<<十六夜>>
そこには、人の生活する気配が感じられなかった。
仮にも2000を越す男達が生活する、野営地であったはずである。
野営地は即ち、戦場に咲く一輪のオアシス。
は、言い過ぎの感があるとしても、兵士達の生活全ての場であることは確かである。
静まり返っていた。
例えば。
そこに、壊滅しかけた軍隊を襲う、夜盗の類一味が通りかかったとしても、
残虐で知られる彼らですら、その、あまりの異様な野営基地の静まり返り方に、思わず避けて通ったほど。
無人の野営地程度で、夜盗どもは恐れはしない。
ただ。
その基地全体から、異様な臭気と言おうか、殺人臭と言おうか、
正体不明の臭いが漂っており、うっかりそれを吸い込んだ様子見の一人が、前後不覚のこん睡状態に陥ったため、
用心深い夜盗のボスが、「これは下手をすると流行り病」と判断して、
その、人の生活気配のしない基地に近寄るのを断念したのだった。
異臭。
その基地半径百尋。空飛ぶ鷹すら、避けて通る。
しかし、その野営地には別に人がいない、と言うわけではなかったのだ。
証拠に、うっすらと男が身動きをする。
常人より、横にも縦にも巨漢の傭兵で、名をヤオと言う。
息も絶え絶えに横たわった地面より、彼はやっとのことで起き上がった。。
辺りには、同じく身動きが取れなくなった傭兵仲間が、そちらこちらに倒れ伏している。
体の動きを麻痺させる効果が、この臭気にはどうもあるようで、死屍累々。
「……じゃねぇ……」
呟いて突っ伏す。
唇の動きすら麻痺しているようで、満足に独り言さえ出来る状態に無かった。
鬼将軍とが率いる、有能な一軍。
もともとは、こんなはずではなかった。
むしろ、歓声に後押しされて、皇都より意気揚々と出陣してきたはずなのである。
発端は、この軍全ての総括である鬼将軍の片腕――つまりは、守銭奴傭兵と呼ばれるダインが、
この数日のあまりな寒波に中り、いわゆる「風邪」をひいた事から始まった。
風邪。
倦怠感及び、発熱と食欲不振。
一週間、ほとんど水分以外喉を通らなかったのだが、それでも持ち前の体力と打たれ強さで、
だましだまし戦場を駆け回っていたダインだったが、とうとう一週間と二日目に起き上がれなくなった。
「悪ィ」
鬼の霍乱。
ナントカは風邪をひかない、などという言葉が、様子を伺いに言った傭兵の脳裏にふと浮かんだが、
目の下に黒々と隈を作り、げっそりとこけた頬で謝るダインを誰が責められようか?
心優しい仲間思いの傭兵の男は曰く、
「早く治せよ」
だの
「この際ゆっくり休め」
だの笑顔で言いつつも、その笑顔が、心なしか引き攣る事だけは隠せなかった。
ダインの戦場における、敵方への威圧感。
だとか、日常の見張り交代の編成し直しだとか、そんなものはこの際どうでもいい。
多少仲間内の士気が下がろうと、逆に相手の気運が高まろうと、
戦いの期間が少しばかり延長しようと――そんなことはこの際どうでもいい。
目の前に迫った問題ほどには、さしたる問題ではない。
問題は。
問題は、右腕と呼ばれるダインの左側にいる人物――つまりは鬼将軍――の相手役。
日常生活を送る際に、困った性癖が鬼将軍にある、と言うわけではない。
ダインがいないと戦いの士気一つ取れない、小娘と言うわけでもない。
もともと、ダインがいようといまいと、傭兵達は己自身の目でミルキィユと契約金を高く評価し、
この戦場についてきたのである。
戦い云々の手腕は、目を見張るものがある。
ただしこの鬼将軍、言い出したら引かない困った性格の一面がある。
その彼女に対して、例え殴られようと蹴られようと、頭ごなしに怒鳴りつけられる唯一無二の存在が、
風邪でぶっ倒れたダインだったのである。
「腹心ダインが風邪でダウン」、の一報を聞いた鬼将軍が、俄然張り切って厨小屋に捻り鉢巻で挑んだのを、
一体誰が止められようか。
――ちょっと可愛いかもしんない。
などと一瞬でも想像した傭兵は、己の罪を己自身で罰として受けることになった。
あまりの張り切りように、何とはなしに新入りから古参まで、嫌な予感はしていたのである。
傭兵は勘が鋭くなければ務まらない。
さり気なく牽制した、部下の幾人かの言葉は、却って鬼将軍のやる気を煽っただけだった。
賄い方が、自分がやると言い張っても、鬼将軍聞くはずも無く。
かくして。
本人曰く「守銭奴風邪回復料理」なるものを、およそ五時間にわたって製作し、
その間、小屋のドアの隙間から漏れ出る異様な臭気に、ドアの前ではらはらしていた部下の中でも
まず、嗅覚の鋭敏な数人の男が、人事不正に陥った。
その後、本人満面の笑みで、会心の手料理を片手に、ドアを開けた瞬間、ばたばたと気絶者が続出した。
もともと鬼将軍、典型的な料理音痴であった。
料理を食べて「美味い」と言う感覚はあるようなので、決して味音痴ではないのだろうが、
その「美味い」と褒める料理も、男達には理解できない料理にまで及ぶので、味音痴も兼ねているのかもしれない。
好きな料理は「鶏肉の生クリーム砂糖酢ヨーグルトの醤油塩辛煮込み」であると、豪語してはばからない。
その、破壊的な味覚の持ち主である鬼将軍の手料理である。
威力たるや空飛ぶ鳥を打ち落とす勢い。
止まったハエがぽとりと落ちた。
全く悪気の無い、善意の塊の本人は、
風邪真っ最中のダインの伏す医務テントに、凶器にも勝る料理を所持して入室し、
自ら彼に食べさせてやったらしい。
それを耳にした、まだ僅か意識のあった数百人は、ダインに多大な尊敬と畏怖を感じるとともに、やはり沈没。
「風邪」のせいで半分以上食べ残った手料理は、そのままに放置され、
時とともに臭気はいや増し、軍隊全て意識深くに沈んだ。
ダインの「看病」をして満足したミルキィユが、一人穏やかに昼寝をしている。
「俺な……思うんだけどよ……敵方に”アレ”送りつけたら、……それだけで戦いに決着付くんじゃね……?」
「つかむしろ……まさか皇帝には食わせちゃねェだろうな”アレ”……」
虫の息の下からでも、思わず皮肉が漏れるのは、傭兵の性分とでも言うものだろうか。
「この世のモンじゃねェ……」
そう毒づくヤオでも、本人には決して言えない。
とりあえず、この状況から逃れるためには、ダインの回復、それ以外には無いことを理解している。
どうせこの異臭を恐れて、敵軍も近づきはしないだろう。
ただし、問題は。
問題は、ミルキィユ一人は元気なことで、
彼女が料理に飽きるのが先か、ダインの内臓及び、強固な正気が壊れるのが先か。
願うのみである。
願い、そしてヤオも再び、暗い意識の淵に沈んでいった。
願いは、力の無い祈りと人は言う。
その野営地は呪われている。
そんな噂が、近隣の町で囁かれ始めたのは、それから一週間後のことだった。
生ける屍がそこかしこをさまよい歩いていたと言う。
最終更新:2011年07月21日 11:08