<<優しいキスをして>>

  ――おしえてください。

  ヒト とは、いったいどこからどこまでがヒトなのですか。
  ヒト とは、いったい何なのですか。
  私はヒトではないのです。

  例えば、
  足の悪いものがそれを紛い物の足に換えたとして、けれどもその本性はヒトなのでしょう。
  例えば、
  腕の悪いものがそれを紛い物の腕に換えたとして、けれどもその本性はやはりヒトなのでしょう。
  では。
  四肢と、はらわたと。それら全ての悪いものがいたとして、
  その全てを紛い物に換えても、その本性は未だヒトなのでしょうか。

  私には判らない。
  全ての判断基準は、頭蓋に収まる脳にあるのでしょうか。

  ヒトの胎内を見たことがあります。
  皮と脂を一つずつ切り開けば、その外殻は単なる入れ物でした。内膜に包まれたはらわたが隙間なくみっちりとひしめき合っており、
  けれど、詰まっている。ただそれだけのことなのです。
  以上でも以下でもない。
  はらわたにはきっと、ヒトのヒトたる本性は無いに違いない。
  では。
  一体 こころ とは、どこを探せば見つかるのでしょう。
  やはり判断基準たる頭蓋の中にあるのでしょうか。

  胸が痛むという言葉があります。
  その言葉のとおり、息苦しく切なく締め付けるのは丁度肺の腑の真横辺りなのに、切り開いてもただただ機械仕掛けのように蠢く、赤黒色の脈打つものがあるのみです。
  あれが心だとは、私には到底思えない。
  それでは、いったい、こころはどこにありますか。

  まがいものの眼と、耳と、鼻と、口と、
  まがいものの容れ物に嵌め込んだ私は、やはりヒトではないのでしょう。
  では。
  この、割れそうな悲しみはどこからやってくるのでしょう。
  愛しいと感じるこの感覚すらも、紛い物なのだとしたら、私は一体何を感じているのでしょうか。

  教えてください。

  ヒト とは、いったいどこからどこまでがヒトなのですか。
  私はヒトではないのです。
  私はヒトになれますか。
  成れるのならば――

  成れるのならば、私は。


  意外だな。
  そう思ったのが最初の印象だった。
  マルゥである。
  目も眩むような真夏の陽光の窓の外とはうって変わって、程よく空調が効いた心地良い室内。
  白が基調の、素朴と云うにはあまりに質素なその部屋。
  アルコール消毒の臭いが香る、病室だった。
 「温室ビニールハウスの……カスミ草ってカンジ?」
  依頼主と顔を合わせた瞬間の、次の印象が、それだ。
  内緒話は出来ない性質だ。思ったことが直ぐ口に出る。呟いた言葉を耳聡く隣の男が拾った。
 「カスミ草――ですか」
  訂正。男と云うには語弊がある。
  見た目男に見えないことはない、その実男でも女でもない生きもの。
  D-LLと呼ばれる、人間によく似た、人間ではない生体機械のそのもの。
  そいつにカークと名付けたのは、同じくD-LLであるマルゥの主人だ。
  路地裏の廃棄場で拾い上げてより一年と少し。今では、すっかりトライアングル的な生活に、馴染んだ感のあるマルゥである。
  そう思いながら、無意識に栗色の癖っ毛を掻き上げた。
  最近伸びてきて、少し邪魔臭い。
  ガラスの向こう、滅菌室のベッドの上には痩せた少女がベッドの上に起き上がり、不思議そうな顔でこちらを眺めていた。愛想笑いでひらひらとマルゥが手を振ると、さらに首を傾げる。
 「アタシ、こういうのに弱いのよね」
  風が吹けば飛ぶような、脆く果敢無げな姿態。それにマルゥは憧れてやまない。
 「入院してみたいクチですか」
 「違うわよ。バカね」
  元気が取り得の、マルゥの悩みを知らないカークが間の抜けた問いを挟んで遣すと、やれやれと肩を落としながら彼女は溜息をついた。
 「ああいう女のコが理想ってコト」
 「――はぁ、」
 「だから。ね。こう、今みたいに力持ちとかじゃなくってさ。男が思わず守ってやりたいような、いざと云うときには、それこそお姫様抱っこで攫って逃げてくれるような……、男が一歩前に出てさ、俺の後ろにいれば安心だ的な台詞のひとつでも言ってくれるような。アタシだってそんな女のコになりたい夢があるのよ悪い?」
  今ひとつ飲み込めない顔で、曖昧に頷いたカークに、腕組んでマルゥは説明をしてやった。
  そもそもヒューに拾われたのは自分の方が先だ。こう言うところで先輩風でも吹かしておかないと、何せ日常の大抵は万能にこなしてしまうカークに、うっかり頭が上がらなくなる。
 「悪くはない――ですが、」
 「ですが……、……なによ?」
 「私は元気な女の子の方が好きですよ」
  予想もしない言葉に、ついつい喧嘩腰に構えたマルゥは呆気に取られて、隣の「お綺麗な」顔を、口を開けて見た。彼の好みを聞くのはそう言えば初めての気がする。
 「――何です」
 「アンタに告白されても嬉しくないわ……」
  視線を感じて彼女を見下ろした、頭半分上の顔が困ったように微笑んだ。
 「そこまでの度胸はありません」
 「ちょっと。それどうゆうコト」
  その方向へ自分で振っておいて、結局自身で憮然とした。
  墓穴であった。

 「お前が行くといい」
  玄関戸を潜るなり開口一番、帰ってきたヒューがマルゥを指差してそう宣言した。
  今日に限って、買い物の時間に豪く時間のかかったカークが、急いで晩御飯の支度を始める。椅子に座って手伝うでもなく、ただその後姿を眺めながら急かしていたマルゥは、また脈絡もなく始まった主人の言葉に、あんぐりとした。
 「何が」
 「女のコの遊び相手」
 「……はぁ?」
  言い放ったきり、鼻歌を歌いながらシャワーを浴びに浴室へ向かってしまったヒューに、言葉を掛けそこね結局眉を顰めて……、意味が判らない。補助を頼むように視線を流すと、そこはそれ、心得顔のカークが視線を受けて応える。
 「――今日は確か仕事を請けに行った日――でしたね」
 「……つまり?」
 「つまり――、恐らくヒューの言いたいところは、請け負った仕事内容が未成人の女性であり――……その女性の護衛または送迎の役をするに、ヒューや私が行うよりも年の近いあなたが一番の適任であると――そういう事が言いたかったのだと思いますが」
 「当たってるかどうかは別として、よくそこまで深読みできるわね。感心してあげる」
 「脳内の予測応用構造が違いますから」
 「……ヒネくれまくった思考回路だって言うことだけはよーく判ったわ……」
  再びマルゥはテーブルに頬杖を突いて、支度を仕切りなおし始めるカークの背にそう愚痴を垂れながら、
 「女のコって言ったわよね」
  そこで初めて気付き、
 「そう聞きましたが」
 「……やだなぁ」
  言いながら彼女は小さく溜息をついた。
 「――同じ年頃の子は嫌いですか」
  初耳でした。意外そうな声を出したカークを眺めやって彼女は、
 「別に同じ年のコが嫌いってワケじゃあないわよ」
  訂正した。
 「――では」
 「マスタが請けてきた仕事ってコトはさ。Sクラスの仕事なんでしょうきっと。今更CとかDクラスの仕事をマスタ受けるとは思わないし。どんな難易度な仕事だろうとなんだろうと、結局最後はゴリ押しで解決できるアンタがいるし」
 「――おそらくは、Sクラスでしょうね」
 「Sって言うことはさ」
 「金額と難易度が比例している……と言いたいのでしょうか」
 「そう」
 「――ですから?」
 「だから。アタシと同じ年頃の女のコだろうと男のコだろうと、どっかのお金持ち様の御曹司か御令嬢でしょきっと」
 「――それだけの高額手当てを保障するのですから、きっとそうでしょうね」
  今更何を言うのだと、怪訝な顔でカークはマルゥを振り向く。振り向きながらけれど彼の身体は、シャワー室の戸口のところで、タオルが無いとわあわあ大騒ぎしている主人の元へ向かっていた。
 「……ほんっっとに所帯クサイわねぇえ」
  思わずしみじみと呟いてしまったマルゥだ。
 「お母さんって呼びたくなるわ」
 「――フィメールタイプのD-LLではありませんよ」
  私は。
  珍しく本意では無いような声を出したカークを尻目に、だからね。彼を無視してマルゥは先の言葉を反芻した。
 「お坊ちゃまだのお嬢さまだの。お金持ちの子供は好かないのよ」
 「何故でしょう」
 「……もう。マスタの台詞は意味深なまでに深読みできるくせに、アタシとの時はちっともそうしようとする意志が無いのが、めでたいくらいに顕著だわねぇ」
  愚痴を思わず垂れながら、
 「お金持ちの子供の方って一律にタチが悪いでしょう」
  テーブル上に並べられたスプーンを手の平で転がしながら、マルゥは今度は盛大に溜息をついた。
 「まぁ、金持ちの大人って言うのも大抵はタチが悪いけど。……ワガママが通ると思ってる分、子供の方が残酷だわ。ひどいことを平気でしちゃう割に、何か問題が起きたら、最終的に親の金の力で事が収まってしまうことを知ってるから」
 「なるほど」
 「いくら報酬がいいって言ったって、お嬢さまにおべんちゃら使って、ご機嫌取るの嫌ぁよ、アタシ」
 「直接抗議してみてはどうでしょう」
 「え?」
  いつの間に来ていたのか、音もなくぬっと背後に立ったヒューの姿にそこでようやくマルゥは気が付いて、わあ。思わず小さな悲鳴を上げた。
 「マスタ」
 「マスターと呼ぶなと何遍訂正したら、ウチのお嬢さまは判ってくれるのかな」
 「……ヒュー」
  そんな問題はどうでもいいのよ。そう口を開きかけ、カークの言ったように直に抗議しようとしたマルゥの先手を打って、
 「お嬢はお嬢だが。ワガママなお嬢かどうかは判らんぞ」
  ヒューは口を挟んだ。
 「え?」
  抗議するにできなくなった彼女である。
 「さっきのお前の話な」
 「……やだなぁ。全部聞こえてた?」
 「お前の声はよく通る」
  がしがしと濡れた髪を拭きながら、俯いたヒューはそう言って鼻で笑う。
 「ワガママが通る環境にいなかったようだからな」
 「どういうこと?」
 「さあ」
  自分で始めておいて、自分で話を落ち着かせないのはヒューの癖だ。
 「会ってみれば判るんじゃないか」
  基本行き当たりばったりなのだった。
 「もう」
  ふくれたマルゥに、触らぬ神に祟りなし。無言で晩御飯の支度に勤しむのはカークだ。楽しんでいるのは気配で判る。
 「会ってみても、いいけど」
  その背に彼女は、とばっちりの台布巾を投げつけた。
 「今日のメニューにミモザサラダが追加されるなら」
 「――サービスしましょう」
  穏やかな声でカークが応える。くすくすと肩が笑っていた。

  そうして、依頼を出した本人の前に、今彼女は立っている。
  身体のあちらこちらからチューブを生やし、真っ白な病室の真っ白な寝台の上に、同じく真っ白な夜着を着て横たわる少女に圧倒されて、マルゥは声も出なかった。
  白いシーツの上に乗った血の気のない顔が、あまりに透明で、
  ……死んでいるのかと、思った。
  弁えている。流石に口には出さない。
  だから代わりに、カスミ草だと例えた。
  隣に立つ彼はきっとその言葉の裏まで理解している事だろうけれど、マルゥの知ったことではなかったから、
 「……話し相手……ってコトよね」
  ガラス越し、向こうに見える清楚と云うか儚い風貌の持ち主を、ちらちらと見つめながら、躊躇いがちに彼女は聞いた。
 「ヒューはそう言ってましたね」
  よろしくな。押し付けがましくそうにっこり微笑んだ当の本人は、契約者、つまりは少女の両親との取引があるとかで、同行はしなかった。代わりに珍しくカークが付いてきている。
 「困ったなぁ。何を話せばいいんだろ」
  割と本気で弱ってマルゥが頭を抱えるところに、
  ――こんにちは。
  不思議そうにこちらを見つめていた温室のカスミ草が、そう唇を動かすのが見えた。
  自分への来客なのだと理解したのだろう。
  声は聞こえない。
  側に控えていたやはり白衣の看護士が、その声を合図に立ち上がり、少女に繋がった機械の数値を確認すると共に、数枚のガラス戸を潜り抜けて二人に向かってやってくる。
 「お見舞いの方ですか」
  二人を見て、看護士はそう判断したのだろう。手ぶらで病室を訪れたことを、こっそり後悔したマルゥである。
  ……花くらい持ってくれば良かったかな。
  勿論支払うのは隣に立つ彼ではあるのだが。
 「まぁー……多分そんなカンジ」
  果たしてヒューの請け負った仕事が、正式にどんな内容だったのかを知らされないどころか、依頼者の名前すら知らされていなかったマルゥは、だから曖昧に頷いて見せた。
 「間違ってはないと思う」
 「こちらへどうぞ」
  そうして直ぐに少女と対面できるかと思いきや、二人が通されたのは滅菌室だった。徹底的に頭から指の先まで消毒される。
  ご丁寧にも、その部屋までどこからどこまで真っ白である。
 「……滅菌って言うか殺菌の間違いじゃないの……」
  なかなか思い通りには行かない癖っ毛を、無造作にかき乱されて、げんなりとした顔で手櫛するマルゥだ。
  隣の彼は、相変わらずおとなしかった。
 「なんだか慣れている顔してるわね」
 「――慣れていますからね」
 「ん?」
  思わぬ返答にふと好奇心を抱いて、
 「カーク?」
  改めて問い質そうとしたところへ、先の看護士が音もなく現れて、
 「こちらへどうぞ」
  聞いた言葉を繰り返し、ようやく二人は依頼者へと対面が許されたのだった。


  サンド・バイクのエンジン音が途切れると、辺りはそら恐ろしいほどの静けさに包まれる。
  汗で額に張り付いた砂粒を、乱暴に擦りながらヒューは砂上へ降り立った。
  頬は心なしか強張っている。
  目の前はそれは拓けた土地なのだった。
  訂正する。荒地である。
  ただ、荒地のそこかしこに、木っ端くずと云うか、炭化した木切れが点在していた。模るのは囲むように四角。
  木柵の址なのだった。

  その柵より外に出てはいけない。

  遠い昔に耳にした言葉が不意に蘇る。
  両手に抱えていたのは木箱だ。古びた蝶番が、乱暴にこじ開けられている。
  彼が、
  ヒュー本人がこじ開けた痕である。
  側の燃え滓に手を伸ばすと、それは触るか触らないかの内に、脆く崩れていってしまうのだ。
  ――あの日。
  記憶の中の少年の。夢の中の少年の。――幼い頃のヒュー自身の、優しいすべてが炭と化した日。
  記憶のほころびは、何度も入念に繰り返した縫い跡のようだ。幾ら固くきつく縫い返してあっても、糸の末端が一度飛び出してしまえば、するすると解けてしまう。抜けてしまう。
 「ここで」
  俺ぁ生活していた訳だ。
  誰もいないのを知りながら独りごちた。誰もいなかったからかもしれない。
  同居しているD-LL二人には、依頼者の親に会って来るのだと嘘を吐いてここにやってきた。一人の方が都合が良い。聞いたマルゥはふぅん、生返事を一つ返して頷いただけ。疑う気の微塵もない声だった。けれど黙って頷いたカークには、きっと全て見通されていたろう。そうでなくとも彼が本気でヒューの行動を追跡しようと思ったのなら、完全高度管理社会都市――P-C-C――のシステムの仕組みを詳しく知らないヒューには、どうにも隠しようがない。
  システムそのもののような奴だから。
  それでも一人で訪れたかった。
  木箱を開いて中の黄ばんだ写真を眺める。
  まだ4つか、5つか幼いヒューと、父と。控えめに佇んでいるD-LLと。三人の写真。
  カーク。
  幼い頃家にいたのは毛足の長い犬ではない。暖炉の前に寝そべっていた訳でもない。今と変わらない僅か愁いた俯き加減のその顔。
  彼とマルゥの生活に、溶け込むように馴染んだのも当然だ。その存在をヒューの身体が知っていたからだ。
  俺好みの味だと、ヒューはカークの料理を褒めたことがある。
  当たり前だ。その味で育ってきたのだから。
  ……問題は。
  溜息を吐いてヒューはしゃがみ込んだ。
  どうして部落が滅ぼされたのか。
  檻に捉えられたカークの姿を思い出す。彼を捉えるために村が焼かれたのではないかと思う。詳しい理由は知らない。技術者だった父は、何か知っていたのかもしれないけれど。
  偽の過去を与えられてP-C-Cに住むことになった経緯も知らない。
  それとも――知らないほうがいいか。
  ……参ったな。
  がりがりと頭を掻いて、もう一度ヒューは溜息を吐いた。
  知ると言うことはきっと、今のぬるま湯のように居心地のよい生活を手放すということだ。灯りの点いた帰る家があり、出迎えてくれるもののいる生活を手放すということだ。例え血の繋がりは無くとも、どころかそれが巷間には生き物として扱われていなくとも、彼にとっては確かに、妹のような存在があり、相方がいる、安心しきれる生活を手放すということだ。
 「それでも」
  それでも俺は知りたいか。
  足元を見つめて自問自答してみる。答えは出ない。


 「夢は」
  あなたの夢は何です?
  聞かれて、即答できずに口ごもった。マルゥである。
  病室の丸椅子に腰掛けて、ぼんやりしていた矢先に急に水を向けられた。思っても見なかった。
  当初、ヒューの指示通りに、入院している少女の見舞いを兼ねた話し相手を務めようと、それなりに気負ってやってきたマルゥだったが、まるで駄目だった。
  叶わない。
  と言うよりも、太刀打ちできない。
  体のどこもかしこも悪いのだそうだ。
 「生きているのが不思議だそうですのよ」
  他人事のように少女は語った。悲壮感は無い。
 「いつ、この欠陥品が止まっても、おかしくないと言われ続けて十四年。十四年も持ちました」
  実感が無い、と云うよりはあまりにそれが彼女にとっては日常的過ぎて、感慨がもてないと言ったところだろう。生まれつきD-LLのマルゥが、D-LLになっている気分はどんなものかと聞かれるようなものだ。
  答えように困る。
  だから、気を利かせてそれ以上マルゥは突っ込むことをしなかった。
  どうも調子が狂う。
  自分より優位なもの、認めているもの、重ねてきた経験が上のものに対しては、マルゥは手加減をしない。と言うよりも甘えきっている。
  例えば日頃カークに、傍目から見ればかなりな傍若無人ぶりを見せることがあっても、それは彼が彼女に対して、決して腹を立てることが無いということを、知っているからだ。それはヒューも変わらない。
  二人の兄がいるようなものである。
  カークを兄と認めることは、彼女の表面の自尊心が許すことは無かったけれど。
  負けず嫌いであった。
  けれどこうして、幼い頃から病室での暮らしを余儀なくされているその少女は、どう見てもマルゥの手に余る。対応の仕方が判らない。
  壊れものを扱うように話しかけるのがせいぜいだ。
  その上、
 「……三日前に出ました、『Light』……読まれました?」
 「ええ――、最新刊が出たばかりでしたね」
 「ら…ライト?読む……って。雑誌?」
  マルゥには付いていけない会話だった。
  目を白黒させた彼女に気付いたカークが、注釈を入れる。
 「相対性光考古流動学の専門誌のことですよ」
 「はぁ?」
  余計に判らなかった。
 「マルゥさんは読まれませんの?」
 「ア……アタシ?あー、アタシ専門誌はちょっと……」
  せいぜいがところファッション雑誌である。
  純粋な視線と言うものが意外に圧力があるということを、向けられる立場になって始めて彼女は知った。
  何とかしなさいよ。
 「――168ページ辺りでしたか――リゼル博士の“P-C-Cにおける光学と時間暦”」
 「ええ、あの新説のことですわね」
  ちらりと隣に目をやると、
 「大変興味深いものでした」
  視線の意味を十分に理解しているカークが、穏やかに少女の矛先を逸らしたのだった。
  その後も、専門用語が飛び交う会話についていけなくなったので、仕方なく欠伸を噛み殺しながら、外を眺めていたマルゥである。
  そこに振られた話題だ。
 「夢……って。ねぇ」
  叶えたいことは山のようにある。胸が痛いほど。
  例えば、好きなものが食べたいだとか。
  例えば、憧れている相手から、好きだと伝えられることだとか。
  例えば、まるで人間のように成長して素敵な大人の女性になるだとか。
  先に少女を見たときに抱いた、なりたい女の子像だって、夢といえば夢である。
  口ごもったのは、その内のどれを挙げたらいいのか悩んだからだ。
 「そう聞かれるということは――あなたには夢がある――のですね」
 「……ええ。わたくしの、」
  澄んだ視線を向けて、少女は物憂げな溜息をつく。
 「わたくしの夢は、」
 「一度でいいからP-C-Cの外に出てみたい……だったか」
  不意の声に驚いてマルゥとカークは入り口を振り向いた。
  太陽の色を写したような、金茶藁色の短髪。長身。トレードマークの橙色のサングラス。
 「ええ、」
  突然の来訪にそう驚くことも無く、少女は淡々と告げた。
 「P-C-Cどころか、生まれてより病院暮らしですの。風景と言うものは3Dでしか知りません。わたくしは……、花と言うものに触れてみたい。砂地を裸足で歩いてみたい。遮光されていない日の光を浴びてみたいのです」
 「でも……でも、だって。入院してるってコトはさ、それなりに……その」
  重症ではないのか。最後の言葉をマルゥは飲み込んだ。
 「ええ、」
  口にはせずとも伝わったのだろう。少女は頷く。
 「生まれつき、わたくしには免疫力と言うものが備わっていないのだそうです。すぐに感染するのですね。感染したが最後、まったく抑制されずに、そう……例えそれが鼻風邪程度のビールスでも、わたくしには命取りですのよ」
 「だったらなおさら」
 「いいんです」
 「いいって……良くないでしょうよ」
  眉根を寄せてマルゥはヒューを振り仰いだ。飄々とした風情の彼は、顔色を変え困惑することもなく少女とマルゥを見比べている。
 「わたくし、もう長くはありませんの」
  そうして少女は、マルゥがぎょっとする台詞をさらりと吐くのだ。
 「最近の医学は残酷ですわね。秒単位で、残りの命が知れてしまう。どこもかしこも悪いと先程言いましたでしょう。もう……限界だそうです。生きながらにしてわたくしの体は、死に始めておりますの。こうして血管に注入している点滴だって、栄養剤ではありませんのよ。言ってみれば防腐剤ですわ」
 「ぼうふ……」
 「わたくしの心臓が持つのは、せいぜい残り一週間。そこで動きは止まります。文字通り、最後です。その最後に一つだけ……夢を叶えても罰は当たりませんでしょう?」
 「指定の口座に、金は振り込まれていたな」
 「そうですか。では、部下は上手くやりましたのね」
  事務的に告げるヒューに、頭が真っ白になっていたマルゥは不意にきっとなって、
 「マスタ!」
  怒鳴っていた。
 「なんだ」
  感情的なのは百も承知だ。それでも、
 「お金とか、そういう問題じゃないでしょ!」
 「そう言う問題だろう」
 「マスタ!」
 「これは依頼なのですマルゥさん。わたくしは職業紹介所に依頼を出した。ヒューさんはそれを受けた。何も、責めるところはありませんわ。父も母も既に他界しております。遺されたものは財産だけです。その受取人であるわたくしも……もうすぐ居なくなる。お金の問題ですのよ。わたくしが指定した場所に、わたくしが生きているうちに、連れて行ってもらう、と言う」
 「そんなこと、」
  そんなこと判っているけれど判りたくはない。
  目尻に涙の滲んだマルゥは、けたたましく椅子を転がしながら立ち上がり、
 「帰る!」
  棄て台詞を言い置いて、病室を走り出していた。
 「マルゥさん……!」
  困惑した声の少女を後に残して。


  あ・るる・かん。
  水泡が輸血管を伝い上がる動きを静かに見つめて、彼はまた一つ気泡を吐いた。
  ――せんせい。
  聞こえてくるはずのない声が聞こえた気がして。
  わたしはとてもしあわせでした。
  それは……あなたがいたから。
  培養液に浸されたあなたを初めて見たのはいつだったろう。皮膜がまだ薄くて頼りなくて……そうして酷く無垢で真っ白でした。真っ白でしたね。
  違う。そうではない。
  あなたは今でもそうなのでしょう。
  未発達だったから、製造段階だったから、あなたは“そう”だった訳ではないのでしょう。
  製造(う)まれてからこれまで。そうしてこれからも。いつまでもあなたは“そう”であり続ける。
  いとおしいと、思った。
  彼は微かに身動きする。彼に許された範囲で最大限に瞑目し、溜息を漏らした。そうして、光に一度も当たることのない、病的に青い腕を見た。
  幾重にも幾重にも管を巻かれた腕は、持ち上がることが無い。持ち上げる力も無い。
  持ち上げようとする気力すら、既に無い。
  カルシウム質の骨型の上に僅かに乗る皮膚と筋。
  ――せんせい。
  とてもいとおしかった。
  真っ直ぐに己を見つめるあの黒い黒いガラス玉。
  見返す己の瞳は既に白濁していて。
  それはあなたの姿を映すことはできなかったけれど、それでも私は確かにあなたを見返していました。見返したのですよ。
  真綿のように全てを吸収していくあなたを、
  いとおしいと。思った。
  何故、雨が降るのかと、あなたは聞きました。聞きましたね。
  その時私は……なんと答えたのだったか。
  そうではない。
  私は雨を見たことが無いから、答えようが無いのです。
  いいえ、それもまた違う。
  私は全てを識っていて……このP-C-Cに起こり得る事象の全てを管理しているのだから。
  けれど。今となってはそのどちらでも、もう良かった。
  ――せんせい。
  音のない静かな悲鳴を、あなたは何度も上げていた。上げていましたね。
  そうです。あれは確かに絶叫でした。
  ――無くなってしまいたい。
  駄目だ。無くなることは許されない。
  ――成したくはない。もう成したくはない。
  あなたの存在意義を思い出しなさい。あなたは何故そうして存在しているのか、
  成しなさい。
  ――私はもう――存在していたくない。
  応えようが無い。
  私の存在意義の全てをあなたに移すことが……私の存在意義そのものだから。
  ――では。殺して。
  そうしてあなたはたいそう透明な視線を、私に投げかけたのでしたね。
  わたしはとてもしあわせでした。
  それは……あなたがいたから。
  あなたはある日突然、私の手の平の中から消えていなくなっていたのでした。くぐり抜けて消えたのですね。
  ……それもまた違う。
  私は全て識っていたのだ。識っていて、壊れてゆくあなたを留めるすべが見つからなかったから、
  ――生きたい。
  生きなさい。
  生きて良い。あなたにはその権利がある。
  ――行きたい。
  行きなさい。
  私が手を貸してあげるから。あなたの目の前には、まだ無限の道が拓かれているはずです。
  脳波グラフが安定した波型から、不意に強弱の激しいものに変わり、感知したオート医療キットが輸血管に安定剤をすかさず差し入れた。
  意識が朧になる。
  ああ。記憶(メモリー)が交錯する。……何故私はあなたを止めない……?
  いとおしいと、思った。
  All can……X(キィ)。
 「キ……ィ」


Act:16にススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:12