きぃい、と静かな軋みを立てて、観音開きの両扉が迎え入れるように開いた。途端に濃艶にまとわり付く、煙管の煙と人いきれ、女の香り。
  単純に不快だ。気付かれない程度にカークは眉根を寄せた。
  煙の渦巻く室内は、静かでいてたいそう煩い。中央に、一段高く花道に似た通路が設けられており、赤い敷物が敷かれている。その周りを、数百人の人間が口々に何かを呟きながら、手札を持っているのである。暗がりで目の利かないカークにも、その札に数字が書いてあるのだけは、なんとか読み取れた。
  ――これ、は……。
  顔を動かさずに眼球だけで辺りを睥睨するという、器用な技を駆使しながら見回してカークは独りごちた。どう見ても中央管理局の管理の及ばない、裏の賭博場であった。管理局に一枚噛んでいる人物が、上手く抜け道を作っていると思い至って、密かに呆れる。全くとんでもない話だ。後でマルゥに話してやろうと思った。
  きっと同じように憤慨してくれるだろう。
  毛足の長い赤い絨毯の上を、履き慣れない踵の高い靴で、よろめきそうになるのを堪えながら進む。煙管の煙がまるで蜘蛛の糸のように、身動くたびに絡み付いてくる。
  好奇の視線が自身に集るのを感じた。手にはカード、目の前にルーレットを置きながら、客は遠慮なく彼を視線で舐め回す。
  ……女か?…………男だろう。……いやあれは女だ…………上玉だな……買うか?…………まさか。
  聞こえよがしに囁く声が耳に入る。憮然となった。
  品定めされて平気なものも、そうあるまいが。
  でっぷり太った客が、おい。腕を大きく上げ、ゆっくりと足を運んでいたカークを呼び止める。よほどの女好きなのか、両脇には既に二人の美女。
  それでもまだ必要か。内心呆れた。
 「君、ここに来なさい」
  ――はい。
  答えたか答えないかぎりぎりの口の端を動かした返事で、静かに彼は頭を下げた。特に抵抗もしなかったのは、その客の三間向こう側に見慣れた頭が垣間見えたせいだった。
  見間違えようが無い。美々しく整えられた、贅沢といおうか高級感溢れた、馬鹿馬鹿しいほど金持ち趣味の風景に、そぐわない頭が一つだけ。日に焼けた人参色をしていたから。
  その、見慣れた橙色の頭の傍らに、不健康そうな肌の女が、鬱蒼と煙管を噴かし時折酒を煽っては、けたたましい笑い声を上げている。彼女が笑うと可笑しくも無いのに会場全体が賛同の笑いで満ち溢れる。これが噂の主催者に違いない。確信した。
  ――……どうする。
  呼んだ客に伏し目でそっと擦り寄り、手にした中瓶を傾けて酒を注いでやる。目の前の人間は、酔い喰らった胴間声。意味も既に不明瞭な卑猥話らしきものを、脇の美女に話しては一人で大笑いしている。どうやらカークの姿かたちについて話しているものらしいが、気が向こうに行っている彼には、気分を害するほどこちらに注意が無かった。
  曖昧に頬を歪めて同意しただけ。
  その微笑とは決して言えないような愛想の無い彼の愛想笑いに、一瞬目をやったのが彼の主だ。こちらの騒ぎが耳に入ったのかもしれない。見やったヒューを改めて眺めて、カークは小さく息を呑んだ。
  色が無い。
  最初に感じた言葉はそれだった。
  視線が確かに交わったのに、その瞳の中に何の感情も読み取ることが出来なかったのだった。喜怒哀楽のはっきりしているヒューの、あんな視線を見たことが無い。動揺した。まるで死んだ魚の目だった。
  カークが救出しに来たことが判ったから、自分と彼の関連性を周囲に悟られたくなかったから、だから主は無関心な様子を見せた。そう思おうとした。……違う。あれは、心の無い瞳だ。強制的に何かに押さえつけられている瞳だ。
  あんな目をヒューはしない。
  はっきりとそれは確信だった。
  間違いなくカークには言い切れる。正気の彼ならきっと状況も省みずに、カークのこの、望まない姿を見て、爆笑しているだろう。
  そういう男だ。
  ――催眠術……或いは薬……か?
  上目遣いで様子を探りながら、また一献。差し出された杯に酒を注いでやろうと腕を伸ばすと、不意にその手をぐい、と無遠慮に引かれた。予想外の力強さに思わずよろめく。
  抱きとめられた先は、太った男とは別の酔客の胸板だった。
 「初めて見る顔だな」
  酒臭い息を吐き出して男が耳元に囁く。囁きついでに掴んだ腕とは逆の手で、すう、と彼の頬を指の腹で撫ぜた。
 「――放してください」
  捕まれた手首の痛さに顔を歪めて、カークは男を押し返す。酔った勢いなのか、加減の無い、とんでもない力だ。ぎりぎりと音がしそうなほど掴まれた手首の先は、鬱血して、赤黒く変色しつつある。
 「いくらだ」
 「は、」
  聞かれた言葉が純粋に理解できなくて、カークは思わずまじまじと目の前の男を眺めた。
  今にも涎を垂らしそうな、にやけた下品な口元をマイナス点としても、美醜で言ったらそこそこの見られる顔には入るのだろう。……ただし全くカークの趣味ではなかった、が。寄りがちの二重とまぁまぁの鼻筋。自前の物ではない。直ぐに彼は気付いた。そうして最近の整形技術はかなり進んでいるのだな、などとどうでもいいことを思う。
 「いくらだ」
  再び男が尋ねた。酒の値段を聞いているのではない。ましてや、ここに来るまでの交通費を聞いているわけでは無いだろう。案外天然の入った、こういう会話には疎い自覚のあるカークでも、それぐらいは理解できる。
 「取引をしようと――言うのですか」
 「そうだ」
 「私を買うと、そういうことでしょうか」
 「そうだ」
  首を捻りながら尋ねると、得たり、とばかりに男がにやけた顔をいっそうに弛緩させた。
 「ではここは、D-LL裏取引の場所でもあるのですか」
  尋ねるカークは大真面目だ。そもそも色香の自覚が無い。自分の値段を聞いているのだろうと見当は付いても、それが夜伽一晩の値段のことだとまでは、思い至らない。普通に闇市場の取引だと信じ込んだ。聞いて男が存外戸惑った顔になった。勝手が違って酔いが少しばかり覚めたらしい。
 「いや……裏取引といえば裏取引には違いないだろうが……」
  そんな言葉を口の中で呟いている。それから急に顔を上げ、しっかりと視線でカークを眺め回した。再び酔いが白目にまで回っている。
 「まぁそんなことはどうでもいいだろう。ぅん?お前が値段を決められないのなら、こっちで決めてやろう。一晩100クレジット。どうだ」
  どうだ、と聞かれて、ようやくカークは己の現在置かれている状況を認識する。男は、春を買おうと持ちかけているのだった。夜にだけ咲く花。
  愛想笑いも鉄面皮も、今は関係ない。嫌なものは嫌だ。
  怪訝な顔から、はっきりと嫌悪感を露わにした。
 「……なんだその顔は」
 「申し訳ありませんが無理です」
  酒臭い息から逃れたくて、顔を背けて、けれどきっぱりとカークは告げた。自身では気付かないほど、冷たい瞳をしていた。見識のある人間ならそれで退いただろう。しかしそれは、酒精に脳髄をやられていないときの話だ。カークの返事を聞いて、客はたちまち不機嫌になり……、不機嫌を瞬時に通り越して、怒りの形相になる。
 「あ――つッ」
  握り締められたままの手首が軋んだ。痛い。思わず声が漏れる。
 「それが……それが人間様に仕えるD-LLの返事か?」
 「やめて――放してください」
  みっともないと思いながら、騒ぎを起こしてはならないと思いながら、痛さには勝てない。じたばたと必死に身もがいた。もがけばもがくほど、万力のように男の指は手首に食い込んで、終に怖くなる。男の力とは、こんなにも強い物であるのか。こんな風に、力尽くで抑えられた経験は無い。
  経験は、

 “わたくしの言うことがきけないのかね?”

  忌まわしい声が脳裏に響いた。手首の痛みよりも男の狂態よりも、その声にぎょっとなってカークは身を竦ませる。
  ――なん――だ……?
  忘れてしまいたい声だった。決して思い出したくは無い声だった。ついでに言うなら、
  二度と聞きたくは無い声だった。
  ――でも、誰の。
  ――誰の?
  ぱん、と頬を張られてはっと我に返る。いつの間にか自分はへたり込んでいた。無様に尻餅をついている。見上げた目の前に仁王立った男がいた。彼の抵抗に苛立った男が手を上げたのだと気付くのに、次いで数呼吸かかった。
  頬を押さえ、呆気に取られて言葉も失った彼へ、もう一度手を上げようと振りかざした男に唸りを上げて当たった、空き瓶。
 「おやめ」
  居丈高な声がして、男とカークは、その声の方を振り向いた。
  この夜会の女主人が、眠たげに目を細めてこちらを眺めている。側にはヒューが立っていた。相変わらず生気の抜けた顔をして、片手にひと瓶。今の瓶は女主人が命じて、それを受けた彼が投げつけた物なのだと、遅ればせながらカークは理解する。
  カークに絡んだ男は、視線を受けて正気に返ったのだろう、慌てて畏まり、一礼を返す。その男に一瞥をくれながら、くい、と顎を浮かして女主人はカークを招いた。
  蛇のような瞳だった。
  獲物を狩る肉食動物の眼だ。弱肉強食の強者の眼だ。人の上に胡坐を掻いて、それをなんとも思わぬ驕慢な上層階級特有の眼だ。
  そんな眼をカークは幾つも見たことがあった。
  乱れた裾を形ばかり整えながら、カークは素直に立ち上がり、女主人の許へと向かう。しどけなく寝崩した女の身体から、くどいほどに糜爛。気付いてカークはげんなりとした。
  この乱痴気騒ぎは彼の許容範囲を、とうに超えている。
 「おまえ。そんな格好をしているけれど、女では、ないね」
  女の前に畏まり、低く頭を下げたカークの耳に直球で言葉が投げつけられて、頭を下げたまま彼は思わず硬直する。正体が、
  ――ばれた――?
 「でも……男でも……ないね?おかしな機械だ」
  恐る恐る上げた視線が一点でふと止まる。じっと見つめる女の両黒眼が、赤く変色していることにカークは気付いた。薄暗い部屋の中で、それは不自然に赤く輝いていたから。
  ヒューと同じ、義眼である。
  内心胸を撫で下ろしながら、カークはもう一度上目遣いで女を眺めた。間違いない。赤外線・アイだ。服の下までも見通せる造りになっている。
 「おまえ。名前は」
  煙を盛大に口から吐き出しながら、片手には煙管。女が尋ねる。カークは俯きがちで、低く自分の名を告げた。
  ふうん。カーク。カークねぇ。
  思い当たる節でもあるのか。冷静を保ったままに、けれどその実、冷や汗を密かに背中に何筋か垂らしながら、正直カークはさっさとこの場から逃げたくなった。どうして自分は、こんなに胃の痛くなるようなことをしているのだ。不可解である。
  目の前に魂を抜かれたような顔をした主さえいなければ、きっと喜んでそうしたろう。
 「おまえ。何か特妓は……ないの?」
  品定めする視線が何かを欲している。その視線の意味成すところをカークは気付いていた。自分自身に向けられる欲には疎いものの、人の抱く欲には聡い。
  女の抱えているのは欲求不満。
 「夜の――、」
  であったから、大きく出てみた。
 「夜の帳の寝所にて――試されてみますか?」
  白々と嘘八百。涼しい顔をして言いのける。口にしながら、マルゥと共に潜伏しなくて良かった、とも思った。彼の自信満々なはったりを聞いたら、ポーカーフェイスの出来ない少女は、眼を丸くして驚いただろう。
  それとも。顔を真っ赤にし憤然と立ち去るか、笑い転げるか。
  自宅の慣れ親しんだリビングが、遥か遠いもののように感じてカークは心底懐かしくなった。
  帰りたいなぁ……。
  しみじみと思う。
  目の前の女は、彼の言葉を聞くなり、急激にらんらんと眼を光らせ始め、
 「ついておいで」
  腐るほどの艶やかな笑顔で、そう言い放ち立ち上がる。慇懃に頭を下げて、彼は内心ほくそ笑んだ。


  そうして妻はまた言います。「アンタ、アタシはアレがもっとほしい」。


  どうせ噛ませるなら、もう少し良い香りの付いた布にしてほしいと思う。金を持っているのならば、そういう細やかなところに気を置いてほしい。それかせめて……せめて洗い晒した布。饐えた臭いが、呼吸するたびに胸一杯に広がるのは、かなり遠慮したい。胸糞が悪い。
  そして相変わらず寒い。
  ヒューである。
  猿轡を噛まされて転がっている。
  悲しいほどに状況が好転していない。どころか悪い方向に転がり落ちている。
  自覚はあった。
  雇い人の部下であると思われる、スーツ姿の無口な男が、毎朝毎夕、彼の転がされているこの特等部屋を訪れて、彼自身には意味不明な液体注射を数本刺して去ってゆく。どう好意的に眺めても、奇天烈な色をした液体で、正気のものとは思えなかった。おかげで、昼間と夜の記憶が曖昧である。
  正気に戻る度に何故か転がされている状況は、これまた相変わらず変わらない、のだが。
  意識の無い間に何をされているのか、気付くと手足に殴られたり斬り付けられたような跡が残っている。
  不気味だ。
  一体ここに押し込められてから何日経ったのか、彼には定かでは無い。とりあえず意識が戻るたびに付け始めた床の傷は、数十を超えた。日数が経ったのか、それだけの本数の、何か怪しげな薬を打たれているのか。どっちにしろ彼独自では抵抗できない状況にある。
  ああ……。また飛んだ。
  仰向けに転がってヒューは天井を眺めている。
  肋骨付近を強く殴られたのか、踏まれでもしたか。うつぶせると涙が出るほど痛かった。ので、仕方なくこの体勢である。
  天井付近を飛ぶ蝶が、本物の生きているそれではなく、自身の視界の幻視であることに気付いたのは、つい先程だった。
  鼻先に止まったはずなのに、くすぐったくもむず痒くもなかったから。
  透き通るほどに透明な小さな生き物が、大量に輪舞している。何かの模様のようにも思えて、暇であったのでじっと見ていたヒューは、うっかり何に乗った訳でも無いのに、酔った。
  胃がむかむかする。猿轡が邪魔で、吐くわけにもいかない。
  今吐いたら窒息死できるな、等とどうとでも良いことを思った。
  それから、
  首に付けたデスティニーが、未だに爆破されていないことをふと思う。女主人の護衛と言う点では完全に失敗しているような気がするのに、始末されていないことが妙に不思議だった。
  ……寒ィ……なぁ……。
  目の前に鏡があったなら、噛み締めた唇が青白く変化しているのが見えただろう。
  心底冷え切った身体のはずなのに、可笑しいくらいにかたかたと、小刻みな震えが止まらない。恐れか怯えで震えているように錯覚して、なんだか癪に障った。
  癪に障るついでに、どこにそんな意欲が残っていたのか、怒りと言おうか逃げ延びようとする気力、が唐突にむくむくと頭をもたげて、ヒューは轡を噛み締めた。
  覚悟を決める。
  そうして突如、滅茶苦茶に床の上で暴れ始めた。もちろん、手足を縛られた上での行動であるから、必然床の上を、芋虫よろしく転がることになる。
  途端に肋骨に痛みが走るが、構っている心理的余裕は全くなかった。
  ぐぅ。痛みに喉が不快な音を立てた。涙が滲む。それでも床を出来る限りの強さで蹴りつけ、転がり、壁にぶつかる。
 「……うるせぇよ!」
  部屋唯一の出入り口の向こうから、くぐもった怒声と共に扉を蹴りつける音がした。無論、見張りがいるのを承知でヒューは暴れているのである。怒声をものともせず、壁に頭をぶつけた。
  再び扉を蹴り上げる音に、こちらからもと扉へ向かって足を振り上げ、打ち下ろす。がつんと鈍い音が鳴り響いて、ベニヤの木っ端屑が宙に散った。
  その破壊音に、短すぎる見張りの男の堪忍袋の緒が切れたのか、はたまた今までずっと静かだった人質が暴れ始めたのが気になったのか、乱暴に扉が開け放たれた。
  壁に頭を打ちつけた時、丁度上手い具合に当たり所が悪かったらしく、額から血が滴っていた。ぱた。ぱた。赤い点々が床に模様を作る。それを眼にして流石に見張りも仰天したようだった。
 「おい、なんだ。……どうした」
  レーザー・ガンを構えながら、二人。見張りの男が近くに寄ってくる。
  その男たちに、なるべく訴えるような瞳になっていればいいがと願いつつ、ヒューは轡の下から奇声を発した。
 「なんだ?」
 「……何か言ってやがる」
 「息が出来ないのかもしれねぇ。くたばられると厄介だ」
  言葉と共に乱暴に轡を引きむしられ、突然流れ込んだ大量の空気に、予測できない肺が驚いて痙攣する。咳き込みながら、ヒューは喚いた。
 「……便所!!」
 「はぁッ?」
  あまりに意外な言葉だったのだろう。男の目が点になる。
 「ヤバい。……腹がマジヤバい」
 「ヤバい……てぇのは……痛ぇのか?」
  聞いた男の顔が僅かに引き攣った。
 「ああ、本気でヤバい。これはもう我慢できねぇ。限界だ。漏れそうだ」
  そうして前のめりに蹲ってみせる。傷んだ肋骨が再び軋んで、目尻に涙が滲んだ。事情を知らない男たちには、腹を下した痛みに耐える表情に見えたようだった。
 「ち、ちょっと待て。それはまずい。ここでやられるのはまずい」
 「うう……もうダメだ。出る……!」
 「ま、ま、ま、待て待て待て!堪えろ!今便所に連れて行ってやるから待て!」
 「漏らしやがったら殺すぞ……!」
  脅しか引きか、判らない言葉を口々に発しながら、慌てて男が足枷を解いた。レーザー・ガンをこちらに向けるもう一人の男も、かなり動揺している。盛大に酷いことになった現場に、遭遇したくは無いのだろう。照準が、ずれていた。
 「……ほら!早く立て!」
  無理矢理立たされ、けれど口調と裏腹に、男達の腰ははっきりと退けていた。
  瞬間、ヒューの瞳が剣呑に光る。
 「……えぁ?」
  レーザー・ガンを構えたほうの男が、ひと瞬きの後、壁に叩きつけられていた。
  めり込んだようにも見える。
  きつく縛り上げたビニール紐を解くために屈んだ男は、咄嗟の判断が働かなかったようだ。視線だけ上げてヒューを見、吹っ飛んだ男を見、そうしてもう一度ヒューを見て、
 「え?」
  理解不能の声を出した。
  出した直後に、彼もまた、同じく宙を吹っ飛んでいる。ヒューが、人外とも思えるほどの力で回し蹴ったのだった。壁にめり込んだ時二人目は既に白目をむき、泡を吹いていた。
  床に取り落とされたレーザー・ガンを見下ろす。
  腕は背中で固く結びこまれているため、自分では外すにはかなり時間がかかりそうだった。解いて銃を拾っている暇はなさそうだ。
  銃を拾うのは諦めた。
  開け放たれたままの扉に近づき、様子を伺う間もなく飛び出す。迷いようはなかった。回廊は目の前に真っ直ぐに伸びていたから。
  ガラス張りの空中回廊が隣のビルに繋がっている。そこで初めてヒューは、自分が閉じ込められていた部屋が豪く高い場所であったことに気付いた。
 「籠の鳥か俺は」
  呆れる。柄ではないと思う。
  愚図愚図していてはまたあの部屋に逆戻りだ。一度目で失敗したら、きっと二度とは逃げられない。ガラス張りの通路の、回りの景色に見蕩れる時間的余裕は無い。全力で駆けて、目の前のダイヤル式開錠ボタンに体当たりした。
  鋼鉄製の、それ。
 「……畜生!」
  喉で唸った直ぐ直後に、前触れもなく扉が開く。
  淀みきった空気がごうと彼に襲い掛かり、その中に女の怒号がした。
 「おまえ……!」
  お気に入りの玩具を取り上げられた子供のような声だった。
  一瞬の立ち眩みの後に、目の前の風景が視界に映される。細く長い針を突きつけられた中年の女が、怒りの形相も露わに、全身を震わせている。この女に限ってはきっと、恐怖による震えでは無いだろう。
  針を突きつけていたのが誰なのか、ヒューには一瞬判らなかった。
  無機質な瞳をしていたから。
  まるで感情の窺えない、暗く深遠な、それでいて何も映しはしない……そんな瞳をしていたから。
  針を突きつけていたのは黒の髪をきっちりと揃えた、細身のD-LLだった。
  そのD-LLが質に取っていた女を突き飛ばすのが見えた。入れ替わりに腕を引かれて、ヒューは呆けたままに受け止められる。
  やさしい匂いがした。
  小さな頃からよく知っている、とてもやさしい匂いだった。
  ……ずっと……知っている…………知っていた……?
  先の勢いはどこへやら、受け止められた薄く頼りない胸元に何故か酷く安心して、
  急激にヒューはくず折れた。
  薬物中毒による体力の限界は、とっくに超えていたのだ。

  ……カーク。

  目の前のD-LLは、空中回廊への唯一の鋼鉄ドアを閉め、ロック番号を何やらしばらくいじっていた。おそらくパスコードでも変えたか、緊急停止でも仕掛けて、ちょっとやそっとでは開かないように細工したのだと思う。
  思う、と言うのは既に半分意識が朦朧としていたヒューには、きちんとした判断が出来なかったからだ。目の前が霞んでいるのは安堵のせいか、それとも。
 「――ヒュー?」
  ずるずると壁沿いに崩れて、床に頬を付けた姿に、驚いたカークの声がヒューの耳に響く。
  見下ろした黒いガラス玉は、もういつものそれだった。
  素朴な眼。
 「手間取りまして、」
  彼の頭を一瞬だけ抱きしめる仕草をしてカークは耳元に小さく囁いた。
  その声を最後に、ヒューの意識はぶっつりと途切れた。
  ごめんなさい。
  そんなことを言っていたようにも思う。


 「おまえ…!」
  悪鬼と言うならそれはまさしく悪鬼だ。凄むような気違い染みた顔をして、女が扉の小窓からカークを睨みつけている。睨みつけている、では生易しい表現かもしれない。
  喰いつきそうな眼だった。
 「アタシに反抗するって言うの!」
 「――残念ながら、その通りです」
  燃える視線を受けても尚、飄々とした風情のカークは、
 「……D-LLの癖に……!」
  激昂に僅か、困ったように首を傾げる。
 「人間の御主人様に逆らっていいと思っているの!」
 「――主人、」
  聞いてカークは目を伏せる。地団太を踏んで喚く姿は、分別のある大人とは決して思えない。金の力を己の力と見誤った、悲しい大きな子供だった。
 「おまえも!その横の男もアタシの物だよ!アタシはおまえ等を買ったんだ。……飼ってやってるんだよ!逆らうことは許さない。おまえも、横の男も、アタシが飽きるまでアタシの物なんだよ!」
 「――飽きた後には記憶を弄って下層地区へと投げ捨てますか」
  眼を伏せたまま、カークは言った。そこにはマルゥには決して言えなかった事実が一つ。よくよく調べなければ判らなかった。カークでなければ気付かなかっただろう。
  彼女に囚われた者たちは皆、記憶を操作され、市民IDを剥奪されて、自分が何であるかも思い出せずに下層地区で廃人のようになっていた。IDの無い者に、まともな暮らしも仕事も無い。せいぜいが闇市場で売られるほうの立場になるのが良いところ。
 「うるさいね!アタシに逆らおうって言うのかい!」
 「――中央管理局に一枚噛んでいた貴女の会社は、今は遠い昔の話です。いまや権威も失墜し、おべんちゃらを言うためだけに集った人間とそうでないものの区別も付きはしない。お金で買えるものは勿論たくさんありますが、お金で買えないものも、この中央完全管理社会都市には……少なからずあるのですよ」
 「このままぬらくらと逃げられると思っているのかい!憶えておいで!おまえ達をアタシは絶対に許しはしないから……!」
 「残念ですが、それも叶わぬ話のようです。ヒューにいたっては、憶えていられるかは定かではありません。確かに――貴女は、警察機構に知己がいらっしゃるのかもしれない。今宵の夜会の客の中にも、そういった関係の方はおられるのでしょう。けれど、だからと言って貴女が行ってきた請負人たちの放逐をこのままにしておく訳にはいきません。警察機構が無理でしたので、中央管理局――L-A(ラ)本体に――データーを転送しておきました。例え製作者(メイカー)であろうとも、管理者には逆らえない」
  静かに説いたカークの言葉を、聞いた途端に彼女は青褪めた。
 「……か……管理者だって……なぜ……なぜおまえがそんなことを知っている」
 「――安心しました。管理者の名前すら判らないようでは、どう話をつけようか困っていたところです。間もなくここに、贈賄と収賄罪、監禁罪及び脅迫罪、IDの無許可剥奪罪、偽造罪――もろもろ、貴女の今までの行為を問い質しに管理局からの派遣が来るでしょう。ちなみに、こちらの扉のパスコードは、変換した後にウィルスを投入して、バグ化させておきましたので――早々簡単には、開きませんよ」
  淡々と告げたカークは、では、と最後に締め括って、倒れ込んだヒューに視線を流し、次いで肩に掛けていた長いコードを、窓から下に放り投げた。
  顔を真っ赤にした女は、金切り声を上げた。腹が立って腹が立ってしょうがない。そういう顔をしている。
 「おまえ……!人間様に逆らいやがって……!D-LLの癖に!……D-LLの癖に!!」
  D-LLの癖に。言葉にようやくカークは、伏せた視線を真っ直ぐに上げた。凍りつくような視線。……向かい合った女が口を噤むほどの。
 「確かに私はD-LLですが」
  開いた唇から漏れる言葉は氷結。
 「私の主は後にも先にもただ一人ですので――そうしてそれは貴女ではない」
  きっぱりと、言い切った。
  合図のように、コードを伝って素早くマルゥが室内に飛び込んでくる。
 「……マスタ!」
  意識の無いヒューを目にした少女は、そう小さく悲鳴上げて走り寄り、抱きかかえる。
 「急ぎましょう、マルゥ。もうすぐ厄介なお役人が到着するはずです」
 「マスタのこの状態とか。アンタのそのとんでもない格好とか。一杯言いたいことがあって、ありすぎて凄いことになってるけど、まぁ、……いいわ。この場は黙っておいてあげる。後で部屋に帰ったら覚悟なさいよね」
  上目遣いにカークを睨んで、マルゥは軽々とヒューを背負うと、コードを確かめるようにニ、三度小さく扱いて、そして宙へと一気に身を躍らせた。続こうと窓際に寄るカークの背中に、
 「ちょっと待って!」
  先程とは少し異なる、必死な女の声がした。
  居丈高な色が消えている。己の状況をようやく理解したようだった。
 「い、幾ら!幾ら払ったらここを開けてくれる?捕まるなんてアタシは嫌だよ!……お願いだ。幾らでも払う!黙秘料として更に払うから!言い値で払ってやるから!」
 「――お金ですか――、」
  振り向いたカークは困ったように首を傾げて、
 「――先程も言ったでしょう。お金では買えないものもある、と。申し訳ないですが――例え、1000000クレジット提示されても、そこを開ける気にはなりません」
  何故なら。
 「貴女は――――、私の主を傷つけた」
  開け放った窓から一陣、風が吹いた。風に煽られた白の小花がカークの髪から零れ落ちる。はらはら。まるで雪のようだった。
  ぞっとするほど美しい光景に、喚くことも思わず忘れて女が見蕩れ、はっと我に返った時には既に彼の姿はそこに無い。宙に揺れる花だけが、そこに存在していたことを示していた。

 「な……なんなんだい……あの……」
  あのD-LLは。
  知らず口から声が漏れていた。声を合図にしたように、どやどやと、最上階のその小部屋に連絡を受けた管理局員が数名、執行令状を携えて乱入してくる。小窓越しに彼女に令状を見せ、何か引導でも渡すがごとくに物々しく鹿爪らしい顔をしながら、告げる逮捕の言葉を、彼女自身はもう聞いていなかった。
  あんな眼をしたD-LLを彼女は見たことが無い。あんな雰囲気を纏ったD-LLを彼女は見たことが無い。あんな表情をするD-LLを彼女は見たことが無い。あんな、あんな、あんな。

  そうして妻はまた言います。「アンタ、アタシはアレがもっとほしい」。

  ……あの珍しいD-LLがほしい。
  虚空を見つめた女の口が声にならぬ声を呟いた。


  ぱたん。ぱたん。ぱたん。
  小さな音が耳障りでヒューは目を開いた。目が覚めるたびに違う部屋にいるというのは、想像するよりも案外スリリングである。眼球を動かすと、猛烈に吐き気を伴う痛みが襲い掛かり、呻いて再び目を閉じる。閉じた視界がぐらぐら揺れて、真っ暗なはずの瞼の裏にも小さな蝶々が見えた。
  網膜までは完全に人工のものであるはずなのに、幻覚は見るんだな。
  妙なところで感心したヒューだ。
 「目が――」
  覚めましたか。
  密やかに抑えた声がした。
 「今はきっと辛い状態だと思いますが――数時間過ぎれば回復に向かうそうです」
  目を閉じたままの耳に響く声に、だるくて動かない左腕の違和感にヒューは気付く。
  何かが刺さっている。
  おそらく点滴の針だ。
 「……なぁ」
  無理矢理押し開いた喉から、しわがれた声が出た。
 「はい」
  聞いているだけで落ち着きを齎す声が答える。
 「……ここは、」
 「36区層の病院です」
  道理で空気が薬臭いはずだ。ヒューは一人納得する。とすると、あのやかましいほどの足音は、廊下を歩く病院スタッフのスリッパ音なのだろう。
 「……なぁ」
 「はい」
 「……マルゥは……?」
  こういう場合、マスター、マスター、とやかましいほどに騒ぎ立てるはずの少女の声がしない。いたらいたで、現在のこの草臥れきった身体ではその有り余る元気さを受け止めきれ無いくせに、いなければいないで何故か寂しいような、放って置かれたような気分になってヒューは少しだけ拗ねた。
 「彼女には、別口の仕事を頼んであります。もうすぐ帰ってくるはずですが――」
 「そうか……」
  安心してもいいのか。気付いてほっと息を吐き出したヒューの閉じたままの瞼に、そっと置かれた手のひらがある。
 「少し眠ったほうが良いです」
  次に目覚めたときには、きっと今よりは良い状態になっているはずだから。
  無駄に高体温のヒューと比べて、それはいつものようにひんやりと冷たい。
  疼痛を訴える頭にそれは心地良かった。
  遠い昔、熱を出して寝込んだ時に、同じように当てられた手のひらの記憶を朧げに思い出す。
 「カ、……ァク……?」
  一年そこらの記憶では無い。忘れてしまった大切なこと。忘れさせられた大切なこと。寝てしまったら、全て消えてしまう気がした。次に目覚めたときにはきっと忘れている。ガンガン鳴り響く頭の中で、それは唯一確信だ。急速に落ち込み始める意識を無理矢理喰い止めて、手を当てた本人の名前をヒューは呼んだ。
 「はい」
 「……逢ったこと……ある、よな?」
 「――え?」
 「昔……から……いたよ……な?」
  口がもつれる。上手く喋れない。言葉が見つからない。もどかしい思いに腹を立てながら、けれどヒューの我慢は限度を超えた。しがみついていたい意識が、勝手に握り締めた拳から零れてしまう。宙に溶ける。宙に舞う。小さな小さな、白い四枚羽根の虫と共に、
  ひらひら、
  ひらひら。
 「む、かし……」
  呟いた唇は中途で動きを止めた。


Act:13ニススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:10