<<両手一杯の思いを胸に>>
そういえば。いない。
天気の良い午後。窓際で、牛乳9割のカフェオレ片手に、ぼんやりと日向ぼっこをしていたマルゥは、突然気付いた。
ほんの少しのきっかけだったように思う。カップからふわふわと昇る白い煙を、どうして毎回同じ形にならずにいつの間にか消えていってしまうのだろう、とか。消えてしまった煙はどこへ行ってしまうのだろう、とか。本当に、どうでも良いような物思いに耽っている最中に、ふとした拍子で、気付いたのだった。
同僚と呼ぶには少し癪に障る。ヒューと言う主人に飼われている同じD-LL”ドール”同士。
相手の名前はカークと言う。
喜怒哀楽の表現に乏しいD-LLで、一年ほど前、路地裏に打ち捨てられていたところを、マルゥとヒューの二人で見つけて連れて帰ってきたモノだ。
と、言うより珍しい物好きな、はっきり言うと何を考えているのかちっとも判らない主が、一目で気に入って、強引に連れ帰ったモノだ。
マルゥはあまり賛成できなかった。
ヒューと暮らした年月が、自分の方が相当長いというのも、その理由の中にあるにはあるが、それよりも尚躊躇ったのは、見上げたD-LLの瞳に全く光と言う物がなかったから。
無気力に過ぎた。
壊れている。
初めて視線を交わした瞬間、脈絡もないのにそう直感した。
真っ黒なビー玉に似た眼に感じたのは渇望。
まるで無機質だったのに、向けてきた視線は、尻込みするほど切なげで、そうしてとても哀れだった。
置いていかれた子供の目をしていた。
困り果て、どうしていいのか本気で判らない、そんな不安な様子で見つめてきた彼に、昔に拾った野良猫を連想した。
雨に濡れてみすぼらしく丸まっていた、毛糸玉のような野良猫。
「猫かあ……アレの場合は猫ってより、犬かなぁ……」
「……なにが?」
「うわ」
従順と言うなら、ドが頭につくほど従順なカークを思い出して、一人呟いたマルゥの声に、珍しく主が反応して振り向いていた。
驚いたよりも感心しかけたのは、座り心地も寝心地も良いソファの上で、先まで大口を開けながら、平和そうに寝こけていたように思えたからだった。
「あれ。マスタ。起きてたの」
「……マルゥ。マスターと呼ぶなといつもいつも言ってい」
「ヒュー」
口早に訂正し、最後まで言わせない。
どうしても人間を見ると主人に思えて仕方が無いのは、D-LL市場で売られていたマルゥの癖であり、そもそも最初の判断力インプットの時点で、人間に対しての対応の仕方、を叩き込まれたような気もする。記憶力が特段に飛びぬけている方ではないので、はっきりとは覚えていない。
D-LLタイプの中では新型のマルゥだ。新型には記憶力忘却の機能が、わざわざ取り付けられているのだと、どこかの説明書で読んだ覚えがある。
旧型にはそれが無いそうだ。
体験したこと、見たこと、聞いたこと。それら全てを良いことも悪いことも、あますことなく覚え続けていられるのだそうだ。
つい先程、突然にその存在のいないことを確認したカークが、マルゥにそう教えてくれてことがある。聞いたそのときは感心して、むしろメモせずとも忘れない記憶力に、感動したし軽く嫉妬も覚えたものだった。
――そんなに、いいものではないです。
どこか淋しそうに微笑みながら、俯いて彼はそう言った。
――記憶を、いつまでもそのときの気持ちのまま、ずっと覚え続けていることは。
そう聞いたときは鼻で唸って聞き流したが、後に思えばそうなのかもしれない、と改めて思った。
忘れたくない記憶はたくさんある。嬉しかったり楽しかったり、今ほど自分は幸せなことはないと、思ったことはたくさんある。けれどそれと同じ数ほど、忘れたいこともたくさんある。
それらすべてを、感じた記憶のままでいつまでも生々しく覚え続けるということは、意外に苦しいことなのかもしれない。
だから、忘却機能なんてつけたのかな。
他人事のようにそんな風に思った。
「今はじめて気付いたんだけど。カークは、どこいったの?」
「あ?」
拍子抜けるほど呆けた返事が返ってきた。
「なにが?」
「……ヒュー。念のために聞くけど、カークの存在、忘れちゃったんじゃ、ないよね?」
「馬鹿言うな」
まるで無頓着な返事に、もしかすると彼なら、とやや不安になりながら彼女は尋ねる。絶対にそんなことはありえない、と完全否定できないところが、少し悲しい。
彼女の不安に、ふんぞり返って応えるヒューだった。
「記憶力だけはいいんだ」
「……」
自分自身を棚に上げていることは判っている。
判っている上で言及するのも胸が痛むものの、三歩歩けば、記憶どころか機嫌までコロコロ変化する主をマルゥは知っている。
無言で迎えた。
「何だよ」
「だから。そういえばここんところ、カークの姿見てないなぁって。最後に見たの……えーと……10日前くら……い?」
「カーク?」
そうだなそう言えば見てないな。
言われて初めて気付いたように、ソファに寝そべっていた身体を起こして、ヒューは辺りを眺めはじめた。
「おい、カーク!」
大声で呼んだところでいないものはいない。返事はやはりなかった。
「いないな。本気でいないな。いつからだ」
「だから。ここんとこずっと」
「おかしいな。メシがちゃんとテーブルに出てたもんで、いないことに気付かなかった」
「……ヒュー……」
同じように気付かなかった、自分のことはますます高い棚に上げて、それでもマルゥは思わずカークが不憫になった。
「ヒューにとってのカークの存在って、自動給餌機程度なワケ……?」
「そんなことはない」
きっぱりと首を振って全否定したヒューは、
「洗濯機と掃除機も、兼ね備えているだろうアイツは!」
あ。家政婦。
ヒューと二人で暮らしてきた七年間、一体どうやって生活していたのか、微妙に思い出せないマルゥだ。
それでも、急激に不安になったので、マルゥはヒューと二人で、カークの寝室を覗き込んだ。
気付いていたかいなかったかは別として、毎日食卓を整えていたということは、本人が元気な証だとは思うものの、姿が見えないのは落ち着かない。気がつかなかった半刻前までは、ゆったりとくつろいでいたものを、ピースが欠けたことに気がつくと、何と無しにそわそわする。気になる。
寝室には、やはり姿はなかった。
几帳面に畳まれた黒の上下の部屋着。髪の毛ひとつ落ちていない、埃ひとつ見当たらない、完璧な彼の部屋。
寝乱れた跡もない。
そもそも修飾する、と言う言葉は彼の寝室においては見当たらなかった。あるのはシングルサイズのパイプベッドが部屋の真ん中にひとつ。寝るためだけ、ただそれだけのためにあるような部屋だった。
らしいと言えば、らしい。
実は初めて彼の部屋を覗いたマルゥは、素直にそう思った。
普段は、そこがまるで以前から彼の定位置だったように、リビングにいることが多いから。
同じ屋根の下に暮らしていて、寝姿を見たことは驚くべきことにたった一度だ。
そのたった一度も、この家で目にしたわけではなくて、仕事をこなしている最中の、アクシデントによる半ば気絶状態だった。
とても綺麗な寝顔だった。
造り物だったから、それはとても綺麗だった。
「なんだ、なんにもねぇな」
「ヒュー、カークの部屋見たことなかったの?」
「言われりゃあなかったな。わざわざ部屋まで訪ねる用事もないしな」
脱ぎ捨てた服。食べ散らかした包み紙。読み散らかした雑誌。壁一面所狭しと張り付けまくっている、等身大の水着美女の3Dポスター。飲んだ数だけ、サイドテーブルに林立しているビール缶と、コーヒーマグ。
一種異様な迫力を持つヒューの部屋とは、当に正反対である。
「エロ3D雑誌ひとつ持っていやしねぇのか」
そんな勝手なことを言いながら、男はパイプベッドの下を覗き込んで、余計な節介を焼いている。
「……そもそも、男ってワケじゃあないんだし。必要ないんじゃ、ないかな」
「女ってワケでもないだろう」
カークの身体の状態を、何と表現するのかマルゥにはよく判らない。男女どちらも共にあるのなら、両性具有とでも言ったろう。
けれど彼にはどちらも無い。
できそこないの、のっぺりとした身体。
顔の造りが完璧に過ぎるために、あまりに真逆なその身体。
彼が、人前に肌の露出を晒すことに対して、極度に過敏になっていることを、彼女は気付いている。決して肌を晒さない。掌さえも、黒のボディ・スーツで覆っている。地肌が見えるのは、顔と足首の僅かな部分。
毛布を被った子供のような物だ。
「ふうん。……男として認めてるんだ?」
「さぁ?どうだろう?」
考えたこともなかった。そう言ってヒューは、マルゥの言葉に腕組んで宙を仰ぐ。
「まぁどっちでもいいんだけど。今、気になるのはアイツが一体どこ行ってるのか、それだし」
「……どこに出かけてるんだろうな?」
顔を見合わせ、二人でもう一度首を捻った。
ところへ、
カンカンと表の螺旋階段を、規則正しい足取りで踏みあがってくる足音がある。
思わず耳を澄ませて聞き入る二人である。
やがてロックされている表門戸を解除する電子音が微かに聞こえ、それからやや後に、玄関に掛けてあった鍵が外されて、プシュ、と自動扉の開く音。
帰宅した足音だ。
「おかえり」
「おかえり」
同じ言葉を共に口にして、振り返った二人だった。
玄関のたたきを上がり、ガラス戸をひとつ開けると直ぐに、リビングである。そうして、リビングはそれぞれ3つの寝室のドアとキッチンに、直結している。
つまり、リビングの入り口に立てば、リビングは勿論、ドアさえ開いていればその奥の寝室の中までよく見える。
カークの寝室に入り込んでいたマルゥとヒューは、きょとんと二人を眺める、カークの視線と対峙した。
豪く、久しぶりの対面だった。
久しぶりに見る左右対称の整った顔は、やはりとても綺麗だった。
「――ただいま帰りました――……あの、」
「ぅん?」
「何をしているのですか」
「いやなに」
つかつかと寝室からリビングに戻ったヒューは、
「かくれんぼしていたお前を探していた」
律儀に挨拶を返しながらも、思わず疑問を口にしたカークに近づいた。マルゥも後に続く。
「かくれんぼ――ですか」
寝室に入り込まれて、特に怒っている風はない。と言うよりヒューやマルゥのすることに、基本的に反することのないカークだ。プライベートを侵害されたと怒る性格なら、そもそも部屋に鍵を掛ける。
ただただ、怪訝そうである。
「二人で?」
「そう。二人で」
「なにか見つかりましたか」
「エロ本も何も、やましいものは全くなかった。俺は淋しい」
「は、」
疑問符を顔の辺りに幾つも散らして、首を捻ったカークは、それでも彼なりに、納得の行く結論を出したのか、やがて頷くと、手に提げていた大きなビニール袋を二つ、がさがさとならしてキッチンへ向かう。
袋に山盛り入っているのは、食材。まさしく「人形のように」綺麗な顔をしているのに、その所作は所帯染みている。
違和感をあまり覚えないところが、哀れを誘う。
「ねぇ、カーク」
「はい」
手持ち無沙汰。マルゥはキッチンの戸口に立ち、冷蔵庫に袋の中身をしまい始めるカークを、眺めることにした。
てきぱきと、それぞれの使用頻度によって分類し、恐ろしいほど整然に庫内へ並べていた、その後姿へ、
「聞きたいことがあるんだ」
言葉を投げた。
「なんでしょう」
「うん。あのさ。最近姿見かけないけど。どこ行ってるの?」
がご。
マルゥの見ている前で、カークは唐突に牛乳入りのボトルを取り落とし、
……あれ。動揺……してる?
光景を目に収めてしまった、彼女の疑念を買った。
背を向けたままで顔は見えないので、どんな表情なのかは窺うことができない。
「――どこって――取り留めのないところですよ」
やがて、ボトルに手を伸ばした彼の口から漏れ出でたのは、いつもと変わらず淡々とした声だった。
「とりとめのないって、何よ」
「ですから、ブラブラと散策したり、日当たりの良い場所でsig・Chat(シグ・チャット)していたり――」
「わざわざ?夕ご飯まで作りおいて毎日?」
「――そうです」
躊躇った後の、歯切れの悪い返答。
思いっきり、怪しい。
ふうん、そうなんだ。そんないい加減な合いの手をいれながら、その場限り、マルゥは引き下がった。冗談こそ言え、行動を誤魔化す彼ではないことを、この一年近くで彼女はよく知っている。その彼が言葉を濁すということは、マルゥにかヒューにか、もしかすると二人にか、何か知られたくないことがあるということだ。今ここで食い下がっても、彼の口から、本当のことが引き出せるとは思えない。
意味深な視線を背後のヒューに向ける。顎に手を当て、マルゥとカークを眺めていた男は、目配せひとつ、彼女に送ってよこした。
その意味するところを酌んで、深く頷く。
「ねぇ、カーク」
「はい」
「天気いいし、ちょっと外遊びに行ってくるね」
「はい」
そこでようやく振り向いた顔は、小憎らしいほどいつもと同じ、清飄としている。
このポーカーフェイスめ。
心の中で舌打ちした。
「どう思う」
住宅街の通りに出た二人は、遊びに行くといった手前、直ぐに家には戻れない。仕方が無いので近所でもブラブラと散歩しようと言うことになった。
近くの公園に足を進めながら、それまでしばらく黙っていたヒューが口を開く。
「なんか、隠してるよね」
何をカークが潜めているかまで、予測の付かないマルゥだったが、怪しい物は怪しい。それだけは確かだ。
「言えないことなのかな」
「悪いことにでも手を染めている……とかか?」
言われて試しに空を見上げて、彼女は思い浮かべてみる。例えば彼が、回線のどこでも潜れる一種の才能と言おうか特技、を活かして裏稼業に精を出している姿。やろうと思えば、モラルさえ邪魔をしなければ、彼は盗聴も盗撮も、やりたい放題し放題ではあったから。
「無理。想像できない」
思い浮かべかけて、けれど到底駄目だった。
そもそも裏と表で言うのなら、限りなく表一色に近いカークが、何をどう転んでも裏に転換しそうにない。
脅迫されているならば別として。しかし何かに追い詰められているような、仮に困った状況であるなら、やはりカークはマルゥは無理でも、ヒューには相談しただろう。
隠し事の出来ない性格なのだ。
そうでなくとも、他人との接触を、己ず進んでする気性ではない。
関わらないで済むのなら、無駄に関わることはないはずだった。
「じゃあ、一体なんだろうな」
「……ヒューが聞いても無理かなぁ」
「口を割りそうには……ねぇな」
「思いっきり問い詰めても?」
「うーむ」
腕を組んで悩む男をマルゥは見上げる。
「とことん問い詰めたら、そりゃきっと答えてくれるとは……思うが。けどよ。そこまで真相究明しないと、いけないようなモンか?」
事件に巻き込まれているでもない。傷害があったわけでもない。
ただ、ここ10日ほど行き先を告げずに、カークが朝から晩まで外出している、それだけのことなのだ。
「でも、気になるでしょ」
「なるっちゃあ、なるんだけどな」
出歯亀八割。今まで隠し事ひとつなかったカークのことだったから、余計に。
「あ、」
そこでマルゥは唐突に閃いた。指を鳴らす。
「判っちゃった、かも」
「……なんだよ?」
「好きな人が出来たとか!」
次の瞬間の、ヒューの狼狽ぶりと言ったら、あまりにも見物だった。
障害物の何もない場所で、足を縺れさせるのは言うに及ばず、ありとあらゆる表情を、一瞬のうちに表情筋を使って表現し、赤くなり青くなり白くなって、終には口を金魚のようにパクパクと開閉しながら声も出ない。
マルゥが思わずぎょっとして足を止めたほど。
「ななななななにににぬぬぬぬぬぬぬ」
「マ……マスタ。マスタ!ちょっと!だだだ、だいじょぶ?!」
「か、か、か、かーかーかーー」
「何?カラス?カラスの鳴き真似がどうしたってのよ!」
突然の出来事に、慌てふためいてマルゥはヒューに縋りついた。道行く通りすがりの住民が、危ない物を見るかの視線を投げかけてくる。
恥ずかしいことこの上ない状況なのだが、人目云々以前に、パニックに陥った彼女はそれに気付かない。
そうして、こういう状況の場合、唯一最後まで冷静透徹に対応できる性格の持ち主は、先程家に置いて来た。
と、言うよりも、その鉄面皮気味の当人について、ヒューと二人で密談するという、当初の目的も忘れて、半泣き状態で後悔しかけるマルゥを、
「かかか彼女ができたって、そういう事か!」
ようやく言葉を取り戻したヒューが、がっしと力強く彼女の肩を掴み、息切らせながらがくがくと揺さぶる。
「俺より!俺より先に彼女!彼女!俺に対するそれは挑戦か?宣戦布告か?それとも最後通牒か?」
パニックに陥ったマルゥ以上に、暴走している。
「畜生!アイツただじゃ済まねぇ。問い詰めて問い詰めて問い詰め倒して口割らせてやる。帰るぞ、おいマルゥ!」
「ちょ、ちょ、ちょちょっと待ってよ!待ってってば」
あまり気が進まない、だのと、善良ぶって掲げた一分前の台詞は、全力で遠くへ放られたようだった。
鼻息も荒く、ぐるりと回れ右をして駆け出した背中が、あっという間に遠去かりかける。遠巻きに見物していた通行人が、慌ててその輪を開いた。その背中へ、ヤケクソ混じりに怒鳴りつける。
「別にまだ決まったコトじゃないでしょ!」
「あー?!なんだってー?」
50メートル先で、男が振り返る。
立ち止まっただけでも奇跡かもしれない。
そう思いながら、瞬間沸騰した頭が僅かでも冷えることを祈りながら、
「もしかしたら!って!だけで!そうと決まったワケじゃないでしょ!」
大声を張り上げたお陰で、喚いた後に、豪く咳き込んだ。
言葉そのものの内容より、その彼女の姿に我に返ったのか、急激に真顔に戻りながら、ヒューがすごすごと戻ってくる。
ひとまずの抗争を避けられたようで、胸をなでおろしたマルゥだ。
「だってよお前がよ彼女ってよ……」
口を尖らして立つ様は、とても彼と彼女の間に、10年以上の歳月が横たわっているとは思えない、マイ・ウェイっぷりである。幼稚とも言う。カークが見たら呆れただろう。
「可能性のひとつを、上げてみただけじゃないの」
眉間に皺を寄せながら、小声で叱り付ける口調になった。
「そおゆう、弾丸速度の早合点な辺りが、彼女できない原因だと思うんだけどなぁ」
「なんだ。なんか言ったか」
「別に」
やれやれと溜息をついた。
「で。」
「で、って。何よ」
気が進まないマルゥと、聞きだす気満々のヒューと。つい先ほどとは真逆になった。
「聞くんだろ」
「……聞くのもいいけど。聞く前に、本当にそうなのかどうか、確かめてからの方がいいんじゃあないかなぁ」
「そうか」
理ではマルゥが勝っている。聞いたヒューが、不承不承頷く。
結局、そういう事になった。
向かいは丁度空き家だった。つい半月前に、引っ越して行ったことを知っている。それを良い事に、断りもなくバルコニーに忍んで、マルゥはヒューと共に、我がマンションの一室を窺っていた。
なんだか、熟年夫婦の妻が浮気疑惑。その素行調査を依頼された探偵気分である。
気分だけ。
バルコニーから、反射避けに加工された曇りガラス形式の遠望鏡を覗いていると、やがて、外出する様子のカークが、電子錠にロックをしている姿が入った。
複雑なパスコードの必要な鍵を掛けるということは、例えばゴミ捨てのような、ちょっと近くに、ではないのだろう。
「出てきた……!」
「しッ」
同じく隣で双眼鏡を片手に、コーヒーを啜っていたヒューが、囁き声で牽制する。
向かいとは言え、マンション間はかなり離れたバルコニーからの監視であったから、通常ならばよほど大声で騒がない限り、ピリピリと神経を尖らす必要もない。
今日に限って細心の注意が必要なのは、その監視している相手が他ならぬカークであったから。
D-LLにしては珍しい特徴なのだが、聴音域が異様に広い。人間どころか他の機種のD-LLにさえ拾えない範囲を、聞き取ることが可能だ。
そうして何せ、本人自身がどちらかと言えば、監視する側に適している。どんなに厳重なキーロックが掛かっていようと、一度その回路に直結してしまえば、セキュリティは意味を成さない。
本人自身が、盗撮カメラのような存在になれるのだ。
彼のその能力(或いは特技?)のおかげで、ヒューが依頼を受ける仕事の階級も難易度も、そうして支払われる金額も格段にアップしている。
記憶を失っているせいで、彼が以前はどんな仕事についていたのか、どんなシステムに組み込まれたD-LLだったのか、マルゥは知らない。本人すら判らないのだから、知る術が無い。想像の域でしか話せない。
きっと、かなり重要な情報の管理をしていたのではないかと、思う。
その程度だ。
その、視られることにも視ることにもおそらく敏感な、カークの後をこっそり付けようと言うのだ。細心の上に細心の注意を払うに越したことはない。
頼みは、カークが人一倍警戒心の強いこと。逆手に、同居しているヒューとマルゥ二人に限定して、無防備な姿を晒すこと。
慣れ親しんだ気配だけは、気に障ることが無い。
空気のようなものだ。
こうして今監視している者が、彼の知る二人以外のものであったら、視線を感じた彼にたちまちに衛星通信より逆探知されただろう。
気付いた様子は、なかった。
「さっき帰ってきてから、丁度二時間か。メシ作って部屋片付けて、丁度いい時間だな」
指折り、逆算していたヒューが、低音でマルゥの耳元に囁く。
「でも、彼女とデートするにしちゃあ、いつもの格好と変わりないね」
「アイツが着飾るタマか?」
「……それもそうか」
纏った服は、見慣れたものだ。顎の直ぐ下から指の先まで、びっちりと覆った黒のアンダーウェア。素材は柔らかく薄手の生地だが、本人の意味成すところは鎧だ。形が、ではなく着ている本人の気分がである。それに、アイボリーの薄手のロングコート。所々に幾何学的に入る十字のラインのせいで、時に聖職者と間違えられることも、これまでに何度かあった。物静かな風貌と、どこか敬虔に見える雰囲気もあるのだろう。
身に着けているものはそれくらいで、機能美優先。装飾品ひとつ付けたのを見た事が無い。
無駄にジャラジャラ引き摺るほどに、アクセサリーをつけるのが趣味なマルゥとは豪く対照的である。今は、尾行目的のため、音の鳴る装飾具は外して、自宅ポストに投げ込んできたが。
隣に潜む男も、マルゥと大差ない。流石にジャラジャラの趣味はないが、太い縦縞のカッターシャツ。これでモノトーンなら、地味にもスレンダーにも見えようが、あいにく主の色彩感覚はかなり、派手だ。今日の白地に黒と黄緑の配色は、それでも地味な方である。黙って立っていればそれなりな二枚目に見えるものを、口を開くと最後、理想の人格像は崩壊する。
尾行するのに不適切といえば、これほど不適切もないのではないか。
後をつけていますどうぞ気が付いてください。
そう大声で喧伝しているようなものである。
「……行くぞ」
施錠し終わったカークは、既に歩き出している。
つつかれて頷く。マルゥも立ち上がった。
気分だけはしっかり探偵の気分だったので、付かず離れず一定の距離を保って、マルゥはヒューと共にカークの後をつけた。もともと尾行されている側に、されているという感覚が無い。道を無駄に回ることもなく、何度も振り返られることもなく、カークは真っ直ぐに目的地へ向かっているようだった。
「あ、」
その彼が、大通りの一軒の店舗前で足を止める。
幾つものバケツに色とりどり、丁寧に管理され美しく咲き誇った、何種類もの花。花。花。
「彼女にでもプレゼントするのかな……」
「くそ、あの野郎」
十分な日光を必要とする切花に限らず植物は、P-C-Cにおいてはかなりの高級品だ。部屋を飾る程度の目的ならば、大抵の人間はホログラムで満足する。一つは、植物に必要な日光を確保できないため。二つ目は、ホログラムの方が手入れもなければ枯れることも無いので、いつまでも楽しめるため。そうして三つ目は、何日かで駄目になってしまう鑑賞物に、そんなに金額を掛けられないため。
特別な誰かに送る、もしくは超高給取りの階層の人間が、自己満足のために購入することが多かった。
しかし、選ぶと思ったカークは、店舗前で霧吹きを片手に愛想を振りまいていた店員に、一言二言何か尋ねて、そのまま買わずに去っていく。
「む」
「買わないね……?」
「気に入った花がなかったか?」
共に首を傾げながら、物陰に潜んで後をつける。
通行人が、看板陰から顔を出す二人を、物珍しそうに眺めているということを、気付かないのは当人達ばかりである。
やがてカークは、再び店舗前で立ち止まった。
大きな一枚ガラスの張られたショウ・ウィンドウ。淡黄色のライトに照らされるのは、金箔銀箔を張られた、要するに宝石店だった。
「今度こそ彼女へのプレゼント、かも」
「むぅ」
ガラスの前で足を止めた彼は、しかし店内に入る様子は見せずに、また歩き出す。
丁度何か目に留まったので確認しただけ、そんなさり気ない動作だった。
彼が立ち去ると直ぐに、ヒューが物凄い勢いでウィンドウの前に立つ。並んだマルゥも中を覗くと、瀟洒な造りで、決して派手ではないものの、小洒落た意匠が多い。
眺めていたヒューが、げぇ、とおかしな具合に喉を鳴らす。
「0が多いぞ」
「そうかな。こんなモンじゃない……?」
実際それらは、細工の割には決して高くはない。
マルゥでさえ、月々貰うクレジットの無駄遣いを、三ヶ月ほど我慢すれば優に買える値段だった。
「あ。これ、なんか好きかも」
覗いていたマルゥの視線が一点に絞られる。
真珠色のベルベットの上にそっと置かれた、仄か、桜のピンクの混じった白銀。細い三連のリング。
「女の子は、好きかもね、こういうの」
アタシだったら。
思わずうっとり溜息をつきながら、見入るマルゥである。
「アタシ、こんなの好きな男の人から貰ったら、メロメロだなぁ」
「安心しろ。当分ない」
「ヒューから貰ったってそんな風にはなんないわよ」
共感はあっても情感はない。同士であっても彼氏ではない。友愛はあっても恋愛ではない。
自意識過剰な、長身の男の脛を軽く蹴りながら、不意に当初の目的を思い出して、慌てて辺りを見回すマルゥだ。
「カークは?」
「しまった」
同じく0の数をいちいち数えては、舌を突き出していたヒューもまた、我に返ってきょろきょろと見回した。
「いた」
見つけたのは、男の方が先だった。
今しも消える、街角で風に煽られたコート。
下層へ向かうロング・エレベーターに乗り込みかけたカークの姿だ。
ちぃ。
舌打ちして、全力で走り出したヒューだ。階層を変えられては困る。エレベーターの行き先を確認しなければ、見失うこと必至だった。
男の疾走に少し遅れて走りながら、内心マルゥは首を傾げる。
……アタシ以上に必死なのはどうしてなのかな。
自分を制して、D-LLであるカークに相方ができるという状況。
が、単に気に入らないというだけで、ここまでむきになるものかどうか。
しばらく呼吸困難に陥るほど、ヒューが全力疾走したお陰で、カークの向かった先を見失わずに済んだ。
そこは中層区よりやや下、40階。マルゥたちの住む高級区画に比べると、直射日光が当たらないなど、かなりな見劣りがするものの、それでも比較的安全な区画である。
会社に勤める月給取りの殆どが、上を目指して凡そこの区画に落ち着く。
ごちゃごちゃとした印象は拭えないが、ある種落ち着いて暮らしやすそうな、そんな区画である。
中央管理局の管理もほぼ、行き届いているおかげで、空調設備には事欠かない。
「アイツの女は中層区住まいか」
「……まだ彼女と決まったワケじゃあ……」
ぶつぶつと呟きながら、相変わらず仲良く後を追う二人である。
そうしてこちらも相変わらず、尾行されていることに気付いていないカークは、やはり背後を窺うこともなく、真っ直ぐにどこか目的の場所へと向かっている。
「……あーッ」
中層区をしばらく忍び歩いていたマルゥが、ついつい堪え切れない小さな声を上げた。
小さめの十字路を横切りかけたカークの細身へ、女の姿が近づいたからだ。
声は、偶然にも聞きとがめられなかったらしい。よかった。ほっと胸を撫で下ろして、それから二度と声を漏らさないように口を押さえながら、無意識に焦点を女の首筋に当てる。
製造番号の記されたバーコードは、そこには見当たらなかった。
「D-LLじゃ、ない」
押さえた口からもごもごと呟く。D-LLではない。と言うことは、人間である。
尾行に気付かれないように、かなりの距離を取っているせいで、カークと女の間に、どんな会話が交わされているかまでは、聴音域が人間並みなマルゥには判らない。それは隣の人間の主も同じなわけで、
「ヒュー」
何とはなしに囁いて、背の高い彼を見上げて思わず息を呑む。
あまり見たことの無い、豪く複雑な顔をしていた。
「ヒュー?」
訝しんで袖を引くと、
「……ああ。……ぅん、なんだ?」
それでようやくヒューは、呼びかけに気付いて彼女を見下ろす。
「……だいじょぶ?」
「うん……?なにが」
少し、青白い顔をしていた。
「ううん、なんでもない」
気にはなったが、それ以上深く詮索するのはやめた。
けれどマルゥの予想を反して、女はカークとしばらく話すと、やがて丁寧に腰を折って彼と異なる方向に歩き出す。どう見ても、親しい間柄の雰囲気はない。
「ありゃ」
更に彼女は、女にごきげんようと同じく丁重に礼を返すカークの姿も確認した。どうやら、通りすがりの女が、彼に道を尋ねただけのようだ。
「なんだ。全然違った」
素行調査と言うものも、なかなか根気が要るのね。
そろそろ地道に行動を覗く行為に、飽きて来た彼女は、内心小さく欠伸をつくと共に、そうした稼業で食べている者達に、畏敬の念すら覚える。
……アタシには、無理ね。
隣の男もついでに窺う。
同じように短気と言おうか、堪え性のない、本来ならばマルゥよりも早くに、飽きて投げ出していても良いはずの主は、意外と未だ真剣な表情を保っていた。
「どうする」
「まぁ、ここまで来たんだし。どうせだから最後まで行ってみようよ」
「俺ァなんだか胃に穴が開きそうだ」
冗談を叩きながら、通りを進むカークの背中を、二人また追い出す。冗談でなければ済ませられない思いと言うのも、あるものだ。
最後に、カークは一軒の店の前で足を止めると、今度は躊躇いもせず、中に入っていった。
躊躇わないということは、慣れているということだ。慣れているということは、ここに何度か来たことがあるということだ。
後を追った二人はその店の前に立つ。
木彫り手作りの看板と、洒落た木戸の店。
中から、挽きたての豆の香ばしい香りがする。
カフェだった。
午後の表通りの明るさに反比例して、店内はうっそうと薄暗い。通りから覗き込んだだけでは、よく判らない。
この店で、誰かと待ち合わせでもしているのかもしれない。
入るかどうか躊躇ったマルゥは、結局最後の判断を主に押し付けた。そうしてマルゥ以上に最後の判断に困っていたヒューは、彼が出てくるのを待つように、街路樹の植え込み近くのベンチに座る。颯爽と入る勇気は無いらしい。
認めてしまうことは怖い。
けれど、一時間待っても二時間待っても待っても、カークが店から出てくる気配は庸として掴めず、逆に次々と、おそらくこの付近に住まう者達なのだろう、彼らが入店する後姿を見送ることになった。
洒落た店らしく、洒落た格好をした客が多い。女よりも男が多い。
中には、綺麗にラッピングされた一輪挿しの花を、手に下げて入る者もいる。
そうして一様に店を出る姿は、どこか満足そうに弛緩しているのだった。
三時間ほど待ち、いい加減夕暮れの気配が濃くなると、流石に空調が利いているとは言え、足の先が冷えてきて、マルゥは辛抱堪らなくなった。
「いつまでもここにいても仕方ないし。行こう」
立ち上がって腕を引く。
引かれた主は僅かに逡巡する素振りを見せたものの、諦めと言うか悟りと言うか、最後の振っ切りができたようだった。大袈裟だと思う彼女におかまいなく、意を決した眼で木戸に手を掛ける。
きぃ。
木戸が軋み、次の瞬間マルゥはヒューと二人で、カフェの内側に立っていた。
最終更新:2011年07月28日 08:07