森の暮らしでは手に入れることのできない雑貨や食料を山と背負って、グシュナサフは小径へ足を踏み入れる。

――近づいてはならない。食われてしまうよ。

彼らの主が住まう森には、よくない噂が囁かれていた。

 

ずっと昔、このあたりが戦場になったときに、森の奥へ逃げた兵士どもがいたのだという。

逃げ込んだまではよかったが、森の奥にはろくな食料も生活用品もない。より集めの同族意識はすぐに険悪になり、同士討ちをはじめ、そうして彼らの中でひとりだけが残った。

最後のひとりは山肌に洞穴を見つけ、そこに巣をつくったのだそうだ。

他の誰とも会わないでいるうちに、次第に爪と歯は伸び、体は長い毛におおわれ、それは言葉を失った。そうしてとうとうひとの心も忘れ、化け物になってしまった。森へ迷い込む人間を食うようになったのだ。

ひとを食らう化け物の徘徊する森に、近寄る人間はいなくなり、木々は鬱蒼と茂った。

夜な夜な餌をもとめて、化け物は森の中をさまよう。

言葉を失った彼の口から漏れるのは、忌々しいうめきだけ。

 

「という話がありましてね」

そういえば、グシュナサフにその話を教えた赤毛の男が、肩をすくめてそうつぶやいていたのだ。……まぁ、話を広めたのは俺なんですけど。とんでもない後付けを小さく付け加えている。

「……どうやって」

片眉を上げてグシュナサフがたずねると、短く整えたあご髭を撫ぜながら、ええと、と同僚は言った。すこし得意そうだった。

「森にね。見張り塔があるでしょう」

「あるな、」

 頷いてやる。

「……もともと、このあたりに住む年寄りの中に、『戦に負けた残党が、森に逃げた』と言う下地は入っていたんです。入っていたんですね。それをこう、もうちょっと尾ひれだの背びれだの付けて脚色してですね……、……。で、あちらこちらの酒場で、実はこれは旅しているときに聞いた話だが――、とか言って、もっともらしく語っていたら、下地が上書きされて、昔から化け物が棲む森ができあがりました」

「……ほう、」

 そう言うこともあるのだろうか。グシュナサフにはよく判らない。しかし同僚が意図的に仕組んで、その通りになったと言うのなら、きっと「そう」なのだろうと思った。

「こういうの、なんていうのかなぁ。言い伝えの逆輸入、とかいうんですかねぇ」

でもちょっとおもしろかったな。猫のような顔になって彼は呟いている。

「俺がそのあたりで歌うでしょう。……で、何年か留守にして戻ってくると、他の歌うたいが、この地方に伝わる昔話、とか言って歌ってるんですからね。人間の記憶なんて本当に適当なもんです」

「だが、お前、なんだってそんなことを」

「なんでって、」

「その噂を広めたのは、お前が姫を託されるよりも、ずっと以前のことだろう」

気になった疑問をそのままグシュナサフは上げた。彼が話を広めてみたのが二十の頭だそうだ。ミランシアが陥落したのがそれから数年はあとのことだったから、さすがに事前に段取りを組んでいたとは思えない。

「いやあ、俺、年を食ったら、どこか山奥に隠居したいって思ってたんですよね。……ほら、なんて言うんですか?俺って芸術肌でしょう。芸術家は孤高を愛する、みたいな」

「言ってろ」

「ああもうつれないなぁ。……まあ、とにかく、ですから、なるたけ外部の人間が近づかない環境を、前もって作っておこうかなあとか思ってですね。……、まさかこんなことで役立つとは、思いませんでしたけど」

絶好の隠れ家があるという話を、陣幕での慰みに、一言、二言、話したことがあったと彼は言う。

「お前のところに姫を連れてきたあの男」

なるほどと合点がいってグシュナサフは頷いた。

「あの男も、その話を聞いて、……、そうして覚えてたんだな。だからお前に託した」

「どうなんでしょう。わかりません。……でも、きっとそうなんでしょうね」

「しかし、」

 本当に作り話の上のことなのだろうか。

 ふと懸念を抱いてグシュナサフは口をはさむ。

「本当にそれは、お前の作った話なのか」

「どういうことです、」

「実は、敗残兵も、化け物も、本当にいて、」

「いるわけないでしょうばかばかしい」

 ほとんどは冗談で、残り一分だけ本気で呟いたグシュナサフの言葉を、顔をしかめた同僚が全否定した。

 そうして、

「――むしろ、可愛いじゃないですか」

 思い直したようにそんなことを言う。

「……可愛い、」

「仮にその化け物が本当にいたとして。……人の肉を食らうんでしょう?そんなの、熊だの狐だのと、たいした違いはないですよね。元が人間だから、なんだかおどろおどろしくて気味が悪いってだけでしょう。群れならともかく一匹なわけで、それを考えたら山犬の群れに囲まれるほうが、よっぽどこわいですよ」

「まあ、それはそうかもしれないが」

 わりと迷信深いグシュナサフに対して、赤毛の同僚は現実主義だ。

「襲ってくるなら、退治すればいいだけの話です。そんなのちっとも凶悪じゃあない。むしろ凶悪なのは、……、」

 ふ、と言葉を切って、彼は一瞬痛みをこらえる顔をする。ああ、まただ。そんなように思った。

「……生きている人間ですよ」

 瞬間、同僚が思い浮かべた人間が誰だったのか、グシュナサフはあえて聞かないことにした。

 

 ともあれ、近隣の集落は化け物をおそれ、森へ足を踏み入れない。

人の出入りがないせいで、道、と言える道は全くないはずだった。餌を求めた獣が、なわばりを回るけもの道が道と言えるかどうか、それだけだったはずだ。

だのに、明らかに人間と思える足跡があった。

それも、複数。

嫌な予感を覚えてグシュナサフは目をすがめる。

森はまだ雪が深い。

その雪の上に、彼は八つの靴跡と、一頭の蹄の跡をたしかめた。

「……なぜ」

 犬の足跡はなかった。これは森に棲む獣を狙った狩りではない。

「姫、」

 背負っていた雑貨や食料を脇に投げおろして、グシュナサフは森の奥へ向けて進みだす。

 顔が歪んでいた。

 

 ここに来るまでにも、不審なことはいくつかあったのだ。

 その一番が同僚バラッドとの音信不通だった。

 二手に分かれて行動しているグシュナサフらのやりとりは、ひと月ほどの間隔で、共同の伝書鳩を使って手短に済ませることが多かった。

 ――住処へ戻る。

ひと通りの仕事を終えたので、グシュナサフは同僚がいると思われる近くの町へ、便りを飛ばした。普段なら数日かけて戻ってくるはずの鳩は、しかし足に便りを結んだまま、すぐまた彼のいる町の巣箱へ戻ってきた。

数度飛ばしたがいずれも同じだった。読まれた形跡はなかった。

いやな予感がした。

最後に連絡を取り合ったのは、市場通りで別れてから、一通、鳩が運んだ彼からの走り書きだけだ。

明後日。ラグリア。

書かれていた言葉はそのふたつだけだった。

その後バラッドからの連絡はない。

この四年のあいだには、同じように鳩を飛ばしても返事のないことはあった。貴族の婦人方の寝所に入り浸っているときは、とくにそれだ。返事はなかった。それでも便りは読まれていた。

だから今回はいやな予感しかしなかったのだ。

グシュナサフは、おのれの直感を信じている。彼は長いあいだ、傭兵稼業で生計を立てていた。

そうして戦場で勘の鈍い人間は生きてはいけない。

これは明らかに何かがあったのだ。

 

 通常なら一昼夜かかる見張り塔までの道を、がむしゃらにグシュナサフは急いだ。足を取られる雪道であるのが歯がゆかった。

 気持ちばかりが急いてしかたがない。雪を蹴立てて駆けていきたいところだが、それではすぐにバテるのは目に見えている。それに、吹き溜まりへ足を踏み入れては元も子もない。

 休みもはさまず、森の中を歩き通す。

 落ち着け、落ち着けと、何度となくグシュナサフはおのれに言い聞かせた。いま自分が冷静さを欠くことが、一番にいけないことなのは判っていた。

 幸い空は晴れていた。急いではいたが、灯かりをともし足元を照らすことはやめにした。炎の光量は思ったよりも高い。目立つことは避けたかった。

木立の切れ間に見える星明かりが頼りだ。

 

 上部の崩れた見張り塔が見えたときには、朝になっていた。

 

 

 速度を落とし、切れた息をととのえながらグシュナサフはあたりを窺った。額の汗を拭う。

 待ち伏せの気配はない。

 早朝の森はしんと静まり返っている。

 静かだった。

 静かすぎると思った。

 夜が明けて一刻は経っている。常なら、塔の煙突から炊事の煙が出ていてもおかしくない時間なのに煙はなく、しかも煙突の番い目には、びっしりと氷が張り付いている。これは二、三日使っていない証拠だ。

 厳冬期を過ぎたとはいえ、名残り雪のちらつくこの季節に暖をとらないのは、考えてありえない。

 そろそろと建物へ近づき、おもむろにグシュナサフは扉へ手をかける。ぎい、と軋んだ音を立てて、扉は難なく開いた。施錠されていない。

「――オゥル」

 居住する女の名を呼んだが、応えはなかった。

 火のない室内は冷えていた。息が白くなる。

 ぶるるる、グシュナサフの姿をみとめて、体の大きな馬が鼻を鳴らした。その鼻からも白い湯気が立ちのぼる。

「……ハナ、」

 お前は生きていたか。

馬と、それからめんどりとやぎが、身を寄せ合うようにして室内にいた。飼い葉桶は空になっていたけれど、水は汲み桶に十分にあったし、土間に積んだ干し草を食んでいたらしい。

「毛皮を着ていると、便利だな」

 近寄り、首を叩いてやる。

 ざっと室内へ目をやり、まったく乱れていないことを確認する。物取りや野盗の仕業ではないと思われた。仮に噂をおそれない彼らがここへ来たとして、まったく物色も漁色もせずに立ち去るとは思えなかった。

「……だが、なにかが来たんだな」

 低く呟く。そのグシュナサフの服の袖を軽くくわえて、馬がぐいと引いた。

「なんだ、」

 袖を引かれるままに、グシュナサフは歩を進めた。この賢い馬は自分になにかを伝えたいらしい。

 一度戸口から外に出て、そのままぐるりと建物の外壁を回る。ちょうど裏の水場が見えたところで、

「……オゥル、」

 人間の体が、半ば雪に埋もれて倒れているのをグシュナサフは見た。コロカントと一緒にここへ住んでいた女だと認識するのに時間はかからなかった。

思わず声が漏れる。

 駆け寄り、膝をついて女の体へ手をかけた。女の体は既に冷えきり、そうして獣にひどく食い荒らされていた。

それは、女が一両日中に殺されたのではないということでもあった。

「……なにがあった、」

 食われてなお突き立ったままの矢に眉をひそめる。

 獣に襲われたのではない。まして同僚が広めた話の化け物に襲われたのでもない。

武装している害意ある人間が、ここを訪れたのだ。

 ……すまん。

心の中で詫びながら、深々と突き立った矢を引き抜いた。女がもう痛みを感じないことは判っていたが、それでもやはりためらいはあった。

矢を引き抜き、鏃(やじり)の部分をじっと見つめる。眉間の皺が深くなった。

 グシュナサフは刃(やいば)を偏執的に愛する。自覚はある。好きがこじれて、見ただけでだいたいの産出炉が判るまでになった。

 だから判る。これは、セイゼル領産の鏃だ。

 ――おい。

 呼ばれた気がして顔を上げると、すこし離れた場所で、馬が雪上を鼻づらでつついている。近づくと金メッキされた釦(ぼたん)がひとつ転がっていた。

「……赤目の鷹」

 釦に施された彫刻に、くそ。グシュナサフは顔を歪め、大きく舌打ちをして悪態を吐く。どうして。どうして、今、このタイミングで。

 コロカントは連れ去られたのだ。

「……姫、」

 グシュナサフは立ち上がる。女の食い荒らされた状態と、あたりの雪上に残された靴跡から、主が連れ去られてから二日、多く見積もって三日というところだと推し量る。

 人間が八人。おそらく少女を乗せているだろう馬が一頭。

「……森を抜けるのに二日はかかるな」

 急げば追い付くこともできるかもしれない。

 立ち上がったグシュナサフに、馬がまた鼻を鳴らした。目をやると前足で雪を掻き、しきりに頭を上下させる。

 乗れと言っているのだ。

 人間が歩くよりも当然馬の足の方が速い。多少の雪だまりに入ったところでものともしないだろう。夜通し歩くことができれば、行程は捗るように思われた。

 それに馬には、人間ではとても及ばない鋭敏な嗅覚を持っている。森を出たあと足跡が消えても、一行のにおいを辿っていくこともできるかもしれない。

「……だが、」

 馬の申し出にグシュナサフはわずかにためらった。攫われた少女を取り戻すためとはいえ、追討するということは、たとえば数日ろくな休息もなしに移動し続けるだとか、かなりの無茶をするということだ。

 この馬は年を取っている。

「じいさんの年じゃあ、だいぶんしんどいと思うが、」

 言いかけたグシュナサフの言葉を遮って、馬が歯を剥き出し威嚇した。

 ――誰にものを言っているンだ。

 口はきけないまでも、馬がそう言っているのがはっきりとわかった。

「そうか。……そうだな」

 馬の首を叩いてなだめてやりながら、すまんとグシュナサフは頭を掻いた。

 この体の大きな馬を毎日世話していたのは、他でもないコロカントだ。馬はその世話をしてくれた少女のために働きたいのだ。

「……悪かった。頼む、手を貸してほしい」

 グシュナサフがそう言って素直に頭を下げると、溜飲を下げたらしい馬がふん、と鼻を小さく鳴らし、それから住居に戻りはじめる。裸馬に長時間乗るのは難しい。鐙(あぶみ)や鞍を付けなければいけないことを馬が知っているのだ。

「やれやれ」

 その大きな背を追いながら、一瞬グシュナサフは足を止め、雪の上に放置されたままのオゥルの体を振り返る。

 埋葬してやりたかった。だが今はその時間すら惜しい。

 それに、もし女の魂とやらがまだここに留まっているとしたら、自分のことよりも少女を追えと、ドヤされるに違いないと思った。

 ……あとで、かならず。

 僅か瞑目してそうして思い切り、前を向きグシュナサフは歩き出す。

 連絡の取れない同僚も気になった。ラグリア教団と話をつけに行った場か、そこへ向かう途中で、セイゼルに襲撃されたに違いないと思った。

 あるいは、ハブレストか。

「……不安材料が多くて泣きそうだ」

 ぼやきながら馬を追い越すと、馬がちら、とこちらを見やった。黒い目がグシュナサフを捉え、細められる。

 ――まァがんばれ。

 そう言われた気がした。

 

 

あれから、いったいどれくらいの日が経ったのか、もうよく判らない。

 石の壁にもたれ、床に尻をつけコロカントは座っていた。

 立てた膝の間に顔をうずめる。

 寒かった。

 火の気のない部屋はひどく冷えていて、なけなし程度に放り込まれた藁(わら)やすり切れた毛布では、ろくろく暖をとれなかった。

 水がめの貯め水に、朝、氷が張ることもしばしばだ。氷が張るだとか、室内のはずなのにどれだけ寒いのかとすこしおかしくなった。

 日が差し込んでくれば、それでも少しはましなのかもしれない。けれど、高い位置に設えられた空気取りの小さな窓は、寒気を部屋に流し込むばかりで、役に立たない。

 でもそれでもいいのかも。少女は思う。寒いということすら、わりとどうでもよかった。

 目の前で射殺された女の顔が頭から離れない。

 女オゥルは、言ってみればコロカントの世界のほとんどだった。

 コロカントが自分、というものを意識しはじめてからずっと、同じ建物の中で一番長く暮らしてきた人間だったからだ。

 バラッドとグシュナサフは、たまに訪れる外からの人間でしかない。

 コロカントに、身の回りのことをひと通り自分でこなせるように教えてくれたのは、女だった。

パンの焼き方、火の熾し方、水桶の持ち方を教えてくれたのも女だった。

森で摘んできた花の名前を教えてくれたのも女だった。

寝しなに水を飲みすぎたとかで夜中に時々粗相をしたときも、怒ることもせず、手早く着替えさせて、同じ寝床に招き入れてくれたのも女だった。

女は温かかった。女はやわらかかった。

女は世界だった。

 ……だのに。

あんなにやさしく温かに自分を包んでくれて、いつもいつも笑いかけてくれていたはずなのに、コロカントは女のその笑った顔を思い出すことができない。

 思い浮かぶのは、痛みと驚きとで目をむきだし、ぽかっと口を開けた最後の顔だけだった。

 うつろに開いた口内の黒が生々しかったことを思い出す。

 いやだった。

 やさしい女の顔を思いだせない自分も、そうして、その奇妙に歪んだ最後の顔が正直薄気味悪いと思っている自分も、どちらもいやだった。

 寝ることもできない。

まぶたの裏に女のその顔がはっきりと映り込んでいた。眠ると夢を見た。

浅い、意識を飛ばしたような眠りの中で女の顔が浮かび、彼女へ向かって手を伸ばす。お前が。お前がいなければ、あたしは殺されることもなかった。悲鳴を上げて飛び起きても、彼女がすがる相手はどこにもいない。ぺらぺらの毛布だけだ。

 だからコロカントは、体をなるべく小さく丸めてじっとしていた。

 石になりたいと何度も思った。

 ……固く、小さくじっとなっていれば、そのうち石になれるんじゃないかな。

……石になったらこんな風に怖い思いをすることもなくて、ただ無感動に過ごせるんじゃないのかな。

 助けてほしいと願うこともなくなった。

それでも最初の数日は、連れてゆかれる馬の一群に追いつくなにかがいるのではないかとも思った。

 なにか。うまく判らない、けれど物語でよくあるような、すべてのものが丸く収まりめでたしめでたしの大逆転のなにか。

 馬の背にくくられ、何日も何日も揺られてゆくうちに、だんだんコロカントの中からその願いは薄れていった。

 ……助けてほしい?……助けられて、それでどうするの。

 ……またどこかに匿われて暮らすの。

 ……匿った誰かは、またある日いきなり殺されなければならないの。

 自分の身がうらめしいという感覚を、それまでコロカントは持ったことがなかったけれど、今はうらめしいと思った。

 消えてしまえばいいのに。

 

 ……石になりたい。

 そう願うのに、一方で投げ込まれる食事をむさぼる自分がいるのが滑稽だと思う。

 本当に無機質のものになりたければ、じっと固まったきり、なににも手を付けず、ただ同じ形で動かなければいいのに、腹は空腹を訴える。

 食えば排泄もした。動いている。

まるで石になろうとしない自分の体が、悲しかった。

 

 *

 

 ゆるゆると頭をもたげて、上空と言えるほど高く位置する換気孔を見る。

 遠くで獣の声がしている。

 またひと月ほど経っていたようだ。

 ひと、つき。

 乾いて割れた唇を小さく動かして、コロカントは唯一外とつながる小さな窓を見た。

 ふと、連れ込まれるときのことを思い出した。

頭に饐えたにおいのする袋をかぶせられて、息が詰まるかと思ったのだ。ここへ連れてきた覆面どもは、建物内部の形を覚えてほしくなかったらしい。

 だから、コロカントが判っているのは、かぶせられる前に見上げた不格好にそびえた三つの尖塔だけだ。

 あのいずれかに連れ込まれたのだろうなと思っている。

 そうして、ぐるぐると上らされた螺旋階段の長さから行っても、最上階なのだということも。

 ……こういうの、読んだなぁ。

 そう思った。高い塔のてっぺんに閉じ込められるお姫様の話だ。

 お話の中では、必ず王子さまが助けにきてくれた。実際はどうだろう。

 

 同じ姿勢を保っていると尻のあたりが痺れだし、コロカントは小さく身動きした。

 膝を胸へ引き寄せようとして、すぐに動く右足と、遅れて感覚の鈍い左足をみた。感覚の鈍い左には、手巾が巻かれている。

 

 

 この部屋へ連れ込まれ、汚れた袋を外されたとき、目の前にひとり男が座っていた。

 まだ幼く、そうして極端に他人との接触を制限されてきたコロカントには、男の年を推し量ることができなかった。

 だから、バラッドとグシュナサフと同じくらいかなと思った。

 その若い男は、にこやかに笑って座っていた。

 この部屋の中でたった一つの家具である椅子に浅く腰掛け、足を組んで前屈みになって彼女をじっと見ていた。

「やあ。やあ、やあ、やあ」

 男は言った。その声を聞いただけで、しかも男は笑っているのに、何故か鳥肌がたつ。

「――これが、あれかい?深窓ならぬ深淵に隠されたとか噂の、令嬢かい?」

 連れ込んだ覆面のそうだという返事に、へぇ。男は片眉を上げ、無遠慮にコロカントの体を眺めまわした。

「――なんだ。旧ミランシアの騎士どもに、念入りに匿われているっていうから、もっと、こう、儚げな美姫を想像していたんだがなあ。……こりゃ、ただのイモくさい田舎娘じゃあないか。しかも、まだ子供だ。やれやれ。……年はいくつかな」

 男の声に、さあ、と覆面が答えた。存じ上げません。おそらく六つか七つであると思われますが。

「七つ」

 覆面の応えに、男は大仰に背もたれにのけ反る。そのわざとらしい仕草に、ふとコロカントはバラッドを思った。彼もひとつひとつの動作が、ひどく大きくて芝居がかっていたように思う。お前は仕草が五月蠅い。グシュナサフがよく苦虫を噛み潰したような顔で、釘を刺していた。……いちいちわざとらしいから、目端に引っかかって煩わしいんだ。

――だってこれが普通なんですよぅ。

しれっと肩をすくめて泣き真似する姿まで見える気がして、彼女は頬のこわばりをいくらか解いた。

彼らを思いだしているときだけは、恐怖を忘れていられる。

「七つ。七つじゃあ、女として楽しむこともできないなぁ」

 その彼女の前で、苦笑を漏らした男はさすがにね。そうボヤく。――さすがに子供に手を出すほど不自由はしてないな。

 そうして急に男は立ち上がり、つかつかとコロカントに近づいた。いつの間にか、手に抜き身の小刀を持っている。

「ねぇ、君」

 頬を掴まれ、男の顔を正面に据えられる。掴まれて、相手の目の奥を無理矢理のぞかされる形になった。

覗いたときに、ああ、と彼女は気づいた。先ごろから鳥肌を立てていた理由が不意に腹に落ちた気がしたのだ。

うわっつらはにこやかに笑んでいるくせに、男の目の奥は全く笑っていない。

嗜虐の色がちらついている。

「わたしは君を飼おうと思っているんだ」

……飼う。

 言われた言葉が理解できなくてコロカントはまじろいだ。そう。飼う。ひとり満足そうに頷いて、男は続ける。

「聞けば、君はミランシアの唯一の生き残りらしいね。ほら、いくら君が幼くて、情報の制限された僻地に住んでいたからって、知らないわけじゃないんだろう?……たとえば、元ミランシアの残党やら、ハブレストやら、セイゼルやら、ラグリアやら……、……、色々抱えた立場の君を利用したい面々がいるってこと」

「……、」

 曖昧に彼女は頷いた。聞かされてはいたけれど、実感として持っていたかどうかは別の話だ。ところどころで、おのれの身に起きている現状の逼迫(ひっぱく)さを感じないわけではなかったけれど、それでも森の生活は日々穏やかに過ぎていって、だから血なまぐさい空気をほとんど知らないままに過ごしてきた。

女を殺され、森を出てからはじめて、そういうように仕向けられていたのだと彼女は理解した。

何も知らなくていい。つねづね彼女はそう言われていた気がする。姫は、何も知らないでいいんですよ。

「――でもそれって本当なのかな」

 頬をつかんだ指の力がやや強くなり、コロカントは顔を歪める。痛い。ちいさく呻くと、それに気づいた男が、ああよかった、と薄く笑った。

「よかった。ようやくしゃべった。声が出ないのかと心配していたんだ」

 悲鳴はあがった方が楽しめるからね。そんな不穏なことを言う。

「君は、ミランシアに関わっていた人間に保護されていたと教えられているけれど、たとえば保護されていたわけじゃあなくて、拐(かどわか)されただけだとしたら、面白いと思わないかい」

 拐(かどわかす)。誰が、なにを。

「――君にやさしくしていた周りの人間が、本当は盗人だったとかさ。その昔、お屋敷からまだ小さかった赤ん坊を引っさらって逃げた。目的はもちろん身代金だ。領主一家の赤ん坊なら、がっぽり身代金をせしめられる。盗人どもはそんな目算だったんだろう。……だのに、さらった次の夜か、遅くともその次の夜、お屋敷はハブレストに燃やされて領主一家どころか一族は全滅。盗人どもは、手元に残った赤ん坊の始末に途方に暮れた。身代金を要求する相手がいなくなっちゃったんだからね。がっかりしただろうな。でも、こうなっちゃあ仕方がないし、赤ん坊は人買いに売っぱらって、それでしまいにしようとした。……でも、盗人の誰かが言ったんだ」

「……え、」

「『いま、赤ん坊を売ったところで、雀の涙ほどの金しか手に入らない。それよりも隠したまま育てるというのはどうだ。情勢次第じゃあ数年後、ほしがる国へ、高く売りつけることができるかもしれない』、ってね」

「……、」

 囁いた男の言葉を理解しようとして固まるコロカントに、

「嘘だよ」

 にこやかに笑って男は言った。

「今のはわたしが即興で思いついた他愛もない作り話だ。でも君は、それが本当かそうでないかの判断ができない。君に与えられた情報が少なすぎるからね。――現に君は少し疑っただろう?自分を育ててくれたと、いまのいままで思っていた人間をさ」

「……そんなこと、」

「ないと言い切れる?本当に?何の見返りもない、ただの田舎娘に献身的に尽くす間抜けな人間が、この世にいると思う?」

「……、」

 だって。

 悔しくなって彼女は唇を噛む。うつむきたかったが、頬を掴まれ顔は動かなかった。

「オゥルは、」

「オゥル?――ああ、君を育てていたっていう女がいたんだっけね?でも、死んでしまった。もういない。あとは……バラアドとかいうネズミが、うろちょろしてたかな。赤いやつ。それと、グシュなんとか。調べてはあるんだ。養父(ちち)に取り入って何やら画策しようとしていたらしいけれどね。やつらは始末しないといけないな」

「……、」

「まあ、養父が生きていて、君の後見人にでもなったとしたら、奇跡の返り咲きなんてのもあったかもしれないけれど……、残念だね。不慮の事故でね、死んでしまった。だから、いまとなっては……、どうかなぁ。実質もう誰も、ミランシアの復興なんて望んでいないと思うんだよね」

 これもさっきと同じように嘘なのだろうか。見分けがつかなくて彼女は顔を歪めた。

「だって微妙だろう?たいしてぱっとしない田舎娘が、一応の後ろ盾を付けて我こそがミランシアの正統者なりってやったところで、付いて来るやつなんていやしないよ。誰もそんなふうには言わなかった?君に、ほんとうのことを教える人間はいなかったのかな?」

「……ほんとうの、こ、と」

 じわじわと指先が冷えていく気がして、コロカントはこぶしを握った。

「うん。正直言って、君を持て余してたってことをさ。お荷物だったんだよ。この先うまく捌けそうにもないし、放り出してしまいたいけど、さすがに何年か育ててきたから情もあるし、野垂れ死なれるのも夢見が悪い。でもいつまでも君に関わっていたら、自分の立身出世どころか身も危うい。だから、君が攫われて、渡りに船だと思ったんじゃないかな。」

 ずっとお傍におりますよ。

 くそ真面目な顔で指切りをした誰かの顔を思い出す。

 たとえどんな状況になっても、必ずお傍におります。あのとき彼はそう言った。

 ……言ったのに。

「赤の他人に命を懸ける莫迦はいないよ」

男はそうして口角を上げた。ひどく楽しそうだと彼女は思った。

「でもね。わたしは、そういう――無意味ながらくたを集めるのが好きなんだ。無価値。素敵じゃないか。だから、飼ってあげる。眉目秀麗な絶世の美姫でないのが、すこし残念だけれど」

 まあ、その方ががらくたらしくていいか。

言って男は右手を上げる。にっこり笑って小刀を指し示して見せた。

 

「君、鳥を飼ったことがあるかい」

 コロカントは無言で首を振り、後じさろうとした。笑っている男が恐ろしかった。

 厭な予感しかしない。

「――鳥はね。飼う前に、風切り羽を切ってやるんだ。かわいそうだね。だけど、しようのないことなんだよ。籠の鳥は、外では生きていけないからね」

 ――判るね?言外に告げられて、判りたくなくて彼女は必死に首を振った。

 不意に近づいた覆面の男が、首を横に振る彼女の体を羽交い絞めする。いやだ。もがきたいのに、がっちりとかためられた手足は動かせなかった。

「口は閉じていなさい。舌を噛むといけない」

「いや、やめて、放し、」

「――このあたりかなぁ」

 コロカントの悲鳴は男には届かない。逃れようとしても体は動かない。

 ふくらはぎを辿り、足首後ろの腱のあたりを小刀の背でコツコツと叩いて、それから男はちらと彼女を窺った。

 必死の形相で暴れようとする彼女へ向ける視線は、加虐の悦びで濡れている。

 いいなあ。男は言った。いいなあその顔。ちょっとぞくぞくするね。

 にっと目を細めた男が、小刀へ力をこめすべらせたのは、前動作もなく唐突だった。

「――っ!」

 痛みというよりもそれは衝撃だ。反動でのけ反った彼女の体は、拘束を解かれ床へ転がった

 あ。あ。あ。あ。

 なにが起きたのか判らない。判っていたのに判りたくなかった。

 目を見開いて彼女はわななく。

 腱を切られた。

 切られた足首を押さえ、小刻みに痙攣するコロカントを、小刀の血を払いながら見下ろして、

「大丈夫だよ」

 男はまるで場にそぐわない猫なで声を出す。

「すこしは痛むかもしれないけれど、別に立てなくなるわけじゃないもの。出血もすぐ止まるよ。――まあいくらか不自由になったり、走れなくなっただけで」

 男の目配せを受けた覆面が、彼女に近づき、取り出した手巾で傷口を保定する。男の行為が、衝動的なものでなかったのは明らかだった。覆面の手際が良すぎたからだ。

「ねぇ」

 コロカントの前に膝をついた男は、ぼろぼろとこぼれる彼女の涙を指で拭ってやさしく毒を注ぎはじめる。

「誰も、こないね」

「え、――え、」

 こない?言われて混乱した頭で彼女は男を見上げた。

「かわいそうだ。君は、なんてかわいそうなんだろう。こんな風に泣いて、ひどい目にあっているのに、君を助けに来る正義の騎士は、誰一人としていないんだ。でも、それはそうなんだよ。誰だって死にたくない。君を助けに来て命を落とすなんて、したくないんだ」

「……っ、……、」

 ずっとお傍におりますよ。

 いつかの誰かの声が、男の言葉で上書きされる。

「言っただろう。見返りをのぞめない君に、手助けする愚かな人間はいないって」

 腕を伸ばし、男はよしよしと彼女の頭を撫ぜた。

「気の毒にねぇ。ミランシアの遺児だとかで担ぎ上げられて、結局行き場を失ってこんなところにいる上に、担ぎ上げた人間たちは、君からはしごを外したんだ。みんな逃げちゃった。君は見捨てられてしまったんだね」

「そんなこと、……、」

 ずっとお傍におりますよ。

彼の声が消えてしまう。

 反論しきれなくて、コロカントは唇を震わせる。

「だってそうでしょ?誰もこない。赤い頭のやつも、もうひとりも、結局自分が一番大事ってことなんだよ。君は信じたくないかもしれないけどね。……でも大丈夫。ここで、わたしが時々遊んであげるからね」

「いや。……いや、いや、いや、い、」

 男の言葉のすべてが受け入れがたくて、彼女は首を横に振った。こんな、笑っていない目の奥で、舌なめずりをしている男に相手をされるなんてまっぴらだと思った。

 

 まっぴらだと思ったのに。

 

 

 ……でも、しようがない。

 いまは全て諦めた。

 結局は男の言ったとおりにしかならなかったからだ。

 

 

 コロカントは仰のき、高い天井を見上げる。

 なにもかも劣悪なこの室内で、唯一褒めるとすれば、この天井の高さだ。おかげでなんとか息が詰まらずに生きていられる。

 不意に置かれたおのれの状況を認めることができなくて、外に開かれたたったひとつの出入り口の扉に、すがりついて泣いたのは数晩のことだったけれど、男が言ったように、いくらコロカントが泣いても、助けを呼んでも、応える声はどこにもなかったのだ。

 ――ずっと、

 誰もこない。

 ――ずっとお傍に。

 男の注いだ言葉の毒は、しんしんと確実に彼女の身に広がっていった。

 誰も、こない。

 

 

 日が昇りまた沈む。

 わずかに差し込む日が作る影の長短でぼんやりと季節を計った。

訪れるものはない。

何度も、何十も、何百も、その変わりばえのない明け暮れをくり返すうちに、胸のうちが冷えてこわばってゆくのを彼女は知った。感情を殺した方が、よほど楽だった。この拷問のような幽閉から解放されるとのぞみを抱くのは、ひどく辛かった。

あの男がいなくなるまで、そんな日はやってこない。

そうして、男がやってこなくなれば、きっと自分は誰からも忘れ去られて干からびるだけだ。

ここに至って、男の名前をいまだに知らないことだけが、すこし滑稽だと思った。

聞いたこともない。知りたいとも思わなかった。どうせ彼女の側からは話しかけないし、男もそれは望まないだろうと思った。

彼にとって玩具は、虐めたときに鳴くだけでいいのだ。

 

男は彼女を虐めたけれど、殺すつもりはないようだった。扉外に常駐する見張りが、日に三度、決まった時間に食事を差し入れた。

週に一度は室内に木桶が運び込まれて行水をした。あたたかな湯ではなく常に水であったので、鳥肌をたて、震えながら体を拭ったけれど、贅沢は言えないと思った。

衣服と、わずかな文具や辞典も差し入れられた。教えてくれる人間はいない。基本の文字を習っていてよかったと思った。おかげでたどたどしいながらも読むことができた。

貪るように読んだ。そらで言えるほどになった。

 

そうして名前も知らない男は、半年に一度ほど、きまぐれにやってくる。

 

 

 さらに月日は経ち、あれから一度も鋏を入れていない髪が、尻で踏めるほど長く伸びた。最近では手持無沙汰になると、コロカントは髪を結う。つむぎ、ほどき、またつむぐ。まるで願掛けたまじないのように、飽きもせずひたすらくり返している。

 髪を指にからめながら、歌が口を衝くこともあった。

 誰に聞かせるわけでもない。ただそれは、むかし、誰かが口遊(くちずさ)んでいた歌だったと思う。

 いくつかの楽器を器用に弾きこなして、時には彼女を膝に乗せ、一緒に弦をつま弾いてくれたりもした誰か。

 不定期にもうひとりと連れ立ってくるときには、背負いきれないほどたくさんの菓子を持ってきてくれた誰か。

 ひたすらに甘やかした台詞を口にしては、他のふたりにたしなめられ、すまんと頭を掻きながら彼女に目配せしてきた誰か。

 胸元に沁みついた煙草の臭い。頭にそっと置かれた、骨ばって大きな掌。

 緑灰色の目の奥に、小さく揺らめいていた焦れた炎。

 大人の男。

 特別なことは何もない、ただ、隔世された場所に時々やって来るから、彼女にとって珍しかっただけ。それだけ。

 ……でも。

 会いたいと、不意に思った。

 

 

 その日は珍しく外に鳥の声が聞こえた。換気窓の近くの屋根にいるらしかった。

うれしくてたまらないと言った風の、数羽のさえずりだ。

 あまりに賑やかだったのでコロカントは珍しく気を惹かれ、耳をそばだてる。ふと、鳥たちは自由でよいなと思った。

 もうすこし気を惹かれ、立ち上がり、彼女は窓に近づいた。腱を切られた左足の感覚が鈍いので、どうしてももつれた歩き方になってしまう。

見えない鎖でつながれているようなものだ。

 窓の下まで進み、見上げる。大人のこぶし三つ分ほどの格子のはまったそれは、窓と呼ぶにはお粗末で小さな穴だった。

 四角く小さな穴は、だいぶん高い場所に据えられているので、外の様子は判らない。鳥の姿も見えなかった。

 ……どんな鳥なのかな。

 ……見たい。

 踏ん張りの利かない足では壁を上ることもできない。それがすこし悔しかった。

 ……でも、すぐそこにいる。

 石の壁に手を添えてじっと目をつぶり、もう一度さえずりに耳を澄ませる。その彼女の耳に、不意にどさ、と大きなものがうずくまり、倒れる音が飛び込んだ。耳慣れない物音だった。

 続いて低く長々と吐き出される呻き声。

 苦痛の混じったその声に、いったい何があったのかと、彼女は出入り口の側を振り向いた。

 振り向きながら、戸口の向こうで人間が倒れた音なのだと気がつく。

 ……人間。

 確率で考えれば、扉の向こうに立つ見張りだとは思う。腹でも下して苦しんでいるのだろうかと思った。

 ほとんど顔を会わせることもないし、言葉を交わした覚えもない。それに自分は閉じ込められている身で、相手は命じられ、監視する側だ。それは判っている。ただ、立場はまるで違うとしても、同じ年月、同じ場所にひたすら居続けた同調性というものはたしかにあって、

「……もし、」

 コロカントは扉の向こうに声をかける。

 なにができるわけではないのは十分承知していたが、苦しむ人間が扉一枚向こうにいるのに聞かなかったことにするふりが、単純にできなかったのだ。

「もし、」

 不審に眉を曇らせる彼女の前で、こちらを窺うように、扉が軋みながら開かれた。

「も――、」

開かれ、長身の人間が背を屈めるようにして、戸口をくぐって入ってくるのが見えて、彼女は足を止める。

その闖入者は男だった。鮮やかな赤い頭をしている。

息を飲んだ。

 顔を上げた男が、一瞬室内にさまよわせて、それから黙って凝視するコロカントと視線がかち合う。合った瞬間えらく衝撃を受けた態になって、男は目を見開いた。あ、と間抜けた小さな呟きが彼の口から漏れる。

 男の右の目尻に、ほくろが二つ並んでいるのを彼女は目にした。それから、朝焼けのようだと思った彼の赤い頭を見た。

 しばらく互いに絶句して見つめ合う。

 ――バラッド。

 ようやく彼女の口からこぼれた名前が、ことん、と床に落ちた気がした。

 

 

 

(20181220)

最終更新:2019年02月02日 22:46