一体アンタは何しに来たのさ。
 不機嫌な女の声が、背中に投げつけられる。聞こえない振りをして生返事、不貞寝を決め込む。
 近くでどんと、夜空に花火の咲き開いた音が聞こえる。
 妓館である。
 皇都エスタッドの、妓楼の一角にその夜ダインはいた。
 流れ稼業の傭兵ながら、皇都エスタッドに立ち寄った際には必ず顔を出す女がいる。
 惚れている、訳ではない。
 ただ、その顔を眺めて、その体を抱き、その下町訛りの言葉を聞いて、
 また生きていた。
 そう実感するためだけに通っているようなものである。
 高級妓館でも、高級妓娼でもない。
 場末の寂れた、正確に表せば傾きかけにも程のある、妓館である。
 汗と情事の匂いの染み付いた、湿った寝具に身を横たえて、片肘を突いてダインは窓の外を眺めている。
 「ちょっと」
 外は今夜は戦勝祝いの宵祭り。
 酒屋も小料理屋もこの日ばかりは気取るのをやめて、道表に卓を出し、赤字覚悟の大賑わい。
 「聞いてんの」
 圧倒的に軍人の多い皇都は、つまりは居住する住人の殆どに酒精の入った計算になる。
 路地のあちらこちらで、ほろ酔い加減いい気分の男達の声が聞こえてくる。
 中には早い時間からへべれけになり、打ち捨てられた者もいるか。
 「ちょっと。そこの守銭奴男」
 不機嫌な声のみでは振り向かないことに腹を立てたか、ついには手櫛が背中に投げつけられた。
 「……なんだよ」
 ともすれば剣呑にも聞こえる声で、ようよう振り向いたのはダインである。
 「何なのよアンタ。部屋に上がり込んだはいいけど、何する訳でもなく寝そべって花火眺めてるんなら、
 こんなところで見てないで安宿で一人、手酌酒片手に眺めてりゃいいでしょう。
 そもそも、久しぶりに顔を出したかと思えば、挨拶ひとっつもなしに人の部屋ずかずか入り込むって
 一体どういう神経してんのアンタ」
 豊満な体に薄い絹物を引っ掛けて、それすらも危うく肌蹴るか肌蹴ないかぎりぎりの線を保ち、
 女が腕組みをしてダインを睨んでいる。
 胡乱な視線でダインが返しても、流石に百戦錬磨の妓館の女は、びくともしない。
 この程度の客に手間取っては、妓娼の名が廃る。
 「金は払っただろう」
 面倒くさそうにダインは応えた。
 「そう言う問題じゃないのよ」
 凄んで女が応える。
 「……じゃ、なんだよ」
 「抱くの。抱かないの」
 あからさまにそう聞かれては、男の生体上余り催しもしないもので、
 そうでなくともダインは、今夜女を抱く気はさらさらなかった。
 「気分じゃねェんだよ」
 であったから、思わず正直に答えた。
 「何さ」
 「……なんだよ」
 自身の言葉に怒るかと思った女は、意に反して顎を引き、見定める目つきで眉を寄せる。
 「気味が悪いね」
 「はァ?」
 「アンタらしくない」
 そう言ってダインの表情を覗き込み、
 「親友でも死んだの」
 女は、不安そうに尋ねた。
 「あ?」
 「ずっと前に、アンタが無言で部屋に上がり込んで来た時には、そう言ってやっぱり外を眺めてたから」
 違うか。
 ぺろりと舌を出して女が笑う。
 女なりに、普段訪れるダインとは雰囲気の違うことに、心配してはくれているのだろう。
 気付いて僅かに表情を和らげたダインである。
 戦場仲間のヤオとはまた違った意味で、腐れ縁と言えばそれまでだ。
 「で。黙ってたって判らないのよ。言いなさいよ。何を愚痴りに来たの」
 女の声にダインは苦笑で返した。
 「……愚痴りたそうな顔をしてるか」
 「してるかもね」
 ふふふ。
 含み笑いで応える女に、起き上がり胡坐をかいて、ようやくダインは向かい合った。
 不機嫌な振りをしていても、心底機嫌を損ねていた訳でない女は、その様子に逆立てた眉をひょいと下ろす。
 元来世話焼きの、気の良い女なのである。
 「実はな。鬼に惚れた」
 話の前後は一切無しに、唐突にダインが一人言つ。無論女は動じない。
 「鬼」
 「鬼だな」
 「鬼かァ」
 それはまた厄介そうね。
 まるで同情の篭らない女の言葉に、ダインは長々と溜息を吐いた。
 「なんだよ、つれねェな」
 ぼやく。
 「大変ね、とでも言って欲しい訳?」
 「要らねェな……」
 念を押されて、ダインは背を丸め、踵の辺りを眺めてみる。
 あの夜。
 突如明け射した月光の下で、自虐的に身を晒したミルキィユに声をかけそびれたまま、
 皇都エスタッドに凱旋してしまったダインである。
 情けないことこの上ない。
 身に沁みて判ってはいる。
 けれど、狂ったように啼き笑う、少女に一体どんな言葉をかけてやれば、この哀しみは拭えるのかと、
 どんな手を伸ばしてやれば、この少女は笑ってくれるのかと、
 恐れたり、厭った訳ではなく、どれほどに少女の体が傷付き爛れていたとしても、
 自身は素直に美しいと、愛おしいと、思ったのだと伝えられるのだろうかと
 悩んだ末に立ち尽くしたまま、何一つ口に出せず仕舞いであった。
 終局は、ミルキィユから持ち出した。
 ――もう良い。
 どこかほっとしたように、がっかりしたように、
 ――やはり、鞘は要らぬ。剣は一人で生きてゆかねば切れ味も鈍ろう。
 ミルキィユは笑った。
 透き通る少女の名前すら、呼んでやれなかった。
 ――……貴様は貴様の道をゆけ。わたしは、わたしの道をゆくから。
 打ちのめされながらも、真っ直ぐに見つめてきた瞳が、余りにも透明質で綺麗で、
 最後までダインは口を半開けて、眺め回すだけであったのだ。
 愛おしいと、思ったのは本当だったのに。
 不甲斐ない。
 自身に腹が立つ。
 アルカナ王国の、国王並びにその一族が処刑されたことにより、
 エスタッド皇国の傘下に入ることが、暗黙裡に決定され、戦いは幕を収めたが、
 ミルキィユ率いる傭兵隊含め、本隊その他は、そのまま戦場に居残っていた。
 戦後処理は山のようにあったし、すぐにも次の派遣地の発表があるようだと言う事だった。
 職業軍人の本隊はともかく、契約傭兵の第五特殊部隊は、一度は戦野にての解散となった。
 いくらかの者が帰国を願うのみで、殆どの者は、そのまま戦場にて、新規契約の道を選んだようだ。
 ダインのように、稼ぐ理由も使う理由も無く、だのに金に固執する特殊系は別としても、
 喉から手の出るほどに、金の欲しい連中はいくらでもいて、
 しかも、目の前にその方法が転がっているのだから、引き下がるわけにもいかないのだろう。
 僅かばかりの帰国希望者の中に、何故か混じったダインだった。
 居残り組を選び、見送る形になったヤオは、何も言わなかった。
 一言またなと、背を叩いて別れたのみである。
 のろのろとエスタッド本隊に紛れて、彼等は帰国した。
 訂正である。
 ダイン以外の他の者は、意気揚々と帰国の途に付いた。
 足を引き摺る思いで連なったのは、ダインただ一人である。
 戦勝祝いの歓声も、撒き散らされた花片も、ダインには煩わしいだけであった。
 あれから、将軍ミルキィユを見かけない。
 どころか、動向の噂さえ耳にしない。
 見送る列にも姿は無かった。
 先の例もあるし、一人で軍務処理のために、都に戻ったのかもしれない。
 否。
 戦場に彼女はきっと残っている確信が、ダインにはあった。
 おそらく一人、端座でもして軍営部の片隅、その他の居残る将軍に紛れているのだろう。
 あの悲しいほどに透明な眼差しをして。
 少女が、躊躇いがちに差し伸ばしかけた腕を、ダインがきっと切り離したのだ。
 自己嫌悪に陥ったダインだった。
 反省の無い彼にしてみれば、豪く珍しいことだったのである。
 それすら気付けないまま、数日かけて皇都へ戻ると、真っ先に浴びるように酒を飲んだ。
 忘れたかったのかもしれない。
 そうして、泥のように眠った。夢も見ない深い眠りであった。
 目を覚ますと途方も無く孤独で、心許なくて、
 二日酔い真っ盛りの頭を抱えて、ダインは妓館へ足を運んだのである。
 生まれてより三十年間。こんなにも、弱い自分だったのだろうか。
 「……あのよ。聞いてもいいか」
 「何よ」
 ドスの聞いた声で問うと、女もまた低く抑えた声で返してくる。
 「おめェが裸になる時ってェのは、いつだ」
 「そんなもん、客がいたなら、いつでも脱ぐわよ」
 何を当たり前のことを、とでも言いたげな風情で女が目を眇める。
 「仕事以外なら」
 「湯浴みする時かな」
 がりがりと頭を掻いて、ダイン大きく溜息を一つ吐く。
 「悪ィ。聞き方が足りなかった。おめェが仕事や湯浴み以外で、裸になるのはどんな時だ」
 「え?」
 そこで女が初めて面食らった顔になる。
 「それ以外で?」
 無言で首肯したダインに、しばらく女は宙を睨み、首を捻る。
 「それ以外……ねェ」
 それ以外で裸になるかな。疑問を含めて小さく呟く。
 「じゃあよ。質問変えるわ。肌を見せることが極端に怖かったとして、」
 「アタシが?」
 「そうだ。例えばおめェの、そのお綺麗な玉の肌に、誰にも見せられない彫りがあったとしてだな。
 それを、敢えて誰かに見せる。そん時の女の気持ちってなァ、一体どんな気持ちなんだよ」
 「そりゃ、」
 言いかけて女は、僅かに肩を落とし、愁いを帯びた眼差しに変わった。想像したのだろう。
 「……見せられないものを見せるんだもの。嫌われたくて見せるかな。多分」
 「嫌われてェのか」
 「うーん。判んないけど。アンタの例えは、もっとよく判んないけど。
 でも、これ以上好きになっちゃいけない相手と、離れたいけど、離れられないような時、
 こっちから離れるのは豪く辛いけど、相手が嫌ってくれたら諦めもつくじゃない?」
 「そんなもんかね」
 「……そんなもんじゃないかなァ」
 女心ってね。複雑なのよ。
 判ったような判らないような顔をして唸るダインに、猫のような顔で女が不思議に微笑む。
 ダインは再び無言になって、窓の外を眺めた。
 「ワケ有りの女でも好きになったって訳」
 背中は黙して語らない。けれど女は先程のように機嫌を損ねるわけでもなく、
 けらけらと軽い笑いを響かせながら、そんな守銭奴の背中に凭れかかった。
 「アンタの心を射止める女だなんて、そりゃァ別嬪さんなんだろうねェ」
 ――別嬪どころか。
 思わず乗せられて呟きそうになり、咳払い。
 不貞腐れた表情を何とか保って、ダインは花火を見る。
 「アンタ、自分じゃ気付いてないだろうけど。四面四角な顔の癖して、ここいら界隈じゃ結構、ね。
 抱くだけ抱いて、さっさと朝早くには寝床もぬけのカラ、だったでしょう。
 誰がアンタの寝顔見れるか、なんて競争が起こったくらい、
 アンタなかなか現れないし、金払いイイ割にはやたら淡白だし。
 戦傭兵って職業割り引いたって、アンタにだったら水揚げされてもいいってコも、
 物好きな中には、割合いた……みたいよ。
 アンタ本人に言ったら図に乗って鬱陶しいだけだから、アタシ。言わなかったけど」
 その横顔を覗き込みながら、女はからかうように謳った。
 「三十路男が、いつまでも独り寝床じゃァ寂しいでしょう。
 気になる相手がいるんだったら、そろそろ。そんな地に足着かない生活してないで、
 さっさと口説くなり押し倒すなりしたらいいじゃないのよ。見苦しい」
 「……その、地に足の着かない生活者のお陰で、稼いでいるのはどこの誰様だよ」
 ダインが女に乗せられて、とうとう口を割った瞬間、どん、と群を抜いて大きな花火が上がる。
 わァ。
 お構い無しに、女は窓から身を乗り出して、そのはらはらと散ってゆく火の粉にはしゃいで手を叩いた。
 はっきりとは聞いた事が無いが、見た目女は、ダインとそうたいして歳の離れたようには見えない。
 なのに、そうして手を叩き喜ぶ様は、まるであどけなくて、
 いつかの昼間に安心しきって眠った顔と重なった。
 無性に会いたくなった。
 「鬼だろうが、夜叉だろうがさ、」
 そんなダインの心を見透かしていたらしい女は、振り向くこともなく、夜空を見上げて呟く。
 「惚れたなら、そう言ってあげないと」
 ――惚れた、ねェ。
 いい年をした自身が、17相手に好きだのなんだのと言い募る場面をふと、想像して、
 照れ臭いどころか、不意に穴を掘りたくなったダインである。
 ――柄じゃねェ。
 「だって。相手は女なんだからさ」
 肩越しに振り返った女の表情は、さばさばと色気抜けているというのに、
 どこか徒花めいて、ぞくりとダインの背を震わせる。
 女は普く鬼かもしれない。
 浮かんだ疑惑に首を振り、胡坐を掻き直して、夜空に咲く花に目を奪われたダインだった。


 ――弱い。
 黎明に映し出される己の影を見つめながら、ミルキィユは小さく舌打ちする。
 朝霧の中、立つのは自身一人だ。
 ――何故こんなに弱くなった。
 両腕で包み込むように身を抱きしめ、きつく目を瞑ると、ミルキィユは数度、呼吸を繰り返す。
 アルカナ王国との戦いに決着が付いてからもう既に十日。
 国王及びその一族の首は、丁寧に包装されエスタッド皇国へと、既に送付済みである。
 アルカナ王国の国王臣下による、余りにわが身大事の保身的な工作品であったとしても、
 そこは公私混合するミルキィユではない。
 そろそろ皇都に着いてもおかしくない日数である。
 皇帝が、その首を検分しているかもしれない。
 あの小奇麗な表情の下に、おそらくミルキィユと同じく感じたであろう、嫌悪感を見事に押し隠し、
 黒甲冑のディクスを脇に従えて、ひとつひとつ丁寧にその首を鑑賞するのだろう。
 余り自覚は無いものの、それでもやはり皇族とかかわりを持つミルキィユですら、
 部下に手酷く裏切られた国王の首に、憤りを感じたのだ。
 当に、いつ崩れてもおかしくは無い、針の玉座に鎮座する皇帝は尚の事、
 己自身の境遇に照らし合わせて沈痛するに違いない。
 あの姿は、ミルキィユや皇帝に降りかかる、いずれの未来の姿かもしれないから。
 わが身に流れる血を疎ましく感じる一瞬である。
 薄ら寒さを感じて、ミルキィユは首許に巻きつけていた麻を、もう一度きつく巻きなおした。
 寒気と共に、その服布一枚下にのたくる、皮膚の引き攣りをも隠す気持ちで。
 自身の体を思い出して、眉間に皺を寄せるミルキィユである。
 ――守銭奴。
 男の気持ちを試すかのように、我を忘れて肌を晒していた。
 違う。はっきりと、試したのである。
 そうして、嫌悪の表情でも一つ浮かべてくれたら。
 怒りと共にきっちりと対処でき、ミルキィユはそれきり男を忘れたろう。
 けれど。
 月明かりに晒した自身を、驚きの表情で眺めていた男の姿。
 そして次に、哀れみとも忌み嫌いとも異なる、初めて見る如何とも表現に困る表情を浮かべて、
 男は何か、呟こうと口を開きかけた。
 遮ったのはミルキィユである。
 その言葉を聞くことが怖かった。
 男に、嫌われているとは思わない。
 慢心なのかもしれない。
 それでも、わざわざ皇都くんだりまで同行を申し出たり、
 それなりに値の張る髪飾りを送ってくれたり、
 よほど物好きでない限り、好きか嫌いかの二択で言うなら、好かれているのだろうとは思う。
 とは、思うものの。
 確証は無い。
 ないどころか、そんな風に、今まで誰からも好意を寄せられたことが無かったので、
 戸惑いの気持ちが大きい。
 戸惑いと言うよりは疑いである。
 自分はなんと醜い心を持つのだろうと、溜息の出る思いである。
 男の好意を、疑う己がいる。
 すぐにでもその意を翻すのではないかと、
 そうしていつかされたように、また大衆の前にて辱めを受けるのではないかと、
 ――そうではない。
 思い浮かべてミルキィユは否定した。
 あの男はきっと、そんなことはしない。
 不器用だけれど素朴な目をしていた。
 そう判っているのに、自信が無い。
 自信が無いのではない。怖いのだ。
 どう反応してよいものか判らない自分も怖い。
 甘えを忘れた自身に、男に甘えろと言うのは、難問である。
 首を捻るばかりだ。
 「……軍。ミルキィユ将軍」
 向こうのテントから呼ばれる声がして、ミルキィユは顔を上げた。
 皇都軍の部下の一人が手を振っている。
 「どうした」
 朝日に思いを打ち消して、大股に部下の方へと近づくと、
 皇都よりの書簡を手に下げているのが見えて、知らず表情が引き締まる。
 恐らく、次の任務地。
 「先程、早馬にてこれが」
 受け取り、手早く広げて目を通す。
 エスタッド皇帝の印章が最後に赤々と押された、勅書である。
 将軍としては下級職であり、この陣営にもまだ他に、
 ミルキィユよりも上級の将軍いくばくかも首を揃えてはいたが、
 第五特殊部隊の名の示すとおり、遊撃隊的役割の多いミルキィユの部隊には、
 しばしばこうして、上級将軍を差し置いての皇帝よりの勅令が下る。
 「将軍」
 読み終えた自分に、伺う眼差しを投げかけた部下へ向かって、にやりと一つ笑って見せた。
 「喜べ。次の任務が決まった。朝の支度が整い次第、移動する」
 「はっ」
 同じ笑いを浮かべつつ敬礼を返す部下に、後は頼んだと踵を返し、
 ミルキィユは自身のテントへと支度のために戻っていった。
 弱音は消えている。


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最終更新:2011年07月21日 11:02