「明日、一緒に祭りを見て回りませんか」
かけられた声に、コロカントは顔を上げる。
このところ、彼女の定位置となった酒場の奥座席で、ちびちびと乳酒を飲んでいたときの話だ。
「明日ですか」
「ほら、祭りもそろそろラストスパート、今日で十二日目でしょう。最後の二日間は、夜に花火も上がってね、まあそのぶん、ひとも出るんで混雑するんですが、でも、混む分を加味しても、見る価値はあると思いますよ」
……最終日はお付き合いできませんしねぇ。
渋柿を、それと知らずに口の中へ放り込んだときと同じような珍妙な顔をして、男は付け加える。
男がそんな顔をする原因を知っている彼女はついおかしくなって、悪いと思いつつ、噴きだしてしまった。
彼は結局、ナイフ投げ競技に出場するのだ。
出場する、というよりは、出場させられる、という方が正しいのかもしれないけれど。
店の常連に、勝手に競技登録をされた翌日、歌うたいの男は中央広場を訪れたらしい。
参加登録を取り消すためだ。
今度はきちんと登録所が開いてる日中に行ったんですよ。そんなように言った。
登録所の受付に座っていたのは、顔見知りの人間だった。ときどき河岸を変え邪魔をする、別の酒場の店主だ。商工会議所だかのおえらいさんだったな。手を上げて挨拶しながら、そんなことを思った。祭りのあいだ、臨時で受付を兼任しているらしかった。
「よぉ、ミシュカ。お前さん、最終日に出るんだってな」
登記簿を見たぜ。同じく手を上げて迎える受付の親父へ、それがですね、と男は来訪の意図を告げかけ、
「応援してるからな。負けんなよ」
ぐっとこぶしを握られ、熱い瞳で見つめられて、一瞬ひるんだ。それが悪かった。
「最終日の顔ぶれな。すげぇことになったぞ。……ほら、大陸きってのナイフ投げの達人、カトウが登録してきてな、……判るか?あのソレイユ座の鷹の目のカトウだぞ?……なんでも、最初は競技なんて面倒くさいって、出演を渋っていたらしいんだが、」
――無名の新人に優勝をかっさらわれるのを、指をくわえて見てるのか。
勝負事好きの誰かが焚きつけたらしい。
「そうしたら、よしその鼻へし折ってやるって、俄然やる気になったとかで、今日、午後イチで、登録にきてよ」
聞いていて男は、いやな予感に頭痛がし始めたらしい。
ただの二日酔いだったかもしれないが。
「……ソレイユ座だとか鷹の目だとか知りませんよ。というか、自意識過剰を承知のうえで、念のためにおたずねしますけどね、……、その優勝かっさらう新人とかっていうのは、まさか自分のことじゃあありませんよね?」
「お前さんのことに決まってるだろ」
「……、……、」
そうか、遠い目ってこういうときにするんだな。男は気が遠くなりながら思ったらしい。
「いや、……、あのですね……、……あのですね、ちょっと待ってくださいよ……、」
「期待の新人だなんて言ったところで、どうせ素人自慢のしょぼい付け焼刃芸に決まってる、ちゃんちゃらおかしい、だとかバカにするからよ、俺ァ言ってやったね。俺らのミシュカの腕にションベンちびるなよ、へし折るつもりのあんたの鼻を明かしてやるからな、首洗って待ってろ、……ってな!判るだろ?男にはな、負けられない戦いがある。それが今だ。な、ミシュカ、頑張れよ!」
弱弱しい制止は、まったく親父の耳には届かなかった。
駄目だ。
引き攣った笑みをなんとか浮かべ、はい、頑張りますだとか返しながら、男は思った。……駄目だこれ。今さら取り消しますだとか言える空気じゃない。
男自身のプライドが傷つくだけで済むなら、親父になんと貶(けな)されようと、出場を取りやめますと言いきってしまえばどうにかなるのだろうが、その達人とやらが絡んでくるとなれば、別の話だ。
「祭り開催委員会で、さっき、世紀の対決って垂れ幕出してやるって決定したからな」
「ああ~~……」
すでに話が進んでしまっている。
無名の新人と、高名な達人との勝負を目当てに、いっそう人が集まるだろう。
鷹の目カトウがヘソを曲げてごねれば、競技自体が台無しになる可能性もあった。
「――だからって、みなさんの前で公開処刑になるっていうのも、正直どうなのかなって思うんですけどね……、」
コロカントの前でがっくり肩を落とした男は、曲を乞われて席を離れた。今日は、真鍮(しんちゅう)の口風琴(ハモニカ)を手にしている。
足で調子を取りながら、景気のいい曲を吹き鳴らし、それにつられて客が何人か手を打ち共に歌い始めた。
その歌と演奏を聴きながら、ここ数日通う中で目にした男と、店と、そうして訪れる常連のやりとりの様子をコロカントは思いだしていた。
居心地のよい店だな。二度目にここを訪れたときに思ったけれど、歌うたいの男にとっても、きっと居心地のよさは同じなのだろうと思った。
――最初はね、なんかもっとひどい雰囲気だったのよ。
客の女たちが、ぽつぽつと彼女に語った話がよみがえる。
――ここいらに流れてきたときは、……、なんかもう……、野良猫みたいでさ。荒(すさ)んでるってもんじゃなくってね。近寄るのが怖いくらいだった。
――女好きなのは相変わらずなんだけど、もっと、来るもの拒まずっていうよりか、もう、手当たり次第に、やけくそに食い散らかすっていうかさ。鬱憤(うっぷん)ばらしっていうか。まあ、よく、病気にならなかったねって。
――通いどころか、連日、娼館ハシゴの勢いだったから。穴があったら壁でもウロでもいいんじゃないのって言われてたの。花代にその日の稼ぎ突っ込んで、ろくろく食べないで酒ばっか呷ってて。
――店にいても、隅っこの方……今も隅っこにいるの、好きだけどさ。なんかもっと、隅に体押し込んで、余計なこと話しかけてくるなってオーラがすごくってねぇ。ペラペラしゃべってる今が嘘みたいに無愛想だったのよ。今みたいに話しだしたの、いつからだったかなあ。
――上の部屋、あいつ借りてるでしょ。あれ、使ってないからっていうのは建前の理由で、そうでもしないと、そこらの路地で転がって寝るから、親父さんが使えって言って、押し込んだのよ。
話に聞く歌うたいの男は、コロカントがここ数日かかわった男とはあまりにかけ離れていて、正直別人のようだと思った。
荒んでいたときの男を見かけていたら、それでもバラッドと似ていると思えただろうか。
それから、何が男をそこまで追いつめたのかな、とふと思う。
そうして、この場所で、すこしずつ癒されて今に至ったのだなとも。
その赤毛の男は、景気よくかき鳴らし終えて投げ銭を受け取り、コロカントのいる席へとまた戻ってくる。
伸びて目端にかかる髪を、鬱陶しそうに後ろにかき上げながら、ああ暑い、だとかいう彼へ、
「参ります」
唐突に返事をすると、へ、と目を見張った男が、しばらくまじまじとこちらを眺めた。
なにを言われたのか判らなかったらしい。
「参ります。……お祭り。一緒に回ってくださるのでしょう」
重ねてそう言うと、ますます彼の緑の目が、まん丸になる。
しばらくそのまま、黙ってじっと見つめたのちに、
「……誘っておいてなんですが」
おそるおそるといった調子で男は口を開いた。
「あの、いいんですか、自分みたいなので。もっと回りたい人とかいるんじゃないですか。……ほら、前に迎えにきてた彼氏さんとか、」
「お付き合いしてる方はいません。……わたしは、」
あなたがいいです、とはさすがに言えなかった。自分が祭りを一緒に見て回りたいのが、ミシュカという名の男なのか、彼女自身も、よく判らなかったからだ。
「じゃあ、明日。暮れ六つあたりに迎えに行きますね」
彼女の言葉に、たちまちうきうきとなって男が呟く。
――お祭りに行きましょうね。
むかし、暁の気配の中で、約束した言葉が不意に蘇って、コロカントはわずかにうつむき、一瞬瞼を閉じた。
あのとき、懐に入れてあたためてくれた彼はもういない。
そうして自分は、彼と似ている男を代わりにしようとしている。
(なんて身勝手で偽善的な人間なんだろう)
「楽しみにしてます」
顔を上げて答える。
うまく笑えているといいなと思った。
*
翌日、言葉通り、暮れ六つすこし前に、男はコロカントの一座が宿泊する天幕近くまでやってきた。
「お姉ちゃん」
赤いひと、きたよ。
ちらちら外を窺っていた座長のところの子どもが、支度を済ませて待っていたコロカントに小走りでやってきて声をかける
「はい」
頷いて立ち上がる。
腕と足にはめた金の細環が触れ合い、しゃらしゃらと高い音をたてた。
普段は動きやすいよう、二つに分けてまとめている長い髪も、今日は毛先をゆるく巻き、後ろで何度もねじりとめている。
耳朶に挟んだ白金鎖が、雨あがりのあえかな蜘蛛の糸のように、静かに揺れた。
腰で締め、足首まで垂れる飾り帯は、座長の妻から譲られたものだ。
――とっときの透かし彫りの絹モスリンだよ。
両手に広げ、その手触りにうっとりとした声で妻は言った。
きれいだと思って買ったんだけどねぇ、結局着ずじまいで。いまじゃあもう、この色も刺繍も、あたしにゃあ不似合いさ。
極限まで透きとおる東雲(しののめ)色の布地に、細やかな花刺繍が散りばめられている。
「うん、」
お姉ちゃんきれいね。
コロカントに懐いている子供が、そうっと手を伸ばして飾り帯の刺繍に触れ、ため息をついた。
「お姫さまみたいねぇ」
ここまで気合を入れたらおかしいかな。なんとなく気恥ずかしい思いで彼女が笑うと、
「あのね」
「うん、?」
「これ」
少女は見覚えのあるだいだい色の花を一輪、ためらいながら彼女に差し出した。
「お祭りで歩いてる女のひと、みんな頭につけてるでしょ。お姉ちゃんもつけて」
「ありがとう」
少女の好意に嬉しくなって、コロカントは耳の上にあのときと同じように挿して見せる。
「どう?」
「うん。にあう!」
鮮やかな夏の色。
どぎついまでの鮮やかなそれは、ひと夏の終わりにふさわしいのかもしれないと思う。
自分の気持ちと、同じ。
ひと晩だけ咲きこぼれる花だ。
祭りが終われば、彼女の一座は、他の芸座と同じように、次の興行地目指して町を去る。
自分がこの町にいられるのも、あとすこしあいだなのだと気づいたときから、コロカントは遠慮することをやめようと思った。
遠慮したり、思い煩って無駄にする時間が惜しい。
期限付きの、最初から終わりがわかっている、恋に似た追憶。
きっと後悔するだろう。確信がある。だから、あとでまとめて後悔することにした。
「やあ、……、……、やあ、きれいだな」
天幕をくぐり、歩み寄る彼女を見た赤毛の男は、一拍、二拍、ぽかんと呆け、言葉を失い、それからはたと我を取り戻して、慌てて微笑んだ。
「おかしいでしょうか」
「全然。まったく。あんまりに素敵なもんだから、驚いただけです」
そう言ってから男は、おのれの身格好を見下ろした。
「しまったな」
顔をしかめている。
「自分も一張羅(いっちょうら)を着てくるべきでしたね」
言葉ではそう言う男も、酒場にいるときのざっくりとゆるんだ格好でなく、祭り用の洒落着だ。
肩まで揺れる赤毛は後ろに撫でつけ、脇のひとふさだけ編みこんで、色紐で器用に結んである。
頭と同じ赤い顎髭も短く整えられている。
細身の体にぴったりと沿う形の上着は緑で、彼の目の色と合わせてあったし、ところどころに差された金刺繍も見事だ。
「ミシュカさんも十分格好いいです」
世辞ではなくそう思う。
それを聞いた男の顔がでれ、と溶けかけて、慌てて引き締めなおし、それから後ろ手に隠していた花を彼女に差し出した。
「あら、」
町のあちらこちらでも、祭りの露店でも見かける、だいだい色の夏の花は、いましがた少女に貰って、彼女の髪に飾られているものと同じものだ。
「あなたが頭に飾られてて、一瞬どきっとしたんですがね、お嬢さん、まさか、別約があるとか言いますまいね?」
「別約、ですか」
「祭りをですね、別の方と回ることに決め直した、だとか」
「そんなことありません」
驚いて彼女が首を振ると、……ああよかった。男があからさまにほっとした顔になる。
「このお花、何か意味があるんですね」
「ああ、……これね、お祭りの一種の風習みたいなもんなんですよ」
「風習ですか」
お祭りで歩いている女のひと、みんなつけてるでしょ。
促されて歩きだしながら、少女の言葉を、コロカントは思いだす。言うと、そうそう、と男が頷いた。
「言っても、自分もここの生まれじゃあないし、聞いた話でしかないんですけどね。なんでも、むかーし、この町を統治していた王さまが、女性に目がない方だったらしいです。まあぶっちゃけると、ものすっごい女好き。富も権力もあったでしょうからねぇ、寄ってくるご婦人方も多かったと思いますよ。……でね、お祭りになると、いつも以上にタガ外れて、はっちゃけちゃって、もう、女性と見れば、老若男女……男はちがうか、とにかく声をかけていたんですって」
「それは」
想像して彼女は困惑する。町の統治者から、返事に困る声をかけられるというのは、ずいぶん、
「迷惑ですね……」
「大弱りですよ。王さまでしょう。下手に断わって機嫌を損ねればどうなるか判ったもんじゃないし、かと言って、ご婦人方だって、自分で寄っていくような方はともかく、好きでもない男に付いていきたくない方々のほうが多いわけです。困る。顔を隠すか、閉じこもっていれば、そりゃ、声はかからないかもしれないですが、せっかくのお祭りなのに、それも面白くない話だ」
大真面目に男は相づちを打った。
「……で、誰が言い出したのか知らないんですけど、祭りの時期にちょうど盛りの花を頭に挿してですね、この花が挿してある女には声をかけてはいけない、なぜなら彼女は夫持ちだから――って、そういう」
さすがにおおっぴらに既婚者に手を出すまでは、王さまも恥知らずではなかったらしいですしねえ、男が肩をすくめて続けた。
「それがまわりまわってですね、王政が廃止されたあとも、形式的に花を頭に飾る習慣だけは残ったらしくて……、いまじゃあ、祭りを回る相手がいるという合図になってるんですね」
「それで、別約」
「そうです。したたかな娘さんなんかはね、二股、三股、知らん顔して、取っかえ引っかえ、花を挿すらしいですが」
前から来た団体客を避ける形になって、男がうまい具合に、壁とおのれの間に空間を作ってコロカントを守ってくれる。
狭い空間に、花が甘く香った。
すれ違う団体客の半数も、頭に同じ色の花を挿していた。由来を知っているかは判らない。
「挿していた花をうっちゃって、差し出された新しい花を挿すと、その男と約束しなおす、と、そう言うことらしいですね」
「まあどうしましょう」
花を捨てる、そう聞いて、彼女は耳元で揺れている花弁に触れながら眉を寄せた。
「これ、座長さんの子どもに……、わたしに懐いてくれている、ちっちゃな女の子にもらったんです。これを捨てるのは、その子に悪いわ」
かと言って、せっかく差し出してくれた彼の花をむげに断わるのも、なんだか申し訳ない。
「……じゃあ、こうしましょう」
困惑する彼女を見下ろし、ふむ、と顎髭を撫ぜながら、思案した男は、
「失礼」
ひょいと手を伸ばして、子供のくれた花を引き抜き、彼自身の頭に挿して、それからおのれの手にした花を、彼女に挿し入れる。
「おそろいです」
そうして、
「美しいお嬢さん、どうか、自分と祭りをご一緒してくださいませんか」
あらためて腕を差し出し、そう言う。
ふっとまっすぐ向けられた目は意外に真剣で、構えなく合わせた自分の心臓が跳ねるのを、コロカントは自覚した。
「はい」
舌がもつれそうになるところを、慌てて頷いてこらえ、彼女は男の腕を取る。
祭りというものを、ここまで満喫したことなんて、生まれてはじめてだとコロカントは思う。
そうして祭りというものは、なんて目まぐるしくて、楽しいのだろうと思った。
海の向こうにいた時分は、祭りどころか、市井の暮らしすら知らなかったし、こちらに渡ってから四年の、町から町へ流れる間には、収穫祭や仕込み酒の品評祭といった、小さなバザーにも似た集落の祭りを見かけたことはあったけれど、とにかく、こんなふうに、ひとが押し合いへし合いする中を、はぐれないように同行者と手をつないで歩くのは、初めてのことだった。
目についた、にぎやかに呼び込みのかかる屋台に並んでは、甘辛く味付けされた肉の串焼きだの、目の前で鳥だの花の形を作ってくれる飴細工だの、ぽん!と音が出る瞬間思わず驚くはじけ豆だの、蒸かして塩をふった芋だの、糖蜜のかかった黍餅(きびもち)だのを歩き食べたりした。
喉が渇くと、そこここに設置されている立ち飲み席で、エールやはちみつ酒やチャイをすすり、ついでに隣のごきげんな酔っぱらいにからまれ、どうでもいい意味もない討論(無限の可能性を秘める女体において、究極のエロチシズムとは、尻と乳房のいずれにありきや、だとかいう)をぶちかましたりした。
おねぇちゃんはおっぱいに決まってる、おっぱいが大きい方がいい、だっておっぱいは生きとし生けるものが最初にふくむ、乳が出てくる尊くてやわらかい場所だからな。おっかさんのあそこに抱かれて、赤ん坊は大きくなるんだ。だから、男がおっぱいが好きなのは、つまり、原初体験ってやつなんだ。
おっぱいに埋もれて死ねたら、男として、最っ高の死にざまだって思うね、俺は。
おっぱいは正義。
瞳の奥に妙に熱い炎を燃やした酔っ払いが主張すると、
――お言葉ですけどね、どう考えても尻ですね。
最初は黙って聞いていた赤毛の男がぐいとジョッキを呷ると反論した。
人間が生きるために、必要な母乳が出てくる乳房が尊いっていうんならですね、尻なんかどう考えても根源でしかないでしょう。生命の根源。生命の神秘って言い換えたっていいです。すべてはここから始まるんですよ。生き物は胸の谷間じゃあない。股のあわいから生まれてくるんです。
腰の張り具合を見て、安産型と言いますね。言いますよね?乳房は大きいか、控えめか、それだけでしょう。胸じゃない。重要なのは尻です。
それに、いいですか、黄金比って知ってますか。一対一・六一八の完璧な比率のことですよ。神が定めたその比率に必要なのは、あなた、おっぱいじゃないんです。尻です。
クソ真面目な顔でこぶしを握る男と、なんだと、と負けじとさらに言い返す酔っ払いとを、すこし離れて笑いながら、コロカントは見ていた。
どう思う、と意見を求められれば、正直どっちでもいいかな、という感想しか出てこないのだけれど、どうでもいいことに熱弁をふるう男たちが、愛おしくおかしかったのだ。
最終的に、酔っ払いふたりは意気投合し、友よ、だとか言って抱き合っていた。むさ苦しいことこの上ない。
それが楽しい。
食べ飽き、しゃべり疲れると、広場の噴水の縁石に座り、しばらくのあいだ、祭りを楽しむ雑踏を眺めたりもした。
歌うたいの男は終始上機嫌で、今も、ざわめきに耳を傾ける彼女の隣で、いつの間にか調達してきた、もう何杯目か判らないエールを呷り、広場の向こうの方から流れてくる賑やかな音楽に合わせて、鼻歌を歌っていた。
「……今日は、楽器を持っていないんですね」
なんとなく、懐に楽器を仕込んでいるような気がしていた。指先で調子を取っている男に呟くと、今日は持ってませんよ、彼が返す。
「置いてきたんです。持ってるとですね、職業病ってやつなのか、酒が入ると、弾きたくなっちゃうんですよ。……でも、それじゃあ店にいるのと、大して変わらないでしょう。自分は、今日はとことん、祭りを食って、飲んで、遊び倒すつもりですからね」
「まだ食べるんですか」
すごいですね。わたしはもう入りません。半ば呆れながらコロカントは呟いた。
そうしてさんざん飲み食いし、ふくれた腹をさすっていると、不意にしゃっくりが出はじめる。胸もとを慌てて押さえた。
このあいだの野盗退治の酒といい、どうも自分はすこしでも酒が入ると、しゃっくりが出る体質らしい。すこしでも大人の女と思われたくて、頑張ってめかしこんできたくせに、これではただの酒慣れしていない、子供だ。
本当にちょっぴりしか飲んでないのにな。悔しいやら、ばつが悪いやらで隣の男を見上げると、
「水でも持ってきましょうか」
なぜかひどく愛おしそうにこちらを眺める緑灰色の目とぶつかった。
「水を飲めば止まりますか」
「止まるそうですよ。それから……、驚かせたり、息を止めても、治るって言いますけどね」
――こんなふうに。
呟いて男は、自然な動作で手を伸ばし、なにをするのかと、きょとんとまじろいだ彼女の顎をすくうと、唇に唇を軽く重ねた。
ほんの一瞬のことだ。
え、と固まったコロカントは、すぐに離れていった彼の唇が、続けて耳元に挿した花から滴る蜜をついと舐めとり、薄く笑んだのを見た。
「うん、甘い」
「わ、わ、わ、」
「……わ?」
「わわわわわ、わた、わたし、あの、」
「ほら、止まった」
「え、」
指摘されて口元を押さえる。彼の言うように、たしかにしゃっくりは引っ込んでいた。
引っ込んでいた。いたけれど、
「ミシュカさん、あの、」
「止まってよかったですねぇ」
思考が停止し、それから理解と共に恥ずかしさが増していく自分と、したり顔でニヤついている男の温度差があまりに離れていて、
「あの、念のために伺いますが、このあたりだと、しゃっくりはこうして止めるのが一般的だとか、そういう」
「いや、我流です」
「ミシュカさん!」
それでも怒る前に、一応確認を取ったコロカントは、しれっと返す男の言葉に、一気に赤面し、こぶしを握る。
やあ、と身をかわした男を追いかけるように立ち上がった。
「からかうなんて、ひどいわ」
「からかってませんよ。お嬢さんがあんまりに可愛らしかったので、調子に乗りました」
いたずらに目をきらめかせる男の本心がまるで見えなくて、悔しいと思う。もう、と脹れる彼女へ、
「足は、」
不意に男がたずねた。
「え、?」
「――切られた足首の腱は、もうきちんと治っているんですよね?」
「……え、?あ、はい、」
「じゃあ、腹ごなしに踊りましょう。……酔い覚ましかな」
恥ずかしさをごまかす怒りを上手にあしらわれ、ひょいと手を引かれて彼女は男と向かい合う。
向かい合いながら、ちらと気にかかる。足の怪我のことを、詳しく話しただろうか。
痛めた、と軽く話題に乗せた気はするけれど、どこをどう痛めたか、話したことはあっただろうか。
たずねてみようかとコロカントが口を開く前に、男は既にステップを踏みはじめていて、その大げさに腕をひらき、求愛ダンスの鳥のような愉快な動きは、ぱっと周囲の目を引いた。
すると同じように陽気に出来上がった連中が、挑むように男と肩を並べ、それぞれがそれぞれ勝手に音楽に合わせて踊りだす。
着飾っているために、余計派手やかな牡鳥に見え、たちまち広場はダンス会場と化した。
調子はずれの合いの手が入り、耳ざとく聞きつけた流しの歌い手が、稼ぎどきとばかりに輪へやって来ると、威勢のいい曲をかき鳴らし始める。
いっそう辺りは賑やかになった。
男の正面にいたはずのコロカントは、別の若者に手を取られ、あっという間もなくくるりとひと回り、だいだいの花を差し出され、躊躇(ちゅうちょ)している暇もなく、腕に押し付けられる。
形式上とはいえ、花には求愛の意味があったはずだ。
え、だの、あの、だの言っている間に、また別の若者がすべり込んできて、かしこまった大仰(おおぎょう)な一礼をしてみせ、ステップを踏んでは花を差し出される。
その動きをくり返し、次々と目まぐるしく目の前の相手が変わり、変わるたびに花を差し出されて、それから四半ときほど、音楽に合わせて輪の中でいいように踊らされて、すっかり息が上がり、へとへとになったころに、再び赤毛の男と向かい合うことができた。
「おや、」
腕からこぼれそうなほど抱えただいだいの花に、男が目をやり、おかしそうに笑う。
「お嬢さん、大モテモテですね。妬けるなあ」
「だ、だって、……だってもう、なにがなんだか、次から次へと渡されて、」
まごついてコロカントは弁解する。これでも半数はなんとか断ったのだ。もう半数は断る前に腕に押し付けられていて、断りようがなかった。
とにかく、なにがなんだかわからなかったし、息は切れて汗びっしょりになったけれど、
「でも、楽しい」
花に鼻をうずめ、思わず素直な感想を漏らすと、それはよかった。言って男も破顔した。
それからふたりで踊りの続く輪を離れ、今度は土産物屋に向かった。
西方の細工が施された腕輪だの、イツハァクの記章がペイントされた旗だの、猫や鳥を模した仮面、貝殻細工、星屑形の砂糖菓子、香木の透かし彫り、そんな店の合間に、くじ引きやら型抜きやら的当てやらの腕試しの夜店があって、
「あれ、やってみましょうか」
中でも男が指さしたのは、珊瑚(さんご)のイヤリングや真珠の粒がついた指輪といった、若い女性向けの装飾品を、景品に並べる輪投げの店だった。客は当然、若い男女のふたり連れがほとんどだ。
連れの恋人にいいところを見せる機会と、腕まくり、張り切る男どもが、数歩離れた白線から景品に向かって細い投げ輪を抛(ほう)るのだが、これがなかなか、うまく被ったり被らなかったりで、そのたびに、女性からは嘆息が上がるやら、野次が飛ぶやらで、なかなかに繁盛している。
「面白そうです」
「ミシュカさん、輪投げ得意なのですか」
「まあ見てらっしゃい」
言って男は夜店に近づき、店員に小銭を渡すと、代わりに投げ輪をいくつか受け取って戻ってきた。
「お嬢さんもどうです」
「わたし、やったことなくて」
「いいんですよ、こういうのは、雰囲気を楽しむのが醍醐味(だいごみ)なんですから」
思わずしり込みするコロカントに、さあどうぞ、と輪を渡すと、
「いいですか、こう、横向きに、輪が水平になるように構えてですね、」
「はい」
「狙いを定めて、輪の中に、景品がすっぽりおさまるように投げるんです。そしたら、もらえますからね」
「はい」
言って男は輪を胸の前あたりに構え、脇を上げてめぼしい景品にあたりをつける。
「入らないんじゃないかなー、なんて考えちゃあ、ダメなんです。マイナス思考でいいことは何もないですからね。入るんじゃないかな、よし、入るぞ、入れてやる!っていう、力強い前向きなイメェジが大切なんです。……で、こう、」
男は自信たっぷりに、景品に向かって、ひょいと輪を放り投げた。
「ぷ、」
投げた輪は、まるで見当違いの方に飛んで行って、申し訳なさそうにぺしょんと床に落ち、隣で解説が聞こえていたらしい若いふたり連れが、それを見て吹き出す。
「ありゃ」
情けなさそうに眉を下げた男の顔がおかしくて、悪いと思いながら、コロカントもつい笑いだしてしまった。
けれどおかげで肩の力が抜けた。見よう見まねで輪を構え、狙いをつけて投げてみる。
三つ抛(ほう)って、一番下の段の小さな匂い袋に、そのひとつが被さった。
「はい、お嬢さんおめでとう。……なんだい、お兄さん、情けないねぇ」
「くそ、こんなはずじゃ」
楽しむのが醍醐味、だとか、つい先ごろもっともらしいことを言っていた男は、舌の根が乾く前に、店員にまで笑われて熱くなったらしい。
隠しから小銭を取りだして、再挑戦、再々挑戦するも、あえなく撃沈した。
「ほらほら、連れのお嬢ちゃんにいいとこ見せるんだろ」
「ひとつくらい、取ってあげなさいよ」
「赤い兄さん、ヘタだねぇ」
外れるたびにいちいちがっくりし、悔しがる男は、自然、周囲の注目をあびて野次られ、とうとう男のプライドとやらの引っ込みつかなくなったらしい。
「……これでどうです、」
男には負けられない戦いがある。だとかひとりでぶつぶつと呟き、七度目の撃沈のあと、彼は、店員に近寄り、なにかを耳打ちした。
「お兄さん、でも、あんた、」
耳打ちされた店員の目が丸くなる。
「いいでしょう。分はこちらが悪いんですし。……いいですよね?」
「まあ、だいぶ投資してもらったし、うちはそれでもかまわないけどさ」
店員が呆れたように返すが、男は強引に同意を得て、一等の景品を段から下ろさせ、
「お嬢さん、ちょっと手伝いお願いしますね」
その小箱を開き、中に入っていた小さな飾りを彼女に手渡した。
小箱に入っていたのは、透明な指輪だった。細かな気泡の入った、硝子(がらす)細工のそれは、夜店の角灯(カンテラ)に照らされると、まるで氷のようにうす青い。
男の意図が判らず、指示されるままに指輪をつまんだコロカントから、
「そこで、そのまま」
一歩、二歩、と数えて距離を取る男に、いったい何が始まるのかと、興味を引いた通行人が立ち止まり、もともと輪投げの場にいた客と相まって、あたりに人集(ひとだか)りができる。
きっかり二十歩離れた男は、ちいさくコロカントへ手を振ると、
「さあさ、お立合い」
だしぬけに、よく通るテノールを凛と張り上げ、おのれの頭に挿していただいだいの花を、頭上に掲げてみせる。
「とりいだしたるこの一輪、ご覧の通り、なんの変哲もないただの花でございます。――さてこの恋のひとさしで、あすこに構える美姫の心と円環(リング)の中心を、みごと射抜くことができましたら、なにとぞ拍手喝采、よろしくお願い申し上げます」
芝居がかった仕草で大きく一礼してみせる。
そこに至って、ようやくコロカントは男が今からやろうとしていることを理解し、動転した。
どうやら男は、あの離れた距離から、花を投げて寄越すらしい。
指輪にあてるだけでもどうかと思うのに、彼女がつまむ指輪の輪の中へ、花を挿し入れると言っているのだ。
男は酔っている。ぺしゃんこになったプライドとやらで、頭に血ものぼっているに違いない。
まともに投げられるとは思えなかった。
今しがたの輪投げで、抜群のコントロールを見たのならともかく、彼は投げ輪のすべてを外していた。
ダーツの腕がいいと、酒場で話は聞いたけれど、コロカント自身は男の腕を見たことがない。なにしろ、酒の席の話だ。常連の話に、尾ひれがついていることも、十分に考えられた。
そもそも、ダーツやナイフ投げのナイフは、投げる専用に作られているものだ。遠くまで空気の抵抗を受けずになるたけ真っ直ぐ飛ぶよう、きちんと細工されている。
彼女の一座にも、専門ではないにしろ、いくらかナイフを投げられるものがいて、実際にその刃のないナイフを見せてもらったこともある。
――普通のナイフだと、重心というものがあるから、投げたときに、縦にぐるぐる回りながら飛んでいってしまうんだよ。
そのとき芸人はそう言った。
――まあ、中にはその回転をウリにする、上手いやつもいるがね。距離をはかるのが難しい。儂にゃあ、そこまでの腕はないな。
そうして、いま男が持っているのは、口上通り、なんの細工もされていない花だ。ナイフですらない。
さすがに葉は取りのぞいたように見えるが、
……ミシュカさん、やめましょう、無茶です。
彼女は引きつって首を振った。止めたかった。満座の前で恥をかくだけだと思った。
けれど、その彼女の目配せにまるで気付かず、男は声援と指笛に手を上げてこたえている。
景品兼的役のコロカントは、いまさら男の傍へ駆け寄るわけにもいかない。
じりじりしながら待つうちに、やがて、ひとしきり声援がおさまると、男はあらためて彼女を真正面に見据え、向き直った。
野次馬も口を閉ざし、あたりは妙に静かになる。
すう、と瞑目(めいもく)し、息を吐きながら静かに目を開ける。
そのままゆっくりと目を上げた。
男の視線をまともに受けた瞬間、彼女の全身の膚(はだ)が、ぞわ、と粟立つ。
別人だった。
あまりの変貌ぶりに、目の前のできごとが信じられなくて、彼女は大きく目を見開いた。
ひと呼吸前の、やに下がった表情も、失投続きの酔っぱらいのやけくそも、そこには存在しない。
かすかに片目を細めた仕草が、まるで猫のようだと思った。
ちいさく身じろごうとして、自分の体がこわばり、呼吸ひとつろくろくできなくなったことに、彼女は気がついた。理屈でない。狙われた、もう動けない。
的へと注ぐ男の緑灰色の目が一気に薄くなり、ほとんど黄に変色して、それは捕食者の目の色だ。
先ごろの輪投げのときとはまるで違う、無駄のない小さな動きで男が正中に花をかまえて、止まる。
風を読んでいる。
次第に痺れてくる頭でながめながら、
(早く、)
コロカントは思わず願った。
(早く、)
いますぐこの息詰まる視線を解いてほしい。人畜無害の皮をかぶって、すこし困った風の、いつものおどけた表情に戻ってほしい。
そうでもないと、がちがちに硬直した体がバランスを崩し、ばたんと顔から地面に突っ込んで、ばらばらに砕けてしまいそうだ。
硝子細工のように。
(早く投げて)
ふっ。
動いてはいけない。倒れてはいけない。
歯を食いしばって震えをこらえ、必死で念じる彼女の耳に、鋭い音が響いた。それは、だいだいの矢の風切り音だったのかもしれない。男の吐きだした気迫だったのかもしれない。
どうなることかと空気にのまれ、固唾をのんで見守る野次馬の目前を、花は緩やかな弧を描きながら、コロカントの親指と人差し指のあいだ、小さな硝子の円環のど真ん中を、文句なしにぶち抜いた。
しん、と押し固まった観衆が起こった出来事を理解して、……一拍、二拍、とどろくような歓声がどうっと上がったのが先か、緊張の糸がぷつんと切れたコロカントが、へたりこんだのが先か、
「お嬢さん!」
口々の賞賛と、伸ばされた手にもみくちゃにされかけた男が、尻もちをついた彼女に気づく。顔をしかめ人の波を漕ぐようにして、なんとか直近までやってきた男が、お嬢さん、と膝をつき、彼女の体を検めはじめる。
その目は元の飄々としたものに戻っていた。
「すみません、あの、どこか、……、花にぶつけたとか、花が刺さったとか、」
「ち、ちが、ちがいます、ちがうんです、大丈夫です。その、その、こ、」
「こ?」
「こ、腰が抜けました」
もつれた舌がうまく回らずまどろっこしい。
彼女の言葉に一拍ぱち、とまじろいで動きを止めた男が、次の瞬間はじかれたようにげらげらと笑い出しはじめた。
「――ミ、ミシュカさん!」
腰が抜けて立てないだなんて自分でもどうかと思う。情けない。
これでは、とてもじゃないがナイフ投げ競技の的になるだなんて無理な話だ。
真っ赤になって思わず彼の名を喚くのへ、
「安心しました。……とりあえず、ここから退散しましょう」
どこの芸人か判らないが、とにかく見事に的中させたすごいやつ、とじろじろ注目をあび、なお握手を求める手が伸びてくる彼が、すこし煩わしそうに軽く手を上げこたえると、またわっと群衆は沸いた。
「……別に、今日は、的当ての英雄になりたいわけじゃあないので」
やらなきゃよかった。口をわずかに歪めて後悔を吐いて、
「景品、落とさず持ってます、?」
言葉短にささやく。うろたえまごつきながら、コロカントは右手の中の指輪をたしかめた。
「あ、……は、はい」
「じゃ、行きますよ」
「わ、」
よいしょ、と彼女を背に負って、男は唐突に立ち上がり、
「三十六計逃げるが一等賞です、」
では、と人混みを避けるようにして、歓声の中を小走りに駆けだした。