ていたらしい。
なのはは料理を口に運ぶ。優しい味が今は何故か痛かった。
「李君の料理……温かいけど……」
ありがとう――それは真実よりも、なお重く彼女に圧し掛かった。
「しょっぱいよぉ……」
箸を咥えて俯く彼女の表情は前髪で隠れて見えない。ただ声と肩が細かく震えていたことから読み取るしかなかった。


無言の時が続く。なのはは黙々と食事をし、李は彼女の前で空を眺めていた。
「……私、千晶さんを救ってあげられたのかなぁ……」
たったそれだけ彼女は言って、また俯く。時折、ぐすっ、と鼻を啜る音が聞こえたが、李は彼女に優しい言葉を掛けることはしなかった。
きっとどんな言葉も空々しいだけだ。それに今は自己満足に付き合う気にはなれない。
救い――。李は空を見上げてその意味を考える。
唯一つ言えることは、契約者には救いも許しも無い。たったそれだけの、どうでもいいことだ。
ふと思う。彼女はもしかして千晶の死を知って――いや、それもまた、どうでもいい。
あの時、自分は本気で彼女を殺すつもりだった。なのに気付けば不思議とこうしている。勿論、それは情ではない。
彼女の懐の光――あの光はいつかどこかで見た光だった。そしてほんの一瞬、光の中に『白〔パイ〕』を見た気がした。あの光を追えばまた会えるのだろうか?


空を一条の星が流れた。この世界のどこかで、契約者が死んだ。
彼らはこうして自分が確かに存在したことを示せる。
だが、この空を美しく流れることなく消えていった者もいる。それは人知れず消えていった命の煌き。
世界でただ二人だけが、それをいつまでも想っていた。


次回予告

地獄は宙に消えたはずだった。
振り切れなかった闇は彼女を縛り、穏か過ぎた時間は彼女に対価を求める。
それは本来払うべきものだったのか、それとも一瞬の悪夢か。
導かれるように彼女と少女は惹かれ合う。
琥珀の瞳が見下ろす中――出会いは炎に包まれた。

第3話
新星は夜天の空を焦がし……(前編)

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最終更新:2007年10月29日 12:47